第23話 出世の見込みのない女官から成り上がれますか?③

 ――秘書省を探ってみたらどうだ、と言われたのに……こんなことで幽鬼の身元を探す手立てになっているのだろうか。

 夏月は広い庭園を前に呆然と立ち尽くしていた。

 真ん中には瓢箪池ひょうたんいけがあり、その近くには避暑のためだろう、池に張り出した四阿が見えた。ゆるやかな築山の向こうには整った桃林が薄紅の霞を広げている。さっきまで無機質な石畳と白い壁に囲まれていただけに、唐突に別天地に来たような、呆気にとられた感覚だ。

「これは世に言う桃源郷というものなのではありませんか」

 高い塀に囲まれた内側に、こんな広々とした場所があるとは思わなくて、夏月はやってきた洞門が残っているのかどうか、思わず振り返ってしまった。

 洞門はきちんと同じ場所にあったから、白昼夢を見ているわけではない。瓦屋根をのせた塀の向こうには、また別の築地塀の屋根が重なって見えてもいる。その堅牢な壁だけが、ここが城壁の内側なのだと伝えていた。

「どなたかをお見かけしたら、道をお譲りて、まず拱手拝礼――手を合わせて頭を下げる。そして部署を問われたら、写本府の札を差し出します」

 夏月は今日、先輩女官の指示を受けて、水汲みに後宮を訪れたのだった。

「はい、了解いたしました」

 先輩女官のあとをついて歩きはじめる。

 途中、何度か後宮の女官とすれ違ったが、言われたとおりにしてやり過ごした。後宮の女官は代書屋を開いたおりに見ているが、あらためて見比べると、外廷の女官とは違う。まず服装だ。夏月が着る灰色の高嶺

「水が湧き出ているところがかなりございますね」

「ええ、瓢箪池の水も湧き水を使っていると聞いてます。あ、そちらの泉は近寄ってはいけません」

 小さな水たまりのほうへ近寄ろうとした夏月は、先輩女官から強い口調で注意される。

「いくら後宮の園林と言えども定まった道を外れると危険です。沼のようになっていたり、自然の風穴もあります。はまって亡くなった者もいますから、気をつけて」

「亡くなって……」

 死の気配を匂わされたとたん、遊歩道の舗石から踏みだそうとした足をすっと戻す。

 二度も三度も冥府に落ちたいわけではない。湧き水特有の泡をぷくぷくと吹く小さな泉を、間近で見たいという好奇心はまだ疼いていたが、夏月は先輩女官のあとを追った。

 東側の区画から西側に入ってまた歩きづくめに歩いて、ようやく辿りついた井戸は、後宮のなかでは西の外れに当たり、黒曜禁城のなかでは、写本府からずいぶん遠い場所だった。誰何を経て歩いてきただけで午前中いっぱいを費やしている。真っ直ぐ斜めに突っ切れれば、距離は短くなるだろうが、城壁のなかは築地塀に囲まれ、通りぬけられる門の場所もかぎられているため、まるで迷路のようだ。あの迷路を水を持ちながら戻るのかと気が遠くなったところで、

「やだ。肩に担いで歩くなんて……さすがに女官には無理よ。こちらにある水桶のついた車に水を入れて運ぶのよ」

 と笑われてしまった。

「でも、二輪車は運ぶのにこつがいるから、やっぱり筋肉痛にはなるかも……」

 二輪車と夏月の非力そうな体つきを眺めたあとで、先輩女官は心配そうな顔つきになった。二輪車は木製のしっかりした作りで、上に乗った水桶自体は竹で作られている。

 竹には消毒効果があり、水が痛みにくいせいだろう。

「この二輪車は秘書省専用なの」

 ふっくらとした指先で示された先には、側面に『秘書省』と焼き印が押されている。おそらくはほかの水の成分と混ざらないようにという配慮なのだろう。

「水を運んだあとは、時間のあるときにこちらに返しておくのよ」

 井戸は夏月が半ば予想したとおりの細い深井戸で、なかをのぞきこんでも底は見えなかった。

「落ちたら助からないわよ」

「ちょっ……なかをのぞいているときに、耳元でささやかないでください」

 ちょっとした悪戯をされたせいか、夏月はびくびくと怯えた手つきで桶を下ろす。幼いころ、兄弟子に怒られて以来、夏月も少しは賢くなった。自分の力で持ちあげられない桶を使っても、水汲みはちっとも早くならないということを学んだのだ。小さな桶を落としては台車の上の桶に汲み替える作業は、慣れている者でも重労働だ。

「これを写本府に戻ってから、もう一度繰り返すのですか……」

「そうなるわね」

 朗らかに答える先輩女官は、それを疑問にも思っていない様子だ。

 気が遠くなりそうになった夏月は、ふと瓢箪池の一角に蓮が生えていたことを思いだした。

「そうだ。わたしちょっと蓮をとってきます」

「あ、ちょっと……勝手に切ったりしたらまずいわよ」

 声が追いかけてきたのもかまわずに、夏月は池を囲う大きな石に乗り、どれがいいかと茎を選んだあとで、手を伸ばして、ぶちり、と力任せに折った。そこに、

「ちょっとあなた、見かけない顔だけれど、なにをしているの」

 訝しそうに声をかけられ、はっと振り向く。侍女を引き連れた美しい女性が夏月を汚らわしそうに見ていた。片手には蓮の茎、外廷の下っ端女官が着る灰色の交領襦裙。後宮の庭にいるにしては、あきらかに怪しい姿だった。

 ――これはまずい……後宮のお妃様だ……。

 ひとまず、拱手して礼を尽くす。

 言われたら差し出せと言われたが、ここは先に身分を明かしたほうがよさそうだと、写本府の札を差し出すと、侍女が受けとって妃にうなずいてみせる。

「わたしは秘書省付き写本府に勤めております女官でございます。写本府で使う水を汲みに参りました」

「ああ、写本府の……でも、初めて見る顔ね」

「わたしは員外で雇われたばかりで、まだ日が浅いのでございます。以後、お見知りおきくださいませ」

 夏月の持っていた札と夏月の顔を見比べてもなお、妃は訝しそうな顔をしていた。その華やかな顔立ちからは、勘気の強そうな気配が漂っていたため、できるだけ身を小さくして、次の言葉を待つ。

「その蓮も写本府で必要なものなの?」

 不審そうにしているが、写本府は仮にも国王のお声掛かりで作られた部署だからだろう。仕事の一環であれば、妃であっても邪魔立てできない。それで夏月を怪しく思いながらも、話を聞くにとどめているようだった。

「こちらは水の入れ替えに使うのでございます。どなたか、桶をふたつと、それに小刀をお持ちじゃないですか」

 後宮に刃物はないだろうかと思ったが、料理をする部署があるのだから、その心配は無用だったようだ。どこかからかやってきた侍女が、小刀を差し出した。無理やりに手折ったわりに、茎の一方はきれいに折れているから、もう片方を切り抜いて、茎の通りを確保する。桶のひとつに水を汲んで池を囲う石の上に置き、空の桶を地面に置いた。茎を一方の桶の水に一度沈めたあとで、一端をもう片方の桶に入れると、勢いよく水が流れはじめた。

 しばらくすると自分で入れ替えなくても、水の大半が地面に置いた桶に移動する。

「すごいわ! いまのどうやったの?」

「なにかの法術なの?」

 いつのまにか人が集まっていたらしい。数人の女官に囲まれていた。

 妃がそばに控えていても好奇心を抑えられなかったらしい。あるいは、夏月が女官の格好をしている気安さもあったのかもしれない。

「高い位置から低い位置へは、圧力がかかって水が移動しやすいのです。それで高低差をつけたところに、管を入れて水を通します。そして、一方の出口を指で塞ぎながら、低い方の桶で解放すると……水が出ます」

 水を汲み直して夏月が実演すると、ちょっとした拍手が沸きおこった。

「これは茎を使ってますが、もっと大きい桶を使えば、節を抜いた竹筒でもできますよ」

 市に来た流しの商人にでもなった気分だ。使い方がわからない異国の道具を売るために、実演販売をする商人というのがいて、いい見世物になるのだった。

「さぁ、余興は終わりです。仕事に戻らないと上役に怒られてしまいますから」

 夏月がおしまいだとばかりに手を叩くと、興味深げに近寄ってきていた女官たちは、そこではじめて、妃がいることを思いだしたらしい。そそくさと拱手拝礼をして、自分の持ち場へと去っていった。

 あとに残った妃は、険を強めた目つきで

「おまえは……自分の仕事を楽にするために、後宮の蓮を手折っていいと思っているのか? 外廷の女官とはいえ不敬な……」

 どうやら悋気に触れたらしいと、殴られる覚悟をして身をこわばらせていると、

「そこにいるのは夏女官ではないか?」

 という低い声が割って入った。聞き覚えのある声は、洪長官のものだった。

「秘書監の洪と申します。うちの女官がなにか問題を起こしたのでしたら、代わって謝罪いたします。」

 さっと夏月の前に立って、妃の手を受け止めてくれる。

「洪長官……」

 物腰やわらかい言葉遣いは、後宮を生き抜くのに必要な処世術なのだろうか。

 一度身を起こしかけた夏月もふたたび、頭を下げる。

「秘書省と事を荒立てたいわけではない。しかし、その女官はもっとよく躾をするがいい」

 そう言い捨てると、自分の侍女を連れて去って行ったのだった。

「これはなんというかまぁ……夏女官がいると、退屈しないですみそうだな」

 穏やかな物言いだが、意訳すれば、『夏月がいると騒動ばかり起こす』と、受けとれないこともない。

 しかし、まずは助けてもらった礼を言うべきだろうと、頭を下げる。

「申し訳ありません……見たかぎり、どなたもおりませんでしたので、まさか騒動になるとは思わず……」

「確かに人目につかなければ、草のひとつやふたつ手折ったところで目を釣りあげて怒られはしないだろう。ただし、後宮というのは、見られていないようで誰かが見ているのだ。それに、蓮というのは王権の象徴でもあるから、難癖つけられるとまずいのだよ」

 なるほど、と夏月はそこでようやく納得がいった。夏月にしてみれば、草は草で、蓮であろうと花韮であろうと、同じ草だ。上下はない。一方で、特定の植物を家紋にしている氏族があれば、その植物を踏みにじることは、その氏族への挑戦ととられても仕方がない。それと同じことだろう。

 せっかくとった蓮だが捨てなければいけないのだろうか。それとも、ここで捨てたほうが失礼に当たるのだろうかと、手に持った蓮の茎を眺めていると、

「ところで、夏女官は、なぜ、後宮の池で蓮を折っていたんだ?」

 などと、ごく普通に聞かれてしまった。女官の仕事の一環として後宮に連れてこられたのだから、まさか、なぜここにいるのかと聞かれると思わなかった。

 なにかが奇妙だと思いながらも、夏月は正直に答える。

「墨を摩るための水を汲みにきたのでございます。壺の中身が少なくなりかけていたので」

「え? 水汲み? 言ってくれれば水売りに頼んだのに……墨を摩るために使う井戸は遠くてわかりにくいから……確かこの奥の……」

「そうでございます。あっ……」

 夏月はようやくそこで、先輩女官を井戸で待たせていたことを思いだした。

 慌てて西の端へ戻るとひと気はなく、夏月が汲んでいた水と、二輪車が置かれているだけだった。

 ――あれ? 用があって先に戻ったのでしょうか?

 なにせ、慣れないことをしているから、話をよく聞いていなかったのかもしれない。

 夏月は茎を二輪車の上に置くと、持ち手を掴んでよろよろと歩きはじめた。

「夏女官……君にはそれは無理だと思うが……よくこんな辺鄙な場所の井戸がわかりましたね」

 そう言いながら、ふらつく夏月の手から持ち手を奪い、器用に二輪車を動かしはじめる。

 洪緑水も力仕事をするようには見えないが、やはり男の力なのだろう。するすると二輪車を動かしていく。

「え? ちゃんと案内していただきましたよ?」

「そうですか……後宮にもあの井戸の場所を知っている人がいたのですね。よかった……夏女官、後宮で万が一、妃に絡まれて困ったら、自分の名を明かして身を守ってください。君が襲われたなどと紫賢妃に知られたら、私の首が飛んでしまう」

「はぁ……承知しました」

 このときの夏月は、いろんなことが同時に起きたせいで頭がいっぱいで、少しの違和感を覚えたとしても、意識に上らせることはできなかった。

「女官は夏女官しかいないのだから、辞められないように気をつけなければ……」

 低く呟いた洪緑水の声は風のなかに霧散してしまい、夏月の耳にまでは届かなかった。

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