第20話 冥府の代書屋さんふたたび③[冥界視点]
藍夏月が去ったあとには、冥府の王とその従者が白州の法廷に残された。
式神と幽鬼の官吏が後片付けをしているだけの、静寂な時間が流れる。
冥府の時間の流れは、陽界――地上とは違う。
一瞬だと思ったのが一年経っていたり、逆に、一週間もいたはずなのに一晩しか経っていなかったりもする。
生者の身には十分長い時間だろうが、神にしてみれば、
ただただ退屈きわまりない悠久の時間がそこに横たわり、極光が照らす御殿のなかを濃密に埋め尽くしていた。
「この泰山府君の御殿に招かれて、とっとと帰ってしまうなどと……」
手持ちぶさたなのだろう。法廷に残った神は一冊の
「泰山府君、なぜあのような人間をわざわざ気にかけるのですか?」
のようにゆっくりと頁を繰っていた。
そのかたわらに控えていた
自分のように泰山の主に仕える者より、ただ行きずりの人間を贔屓にしているようで、面白くないと言わんばかりだ。
もともと泰山の主は気まぐれに生きた人間を宴に招くことで知られている。生者が御殿を訪れるのは、別に夏月が初めてではない。
それは冥府の誰もが知っている事実だ。
しかし、夏月に対する扱いは、いつもの気まぐれの度を越えてしているように紅騎には見えた。
「そもそも最初に冥府に落ちてきたとき、あの娘の天命は本当に尽きていなかったのですか?」
部下からの詰問するような質問に、禄命簿を繰る指先が止まる。
部下の問いかけはつまり、『あのとき、本当は夏月は死ぬはずで、その死すべき運命を泰山府君が書き換えたのではないか』という意味だった。
「さて……」
冥府の王は返事を
「あの娘の天命は確かに尽きていた。しかし同時に尽きていなかった……つまり、どちらにも転ぶ可能性があったのだ」
天命が尽きていないから、どんな危機をも乗り越えて生き残る者というのは確かにいる。
同じ場所、同じ時刻に、同じ事故に遭いながら、一方は生き延び、一方は死ぬとき、その運命の分かれ道はほんのささいなことなのだろう。
夏月の場合も同じだった。
ほんの一言、ほんのわずかな心の動きが、生と死を分かつ瞬間があったのだ。
泰山府君はその天秤が、生に傾くのか死に傾くのかを、ただ傍観していたにすぎない。
「面白いではないか。あの娘の天命は常に、生と死の分岐点となっているのだよ……数奇な運命を持った娘だ」
神からしてみれば、人間の命も蟻の命も変わりない。
どちらも違う尺度の時間を生き、神の気まぐれで簡単に死ぬ。
蟻が巣を作るところを眺めている人間と同じ心理だ。ただ、退屈しのぎに目で追っているにすぎない。
それでいて、やはり奇妙な動きをする蟻があれば、興味を惹かれるのも必然だった。
「冥府に落ちてきたとき、あの娘は死を受け入れようとしていた。おのれにも生きてきた上での罪があり、そのために死んでも仕方がないと諦めていたのだ。一方で、私に代書を申し出たときの娘の目は、生きることを諦めていなかった」
その心のわずかな揺らぎ、ほんの一瞬の決断がおのれの生死を変えたのだと、本人は知る由もないだろう。
「だから、代書の申し入れを引きうけたのですか? あの娘が生にしがみつくように、ぽんと背中を押してやったのだと?」
紅騎の声にはなお、主をそしるような響きがあった。
気づいているだろうに、部下を諫めるでもなく、反論するでもなく、冥府の王は地の底でただ微笑する。
「私はな……紅騎。あの娘の天命が面白いと思っているのだ」
「天命が……ですか?」
主の考えがわからないとばかりに、紅騎が拍子抜けした表情になる。
静かなときの冥府は、こうやって主と部下が言葉を交わす以外、なんの変化もない世界だ。それでも、冥府の主の心の変化を感じとったのだろう。冷ややかな空気が、ざわりと軋んだように揺らぎ、無数の霊符が踊るように舞いあがる。
「そう……天命だ。天命という言葉にはふたつの意味がある……天命とは寿命であり、また、ときとして、天命とはその者が天から授けられた使命を指す」
泰山府君は人差し指を突きあげ、極光が光り輝く虚空を指さした。
この場合の天とは、一柱の神である泰山府君のことではない。
さらに上の神格を持つ、玉皇上帝――天公の意志だ。
玉皇上帝は神や仙をも束ね、生きるものすべての生き様、その運命を定めている、神のなかの神と言える。
「
殺しあう毒虫と同じなどと言われたと知ったら、あの娘はどんな顔をするだろう。
嫌悪して顔を歪めるか、呆れかえるか。
それとも、意外と興味を覚えるかもしれない。
そんな思考に至ること自体、藍夏月という人間に格別の興味を覚えている証左なのだと、泰山府君自身、気づいていなかった。
夏月の禄命簿の記述を読む泰山府君は、その続きが、その結末がどのようになるのかを見極めたいという、神でもなければ、不謹慎きわまりない欲望を抱いている。
長い時間を生きる神にしてみれば、人間の生き死にを賭けるくらいでなければ、興味を惹かれないと言わんばかりだ。
「死線をひとつ乗り越えるたびに、あの娘の天命は成り上がる……為すべき使命が強い光を持って輝きだすのだ。面白いと思わないか。どこまであの娘が成り上がるのかを見極めるだけの余興だ。退屈しのぎにはちょうどいいではないか」
「では、このたびの死の分岐点をひとつ乗り越えたことで、あの娘が持つ使命はひとつ強くなったと……そういうことですか?」
夏月の命を賭け金とした賭けを、ひとつ勝ちあがった。
それによって壺のなかで、また新たな戦いがはじまる。
蠱毒が完成する、たった一匹の毒虫が決まるまで。
あるいは、すべての毒虫が死んで潰えるまで。
何回も生と死の分岐点に巡り会ううちに、ふうっと死のほうへ分岐点を曲がって、それきりということもありえる。
人生というのは常に平坦な道を行くわけではないし、辛い境遇に追いこまれれば、魔が差す瞬間というのは誰にでもある。ぐらり、と心の天秤が死へと傾いたとき、夏月はおのれの命を賭けた蠱毒のなかで、敗者となるのだ。
その様を神という俯瞰の視点で眺めるのは、いわば、見世物を特別席で眺めるようなものだった。神に危害が及ぶでもなし、夏月が死んでも賭に負けて損をするでもなし。
ただ酒を飲みながら踊りを愛でるごとく、余興を眺めるだけの傍観者だ。その傍観者は、しかし、禄命簿を読むことで、ひとりの人間の人生をすべて知っている。
泰山府君は部下の言葉を一蹴した。
「ひとつ? いや違う……紅騎、おまえは誤解をしているのだ。先日、冥府に落ちてきたとき、すでにあの娘はいくつかの死線を乗り越えたあとだったのだよ」
二重三重に昏い壁面を蝋燭が並び、十重二十重に連なる火。
その蝋燭の火は儚くも美しい光を、冥府の闇に放つ。
人の命を燃やす輝きだ。
「初めはとるに足らない、ただの石ころだった。しかし、死の運命――死の分岐点をひとつ乗り越えるたびに、あの娘の天稟は磨かれ、玉のように強く光を放つ。その玉が磨かれ抜くのか、あるいは途中で転がり落ちて意味もなく死ぬのか、その様を見届けるのもまた一興ではないか」
惜しいとは思った。もっとその輝きが増すところを見たいとも。
闇の底に住む身には、人間の生命の輝きさえ、目を灼くほど眩しい。
「なるほど……それは確かに泰山府君の暇つぶしとして、ようございますが、御手の痛みはいつごろ治りそうでございますか?」
「む……それは、だな…………」
巾を巻いた左手をぎこちなく動かして、冥府の王は気まずそうに顔を歪める。
夏月といい、紅騎といい、最近、身の回りのものは嫌なところを突くと言わんばかりだ。
「どうやら、今後まだ代書屋を冥府に呼ぶ必要がありそうですね」
紅い上着を纏った騎士は、複雑な気持ちを吐露するように、ため息を吐いたのだった。
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