第16話 後宮の代書屋さんは大繁盛!?⑤
宦官というのは、古くは
成人してから男性器を落とすのはより危険で、命を落とす可能性もある。それに、一族という結びつきが強い伝統から、子孫を残せなくなることは厳しい重みがあったのだろう。
手紙を書き終えて少年宦官に帰したあとで、夏月は衡子を呼んだ。
同じ宦官なら、少年のことをなにか知っているだろうと思ってのことだ。
「ああ、袍子ですか。真面目に働く子のようですよ。後宮と言っても部署が違うので、あまり会うことはありませんが、悪い話は聞いておりませんので」
「なるほど……部署が違う、か。後宮も広いですしね」
衡子が言うのは、ほかに知られるほどに問題がある子なら、悪名が響いてくるという意味だろう。
後宮というかぎられた場所であっても、ひとつの職場として考えればその敷地は広大だ。抜きんでて頭角を現すか、大変な問題児でもなければ、ほかの部署にまで名前を知られることはない。普通に堅実な仕事をしている者ほど、ひっそりと人の数の多さに隠されてしまうのだ。
国王から望まれたのか、政治的な目的かにもよるだろうが、入宮してそのまま忘れられてしまう妃は数多くいるはずだ。
忘れられて、後宮からいなくなっても、誰の口の端にものぼらないような妃が。
――昨年は後宮でもたくさんの死者が出ていたはず……。
名の知られた妃が死んだなら、妬みと死の恐怖を紛らわせるのとを兼ねて、面白おかしく語られるだろう。古来より、処刑を公開してきた国が絶えないのは、刑の見せしめとともに、一種の見世物でもあった。人の死というのは、いつの世でも生者にとっては娯楽に等しいからだ。
一方で、存在すら公に知られず、ひっそりと生きてきたものの死は、やはり、静かなものだ。
死の穢れを嫌がるものがいるからだろう。ひそやかな死というのは、後宮のような場所では、外に伝わりにくい。
だから、昨年のように、死者が多いときには、帳面から零れた死者がきっといるはずだ。普段から人と会わない生活をしており、そのまま死んでいても気づかれないような死者が。
そんな推測が夏月の頭のなかで形になって浮かんでは泡沫の泡のように消え、また底のほうから浮かびあがり、頭の片隅にこびりつく。いつまでも消えないそれは、最後には、
――幽鬼の客は後宮の妃だったのではないか。
そんな考えに結実する。
考えすぎだろうか。やはり、単なる偶然だろうか。
真相はわからない。わかりようがないし、そもそも代書屋としての本分を越えている。
――でも……気になることは気になる……。
もし後宮に手紙を出したい相手がいるのなら、その主だけでも特定して、言葉にならない手紙を出してやりたい。
幽鬼の無念を伝える手段は、それくらいしかないのだから、どうにかしてやりたかった。
「去年の夏は大変でしたしねぇ……ようやく落ち着いてきて、みなさんほっとしてるでしょう?」
「そういえば、話に聞いたのですけど、蝶の舞う図柄の襦裙を好まれる妃がいらっしゃるのですって?」
後宮の女官たちは自分の保身を気にかけて、無駄なことはいわないように気をつけている。しかし、それでも話好きというのはどこにでもいるものだ。
特に、代書屋はしがらみのない外部の人間だからと、気楽になるらしい。
水を向けると、勢いよく話しだす女官を探すのは簡単だった。
「ああ、
女官のひとりがそう話しだしたとき、夏月の手にぐっと力が入った。
自分の前にある文机を一足飛びに越え、彼女に膝詰め談判したい気持ちを抑えて、つとめて冷静に問い返す。
「そうなのですか。お元気でしたら、代書屋にも足を運ばれるでしょうか」
――そう、元気でいまも生きておられるなら。
夏月の目が、女官の一挙手一投足を見逃すまいと、鋭さを増す。
あまりにもあからさまに誘導してしまうと、意図を悟られるかもしれない。世間話の範疇で必要な情報を引き出すなくては。
「どうでしょう。さっき琴の音が聞こえていたので、なにか熱心に練習されているようでしたが……」
「琴の音……そうでしたか。瑞側妃は演奏がお得意だという噂を聞いたことがあります。その方に今日お目にかかったの?」
「今日はまだ……でも、昨日はお見かけしましたよ。声もかけていただきましたし」
あっけないほど簡単に知りたい情報を手に入れて、握りしめていた手の緊張が解ける。
なるほど、噂好きの女官から情報を仕入れるのは、みな同じらしい。その妃も、後宮の噂を仕入れたくて、近くの宮の女官にまで挨拶するのだろうと察した。
本人の代書の依頼は、幼い弟妹を気遣う家族への手紙だった。
男なら出稼ぎに、女なら後宮で年季奉公に。
運京は広い。いくら小さな村とはいえ、偶然同じ村からで稼ぎに来ているものと遭遇することもあるのだろう。
――やはり、幽鬼の客とは別人……ただの偶然だったか。
まだなにかが釈然としないが、それ以上強く追及することもできない。
くすぶる疑いを心に抱きつつも、話はそこで終わり、ひとまずは役目に没頭することにしたのだった。
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