第6話 鵲の白きを見れば黄泉がえり②

 本当に自分は死んだのだろうか。

 ただ夢を見ているだけじゃないのか。

 午睡ごすいの夢のような、ひとときの淡いのなかにいて、ほんの一瞬を永遠のように感じているだけなのではないか。

 泰山府君の背後に並ぶ、十重二十重とえはたえの蝋燭の火を、その炎のゆらぎを瞳に映しながら、そんなことを考えていた時間もまた、瞬きするほどのわずかな時間だったはずだ。

 なのに、風が吹いて、一瞬あとに絶えた火がまたついたり、消えて煙を上げたりしているのを見つめていた時間が、やけに長く感じた。しばらくして、泰山府君が筆を置き、立ちあがったときには、自分が一年ほど同じ場所にいたような気さえした。

紅騎こうき。その娘をこれへ」

 呼ばれた声に、夏月に石突きを突きつけていた赤い騎士が槍を引いた。

 白州を歩いていけと言うことだろう、槍で追い払うような仕種をされる。

 死者の側から離れて白州に一歩踏みだすと、昏い空にゆらめく極光が目に映った。

 朱色の瓦をいただく巨大な屋根を持つ、壮麗な殿宇でんう

 神々しいまでに美しく、ありえないほどに異端な光景は、泰山府君の畏怖をいやましていた。

 白州の玉砂利を十数歩ほど歩いて近づくと、極光の陰に隠されていた、冥府の王の顔が見えた。

 ――なぜだろう。ずっと陰に隠されていたはずなのに……。

 冥府の王の顔は美しいと知っていたような気がした。

 響きのいい声音から想像したとおりの、すっと伸びた鼻梁、美しい額に切れ長の目。薄く笑って口角を上げた口元は、役者のように整っており、若々しい美青年だ。

 どこかのやんごとなき身分の青年がそこにいると言われたら、信じてしまいそうだ。

 冥府を司る怖ろしい神なのに、その表情はどこかしら人間くさい。夏月の言動、行動をどうしてくれようかという顔は、面白がっているようにも見える。

 神仙は年をとらずに長く生きると言うが、実際に目のあたりにすると、ただただ驚くしかない。

 神の顔というのは、人間の思惑を越えた賜物なのだろう。怖ろしさにひれ伏したい気持ちと同時に、いつまでも見ていたくなる不思議な魅力があった。

「これが判決内容だ。こちらが見本。まずはひとつ書いてみよ」

 泰山府君の命令に応えて、頭巾をした下級官吏が椅子を持ってくる。

 普通の幽鬼なのかと思ったら、顔には呪言の書かれた布を垂らしていて、夏月はぎょっと目を剥いた。言葉を発しなかったから、幽鬼ではなく、式神なのかもしれない。

 さっき泰山府君が霊符を使っていたとき、夏月はまるで道士の術のようだなどと、神様相手に不謹慎にも思ってしまった。

 術式を操って当然だ。泰山府君というのは、死者の裁きを行う冥府の主と言うだけではない。陰と陽を司る術式――陰陽道の神でもあるのだった。

 ――つい、代書をしますなどと言ってしまったけど……なぜ、式神に書かせないのでしょうか?

 夏月がちらりと視線を向けたのを見ていたらしい。疑問にすぐ答える声があった。

「式神は私の補助はできるが、代わりはできない。ほかの官吏もだ。法廷を開くことはできるが、禄命簿ろくめいぼへの書き入れは私しかできないのだ」

 言われて、前に置かれた書物が、人の運命をすべて記したという禄命簿なのだと気づいた。

「こんなことは初めてだからどうなるか、わからないが……まずは書いてみろ」

 あっさりと書いてみろと言われても、さすがに手紙の代書のようにはいかない。

 そもそも、この禄命簿に書いたことはその人の運命を決めてしまうのだ。そう思うと、緊張でのどが渇いた。

「念のため、おうかがいしますが……禄命簿に字を書き入れするなんて呪われたりしませんか?」

「それは知らぬ。代理で書かせたことなんてないからな。まずはこの男だ。天命は六十一才。死因は病による衰弱死。罪状は特になし。冥籍めいせき――死後の戸籍は清川省三峡台城隍神付きとする」

 夏月の畏れなどとるに足らないとばかりに、作業を強引に進められていた。慌てて硯で墨を摩り、筆をとる。見本に見せられた禄命簿を確認し、まずは竹簡に書きつける。

 これでいいかと確認するように泰山府君の顔色をうかがうと、

「それでいいから、すばやく清書しろ。竹簡が貯まっているからな」

 自分が貯めたはずなのに、なぜ、そんなに偉そうなのか。

 夏月が筆を動かして、禄命簿に筆先を動かすと、滑らかな紙の感触がした。引っかかりのない、上等の紙だ。軽やかに筆が進む。

 書き終えたとたん、ひゅっ、と流れ星のような光が闇の空間を駆け抜けた。

 どうやらそれは、裁定が下った幽鬼が法廷から消えたときの光のようだった。

「よし……これはよいな。うまくいきそうだ……次。人殺しの上、刑死。天命は三十五才の男。地上で裁かれたもののほかにも殺害、強盗、陵辱の罪あり、地獄落ちとする」

 さきほどの禄命簿の主とは正反対の内容に、夏月は思わず顔をしかめた。しかし、

「代書屋、これを裁いたのはこの泰山府君であり、おまえは代書するだけではなかったのか」

 という声がかかり、心から感情を締めだした。

「そのとおりでございます」

 夏月が言われた言葉を書きとめたと同時に、苦悶の叫びが響きわたった。

 さきほどの流れ星のような光とは違い、地獄の獄卒が首に鎖をつけて引き立てていったからだ。

「次は、天命は十才。死因は遊覧船から川に落ちての溺死。親を泣かせた罪として、地獄行き」

 響きのいい声が、先をうながす。

 書き終わった禄命簿は式神が持ち去り、墨が乾くまで棚に並べられている。夏月の前の卓子が空くと、泰山府君が竹簡の山のなかから無造作にひとつを選び、その覚え書きの死者の禄命簿を広げた。

「十才の……溺死は……地獄行きでございますか……」

 感情をこめるなと言われたばかりなのに、筆を持つ手が震えてしまった。

「親より先に死んだ子どもが行く地獄がある……そこからまた六道へ転生し、新たな生を歩む……罪状があり、地獄に落ちるのは、理由あってのことだ。ここは冥界で、冥界には冥界の掟がある。安易におまえが肩入れしたところで、死者のためにはまったくならないぞ」

 ほら、早く書けとばかりに、泰山府君が手にしていた羽毛扇で小突かれた。羽なので痛くはないが、心はまだ軋んだ音を立てていた。

「意外と手が早いお客だこと……」

 ぼそりと小突かれたあたりの頭を撫でて独り言のように言うと、もう一度、羽毛扇でばさっと頭を小突かれる。今度は本当に物理的に痛い。

「代書屋の仕事ぶりをこの泰山府君が鼓舞してやっているのだから、感謝するがいい。次は――……」 


 泰山府君の鬼教官のごとき指導は、疲労しきった夏月が、動けなくなるまで続いたのだった。


        †     †     †


 式神と幽鬼の官吏とが冥府の法廷を行ったり来たりしているうちに、白州にいた死者たちは、いつのまにかいなくなっていた。

 あれほど騒がしかったはずなのに、いまは苦悶の声も、嘆きかなしむ声も聞こえない。

 ただ、闇の空を彩る青白い極光だけが、ゆらゆらと輝いている。

 いま目の前に広がる光景には、冥府のもうひとつの側面――死というものが持つ、厳かさや静謐さが漂っていた。

 夏月が泰山府君の指示の下、ひたすら片づけていた竹簡の山も、いまは見る影もない。

 最後に残った竹簡は、当然のことながら、夏月のものだ。

 それに気づいているのかどうか、泰山府君は手元に禄命簿を引きよせて、じっと眺めている。

「藍夏月、十六才――藍思影の娘。運京の外れで代書屋『灰塵庵』を営む……さて」

 さきほどまでの鬼教官ぶりから、冥界の裁判官の顔に戻った泰山府君は、いま初めて夏月の禄命簿に目を通したかのように読みあげた。

 どこかから漂ってくるのだろうか。ぬるい風が吹いて、天命の蝋燭の炎が大きくゆらぐ。

 人の命の寿命を定めたる火――それが天命の蝋燭だ。

 漆黒の壁に、浮かびあがるは、二重三重、十重二十重とえはたえに連なる火。

 風が吹けばゆらぎ、水が滴れば消え入りそうになる。

 美しくも儚い人の一生。

 いくつかの蝋燭の炎が消え、いくつかは消えたあとで、また炎が勢いをとりもどしている。

 無数に揺らめく炎を見ているうちに、夏月はそのうちのどれが自分の蝋燭なのだろうと考えた。炎の揺らめきを眺めているうちに、ふと、自分と天命との繋がりを感じた気がした。蝋燭の火はまだ燃え続けているのではないかと――。

 それはほとんど、ただの勘だった。

 勘と言うと、目を瞑って的当てをしてるようなものだと思われがちだが、実際には違う。

 長年の経験や目に映っていても意識していないもの、ほんのちょっとした挙動への違和感――そういった積み重ねは、ひとつひとつは気に留めるようなものでなくても、一歩、足を踏みだした瞬間やその場から立ち去ったあとに明確な形を結び、意識のほうがあとで追いついてくることがある。

 ときには、その追いついてきた瞬間を、第六感が働くなどと言う。

 いま一度、泰山府君に申し開きをせよというなら、この点を確認しなくてはならないと、夏月の直感は告げていた。

「畏れながら、泰山府君におうかがいいたします……わたしの天命は本当に尽きているのでしょうか?」

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