2.流浪の少女 (1)

 ろくに拓かれてもいない木々のあいだに、窮屈そうに建つ丸太小屋。

 少女の住処は、少年が思っていたより森の奥深い場所にあった。方角も違っていた。

 彼が捜し求めていたのは、もちろんこの小屋だ。ここを見つけられず、彼は知らぬ間に森深く迷い込んでしまっていた。見通しのきかない森林に、目的地も知らぬまま分け入った浅慮を彼は自省した。



 少年はベッドの端に腰掛け、治療を受けていた。

 少女が少年に危害を加えることはなかった。危害どころか、彼女は彼の傷をかめの水で洗い、布で縛って止血した。しかし少年は、もし歩けるものならば、すぐにでもこの場を立ち去りたかった。それは村の大人たちに聞かされていたものをはるかに上回る彼女の力への恐怖と、そして小屋に充満する、耐え難い臭気のためだった。

 少年は何度も見回した。しかしそこは、森で暮らす者たち一般の小屋と大した違いはなかった。狭く薄暗い屋内。壁には先刻彼女が手にしていたロッドと、腰に提げていた長剣が立て掛けてあった。床は一部が土間で、残りは板を並べただけ。その土間にはかまど。そして床板の上にはいま自分が腰掛けている粗末な木のベッドと低い小さなテーブル、こまごまとした日用品のほかは、薬が入っていると思われる大小さまざまな形の瓶、そして恐らく彼女が縫ったのであろう、色鮮やかな刺繍製品以外、特に珍しい物はなかった。もちろん死体やドクロの山があるわけでもない。臭いはそう言ったものからではなく、彼女自身から発せられていた。

 少女が腰を上げ、小屋の奥からひとつの瓶を取ってきた。彼女は封を取り去り、中の膏薬を傷に塗った。手つきからはいたわりを感じたが、表情は固いままだった。


「痛み止めのモルフィンよ」

「モルフィン!?」

 その薬の名を耳にし、少年は身をこわばらせた。

 モルフィンは強力な鎮痛作用と共に、恐ろしい副作用を有している。習慣性と、体組織の壊死作用だ。壊死が脳に起こると、心を狂わせることになる。しかし少女は、あくまで無感情に言った。

「心配ないわ。この薬は樹脂で何倍にも薄めてあるから」

 彼女は立ち上がった。そして毛布を取り、少年を見下ろした。

「少し眠るといいわ」

 さまざまな感情が少年の心に渦巻いた。

 しかしモルフィンの作用か、急激な眠気に襲われた。いつしか少年は、深い眠りに陥っていた。

 ……………



 ※


 なんの飾り気もないむき出しの床板。丸太を組んだだけの壁と低い天井。

 その天井から提がる油灯の淡い明かりの下……村の男たちが車座になっている。上座には村の長老。白い長髪と髭、眉間に刻まれた皺が、彼の年齢と英知を物語っている。

 集まった者の中に、ひときわ広い肩幅を誇る屈強な男がいた。少年の父親だった。鍛え上げられた体躯は、少年とは対照的だ。だがその表情に精気はない。いや彼だけでなく、そこにいる者全てが無言のまま、うなだれていた。会合の進行役であろう男が、沈黙を破って話し始めた。


「……今夜集まってもらったのは他でもない。村をたびたび脅かす猪型亜人オークどものことだ」

 チリリ、と油の焦げる音。そのまわりを、小さな虫が一匹、飛び回っている。

「知っての通り、最近でははるか北の狼型亜人リカントロープたちとも手を組み、その攻撃は、たびを重ねるごとに激化している。亜人たちの活発化は、何もこの東部辺境地方に限ったことではないらしい。山向こうのクレアル地方や中央大平原北方でも見られると聞く。今は我々の武力と長老方の攻撃補助魔法で何とかしのいではいるが、この様子では、いつまで持ちこたえられるかわからん」

 村の北方に亜人たちを見かけるようになったのは数年前。きっかけは不明だ。八年前の冬に猛威をふるった流行り病で人間が減ったのが原因と言う者もいるが、真偽のほどはわからない。雑食性の彼らは人を食することもあったが、それもこれまでは、運悪く空腹のオークに遭遇した者たちが、偶発的に犠牲になる程度だった。つまり知能の差はあれ、肉食の大型野獣と同じことだった。

 それが、二、三年前から変わった。オークの群れが、組織的に村を襲うようになったのだ。それでも始めのころは、その知能の低さと結束力の弱さから、武力で簡単に撃退できた。だが彼らは回を重ねるごとに巧妙になり、またその勢力も増していった。最近ではリカントロープたちと手を組み、連携して人里を襲うことまで始めた。進行役の男の問題提起に、優れた方策を提案できる者はいなかった。

「……ったく、かつて我々のご先祖はドラゴン飛竜ワイバーンを召喚したって言うのに、この体たらくは……」

 ひとりの男が愚痴をこぼす。長老の白いあご髭が初めて動いた。

「やむを得まい。力ある魔物を召喚できたと言っても、それは何世代も前のこと。長い年月のあいだに混血が進み、また太平の世が我々の能力を徐々に奪っていった。今では、小さな妖精シルフすらべる者はおらん」

 しかしその長老の言葉を、ひとりの男が否定する。

「いや、いる……」

 場の空気がにわかに張り詰めた。別の壮年の男が目を輝かせる。

「そうだ、リリィだ!強力な攻撃用魔獣を召喚するリリィがいるじゃないか!」

「だめだ!」

 間髪入れずに声を被せたのは、少年の父親だった。

「我々は否定してきたではないか。彼女の存在と、その忌むべき力を」

「しかし今はそんなことを言っている場合じゃない!このままでは村は亜人に滅ぼされてしまうぞ!」

 男の主張を、少年の父親はあくまで退ける。

「彼女がこの村にやってきた時期と、亜人たちの攻撃が激化し始めた時期とは一致する。彼女が亜人どもを呼び寄せているかも知れんぞ」

「でもその彼女の力で亜人を撃退できれば、それで何の問題がある?なんなら聞いてみればいい。我々に協力してくれるかどうか」

「協力なんてしてくれるものか」

 口髭をたくわえた大柄の男が、少年の父親に代わって斬り返した。彼は続けた。

「自分たちのしてきたことを思い出してみろ。彼女を拒絶し、あまつさえ、忌み嫌い、迫害してきたではないか」

 壮年の男は孤立していた。それとも、誰もおおっぴらに彼に賛意を表すことができなかったのか。初老の男が発言した。

「確かに彼女の力は強力だ。しかしだ。その力で村が救われたとして、だからどうするというのだ?今の村と彼女との関係を、このまま保てると思うか?」

「うっ……」

 男が言葉を詰まらせた。初老の男が、さらに追い討ちをかける。

「それに彼女が喚び出すのは、魔獣などではない。……彼女は召喚士にあらず。安息の時を迎えることができず、黄泉とうつつはざまをさまよう死者の魂をもてあそぶ、邪悪な死霊使いネクロマンサーだ。その力は忌むべきもの。彼女は我々の仲間ではない」

「し、しかし……長老!」

 男は長老にすがった。その場にいた全員が視線を白髪の老人に集めた。みな、無言で彼の言葉を待った。長老は顔を伏せたままだった。目を閉じ、何も語らなかった。いや、語れなかったと言うべきか。

 男たちの輪を、再び沈黙が支配した。

 彼らは思い出していた。二年前の、ある光景。払っても払っても晴れぬ霧のようにまとわりつく、嫌な記憶。


 ……それは、全ての事象の始まりだった。



 ※

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