1.邂逅
少年は後悔していた。
自らの欲求が、この破滅的な事態を招いてしまったことを……
興味本位、と言うほど軽いものではなかった。
だが湧き起こる衝動を抑えきれず、大人たちから『入ってはならぬ』とされていた森に足を踏み込んだ彼は、いま地面に尻を突き、迫り寄る
彼らは、長く突き出た口の脇からよだれを垂らし、少年の、みずみずしく美味そうな
そして、事実はそのとおりになろうとしていた。
ひときわ複雑な装飾の曲刀を腰に差した、首領格と思われるリカントロープが、グルルルと低い声で命令した。周りに控え、剣を構えていた十数匹の下っ端たちが、一斉に少年に飛びかかった。いよいよおしまいだ。その証拠に、ほら、気の早い屍臭が、もう漂ってきたではないか。
?……屍臭?
いや、そんなはずはない。確かに自分の死は確定的だが、まだ死んではいない。そもそも自分の死体の臭いを自分で嗅ぐなんて矛盾した話だ。それに亜人たちだって、まだあんなところじゃないか。じゃあ、この臭いは?
……そう、その瞬間、起こるはずもない奇跡は起こった。
「ダムヌ(待ちなさい)!」
少年の背後から飛んできた、鋭い女の声。亜人たちの動きが止まった。
「ニム ボウタ(あなたたち、よそ者ね)」
耳慣れぬ言葉。少年は腰をよじって振り返った。
そこにはひとりの少女が立っていた。歳のころ十四、五だろうか。腰まである長い髪を靡かせた少女は、みすぼらしい褐色のローブを身にまとっていた。だがその装いとは不釣り合いなほど、顔立ちは端正だった。恐らく笑えば、年頃の少年ならば心を動かされずにおれぬ愛くるしさを放つだろう。
だが無論、今が笑みを振りまいている時でないことは明白だ。少女は内包する愛らしさを否定するような鋭い眼光で亜人たちを威圧している。
彼女は左の腰に、鞘に納めた細身の長剣を提げている。しかし、それを抜く気配はない。それよりも何よりも眼光の威圧に加担しているのは、右手に握られた一本のロッドだった。彼女の身長ほどもあるそれは、金属の光沢を放っていた。中央付近に革が巻かれ、その一端から他端へとベルトが掛けられている。移動時には
しかし少年にとって重要なのは、少女の出で立ちや武装ではない。存在そのもの。
ほかでもない。その少女こそが、禁を破ってまで自分をこの森に入らせた原因だということだ。
「貴様こそ、何者だ!?」
リカントロープの首領が、人とは造りの違う声帯を鳴らした。少女は不敵な笑みを浮かべて切り返した。
「このあたりの亜人なら、そんな質問はしないわ。私を知らないはずはないし、だいいち私に刃向かおうなんてするわけがない」
少女のその言葉は――もっとも、少年には理解できようはずもなかったが――、理性の少ない亜人たちを激昂させるのに十分だった。対立は、もはや少年の頭越しに行われていた。
「ふ、ふざけるな!たかが人間の小娘が、オレたちに勝てると思ってるのか!」
「やるなら来なさい。受けて立つわよ」
「野郎ども、かかれっ!」
二本足で立ってはいても、人とは明らかに違う。野生の中で生き抜くための造形をした獣の民たちの俊敏な下肢が、一斉に地面を蹴った。それに呼応するかのように、少女のロッドも小気味良い動作で地を離れる。右手のひらを上に返した少女は、水平に持った杖を、草むらの上に平行に突き出した。迫り来る亜人の群れに、少年は身を伏せた。その体の上を、小川でもまたぐように獣たちが飛び越えてゆく。「いくら何でもあんな女の子が、十数匹の凶暴なリカントロープ相手に勝てるわけがない」……そう思った少年は、直後に展開されるであろう無惨な、そして自らにとっても絶望的な光景を連想し、頭を抱えた。
だが少女は身じろぎもせず、向かい来る亜人たちを見据えていた。顔を覆う少年の耳に、少女の声が響いた。怯えなど微塵もない、威厳に満ちた声だ。
「ンガ スベア イム デクストラ アムト
(我が右腕に宿りし僕たちよ)
サント ベロア エンシール デライブ アントゥンガ
(今こそその封を越え、我に敵対する者を滅ぼせ)
ノーモーボルシュトローヌト コムト!
(いでよ、死霊たち!)」
薄暗い森の中が、真昼の砂漠のように明るくなった。
少年は顔を上げた。その光が存在したのは一瞬で、どこから発せられたのかもわからぬ間に消え失せたが、やがて少女の右腕、肘の先から手首まで巻かれた黒い布の表面から、もやのような白い煙が立ち始めた。
そしてそれはもちろん、もやなどではなかった。
「ウウッ!……」
リカントロープの首領がうなった。
右腕から上がった妖霧は、すぐにいくつもの白い塊をつくった。するとなんとその塊のひとつひとつに、恨めしげな人間の顔が浮かび上がるではないか!そう、そのもやこそ、自らの個体死を受け入れず、安息の時を迎えることも拒否し、現世をあてどなくさまよう死者の魂、死霊だったのだ。恐怖におののいたのは、少年だけではなかった。
「ウワアッ!」
亜人たちは一同に突進をやめ、引き返そうとした。だが時すでに遅し。数え切れないほどの死霊の群れが、尾を曳きながら亜人たちに襲いかかった。
「ギャアアッ!」
「グワアアッ!」
「ヒギイィィッ!」
ある者は胴を貫かれ、はらわたをぶちまけて倒れた。またある者は四肢を、頭を引きちぎられた。まばたきほどの間に、凶暴な亜人たちは一匹残らずもの言わぬ死体、いや、単なる物体となった。
「……………」
目の前に展開された惨たらしい光景と、自分の命が助かったという安堵感の交錯から、少年は言葉を失っていた。少女が、前に差し出したままの右腕を下ろした。ザッ……乾いた音を立て、ロッドの先端が地面を捉えた。そしてようやく、少女の視線はうずくまる少年に移った。
「……大丈夫?」
少女が尋ねた。無表情のまま。今しがた繰り出した恐るべき力も、その結果もたらされたむごたらしい光景もなかったかのように。彼女は草の間に見え隠れする肉塊を避けながら、二歩三歩、少年に歩み寄った。危機を救ってくれた彼女は、少年にとって敵ではない。しかし身を起こした彼は、近寄る少女に対して反射的に後ずさりした。
「あっ、あの……」
彼の狼狽など意に介さず、少女は彼の前にしゃがみ込む。ふわっ……遅れて彼女の長い髪が背中に着地する。
「肉を抉られてるわ。でも太い血管は大丈夫なようね」
「イデデデ……」
冷静に診断され、あまりの出来事に忘れていた痛みを少年は思い出した。少女はしゃがんだままくるりと回転し、彼に背を向けた。そしてロッドを持っていない左手を背中に回した。
「乗って。歩けないでしょ?」
彼女の表情は見えない。だがその声は、決して温かいものではなかった。
その時、またあの臭いが漂ってきた。鼻をつく臭気。それは腐敗した
そして少年は……
その臭いがいま死んだ亜人たちからではなく、彼女自身から発せられていることに気付いた。
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