『まなべさん』

石燕の筆(影絵草子)

第1話 『噂のまなべさん』

家賃48000円1DKの彼が住むアパートには、

嫌味な大家の仕業なのか、

やたら壁の至るところにべたべたと張り紙がされている。


たとえば、


『外出するときは一人ずつ出かけること』

『夜間外出は厳禁、やむを得ない場合は管理人に通達してから外出すること』

『アパート内は走らない。忍者のように差し足忍び足で行動すること』


こんな決まりならば、

こちらもたいした問題にはしない。


『まなべさんに出会ったらちゃんと挨拶をすること』 これが一番奇妙で厄介なのだ。


私は今までまなべと名乗る人物に会ったことはない。


そして私が知るかぎり、まなべという名前の住人に心当たりがない。


ある時、それはだれなのか、 管理会社に連絡をして聞いてみたことがある。


返答はこうである。


『まなべさんはまなべさんです。 ほかに説明のしようがありません。では。』


そう言われてしまう。

とりつくしまがない。


まなべさんとは誰なのか否応でも知りたくなった。


住人に聞いても、同じことを言うのだ。


『まなべさんは、まなべさんとしか言えませんね』


『まなべさんを、まなべさんという以外に説明のしようがないけどね』


『まなべさんを知らないなんて信じられない』


など、さんざんなことを言われた。


ある日、住人の一人で、

水玉模様のスカートのカフェウェイトレス

のような女の子がいたので、聞いてみると、


『まなべさんは、恥ずかしがりやだからあまり外には出ない。だから出会ったらラッキー!ってわけ』


少しばかり、話し方が独特だったわりに、

たいして得るものはない。


そして、


『まなべさんに会ったら幸せになる』


とのこと。


これはいいことを聞いた。


ただ、どうやってまなべさんに出会えばいいかもわからない。


顔も性別もわからない人をどう探せばいいというんだろう。


そんなとき、


『あ、まなべさんだ』


という声がアパートのドアの向こうで聞こえた。


ついに会えるとドアを開けると、


あの日、話を聞いた女の子がエレベーターを指を差している。


『あーあ行っちゃった』


下降していくエレベーター。


すんでのところで逃してしまったらしい。


あわてて追いかける。


必ず見つけてやると意気込みながら


階段を駆け下りる。


一階に降りたが、エレベーターの中は空っぽだった。


どうやら別の階で降りたらしい。


それから十年が経つが、いまだにまなべさんにはあれ以来接触できていないし、


最近噂も聞かない。


まなべさんは本当にいるのか、


それともいないのかわからないが、


最近、新しい張り紙が追加されていることに気づいた。


そこには、


『まなべさんがアパートを出ました』


とある。


まなべさんは、もうこのアパートにはいないらしい。


とうとうまなべさんに会えないまままなべさんは、

行ってしまったらしい。


自分も来週アパートを退去するつもりである。


もちろんまなべさんの行方を探すために。


まなべさんは、


管理会社いわく、


『メゾンド鰯(いわし)』というアパートに越したらしい。

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