第18話 魔女メーディア


 マストの上に登っていた見張りが、水平線にコルキス国の軍勢を見つけて怒鳴り声を上げた。

 ついに追い付かれてしまったのだ。

 イアソンが命令するまでもなくアルゴ号は緊急態勢に入った。帆は一杯に張られ、大銅鑼の響きに合わせて全てのオールが水面を必死で漕いだ。


 すべては無駄なあがきであった。


 アルゴ号は巨体なだけに動きは遅い。補給物資はたくさん積めるし、高波にも強いが、こと速度という点ではより小さい船には敵わない。たちまちにしてコルキス海軍に追い付かれてしまった。

 コルキス海軍の先頭に立つのはコルキス王のアイエーテース。遠目からもその顔に浮かぶ怒りの色ははっきりと判った。王国を出てからここに至るまでずっと、その表情でいたのだろうかとイアソンは思った。だとしたら、その表情が元に戻ることはもう無いであろう。

 この世のすべてを焼きつくそうとでも言うべきかのようなコルキス王の視線の前で、メーディア姫がイアソンの横に立ち、命令した。

「わたしの荷物を持ってきなさい」

「メーディア! イアソン!」コルキス王アイエーテースが叫んだ。「わしの宝を返せ!」

 王の背後にはずらりと軍船が並び、その軍船の上には武装した兵士が満載されている。どれも殺気立っていて血に飢えている。これは謝っても許してはもらえないな、とイアソンは思った。こんなときにヘラクレスがいてくれたらなと考え、そんなことを考えた自分に驚きもした。もし、ここにヘラクレスがいたら、アルゴ探検隊もコルキス軍も、まとめて皆殺しにされてしまうだろう。

「宝って何のことよ!?」メーディア姫が父親に叫び返した。

「決まっている! 我が国の至宝、金の羊毛のことだ!」

「貴方の娘は宝の内に入っていないのね!」

 メーディア姫が指摘すると、コルキス王の顔に驚きの表情が浮かんだ。

 メーディア姫が背後に合図すると、彼女がこの船に持ち込んだ大きな箱が運ばれて来た。

「宝は! 金の羊毛は! その中か!」王が配下の軍勢に箱を指し示した。「取り返せ!」

「お待ちなさい!」メーディア姫が王の声をかき消す大声で叫んだ。

「この中に確かに父上の宝はあるわ。だけどあの羊の毛皮じゃない」

 メーディア姫が指を鳴らすと箱の留め金が勝手に開いた。中からロープでグルグル巻きにされた少年が現れた。

「アプシュルトス!」コルキス王が叫んだ。顔色が青くなっている。

「そうよ、あなたのたった一人の息子。あたしの弟。そしてコルキス国の次の王。小さな可愛いアプちゃんよ」

 いつの間にかメーディア姫の手の中に出現した短剣が、目を白黒させている弟の首筋に押しつけられている。

「金の羊毛は国の宝。アプシュルトスはお父様の宝。でもあたしはそのどちらの宝でも無いのね。ここでこの子を殺してばらばらにして、ついでに金の羊毛を引き裂いて、どちらも海にばらまいたら、あたしが今感じているのがどんな気持ちか判って貰えるかしら?」

 コルキス王の顔に脅えが浮かんだ。

「やめろ! やめてくれ! お願いだ」

 メーディア姫がにんまりと笑った。イアソンにはその顔が見えないようにして。

「いやあねえ。わたしが本当にそんなことすると思っているの」

「する。するに決まっている。お前がやると言ったら、必ずやることは知っている」とコルキス王。両手を振って軍勢を下がらせる。

 メーディア姫の指図で、アルゴ号から降ろされたボートに人質を入れた箱が載せられる。

 メーディア姫がイアソンの頬にキスをした。

「わたしが時間を稼ぎます。あなたは先を急いでください。後でイオルコスに参ります」

 自身もボートに乗ると、メーディア姫は弟の入った箱を叩いて宣言した。

「金の羊毛も、弟も、そして私もここに居るわ。捕まえて御覧なさい。お父様。本当にそれが欲しければ、自分のその手で手に入れるのよ」

 メーディアが魔法の種をボートの上に撒くと、たちまちにして一本の木がそこに現れた。木は葉を茂らせて、風を捕らえ始めた。メーディア姫が口をすぼめて息を吹くと、周囲の大気がどよめき、強い風が吹き始める。たちまちにしてボートは海の上を疾走し始め、アルゴ号から遠ざかる。

 皆が呆然とそれを見つめる中、イアソンだけが事態の進行を理解した。

「あの~、王様」とイアソン。

「なんだ」メーディア姫の乗ったボートを見つめながら、コルキス王がぼんやりと答える。

「追わなくていいのですか?」

 コルキス王がはっと正気に戻った。王の怒号を聞いて、配下の軍勢も白昼夢から目が覚めた。「追え! あれを追え! わしの宝を逃すでない」

 たちまちにして周囲の海から、コルキス軍はいなくなった。

「金の羊毛は?」ぼんやりとイアソンは尋ねた。

「船倉の中です。いま確認してきました」と航海長。

「では出航だ」イアソンはコルキス軍の進んだ方向と逆を指さした。

「外海まで出れば、あの種の船では追っては来れない。それまでの辛抱だ」

「恋人が魔女で良かったですね」航海長はメーディア姫が消えた方向を見つめて言った。

 じきに奥様は魔女ということになるのではないかと、イアソンは恐れた。魔女のメーディア姫がイアソンに浮気を許すとはとても思えない。

 イアソンは金の羊毛を奪取する目的でメーディア姫を利用しているつもりだったが、実際はメーディア姫がイアソンを利用していたのではないかとも思った。

 その考えがどの観点から見ても正しいことを、まだイアソンは理解していなかった。

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