第16話 黄金の羊毛


 悪い奴ほど良く眠る。そして、ぐっすりと眠った後の爽やかな朝にはまた格別なものがある。

 盗みの予定は今夜、誰もが寝静まった後だが、それでも幾つもの仕掛けの用意が必要であった。

 イアソンはメディーナ姫のところに出かけて入念な打ち合わせをしている。メディーナ姫は姫で、イアソンの相手をしながらも、どうしても旅先に持って行きたい荷物をこっそりとまとめてアルゴ号に送りつけている。宮廷の監視人たちはそんな二人を駆け落ちの準備と勘違いしてわざと見逃している。彼女がいつまでも居残っていては、彼女の弟の即位に邪魔なのだ。

 いや、勘違いではなく駆け落ちは半分は真実なのだが。

 乗組員たちは船の出港準備に余念がない。アルゴ号の巨体で逃げ切るためには、良い風もそうだが、場合によっては全てのオールが必要となるかも知れない。

 ある者は街に出て最後の買い物をし、ある者は街の警備状態を調べ、ある者は街の商人たちに打ち合わせの予約を入れて欺瞞作戦を展開した。もっとも口の軽い船員たちの常として、港街の娼婦たちはアルゴ号が間もなく出港をするだろうと言うことを知っており、秘密が秘密でなくなるのにもそれほど時間はかからないことは明白だった。

 嫌になるほどゆっくりと時間が過ぎ去り、やがて待望の夜の時刻が来ると、アルゴ号の乗組員たちは街の酒場に繰りだした。酒と女と馬鹿笑いの渦の中からこっそりと一人二人と抜け出して決められた集合場所へと集まる。

 ほどなくイアソンが到着し、頭数を数えた。

「全員揃っているな」

「お姫さまはどこです?」

 その声に応えて闇の中からメーディナ姫が現れた。その手に真っ暗なランプを持っている。皆の好機の視線を受けて、メーディナ姫はそのランプを振って見せた。

「以前にこの国を訪れた旅の商人から買ったハデスの闇のランプよ。これに火を灯すと周囲は闇に包まれるの」

 良くできた嫁だと、その場に居たイアソン以外の誰もが思った。イアソン本人は、今まで自分の恋愛が最後まで続いた試しが無いことを良く理解していたので、そうは思わなかった。

 ランプが投げかける闇に守られて一行は金の羊毛を納めてある神殿へと向かった。途中何度か路地の奥に隠れて通行人をやり過ごすと、じきに目的の神殿へと辿りついた。

 この神殿には見張りはいない。金の羊毛は神殿の中に植えられている木にかけてあり、その木には獰猛なドラゴンがつないである。ときたま愚かな盗賊が忍び込むが、次の日の朝にはしゃぶり尽くされた骨になって発見されるのが落ちなので、敢えて見張りは置いていないのだ。

 コルキス王アイエーテースは吝嗇な王であったため、余分な人件費は極力抑えていた。それにドラゴンのエサ代もバカにはならない。盗賊がエサとなってくれるなら大歓迎だ。

 闇のランプが放つ漆黒の光の中でも、ドラゴンは一行の存在に気が付いた。意地汚くも齧り続けていた骨から顔を上げると、見えないはずの一行を睨みつけた。。

「ありゃあどうみても人間の大腿骨ですぜ」そっと舵取りがイアソンに囁いた。

「可哀そうに、最近は肉のついた骨を貰えないのよね」

 メーディア姫が変な相槌を打つと、闇のランプの中で燃える黒の炎を吹き消した。暗闇からいきなり出現した人間の集団に向けて、ドラゴンがうなり声を上げた。しゅうと音を立てて、高熱でそれ自身が発火しかけている空気がその口からもれだす。

 メーディア姫が前に進みながら手を上げた。

「静まりなさい。シェンダロス」

 途端にドラゴンの表情が和らいだ。少なくともイアソンにはそう思えた。高さだけでもメーディナ姫の二倍はある大きさのドラゴンが頭を地に潜らせるとでも言うかのように地面に顔をすりつけてメーディア姫に甘えた。

「良い子ね」

 ゴロゴロと喉を鳴らすドラゴンの固い鱗で囲まれた顎を掻いてやると、メーディア姫は持参したバスケットの蓋を開いた。中から出て来たのはパイの包みだ。それをドラゴンの大きく開けた口の中に次々と放り込む。

「羊肉のパイよ。この子の大好物なの」

 貰ったパイをあっと言う間に平らげると、ドラゴンは木の周りにとぐろを巻いて眠ってしまった。

 それを見届けてからメーディア姫は木へと近づいた。ドラゴンはピクリとも動かない。その巨体のどこかからゴロゴロという音が聞こえてくる。

「薬が効いているの。良く眠っているわ。この子ったらいつでもこうなのよ」

 メーディナ姫は優しい目をしてドラゴンの頭を撫でてやると、頭上の金の羊毛を指さした。呆気に取られていたアルゴナウタイたちが夢から覚めたように動き出すと、木に登り、手早く金の羊毛を偽物とすり替えた。

「うへえ」本物の金の羊毛を袋に詰めながら、舵取りが言った。

「臭くて、古くて、おまけにドラゴンの噛んだ跡だらけだ」

 それを聞いてメーディナ姫が眉根を寄せた。

「だから巡礼があまり近くに寄らないように、こういう形で展示してあるの」

「しかし勿体ない」イアソンは感想を漏らした。

「人の言葉を話し空を飛ぶ黄金の羊を殺して、その替わりに物言わぬただの金色の毛皮にしてしまうなんて、何て勿体ない」

「あたしもそう思うわ。おまけにその羊は、哀れな子供たちを助け出すほどに、とても善良で親切だったのだから」

 メーディナ姫は闇のランプを再び灯すと、最後に眠っているドラゴンの頭をもう一度撫でてから一行を外へ導いた。

「ここからは一刻の余裕も無いぞ」

 街を覆う夜の帳の中で更なる闇に守られた一団は、アルゴ号へと舞い戻った。

 一行がアルゴ号の甲板に到着すると、船首の女神像が振り向いた。

「お帰りなさい。首尾よく進んだようね」

「驚いた」とは、メーディア姫。「魔法の人形だわ」

「魔法の女神像よ」女神像がほほ笑んだ。

「でもどうして今まで喋らなかったの!」

「もう出港ですからね。喋っても売り飛ばされる心配はありません。ここの王様に気に入られて街の新しい観光資源になるなんて真っ平御免よ」

「出港しろ」

 話続ける二人を無視してイアソンが囁いた。まるで眠れる街に聞きとられることを恐れるかのように。

「出港だ。全員オールを漕げ」航海長が囁く。

「出港ですね」舵取りが小声で返す。

「早く」イアソンが促した。

 アルゴ号の舷側から長いオールが突きだすと、そっと海面に触れた。船の中の漕ぎ手部屋では、いつもの大銅鑼は鳴らされず、その替わりに漕ぎ手長が両手を振って拍子を取る。誰も彼もが真剣だ。事ここに至っては、もしコルキス国の軍勢に捕まったりすれば、全員間違いなく死刑にされる。それも極めて残虐な方法でだ。だからこそオールを漕ぐ腕に力も入ろうというもの。

 水面を滑るように、とはいかない。アルゴ号はギリシア一の巨船だから。もともとは英雄たちの膂力を当てに設計されているのだが、実際に漕ぐ羽目になったのはごく普通の船員たちだ。

 それでもアルゴ号は重々しく動きだし、進み始めた。港から離れると帆を張り、できる限りの速度で進む。イオルコスへの帰路はどこを通るのかは未定だが、シュプレーガムスの海峡を通るわけにはいかないいのはイアソンにも判っていた。金の羊毛が盗まれたと知れば、コルキス王は真っ先にあの海峡を封鎖するだろう。それにあの海峡はコルキス国へ向けての海流を持つ。風の向きが悪ければ、あの海峡を戻るのに長い時間を待つことになってしまう。

 コルキス国に留まっている間に、他の船の船長から海図を手に入れておいた。帰りは遠回りになるが、幾つかの海を経由すればイオルコスに辿りつくことはできるはず。

 運が良ければ、の話だが。

 アルゴ号の船倉の奥深くに、厳重に守られた金の羊毛。それに全乗組員の命を賭けるだけの価値があるのかどうかを、イアソンは敢えて考えないようにした。

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