第10話 イアソンの勝利
アルゴ号の甲板上に見事な祭壇が築かれた。
祭壇の前には所狭しとばかりに海神ポセイドンへの捧げものが並べられる。ここまでの船旅への守護の感謝と、これからの冒険への加護を願ってのささやかなお礼の儀式であった、
表向きは。
棒弱無人の振る舞いがトレードマークのアミュコス王でもこれには手が出せなかった。自分の父神を誇る以上、それを馬鹿にする行為だけはできない。特にギリシアの神々は怒らせると手がつけられない。たった今まで溺愛していた息子でも、何かの機嫌が悪いと平気で叩き殺したりもする。そして後で己の行為を嘆き、八つ当たりで関係も無い下々の民をさらに殺すのだ。
つまるところ、ギリシアの神々はサイコパスである。
祭礼は一日続く。ということは一日分の時間が稼げたことになる。
その間に、アルゴ号の船員は知恵を振り絞って脱出法を考えた。特に上級船員はそうだ。上級船員は拳闘の相手に指定された五十人の中に漏れなく入っている。
何の進展も無いままにその日が過ぎた。
イアソンは甲板に立つと海を見つめていた。その姿を見つけて、舵取り役の男がやって来る。
「無理ですぜ。旦那」
「何がだ?」と不機嫌なイアソン。
「もちろん、逃げることですぜ」舵取りは顎で海を示した。
「目を細めて良く見るんです。水面のすぐ下に大きな板が並べてあると思ってください。そこに大きな大きな絵が描かれていると思うんです」
イアソンはそうしてみた。波の動きを無視し、表面に浮かぶ潮の泡を心の中で無かったことにする。海ではなく、大きなキャンバスで・・。
風景が反転した。そこにあったのは海ではなく、ひげ面の巨人が寝そべっている姿だった。巨大な体から伸びた巨大な腕が、アルゴ号を水面下でがっちりと掴んでいる。
「見えたようですね」舵取りが静かに嘆息した。
「いまアルゴ号は錨なんか下ろしていないんで。それでも船はぴくりとも動かねえ。舵もオールも、海に突っ込んだものはどれも砂地に突き刺したように動きを止めとるです」
ポセイドン神の親馬鹿もここまで来たか。イアソンは舌を巻いた。何としても息子の晴れ舞台をここで実現するつもりだ。
その夜はまた宴会になった。正体を無くすためだけに酔う酒がこれほどまでに味気ないとは、イアソンも知らなかった。
次の日も祭壇が築かれた。今度は天空の神ゼウスに捧げるものであった。船旅に必須の良い風と守護を願ってアルゴ号の全員が祈りを捧げた。
アミュコス王からは早く試合をしろと矢の催促があったが、全て無視した。
神々の王ゼウスは神々の中でも最強を誇る。そして最も本能に忠実な気まぐれな神だ。ポセイドン神よりも高位にあるため、アミュコス王にも手は出せない。出せば天界を二つに分ける大戦争が始まることになる。しかもその結果は、ポセイドン神の負けに終わる可能性が高い。
だが所詮は時間稼ぎ。この間に何か良い解決法を見つけない限り、普通の人の集団であるアルゴ号の乗組員のうち少なくとも五十人は、怪力自慢の半神半人の馬鹿息子に殴り殺されることになる。
イアソンはこの難問に頭を抱えながら、甲板の上をさ迷った。最後に船首の女神像にすがりつく。
「何か良い知恵はないか?」
「私はただの木彫りの像なんですよ」女神像が答えた。「女神の力が宿っているわけではないんですよ」
「しかし、君は賢い」イアソンは指摘した。
「それは否定しませんけどね」船首像はほほ笑むと、空中を嗅ごうと鼻を引くつかせた。
「嫌な臭いがしますね。どこかで嗅いだ臭いです」
イアソンも空気の臭いを嗅いではみたが海の臭いしかしなかった。海神ポセイドンがすぐそばにいるせいか、一際潮の臭いが強い。
「どうにもならない事は脇に置いておいて、食糧と水の積み込みを急ぐべきでしょうね」
「やってはいるよ。神々への供物と称して、市場中の品物を買い上げている」
「では、後は待つだけです」女神像は前を向くと、元の動かぬ彫像に戻った。
イアソンは彼女がまた喋り出すかと暫くその場で待っていたが、やがては飽きて、船室に戻った。
三日目の祭壇は冥界の王ハデスに捧げられた。
痺れを切らしたアミュコス王は船に乗り込む勢いだったが、祭神が誰かを知って止めた。
ハデス神は地下で死者を統べる神だ。滅多に怒らないし、滅多に人間とは関わらないが、その恐ろしさは神々ですら良く知っている。おまけにいきなり農耕の女神ペルセポネを略奪婚するなどと動きの読めないことをする乱暴な神である。
そのために、天空神ゼウスと並んで、ポセイドン神が手を出せない二柱の神の内の一つとなっている。
これが最後の時間稼ぎであることは皆が理解していた。イアソンと上級船員だけでは五十人に満たなかったため、残りの生贄がくじ引きで選ばれることに決まった。それで今やアルゴ号の乗組員全員が、目前に迫った危機にどう対処するかを考えていた。
人間、己の命の危機が近いとなると素晴らしい考えを思いつく・・わけがない。そううまく行くのならば、誰も苦労はしない。
何の手も生み出すことができぬ間に、夜が来た。
時間だ。
もはや祭るべき神々はいない。兵士に促されるまま、アルゴ号の選ばれた乗組員たちは足を運んだ。
街の中央広場に巨大な白木作りの円形闘技場が姿を現していた。ここでアミュコス王対アルゴ号の五十人の英雄が戦うのだ。無数の松明が立てられ、闘技場が輝く。闇の中の聖地のように。
「くそっ! アミュコスの野郎、あんなものを作っていたのか」航海長が悔しそうにつぶやいた。
まるで死刑執行の場へ引きだされる囚人のようにうなだれて、選ばれた英雄であるはずのアルゴ号の乗組員たちは闘技場へと進んだ。
闘技場の上ではアミュコス王がデモンストレーションを行っている。そこで初めて、イアソンはアミュコス王の姿を見た。
赤銅色に日焼けした体。一般的なギリシア人よりも頭二つ分は大きい。筋肉の盛り上がった肩の上に、長方形と言ってもよい角ばった顎を持つ顔が載っている。丸く縮れた顎鬚が父親であるポセイドン神と良く似ている。誇りというより傲慢さがその顔からにじみ出ている。
アミュコス王はまだ若いが、それでもこの島の王だ。前の王様とその一族がどうなったのかは、それほど想像力を働かせなくても判る。
闘技場のリングの上に、大きな丸太が運ばれて来た。大人の胴の数倍はあるそれをアミュコスは殴り始めた。技も何もない力任せに振るう拳だ。だがそれだけでも十分に致命的な打撃となる。
木の表面が裂け、引き千切れ、弾けて木端へと変わる。拳が当たるたびに丸太のその部分が大きくえぐれて消えていく。
恐ろしい光景であった。それが自分の顔であったらと考えると、イアソンは足が震えた。実際、すぐにその想像は現実へと変わるのであるが。
アミュコスの顔に浮かぶ喜悦の表情を見て、命乞いが無駄であることも良くわかった。
神の力を持って生まれた半神半人は自我が極大まで肥大することが多い。自分は神であり、周囲の人間はただ壊して遊ぶための玩具だとの認識に到達するのだ。そしてそれは後ろ盾となる親神が強大であればあるほどひどくなり、その精神は幼稚なままで大人となる。
その見事な例が目の前のアミュコスだ。
命乞いなどすれば、喜んで嬲り殺しにしてくれるだろう。かと言って正々堂々正面から挑めばやはり殴り殺される。逃げ回れば罵倒され侮辱された挙句にアミュコス王の親衛隊に捕まって殺される。万に一つの奇跡が起きてアミュコス王を打ち倒したりすれば、ポセイドン神がやってきて叩き殺される。
他に何かまともな死に方は無いかと心の中で探ってから、残るは舌を噛んで自殺するぐらいだと気付き、イアソンはうんざりとした。
唯一正解とも言えるものがあるとすれば、時間稼ぎをしている間にこっそりと街に出て、街の女と遊ぶぐらいだったなと考えて、またもやイアソンはうんざりとした。これでは英雄的な思考とは大きくかけ離れている。
とうとう全員が死の行進を終え、闘技場のリングの上に押し上げられた。ずらりと並んだ男たちをじっくりと眺めてから、アミュコス王が感想を漏らした。
「なんだ。アルゴ号にはギリシア中の英雄が集められたと聞いていたのに、どれもひょろっとしたもやしばかりじゃないか。リーダーは誰だ」
気が遠くなりそうなのを堪えて、イアソンが一歩前に出た。
「イオルコス国の王子イアソンだ。アルゴ探検隊の隊長を務めている」
ついでに王子としての待遇を要求する。まずはこの馬鹿げた試合のメンバーから外してもらいたい、と言いかけてイアソンは言葉を飲み込んだ。アミュコス王の赤く血走った目を覗き込んでしまったからだ。
一瞬で判った。理屈が通用する相手ではないと。人間をいたぶり殺すことに愉悦以外の何物をも感じない生き物の目だ。
アミュコス王はイアソンを上から下までじろじろと見まわした。
「あんた、あんまり強そうには見えないな。その名前も聞いたことがないし」
ふん、と鼻で笑った。
そのときだ。
闘技場を取り巻く人の輪に乱れが生じた。人の塊がまるごと横に押しやられて、何かでっかい人間らしきものが割り込んだ。アミュコス自身からは真後ろになるのでその騒ぎには気づいていない。
かがり火に囲まれて闘技場だけが明るい。周囲の闇の中で、またもや人垣に強引に道が作られて、そいつが割り込んで来た。
アミュコスが背を伸ばすと両手を大きく宙に掲げ、大声で叫んだ。
「この中で一番強い奴はどいつだ。真っ先にそいつを倒してみせよう」
「後ろだよ」イアソンの横にいた舵取りがアミュコスの背後を指さした。「あれがうちの船に乗ったことのある英雄の中で一番強い奴だ」
アミュコスが振り向くのと、リングの上にヘラクレスが飛び乗るのとが同時だった。ヘラクレスの体重でリングが大きく揺れた。リングどころか、闘技場そのものが揺れた。アミュコスも巨漢だが、ヘラクレスもそれに輪をかけて大きい。そして半神とは言えその身に満ちる神の力が、より一層の重みを作り出している。
「ちっとはできるようだな。だがそれもここまでだ」アミュコスが両拳を構えた。「お前の名前を聞く閑が無いのが残念だよ」
アミュコスの拳がヘラクレスの顎へと飛んだ。
固いものが、もっと固いものにぶつかる音がした。神の力がもっと強い神の力と衝突した音だ。
「名前なら教えてやるよ」そっと後ずさりしながら舵取りが叫んだ。
「へらくれす、って言うんだ」
ヘラクレスの拳が振り回された。アルゴ号の乗組員たちが全員逃げ出した。
そして、アミュコス王の首が変な形にねじ曲がった。
王を助けようと周囲で見守っていた親衛隊が、自分たちの相手がどんな怪物なのか知りもしないで、ヘラクレスの下に殺到した。アミュコス王に虐げられていた見物人たちも立ち上がり歓声を上げる。イアソンたちは見物人の中に飛びこむと、後ろも見ずにアルゴ号目指して逃げ出した。
「俺から逃げられると思うなよ!」どこから出したのか血塗れの棍棒を振り回しながらヘラクレスが叫んだ。
船に逃げ帰ると、海神ポセイドンが船首の女神像と話し込んでいるところだった。ポセイドンは海からその巨大な顔だけを突き出している。
「そういうわけで、皆で一致団結してあの嫌な英雄のヘラクレスを途中の島に置き去りにしたんです」
女神像が説明を中断すると、息を切らせて船の甲板に駆け上がって来たイアソンを冷静な目でみつめた。
「そんなに慌ててどうしたのです?」
実は何が起こっているのかを薄々と察知している女神像が水を向けた。
「へ、ヘラクレスが出た」息も絶え絶えにイアソンが答えた。「俺たちを皆殺しに来る」
「アミュコスの旦那は可哀そうに」舵取りが合いの手を入れた。
「わしの息子がどうしたって!」
世界を満たしかねない大音響がとどろいた。いまや上半身を海から持ちあげてポセイドンが睨んだ。
「ヘラクレスです。ヘラクレスがアミュコスの旦那を」
しどろもどろになりながら、舵取りは見事に現実を歪曲してみせた。
「アミュコスの旦那は、おいらたちを守ろうとしてヘラクレスの前に立ちはだかったんでさ。それで・・」
「それで?」闇の中でもはっきりと判るぐらいに、ポセイドン神の顔が怒りで赤くなっている。
「ヘラクレスが怒って・・」
「ヘラクレスが怒って?」
「アミュコスの旦那を・・」
「息子を?」
「殺したんでさあ」そこまで言うと舵取りは逃げ出した。
『なんだと!』
天地が揺れた。その逆に海は静まり返った。自分たちの主の怒りの矛先が向けられるのを恐れるかのように。
今やポセイドンの巨体の上半分が海から立ち上がっていた。夜の黒の中に、夜光虫に照らされたその巨体が浮かび上がる。その手に握られた三叉鉾がアルゴ号に近づき、初めてポセイドン神の本当の巨大さが判った。三叉鉾の柄の太さだけでも優にアルゴ号を越えている。
憤怒の瞳がアルゴ号に向けられる。
「アミュコス様はあんなに良いお人だったのに」
航海長が大声で泣き始めた。すぐに舵取りが追従した。
「おらたちをヘラクレスの暴挙から守ってくださっただ」
イアソンにもどうすればいいのかは判った。今や天を覆わんばかりにアルゴ号にかぶさっているポセイドン神に向かって叫ぶ。
「それで怒りが静まるならば、どうか私たちを殺してください。ポセイドン神よ。アミュコス様に救われたこの命、惜しくはありません」
ポセイドン神の持つ三叉鉾がアルゴ号に近づき、離れ、また近づいた。ポセイドン神は迷っていた。
「あんな素晴らしいお方はいません。寛大で寛容で優しかった」
イアソンが畳みかけると、残りの乗組員たちも口ぐちにアミュコス王への賛辞を口にした。ポセイドン神の視線がアルゴ号から外れて、島の奥へと向いた。その巨体がずいと前に出る。
「何をなさるおつもりです。ポセイドン様」女神像が叫んだ。
「知れたことよ。ヘラクレスめを叩き潰し、息子の仇を取るのよ」怒気を含んだ声でポセイドン神が答える。
「いけませぬ。ポセイドン様。ヘラクレスはゼウス様の寵愛する息子。それを殺したとなれば、ポセイドン様との間で天界を二つに分ける大戦争が起きます」
「知れたことよ。元よりその覚悟はある」
ポセイドン神は勇猛に答えたが、その声の中に僅かに脅えが混ざっているのをイアソンは聞き取った。
「それとも何か。お前はあのゼウスごときに、海の支配者であるこのワシが負けるとでも言いたいのか?」
ポセイドン神がアルゴ号へと身を屈めた。海水がしたたる髭面がアルゴ号の上空一杯を埋めた。
「そんなことは言っておりません」毅然とした態度で女神像が答える。「ですが、ゼウス様と戦えばいかなポセイドン様とて無傷ではすみません。そしてお二方が傷つけば、あのお方が出てきます。世界を手中に収めるために」
「あのお方とは、どのお方だ」
がちがちと脅すかのように歯を鳴らしながら、ポセイドン神が訊く。
ここで初めて女神像はポセイドン神の目を真っ向から見据えた。
「冥界の王、ハデス神です」
ポセイドン神だけではなく、その場に居た全員が唖然とした。
「ハデス神だと!」初めてポセイドン神の顔が怯んだ。「どうしてハデスがここで出て来る」
冥界を統べる神ハデスは神々の間でさえ気味悪がられている存在だ。
「お互いに戦って力尽きたポセイドン様とゼウス様を倒す。これこそがギリシアの天界の唯一の支配者となるチャンスだからです」女神像は指摘した。
「そんなことがあるものか」自分の言葉を裏切るかのように、ポセイソン神は目を反らした。「やつにそんな野望は」
「野望は無いと言えますか?
ハデス神がペルセポネ女神をどうしたのか考えて御覧なさい」
ハデス神は自分が一目ぼれした花の女神ペルセポネを地上から拉致して妻としたのだ。そのため激怒した豊穣の母神のデメテルがもう少しで地上の生きとし生ける者、神々でさえも餓死させるところだった。
「あのお方はチャンスだとみれば躊躇いません」女神像がここぞとばかりに指摘した。「ヘラクレスを殺すのは容易いでしょう。しかしそれは神の座と引き換えとなる選択です」
最初イアソンは空から塩辛い海水が降り始めたのだと思った。だがしかしそれはポセイドン神の目から溢れる涙であった。海から上がりかけていたポセイドン神の膝が海へと落ちた。うなだれたポセイドン神の唇から、うめき声が聞こえて来た。
「わしは。わしは神だぞ。それなのに、息子の仇を取ること一つできないのか」
アミュコスのような馬鹿息子を溺愛するどうしようも無い親馬鹿だとは思うが、それでもイアソンはポセイドン神に同情した。人も神も、親心という点では少しも変わりないのだと、ほんのわずかだが感動すらイアソンは覚えた。
「仇を取ることはできますとも」怪しい笑みを浮かべて女神像が言った。「要はポセイドン様のお名前が外に出なければ良いのです。例えば貴方様の手の者をこっそりと送りだしてヘラクレスの奥さんを買収するとか」
これにはポセイドン神も驚愕の表情を浮かべた。所構わず落下していた涙の塊が止まる。
「女の手であの巨漢のヘラクレスが殺せるものか」
「できますとも」女神像は断言した。「ヘラクレスとて、不死身ではありません。ヒドラの猛毒を染み込ませた下着を騙して着せるなどどうです? いかに神の力を持つあの男と言えども耐えることはできないでしょう」
数秒間ポセイドン神の動きは止まっていたが、やがて海の中に戻ると、再び上半身だけを海の上に浮かべた。
「そなた、まっこと賢い」ポセイドン神が感想を述べた。「他人を利用してこっそりと目的を遂げるなど、誰も考えつかぬぞ」
同じことが自分の息子に対して行われたばかりだとは想像もつかなかったようだ、とぼんやりイアソンは考えた。もし気付かれていれば、アルゴ号もアルゴ探検隊も今頃は海の藻屑となっていただろう。
絶大な力を誇る神であればこそ、物事を考える習慣を持たないのだと、イアソンは気付いた。大概のことは力押しで解決するから、そもそも頭を使う必要はない。とすれば何の力も無い自分のような英雄未満の存在は、人一倍頭を使わなくては生きることも覚束ないのだと、初めて洞察の光を得てイアソンは身震いした。
「旦那あ。俺たち、ヘラクレスの暗殺謀議を聞いてしまったことになりやすぜ」舵取りが情けなそうに言った。
「聞いていない、聞いていない。俺は聞いていないぞ」イアソンは自分の両耳を塞いでみせた。「お前、何か聞いたのか?」
「ひえ。あっしも何も聞いていないです」舵取りは慌てて否定した。
街の方から騒ぎが近づいてきてイアソンは夢想から覚めた。アルゴ号に乗り遅れまいと必死の形相で駆けて来る船員の後ろから、大きな人影がこれも大きな棍棒を振り回しながら追って来ている。
「来たぞ! ヘラクレスだ!」誰かが叫んだ。
海から突き出したポセイドン神の顔がみるみる内に険しくなる。
「いけません」女神像が叫んだ。
「しかし」ポセイドン神が答えた。
手にした三叉鉾の先がヘラクレスへの怒りと憎しみで震えている。
「もっと良い方法がありますわ」女神像が片手を上げ、迫りくるヘラクレスを指さした。「彼を殺すより、生かして苦しめるのです」
「どういうことだ」とポセイドン。完全に彼女の言いなりだ。
「ヘラクレスが我がアルゴ探検隊を憎むのには理由があります。これまでギリシアで行われた最大の冒険はすべてヘラクレスの業績です。しかし、もしアルゴ探検隊がヘラクレス抜きで冒険を成し遂げたりすれば、彼が今までに成した全ての業績が色褪せてしまいます。ヘラクレス無しでも大冒険が可能だと皆が知れば、彼はギリシア随一の大英雄から、粗暴なだけのただの男になるということです」
「よくわからんぞ」
「わたしたちを助ければ、それが彼の名誉を潰すことになるのです。普通の人間がヘラクレスに勝ったことになります」
話を理解するにつれて、ポセイドン神の顔に光が射した。
「そうか。それは、神々がただの人間にまで落ちぶれるのと同じことだ」
「そういうことです。だから彼の目の前から私たちを連れ去ってしまえば」
「奴にはもう安眠できる夜はなくなるということだな」
ポセイドン神が手を伸ばすとアルゴ号まるごとを海からすくいあげた。
「やめろ! それは俺の獲物だ!」
血塗れのヘラクレスが叫んだ。手にした棍棒を力任せに投げたが、船はすでにポセイドン神の腕の中だ。アルゴ号に大穴を開けるはずの棍棒は空しく海に落ちて水しぶきを上げただけに終わった。ぎりぎりと鋼線をこすり合わせるような音を立てて、ヘラクレスが歯ぎしりをした。
「返せ。戻せ。くそ! 俺から逃げられると思うなよ。かならず皆殺しにしてやる」
ここに来て、初めてポセイドン神が笑みを見せた。どことなく底意地の悪さを含んではいるが、心の底からの愉快そうな笑顔だった。
アルゴ号はポセイドン神の助けを得て、恐ろしい速さで島を後にした。
振り落とされまいとアルゴ号にしがみついたまま、イアソンがため息をついた。
「なんだか逃げるのだけが上手くなった気がする」
それを聞いて舵取りが笑った。
「それでいいんですよ」
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