第4話 英雄たちとの別れ


 英雄色を好みとの諺があるが、実際は酒も好む。それでなくても大食漢に大酒飲みが揃っている英雄たちが、毎日船の上で飲むや歌えの大宴会をやっているのだからたまらない。

 港を出てわずかに三日で、まず最初に酒が尽きた。

 英雄という連中は酒が入ると手がつけられなくなるが、酒が尽きるともっと手がつけられなくなる。ましてやここは海の上である。追加の酒を手に入れる手段が無い。

 むっつりした不機嫌な雰囲気の中で、今度は大食い競争が始まった。酒が飲めないなら飯を食え、である。

 程なくして船の食事係が、このままでは次の寄港地までに食糧が尽きて皆で餓死することになると宣言した。

 こんなときはもう打つ手が無い。船の上で釣れる僅かな量の魚など、英雄たちの胃袋の前には何ほどのものでもない。食べがいのある大きな海の怪物でも襲って来てくれればいいのに、船の上の英雄たちが放つ『食ってやるぞオーラ』を感知でもしたのか、尻尾ですらも見せない。

 大宴会から一転、鬱積した怒りの胎動を秘めたまま、急かすことのできない風まかせで、船は驚くほどのろのろと前進していた。

 やはりというべきか何というべきか、最初に揉め事を起こしたのはギリシア最大の英雄のヘラクレスだ。彼はこの探検隊の隊長であるイアソンの地位と真っ向から対立した。

 神々の王たるゼウスの子という名門の血筋に加えて、英雄としての業績も群を抜いている。体格も怪力も人望も名声も、ギリシアの片田舎の街の王子であるイアソンの比ではない。しかも王子とは言っても、イアソンはその他大勢の王子の中の一人で、それすらも王位継承権を考えれば、他の平民よりも少し上という程度でしかないのだからどうしようも無い。そもそも王位を継ぐ可能性が高ければ、こんな命知らずの航海に送りだされることは端から無かったはずである。

 この航海が成功すればイアソンも一人前の英雄として扱われるようになるのであろうが、今この時点ではイアソンは本当に只の人であった。大英雄ヘラクレスとは天と地ほどの開きがある。

 最初はそれなりに大人しくしていたヘラクレスだが、やがて周囲の人間の畏怖を元にして、船の上で王様と見まがうばかりの態度を見せ始めた。朝から大酒を飲み、連れて来た若者の尻を撫で、大声で下手くそな歌を歌っては周囲の人間に拍手を強要した。その振る舞いに媚びるかのように他の情けない英雄たちが集まる一方で、北風の子カルックにポルックスのような小神の子供たちはヘラクレス一派に対抗する勢力を作りだした。

 ここでヘラクレスの下につけば、どんな手柄を立てようがそれはヘラクレスの偉業に追加されるおまけの一節にされてしまう。だが頑張って自分の立場を貫けば、酒場で吟遊詩人が歌うバラッドの主人公にして貰えるかも知れないという小神たちの命懸けの挑戦である。

 この英雄たちの中の亀裂が顕在化したのは、ヘラクレスが船の名に文句をつけたときだ。

 これからはアルゴ号ではなくヘラクレス号と呼ぼうとの提案が、アルゴ号の建造主であるアルゴスを激怒させた。

 アルゴ号に使っている装具などはイオルコス王の出資、つまりはイオルコスの民が払った税金なのだが、船の大部分を占める木材はアルゴスが大事にしている自分の領地の森から切りだして来たものだ。おまけにその建造に使役された労働者のほとんどは他のギリシアの都市から提供された戦争奴隷の人々なのだから、所有権の問題はさらに複雑になる。だがどこをどう解釈してもイオルコス王の王宮でタダ酒を飲んでいただけのヘラクレスに船の名前を付ける権利は無い。

 結果として、ヘラクレスとアルゴスとイアソンとその他の英雄たちとの間での政治闘争が勃発した。

 ヘラクレスはその英雄としての能力の高さから真っ向勝負だ。彼らならば確かに、行く手にはばかる難事をその怪力だけで解決することが可能だし、現に今までもそうして来た。陰に日向に彼に付きまとう神々のサポートも捨てがたい魅力である。

 アルゴスはもちろん、この船の権利を持っており、彼をこの船から引きずり降ろして、残りがのうのうとアルゴ号に乗っていることなんかできはしない。それより大事な事はアルゴスは金の羊毛皮をコルキスに渡したプリクソスという人物の孫であり、つまるところこの旅の目的である金の羊の毛皮の所有権という観点からは絶対に外せない人物でもある。

 イアソンはもちろんこの冒険の提唱者であり、全体のリーダーだ。薄い血のつながりとは言え、冒険のスポンサーのイオルコス王の子供なのだから、彼に権利が無いなどとは誰も言えない。

 その他大勢の小英雄たちも外せない鍵だ。彼らの持つ特殊能力はどれもヘラクレスのようなパンチ力にはかけるが、柔軟性があり、問題解決の糸口ともなる。ヘラクレスは強いが、空を飛ぶことはできないし、水に潜ることもできない。

 四つの勢力が睨みあっている間、船は風任せで進んでいたわけではない。英雄たちの小競り合いはともかく、普通の人間たちは船の面倒を見ていた。毎日甲板を洗い、帆を張り直し、舵を取り、水深を測って浅瀬を避け、船首の女神像とお喋りを楽しんだ。

 万一のことを考えてアルゴスが密かに取り付けておいた秘密の食糧庫から保存食を出し、英雄たちに見つからない場所でその乏しい保存食をこっそりと食べた。

 英雄たちは食事を分けてはくれなかったので、もしそうでなければ人間の乗組員たちは飢え死にしていたであろう。


 やがて長い船旅もようやく尽き、最初の寄港地についた。

 さっそくヘラクレス一行が飛び降り、この地の支配者の館へと向かう。そこで乾いた喉を潤おすためのタダ酒を集るためである。

「やれ、重かった」船首の女神像が呟きを漏らした。

 残された連中がそっと目配せをすると、街の市場へと走る。市場にあったありったけの食糧と水を慌てて積み込むと、すぐに帆を上げて出港した。ヘラクレスを置き去りにしたのである。

 久しぶりの酒で寝入っていたのかヘラクレスは追って来なかった。あるいはもしや、酒も食い物も無い船旅にうんざりしていたのかも知れない。


 次の寄港地についたとき、反ヘラクレス派の小英雄たちが船を降りると言いだしたのでイアソンは慌てた。

「俺たち、調子に乗りすぎたようだ」風の小神のカルックが説明した。

「ヘラクレスは執念深いんだ。恨みは絶対に忘れない。一か所に固まっていたら必ず見つかって殺される。俺たちはこれからバラバラに逃げることにするよ」

「あいつはかっとなって自分の女房と子供を殺したこともあるんだ」カルックの兄弟のポルックスが指摘した。

 もうこうなるとイアソンには誰も止められない。アルゴ探検隊を見捨てたという罪悪感に囚われないうちにと、半神の英雄たちはたちまちに姿を消した。

 後に残されたのは茫然としたイアソンと何かを考えている顔つきのアルゴスだけだ。

 次の寄港地目指して船を進めている間、アルゴスは船の舳先に座り込んで一心不乱に何かを考え込んでいた。ときたま船首に飾られた女神像と短く言葉を交わすだけで、その他の誰とも関わろうとはしなかった。

 彼の全身に点在する目が近づく者を睨むので、やがてイアソンですら彼に話かけようとはしなくなった。


 次の寄港地に着くとアルゴスは立ちあがった。

「おれっちはここで降りるよ」アルゴスは宣言した。

「おれが我儘だった。あいつの言う通りヘラクレス号と名付けさせていればこんなことにはならなかったのに」

「私はアルゴ号のままがいいわ」女神像が口を挟んだ。「ヘラクレス号なんて汗臭い名前は嫌」

「とにかく、おれっちはここで降りる。またどこかの森に棲みついて船大工でもやるさ。この船の権利は、イアソン、お前さんに譲るよ。イアソン号とでも改名してくれ」

 アルゴスは船倉から大工道具を取り出すと、筋肉が盛り上がる肩に担ぎ上げた。

「だけど君がいなければ黄金の羊の毛皮の所有権と言うものが」

 必死にイアソンは引きとめた。何せアルゴスはこの船に残されたただ一人の英雄だ。

 アルゴスはその幅広い大きな手をイアソンの肩の上に置いた。

「あんたがプリクソスの孫ということにすればいい。爺さまのことについちゃ、今まで散々話したよな。それを相手に言えば、十分にプリクソスの孫として通用するさ」

 それじゃ、あばよ、と手を振ってアルゴスは去った。


 遂に船からは半神の英雄が一人もいなくなった。

 残されたのは未だ英雄ではないイアソンと、船の下働きをやって来たごく普通の人間だけだ。

 俺たちこそがアルゴナウタイ。これから始まるアルゴ探検隊の名も無きメンバーだ。

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