第5話 ザニンガムの場合


 白のケープの裾を翻しながら、調査委員ザニンガムは魔術師ギルドの本部の扉を通り抜けた。

 ミッドガルド界の中央に位置するヘイムダル大陸の魔術師ギルド本部は、威容を誇る巨大建築である。実際にはこの建物は三つの建造物の混成である。建物の右側は光の側の、左側は闇の側、そして中央を成すのは黄昏の側という、魔術師ギルドの三つの勢力を示している。いずれも磨きこまれた大理石で作られた美しい建物であり、また同時に難攻不落の要塞でもある。

 ザニンガムが進んでいるのは、これらの巨大建築物の手前に作られたやや小振りの建物であり、これらの三種類の勢力のどれにも所属していない。魔術師調査局は魔術師ギルドの一部ではあるが、内部監査を主目的とした部署なのである。つまりは、魔術師ギルドの中での嫌われ者ということになる。

 だが、その権限は決して低くはない。罪を犯した魔術師を逮捕するのがその仕事なのだ。そのためにあらゆる公共部門を動員する能力を持っている。

 権力を揮う快感。それこそがザニンガムが魔術師調査局に勤めている理由なのだ。

 塵一つ落ちていない廊下を、背筋をぴんと伸ばして歩く。魔法の照明が本来は薄暗いはずの廊下を明るく照らしている。清潔で、規律正しく、美しい。これこそが、自分が生きるべき場所なのだとザニンガムは感じていた。

 開けっ放しになった入り口を抜けると、机の上にうずたかく積まれた書類の中に埋まっていた痩せぎすの青年が、ザニンガムの足音を聞きつけて顔を上げた。

「おはようございます、ザニンガムさん」

 本来ならザニンガム調査委員と呼ぶべきところだ。不快さを眉の辺りに浮かべながら、ザニンガムは青年の顔を見つめた。この部屋の雑然とした様子はいったい何だ。怒りがザニンガムの心に湧きあがった。

 敵意のこもった視線を避けようと、あわてて青年が書類の束に手を伸ばす。きわどいところでバランスを保っていた書類の山が崩れ始めた。

 青年が小さな悲鳴を上げる。

「うわあ。すみません。そこ、崩れないように抑えてくれませんか。徹夜で整理したんです」

 ザニンガムは指一本動かさなかった。冷たい目で青年を見つめるばかり。一言だけつぶやいた。

「それはわたしの仕事ではないな」

「そんな」

 もう、駄目だ。青年の手の下で、書類の山が滑り、崩れ、撒き散らされる。

「ああ、なんてことだ。全部やり直しだ」青年は頭を抱えた。

「それがわたしのせいだとでも?」ザニンガムは轟然と言い放った。

「ええ、あの、そんなことはありません」青年は言った。

「そうだろう。それといくら徹夜をしたと言っても、ローブの首のところはきちんと結んでおくものだ。調査局の規則を読んだことはないのか。就業時間中には正しい服装をしなくてはならないと書いてあるだろう」

 ザニンガムは指摘した。

「すいません」この程度のことでと思いながらも青年は謝った。

 ザニンガムは魔術師調査局の中でも、相当高位にある人物だ。おまけに石頭で偏見に満ちていて、もっと悪いことに報復人事を平気でやる男なのだ。下級職員の密やかな憎悪の対象とされてはいるが、勝つのはいつもザニンガムの方だ。

 下手にこの人物を刺激すれば、ただでさえ少ない給料を減らされてしまう。今週の予言には何とあった? 高い地位にある人物には逆らうことなかれ、だ。

「わたしに謝る必要はない。規則に謝るべきだ。このことは報告しておくぞ」

 ザニンガムは廊下へと続く扉へと向かった。

「そんなあ」そう言ってから、青年は脇にどけておいた書類を手に取った。

「そうだ。ザニンガムさん。ええと、調査委員ザニンガム。ここに面白い報告があるのですが」

「またつまらない調査報告だろう」

 ザニンガムは扉に手を触れた。扉の魔法が働き、ザニンガムを識別する。

 〈調査委員ザニンガム本人と認める。致死型攻撃魔法解除。通してよし〉

 扉が開いた。

「興味をお持ちだと思うのですが」青年は答えた。「トバリという名の街をご存じですか? その近くにある妖精の森と呼ばれる地方での事件報告です」

 ザニンガムの動きが止まった。その体が、磨きぬかれた靴の上できれいに回転し、青年の方を向いた。

「妖精の森だって? 知っているぞ。まさか。ファガスたちがまた事件を起こしたとでも?」

 青年の顔に初めて勝利の色が浮かんだ。

「そうかもしれませんね。まあ、ここに報告書のまとめがあります」

 ザニンガムの伸ばした手が、獲物を襲う蛇のように素早く動くと、青年の手から書類を奪い取った。それを読むのが待ちきれないとでもいうように、ザニンガムは急ぎ足で開いた扉を抜けた。

 青年があわてて言った。

「ザニンガム調査委員。あの。ぼくの服に関しての報告は?」

 閉まりかけた扉の向こうから、ザニンガムの厳しい声がとぶ。

「きみはきみの仕事を果たしただけだ。わたしはわたしの仕事を果たす。報告はしておくよ。まあ、第二級始末書ですましてあげよう。次からは気をつけなさい」

 扉が閉まった。

 足音が遠ざかったのを確認してから青年はつぶやいた。

「ローブの胸を止めていなかっただけで、第二級始末書だって! なんてやつだ。石頭のザニンガムめ」

 汚いジェスチャーを一つ、扉に向けてやって見せると、青年はまたもや書類との格闘に戻った。


 自分の執務室の中で、ふむ、と小さくつぶやきながら、調査委員ザニンガム・ウルフェウスは書類をめくった。

 奇妙な事件だ。

 妖精の森の周辺にある住宅地で、深夜にいきなり魔術製品の故障報告が相次いだのだ。

 市場で、家庭で、作業場で、あらゆる種類の魔術具が、動作不良におちいる。調理用の火付け具は発火せず、遠話装置も何も語らなくなった。一部では手紙を配達している最中の運び鳥が墜落するなどの被害まででたほどだ。

 これらの故障はすぐに復旧したが、決して見過ごしてはおけない影響を残した。

 魔術師ギルドが作る製品への信頼問題である。これを放置しておけば、魔術師たちの生計に甚大な被害がでかねない。ただでさえ、石工ギルドや木工ギルドが、魔法に頼らない便利で安い道具というモットーの下に、派手な売りこみにかかっている最中なのだ。

 被害報告は集められ、素早くまとめられた。そして最優先で魔術師本部の調査局へと送りこまれたのだ。

 資料にざっと目を通したザニンガムにはその原因がすぐにわかった。

 すぐれた知性の働きではなく、驚くべき深さでその心に巣食っている偏見のおかげで。

 事件の発生した地域はきれいな円形の範囲に広がっている。その中心にあるのは、妖精の森と呼ばれる地域。

 小人族の血を引く魔術師ギルド員ファガスが住んでいる場所だ。

 人間族至上主義教会派の秘密会員であるザニンガムは、素早く残りの資料に目を通した。

 残念。巨人族のラングが住んでいる場所には、被害報告が出ていない。二人の共謀の線はこれで断たれた。

 いや、それでもきっと何らかの関係性があるはずだと、ザニンガムは思い直した。

 なぜならば、巨人族と小人族というものは、どちらも出自の怪しい種族なのだから。古代魔法王国時代には、神々と対抗していたこともあるのだ。アサ神族のヘイムダルの血から生まれた人間種族とは、その神聖さには天と地ほどの開きがある。そうザニンガムは信じこんでいた。

 もちろん、ザニンガム自身は人間だ。小人族や巨人族の血を引きながら、人間族至上主義教会派に入るようなマゾヒストはそうそう存在するものではない。もっとも、そういった自虐趣味の輩は、教会に入ることはできても、出ることはできないだろう。出るとしたら棺桶に入ってだ。ザニンガムはそのアイデアにニヤリとした。

 ザニンガムはやや中年にさしかかってはいるが、それでもまずまずのスタイルを維持している。着る物には細心の注意を払っていて、落ち着いていて、なおかつ活動的な人物という印象を周囲に与えるのに成功している。調査委員という役割に会わせて、己の信念に忠実という評判を保つようにも努力している。

 自分では厳正なるという言葉を使うが、その実、周囲の人間は彼を頑固な石頭と見なしていた。

 本人は気づいてもいなかったが、それこそが彼の出世の秘密であった。頑固で融通が効かず、仕事熱心で、おまけに偏見に満ちている。他人を攻撃しようと思えば、ザニンガムを使えばよい。上には篤く、下には厳しい。物事の理非よりも、まず見かけに捕われる。腹に一物もった人物にとっては、ザニンガムはまさに使い捨てできる便利な道具であった。

 そして、そのザニンガムはいま、ラングとファガスの書類を手にして、難しい顔で考えこんでいるところであった。ザニンガムにしては珍しくも、自分の意思で問題に取り組んでいる。

 ラングとファガス。どちらも初めて見る顔ではない。バイキング運送に絡む事件で、この二人の顔は良く覚えている。あの事件は、山一つ分の木材を横領したという罪で、二人を魔術師法廷に引出しかけるところまで行った。あと、もう少しで、この二人を封印刑に送りこめていたところだったのだ。

 小人族と巨人族の取り合わせ。ザニンガムは顔をしかめた。世界の富の大半を握っている小人族と、蛮族そのものといった巨人族のコンビだ。どうせまた人間種族に対して何かよからぬことをするために手を組んでいるのにちがいない。そもそも、このミッドガルド界には、人間以外の種族が棲む余裕などどこにもないのだ。

 広範囲に渡る魔術製品の不調。確かにどこかで聞いたことのある現象だ。

 ザニンガムは記憶の底を探った。幸い、自分の職務に関しての記憶は悪くないほうだ。

 そうそう、以前に地下邪教集団の一つが、世界を滅ぼすという魔神を呼びだそうとしたことがあった。あのときも周囲で魔術製品の故障報告が相次いだ。結局は成功しなかった召喚でも、儀式のたびに周囲に巻き散らされる魔法攪乱効果は無視できない。遠話装置は見知らぬ相手につながるし、発狂した魔法の暖炉は部屋の中をまるごとオーブンに変えてしまう。

 まさか。ザニンガムは真剣な顔つきになった。

 今回のこの事件も魔神召喚に関する副作用だとしたら、問題は単純じゃない。そもそもこの種の召喚魔法は、禁じられた魔法なのだ。人が死に、街が滅びる。そんなことを望む魔術師は、魔術ギルドそのものの手で処刑されることに決まっている。それが法というものなのだ。

 とんとんと神経質そうに執務室の机を指で叩きながら、ザニンガムは考えた。これは調度良い機会だ。この二人を首切り部屋に送りこむことができる素晴らしい機会かもしれない。

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