第4話 増殖
満月はついに天頂に差しかかりつつあり、すでに地上は溢れ返らんばかりの魔力に満ちつつあった。大地と月こそは魔力を生み出す鍵だ。皮膚がぴりぴりとするこの感じが、ベスは好きでなかった。何か別のものが、自分の頭の中に侵入しようとしているような感覚に襲われるからだ。
大きく一つうなると、ラングが覗きこんでいたルーン円盤から顔を上げる。
「とても信じられない。魔術方程式によれば、確かにこれはファガスの言った通りの動作しかしない。ただし、解読できる範囲ではの話だ」
「どういうことですの? 先生」ベスは聞いた。
「つまりはこうだ。ここからこの範囲」
そう言いながら、ラングはその太い指を動かしてルーン円盤の表面の一部をなぞった。
「この範囲には指輪の特性が記述されている。魔術方程式そのものは、表記法こそ違え、現代のルーン術式とかなりの共通点がある。それによるとこの指輪の動作はファガスが説明した通りとなる。一定の起動条件が揃えば、この方程式は作動装置、つまりは自分自身を完全にコピーする。元が金の指輪ならば、新しい金の指輪が産み出されるわけだ。重量は完全に同じ。材質も完全に同じ」
ラングの指がそのまま円盤上を滑ると、別の彫りこみの在る所で止まった。
「問題はここだ。ここにはこの指輪の使用方法が記述されている。あるいは注意書だな。この部分は全く不明だ。ええい、ルーン円盤の悪い癖だな。品物を構成する魔法理論の部分は比較的にわかり易いのに、さて、その使い方となるとさっぱりだ。
それに魔法理論自体も、自分をコピーする部分ははっきりしているのに、他の部分は曖昧なままだ。きっと魔術に関する何か恐ろしく深い部分に触れているに違いない」
それに対して、ファガスは軽快な口調で答えた。
「動作ははっきりしているのだから、使い方も何もないさ。きっとそこにはこう書いてあるのに違いない。あんまり欲張るな、ってな」
「何を馬鹿なことを言っている。ファガス。少なくともこれは武器として使われていたのだぞ」
ラングの指が、ルーン円盤の上で今も赤く輝いている部分を指差した。赤は武器を表す識別色だ。
「簡単に言うならば、ここに描かれている魔法は、錬金術と言うよりは物質複製術だ。ただその装置となるのが金の指輪だから、結果として金の指輪が複製される。元となる物質は不要。魔法が働くたびに新しく金の指輪が作り出される。だがどうやったら、これが武器になるんだ?」
ファガスは首を振ると、ラングの懸念を笑い飛ばしてみせた。
「武器さ。もちろん。こいつはきっと錬金術の決め手として使われたんだ。黄金の無限増殖。いいか、ラング、金銭感覚の鈍いお前さんにもわかるように説明してやるが、黄金を無尽蔵に創れるとしたら、あるいは黄金が無尽蔵に創れるのだと誰もが知ったら、金相場の間にどれだけの恐慌が引き起こされるかわかるか。恐らくそれは既存の兵器を凌ぐ威力を発揮するに違いないんだぞ」
「確かにそうだ」ラングは頷いた。
「魔術評議会が抑えこんでいる神々の武器ほどでは無いにしろ、それが敵国に与える打撃は凄まじいものだろう。基軸通貨が一瞬にして価値を失うのだからな。だが、こいつは諸刃の剣だぞ。自分の国の経済も混乱させる。それに、ファガス。お前さんが錬金術に成功したと知れば、王国の連中が逮捕に来るのは間違いがないぞ。王の城の地下室で、一生の間、黄金作りに従事させられるつもりなのか?」
「黙っていればいいのさ。ここにいる全員が。もちろん、分け前は払うつもりだし、それもたっぷりとだ。
いいか、ラング。お前さんが納得したように、こいつは爆発するものでもなければ、手近の人間に呪いをかけるような類のものでもない。さらに言うならば、拷問組合が発注した自動指抜き拷問器ほどの危険性もない。
これでも実験は止めろというのか?」
ファガスは小さな腕を自分の腰に当てると、まっすぐに自分の上にあるラングの顔を見つめた。
ラングはしばらく考えていた。
トラブルの予感がする。
それも強烈なものがだ。
目の前にいるこの小人族の人物が、どれほど凄まじいトラブルメーカーなのかは、エストリッジ教授の元で一緒に弟子を務めていた頃からよく知っているのだ。
かと言って、ファガスの実験に付き合わねば、彼は一人ででも実験を進めてしまうだろう。そういう人間なのだ。ファガスは。そしてその結果は、手遅れとなってから、ラングのところに流れこむ。
ではここでファガスを捕まえて、両手両足を縛っておくというのはどうだ?
ラングはファガスを見つめ返した。
駄目だ。直感がそう告げた。両手両足を縛れば、自分の舌を使ってでもファガスは実験を進めてしまうだろう。一度始まったファガスの暴走を止める手段はこの世には存在しない。せいぜいその手綱をうまく取って、手遅れにならないうちに軌道を修正するぐらいしかできないのだ。
ついにラングは折れた。
「わかった。実験をすることは認める。だがその前に、その指輪の周りに魔法防御場を張らせてもらうぞ。
それと、ベス」
「なんですの。先生」ファガスの手にはまった指輪に魅入っていたベスは顔を上げた。黄金という金属には独特の魔法の力がある。それは人の心を奪うのだ。
「きみと、そうだな。パット、それにバイスターは一時的にわたしの家まで避難していてもらいたい。できればフェラリオもだ。この森とわたしの家との間には山が幾つかあるし、わたしの家には最高レベルの防御場が張ってある。この森と丘が消滅しても、何とかわたしの家は残るだろう」
「愚問ですわ。先生」ベスが断固とした口調で言った。
「いくら先生の命令でも、あたしは拒否します。先生が危険に身をさらされるのならば、あたしもまたそうします」
「ベス」絶望を込めてラングがベスの名を呼んだ。この女弟子が一度こうと決めれば、梃子でも動かないことを知っているせいだ。
「失礼ながら、わたくしめも、その案は拒絶させていただきます」バイスターが答えた。
「ラングさまのお気遣いは、このバイスター、涙が出るほど嬉しゅうございますが、何分、執事が主人を見捨てて逃げたのでは、執事の本分というものが立ちません。いえ、坊ちゃまがそのような不始末をなさるとすれば、まずは、このわたくしめが命を捨てて、坊ちゃまを守らなくてはなりません」
「あたしもやあよ」パットが食べかけのお菓子から顔を上げて言った。
「これからその奇麗な指輪が増えるんでしょ。あたし、それ見てから、ファガスに指輪を分けてもらうの」
「何を言っているんだ、とんでもない」ファガスがパットの言葉に、首を横に振った。「子供にこんなに高価なものがやれるものか」
「たくさんできるんでしょ。一つぐらい頂戴よ、ケチ。だいたい、あたいはあんたのお嫁さんになるんだから、婚約指輪ぐらいくれたっていいでしょ」
「誰がお嫁になれと言った! 誰が!」ファガスは手をばたばたさせながら、言い返した。
「結局、誰もここから避難しないのか」
左を見て、それから右を見て、ついにラングは両手を大きく広げて、どうしようないと言ったポーズを取った。
「全員を説得している時間はない。ええいわかった。それならばここに張る防御場は出来る限り強力なものにせねばならん。ベス。術式を造るのを手伝ってくれ」
魔法による防御場というものは、よほど強力なものでない限り目には見えない。防御場を形成する術者は、術を行う間ずっと、特殊な視覚変換魔術をかけたままで作業する。
汗だくで呪文を唱えていたラングが、ようやく仕事が終わったという顔で呪文を唱え終えると、宙に掲げていた両腕を降ろした。その手から輝きのオーラが徐々に薄れて消えてゆく。
テーブルの中央に置かれた箱の中には綿が敷かれ、その上にファガスの作った金の指輪が載っている。防御場はそれを中央においた球状の空間を、隙間なく包むように張られている。
「良し、これでいいはずだ」
ラングは満足そうにため息をつくと、自分の目の周りを片手で拭った。視覚変換の魔術が消失し普通の光景が戻って来る。もはや世界は赤く染まってはおらず、大地から洩れ出る奇妙な輝きも見えなくなっている。使う者に奇妙なめまいを引き起こすこの魔法の視覚を、ラングは好きではなかった。
「別に何も見えないけど? ここに壁があるの?」
パットが不思議そうな顔でたずね返した。そう言ってから、止める間もなくパットは手を伸ばすと、箱の中の指輪を取ろうとした。その手が空中で何かに弾かれる。
「あ、痛」パットが痛む指を抑えて言った。
ラングが太い指をパットの目の前で警告するように振ると、教訓を垂れた。
「いいかい、パット。魔法の場があると言われた場所には指を突っこむものじゃない。今、きみの指を弾いたのは防御場そのものじゃなくて、その周辺に張ってある保護場だ。もしそれがなかったら、きみの手は今頃は黒焦げの、そうだな、火事にあった切り株のようになってしまう所だったんだよ」
ラングの真剣な顔に、パットは頷いた。小人族と人間族の混血であるパットの精神年齢は、単純には置き換えられないが、人間ならば七歳というところだと、ラングは見ていた。
「規則とは、破るためにある規則と、決して破ってはならない鉄則とに分かれる。見えない場に手を突っこむなというのは鉄則の方だったな」ファガスが後を続けた。
「坊ちゃま。大奥様がルーン円盤の持ち出しを禁じていることも鉄則と存じ上げますが」バイスターがやんわりとファガスに釘を刺した。
ごほん、とわざと大きな咳を一つしてから、ファガスは執事の言葉を無視した。規則だろうが鉄則だろうが、一つ一つを丁寧に守っていたら、ファガスの人生は成り立たない。
「さてと、これで満足かな? ラング。そろそろ満月が天頂にかかる頃だ」
「満月ね」どさりと椅子に腰を降ろしてラングが言った。
「確かに満月が空の真上にかかる瞬間こそが、この世界の魔力が最大になる時だ。だが、こいつはそれほど大きな魔力を消費するのか」
「恐らくは。魔術方程式の一部が動力項目に逆説的に作用するので、俺にも正確な算出ができない。でもこいつがかなりの魔力を食うのは、使っている魔法材料から見ても間違いない」
ファガスが指摘した。
指輪の魔術方程式の中に、ある種の安全装置が組みこまれていたことを、ファガスは黙っていた。指輪は決まった回数だけ増殖した後で自壊するようになっていたのだ。もっと多くの黄金が欲しければ、魔法の指輪をもう一度作り直さなくてはならない。
安全装置など何の意味がある?
ファガスは心の中で思った。一つの金の指輪よりもいいものがあるとすれば、二つの金の指輪だ。二つの金の指輪よりもいいものがあるとすれば、それはもっとたくさんの金の指輪だ。決まっている。
だからこそファガスは、安全装置は敢えて組みこまなかった。だがそれをラングに言ってはならないと、ファガスは理解していた。何事においても慎重なラングがこれを知れば、どうなるかはわかっている。ファガスには有無を言わさずに金の指輪を破壊してしまうだろう。
かと言って、ラング抜きで実験はできない。この巨人族のラングは即興で魔法を組み上げる天才だ。ファガスが魔法の道具作りに才能を見せるのと同様に、ラングは実験が暴走したときに対処できるただ一人の魔術師なのだ。
そしてたいがいの場合において、ファガスの実験は暴走する。その理由はわからないが、いつもどこかで何かの具合が悪くなってしまう。これまでもラングがいなければ、ファガスは当の昔に破滅していただろう。
黙っていればいいのだ。今回はきっと何の問題も起きはしないだろう。運命の女神が自分とラングに背負わせたものが何であるのかを全く知らずに、ファガスはそう結論づけた。
ファガスのそんな思いには気づかずに、ラングは夜空を見上げていた。今夜は雲一つない晴れ渡った夜空だ。無数の星が輝き、その中を一人孤高の満月が、その存在を誇っている。
痺れるような感覚。全身の皮膚の上を、小さな雷が流れるかのような。
魔法の感覚。
魔力の息吹。
魔力が月から溢れ出て、地上に惜しみなく注いでいる。魔法的なものも、そうでないものも、すべての命がこの影響を受ける。人間もその例にはもれない。
ラングが空に向ける視線に気づいて、ファガスが口を開いた。
「月だ。それが鍵なんだ。古代魔法王国時代には、地上にはいまよりも遥かに高濃度な魔力が満ちていた。現代でそれに一番近いのは、満月の晩ぐらいのものだ」
それを聞いて、空っぽになったお菓子の皿をいじくりまわしていたパットは顔を上げた。その隙をついて、執事のバイスターがすばやくその皿を回収する。六枚構成の見事で高価な絵皿なのだ。割られたくはない。
「あのね。月には狼が眠っているっておばあさんが言っていたけど」パットは強引に話に割りこんだ。「フェンリルって名前なんだけど知ってる?」
「おやおや、大いなる森の予言の老婆はフェンリル実在派か」ラングが興味深く聞き返した。
「実在派?」珍しくも今度はベスが聞き返した。
「実在派だ。もう一方にあるのはフェンリル否定派。魔術師の間でも議論の決着がついていない問題の一つ、だな」話好きのラングは説明し始めた。
フェンリル実在派の主張によると、フェンリル狼は今では滅多に見かける事もなくなった純血の巨人族の変種である。ラングは巨人族、ファガスは小人族だが、純血とは言っても、そもそもの歴史の始まりのころに、すでに人間との混血種となっている。つまり本当の意味での純血種ではないのである。
それも道理である。ラングの遠い祖先に当たる巨人族というものは、名前こそ巨人だが、人間の形をしているものはむしろ少数なのだ。巨大な鷲の姿をしたもの。大蛇。狼。頭が複数ある者もいる。しかもそのどれもが、特殊な魔術的能力を一つ、この世に生まれ出るときに持って来ると、伝説では伝えられている。
もっともその伝説自体が、残されているものはわずかである。遺跡の数々が古代魔法王国と神々、それに巨人族との間の凄まじいレベルでの大魔法戦争を示しているのに、彼らについて残されている記録はほとんどない。大地に残された傷跡が深すぎて、遺跡のほとんどが破壊されてしまっているせいだ。かろうじて神々の名とそれに対抗した巨人たちの名前が伝わっているだけだ。
その中でもフェンリル狼については比較的に知られている。それは巨大な狼の姿をした巨人族で、その生まれにふさわしい破壊的な能力を持っていた。
それは、尽きることのない飢餓。
あらゆるものを呑みこむその力。放っておけば、フェンリル狼は果てなく成長し、やがてはこの世界そのものを呑みこんでしまうであろう。
神々はそれを恐れ、フェンリル狼を何らかの計略にかけた。そして誰も知らない不思議な手段で、フェンリルを月に封じこめてしまったのだ。
「どうして殺してしまわなかったんです?」ベスが当然の疑問を口にした。
ラングはここで一息ついて、自分用に用意された巨大な酒杯を傾けると、エールを喉に流しこんだ。それからまた口を開いた。
「わからない。神々にはフェンリル狼を殺せない理由があったのか。それとも殺す能力がなかったのか。そもそもフェンリル狼は死ぬ存在なのか。それとも不死なのか。すべては謎だ」
「一応、俺とラングはフェンリル実在派だ」ファガスは手を上げてみせた。「フェンリル狼の実在を仮定した方がいろいろな事実をすんなりと説明できる」
「だが、しかし」ラングは己の手の中の酒杯を見つめながら続けた。
「わたしにわからないのは、フェンリル狼の見事に偏執狂的な、寸分の狂いもない睡眠周期のことだ。それはいったい何に由来するのだろう。ぴったり十三日と半分で月の魔力を食い尽くし、ぴったりと十三日と半分の間、眠りにつく。再生の呪文が月を再構成するのと、フェンリル狼が食事をする時間はなぜこれほどまでに見事に呼応するのか。フェンリル狼を捕らえている呪縛の魔法の固有振動数に関係しているのだろうか」
「ラングさま」バイスターが口を挟んだ。
「わたくしめはその昔、月にはフェンリル狼は存在せず、表面に見られる狼の文様は月の表面の単なる模様に過ぎないという論を聞いたことがあります。また、月の満ち欠けは太陽の光の反射が映っているせいだとも」
「ダルク諸島に住む無神論者の天地創造理論の一つだな」ファガスが後を続けた。
「世界は球状をしていて、大地の周りをこれも丸い月が回っているという説だ。彼らは神々の存在さえも否定しているし、世界樹さえも空想の存在だと言い切るほどだ。おいおい、バイスター。魔術師である俺の執事をやっているきみが、そんなたわごとに惑わされるとは、困ったものだな」
「もうしわけございません。ファガス坊ちゃま」最後の部分を強調してバイスターは言った。
ファガスは椅子から飛び上がった。
「ぶるるるる。やめてくれ。バイスター、その呼び名は」
「しかし、坊ちゃま」バイスターはまたもや最後の部分を強調する。
「旦那さまと言ってくれ」ファガスは喚いた。
「わかりました。坊ちゃ・・いえ、旦那さま」
ファガスは胸をそらしてみせた。
「似合わん」ラングがつぶやいた。
「似合いません」ベスが後をついだ。
「にあわないよー」パットが止めを刺した。
ファガスがすねている間に、ラングが説明を再開した。
「さて、世界が球状に見える原因は、大地を取り巻いている世界蛇ヨルムンガンドの持つ魔法の効果のせいだと、いまでは考えられている。虚空の無存在から存在へと、ヨルムンガンド蛇は世界そのものを切り離しているのだな。その証拠に、ダルク諸島から無神理論を確かめるために大地の果てへと送り出された魔法の船団は、どれ一つとして帰って来た試しがない。もし地球が本当に球形ならば、出発点とは反対の方角から帰って来るのが道理というもの」
「ヨルムンガンド蛇に近づきすぎて、食われちまったのさ」ファガスは鼻で笑った。
世界が本当に球の形をしているなら、下側に住んでいる連中は世界樹が放出する方向位相変異場に巻きこまれて、虚空に、つまり下に落ちて行くことになってしまう。こんな単純な理屈に気づかないとは、ダルク諸島の連中は何と愚かなのだろう。そうファガスは思った。
ファガスは酔いの回った口調で言った。
「それよりも俺は、奴が食らった月の膨大な魔力がどこに行っているのかが知りたいものだね。もしその魔力が全てフェンリル狼の中に貯えられているとすれば、どんな封印だって、奴を抑えておけるものじゃない。やがて奴は頚木を脱して、予定通り世界を食い尽くすことだろう」
ふむ、と大きな息を一つ吐いて、ラングは答えた。
「だとしてもだ。その頃にはきみもわたしもこの世にはいないさ。ベスもパットもそうだな。ここ数百年の間、魔術師ギルドは月の観測を続けて来たが、変化と言えるような兆候は何一つ見つかっていない」
いつの間にか寝込んだパットを起こさないようにそっと抱くと、ベスは彼女をファガスの家の中に運びこんだ。バイスターが用意した来客用のベッドにそっと横たえる。
大いなる森の老婆がどうしてここまで放任主義を貫き通すのか、ベスには理解できなかった。盗賊ギルドが見張っているとは言え、子供を夜の森に遊ばせておくことには大変な危険がつきまとう。森に住む他の生物に取っては、人間の子供などただの餌でしかないのだ。
「やれやれ、やっとテーブルが空いたな」
そう言うとファガスはテーブルの上の食器を片側に寄せて、その上に登った。決して行儀が良いとは言えないが、こうでもしないとラングと向き合っての話はできない。何といっても背の高さが四倍は違うのだから。
ラングとファガスはしばらくの間、月の中のフェンリル狼と地上に棲息する人狼たちとの魔法的類似関係について専門家らしい議論を戦わせた後に、話は魔術評議会の幹部たちの石頭ぶりに対する激烈な批判へと移り、それから近くの街に新しく出来た娼婦館の噂に変わってから、ベスに冷たい目で睨まれて議論はようやく一息分の沈黙へと落ち着いた。
ラングがお気に入りの動作で軽く手を振ると空中に小さな火花が舞い、口に加えたパイプに火がついた。ゆったりとした動作で深々と煙を吸いこむと、幸せそうな顔でそれを吐き出す。その頭上に大きな雲ができた。
ベスはまだラングを睨んだままだ。恐ろしく気まずい。
話題を変えようとして、ラングがルーン円盤の一部を指差すと質問をした。
「おい、ファガス、ここを見ろ。変だな。ルーン円盤によると、この指輪、ドラウプニルが生み出すのは、1サークルに八つの指輪となっている。つまり九夜ごとに八つの指輪のはず。どうしてきみのは1ムーンに七つなんだ」
その言葉に対して、ファガスは目をくるくると回してみせた。
「おっと、言っておくが、そいつは俺の腕が悪かったからというわけじゃないぞ。古代魔法王国時代には、使える魔法材料が地面にごろごろしていたのかも知れんが、いまじゃそんなもの、探してもどこにもないのがほとんどだ。だから良く似た材料でその隙間を埋めたのさ。その結果、指輪の再生速度は遅くなった。残念だよ」
ファガスは小さなため息をついてみせた。
「本当なら俺の倉の中が黄金で一杯になるのに二年とちょっとしかかからない計算なのに、これじゃ最低でも五年はかかる」
それを聞くと、ラングは難しい顔で腕を組んだ。
「ファガス。こんなことをきみに言うのは何だと思うんだが。その指輪を破壊した方が良いとわたしは思う。
もともとがルーン円盤の記述にはわからない部分が多すぎるし、何と言ってもこの円盤の色は武器を示す赤だ。それにわたしはこのルーン円盤というやつはどうも信用できない。どう考えてみても、トラブルの塊のような魔法ばかりを扱っているように思えるんだ」
自分がどれだけ真相に近づいているのかを知らず、ラングは指摘した。
だが、金に目がくらんでいるファガスが、ラングの言葉を聞く道理はなかった。なにぶんすでに金の指輪は出来上がってしまっているのだ。欲と自分の二人づれで苦労して作り上げた指輪を、一度も試すこともなく、ファガスが壊せるはずもない。
「ご忠告だけは有り難く頂いておくよ。ラング」
これで議論は打ち切りだと言わんばかりの口調で、ファガスが冷たく言い放った。しらけた雰囲気が辺りを支配し、しばらくは誰もが無言であった。
いきなり、眼下に見える暗い森の向こうのやや小高くなった場所から、光が一つ輝いた。武術の修行の一環として鍛え抜かれたベスの目には、その光りの中に小さな四角が見て取れた。箱だ。ベスはそう感じた。魔法の輝きに包まれた小さな箱だ。
その光りは全員の見守る中、滑らかな加速で上昇を始めると、たちまちにして視界の外へと消え去った。その先には、今まさに天空の頂点に到達する寸前の満月の姿がある。
「なんだ。今のは」ラングが尋ねた。それに答えたのは執事のバイスターだ。
「フェンリル教徒でございますよ。ラング様。森番のフェラリオの話によると、あれはフェンリル教徒の供物を捧げる儀式にございます」
「供物?」
その後の説明はファガスが引き継いだ。
「そう、供物だ。どうやら、連中は何でもかんでもありったけの物を、月の上のフェンリル狼に届けているようなのだな。大食いの化け物であるフェンリルが鎖から解き放たれた時、自分たちを見逃してもらえるようにだ」
そこまで言ってからファガスは己の小さな肩をすくめる動作をした。
「魔力で駆動する贈り物の箱の中に詰めているのは、実に様々なものだな。以前に、俺の所に連中が来たことがある。なんでもフェンリル狼の好物について知っていたら教えてくれっていう話でな、俺がでたらめにバイクオークの木が好物だと教えてやったら、連中、いったいどうしたと思う?」
「そんなことがわたしにわかるか」ラングがつぶやいた。
「ラング先生、わたしにはわかるような気がしますわ」それまでおとなしく話を聞いていたベスが口を挟んだ。「この森のバイクオークの木を全て盗んだのに違い無いですわ」
「ほおっ、こりゃ驚いた。ベス。その通り、正解だとも」ファガスが心底驚いた声で言った。「いったいどうしてわかった?」
「どこでも信仰に狂った者のやることは同じですからね」
ベスが嫌悪を顔にあらわにして答えた。それ以上何を言うでも無く、ベスはふたたびラングの背中に自分の背中をもたれかけさせる姿勢に戻った。耳だけは働かせたままで、話の環からは完全に外れた姿勢だ。巨体に似合わぬ繊細な精神を持つラングは、ベスの態度から何かを読み取ったが、敢えてそれを意識から消し去った。
「まあ、そういうことだ。森を荒らされたのに怒り狂ったフェラリオが、フェンリル教徒の数人に噛みついて森から追いだそうとしたのだが、何分、追えば逃げるだけだし、追跡を諦めるとまた舞い戻って来る。挙げ句の果ては、人狼姿のフェラリオをフェンリルの化身として崇める始末。今じゃ連中は向こうの丘に陣取ってしたい放題ってことだな」
「どうしてそんな状態を放っておくのだね。きみらしくないぞ。ファガス」
ラングが指摘した。この妖精の森はファガスにとっては世襲財産に当たる。その森を荒らされて黙っているのはファガスの性格にはあわないはずなのだ。
以前に、魔法大学に通っていた時期にも、ファガスを笑った人物は大勢いた。どうもこの人間族というものは、体の大きさで、相手を量るという悪い癖がある。しかしそのほとんどすべてにファガスが仕返しを行ったことを、ラングは知っていた。軽く嘲笑した相手にはそれなりの軽いパンチ、いじめを行おうとした相手にはひどく恥ずかしいアクシデントを、そして命を狙おうとした相手には、地獄の悪魔もかくやと思わんばかりの状況を作り出して来たのだ。
「まあ、こちらにも弱みがないわけじゃない。この指輪の材料には、ほんのわずかだが所持が禁じられている品が入っている。今この時点で調査委員の手が入るのは、こちらにもまずいってことだ」
ファガスは肩をすくめると、テーブルの上で大きなあくびをした。
「調査委員と言うと、石頭のザニンガムのようなやつのことか?」ラングは指摘した。
ファガスは露骨に嫌な顔をした。
「うえっ。ザニンガムか。あいつのことは言うな。万が一にも間違って、召喚されたら困る」
「それだけじゃないだろう。ファガス」ラングは厳しい声で言った。
「月まで届く魔法の小箱だって?
それがどれだけ大変なことか、わたしは知っているぞ。そもそも、フェンリル教徒がそんなに高度な魔法の道具をどうやって手に入れたんだ?」
ラングはゆっくりと腕を下ろすと、太くて丈夫なその指の先を、ファガスの眼前に突きつけた。
「わたしにはわかっているぞ。きみだ。きみが作ったのだ。たぶん、フェンリル教徒をうまくだまくらかして。そうか、わかったぞ。古代魔法に必要とされる特殊で高価な魔法材料をどこで調達したのかと思ったら、彼らの注文品から流用したんだな」
ファガスはテーブルから垂らした足をぶらぶらさせながら、頭を掻いた。
「人聞きの悪いことを言うんじゃないさ。ラング。たしかにまあ、やつらの魔法の小箱を作った残りは、ちょいと拝借した。だけど、うまく設計をして、材料を余らせるのは、どこの作り手でもやっていることだ。それに第一、あの小箱は実際に月まで届くんだ。看板に偽りなし。そうだろ?」
「そして、大事なお客さんだから、面と向かって追い出しにかかるわけにもいかないんだな。まったく。フェンリル教徒と言えば、噂では、裏でありとあらゆる悪いことをやっている連中なんだぞ」ラングは派手なため息をついて見せた。「好きにするがいいさ。ここはきみの森だ」
どうして自分はこんな男と親友なのだろうな、とラングは心密かに思った。腐れ縁というのは、こういうのを示すのかもしれない。
「正しくは、坊っちゃまの森ではなく、アリスタナル家の森ですな」バイスターが口を挟んだ。
「バイスター」ファガスが己の執事に向けて冷たい視線を放ちながら言った。
「ここは、俺の森だ。確かに法律上では大祖母様のものだが、いずれは俺が継ぐことになる。要はそれが早いか遅いかの話だけだ」
執事のバイスターはファガスの方を向くと、姿勢を正して言った。
「確かにそうでございましょうとも。ファガス坊ちゃま。しかしながらそれも、坊ちゃまがサイザット家のアイサ様との婚約をこのまま無視し続けるとすれば、非常に怪しいものです」
執事のバイスターの言葉を聞いて、ラングは片方の眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。
サイザット家は、ファガスのアリスタナル家に匹敵する名門である。人間族で構成されるサイザット家と、小人族で構成されるアリスタナル家の婚約は、ミッドガルドの上流社交界に大変な衝撃を呼び覚ました。両家はこの結び付きから、このミッドガルト界を一手に支配する権力を作り出そうとしていたのだ。ところが肝心のファガスが家を飛び出している状態ではそれもままならない。そのようなわけで、アリスタナル家からファガスにかけられる結婚への圧力は、日増しに強くなっている状態であった。
話がまずい方に向かって、ふたたびファガスが沈黙した。それから宙をにらむと、月の位置を目で計り、ファガスは指を一つ鳴らして議論にけりをつけた。
「そろそろ満月が頂点に達する時間だ。あと少しで指輪が最初の子供たちを産むぞ」
いつの間にか眠りから覚めて、またテーブルの上のものをつまみ食いするために戻ってきていたパットが、テーブルの中央に置かれた指輪を見てから言った。
「この指輪、お腹の中に赤ちゃんがいるようには、とっても見えないわね。あたいには」
それを聞いて、ファガスがうめいた。
「ううむ、大いなる森の老婆の性教育はいったいどうなっているんだ」
「あら、コウノトリが運んで来るなんて話をまだ信じているんですか? ファガス先生」
ベスが微かに笑いを含んだ声で言った。
「いや、赤ん坊を運んで来るのは、地面の底から現れるノームの老人だったかな?」
ファガスが茶化した。
「赤ん坊という言葉で思い出した。その昔、面白い話を師匠から聞いたことがあるぞ」
話好きのラングは昔話に入ろうとしたが、その目の前で一瞬、何かが光った。いったい何が起こったんだというラングの言葉を、続いて起こった金属のぶつかる音が中断した。
テーブルの上を見つめていたファガスが叫び声を上げると指さした。
「やったぞ! 見てみろ。指輪が増えた」
全員が驚きの声を上げた。今やテーブルの小箱の中には、どれもそっくり同じ金の指輪が小山をなして、月明かりの下で鋭い輝きを放っている。
ラングは素早く指輪の数を数えた。全部で八個。親指輪一つに子指輪が七つだ。
「実験は成功か」
ぽつりとラングが呟いた。騙されまいぞ、という口調がわずかにこもっている。
いや、実を言えば、実験が成功したことにラングはとまどっているのではない。目の前にいるこの小人が、魔法道具作りに関しては確かな腕を持っていることを、ラングは理解していたからだ。
しかし、ファガスの実験はいつも、副作用とでも言うべきトラブルを含んでいるのだ。今にも周囲で世界が崩壊するのではないかと、ラングは内心恐れていた。
「当たり前だろう。俺は天才だ」
ファガスは豪語し、それから満面に笑みを浮かべると、小箱に手を伸ばした。それを素早くひっくり返すと、八個の金の指輪を自分の手の平の上にぶちまけた。
しっかりと握りこむ。この金の指輪こそ、ファガスの成功を約束するものなのだ。
「ラング、一応念を押しておくが、この指輪のことは評議会には秘密だぞ。魔術師という魔術師がいっせいに黄金を創り始めたら、市場価格が暴落するのは目に見えているからな」
「待て!」ラングが大声で叫んだ。周囲の木々がその声に揺れる。
それからまじまじとファガスの手に握られた小箱を見つめてから言った。
「なぜ、きみの手は弾かれない」
「へ?」ファガスが気の抜けた声を出した。
「防御場だ」ラングは指摘した。その手がテーブルの上を探る。
「わたしの張った魔法防御場はどうした?
どこに行った?
太り過ぎのドラゴンが片足を乗せても壊れないほどの防御場だったんだぞ。念のために言っておくが、わたしは解除した覚えはないぞ」
それを聞いてファガスは鼻を鳴らした。
「きみの腕も落ちたものだな。基本的な防御場の形成に失敗するとは。呪文をどこか間違えたのじゃないか」
それを聞いて怒ったのはラングではなくベスだ。ラングの背後から顔を出して、怒れる虎もかくやとばかりにファガスを睨みつけて言った。
「ラング先生は間違いなどしません!」
これにはさしものファガスもたじろいだ。
「止めなさい。ベス。ファガスも悪気があって言ったのではない」
放っておけば今にもファガスに飛び掛かりそうな女弟子を、ラングは押し止めた。
「わかった。この問題については後で徹底的に調査する。
このわたしが、勝手に消滅してしまうような魔法場を、今までの顧客に提供していたのかと思うとぞっとする。それより、ファガス、一つ教えてくれんかな?」
ラングはその太い指でファガスの手の中の指輪を示した。
「どれが母指輪なのかな?」
「母指輪? ああ、そうか。子供を産んだのだからな」今度はファガスが眉を潜める番だ。「ええっと・・」
しばらくの間、ファガスは手の中の指輪たちをながめ、つつき回していたが、やがて降参した。どれも同じに見える。
「しまった。俺にもわからん。ドラウプニルは自分と同じ形の指輪を産むからな、外見だけでは判断できない」
それからある事実に気付いて、ファガスは舌打ちを一つした。
「これでは、どれが母指輪なのかわからん。ということは、子指輪がどれかもわからないってことだ。なんてこったい。潰して金塊にするのはお預けか」
「まかり間違って母指輪の方を潰したら、せっかくの苦労が水の泡でございますな」
執事のバイスターが少しばかり笑いを含んだ声で言った。
これから次の満月が来るまでの間、腹ぺこのままおあずけを食らった犬と同じ状態に、ファガスはおかれるわけである。
「坊ちゃまとしてはさぞかし断腸の思いでしょうに」
ファガスが何か一言を言い返そうとしたその瞬間、森の中から悲鳴が響いた。
この予測不可能の事態に全員が凍りついた中で、ベスだけが素早く立ち上がり、棒を手に取った。
薮ががさがさと鳴ると、その中から素っ裸の森番フェラリオが飛び出して来た。
狼男のフェラリオは今や一糸まとわぬ完全な人間の姿に戻っていた。皆が驚いたことには、その裸の尻に野犬が一匹噛付いたままだった。
ベスが摺り足で前に出ると、フェラリオの若いとは言えないが見事な裸については全く気にもせずに、手にした棒の一撃で野犬を叩き落とした。形勢悪しと見た野犬は、一つ悲鳴を上げると、森の中へと一目散に消え去る。
薬と毛布を持って家の中から戻って来たバイスターが言った。
「フェラリオ様。出来ることならば、人間に戻るときには服を着て頂ければ、幸いと存じますが」
ベスは黙ってバイスターから薬を受け取ると、フェラリオの傷をざっと消毒してからそれを塗りこんだ。
しみる薬だ。フェラリオがまたもや悲鳴を上げた。痛みに耐えている声で説明をする。
「好きで裸なわけじゃない。野犬を追っている最中にいきなり変身が解けたんだ。
信じられるか?
満月の晩に狼男がだ、たった今まで追いこんでいた野犬に噛付かれて逃げ回るさまを」
「信じるよ。この二つの目でしっかりと見たからな」ファガスは答えた。
ファガスの軽口にフェラリオは手を振ってみせると、ベスの手から薬を取ろうとした。
「もういい、残りは自分で塗るよ」
「あら、男の裸なんて、あたしなら平気よ」ベスが戸惑う男連中を見て笑いながら言った。
「あたしの父の道場では、毎日のように怪我人が出ていましたからね。治療もあたしの役目。知っています? 男の急所を下手に蹴るとどうなるのか?」
「どうなるんだ?」恐々と言った感じで、ファガスが聞いた。
「破裂するのよ」
ベスはきっぱりと答えた。それを聞いて周囲の男たちが一斉にうめいた。その痛みを想像してしまったのだ。
「そんなのをあたしは治療してきたの。だから、いい? あたしは男の裸なんか見慣れているの。男たちの自慢する物もね。それがどんなに簡単に壊れるものなのかもね」
「わかった。俺は未来永劫に渡って、きみの近くには寄らないことにする」ファガスが厳かに宣言した。
フェラリオの尻にくっきりと刻まれた野犬の歯形の跡に、丁寧に薬を塗っていたベスは、ふと顔を上げて空中の匂いを嗅いだ。
「なあに、この匂い。ファガス先生。以前にお風呂に入ったのはいつのことですって?」
それを聞いて、ファガスは鼻白んだ。
「馬鹿を言うな。それは確かに指輪を作るのに徹夜続きだったのは認めるが、これこの通り、今は奇麗に体は・・」
そこまで言ってから、ファガスは何かに気付いたかのように風上を向いた。
いつの間に現われたのか、庭が切れて森に変るあたりに、悪臭の元である一人の男が立っていた。男はぼろぼろの服の袖を大袈裟な身振りで振ると、お辞儀をして見せた。顔全体を汚らしく伸びた鬚が覆っている。
「これはこれは賢者の皆様がた。今宵は集いの宴でもありますのかな?
夜空に偉大なるフェンリル神の恩寵が溢れているときには、信者ならずとも浮き浮きした気分になるようですな」
そう言ってから男はベスに向き直り、自己紹介をした。
「これはこれはお初にお目にかかる。美しいお嬢さん。申し遅れました。わたしの名前はホーバート。フェンリル神の忠実なしもべです」
ベスの目に怒りが浮かんだ。
「あなたの名前なんか聞きたくもないわ」
立ち上がったベスの手の中で棒が回転し、男を脅すかのような風切り音を立てた。
「彼がフェンリル教徒のリーダーだ」ファガスが説明口調で言った。
ホーバートは大袈裟な仕草で、ファガスを示してみせた。
「おお、素晴らしき技を誇る魔術師のファガスよ。あなたの作りし魔法の箱は今度も正しく働いたようですぞ。いずれあなたにもフェンリル神の恩寵が訪れることでしょうな。もう少し、安く作ってくれれば、我々も助かるのですがな」
ラングは不快そうな目付きでじろりとホーバートをにらんだ。
なぜだろう?
ラングは思った。この男にはひどく不快なものを感じる。それと同時に、かすかに奇妙な懐かしさもだ。ラングは目をしばたいた。不思議な直感は瞬時に消え去り、目の前にいるのはただの薄汚れた男に戻った。
「フェンリル教徒が引き起こしている騒ぎについては色々と話を聞いているぞ。窃盗、強盗は言うに及ばず、最近では殺人の噂も出ている」
ラングのこの指摘に反応して、ホーバートの顔には奇妙な笑みが浮かんだ。
「こちらは近辺に並ぶものなき魔術師のラング殿ですな。巨人の血を引くともっぱら噂の」
巨人という言葉に力を込めて、ホーバートは喋った。
「フェンリル神もいわば巨人の一族。いわば、ラング殿はフェンリル神の親族とも言える御方。そのお人が、神の神聖なるしもべを悪党呼ばわりとはひどいものですな。いずれフェンリル神が鎖を打ち破り、この地上を奪い取ったあかつきには、きっと恐ろしい天罰が下るに違いありますまいぞ」
ホーバートは仕方がないという風に手を広げて見せた。
「神の言葉が聞こえぬ輩には、まったくどうしようもありませんな。わたしはただフェンリル神への捧げ物を探しているだけなのですが」
そう言いながらも、ホーバートの視線は、ファガスの手へと向けられた。
「どうやらそこに素晴らしき供物をお持ちの模様。ほう、金の指輪ですな。それもたくさん。これは素晴らしい。
いかがですかな?
その内、一つをフェンリル神へ捧げるという案は。きっと世界が滅亡するその時には、フェンリル神は貴方の供物を思い出して微笑まれることでしょう」
ベスが爆発しかけているのを察して、気まずい事態が起こる前にと、ラングは椅子から立ち上がろうとした。
椅子がきしみ音を上げる。
あわててホーバートは後ずさりをすると、ふたたびお辞儀をしてから言った。
「ああ、信仰心なき者は果たしがたい。ですがフェンリル神の食欲とその心の寛大さは、言葉に表わすことができないほど大きいのです。供物に関して心変わりをなされたら、ご遠慮なく申しつけて下さい。我が信徒はどこにでもいますから」
そこまで言うと、ホーバートはあっと言う間に森の中へと飛びこんで消えた。
彼の消えた後の森の暗闇を見つめたまま、パットが感想を漏らした。
「あたし、あの人、嫌い」
「あたしもよ」ベスが答えた。
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