彼
「ごめん、寝ててメールに気づかんかったわ」
約束の時間に1時間近くも遅れて待ち合わせの駅に現れた彼。
電車の中から何度も連絡してたのに、全然連絡つかなくて、あれ?ドタキャン?って思いながらも彼の家の最寄駅でじっと待って、ようやく現れてほっとした。
彼は県外の大学に進学した高校時代の同級生。
「もぉ!来ないんじゃないかとヒヤヒヤしたんだよ!」
「悪い!とりあえず、荷物ウチに置いて遊びに行こうか」
私の荷物を取り上げて、彼が今来ただろう彼の家へと繋がる道を、私には初めての道を歩き出す。
遊びに行くのであれば、荷物はそのまま持ってコインロッカーにでも預けたらいいのではないかとも思ったが、彼の家に行くことに興味があった私は何も突っ込まずに彼の後に続いた。
「今日はなんて言って出てきたの?」
「ん?友達んとこに遊びに行くって言ってきた」
まだ眠そうな、少し寝癖のついた彼の横顔を見上げて答える。
「まぁ、友達やな」
クスクス、ニヤニヤ笑いながら彼は私の歩幅に合わせて歩いてくれる。
ニヤニヤするのは、わかっている。
彼は私の彼氏ではない。
私には遠距離恋愛中の彼氏がいて、その彼氏の住む街からそんなに離れていない街に住むのがこの寝癖の彼。
私はこの週末の数日を彼氏と過ごし、今朝は彼氏の家からこの彼のところに来た。
うん、頭が混乱するかもしれないけれど、彼氏がいるのに、彼、つまり彼氏ではない他の男の人の家に私は遊びに行こうとしている。たった今。しかも、2人きり。
「お邪魔しまーす」
いかにも学生向けらしい造りのアパートの、初めて訪れた彼の部屋。
大学の教科書やら、マンガやらが並んだカラーボックスの上には、いくつかの写真が写真たてに入ってかざられていて、そのほとんどの写真に同じ女性が写っている。
記念日に撮ったのであろうとわかる、レストランで彼と2人きりで写ったものもあった。
「ねぇ、これ彼女?」
冷蔵庫からお茶を出し、不揃いのマグカップに注ぎ分けている彼に聞いてみた。
「あぁ、うん、そう」
その言葉を聞いて、さらにまじまじと見た。
頭の良さそうな、目鼻立ちのしっかりとした顔立ち。
明るいだけが取り柄の私とはジャンルの違う子だなと思った。
彼はこんな子が好きなのか。
「留学してるんだよね?連絡とってんの?」
振り向くと、あまりその話題には触れられたくない表情で彼は言った。
「うん、まぁまぁね」
ん?と思ったけれど気にしないことにした。だって彼は私の彼氏じゃない。
部屋着で迎えにきてくれていた彼が着替えをして、2人で再び先ほどの駅に戻り観覧車のある海辺のショッピングセンターに行こうと電車に乗った。
平日昼前の電車は見事にガラガラで、2人並んでゆったりと座ることができた。
「今日は何時に帰るの?」
私の顔を覗き込み彼が聞いてくる。
「このあと?うーん、今日はバイトも休みだし別に予定もないけど、逆に何時までだったらいい?」
親には親公認でもある彼氏の家に行くことを伝えてあったし、帰るのが1日伸びたって構わない。
彼氏は地元の友達の家に行ってると思っているだろう。
「じゃあ、泊まっていけば?俺、明日は朝一番で用事あるけど昼前には終わるし、昼飯食って帰れば?」
彼はイタズラをしかけるような子供っぽい目でこちらを見た。
「うん、そうだね、そうしようかな」
私も同調するような笑顔を彼に向けた。
電車の窓からは明るい陽射しが溢れんばかりに差していて、私の罪悪感みたいな黒い部分を吹き飛ばしてくれるかのような、気持ちよさだった。
私には迷いはなかった。だってそうなることとも考えてここにきたから。
そうじゃなければ、彼氏にここに来ることを隠したりしない。
彼とは高校2年のときに一度だけ一緒のクラスになったことがあった。その頃からウィットに富んだ考え方やキャラクターがいいなぁと思っていたけれど、特別仲の良い友達でもなく、ただのクラスメイトの1人だった。
最もその頃の私はすでに今の彼氏とつきあっていたし、たしか彼にも彼女がいた記憶がある。
だから、恋愛どうこうとなることはなかったのに、なぜ高校を卒業して3年も経ったこの時期に、こんな彼氏にも秘密にしたい仲になったのか、いや、そんな仲にはまだなっていないのだけれど、これから、ううん、今夜そんな仲になる、かもしれないのか。
それは先月の話だった。
高校の同級生たちとの部屋飲みに、帰省してきていた彼と私も参加していた。
普段連絡を取り合う仲ではなかったけれど、共通の仲良い友達であり、部屋の主でもある子の主催で飲むことはよくあって、彼とはこうして、ごくたまに会っていた。
会うたびに変わらずユニークで飲み会の場での話題に事欠かなかった彼。
「やっぱりいいなぁ、彼氏にするならこんな人がいいなぁ」とぼんやり思っていた。
自分には彼氏がいるのに、そんなことを思うなんて彼氏に失礼だとは思ったけれど、同級生同士でつきあえばこういう飲み会にも友達として参加して対等な立場で話ができるよねぇ、と思ったりしていた。
私の彼氏も、いろんな飲み会の場に私を連れていってはくれるのだけれど、私が年下だからか、出過ぎた真似をすると注意されるし、逆に気を使わなすぎると気が利かないと不機嫌になったりして、正直めんどくさい。
だから、同級生同士で付き合ったら気が楽なんじゃないかなぁ、って思ってる。
夜もふけて、みんなお酒もずいぶん回ってきたころ、何人かは終電だと帰って行ったし、ゲームをしたり漫画を読んだり各々が好きなことをしていた。
私が新しい飲み物を取りに扉で隔たれたキッチンに移動したと同時に彼もタバコを吸おうと換気扇の下にやってきた。
2人で床に座り込みしばらく他愛無い話をしていたが、お酒が回った勢いも手伝ってか、私から本音を打ち明けた。
「私さぁ、2年生のときに同じクラスだったじゃない?あのときからいいなぁって、思ってたんだよねー。」
うん、だから何?彼氏いるよね?って言われても仕方ない話の振り方だな。我ながら。
なのに、
「まじで?ありがとう、素直に嬉しいわ」
彼はそう言いながら、私の手から開けたての缶チューハイを取り上げてぐびっと一口飲んだ。
「甘い」
少し顔をしかめる彼。
「ちょっとー!私のを勝手に飲んで不味そうな顔しないの!」
返してよと手を伸ばすと彼は私からさらに遠ざけるようにして、もう一口チューハイを口にした。
「やっぱり甘い」
「酔ってるから味もわかんないんじゃ無いのー?返してよ。」
ようやく取り戻して、桃味のする缶チューハイを口にした。
「タバコの味がする」
彼が今飲んでいるタバコの味がして、今度は私が顔をしかめた。
「間接キッス」
やけに古い言い方をして、ケタケタ笑う彼。
「こんなのキスに入らんし!そして、そんな間接キスぐらいでかわいく喜ぶ歳じゃないし!」
「じゃあ、ちゃんとしたキスにしようか。」
そう言って、私の目を見つめてから、チュッと唇を軽く重ねた。
彼氏以外の人とは初めてのキス。
彼との初めてのキスは桃とタバコの味がした。
「酔ってるでしょー?」
平気なふりをしておどけて見せた。この鼓動に気づかれたら笑われてしまうかもしれないと、なぜか必死だった。
「酔ってるよ。じゃなきゃこんなことする度胸出ないって」
タバコを口にして、私の顔にふぅっと息を吹きかけた彼。
「もう!もう!もー!タバコ臭い」
顔の前で手のひらをパタパタして抵抗した。
そして今度は私から唇を合わせた。
彼から不意にキスされたなら仕方がないとして、私からしたのだからこれはアウト!だな。でも、したかった。もう一度。
甘くて苦い秘密の味がするキスだった。
ドアの向こう側に友達もたくさんいる中でさすがにそれ以上(それ以上ってなに?)はできなかったけど、こうやって突然私と彼の仲が始まったのも事実。
キスをしたからだけではなく、彼とまた会いたいと思った。2人きりでまた会ってみたいと思った。
「私、来月そっちに遊びに行くんだ。そのとき遊んでよ」
来月、それが今日のこと。
私の彼氏は社会人で、2つ上の人。
就職して遠距離恋愛になって、今は仕事が忙しいのか、このところほとんど連絡をくれない。
会えるのは帰省シーズンと学生で時間のある私が彼氏のところまで会いに行くとき。
私だって土日バイトを入れてお小遣い稼がなきゃだけど、それでも私が動く方が都合がいいから、時間とお互いのお小遣いの都合をみて私が彼氏の家を訪れることが1〜2ヶ月に1度くらい。
会えば楽しい。私にとっては旅行にきたようなものだし、知らない土地で見るもの聞くものがいつも新鮮だった。
でも、でもね。数日しかない貴重な時間なのに、日曜日の夜になると仕事モードに入ってしまう彼氏がすごく嫌い。
不機嫌そうに「俺働いてるんだから、大変なんだから察してよ」とばかりに、自分の殻に入り込んで、私を、私の心を放置する。
すぐ目の前にいるのに、こっちを向いてくれない彼氏。
会いにきたのに、最後の夜くらい甘い気持ちでいたいのにと日曜日の夜の度に思う。
さらにいえば、特に昨夜はひどかったな。
同じベットで寝てるのに、そっと腕に触れると「眠れない」と拒否された。
別にセックスがしたかったわけじゃない。
抱きしめて、好きだよって、またすぐに会いにきてねって言われて眠りにつきたかったのに。口にしたところで、不機嫌モードに入っている彼氏には伝わらないだろうと、グッと飲み込んだ。
泣きたくなる気持ちを抑えて、モヤモヤして眠れなかった。
なのに今朝は何もなかったかのように、ハグとキスをしてから彼氏の出勤を見送った。
いつか、こんな生活が毎日のことになることを夢見て。そして、よこしまな気持ちを持って今から彼に会いに行くことに罪悪感を感じながら。
電車を降りてから、自然と手をつないで歩いた。
海辺のショッピングセンターでランチを食べて、ウィンドーショッピングしたり、観覧車に乗ったり、ゲームをしたりどうみたって恋人同士の2人だった。
日が落ちて薄暗くなったテラスで、さっき買ったカフェラテを飲みながら話をして、そして、またそこでキスをした。
彼の家に帰り着くと
「俺、先にシャワー浴びるね」
帰って2人きりになったら、コトが始まるのかと思っていたら、意外に彼はがっついてなくて、拍子抜けした。
久しぶりに会った時の彼氏の方が、せっかちに唇や体を求めてくるなと比べてしまうほどだった。
彼の後に私もシャワーを浴びて、彼のTシャツを借りてパジャマ代わりにした。
バスルームから出ると、彼はビールを飲んでいて私も一口もらった。
そして、またキスをした。
それから、きついハグをして、彼の唇が私の首筋に移動したところで、私の体がビクンとなった。
「私、首筋弱いんだよね」
「気づいてた」
フフフって彼が笑って、また首筋にキスをした。
「ねぇ、待って電気消して欲しい。あと、写真、やだ。」
さすがに彼女に見守られながらは抵抗があった。部屋の電気を消しに行った彼が写真たてをパタンパタンと伏せて来たのがわかった。
彼はどんな気持ちであの写真たてを伏せたのだろう。私には知る由もなかった。
彼氏以外の人とキスをするのもそれ以上のことをするのも、はっきり言って彼氏との違いはなかった。
もちろん、違う人とそうなったのだから違うと言えば全然違うのだけど、生まれて初めてその行為に至った時と比べれば、なんてことはなかった。
「やっちゃったなー」
軽い気持ちでそう思った。
少し前にバイト先の先輩が
「浮気した後、罪悪感で『消えてしまいたい』と思ったよ」
って言ってたけど、そんなことは微塵も感じなかった。
ずっと彼氏しか知らなかったから、違う人ともしてみたいと思っていたし、
なんというか、こういう経験を積んで私も人並みになれたような気分。その程度。
翌日は約束通り、彼は用事があると先に家を出て昼頃私と合流してランチをした。
もうそろそろ帰らないといけない時間。
付き合いたてのカップルのように、時間を惜しむように人混みでも頬やおでこにでもキスをしてくれたら嬉しいけれど、彼はそんなことしてこない。
だって私たちは付き合っていないから。
次いつ会おうか、なんて会話もない。
もちろん私からもしない。
私たちは昨夜だけの関係で、後腐れなく終わりたいのだろうと察した。
彼は彼女が近くにいなくて寂しかっただけ、私は彼氏とは違う人とそんなことがしてみたかっただけ。
つまり、私たちは利害関係が一致したその程度の関係だったというわけだ。
「楽しかったよ、またね」
駅のホームまで見送りに来てくれた彼にそう伝えた。
「おう!またな」
あっさり、あっさりと別れた。
うん、恋人ごっこはこれで終わり。
私はまた、遠距離恋愛中の彼女に戻るだけ。
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