第2話 ある朝のできごと
ホテルのフロントが予約は入っておりませんと済まなそうな顔で答え、俺は何かトラブルが起きたことを知った。
フロントに抗議する前にまず確認をと思い付き、会社へ電話を入れた。予約を頼んでおいた部下がまだ残業をしているかもしれない。
その部下が電話に出た。
「おい。俺だ」
「あ、ご苦労さまです」
「お前、今日の俺の出張の泊まり先、確かに予約入れたんだろうな?」
「予約は取りましたよ。ええっと、メモ、めも。あった。ほら、十七日に一名。きちんと予約を取っています」
それを聞いて予約が取れていない理由がわかり、俺の頭に血が上った。
「お前、馬鹿野郎! 予約を取れと言ったのは十一日、つまり今日だ」
「あれえ、でも確かにジュウシチニチって言いましたよね」
「ああ、確かにジュウイチニチって言ったよ」
そこまで言ってから電話を切った。こいつには叱っても無駄だ。またやりやがった、あの馬鹿もん。
怒るよりはこの事態への対処が先だ。フロントに向かう。
「予約はしていませんでした。空き部屋はありますか」
「あいすいません。本日は満室でございます。お客様、実は本日この先の野外コンサート会場で今年最大と言われる音楽フェスが行われています。かなり遠方よりのお客様が多数来られていますので、恐らくこの辺りのホテルはすべて満員かと存じます」
えらいことになった。その場で頼み込み、近隣のホテルに連絡を取って貰ったがやはり軒並み満員だ。
電車を乗り継ぎいくつか先の駅に行く。そこでもホテルは満員だ。これはまずい。この様子ではこの路線のホテルすべてが満員だと俺は予想した。
高級ホテル、旅館、民宿。ビジネスホテル、カプセルホテル。すべて全滅だ。では切り替えて、漫画喫茶の類はと探したが、漫画喫茶どころか二十四時間営業のファミレスさえない。ここは思ったより田舎らしい。そうこうしている内に終電の時間を過ぎてしまった。
俺は以前のちょっとした体験からタクシーというものが大の苦手だが、仕方がないタクシーを探そう、それに乗ってもっと遠くへ移動しようと思った。ところがどうしたものか駅前にもタクシーが一台も見当たらない。配車アプリを使ってみたが、アプリの中でも近くにタクシーは一台もなかった。
どうやら大音楽フェスとやらから帰る人たちでタクシーも完全に埋まってしまったらしい。近隣のすべてのタクシーは音楽フェスもよりの駅に集合していて、この辺りには一台もいない。下手に動いたのが裏目に出たかと舌打ちした。
さてそうなると今度は戸外の寒さが身に染みてきた。もう冬も近いのに思ったよりも薄着で出張に来てしまっていたのだ。ヤバイ。これでは朝まで持たないぞ。
とぼとぼと暗いアスファルトの夜道を当てもなく歩いていると、一軒のホテルが目の前に現れた。かなり高級そうなホテルだ。ダメ元で入ってみる。
すでに街が寝静まる時間のせいかフロントの灯りは薄暗くしてあり、無人だった。フロントカウンターのベルを鳴らすと、どことなく陰気そうに見える受付係が出てきた。
「いらっしゃいませ。お客様。お泊りでしょうか? ご予約はされていらっしゃいますでしょうか?」
「ああ、うん、予約はしていないんだが、泊まれるだろうか?」
ぱあっと受付係の顔に赤い光が射したように思えた。
「もちろんですとも。お客様。ただいまご案内いたします」
受付係が合図をするとどこからかボーイの制服を来た男が現れて俺の荷物を持ち、先に立った。
エレベータへ乗せられ、ついた先は最上階の十二階だ。
その階には廊下の中央にドアが一つだけしかなかった。
「当ホテル自慢のスイートルームでございます」
「ちょっと待った。俺はシングルルームでいいんだ。まさかここしか空いていないとかそういう話か?」
ボーイはこちらを向くと深々とお辞儀をした。
「お客様。実はお客様は当ホテル開業以来の十万人目に当たるお客様です。本日中には達成は無理かと従業員一同諦めていたところでした。お客様は特典としてこのスイートルームに一晩無料で泊まることができます」
ボーイは扉を開いた。恐ろしく広い部屋の中に落ち着いた調度が並んでいる。キングサイズのベッドが二つに、豪華なバスルーム。なんとビリヤード台にピアノまで置かれている。普通に泊まれば一泊で百万円は取られるに違いない。
俺は自分の幸運に眩暈がした。
「ではごゆっくり」
ボーイは俺を一人部屋に残すと出ていった。
たっぷりと部屋を楽しんだ。ビリヤードのキューを握るなんて学生時代以来だ。奥の部屋にはゲーム機まで備えてある。もっともちょっと古い機種だったが。間違いじゃないかと思うぐらいに広い風呂にたっぷりと湯を張り、ジャグジーにして楽しむ。じきにひどく眠くなり、俺はここで寝てしまうのは残念だなと思いながらも大きなベッドに倒れこんだ。今日はよく歩いた、というより歩かされたから無理もない。そのまま夢も見ない眠りへと落ちた。
窓の全面から差し込む朝日で目が覚めた。
顔を洗い、身支度を済ませる。朝食はまだだったが、流石にルームサービスを頼む気分にはなれなかった。ルームサービスは無料じゃないというオチが見えたからだ。外へ出れば何かあるだろう。
荷物を持って部屋から出た。
廊下にホテルの従業員がずらりと並んでいた。皆それぞれ手に花束を持ち、満面の笑みを浮かべている。ぴっちりとした衣装に身を包んだ支配人と思える男がその中を進んで来た。一斉に拍手が起こる。それを鎮めて、支配人は俺に対して深々とお辞儀をした。腰は直角。見事なまでに完璧なお辞儀。
「お客様。よくお休みになられたでしょうか」
「ああ、物凄く良い眠りだったよ」
会社に帰ったらこのことをどう自慢しよう。
「あなた様は当ホテルの記念すべき十万人目のお客様です。本日このときを我ら従業員一同どれほど待ちわびたものか、とても想像はつきかねると思います」
支配人の目から涙が溢れだした。
「こ、これは、し、失礼を」
慌ててハンカチで顔を拭く。周囲を取り囲む従業員も嗚咽をこらえている。笑い顔と泣き顔が混ざった複雑な表情をしている。
気づくと俺の視界もぼやけていて、手で目をこすった。いかん、歳を取ると涙もろくなる。
「俺からもおめでとうと言わせてもらうよ」ようやくこれだけ言えた。
感涙の発作から立ち直った支配人が威儀を正して、こう続けた。
「思い起こせば十年前のあの火事が発端でした」
おい?
支配人の言葉と共に、周囲の従業員たちの顔に一斉に苦痛の表情が浮かんだ。よほどひどい火事だったんだろう。
え?
ということは今ここにいる従業員は全員十年も前から勤めているのか。
「来客数九万九千九百九十九人目にして、あの大火災が起きてしまい、ただただこの十万人目のお客様を迎えることだけが私たちの悲願でした。ああ、この悔しさ。待ち遠しさ。あと一人。あとたったの一人。ところがそれ以来どういうわけかどのお客様も当ホテルを訪れることがなくなり、なかば諦めかけていたときにあなた様が来られたのです」
ちょっと待て。話が変な方向に向かっているぞ?
「これで晴れてお客様十万人をお迎えすることができました。ようやく、ようやくこれで私たちは行くことができます。重ねて申し上げます。お客様。当ホテルのご利用ありがとうございました」
支配人はまたもや深々と頭を下げた。それに倣い、背後の従業員たちも一斉に頭を下げた。それから支配人が消え、従業員たちが消え、周囲のホテルが消えた。
今の今まで立っていた足場を失い、俺は地上十二階の高さから真っ逆さまに落ちた。
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