賽の河原

 うらららかな春の陽射ひざしが緑の絨毯じゅうたんを染めている。

 都市生活の中で久しく忘れていた鮮やかな芝生しばふが一面に広がる国立公園の広場。子どもたちがまりのようにねてはまわっている。

 大人たちは彼らを静かに見守みまもっているが、その眼差まなざしは決してあたたかいものではない。大人たちの瞳は冷たく光っていた。このしょくいた者だからこそ分かる監視者の視線だ。保護者や子どもには決してさとられないようにひそかに輝くたか。それは教育にたずさわる者ならいつしか自然と身についてしまうしょく業病ぎょうびょうたぐいなのかもしれない。

「豊かな自然と楽しく触れ合うことで園児たちの活動と視野の幅を広げる」という大義たいぎ名分めいぶんかかげてはいるものの、純粋に園児たちの成長せいちょうに関心がある者が一体いったいどれだけいるのだろうか。私たちの関心の的はもっぱら、子どもたちを安全に保護者のもとへ返すことであり、見る者が見れば、その裏には保身ほしんいろ明滅めいめつしているのは瞭然りょうぜんであった。もちろん、保護者や子どもたちに、そういった「先生の笑顔の裏」をさとらせるようなミスは犯さない。たとえ、ハリボテでも幼稚園の先生はフレッシュな存在でなければならないからだ。私が幼稚園教諭のしょくいてから一番初いちばんはじめにおぼえたのは、この「作り笑顔」であったような気がしてならない。

「先生は涼子りょうこちゃんを見ててちょうだい。今日は大人しくしているようだけれど、いつ何を起こすか分からないから」

 子どもたちの嬌声きょうせいが遠くで響いている。私は送迎そうげいバスの中で先輩の先生に指示された通りに園児たちのからはなれて、一人ひとりあそびにふけ涼子りょうこちゃんを芝生しばふに座りながら見守みまもっていた。

 涼子りょうこちゃんは少しばかりユニークな性格をしている。突拍子とっぴょうしのないことを言い出したり、周囲の子と揉めることもある。彼女の世話せわく先生も少なくなかった。先生が何より恐れているものは「予測不可能な行動」である。そういう意味で、涼子ちゃんは危なっかしい子どもだった。

 園児たちがおにごっこやかくれんぼに夢中になる中で、涼子りょうこちゃんだけが広場のすみで一人、静かに石を積み上げて遊んでいる。それは決して望ましい光景ではなかったが、思わず安堵あんどしてしまう状態でもあった。

 園児たちがあちらこちらでまわる広場のすみで、孤独に遊ぶ彼女がたっぷりの時間を掛けてきずげたものはいしとうであった。自身の胸の高さまでひたすらに小石をげてできた一本の石の塔は、はる陽気ようきらされながらも、カンとした不思議なするどさを保ち、広場のすみに存在していた。

 涼子りょうこちゃんはまるで儀式ぎしきのぞむような真剣さで、最後の石を慎重に塔のいただきに乗せると、後ろでその姿を見守ってた私を振り返って、ニコリと笑ってみせた。屈託くったくのない笑顔が燦然さんぜんと輝いていた。それは今まで閉ざされた世界の扉が開かれた合図あいずでもあった。涼子りょうこちゃんは私に小さく手を振ると、元気よく広場の中心へと駆けて行ってしまった。

 取り残された私は築き上げられたいしとうを眺めながら、みずかいのちった兄のことを思い出さずにはいられなかった。うずたかくげられた本の山にもれるようにして亡くなった私の兄。彼は家族に反対さながらも作家になることを夢見ていた。しかし、日の目を見ることはついになく、七年前に先にってしまった。

「いいかい。何事にも家族に対して感謝の気持ちを忘れてはいけないよ。一重ひとえんでは父のため二重ふたえんでは母のため……。」

 まだ学生であった私に兄はそんなことをよく語り、積まれた本の山を愛おしそうにでては微笑ほほえんでいた。家族にうとまれながらも、誰よりも家族を愛していた。兄はそんな人であった。

一重ひとえんでは父のため二重積ふたえつんでは母のため三重積みえつんでは西を向き、しきみほどなる手を合わせ、郷里きょうり兄弟きょうだいわがためと、あらいたわしや幼子おさなごは、泣く泣く石を運ぶなり……」

 原稿用紙に書かれた兄の遺書の末文まつぶんには、私によく語り聞かせていた言葉が残されていた。兄は最期さいごまで自身じしんゆめへの執着しゅうちゃく家族かぞくへの愛情あいじょう狭間はざまで揺れて苦しんでいた気がしてならない。兄の部屋に積まれた本の山と目前にたたずむ石の塔はどこかでつながっていて、通じ合っているようであった。

 子どもたちの集合を告げる笛の音が春の蒼天そうてんに響いた。涼子りょうこちゃんもかえ支度じたくのために引率いんそつ先生せんせいのもとへ走っていったことだろう。私はあらがいがたい石の塔の引力の前にして、あいわらず呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。子どもがたわむれに築いた石の塔がひどくなつかしく、とうといもののように感じられた。本の山に囲まれて、机に向かい、原稿用紙に筆を走らせている兄の姿がそこにはあった。いしとうくずすというさい河原かわらの鬼もしばらくは来そうになかった。


                                                      (了)

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