壺中の天

 いぶされしぶみのいた音声おんじょうむろうちひびいている。間をおいて叩かれる木魚もくぎょと時おり鳴らされるりんの音が一座いちざ夢幻むげんいざない、ゆかしい抹香まっこうにおいが遠い記憶を揺さぶってやまない。

 四十九日しじゅうくにち法要ほうようは親族のみでおこなうこととなった。告別式こくべつしきには相当そうとうな人数がつどったから祖父の顔は思った以上に広かったのだろう。社交とは縁遠い日々を過ごしていたので意外であった。今となっては祖父の人となりをうかがることは難しい。穏やかな微笑を浮かべる遺影いえいは何も語ってはくれない。

 ―不思議な人だったな―

 祖父にはずいぶんと良くしてもらった。初孫ういまごであったということを差し引いてもあまりあるほど甘やかされた記憶がある。人前では無口な老人で通っていたが、実はよく笑い、またよく語る人だったことを知っている、私だけが知る秘められた祖父の一面のように思っていたが、告別式こくべつしきの様子を思うと、それもさだかではないのかもしれない。

 私の知る祖父ははなしきであった。幼心おさなごころにも残っている思い出は祖父の膝元ひざもとかれながら昔話や民話を聞かせてくれた記憶である。彼の話は立て板に水のごとくよどみなく、んでふくめたようにこまやかだった。祖父のくちびるからでるはなし数々かずかずは僕を魅了みりょうしてやまなかった。

 祖父が私に語り聞かせたはなしを数え上げると枚挙まいきょいとまがない。相応そうおうの歳月が経つにつれて、祖父との間につむがれた思い出もり、おぼろげな記憶の集合体と成り果てている。しかし、そのような遠近えんきんうしなった過去のピントが些細ささいなきっかけで、ふいにさだまることもある。

「コチューノテンという話がある」

 中陰壇ちゅういんだん遺影いえいと共にまつられたきりはこ。その内にめられた骨壺こつつぼの存在が遠い日の記憶を呼び覚ましたらしい。

 ―あれは小学六年生のころか―

 関東では珍しい大雪が降った冬の日のことだった。祖父は黙ってラジオに耳を傾けながら、すっかり弱くなった歯で煎餅せんべいをしゃぶっていたかと思いきや、突如とつじょとして遥か昔から語り継がれてきたはなしを語り始めた。

「むかし、中国のジョナンの地に、ヒチョーボウという役人がおってな……」

 祖父の語る昔話は日本のものが多かったので、「ヒチョーボウ」という馴染なじみのない大陸の人名にやや驚いたことを覚えている。無論むろん、「コチューノテン」という字もどのように書くのか知らないでいた。両親に尋ねてみても曖昧あいまいな答えしか返ってこなかったが、わざわざ辞書を引いてまでして調べる気にはならなかった。祖父の物語に横槍よこやりれるようで気がとがめたせいもある。

 「コチューノテン」が「壺中こちゅうてん」であり、「ヒチョーボウ」が「費長房」という字を書くと知ったのはいつのころだったか。記憶はさだかではないが時代はそれほどさかのぼらない。

 壷中こちゅうてんとは中国の故事こじである。費長房ひちょうぼうという名の役人が市場いちばで一人の薬売りの老人を見つける。老人はいつも店先に一つのつぼをぶら下げていた。ある夜、費長房ひちょうぼう高楼こうろうからいちの様子を視察しさつしていると、老人がぶら下げていたつぼの中にひょいと飛び込んで消えてしまうのをたりにする。

 翌朝になり、費長房ひちょうぼうが酒とさかなたずさえて老人のもとを訪ねると、翌日の晩にもう一度、自分を訪ねてくれと言う。費長房ひちょうぼうが言われた通りに訪問すると、老人は彼をつぼの内へと連れて行く。つぼの中には壮麗そうれい宮殿きゅうでんがり、立派りっぱ馳走ちそうが用意されていた。老人と費長房ひちょうぼう桃源郷とうげんきょうで酒をわすという話である。

 ―何を思ってあの話をしたのだろう―

 窓の外でしんしんと雪の降り積もる冬の日。祖父の横顔にはすでにかげりがあったように思える。瞳の奥に怪しく光るものがあり、幼心おさなごころにひやりとさせる鋭さがあった。もしかすると老いの中にひたひたと迫る死を感じ取っていたのかもしれない。老爺ろうや心中しんちゅうよぎった想いをはかることは難しかった。

羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい波羅羯諦はらぎゃてい波羅僧羯諦はらそうぎゃてい……」

 僧侶のきょうも終わりに近づいたころ、きりはこめられていたこつつぼが、カタリと鳴った。

 思い違いかと辺りを見回すと親族しんぞく一同いちどう中陰壇ちゅういんだんまつられた桐箱きりばこをじっと見詰みつめている。

 私は祖母が静かに涙を流すのを見逃さなかった。彼女の胸中きょうちゅうに思いを巡らせたが、何とはなしにちないものがある。

 ―ああ、そこが壺中こちゅうてんなのか―

 今や、いきづきあたたかな涙を流す祖母よりも、物言ものいわぬ白粉はくふんとなりつぼおさめられた祖父の方が近くに感じる。彼はきっとつぼの世界で遊んだ費長房ひちょうぼうのように絢爛けんらん御殿ごてんの内でさけかたむけているに違いあるまい。宿世すくせごうからはなたれた霊魂れいこんつぼの中で悠々ゆうゆうとたゆたっている。祖父が求めた浄土じょうどがそこにはあった。

 祖父の遺影いえいは相変わらず、なぞめいた微笑みしょうをたたえている。りんとしたすず寒々さむざむとしたむろうちに響いた。


                                                     (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る