70話 黒い跡

リュカオンとアンジェラは、妖精の目撃した地点に到着した。聖域に近い中層の南西部。小さな池が点在しているこの場所は、夜行性の生き物たちが水を飲みにやって来る。中にはその生き物達を狙い、魔物や肉食獣が現れる。


『退屈ねぇ……』


 観察を始めて一時間が経とうとした時、妖精はアンジェラの頭の上でぼやいた。

 生い茂る草に隠れるアンジェラは目に魔力を集中させ、より鮮明に、より細やかに魔物達の観察に集中する。その代償に周囲の警戒が出来ない為、リュカオンが警備に回り神経を研ぎ澄ませている。


『2人とも、あの子がいないと無言なの? お喋り好きじゃないの?』

「……この状況で、気楽に話すわけがないだろ」


 声になるか分からない程に小さな声でリュカオンは応える。


『殻のあるやつは、大変ね。アタシなんて、こーんなに話しても、全然問題ないのに』


 妖精はからかう様にリュカオンに言うが、彼は特に気に障った様子は見せない。若干の毛嫌いはあるが、激情する程の嫌悪や差別意識が無いからだ。


「アンジェラさん。どうですか?」

『ちょっと無視しないでよ!』

「今確認できている魔物達は、ボクが2日前に見たのと同じ。動きも特におかしな点は見られないよ」

『あら。アタシが見たやつは移動したのかしら』

「それらしい気配はいないし、近づいてこないし、その可能性が高いかな。場所を変えてみよう」


 物音を可能な限り抑え、3人は池から離れ、南へと向かう。

 歩き始めて20分が経とうとした時、アンジェラは足を止める。リュカオンはその理由にすぐに気づいた。


「血の匂いですね」

「うん。これは哺乳類系の魔物だね。割と大きい」


 匂いだけで種類を言い当てる姿にリュカオンは驚く。そんな彼をよそに、アンジェラは血の匂いがする場所へと急いだ。


「んん? ちょっと待ってね」


 さらに匂いが濃くなった時、アンジェラは足を止める。作業着の左胸のポケットから、鉄製のピンセットと小さなガラス管を取り出す。


「地面を見てみたい。灯り出せる?」

「わかりました」


 リュカオンは小型のカンテラに灯りを入れる。3人が突き当たったのは、まるで人間が作った様に広い獣道だ。見た目と同じく牛の様に群れを成すリュストゥーカンの生息する牙獣の王冠では度々見られ、多くの魔物達が利用している。


「獲物を引きずった跡だね」


 剥き出しとなった地面には黒く染まった道が出来上がっている。これは、地面に染み込んだ血が黒く変色したものだ。アンジェラはピンセットで血の付いた土を少量ガラス管の中へ入れ、蓋を占めると封印魔術を張った。


「色は変化していますが、匂いはまだ強いですね」

「結構な量が出たみたい。負の想念の残滓は感じ取れないけれど、肉食獣が安全な場所で食べようとした割には奇妙だ」


 捕食者にとって、血もまた貴重な食糧の1つだ。水分は、池や湖、水たまりで得ることは出来るが、塩分は獲物からしか得る事がほとんどできない。血の一滴すら、彼らにとっては貴重な栄養源だ。全てを飲み干す事は不可能であり、こうして移動と共に垂れ流されてしまうのは当然ではある。


「虫が一匹も飛んでいない」


 その場所の違和感を駆り立てる。牙獣の王冠に生息する虫の中には、花の蜜や樹液だけでなく、血を吸う蝶やハエなどの種が幾つか存在する。捕食者の食べ残しや血の染み込んだ土に群がっているのをアンジェラは度々見かけていた。しかし、まだ血の匂いがする土には、一匹たりともいない。


「地面に足跡や爪跡が無いのも、おかしいですね」


 リュカオンは黒い跡の周りを見ながら言う。

 引き摺った跡の横幅は約一メートルあり、血の量から大きな獲物であるのが伺える。引きずる側は自身の体を支える為にも地面を強く踏みしめ、時に滑らない様に爪を立てる筈だ。飛竜など空を飛べる魔物であれば、飛び上がる際に発生する強い風によって地面や植物に痕跡が残る。しかし、どちらも見当たらない。

 また、負傷した魔物が身体を引きずって移動したとしても、同じことが言える。


「これは、キミが言っていた黒くて赤くてドロドロかな?」

『アタシが見たのは、星の愛子より一回り小さい位よ』


 もし跡が残るとすれば、横幅は20㎝もあれば良い位だ。複数の個体が存在し、それが合体して大きくなったとすれば、魔物よりも厄介なモノが誕生する。


「出会ったら危ないと思う。でも、どうやって大きくなって、現在どの地点にいるかは調べておきたい」


 見つけられなくとも、行動範囲を知ることが出来れば次に活かせる。アンジェラは発見地点の目印代わりに枝を一本地面に突き刺し、引きずり跡の向かう方向へ歩いて行く。

黒い跡に沿って3人は移動したが、15分程歩くとそれは忽然と消えていた。土に潜った様子は無く、周囲に複数の獣の足跡があった事から、憑依したと推測される。場所を王冠の位置と方角を照らし合わせ地図に印をつけ、跡の道を戻っていく。複数個体の合体ならば一か所に集まった跡があると想定し確認しようとしたが、それもまた消えてしまっていた。


『うわ……なにこれ。死者を導く妖精でも、こんなイタズラしないわよ』

「これは、厄介だね」


 妖精は怪訝そうに顔をしかめ、アンジェラは目印として突き刺していた枝を見て、ため息を着く。

 枝の刺さっていた地面の黒い跡が徐々に消え、2人の足元をバッタが飛んで行った。

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