終演エチュード

坂巻

終演エチュード

 これは、私がまだ中学生だった頃の話だ。



 とある日の放課後。私は久しぶりに吹奏楽部へと顔を出した。

 音楽室に行って今日の後輩たちの居場所を聞く。私が所属していた吹奏楽部のサックスパートは、特別教室が多い南校舎の3階で練習しているとのことだった。


「花梨先輩久しぶりに会えて嬉しいです」と喜ぶ後輩もいれば「この時期の練習に急に来ないでください」と注意してくる後輩もいる。

 少しだけ話をして私はすぐに彼女たちとは別れた。


 南校舎の階段を下り人気のない1階の廊下を見渡す。せっかくここまで来たのだから、普段は立ち寄らない教室をじっくり目に焼き付けておこうか。

 準備室や実験室に入ってみたい、というちょっとした冒険心だった。


 校舎の端から特別教室の窓やドアをひとつひとつ引っ張ってみる。

 だがガチャッと金属が抗う音がして、どの入り口も開くことはなかった。残念ながら全て施錠されている。しかたなく私はドアの窓から見える範囲を覗き込んで楽しんだ。

 埃のかぶったステンレス製の棚や、古ぼけた実験器具。この学校で随分長く過ごしたのに、知らない場所や物は多い。慣れ親しんだ学び舎には、まだまだ未知が潜んでいる。

 誰も居ない廊下をゆっくりと歩いて、いくつもの教室のドアを開けようと試みる。

 そして、とある教室の前で立ち止まった。

 理科室や家庭科室のような特別教室ではなく、黒板といくつかの机が配置された小さな教室。


 だが、明らかにおかしな点がある。


 教室の前に設置された黒板は、その表面が全て新聞紙によって覆われていた。

 何枚もの新聞紙が重ねられテープによって固定され、黒緑の平らな面は見ることができない。

 その上にA4サイズの白い紙が1枚張られ、こう書かれていた。


 <危険 触れるな>


 反射的に教室の引き戸に手をかける。


「花梨? そんなとこで何してるんだ?」

 身体がびくりと強張り、抵抗感と共に私は動きを止めた。


 声をかけてきたのは、若い女性だった。外とも通じている渡り廊下からやってきた彼女は、上下紺色のジャージを着用し、数冊のファイルと小さな箱を持って立っている。授業でよく使う白と赤のチョークでその指先は汚れていた。

 保健体育担当の、私のクラスの副担任だ。


「せん、せい」

 突然のことに、返事が不自然なものになる。何だか不味い現場を目撃されてしまった心地で、言い訳のように説明を続けた。

「その、この教室黒板が変なんです。危険って」

「あー、それなあ」

 腰の辺りでチョークの粉を払いながら、先生はファイルの位置を変えて安定するように持ち替える。

「……実は、数日前にそこの黒板割られちゃって」

「割られた?」

「うん。生徒が触って怪我するとよくないから、覆ってるんだ。教室には鍵かけてあるけど、危ないからここには近寄るなよ」

「はい。でも、一体誰がそんなことを?」

「え、あー、どっかの不審者だと思うけど」

 副担任はしまった、という表情を浮かべる。

「とにかく犯人のことは気にしなくていいから」

 生徒に教えるべきではないことを言ってしまった、という雰囲気だった。


「それよりも、花梨はここで何をしてたんだ?」

「吹部の後輩が3階で練習してるって聞いて様子を見に行ってたんです」

「やっぱり引退しても、部活は気になるか?」

「そうですね。寂しいですし」

「だよなあ。この間、バレー部の後輩に会いに飛鳥と綾野も練習来てたよ」

「あの2人もですか」

 副担任は、バレー部の顧問もしている。飛鳥と綾野は私と同じクラスの友人だ。


 そこからは部活の話になってしまい、結局不審者については聞き出せなかった。もう校内に用はないと言った私を、副担任は会話を続けながら下駄箱まで送ってくれる。

「気をつけて帰れよ」と手を振って、副担任は職員室へと戻って行った。


 どうしようもなくモヤモヤする。


 人のいない冷え切った南校舎で、黒板一面に張られた新聞紙と危険を伝える張り紙。

 明らかに異質で背筋がぞくりとした。


 このまま何もわからないまま終われない。

 そう考えた私は、家には帰らず『あそこ』へ寄り道しようと決めた。



「お姉さん、います?」

 遠慮なく立ち入ったのは、通学路の途中にある商店街の中の店舗。

 たまに訪れる音楽用品店だ。


 吹奏楽部に入った頃、初めての楽器に興奮して部活のサックスを持ち帰った。そして家でもお手入れをしようとして、スワブという中を拭くための布を詰まらせた。慌てた私が駆け込んだのが近所のこの店で、それ以来店員さんとは付き合いがある。


「はいはい、何のご用ですか。花梨さん」


 店の奥のカウンターでのんびりとした声で返事をしたのは、この音楽用品店の娘で大学生のお姉さんだ。講義がない時はご両親に代わって店番をしている。

 お客さんが多いわけではないので、彼女は本を読んでまったりと過ごしていることが多い。

「お姉さんの好きな事件なんです。ちょっと一緒に考えて欲しくて」

「事件? 女子の多い部活特有のどろどろした部内揉めの話は嫌ですよ」

「そうゆうのじゃなくて!」

「ふうん」


 お姉さんは泣きぼくろのある目を細めると、カウンター前の丸椅子をこちらに勧めた。

「どうぞおかけください。お話ぐらいは聞きましょう」

「ありがとうございます」

 通学鞄を足元に置いて椅子に座る。そして私は先ほどの出来事をお姉さんに語って聞かせた。



 初めて店にやってきた日。サックスから華麗にスワブを取り出したお姉さんに、私はお金を払おうとした。けれど彼女は『料金はいいから今後消耗品はうちに買いに来て。あと学校や友人関係で面白い事件があれば教えて欲しいです』とお願いしてきた。

 どうやらお姉さんは、日常の小さな謎に思考を巡らせるのが好きらしい。

 前にクラスのちょっとした事件で助けられたことがあったので、今回の話も喜んで推理してくれるだろうと私は思っていた。


「黒板が割れて、不審者、ですか」

 一通り話し終えると、お姉さんは顎に手を当てて考え込んでしまう。

「事件ですよね? 犯人は誰だと思います?」

「うーん」

「といっても、情報も少ないし必要なことがあれば明日こっそり調べてきますよ? 調査なら任せてください」

 その時の私の気分はさながら探偵助手だった。

「いいえ必要ありません」


 お姉さんはオレンジ色の砂の入った砂時計を取り出しカウンターに置く。


「今から5分間、いくつか質問をします」

 彼女は砂時計のガラス部分を指でなぞった。


「その短い時間に得られた情報だけで、この事件の真実にたどり着いてみせましょう」


「おお、かっこいい!」

「嘘です。真実かどうかはわからないけど、たぶん一番可能性あるかなーぐらいの結論にはたどり着いてみせます」

「お姉さん、かっこつけるなら最後までやってください」

 警察でもないし探偵でもない、所詮は近所の大学生のお姉さんだ。


 お姉さんが砂時計をひっくり返す。彼女の言葉通りなら5分で砂は全て下に落ちる。

 ともかく、学校の黒板破損事件についての推理はこうして開始されたのだ。



「まず、最初の質問です。花梨さんは後輩に会うためとはいえ、普段行かない南校舎へ行きました。――あなたが犯人ではないですよね? この犯人というのは、語り聞かせた事件の内容に嘘を混ぜた、という意味も含みます」

「違いますけど!?」

 開始早々疑われてしまった。

「では、あなたは嘘をついていないと仮定して話を進めましょう」

「ついてないです!」

「すみません。まず語り手が信用できるかどうかは、ミステリーとして重要なので。ミステリ慣れしている人は、まず語り手や依頼人や証言なんかは全部疑います」

「ミステリ慣れしてる人って大変なんですね」

「基本ですからね。では次に、黒板が壊されていた教室ですが窓は割れていましたか?」

「割れていなかったと思います」

「本当に? 黒板に注目していて見落としてしまったとか」

「え、と。まず教室の後ろ側のドアを開けようとして鍵がかかっていたんです。それでドアのガラス越しに中を見て、奥の窓も全部施錠されてるなと思って。視線を移動させたら教室の黒板が変だったのでもっと近くで見ようとして、前のドアまで行って変な黒板をしっかり見たんです。だから間違いないです」

「前のドアに鍵は?」

 副担任に声をかけられて動きは止めたが、あの時の抵抗感は覚えている。

「かかっていました」

「花梨さんが冒険気分で歩いた南校舎の他の教室はどうでしょう? 鍵はかかっていましたか?」

「確かめた所は全部かかっていました」

「では次に、生徒が校内の教室を使いたい場合の方法を教えてください」

「部活の時は事前に顧問の先生が貸し出しの紙に書いておいてくれるので、職員室にいる先生の誰かにそれを見せてハンコをもらったら、先生がキーボックスから鍵を出して渡してくれます」

「部活以外の生徒が使うときは?」

「え? えーと、委員会も同じ感じで……たまに数人で勉強会するってやつらは、自分のクラスで放課後そのままやってるから鍵は借りないし」

「じゃあ次の質問。花梨さんが遭遇した副担任の持ち物について詳しく教えてください」

「確か100均とかで売られてるようなプラスチックのアルバム?みたいなやつと、箱……新品のチョークが何本も入ってる箱を持ってました」

「では、最後の質問です」

「もう!?」


 ドキドキしながらお姉さんの言葉を待つ。けれどお姉さんは首を振り、左手を私の後方へと伸ばした。誰かを誘うような動作だ。


「ちょうど良いタイミングです。謎に導かれた最後の回答者よ、どうぞここに」

「ただいま。――え、何。こわ」


 私が背後へ振り向くと、そこに居たのは制服姿の女子高生だった。この音楽用品店の2人目の娘さんで、お姉さんの妹だ。


「我が妹、ちょっとこっち来て。聞きたいことあって」

「急に意味わからん。は?」

 戸惑いつつも、妹さんはお姉さんに近寄りなにやら耳打ちされている。

「あってますか?」

「よく覚えてたね、そだよ」

 最後の問いは私には謎のまま、無情にもオレンジの砂が全て下へと滑り落ちる。

 質問終了だ。


「可能性の一つに、たどり着きましたよ」

「わかったんですね犯人が! 誰なんですか!?」

「そーですね。不安だけでも取り除いておきましょうか」

 お姉さんは頬に手を添えるように自身の泣きぼくろを撫でる。話す時によくやる彼女の癖だ。


「花梨さんは、黒板破壊の犯人は不審者だと思っていますか?」

「え、だって先生が不審者って……」

「教室の窓は割られておらず、しっかり施錠もされていました。不審者がドアから入った可能性もありますが、あなたの話を聞く限り他の特別教室も全て施錠され誰でも入れるような管理体制ではなかった――というかですね、もし不審者騒ぎがあったなら普段通り生徒に部活させませんよ。だって、危ないじゃないですか」

 お姉さんの言う通りだった。担任からもそんな連絡はない。


「犯人不審者説をこの事件から消します。次に消すのは生徒の可能性です。これは結構簡単ですね。クラスで使用している教室でもない。南校舎にある特別教室を簡単には開けられない――鍵の入手方法が難儀です。そして鍵を壊して入った形跡もない」

「確かに生徒には難しいと思います。あの教室部活でも使ったことないし」

「では、残るは教師ですが。いますよね、1番怪しい人」


 1番怪しい、と言われてドキリとした。

 お姉さんに話した教師の名前は1人だけだ。


「でも、その、学校の備品を壊したりするような人では……」

「副担任の先生、バレー部の顧問なんですよね? どうして部活の時間帯に南校舎にいたんでしょうか。そして存在しない不審者なんてワードを出したんでしょうか。花梨さんを教室から引き離したかったんでしょうけど、即興劇にしてはお粗末な点が目立ちます」

「ちょっと待ってくださいよ!」

 畳み掛けるようなお姉さんの言葉に顔が引きつる。


「では、根本的な話をしましょう。――黒板って本当に割れているんでしょうか」


 私は短く息を呑んだ。

「花梨さんは実際見たわけではないですよね。もし破損して危ないというのであれば、教室に鍵をかけておけば十分なんですよ。わざわざ新聞紙で覆う必要もない」

「……ということは?」

「黒板を見られたくなかったんですよ。以上です」

「ええ!?」

 すっきりしない答えだった。結局何もわかっていない。


「1か月後ぐらいなら、答え教えてもいいですけど」

「今、教えてください!」

「じゃあヒントだけ。時期をよく考えてください。あと私が妹にした最後の質問は、花梨さんの副担任の名前を伝えて妹の中3の時の副担任と同一人物か確認するためのものでした」

 お姉さんは微笑み、妹さんは黙ったままだ。


「まあ正直なところ、花梨さんには気づかないでほしいですね」



 ♪ ♪ ♪ ♪



「なにしてるの?」

 ふいに声をかけられ、私は懐かしい記憶から一気に現実へと引き戻された。書斎の扉の隙間から6歳の娘が不思議そうに尋ねる。

「掃除と片付け」

 手元のアルバムを少し持ち上げて答えると、娘は納得したように頷いた。

「あのね、ごはんできたって。よびにきた」

「ありがと。すぐ下に行くよ」

 お礼を言えば彼女は満足そうに笑って走り去る。私は立ち上がり、開かれたアルバムのとある写真を改めて見た。


 中学3年生、最後の日の写真。

 担任と副担任を囲むように私とクラスメイトたちが写っている。場所は馴染みの教室で、背景には授業で使っていた大きな黒板があった。


『卒業おめでとう』


 チョークで書かれたお祝いの言葉と、クラス全員の似顔絵。

 それはこの日のためだけの副担任の傑作だった。

 絵の得意な副担任が人気のない南校舎の教室でこっそり練習し、位置やデザインを考えたそうだ。卒業式後、あの時は焦って変な誤魔化しをして申し訳ないと副担には謝られた。

 後日、私はクラス写真を持って卒業を報告しに音楽用品店を訪問した。

『さすがにサプライズのネタバレはできないですよ』

『すご。私の時より上手くなってる』

 お姉さんと妹さんの感想はこんな風だった。お姉さんは副担任の名前と情報を聞いて、妹さんの中学卒業時を思い出したらしい。時期と黒板から連想し、副担任の思惑を察したようだ。


 誰もが人生でいくつもの節目を迎え、そして誰かに祝われている。大切な日がより良いものになるように、本人がもしくは周りの人が準備や練習を重ねている。

 副担任の黒板アートは見事だったし、送別会のために先輩に隠れてこっそり練習していた後輩たちの演奏は嬉しかった。

 きっと出来事は終わっても受け継がれて、知らない誰かが繰り返す。

 砂は落ちきっても誰かがひっくり返して、新しい時間を紡ぐのだ。


 私の娘ももうすぐ卒園式を控えていて、それが終われば小学校の入学式だ。

 自分には何かできるだろうか。久しぶりにサックスでも練習してみようか。式の準備以外に、娘に送れるものがないか思案する。


「おとーさん! まだー?」

「ごめんごめん。今行くよ」


 懐かしいアルバムをひとまず机において、私は書斎を後にするのだった。




 <終演>

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