名画鑑賞

@MasatoHiraguri

第1話 「アルノルフィーニ夫妻」と大学日本拳法

 2022年 5月11日

 V.2.10

 平栗雅人



 名画鑑賞のお時間です。


 まずはこの作品。

 https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/image-12740630045-15111655861.html


 ① この写真を見ての第一印象 → 日本ではまだマスクなんですね。

「マスクで肺に行く菌の増加、マスク酸欠による免疫低下も相まって、肺炎患者が増えている」「「15以上の科学的研究が、マスクの使用に利点はなく、さらに悪いことには有害であることを示している。」なんて記事が、巷には随分とありますが・・・。

(まあ、ブログで公表する写真を撮るときだけは、学校や社会に配慮してマスクをしているのだろう、と私は勝手に思っていますが。お気をつけ下さい。ちなみに、台湾はマスク会社は国の重要な道具であり資金源ですから、そう易々と解除にはなりません。)


 ② しかし、次の瞬間、「おぉ、これは !」

 画面中央で、差し入れを手にして立つ二人の後ろに(台湾でのパソコン・モニターの解像度が粗いので、ぼんやりとしか見えないのですが)森の精霊のような二人が写っています。


 この時私は、ファン・アイクの名画「アルノルフィーニ夫妻像」1434年 を思い出しました。


 AAA「アルノルフィーニ夫妻」

 https://external-content.duckduckgo.com/iu/?u=https%3A%2F%2Ftse1.mm.bing.net%2Fth%3Fid%3DOIP.Uu2bB7Fj43YV_e6cABgQAQHaKM%26pid%3DApi&f=1


 Wikipediaの解説によると、

「この作品にこめられた寓意性・独特の幾何学的直交遠近法、背面の壁にかけられた鏡に映し出される反転した情景など、西洋美術史上でも極めて独創的で複雑な構成を持つ作品であり、精緻な油絵の嚆矢であると評価されている」そうです。


 <精緻さと幾何学的直交遠近法>

 確かに、画面中央に立つアルノルフィーニ夫妻と、その奥に掛けられた凸面鏡に小さく写る夫妻の背面が、まるで本物の鏡に映ったかのように精細に描かれている。

 そして、彼らと向かい合って(画面の手前に)立つ二人の男性の姿も鏡に映し出されて(精巧に描かれて)いる。まさに「遠近法をうまく使った精緻な」絵であることは確かなようです。


 <絵の寓意性>

 しかし、「寓意性」となると、重箱の隅をつつくような、瑣末でどうでもよい話ばかり。


 ○ 昼間に教会祭壇のランプのように点灯されたロウソクは、聖霊の来臨と神の目が絶えず存在するということを表している。

 ○ 描かれている凸面鏡は、非ユークリッド幾何学を完璧に表現した作品として引き合いに出される。

 ○ ベッドの近く、部屋の奥に立つ女性は家政を司る妻としての役割を、開かれた窓の近くに立つ男性は家の外で働く夫としての役割をそれぞれ象徴している。

 ○ 妻が自ら、あるいは夫の代理人として商取引を行う法的権限を夫が委任したことが、妻に向って掲げた夫の手で表現されている。

 ○ 室内の空間を表現する光の表現が「屋内の様子とそこにいる人間の描写として、これ以上に説得力あふれるものはない。

 等々。

 で、結局は

「単に結婚記念として描かれた作品である可能性が最も高い。」なんて、もったいぶった言い方で、なんでもない事実を述べている。


 BBB「場と間合いとタイミング」の芸術 大学日本拳法の面突き

 https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/image-12740630045-15111655861.html


 ところが「この一枚」には、西洋にはない、東洋的で大学日本拳法的なる、直截(簡単明瞭)でありながら深遠な意味が込められている。

 ○「中国古典名言辞典」諸橋轍次 講談社学術文庫 

 ○「中国の古典名著 総解説」 自由国民社 

  レトリックだの修辞学だの弁証法だの、やたら難解な西洋の古典とちがい、東洋(中国)の古典籍とは、きわめて簡単明瞭であり、それでいて奥深い内容を持っています。


 この一枚の写真もまた、「場と間合いとタイミング」で一瞬を切り取られた、しかし、かなり考えられた構図とシャッター・タイミングによる、まさに「一本 !」とでも言うべき「芸術作品」なのです。

 ストレートで切れのいい(わかり易い・誰にでも納得のいく)面突きでありながら、深い味わいがにじみ出ています。(寓意性)


 また、単にきれいな景色を切り取った(カメラで写した)だけでは芸術作品と呼ぶには少々物足りない。やはり、人間が作り上げた人工物でありながら「作為性」を感じさせず、むしろ大自然そのものを実感させてくれる。そんな絵や彫刻こそが「芸術作品」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。


 <寓意性>

 では、いったいこの一枚にどんな意味が込められているというのでしょうか。

 ①「場と間合いとタイミング」

 <場>

 ファン・アイクの「アルノルフィーニ夫妻」では、幾何学的直交遠近法によって人や物を直線的に配置することで、遠近感(奥行きの味わい)を出していますが、それは単なる一方向における遠近でしかない。

 しかし、この絵(写真  https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/image-12740630045-15111655861.html)では、二つの方向の遠近を交差させ、且つ、それを斜めに写すことによって、より立体的な奥行き感が出ている。


 正面の二人をA、奥の精霊をB、画面左の二人をC、そして画面右奥の着替えをしている男性をDとする。

 すると、AとBとの遠近感、AとCの遠近感、AとDの遠近感、更には、CとB、そしてCとD、計5つの関係によって立体的な構図(より現実に近い絵)が表現されているということがわかります

 この写真が、これだけの要素による遠近感を計算し、それを最も効果的に見せる角度を考慮しながら撮影されたものであるとするならば、まさに芸術作品と呼ぶに値するではないでしょうか。


 また、人物たちの服装(上着)は、白と黒(濃紺)に統一され、光と影・陰と陽という「物事の根本的な原理(陰陽)・究極の一点」に見る者を引き込み、余計なことを考えさせません。

 チョコレートパフェやサラダではないので、彩りの豊かさ(赤や黄のシャツ)は、ここでは不要なのです。


 一つ残念なのは、「アルノルフィーニ夫妻像」のような、光と影の落差という要素を取り入れられなかったことですが、これは、スタジオ撮影ではなく、あくまでも道場という場で且つ、与えられた時間内で一瞬を切り取るという作業ですから仕方がない。

 しかしながら、Dの男性が立つ道場角の部分に薄い陰影があることで、この写真に「原点」を与えてくれている。斜めに写した写真というのは、得てして不安定さが出てしまうものですが、ここでは、Dの立つ壁の交点に生み出された陰によって、画面に締りが出ているため、不安定さがなくなっている。


 100パーセント光だけの世界では「イモ」なのですが、ほんのわずかに暗い影がそこにあることで、光(明るさ)がより引き立ち、この大学らしい明るい雰囲気がよく出ています。

 (私が中学生の時、上から下までビシッと決めて出かけようとすると、母が言いました。「あんたね、全部格好いいっていうのはダサいのよ。江戸っ子は少しだけ野暮なところを残すものよ。」と。)


 寓意といい、この写真は日本拳法における「二の精神」に溢れています。

 ○ 白黒二色の基調

 ○ 二つの壁がぶつかり合う道場の角

 ○ 壁の真ん中の暖かい木目が、柔らかい白色(緑色)の畳と、冷たい白色の窓・天井という二つを分けている。

 ○ AとB、二つの遠近

 ○ CとD、二つの遠近

 ○ A・B・Cはそれぞれ二人

(Dも二人にすると、構図としてつまらなくなってしまう)


 <間合い>

 A・B・C・D 4つがすべて違う距離(間合い)に配置されている。


 <タイミング>

 AとBはシャッターチャンスに合わせていますが、CとDは、シャッターを押す瞬間も、写真を撮ること自体をも全く意識していないかのようです。Cの二人は何かを話しています。そして、Dは全くの一人で自分の行動に没頭している。

 A・Bは意識し、C・Dは無意識という、ここでも陰陽・裏表・正負という二つのサイドを、一瞬で切り分けて見せてくれているわけです。


 ② <日本拳法における双方向性> vice versa 逆もまた同じということ

 CとDは、見る見られるということには全く無関心の、言ってみれば、ただの置物(脇役)です。また、Aの二人はこちらを見ていますが、それはこちらを向いて立っている、というだけのことにしか過ぎません。意識してこちらを「見ている」わけではない。

 しかし、B二人の精霊は、明らかにこちらを見ている。

 この写真を見る読者(観客)を、逆にあちら側から見ているのです。

 これはなにも監視カメラで監視されているとか、衛星から見られている、というような話ではありません。

 私たちが人や・物や・景色を見るというのは、同時に「鏡の中の自分を見ている」かのように、自分もまた見られているということなのです。


 二人の精霊は、そう私たちに教えてくれているかのようです。

 私が日本拳法で実感したことは、自分が相手をぶん殴るというのは、同時に、自分もまた相手に殴られる、ということ。ケンカの殴り合いでは無意識に殴り合うのですが、日本拳法ではそれを強烈に意識することができる。

 自分が攻撃するというのは、相手にとっても勝機(チャンス)であり、自分が相手に攻撃されるというのは攻撃される自分にとっても大きな勝機が与えられている。そういう意識ができるようになったことで、どんな苦境でもそれを逆に勝機に変えようとするし、どんなに自分の立場がいい時でも正気を失わず冷静に自分を見つめようとする。

 この「日本拳法における双方向性 vice versa」という学びを、大学時代の殴り合いの中で学んだことは、私にとって大きな意義があったのですが、鏡の国のアリス・精霊たちは、それを今、もう一度リマインドさせてくれたのです。


「見ることは見られることだよ(一方的に自分が相手を見るのではなく、自分がその相手となり、自分も見られているという意識を考慮しながら相手を見る、というものの見方 → カントの「純粋理性批判」の根本にある考え方でもある)。殴るとは殴られることだよ。攻撃されている時とは、逆に自分が攻撃できるということなんだよ。」と。


 ③ また、つい最近、私が学んだ(https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/entry-12712966333.html)日本拳法の大きな意義の一つですが、

 日本拳法とは、直接・思いっきりぶん殴る、蹴る、投げるという、きわめて過激で乱暴な格闘技というイメージがありますが、その極めて現実的な戦いの中で、

 ○ 人を育てる(特に精神面を成長させる)

 ○ 愛(互いの存在価値を前向きに認め・積極的に互いを高め合う)

 といった形而上的な意識を持つことで、

 寸止めという仮想(空間)世界では得難い、自分と相手(同期や後輩)との強力な内面的充実を相互に図ることが可能となる。

 単に、肉体的・精神的に強くなることばかりを目指すのではなく、心の豊かさや愛(真の相互理解)によって、一味違う世界(異次元の、ものの見方)を後輩たちに体験させてあげるということを、この方はされてきた。


 実際、このリーダーは、4年間の日本拳法ライフの中で、強力なドリルのような強い直進性と論理性、そして、柔軟な心と豊かな文学的感性という、相反する二つのちからを、うまく自己の中で整合させるという鍛錬を繰り返し、部員たちに対しても(愛による指導によって)効果的な成果を挙げてこられたようです。


 思いっきりぶん殴り・ぶん殴られるから、現実というものを肌で知り、尚且つ、心で現実を直視できるから精神的な成長も確実に実感できる。

 更にそこに「愛」が加わることで、外面・内面に美しさが生まれてくる(本当に拳法が強い人は、その形もまた美しいではありませんか。「明治の木村」なんて人は、蹲踞の姿勢の美しさでも日本一といえるでしょう)。


 「愛によって人を育てる」とは、この大学で70年以上も続けられてきたことなのかもしれませんが、一昨年来からチームを統べてきた女性キャプテンの「2年間の溜め」が渾身のブログ(2021年11月)となって開花し、その方法論の一端が明らかに(文章化)されました。

 (しかし、如何せん、40年前の某大学で、愛のない日本拳法をしていた私(たち)には、正直、頭でわかっても実感できていません。)


 人の心を見てそれを紡いでいくという、そんな日本人的な人の育て方とは、漢方薬と同じで、その効果が現れるまでには時間がかかるもの。

 近頃話題に上る、かのナチスの円盤にしても、200年前のカント哲学の影響を受けたといってもいいくらいで、哲学とか教育といった形而上の力(精神的感化)というものは、それが結晶化するまでに長い時間がかかる。


 あの宮崎駿や、「君の名は。」の新海誠監督に代表される「日本アニメ」というブランドにしても、縄文人10万年という長い歴史の中から紡ぎ出されたものです。

 縄文時代とは1万年くらい前のことですが、それ以前の、この狭い日本列島における長い長い純粋日本人の血の繰り返しが、濃い血となって縄文日本人の中に流れているのです。

 (2千年前に半島から渡ってきたといわれる弥生人など、原日本人・縄文人の歴史に比べれば、パンの表面に生えたカビのような存在でしかない)。


 R大のTさんの場合も、創部以来70年間蓄積された「無形」文化財のような形而上的パワーが、こんかい彼女によって初めてブログ上で「有形」化(具現化・視覚化・文章化)されたわけで、奥が深い。

 私のような、ただでさえ「愛」とは門外漢の、昔のバンカラ時代の人間には、その功績・功徳・効能が頭でわかっても、なかなか「真似」するのは難しいかもしれません。


 「愛によって人を育てる」とは、彼女のキャラクターあってこそなのかもしれませんが、アメリカのプロ野球における「セイバー・メトリクス」のように、数値化によって絶対性を保障するところまで行かずとも、どこの大学の誰でもが、彼女と同じ成果を出せるような、再現性のある科学にしてほしいと思います。



 <これが芸術作品だ !?>

 ○ 高村光雲の「老猿」

 まさに「自然が芸術(作品)を真似る」といえるほど、本物の猿を越えた猿を、彫り出した。

 ○ あの「日大芸術学部」がある学校の作品。

 https://ameblo.jp/nichidaikenpo/image-2521157199-14576881276.html

 狂ったような暑さの夏、咽喉が潰れ、汗が出なくなっても全力で動き、気を失うくらいになるまで夢中で殴り続けた合宿。何でこんな暑くて苦しいものをつけて、と忌み嫌った防具。特に、密閉感・閉塞感のある日本拳法の面は、まさに拷問とでもいうべきで、どれほど憎んだものでしょうか。


 そのにっくき面も、卒業後40年もして見れば、

 「この面の おかげでついた根性で、40年も長生きし」


 「日本拳法の面という拷問」を体験していなければ、社会人としての私はとっくの昔に短気を起こし、人生そのものを早々にリタイアしていたかもしれません。

 この名画(写真)は、カメラと被写体の間合い、ぼんやりとした道場の遠近を生かした構図(場の設定)、そして光の加減を考慮した絶妙のシャッター・タイミングによって、日本拳法の苦しみと楽しさという陰陽を、うまく切り抜いてくれました。


 ○ 作為が強すぎて、一般的な芸術からはみ出てしまった作品です。

 https://ameblo.jp/nichidaikenpo/image-2712074159-15036556402.html


 しかし、男なら誰でも一度はやってみたいバカを、大学日本拳法界を代表してやって頂いたようで、さすが「日本を代表する大学」のことはあります。

 。


 ○ ちなみに、意図したものとシャッター・チャンス(間合いとタイミング)がピタリとかみ合い「芸術」となった一枚がこれです。


「パリ市庁舎前のキス」1950年 Robert Doisneau ロベール・ドアノー

 https://external-content.duckduckgo.com/iu/?u=https%3A%2F%2Ftse1.mm.bing.net%2Fth%3Fid%3DOIP.NK99y6mP9SKlamE1OKp9_QHaFa%26pid%3DApi&f=1


 「私は物事をありのままに撮らない(作為の有無にかかわらず)こうあればいいと思う世界を撮っている。」Doisneau


 この写真も、遠近法というかカメラの焦点の合わせ具合と、そして、何よりも、朝の通勤・通学途中の人ごみの中で(何の脈絡もなく)いきなりラブシーンという「異常さ」によって、限りなく狂気に近いという意味での「立体感」を出しています。


 → https://ameblo.jp/aoken-wakiwaki/image-12734460197-15094617121.html

 青山学院大学体育会拳法部オフィシャルブログ

 卒業式 2022/03/29

 全員笑顔の中で、一人懐疑的な目線の人がいて、この写真に立体感(異次元)が生まれてくる、のですが、なんでも完全無欠・杓子定規でいることに安心感を覚える「東大バカの壁」タイプには、理解しがたいかもしれません。

 しかし、「よく見りゃ、バカの集まりよ」と歌に謡われた「東洋のバカ」である私としては「全員右へ倣い」よりも、一人か二人、こういう「覚めた目の人」がいらしてくれた方が本当の現実を実感できて、かえって安心します。



 <おまけ>


 <二の世界 光と闇 善と悪>

 寺沢武一「コブラ(六人の勇士)」では、


 ・・・ 光と闇との最終決戦が終わると、善と悪の力は完全なる均衡状態に入り、宇宙は結晶化を始める・・・。


「終わった・・・? じゃオレたちは勝ったのか ?」

 こう尋ねるコブラに、アフラ・マヅダ(光明神)はこう答えます。

「いいえ、この戦いに勝者はいません」

「善と悪・・・この世ではこの二つの力が調和を保つことが大切なのです。光明(の神)と暗黒(の神)どちらが勝ってもいけないのです。・・・」


 私たち大学日本拳法人は、ゼロ(引き分け)でもマイナス(敗北)でもなく、プラス(勝利)を求めて、ただひたすら、個人でチームで、死にもの狂いの練習をしているわけですが、天地自然の道理からすれば、すべてはプラスでもなくマイナスでもなく、限りなくゼロに近い「極点」となる(これが中国古典に言う「中庸」です)。ゲームとして勝ち負けはありますが、勝者と敗者の調和こそが、この世の本来のあり方である、というのがインド哲学か。


 まあ、日本拳法の戦いに「善も悪もない」のですが、(心の中で)自分が正義と考えて、悪である対戦相手をぶちのめす、なんてのも楽しいかもしれません。


 <宮本武蔵「五輪書」から>

 打つと当てる、太刀にかわる身と身にかわる太刀、ねばりをかくる と もつるる、 敵になる

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