空中楼閣
てんし
空中楼閣
男は、平凡だが幸せな生活を送っていた。結婚して早数年、愛する妻とマンションの一室で楽しく暮らしていた。この幸せを失わないために、男は毎日仕事を頑張っていた。
しかしある朝、男は仕事どころではない事態に直面してしまった。起床してすぐ、隣で寝ていたはずの妻が忽然と、まるで幻だったかの如く、姿を消したことに気付いたのだ。
男は一瞬狼狽しそうになったが、すぐさま冷静な思考を取り戻した。落ち着け、別な部屋にいるのかもしれない。そこまで広い間取りでもないので、部屋中を探すのは難しくなかった。しかし、それでわかったのは、妻はこの家のどこにもいない、という望んでいない事実だった。靴もない。スマートフォンもない。
これには、男も激しく動揺した。
「は……? どうして……」
今日妻は休みを取っているはずだ。どこかへ出掛ける予定があるといった話も聞いていない。だとしたら、一体どうして……。
男は慌てて妻に電話をかけた。だが、無駄骨だった。男のスマートフォンを淡々と『お掛けになった電話は……』とのアナウンスを読み上げた。
妻が、この生活に嫌気が差して家出をした、という線も考えられる。ただ、男と妻は来月に旅行を計画している。あくまで男目線で見ればだが、この生活に不満があったとは考えにくい。
「とすれば、とりあえず、警察、だな……」
自身の混乱を鎮めるのに必死な男は、次は警察に電話をかけた。妻が行方不明になった、と言えば、協力してくれるはずだろう。
『……もしもし、どうなさいましたか』
「妻が行方不明になったんです。朝起きたら既にいなくなっていて、それで……」
『一旦落ち着いてください。一応、奥様の名前をお聞かせ願えますか』
男は、妻の名前を告げた。
『……少々、お待ち下さい』
すると、電話主の警官は途端に電話を外した。何か話をしているのだろうか。早くしてくれないか。正直、この僅かな時間でさえ惜しい。男の焦りと不安は募るばかりであった。
少しして、また戻ってきた。実際の時間としては数分もなかったが、男にとっては途轍もなく長く感じた。
そしてその直後、警官が口にした言葉は、男の期待を裏切るものだった。
『申し訳ございません。捜査は出来ません』
「はぁ……!? どういうことですか!!」
焦りが怒りに変わり、電話越しに怒鳴る男。普段は至って温厚な性格だが、この時ばかりは憤りを隠せなかった。対して、警官は恐ろしい程冷静だった。
『上の方と掛け合ってみましたが、事件性はないと判断されました』
「事件性だって? 事件性がないと警察は動かないんですか!? こっちは困ってるんです、不安で仕方がないんです!!」
『……申し訳ございません』
「……はぁ、もういいです」
痺れを切らした男は、通話を終了した。
何だあの態度は。事件性云々より、人がいきなりいなくなっているんだぞ? 怒りを通り越して呆れてくる。
警察も協力してくれないなら、俺自身で捜すしかない。そう考えた男は、朝食もろくに摂らずに、着替えもせずに上着だけを羽織って、外出した。
まず向かったのは、妻の勤め先。ここにいる可能性も、否定できない。男は、少しでも心当たりのある場所には、全て行くつもりでいた。
男と妻の同僚たちは、顔見知りだ。皆優しくて、気遣いができて、慈悲深い。妻のことも大切に思っている。そこに妻がいなかったとしても、彼らなら妻捜しに力を貸してくれるだろうというのが、男の考えだった。
受付嬢に許可を取り、妻の勤めている部署へと向かう。道中、すれ違う人々のことも注意深く観察していたが、残念ながら、妻の姿はなかった。
目的地に到着したものの、そこにも姿はない。早く妻を見つけて安心したい。そのためには、やはり人手は必要だ。協力を乞おう。
男は妻の上司に話しかけようとしたが、それより先に、上司の方が男に気付いた。
「これはこれは、どうしたんです」
「あぁ、実は、相談したいことがありまして……」
男は、極めて平静を装いつつ、相談を持ち掛ける。
「相談とは?」
「……妻が、失踪しました」
上司の顔色が変わった。男の発言に、余程驚いている様子だった。
「……場所を変えましょう」
応接室に案内され、妻の上司に事情を洗いざらい話した。
「ここにもいないようですし、もうどこにいるのか……。不安で仕方ないんです。今こうしている間にも、妻が苦しんでいるのかもしれないと考えると、居ても立っても居られない」
自分の妻が音もなく姿を消したのだ。男としては、最悪の事態を想像せざるを得ない。
妻の上司は、そんな男の実情を
「私たちも協力しましょう。姿を見付けたら、連絡を入れます」
「……!! ありがとうございます!! この埋め合わせ、いつか絶対に……!」
「いえいえ、そんな。……見つかって欲しいですね」
「はい……!」
上司の方も、表情は暗かった。自分の部下を心から愛している男の状態も、かなり心配しているようだった。
男にとって、猶予は一刻とない。妻の職場を出てすぐ、もう一つの場所へ向かおうとする。と、突如男のスマートフォンが音を鳴らした。妻からかもしれないと慌てて確認したが、男の勤め先からだった。出勤日なのに、男が職場に来ないのだ。当然と言えば当然だろう。息を整え、通話に応じる。
「はい、もしもし」
『おお、今どこにいるんだ』
電話の主は、男の上司だった。男の声を聞いて、ひとまず胸を撫で下ろしたようだ。
『君のような者が無断欠勤とは。余程のことがあったようだな。どうしたんだ』
続けて、心配そうな声色で尋ねてくる。男は人望がとかく厚かった。
嘘を吐くわけにはいかない。正直に話そう。
「……実は、その……妻がいなくなりまして」
『え……』
「連絡が遅れてしまったことは謝ります。ですが、一刻を争う事態なのです。妻が見つかるまで、休みを貰えませんか」
男の上司は、呆然としている。まさか、こんなことが起きようとは。
「……どうか、お願いします」
男は電話越しに、深くお辞儀をする。
その真摯で実直な態度が、先方にも伝わったらしい。
『……君は本当に、愚直な男だ。許可しよう。私も力を貸す。何も、できないかもしれないが』
「いえ……ありがとうございます」
『すまないね、邪魔をしてしまって』
「こちらこそ、お手を煩わせてしまい申し訳ございませんでした」
『……良いんだよ』
男の上司はそれだけを告げると、通話を終えた。
男が次に向かった場所は、妻の行きつけの喫茶店。そこのマスターと妻は、学生時代からの友人同士だった。もう開店している時間だし、そこにいても何ら不自然ではない。そう踏んだ男はそのマスターのもとへ訪ねた。
が、男の淡い期待はまたもや見事に打ち砕かれた。現場にもいなければ、妻がいたという痕跡もなかった。マスターに聞いても「今日はうちには来ていない」とのことだった。
「あの、あの子に何かあったんですか?」
様子が気になったマスターに聞き返される。男は何も答えられなかった。妻の昔馴染みである彼女に、全てをありのまま明かすことは流石に難しかった。
黙り込む男を見て、マスターは何かを察したように、突然涙を流し始めた。
「っ!! だ、大丈夫!? ごめん、わかった、全部話す……いや、きっと君が察している通りだよ」
「やっぱり、そうなんですね」
「不安な気持ちは痛い程わかる。でも、彼女は絶対どこかにいるから。事件に巻き込まれたわけじゃない」
男は自分に言い聞かせるかの如く、優しい声色でマスターを宥める。
「……きっと、そうですよね」
「あぁ。気を張りすぎないでほしい」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちの方だよ。本当にありがとう」
「……あの子も、あなたのような方の妻になれて幸せだって言っていました。今改めて、その理由がわかった気がします」
「そうかな? それは嬉しいな。……早く、直接話したい」
「……大丈夫ですよ」
マスターは、口ではそう言っていたものの、顔からは隠しきれない悲痛の色が滲み出ていた。
喫茶店を後にすると、男は、レストランで食事をしている、男の十数年来の友人を見つけ、思わず足を止めた。
彼も、妻のことを知っている。結婚式の友人代表のスピーチも、彼が行ってくれた。親切で、人思いな奴だ。協力してもらうように頼もう。
男はそのレストランに入った。そこにも妻はいない。
友人が食事をしているテーブルに向かう。今回も、声をかける前に相手の方が気付いた。
「え? お前、奇遇だな。どうしたんだよ、そんな格好で。てか、顔色悪くね? 大丈夫?」
「あー、とりあえず、聞いてくれないか。ちょっと、言いづらい話なんだけど……妻が、いなくなった」
「……は?」
友人が、俄かに信じられないといった様子で、話を聞き返す。
「俺だってわけわかんないんだよ。朝起きたら、急にいなくなって、電話も繋がらない。こんなの、俺……」
「ま、まぁまぁ、落ち着けよ。どこか買い物にでも出掛けてるだけだって」
「じゃあ何でスマホが繋がらないんだよ!」
男は声を荒らげ、テーブルを叩きつける。すぐ冷静になり「ごめん」と謝罪した。友人も、ばつが悪そうに謝り返す。
「いや、俺こそ悪かった。いきなりこんな状況になって、不安で仕方ないだろうに、無神経だったよ。見つけたらすぐ連絡する」
「あぁ、ありがとう。無神経なんて言わないでくれよ。俺を、少しでも安心させるために言ってくれたんだろ? 本当に、良い友人を持ったよ」
「おい、こんなところでのんびりしてる暇あんのか? 早く見つけてこい。奥さんも、お前と会えたら嬉しいだろうし」
「……うん!」
強く頷き、レストランを出ていく男。その様子を、友人は複雑な表情で見つめていた。
男はその後も何箇所も回った。しかし、行けども行けども妻は見つからない。
何でだ? 何で見つからない? やはり何らかの事件に巻き込まれたのか? 警察め、何が「事件性はない」だ。なら何故ここまで見つからない?
……まさか、妻は本当に俺の幻想だったって言うのか。いや、そんなはずはない。昨日まで、確かにそこにいたはず。なのに、どうして……。
男の脳内に、今までずっと抑えつけていた胸糞悪い考えが、一気に放出された。
頭痛がする。吐き気と、耳鳴りもしてきた。男の精神状態は、もう限界に近かった。
もう嫌だ。早く楽になりたい。もし、仮に、彼女がこの世からいなくなったって言うんなら、誰か、俺のことも一思いに殺してくれ。彼女のいない世界でなんて、とても生きられないんだ。
「クソ、何なんだよ一体……。どこにいるんだよ……早く出てきてくれよ……」
項垂れた男が、苦し紛れに呟いた刹那──。
「あら? どうしたの、そんながっくりして?」
心地良く、聞き慣れた声が聞こえてきた。脳にまで届き、安心を与えてくれる声。思わず顔を上げると、そこには紛れもない、妻の姿がいた。
「……え」
「やだちょっと、顔色悪い! 大丈夫なの?」
男は何か返さねばと思ったが、あまりの驚きから声が出ない。
妻? 俺の妻? この目の間にいる女性は、俺の妻?
すぐには状況を飲み込めない。そんな男をよそに、妻は話し続ける。
「てかこれ、部屋着じゃない! あなたがこんな無頓着な格好で外出するなんて珍しい……。やっぱり、何か嫌なことでもあったの?」
男の頭は、だんだんと整理がついてきた。
──あぁ、俺の妻だ。誰よりもお節介で優しい、俺の妻だ。いなくなってなんかなかった。妻は確かに、ここにいる。
男の目頭は次第に熱くなり──やがて、大粒の涙が溢れ出した。
「っ!? ちょっと……!」
「いや……大丈夫だよ。心配ありがとう」
「泣かれながら言われても安心できないんだけど……本当に?」
「あぁ、実は……」
落ち着いた男は、今までの出来事を洗いざらい話した。
全部を知った妻の返答は、意外なものだった。
「ごめんなさい、買い物してただけなんだけど、書き置き失くしちゃったかしら」
「……え? 買い物? 書き置き?」
「うん。朝起きたらショッピングしたくなって、あなたまだ寝てたから『買い物に行ってきます』ってメモを残しておいたはずなんだけど……」
「え、じゃあスマホは? 俺が電話掛けても、繋がらなかった」
「え? ……あれ? 嘘、電源切れてる! ご、ごめんなさい……」
申し訳なさそうに話す妻は、確かにいくつか買い物袋を引っ提げていた。スマートフォンの電源も切れている。妻の様子を見ても、嘘をついているようには見えない。ということは……。
男は、自身の不用心さに愕然とした。あの友人の言った通りだったじゃないか。部屋中を探したのにも関わらず、書き置き一つも見つけられなかった。当時は、あまりにも冷静さを欠いていた。一周回って、笑えてくる。同時に、何事もなかったことに大きく安堵した。
「……馬鹿らしいな、俺は。周りに助けまで求めたっていうのに、情けなさすぎる」
「あなたのせいじゃない。私がスマホの充電を忘れて、身勝手な行動したから悪いの。あなたをこんなにも苦しめてしまった。馬鹿は私よ」
「そんなに自分を責ないでくれよ。とにかく、無事で良かった。さぁ、帰ろう」
「……うん。そうね」
万事解決。家路に就こうとした瞬間、男が急に立ち止まった。
「? どうかした?」
「いや、君がいなくなって、色んな人を巻き込んでしまったんだ。今のうちに、謝罪と感謝の言葉を言いたい」
「なるほどね。本当、律儀な人なんだから」
「世話になった人に礼を言うのは当たり前だろ? 警察にも、酷い態度をとってしまったからね」
妻がいなくなり、かなり取り乱していた男だったが、現在ではいつもの穏健な性格に戻っている。
「できれば直接会って早く言いたいけれど……。とりあえず、連絡だけでもしておこう」
男はスマートフォンを取り出し、まず警察に電話を掛けた。
「すみません、今朝電話した……」
○
「……はい、はい、そうですか、奥様が。それは良かったです。……いえ、こちらこそ、お力になれず……えぇ。では、また何か、困ったことがあれば」
若い警官は、一人の男からの電話を切り上げ、大きな溜息をついた。心底複雑そうな表情で、同席していた医師に話しかける。
「奥さん、見つかったそうです。あと、今朝通話した際、つらく当たってしまい申し訳なかったとも仰っていました」
医師も全く同じ様子で応える。
「あぁ、素直に祝福してやりたいところだが……」
「僕だってそう思ってますよ。奥さんが彼の幻覚じゃなければ、何の
「気の毒でなりませんよ。ずっと一緒だと思っていた妻は幻で、本当は五年前事故で既にこの世を去っているだなんて」
二人は、警察署の一室で話し続ける。
「ですが、一時的とはいえ、今日いきなりいなくなりました。今までそんなこと一度もなかったのに。回復するという兆候でしょうか」
「どうですかね。現時点じゃ、何とも言えない。最も、回復したところで、本人が現実を受け入れ立ち直ることが出来るか、そこが一番重要ですが。いっそ、我々第三者は下手に関わらない方が良いのかもしれませんね」
空中楼閣 てんし @ani_vca
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