見えない声

 いつもと同じく、誰もいない薄暗がりに、桜のすすり泣きと雨音だけが響き渡る。こんな風に必死に願っても、何か返って来た事はなかった。何も変わらないまま、何年経つだろう……

 誰もが望みを叶えられる程、現実の世界は甘くも優しくも無い事は、もう、十分に知っている。

『何やってんやろ……』

 自分のこんな習慣を滑稽に感じ、虚しくならない訳ではない。自己満足に過ぎないこともわかっていた。それでも、何かにすがり付きたくて仕方なかった。いつからか身に染み付いた、気持ちの悪いものを取りはらいたい……

「帰ろ、かな」

 自嘲気味に呟き、きびすを返そうとした、その時、だった。


 ――いい加減にしろ。毎日、毎日…… そんなにねだられても、私にはどうにもできない

「…………!?」


 見知らぬ青年らしき声と、ざわり、とした気配に、反射的に首を回し、ぐるり、と背方に向ける。誰かが来たのか、もしくは気づかないでいただけで、既に先客がいたのかと、慌てた。


 ――こっちだ。祠の側にいる。姿は見えてないだろうが


 全身を前方に戻し、声のする方を見やる。やはり、誰もいない。激しく動揺する心を落ち着かせようと、楓は少し息を吐いた。軽く深呼吸し、小声で問う。


「……あなたは、誰?」

 ――逃げ出さないのだな。恐ろしくないのか


 傘を少しずらし、少し警戒しながらも声のする方を探るように、楓は耳を傾けた。パタパタ、と草木の葉に雨水が打つ音色に混じり、ぴん、と背筋が伸びるような、凛とした厳かな気配があるのが分かる。


「……いつも、他のが聞こえてるんで」

 ――そうらしいな。ずっと祈りを聞いていた


 聞いていた、とはいつからなのだろう。気づかないうちに見られていた事へのきまり悪さや恥ずかしさがわき上がり、顔が熱くなった。苛立ちや羞恥を誤魔化したく、少し荒げて問いかける。


「なら、何? あの桜や……花やないですよね?」


 軽く首を回し、ビニール傘越しに辺りを見渡す。いつも見ているソメイヨシノの大木、祠……あとは鬱蒼とした茂みに咲いている、白爪草シロツメクサ蒲公英タンポポぐらいしか見当たらない。


 ――その祠を守る龍神、お前達が『水神様』と呼ぶ者だ

「そんな偉い神様が、なんで……?」


 思わず、素朴な疑問を投げていた。願い事を聞かれていた、人間に珍しい力があるとはいえ、神に値する存在が自分に話しかけている。

 無邪気に何の躊躇ためらいもなく受け入れる程、もう幼くなかった。事の重大性を感じ、何か事情があるのだろうと察するのは自然だ。


 ――分かりやすく言うと、願っても無駄だと伝えに来た。もう、来るな


 落ち着きはあるが、ぶっきらぼうに突っぱねる口調。しかし、どこか哀しみを帯びているように、楓は感じた。


 その水神――龍神の一族だという声だけの男に対し、名前は何かと、その後楓は聞いた。『名などない、自分の事は好きに呼べ』と、戸惑いを交えながら彼は答える。

 なので、『サクヤ(咲夜)』と楓は呼ぶことにした。桜の咲く夜に現れたから、という安直な理由だったが、何となくイメージに合っている気がしたのだ。

 彼のは抑揚が無く、無機質とまではいかないが重く、情が感じられない。静寂に包まれた、しん、とした深夜の印象だった。


 ――毎日、毎日、出来もしない事をこんなに願われては……面倒だ


 そんな声で、そんな神様らしかぬ発言を言うに、楓はとても驚いた。しかも、よく巷で言われている、みやびや柔和という印象とは程遠い、飾り気の無いストレートな物言いに、唖然とする。

 だが、次第に何だか可笑しくなり、心の奥が温まるのを感じた。周りの顔色や空気を伺い、言葉の裏読みばかりに神経を使う日々に疲れていたのかもしれない。

 神様からしたら、一人の人間のちっぽけな願いなど、放っておいても良いものだろうに……とも思った楓は、茶化すように詫びを返す。


「……それは、悪かったですね」

 ――わかったら、もう来るな。叶わない願いはするな

「願わへんかったら……来ても、ええですか?」


 自然に口にしていた。どうしても、ここに惹かれて仕方ない。来ない日なんて、急に受け入れられなかった。


 ――何故だ

「叶えられへん理由くらい、聞いてもええやろ?」

 ――……とりあえず帰れ。次に来た時、話す


 心なしか、その新しいには戸惑いと、微かな許容が入り混じっている気がした。暫くして彼は何も言わなくなり、の空間に戻った。だが、楓の動揺と興奮はなかなか消えない。

 今まで知らなかった『何か』が、自分に訪れた事に少し怖さを感じたが、特別な夢を一瞬だけでも与えられた後のような、不思議な充足感が何故か満ちていた。



 狐にでも化かされ、そのまま雨にまかれたような気分で、楓は自宅のマンションに帰る。鍵を開け、電灯の灯りをける。

「ただいま……」

 ぽそり、とと同じ言葉を惰性的に発するが、見慣れた仕様の空間には誰もいない。返事が無いのは知っていた。それでも、長年ずっと繰り返し、親しんできた習慣というのは簡単には変えられない……変えたくないものだ。

 洗面所で手を洗い、キッチンに直行する。カウンターに飾ったフォトフレームの写真には、今よりも幼い顔立ちの楓が年配の女性と映っている。晴れた青空を背景にし、桜の木と映る二人は笑っていた。

 ちらり、とそれに目をやり、椅子に置いていたバッグから、帰りにコンビニで買って来た物を取り出し、ダイニングテーブルに並べる。牛乳、オレンジジュース、納豆に食パン……そして、レトルトの筑前煮パック。

「今夜は卵使って……これ、とじよか。おばあちゃん、こういうの好きやったよね」

 誰もいない家に、自分の空虚な声だけがぼんやりと響く。返事は無い。それでも、こうして毎日同じ行為を繰り返す。そんな日々じゃないと……彼女はなのだ。

 こんな事でしか、心のバランスを保てない。の日常を送れない。むなしく滑稽な行動だとわかってはいても、こうしてすがるように生きるしかなかった。

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