第三十二話:元カノは立ち去る

「言ってないよ! 言わなかったんだよ……何も……私たちは。だからきっと、こんなふうになっちゃったんだよ……」


 そうか……。

 確かにその通りだ。


 俺は何も言わなかったし、訊かなかった。

 だんだんと離れていく紗香の気持ちをひとりで知ったような気になって。

 ああ、こんなものかと勝手に諦めて。


 そして紗香もそんな俺に遠慮して何も訊こうとせず、ついには別れる決断を下してしまった。


「けど……けどさ……もっと他に…………」

 

 ――もっと他に出来ることがあったんじゃないか。


 そんな言葉を飲み込む。

 言いかけて、これがただの堂々巡りだと気がついた。


「いや――出来なかったんだよな、お互いに。やっとわかったよ……」

「うん……」


 また、紗香は指で目の下を撫でるように拭った。

 そしてお互い、気まずげに視線を逸らす。


 ただの気持ちのすれ違い。

 カップルの別れの原因としては極めて普遍的なものだ。

 

 けれど、まさか自分がその当事者になるなんて、思ってもみなかった。


「ねえ、最後に教えてよ……。智樹は私のこと、どう思ってたの? ちゃんと、好きだった? 好きで、いてくれた?」


 蚊の鳴くような紗香の声が耳に届き、けれど問いかけそのものよりもその前の言葉が気になってしまった。


「最後って……なんだよ」

「だってもう会えるわけないでしょ。〝彼女〟がいる元カレに、私がまだ好きだってバレちゃったのに……一体、どの面下げて会えって言うの? そんなの、彼女さんだっていい顔しないに決まってるでしょ? それに――」

「それに?」

「――ううん、なんでもない。これは私の方の問題だから。どちらにしろ、もう会えないよ。わかるでしょ?」

「…………そうだな…………」


 これで終わりか。

 あっけない。


 さっきは覚悟したつもりだった。

 そのつもりで訊いた。

 そうしないと納得できないと思ったからだ。


 一体、何故?

 何故、俺は知りたかった?

 わざわざ『友達』をやめる覚悟をしてまで、なんで俺は紗香の気持ちにこだわったんだ?


「…………やっぱり、何も言ってくれないんだ。ごめんね、答えづらいこと訊いて。――私は智樹のことが好きだった。……ううん、過去形じゃないね。今でも好きだもん。でも智樹はとっくの昔に、そうじゃなかった。……そういうことだね」

「――違……っ」

「じゃあ私、帰るから。念のために言うけど、着いてこないでね? 送ってくのだって、いらない。少し歩かなくちゃいけないけど、バス停だってないわけじゃないし、ちゃんと自分だけで帰れるから」

「ちょっと待っ――」

「――ばいばい、智樹。元気でね」




 振り返りもせず、その場から立ち去る紗香を俺は追えなかった。

 追っても無駄だと思ったから――いや、そうじゃない。


 俺自身、わからなかったから。


 俺が紗香のことを今、本当はどう思っているのか。

 俺が紗香に抱く感情は『友達』に対してのそれなのか、それとも――。


 それを理解せずに追いかけて、掴まえても何の解決にも至らない。


 これまでに考える時間はいくらでもあった。

 だけど、目を逸らし続けていた。


 そのつけが、今になってやってきた。


 考えなくてはいけない。

 今度こそ、真剣に。


 何故、俺は紗香と付き合ってる頃、だんだんと離れていく気持ちを知りながら、行動を起こさなかった?

 何故、俺は紗香に別れを告げられたとき、あんなにあっさりと同意できた?


 ――それは紗香のことがとっくに好きじゃなくなっていたから。


 紗香はそう考えた。そう言っていた。

 だから、いなくなった。


 じゃあ……この心にあるモヤモヤとした落ち着かない感情は何だ?


 俺は何も言わなかった。

 あの頃も、そして今も。


 紗香は問いかけてくれた。

 そして沈黙を返されたことで、俺の気持ちをそうと決め、納得してしまった。


 だから結果的に俺はまだ答えていない。

 詭弁だと言うかもしれない。

 だけどまだ考えるだけの余地がある。

 少なくとも、俺は自分にそう言い訳できる。


 杞憂かもしれない。

 もしかしたら紗香言う通り、とっくに恋愛感情なんてなくなっていただけなのかもしれない。

 それならばそれでいい。

 このまま紗香とは会うことはないだろう。


 だけどもし。

 もし、答えがそれ以外だとしたら――。


 俺はもう一度、なんとしてでも紗香と話さなくてはならない。


 もうわからないなんて言っていられない。

 逃げる時間はこれで終わりだ。


 俺は紗香から答えをもらった。

 あとは、返すだけだ。


 絶対に答えを出して前に進む。


 それがどんな方向になるのかは、俺自身にすら、まだよくわかっていないのだけれど。

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