第八話:元カノと温泉旅行 part5
──知らない天井だ。
一拍遅れて、自分が旅館に来ていることを思い出す。
「……んー……ふわぁぁああ……」
欠伸が出た。
少し頭は怠い気はするが、まあ許容範囲だ。
──昨日は何話したっけ。
途中から記憶が曖昧だ。
昨日の一日の振り返りや将来のことなんかを話していた記憶はあるが、最終的にどうなったかはまるで思い出せない。
寝息に気がついて隣を見ると、紗香がこちらを向いてすやすやと穏やかな顔で寝ていた。
「うわ……」
紗香の布団は腰のあたりまで下がってしまっている。
衣服は寝たなりにはだけていて、もう結構際どい。
隠すように布団をそっと肩までかけると、「う……ぅん……」もぞもぞと動くが、起きはしなかった。
念のため確認してみたが、俺の衣服ははだけていない。
つまり記憶は飛んでいるけれど、何もなかったということだ。
酔っていたのに
心の中で自分を褒め称え、そっと布団から出た。
また欠伸が漏れる。
「──風呂行こ」
眠気覚ましと酔い覚ましだ。
いや、酒はもう抜けてるけど。
お湯に浸かるとなんかその辺もリセットされる気がするから不思議だ。
「あー……鍵どうしよ」
掛けなくても大丈夫だとは思うが、万が一がある。
かと言って俺が持っていくと、今度は紗香が外出出来ない。
んー……。ま、さっと入って帰ってくればいいか。
紗香のスマホに「風呂行ってくる」とメッセージを送ってから、部屋の外から鍵をかけて、単身風呂へと向かった。
△▼△▼△
鍵を開けて部屋に戻ると、紗香が布団から身体を起こして座っていた。
ちょうど目が覚めたようだ。
しかしまだきちんと覚醒していないようで、なんだかぽやぽやとしている。
「おはよ」
「……おはよぉ……」
ふわぁ。欠伸を一つ。
そのまま、んーっと伸びをすると、徐々に顔がすっきりとしてきた。
「──ん、智樹、どこか行ってたの?」
こちらを見た紗香が首を傾げる。
多分外から戻ってきたからだろう。
「風呂、行ってきた。紗香も行ってきたら?」
「そうだね。……そうさせてもらおうかな。確か今は昨日の夜と反対側のお風呂に入れるんだよね?」
時間帯で男湯と女湯はひっくり返るシステムとなっている。
俺も今、昨日女湯だった方に入ってきた。
「ああ。今行ってきた方も結構いい感じだったぞ。知ってるだろうけど」
「私はそっちに昨日入ったからね。男湯の方も楽しみー」
「露天からの景色いいし、気持ちいいぞ。特に朝は外も寒いし」
「わかる。外が寒いと温泉って余計に気持ちよく感じるよね」
「だな」
俄然やる気が沸いてきたようだ。
今にも飛び出して行きそうなくらい、顔がわくわくとしている。
だが、だからこそ俺は言わなければならない。
「紗香」
「何?」
「それ、直してから行けよ」
「ん?」
俺の指を辿って紗香の視線が下に降りる。
起きたときに緩んだのか、先ほどよりもさらに大胆に襟元が開いていた。
下着をつけていないようなので、もうなんと言うか、見えそう。
理解した紗香の顔が瞬時にカッと赤くなり、慌てた様子で身を守るように襟元をぎゅっと寄せた。
「――バカ……! 言ってよ」
「言ったよ」
「言うのが遅い!」
「ごち」
「こんにゃろ」
下着はいいのに胸元は恥ずかしいのか。
よくわからんな。
「智樹が冷静なのがムカつく」
「それこそ今さら、だろ」
紗香はべーっと舌を出すと、いそいそと浴衣を直して「行ってくる」と部屋を出ていった。
「………………はぁ〜〜……危なかった」
扉が閉められたのを確認し、その場にへたり込む。
「……本当にわかってねえのかな、あいつ」
△▼△▼△
一時間もしないうちに紗香は帰ってきた。
一泊二日の日程なので、荷物は大した量はない。
「朝食を食べたら、あとは帰るだけだね」
「だな」
行きと同様、帰りもゆっくりと帰ろう。
新しく出来た思い出を噛み締めながら。
「ねえ、智樹」
「何?」
「楽しかった? ──私と久しぶりに旅行して、ちゃんと楽しめた?」
答えなどわかっているだろうに、それでも紗香は問う。
だから俺ははっきりと言った。
「──ああ、楽しかったよ。これ以上ないくらいに、楽しかった」
「そっか。……へへ。私も!」
旅行が終わるのは寂しい。
でもそれは掛け値のない楽しさがあったからだ。
確かにいろいろと考えることはあった。
だけどそれは決して悪いことじゃない。
むしろ今後の俺たちのあり方を作っていく上で必要なことだったと思う。
「さ、朝食会場に行こうぜ。どこだっけ?」
「昨日、一緒に確認したでしょ!」
「そうだった、そうだった」
「もう。しっかりしてよね」
言葉と裏腹に足取り軽く、部屋を出ようとしている紗香に言葉を投げる。
「――なあ」
「ん?」
反応して立ち止まり、くるり振り向いた。
「また、来ような」
「……うん! 約束!」
向けられた眩しい笑顔に、頬が緩む。
あのとき別れなければ、この顔は見られなかった。
一度は俺の手から零れていき、そして取り戻したものだ。
だからあの選択はきっと正解だったのだと、今はそう思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます