すれ違う人たちへ

深夜太陽男【シンヤラーメン】

『すれ違う人たちへ:階段を昇る人』

     〇


 天国の階段を昇るという表現がある。なんでも死後には幸福を確約された世界があって、死ぬことは悲しいものではなく、ある意味そこへ到達することが生きる目的だとも言う。

 なんて馬鹿馬鹿しい世迷言だと思う。科学が発達する前の時代、人間は死の恐怖から逃れるために、都合の良い宗教を思いついた。事実、多くの人たちは研究解明されたことより、嘘でも自分たちにとって都合の良いことばかり信じきった。ただのメンタルケアでしかないというのに。細胞が分裂する回数の限界も、心臓が脈打ち呼吸のために肺が収縮を繰り返す耐用年数も決まっているだけの話だ。

 しかしだ。今でこそ科学技術の情報が浸透して、合理的な判断に重きを置かれるようになっても、死の恐怖を拭うことはできなかった。そう、科学は真実として存在できるが、善悪までは提示してくれないのだ。発生したものが終了していくサイクルを、頭では理解できても自分の心まで納得させられる人間は数少ない。科学が人を幸せにできるのは、その人が生きている間だけなのだ。


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 私の両親は熱心な宗教家であり、ある意味で教団のような組織を運営していた。犯罪ではないのかもしれないが、弱った人々の心につけこみ、報酬と恐怖によって信者たちをコントロールしていたのだった。幼少期から何かがおかしいと気づいていた私は、環境に従順なフリをしながら、少ない自由時間で図書館に通い詰めて世界の実態を掴もうとした。

 学業は捗り、トップクラスの成績を維持し続けると都市部の大学へ推薦された。両親はすぐにでも自分たちの仕事を手伝って欲しそうだったが、学歴が自分たちの活動にプラスになればと了承してくれた。

 初めて実家を離れて生活を始めた。まずありとあらゆる手段を行使して両親との繋がりをシャットアウトした。向こうが信者や探偵を使った調査を始めれば、こちらも法的な手段や対抗できる業者を駆使してそれらを妨害した。逆に雇った信者を二重スパイさせ内部工作に時間をかけさせた。

 私が大学付属の研究機関にポストが確立した頃、とある宗教法人が内部崩壊したと風の噂で聞いた。


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 私の研究と言えばアナログとデジタルについてだった。その二つの違いについては時計を例にすればわかりやすい。アナログ時計は常に針が動いており、連続的な情報を示している。デジタル時計が画面に数字を並べている状態、つまり一瞬を切り取った断片的な情報だ。アナログな写真はいくら拡大してもぼやけることはないが、どんなにも高解像度のデジタル写真でもいずれはピクセルが見えてくる。

 人付き合いについてもアナログからデジタルへの移行が著しい時代だ。人生の期間は変わらないのに人間や情報が増えすぎたせいである。便利に効率化していかないと社会が成り立たない。企業や学校は数日間の試験や数時間の面談で個人の特性を判断する。人工知能は人間を分別し商品を買わせて経済を回す。個人がインターネットに晒している情報のほうが、現実世界で遭遇する人間よりも認識量が多いので、実在しない人間であっても、肯定派が増える限りはイマジナリーデジタル人間が誕生してしまう。そんな都合の良い存在は神とさえ呼ばれることもある。

 脳ミソに快楽を与え続け、不快を減らすことに人類史は費やされ、それも極まったように思う。無駄をなくせ、役立つものを開発しろ。昔はアナログ、未来はデジタルというイメージは誰もが疑わないのだ。

 最先端の役立つモノ、私は心をデジタル化することに没頭していた。心というものは何なのかは私が決められるものではない。ただ意識というものはもっと合理的に最適化できるはずだった。そもそも意識とは思考の中で様々な主張が混在した状態である。だから迷いというものが生まれる。しかし選択する結果はどうせ一つなのだから、迷いは不要だ。不要な時間がなければもっと多くのことができるようになる。無駄をなくせ、役立つものを開発しろ。

 自身を被験体に、世界中の情報を牛耳るビッグデータを解析する巨大複合ネットワーク型人工知能とニューロフィードバックインターフェースを介して同期することにより、私の思考から間違いは消えた。

 人間関係の構築は利益予想が数値化され、常に最適化された手段をとった。パートナーもそれで選択し、友情や恋愛というものは何も反映されなかった。生命を循環させるために子どもも授かった。仕事と家庭を運営することで社会に寄与した。

 心をデジタル化する研究は多くの収益を生んだ。私の功績を称えられた。やがて第一線から離れることになり、業務は後輩へと受け継がれた。

 老後にとある科学雑誌の取材を受けた。最後にどんな人生だったかと聞かれた。

「無味無臭みたいな人生でした」

 おそらく記者が望んでいた答えではなかっただろう。では私が望んだ答えだったのか。もうそれすらわからなかった。死は恐怖ではなかったが、生も喜びではなくなっていた。


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 あるとき、階段を昇っていると向こうから降りてくる人とすれ違った。何故か会釈をされたので無言で返した。長く見つめられ、その人はゆっくりとその場に座り込んだ。どうやらひと休憩のようだが、思わず私も立ち止まってしまった。やがてその人が口を開く。

「生きて歩いていれば、多くの人とすれ違うでしょう。ふと思うんですよ、自分以外の人間は本当は思考していないんじゃないかって。哲学的ゾンビやゲームのNPCみたいなものかもって。でも、そうじゃないんですよね、やはり。みんな誰かから生まれて、何かを感じながら、そしてゆっくり死んでいく。やがて気づくんです。さあ、あなたもあとちょっとみたいですがね、人生は昇りきったら終わりと思われてますが、違うんですよ。行きに昇ったんなら、帰るためには降りることが必要になるんです。ではまた後ほど」

 その人はまた階段をスタスタと下り始めた。

 天国の階段を昇るという表現がある。私も随分と歩みを進めた。残りの段数も見えるほどだ。あっという間に頂上だ。しかしそこに素晴らしい景色などなかった。

 Uターンせよ、という標識があるだけだったのだ。



つづく

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