柿崎孝太の悩み

舞夢

第1話支配人室(1)

「それは・・・本当かね、柿崎君」

杉浦支配人がため息をついた。

赤阪クイーンホテルの支配人室は深刻な雰囲気に包まれている。


ため息をついた杉浦支配人の隣には、パテシィエ長松田が目を閉じている。


杉浦支配人は続けた。

「柿崎君に、今、ここで抜けられると・・・このホテルだけのことではない」

「国際問題にもなる」

「何しろ官邸を通じての依頼を受けている」

「次の大使夫人親睦会で、どうしても、ここのホテルのケーキを使いたいと・・・」

「君のパリ時代の実績も味も知っている大使夫人が各国の大使夫人に盛大に声をかけていて・・・」

「それに、このホテルも、それを知って引き受けた手前」


パテシィエ長松田も苦渋の顔をしているが、まだ口を挟まない。

杉浦支配人は、更に懇願する。

「柿崎君の事情もわかるが・・・」

「こちらも困る」

「何とか都合をつけて、せめて国際会議が終わるまで・・・」


ここで、松田パテシィエ長が杉浦支配人の言葉を制した。

「本当に申し訳ないけれど、俺自身もパーティーを成功させたい」

「残念ながら、

以外に任せられるパテシェが現実育っていない」

「吉田も鈴木も経験年数と口だけは達者だけど、そこまでだ」

「仕事は結局遅いし、定番の発想しかできない、臨機応変は皆無、何も面白くない」

「深田美紀は・・・感覚は面白いけれど、技術に欠けるし、ミスが怖い」

松田パテシィエ長も、ため息をついた。

「・・・育てられない俺の責任とも言えるが・・・」


そんな重苦しい雰囲気の中、柿崎孝太がようやく口を開いた。

「支配人と師匠には、そこまでの過分な評価をしていただき、申し訳ないと思っています」

「それから、吉田さんと鈴木さんにも・・・話をしてあります」

「お二人とも、私の事情を察していただきました」

「俺たちで何とかする、心配するな・・・むしろ笑顔でした」

「師匠が言われるほどのお二人ではありません、このホテル伝統の安定した味を出すには問題ないのでは」


杉浦支配人は目を閉じた。

「確かに、君の実家は歴史100年を超える老舗パン屋」

「実は、私も好きで通った、何を食べても飽きの来ない味、庶民の味かな」

「毎日、開店前から行列が出来て、あっと言う間に売り切れ」

「そんな店が無くなると・・・ひいきのお客だけではない。私だって寂しい」

「身体の力が抜けるほど寂しい」


松田パテシィエ長も続く。

「俺も親父さんにも、何度も教わったことがある」

「何の企業秘密もない、丁寧に基本のレシピを季節に応じて、焼くだけ」

「しかし、それが、たまらなく美味い」


柿崎孝太は、少し苦笑い。

「これも評価高過ぎです」

「何のこともない普通の当たり前のパン屋です」

そこで、顔を少々厳しくする。

「親父が心臓発作で倒れて・・・やはり復帰が難しい・・・半年は厳しいとの主治医の判断」

「それが3か月前・・・黙っていて申し訳ありません」

「ただ、私も、すぐに親父のパンが焼ける自信は無いのですが」

「それでも、毎日、首を長くして実家のパンを食べたいと声をかけてくれる長年の客を裏切るわけにはいかなくて」

「それと・・・親父が生きている間に・・・俺のパンを食べて認めさせたい」

「親父が俺のパンを食べて・・・それで認められなければ・・・パン屋は継げないので」


支配人室での会話が再び滞った時だった。

支配人室のドアにノック音。

3人が顔を向けると同時に、血相を変えた若い女性が飛び込んで来た。

そして激しい金切り声。

「孝太!いったい何なの?どういうこと?」


柿崎孝太は、返事に、言葉に詰まった。

「お嬢様・・・」なかなか、次の言葉が出ない。

しかし、懸命に絞り出した。

「お嬢様、もう、私には声をかけないでください」

次の瞬間、「お嬢様」の右手が、柿崎孝太の左頬を襲った。

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