18.44メートルの恋
吹井賢(ふくいけん)
18.44メートルの恋
突然だが、私、宮山ヒナは恋に落ちてしまったらしい。
朝起きて、顔を洗って、歯を磨く。そんな短い時間でさえ、アイツのことを考えてしまっている。日課のランニングにも身が入らないし、小学校に向かう通学路では、友達の話も頭に入ってこない。
私は小学六年生で、これは多分、はじめての恋だから、「初恋」と呼べるものなんだろうけれど、でも、我ながら微妙な時期に恋に落ちてしまったと思う。
『恋』なんて概念は漫画やドラマの中のもの。二、三年前までならばそう言い切れた。今では男子と付き合っているクラスメイトも普通にいるし、ドラマのヒロインがキスする姿に自分を重ね合わせることができてしまう。そうして真っ赤になった顔を枕に押し付けるまでがお決まりだ。
私とは全然違う、女らしくて、お淑やかで、大人しくて……。とにかく、男子から「可愛い」と言われるような、そんなヒロインが素敵な恋をするお話。少しも興味がなかったのに、今では気になって仕方ない。自分では逆立ちしたって、そんな可愛い女の子にはなれないというのに。
実際に逆立ちして鏡を見てみたから間違いはない。
鏡に映っていたのは、背が高くて肩幅が広い、華奢さとは程遠い女子だった。顔だってそうだ。如何にも男勝りという感じの釣り目に、後ろ手に纏めただけのポニーテール。褒められる時はいつも「カッコいい」で、言われる相手は同性ばかり。可愛いだなんて、お父さんからしか聞いたことがない。お化粧の仕方すら知らないのだから絶望的だ。
さて、そんな私、宮山ヒナの恋のお相手だけど、ちょうど今週の日曜日に会う予定があった。
デートではない。そんなお洒落で可愛げな言葉とは無縁なのだ、私は。
今週の日曜日、私の所属する野球チームと、アイツ――氷室ケイ達のチームが、練習試合をすることになっている。
私とケイは互いのチームのエースピッチャー。
つまり私は、競い合ってきたライバルに、恋をしてしまったのだ。
……こんなこと、誰にも言えるはずがない。やれやれ。
「氷室ケイがどんな奴か」と訊かれたら、多分、百人中五十人くらいは「天才」と答えるだろう。少年野球に詳しいと自負して、氷室ケイを知らないならば、その人はニワカと呼ばれても仕方がない。ケイはそれくらいに凄いピッチャーだ。
去年、つまり、私達が五年生の時点で全国クラスの選手だったし、多分、今年は全国ベスト4くらいには入るんじゃないかと思っている。当たり前みたいに120キロを超える球を投げる選手は、この辺りじゃかなり珍しい。私も速球派だけど、ケイには及ばない。
ちなみに「氷室ケイがどんな奴か」という質問の答えだけど、残り五十人は「俺様」と言うはずだ。
とにかくアイツは偉そうなのだ。いつも自信満々で、実際に実力もあって、誰よりも努力家だ。私と同じだ。私もケイも、ピッチャーらしいピッチャーだと思う。
だから、恋をしていると自覚した時には、正直、ムカついた。
―――なんで私がアイツなんかに!
―――アイツはライバルなのに!
―――むしろアイツが私を好きになれば良かったのに!
私にとってのケイは、小学一年生の頃からの友達で、それ以前にライバルなのだ。ケイに恋するなんて、ありえない。告白なんて、もっとダメ。
だって、私達はライバルで。
互いのチームを背負う、エースなんだから。
日曜日。
全てがいつも通りに始まった。
もう数週間もすれば、夏の大会が始まる。私達、六年生の最後の大会が。そこではケイのチームとも当たるかもしれない。隣町のチームだけど、同じブロックだ。勝ち進んでいけば何処かで戦うことになる。
だというのに、監督も親も、どころかチームメイトさえ、和やかな雰囲気だった。
私の中でも、「何度も練習試合をした仲だし、仕方ないよね」という思いと、「相手はライバルチームなんだ、みんなもっと集中してよ」という願いの両方があった。
試合前のアップ時間。私はチームメイトに発破を掛けた。
「今日の試合、私は本番と思って投げるから。みんなも気を抜かないで」
私はキャプテンではないけれど、こうやって盛り上げるのは、いつも私の役目だった。
それはケイも同じだ。ケイもキャプテンではないけれど、向こうのベンチ前で「俺は絶対に失投しない。だからお前らもエラーするな。エラーしたら殺す!」と喝を入れていた。そして案の定、向こうの監督に怒られている。いくらなんでも殺すは言い過ぎだ。
ひとしきり怒られたケイは、何を思ったか、こちらにやって来る。
「ヒナ!」
どくり、どくりと、胸の鼓動が速くなる。
ランナーを背負った時とは違う高揚感が身体を包み、打者を打ち取った時に似た、何とも言えない幸福感が心の奥底から溢れ出してくる。
「なに、ケイ?」
なんとか取り繕って、普通に返事をする。
……ちょっと声が裏返ったけど、まあ、許容範囲内だろう。
「大会前の最後の試合だな、ヒナ」
「うん、そうだね。もしかしたら勝負するのは最後になるかも」
「ならないよ」
ケイは、あの彗星のように鋭く煌めく目で私を射抜き、言った。
「お前とは、大会の決勝で勝負する。絶対だ。俺も負けない。だから、お前も負けるな」
どくり。
どくり、どくり、どくり、どくり……。
心臓の鼓動がいやにうるさい。いっそ止まってしまえと思うほどに。
ダメだ、やっぱり勘違いじゃない。ケイが傍にいると、ドキドキする。
触りたい。手を繋ぎたい。一緒にいたい。
「……分かった。私、負けない」
「でも、今日は俺が勝つよ」
「私も負けないもん!」
睨み合って、ついで、笑い合う。
「ふふっ」
「あははっ」
ケイは握った右手を突き出してくる。いつもならば拳を突き合わせるところだけど、私は意地悪して、パーを出してやった。
これで私の一勝だ。
「ばーか!」
「コイツ、やったなー!」
……どうしてだろう。
あんなにも彼に触りたいと思っていたはずなのに、いざ手を差し出されると、拳を合わせることすら怖くなる。
これが恋だと言うのなら、なんて厄介なものなんだ。
今日は大会前の最後の練習試合。なのに、みんなはいつも通り。けれど、私だけが違う。
私は今日、ケイとも恋とも戦うのだ。
試合は予想通りに投手戦になった。
ゆったりとしたスリークォーターで、小学生離れした剛速球を投げ込んでくるケイ。私も負けずに腕をしならせる。もっと速く、もっと強く。三振と凡打が築かれる。
私もケイも、互いのチームのエースピッチャー。
そして、四番打者でもあった。
私達はピッチャーとしてライバルだし、投手と打者としてもライバルなのだ。
……けれども、ふと、考えることがある。
「いつまでケイは、私のことをライバルと思ってくれるだろう」と。
男子と女子の筋力差は年齢を増すごとに深刻になる。去年までは私の方が高かった背は、今年に入って追い抜かれてしまった。監督からも、中学からはソフトボールをやってはどうかと勧められている。そうすれば、ケイと対戦する機会は、二度とない。
「……そっか」
そう。
今年が私をする野球の最後の年。
そして、ケイと戦える最後の年なのだ。
今日がケイと対戦できる、人生最後の日かもしれないのだ。
だったら、恋とか愛とか言っている場合じゃない。
だって、私は彼の――ライバルなんだから。
「しゃっす!!」
一礼して、ケイがバッターボックスに入ってくる。
5回、三度目の打席。
ケイはピッチングフォームと同じく、ゆったりとした所作で、バットを構える。流れ星のように眩しく熱い眼光が私に向けられる。けれども、先ほどまでの気恥ずかしい緊張感は、既にない。
マウンドから打席まで。
近くて遠く、遠くて近い距離。
ピッチャープレートの端からホームベースの先端まで、18.44メートル。
女子ソフトの場合、12.19メートル。
少年野球ならば、16メートルほど。
二人の距離は、縮まっていくのだろうか?
隣に立って歩きたい気もするし、一方で、いつまでもこの距離で、ケイと戦い続けていたい気もする。そんな相反することを願う私は、変な女の子だろうか?
私は大きく振りかぶり、しっかりと踏み出して、ストレートを投げた。
この願いが知られないことを、願いながら。
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