高校二年生、最後の放課後に

さーしゅー

前編

水野みずのさんは頑張り屋さんだね。きっといい点が取れるよ」

 

 たった一言で、私の世界はあざやかに色づく。

 

 たくさんの消しカスに、びっしり埋まったノート。中指なかゆびのペンタコはヒリヒリしていて、肩は岩になったかのように重い。


 でも、たった一言で、全てが吹きとんでしまった。

 

 一秒でも長く一緒にいたい。一ミリでも近くにいたい。一回でも多くめてもらいたい。 


 そんな限りなくあさはかで、限りなくあさましい理由。それでも、優しく受け止めてくれる。

 

 そんなひと——私は岡井先生を、好きになってしまった。

 

 * * *

 

 気づけば目で追っていた。

 

 高校二年生になった春。校庭には白い桜が咲きほこり、新しい季節をあざやかに彩る。


 新しい教室に新しいクラスメート、ワクワクしながらもどこか緊張して、どこか不安で。そんな想いは、教壇きょうだんの上に立つ先生も、同じなのかもしれない。

 

「は、初めまして! 今日からみなさんの担任になる、岡井純おかいじゅんと言います。えー、今年から先生になったばかりで、わからない事だらけですが、皆さんと一緒に頑張っていけたらと思います。よろしくお願いします!」

 

 岡井先生は大きく頭を下げた。教室は拍手でつつまれる。

 

 私は岡井先生のことを、最初は少しカワイイ先生だと思っていた。

 

 背が高く、ほがらかな顔つきで、私たちとは違う大人びた雰囲気がありながらも、偉そうなそぶりなく、一生懸命。プリントを忘れたりとか、教壇でつまずいたりとか、ささやかな失敗からは、私たちのような幼ささえ感じられた。

 

 そんな親近感もあって、クラスになじむまでに時間はかからなかった。


 岡井先生の担当する国語の授業はわかりやすいと評判で、質問に行く生徒も多かった。私は国語が得意だったから質問する機会はなく、ただカワイイと思い、ながめる日々が続いた。

 


 新しい学年が始まってから、二週間くらい経ったあるHRホームルームのこと。


「えーと……来週から個人面談を始めます。放課後に五人ずつ、一人十分くらい面談します」


 岡井先生は少し申し訳なさそうに、髪を触りながら口にする。


 放課後をつぶされるめんどくささか、将来のことを聞かれるつらさか、クラスからは「えー」とため息が聞こえた。

 

 私もため息をついた。主に後者の理由で。

 

 私の将来はぼんやりしていて、まだはっきりと見えていない。周りには将来に向け努力を始めてる人もいる。親からは、「早く決めとけ」と、口すっぱく聞かされている。


 だけど、一生懸命考えても、もやが晴れることはなかった。

 

 面談当日はずっと憂鬱ゆううつな気分だった。


「どうやって乗り切ろう」とか、「怒られないかなぁ」とか、そんな不安ばかりが頭に浮かぶ。

 

「次、水野さん」

 

 出席番号一つ前の松本くんが、私に声をかけた。私は重い足を引きずり、先生の待つ教室に向かう。

 

 ドアを三回ノックして、教室に入る。相変わらず優しそうな先生と、机一つはさんで、向かい合って座る。

  

「じゃあ、水野さん。よろしくね」

 

 先生の明るい声に、私はボソッと小さく返事する。先生は手元のプリントに目を落とした。事前に書いた進路調査票だ。

 

「えーと、進学希望で、国公立を希望。だけど、具体的にはまだ決まってないんだね」

 

「はい」

 

 思わず下を向いた。スカートの上では、はしたなく手があそぶ。私は悪い少女だ。「進路を決める」という、当たり前ができていないから。


「水野さんは、何かなりたいものはある?」

 

「まだないです」 


 先生は優しく接してくれるけど、内心ではため息ついているかもしれない。私が下を向いていると、優しい声が聞こえた。

 


「大丈夫だよ。全然問題ないよ」

 


 私はゆっくり顔をあげる。先生の優しそうな表情が目に映る。岡井先生は迷わず、その言葉を言い切った。

 

「あっ、学校の人としては、早く決めて欲しいんだけどね…………でも、将来を決めることは、とっても難しいことだよ」

 

 私は言葉のまま、ゆっくりとうなずいた。

 

「だって、まだ働いたこともないのに、やりたい事なんてわからないよね」

 

 先生は優しい言葉をくれる。だけど、現実はちゃんと決めなきゃいけない。

 

「でも、周りの人はみんな決めてる……」

 

「もちろん今夢がある人もいるし、ない人もいる。でも、どっちがいいとか悪いとかないと思うんだ。僕も高校二年生の時、何になりたいとか全くなかったからね」

 

「そうなんですか」

 

「だから周りは気にせず考えてみて。あと一年で決めないといけないのは事実だけど、無理やり決めるよりは、後悔ない選択をしてほしいから」

 

 先生の言うことは、良いことではないのかもしれない。

 だけど、周りは決めないことを悪だと言うのに対して、考えることを応援してくれる人は初めてだった。

 

 先生との面談後、私の心は少し軽くなった気がした。

 

 

 その後も、何度か個人面談をしてもらって、将来のことを深く考えた。また、勉強の相談も自然とするようになっていて、気づけば週一ペースで先生の元に通っていた。

 話を聞いてもらうと落ち着く、先生に見てもらえると頑張れる。ふんわりとした気持ちで、だけど欠かすことなく通っていた。

 

 * * *

 

 目まぐるしく過ぎる高校二年生の日々は、楽しくあっという間だった。テストに部活動に夏休み……日々を一生懸命こなしているうちにいつの間に過ぎていく。


 そして、体育祭や文化祭、大きな学校行事が終わる頃には、教室の空気が少しピリピリし始めた。将来のため、テストの点数を気にし始めて、テスト前は特にピリピリしていた。


 そんなある日の昼休み、友達がふとこぼす。


「岡井先生は微妙だよね? 授業はわかりやすいけど、甘やかしすぎだよ。なんのための先生って感じ」

 

 その友達は、もう志望校も決まっていて、模試の合否判定に気をもんんでいた。そんな彼女にとっては、先生の言葉は甘く聞こえたのかもしれない。


「たしかに、優しすぎるかも……」

 

 私はそう苦笑いした。だけど、心の中は「全然違う!」と反論する。


 たしかに、進路を早く決めることが、正しいことだとは思う。でも、私たちは皆が皆、将来が見えているわけではないし、強くもない。だから、急かされてもいいことにはならない。先生は、ゆっくり考えさせてくれる時間をくれるんだ。

 

 

 そうやって、私が心の中で反論しているとき、なぜか胸の辺りがむずむずとしていた。ニュースやドラマで理不尽りふじんを目にするのはとは違う、まるで私の心を直に撫でられているような、むずむず。

 

 その感情が、いったい何なのか。理解するのに時間はかからなかった。でも、理解すればするほど、悩みも大きくなっていった。それがダメなことは、十二分に知っていたからだ。

 

 だけど、初恋は自身が想像する以上に、抑えきれなかった。

 

 私はいつしか先生を避けるようになっていた。先生を見ると、甘い感情で心が満たされる。でも、すぐに手の届かない空想上の恋であると、心が締め付けられる。

 

 高校二年生。来年は受験があるから、イベントや行事に本気を出せる最後の年だった。一年生の頃は新しいことだらけで、やっとのことで慣れてきたというのに、もう最終年なんて。高校はあまりにも短すぎる。

 

 そして、イベントや行事が最後なら、こんな恋愛も最後にした方がいい。そんな風に考えるようになった。


 たとえクラス担任が変わっても、廊下ですれ違えばあいさつくらいするだろうし、質問に行くことだってできる。

 

 でも、このままじゃ、勉強に手がつかない! まっすぐな気持ちで先生に接していた頃には、褒めてもらいたいと頑張っていたけれど、今は近づくことさえ苦しい。


 最近では、先生が心配がって視線をくれること、それがもどかしくて、「学校に行きたくない」なんて思ったりもした。

 

 そして、決断した。二年生の終わりに告白することを。

 

 結果はもちろん知っている。いくら優しい岡井先生でも、「先生と生徒だから無理」と言うと思う。それは、私も十分にわかっている。だけど、その場面は想像するだけで心が痛くなる。


 でも、時間は待ってくれなかった。高校二年生でいられる時間も残りわずかになっていた。

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