第8話 アサギという幼馴染み
屋敷に辿り着いたアサギは、妻木からの使いでやってきた者から話を聞いていた。
その表情からは、見る間に血の気が引いていく。
「アサギ様……」
チヨが声をかけると、アサギの泣きそうな表情に拍車がかかった。
それもそうだ。アサギの父が村同士のいざこざで亡くなってから、二人きりの家族だった。
チヨの家族もマツの家族も、村のみんなで協力しながら、アサギとアサギの母と暮らしてきたのだ。手の回らない部分をそれぞれが補い合い、助け合って生きてきた。
後ろめたさがあるのか、恩を返したいという意識からか分からないけれど、自分ができることを精一杯やってきたアサギの姿をチヨは見てきている。
アサギは、どちらかと言えば器用ではない。それでも練習に練習を重ね、できることを少しずつ増やしてきた努力の人なのだ。
そんなアサギを助けたいと思うのは、チヨにもマツにも自然な感情だった。
アサギがヤマト族の皇子の后に迎えられると知ったときは、幸せになってくれることを心の底から祝い願ったけれど……。チヨの願いに反して、アサギは后になることを望んでいなかった。
后になれば、楽ができるだろうにと、幸せになれるだろうにと羨ましかったのに。
アサギが皇子の申し出を承諾したのは、アサギの母から懇願されたから、らしい。
(アサギちゃんは、どこまでお人好しなんだろう……)
羨ましいと思ってしまったチヨが、浅ましく思えてしまうではないか。
でも、アサギの侍女として屋敷に入ることが決まったときは、手放しで嬉しかった。
妻木の里に居るよりも、都に出たほうが男性との出会いがあるかもしれない。里に居る昔馴染み達には、ときめきもなにも無かったのだ。
釣り合う男が居ないと、密かに下に見てしまっていた。
人口が多い都でなら、男も多い。そこで伴侶を見つけられたら、どれだけいいか。
アサギが心配だったというのも本心だが、下心があるのも隠しようがない事実。
男を下に見つつも、普段から恋多き乙女を演じていたから、あの人がカッコイイ、あの人は優しいとあれこれ評価を述べていても、アサギもマツも「いつもの癖が出た」と笑ってくれているのだ。
幼馴染みの二人と他愛のない会話で笑いあっている時間が、チヨも大好きである。アサギとマツを大事にしたいと思う気持ちも、紛うことなき本心。
それなのに……大事にしたいのに、今にもアサギは崩れ落ちてしまいそうだ。
「アサギ様」と名を呼んで手を差し伸べれば、アサギの白魚のような手が重なり、チヨの懐へ顔を埋(うず)めにきた。
黒玉(ぬばたま)のように黒く艶やかな髪を撫でれば、サラサラ艶々と滑らかに指が通る。仄かに甘い香りが鼻をくすぐり、チヨは硬直して縮こまるアサギの体をそっと抱き締めた。
「大丈夫だよ。アサギ様」
本当は、アサギちゃん、と昔の呼び方をしたい。そのほうが、チヨの気持ちがより伝わると思うから。
アサギを抱き締めたままマツに顔を向ければ、苦しそうに眉根を寄せている。
もしかしたら、チヨと同じで、突然の知らせに動揺しているのかもしれない。
だがマツは、昔から三人の中で一番几帳面で、冷静な対応を心がけてくれている姉御肌の基質を持ち合わせている。きっと今も、動揺しつつも頭の中ではなにか考えを巡らせてくれているだろう。
チヨに、なにか事態を打開する妙案を考えつくことは無理だ。マツならきっと、ただ抱き締めることしかできないチヨとは違い、いい提案をしてくれるに違いない。
(お願い……マツちゃん。なにか言って……!)
チヨの願いが通じたのか、妻木からの使いの者にマツが声をかける。
「もう一度、確認をさせて」
はい、と使いの者は頷いた。
「足を滑らせて山の斜面を転がり落ちはしたけれど、無事なのよね?」
「転がり落ちているときに、どこかでぶつけたのか……頭を怪我されていて、自分が出発するときには意識が混濁している状態でした。頭領もアサギ様がお母様のことを案じてらっしゃること……任せておけと言った手前、このような事態になってしまったことを悔やんでおられまして……。万が一の場合もあるという判断から、急ぎ知らせに行けと」
妻木の里から都までは数日かかる。その間に、容態が急変してしまっているかもしれない。もしくは持ち返しているか、小康状態のままか。
いずれにせよ、アサギの母の、今が分からない。
(アサギちゃん……きっと、すぐにでもお母さんの所に飛んで行きたいよね)
だけど、皇子が不在の今……都を離れていいものか。勝手に行けばいいじゃないかと簡単に言えないくらい、アサギの肩には重責がのしかかっている。
「お母さん……」
アサギのか細く震える声が耳に届く。チヨの服を握り締めるアサギの手は、小刻みに震えていた。
チヨはアサギを抱き締める腕に力を込め、マツに目を向ける。アサギを心配そうに見つめていたマツも、チヨの視線を受けてキッと唇を引き結んだ。
決意を込めた眼差しを浮かべると、アサギに目線を合わせるように膝を折った。
「アサギ様。急ぎ、お帰りください! 妻木の里へ」
「でも……」
この期に及んでも、アサギは動けない。
マツは躊躇するアサギの肩を掴み、大丈夫です! と、力のこもった強い声で言い聞かせる。
「皇子様は、たった一人の母が危篤だというのに、帰らせないような御仁ですか?」
フルフルと、アサギは頭を横に振る。
「きっと皇子様は、そんな不義理を許されないわ」
「ならば! 急ぎ帰りましょう。そしてまた、この屋敷へ戻って参ったらよいだけです!」
マツは留守を任されている人間に顔を向けた。
「異論ありませんよね! アサギ様がここへ戻るまでに皇子様が戻られたら、説明を宜しくお願い致します。事は一刻を争うのです!」
「は、はい! 分かりました」
マツの剣幕に圧倒されたのか、重役であるはずの男性が声を裏返らせつつ承諾の意を告げる。
チヨはマツと頷き合い、へたりこんでしまっているアサギを立ち上がらせた。
「行くよ! アサギちゃん」
アサギにだけ聞こえる声音で耳元に語りかけ、頷くのを確認すると、先導するように手を引いて歩く。
白魚のような手は緊張と不安のせいかジットリと汗ばみ、身体中の筋肉がカチコチに硬直しているのか、動きがぎこちなくなってしまっている。
アサギの背中に手を添えると、ビクリと肩が揺れた。
「大丈夫。小母さんは……大丈夫だよ」
呪(まじな)いのように大丈夫を繰り返し、アサギを部屋に導く。
部屋に到着すると、チヨとマツは荷物をまとめて急ぎ出発の準備を開始した。
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