第4章 式神召喚編

第101話 雪積もる朝のひととき


 ある朝のこと。

 活力に満ちた若い体はスッキリ目を覚まし、今すぐ走り込みができそうなくらいコンディションが整っている……にもかかわらず、俺はその場を動けずにいた。


「布団から出たくないなぁ」


 季節は冬。

 真っ暗な寝室は酷く冷え込み、温かい布団の中は聖域と化している。

 今日は一日中この聖域に包まれて過ごしたい。


「……そんな生活はもう無理か」


 赤ちゃんの頃なら、自堕落な生活もできただろう。

 しかし、2度目の赤ちゃん時代を消費し尽くした俺に、その選択肢は残されていない。

 感謝すべきことに、両親から頂いた体はすくすく育ち、7歳へと成長を遂げた。


 小学1年生という社会的身分を手に入れてしまった俺は、こんな寒い日でも登校しなければならない。

 そしていずれ、登校から通勤へと変わり、定年になるその時まで1年の2/3を拘束されるのだ。


 定年後は定年後で悩みは尽きないし、やっぱり赤ん坊時代だけが真の自由を手にできるスペシャルタイムと言える。

 いや、赤ん坊の頃は自力で何もできないもどかしさがあるし……人生儘ならないなぁ。


 布団の中で目を瞑っていると、普段考えないような益体もないことを考えてしまう。

 このまま思考が進むと前世の嫌な思い出を呼び覚ましそうだ。

 そんな予感がした俺は、しぶしぶ聖域から抜け出し、寝ている弟を起こさないように部屋を出た。


「はぁ〜……息が白い」


 廊下を早歩きで移動し、エアコンの効いたリビングへ逃げ込む。


「おはようございます。よく眠れましたか」


「おはよう。うん、お布団から出たくなくなるくらいよく眠れた」


「うふふ、今朝は雪が積もりましたからね。外に出る時は暖かい格好をしましょう」


 今年は珍しく雪が降った。

 例年よりも寒冷前線が南下する異常気象により、昨日の夜から朝にかけて俺たちの住む地域も白く染められてしまった。

 そう、染められてしまったのだ。


「積もったか……」


「雪! 雪つもった?」


「優也、おはようございます。何か忘れていませんか?」


「おかあさん、おにいちゃん、おはよーござい、ます!」


「はい、よくできました」


 良いタイミングで我が弟も起きてきた。ちょうどその話題になったところだ。

 幼稚園児な弟にとって、積雪はまだ激レアイベント。


 雪が降り始めた昨夜から、彼の心は雪に支配されていた。


『わぁ、雪だ!』


『雪だねー。積もるのかなぁ』


『積もるといいなぁ』


 もしも俺が無邪気な子供であれば、「そうだね、積もったら一緒に雪遊びしよう!」と提案したことだろう。

 しかし、一度でも社会人を経験していれば、そんな純粋な考えは消え失せる。


 雪かきという名の重労働、電車の遅延、交通渋滞、遅刻、それだけならまだしも、スリップからの人身事故、転倒骨折なんてことも起こり得る。

 期間限定の楽しい遊び道具から一転、快適な生活を破壊する自然災害にしか思えなくなってしまう。


 そして、今朝に至る。


「積もった!」


 襖を開けて外をのぞき込んだ優也が歓喜の声を上げる。

 俺も仲良く外を見れば、白い災害が土を隠すくらい積もってらっしゃる。通勤している皆さん、お疲れ様です。


「積もったねぇ」


「お兄ちゃん、雪だるま作ろ!」


 霊力がない分、俺より非力なはずなのに、優也は今にも外へ飛び出しそうな勢いだ。

 その元気、お兄ちゃんにも分けてくれ。


「うん、いいよ。雪合戦もしようか」


「お姉ちゃんと要も呼ぶ!」


 はしゃいじゃって、まぁ、お可愛いこと。

 俺はともかく、人生1周目の優也には楽しい冬の思い出を作ってほしい。

 難しいことは一旦忘れて、俺は弟と庭先に積もる雪を眺める。


「遊ぶのは良いけど、学校が終わってからね」


「雪とけちゃう~」


「2人とも、ご飯の前に顔を洗ってください」


 前世では冷たい水で顔を洗い、自ら朝食を準備していた。

 しかし、転生してからは真逆の生活である。


 お母様が予め給湯器をONにしてくれたおかげで、温かいお湯で顔を洗うことができた。

 朝食には、チーズ入りのスクランブルエッグに、焼きたてのトーストとバター。お好みでジャムもどうぞ。

 今日のメニューは洋食か。


 ……うん、美味しい。

 菓子パンだけで済ませていた前世とは比べ物にならない。


「おいしー!」


「美味しい」


「足りなければ、おかわりもありますよ」


 家族の愛情に包まれている今この時が、幸せだ。

 朝食を用意してもらえる環境に感謝しつつ、よく噛んで食べているその時――


 うん? なんだろう、口の中に違和感が。

 舌を使って口内を確かめるも、これといっておかしな所は見つからない。

 もしかして、虫歯でも出来てしまったのか?!


「お口をモゴモゴさせて、どうかしたのですか?」


「何かムズムズする」


 そんな、どうして……朝晩の歯磨きは欠かさなかったのに!

 歳をとって衝撃的だった出来事の1つが、入れ歯になったことである。

 ずっとそこにあると思っていた体の一部が、ある日突然ぐらぐら揺れ出した。

 いや、小さな予兆は幾らでもあった。それでも、仕事があるからと歯医者の予約を後回しにしてしまい……いよいよこれはまずいと慌てて病院へ駆け込むも、時既に遅し。


『歯周病ですね』


 歯を支える骨がかなり溶けており、そのまま歯を抜くことになった。あの時の喪失感は凄まじかった。


 ――永久歯は、永久には存在しないのだ。


 幸い治療を始めたことでそれ以上の侵食は防げたが、歯が抜け落ちた自分の口内を見るたびに、新たなコンプレックスを刺激された。

 故に、転生してからは口内衛生に気を遣っている。出先のお昼はうがいだけで済ませ、家では毎食後に歯磨きをしている。

 前世からの習慣が復活したかたちだ。


 それでも……ダメだったか……。


 虫歯は、なる時はなる。

 3歳まで親の虫歯菌を移さないように徹底し、虫歯菌のいない細菌叢を形成することで増殖を抑止する方法があるのだが、思わぬ失敗も多く、大変なうえに完璧な予防にはならない。

 我が家もネットで見たガチ勢ほど徹底していなかったし、いつの間にか虫歯菌が入り込んでいたのだろう。


「ちょっとお口の中を見せてください。あーん」


「あーー」


 お母様が俺の口内を確認する。

 たぶん下の方、前歯かな、そうそう、その辺りに違和感が。


「ちょっと触りますよ」


 そう言ってお母様は俺の歯に触れた。


 グラ グラ


 ん?

 この懐かしい感覚はもしや……。

 虫歯じゃない。もちろん歯周病でもない。

 久しく忘れていたこの感じ、もしかして、これは……。


「歯が揺れています。聖も歯が生え変わる時期になりましたか。成長しましたね」


 お母様はほっこり笑顔で俺の歯を前後に揺らす。

 何をしているのか気になった優也も俺の口の中を覗きだした。


「歯とれちゃうの? おにいちゃん大丈夫?」


「子供の歯から大人の歯に生え変わるのです。優也ももう少し成長したら生え変わりますよ」


 大人という言葉に憧れるお年頃の弟は不安げな表情を吹き飛ばし、俺の歯を揺らし始めた。

 まだそれほど大きくないが、たしかに前後に揺れている。

 そういえば、同級生の中でも早い奴は前歯が抜けてたっけ。夏休みの思い出が濃密すぎてすっかり忘れていた。


「ゆーや、そろそろてをはなさないとかんやうよ」


 良かった、虫歯や歯周病じゃなくて本当に良かった。


 でもそうか、また一歩大人に近づいてしまったか……。

 このままずっと気楽な小学生生活を続けたいような……でもそれでは一流の陰陽師になれないし……やはり、人生というのはもどかしい。


 美味しい朝食をしっかりいただき、暖かい服を装備して玄関で見送られながら学校へ向かう。


「いってらっしゃい、車に気をつけてくださいね」


「おにいちゃん、いってらっしゃい!」


「いってきます」


 お見送りしてくれる人がいると、ここが自分の帰る場所であると強く意識させられる。

 前世でも子供の頃はこんな幸せを味わっていたのだなと、転生した今になって気づくことは多い。


 恵まれた環境に感謝しつつ、光速で過ぎていくこのひと時を、俺はじっくり噛みしめるのだった。



 なお、親父は御剣家でお仕事中だ。

 この時間なら雪の積もった山で訓練していることだろう。

 頑張れ。


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