最終話 狂乱の神々(中編1)
今度は合わせ鏡じゃなく、本物の魔法鏡が用意された。
誓いが解ける日のために、キリアじいさんが用意しておいたらしい。まったく、このじいさんと来たら、諦めるってことを知らない。
着替えをして、準備の整った俺たちは焼け焦げた召喚部屋に集まった。みんな完全装備だ。
シオンに到ってはガーブ・オブ・ロードという非常に貴重な鎧を着ている。
俺はいつものようにオーディンブレード一本だ。この剣こそが頼みの綱だ。
聞いた話では侍だけに使えるムラサメ・ブレードと呼ばれる最強の妖剣がどこかのダンジョンに眠っていると言うが、俺にはやっぱりこの剣が似合っている。それに今更、サムライには転職したくない。俺は戦士。それぐらいシンプルなのが似合っている。
それに、この剣の前には敵は無い。
キリアが鏡の前に、俺は右手に立った。危なくなればいつでも鏡を壊せる位置だ。
マーニーアンと月影は鏡の裏側に立っている。ここからなら、マーニーアンはキリアを魔法的に援護できることになる。
シオンはキリアの背後だ。キリア一人では悪魔になめられる恐れがあるからだ。悪魔と言う奴は非常に誇り高い存在で、しかも常に実力主義だ。取り引きを始めるためだけでも、こちらが強いところを見せないと駄目なのだ。
どこかから一匹の小鬼を取り出すと、キリアは鏡の前に押しやった。解放と引き替えに地獄への使いをさせるつもりらしい。
「シア・イト・ラム・ホリス」
キリアが不可思議な悪魔語で小鬼に命令した。悪魔王を呼んでこいとか、そんなとこだろう。
「ニア、ニア」小鬼が泣きそうな顔で首を振る。
誓いで縛られている以上、勝手に小鬼は逃げ出せない。
どうやらキリアの命令に逆らっているようだ。
無理も無い。
小鬼のようなランクの低い悪魔が、悪魔王を呼び出すなんてことをしたら、恐らくは命を無くすからだ。
俺だって、ギルガメッシュの酒場で新米の冒険者に酒をひっくり返されたら、ただでは置かないだろう。
まあ、こっちの場合は命までは取らんが。
「エセガン、エセガン!」キリアが小鬼を蹴った。
「ニア、ニア」小鬼が首を振る。
ニアは否定の言葉か。俺は一つ賢くなった。次に悪魔に何か言われたら、取りあえずニアと言ってみよう。
「エセガン、エセガン!」またもやキリアが小鬼を蹴った。
今度は相当きつい。小鬼の顔が切れて、汚い緑色の泡を吹く体液が飛び散る。
「ニア、ニア」もう一度、叫ぶと小鬼は俺の方へとすがりついてきた。
それを迎えたのは俺の剣の刃だ。冷たい青みがかった刃が小鬼の頬をつつく。
可愛そうだとは思わない。
ダンジョンの中で群を成す小鬼どもがどれほど獰猛な存在か俺は知っている。こうして一匹だけ捕まった状態でなら、こいつらは慈悲を求めて泣きわめくが、一度ダンジョンの中で冒険者が戦いに負けたときには、小鬼は恐るべき陰険さを見せる。負けた冒険者を致命傷にならないようにゆっくりと骨までかじりながら、ダンジョン中を追い回したりもする。勿論、最後には冒険者は息絶えることになる。
俺の目の中の冷たい決意を見て、ついに小鬼は決心した。自分がどれほど憎まれているのかやっとわかったらしい。おとなしく鏡の前に立つ。
キリアが両手を開くと呪文を唱え始めた。それに合わせて鏡の前面が曇り、そしていきなり光景が浮かび上がった。
地獄だ。
むうっとした地獄の瘴気が鏡から吹き付けて来た。鏡の背後に立つマーニーアンが手にした生命の杖を振って、それを地獄へと追い返す。
鏡の中に見えるのは地獄への入り口、石畳みの間から不定期に火が吹き出す何かの舞台だ。どうやら魔法鏡が侵入できるのはここまでらしい。後は地獄の魔力で守られている。
地獄は己の秘密をそう簡単にはさらさないものらしい。
キリアが無言で指さすと小鬼は鏡の中へと飛び込み、そして視界から消えた。
やがて鏡の中から魂消る様な悲鳴が響いた。小鬼が殺されたらしい。
その後で何かが鏡の前に歩いてきた。アーチデーモンだ。悪魔の貴公子。均整の取れた身体に輝くばかりに整った顔、そして見事な飾りのついた趣味の良い服。
その姿だけを見ていれば、アーチデーモンの真の恐ろしさ、醜さは判るまい。だが、俺はその顔の下に潜むものを知っている。
こいつは背後に二体の醜い巨体をさらすグレーターデビルを引き連れていた。アーチデーモンはお貴族様で、グレーターデビルはボディガードというところか。
魔法鏡の中からアーチデーモンは俺たちに向って何かを悪魔語で叫んだ。
「お前たちが人間の言葉を使えることを、わしは知っている。重大な用件だ。翻訳の手間が惜しい。そちらに取っては屈辱だろうが人間語でしゃべって欲しい」
キリアが的確な言葉で要求する。
「良かろう」アーチデーモンは答えた。
微かに人間の言葉に対する侮蔑の意味かどこかに加わっていて、耳を疼かせる。
「お前の顔には見覚えがある。そっちの横の男にもだ。特例としてそちらの言葉を使ってあげよう」
見事なバリトン。落ち着きのある、しかも美しい響き。何と言う声だ。男の俺でさえも魅了される。
「このような、無礼な訪問を行うとはどういう了見かね。よほどの問題で無ければ地獄からの報復があると思って貰いたい」
アーチデーモンは続けた。
言葉は大人しいが、その報復とやらをやるときには先鋒に立つに違い無い。
それとも襲うとしたら今か?
俺は剣を握る腕に意識を集中した。剣を振るコツは集中力だ。それが全て。
「根源の悪魔。お主たちの悪魔王に至急会いたい」キリアは言った。
「お前たちのような地を這う虫ケラめが、我らの盟主に会えるとでも思うか?」
それに対するキリアの答えは・・。
キリアが腕を振り上げると、止める間も無く、その指が開かれ宙に文字を描いた。
神聖文字。神の言葉だ。緑の炎を上げて、神聖文字から光が放たれた。不死の悪魔さえをも葬り去る対不死呪文ジルワンだ!
アーチデーモンの右側に控えていたグレーターデーモンがその光に貫かれて、驚愕の表情と共に瞬時に崩れ去った。右側に立っていたのがそのグレーターデーモンの不運。地獄では左側が幸運の位置だ。
生き残った左側のグレーターデーモンが一声うなりを上げると、いきなり腕を延ばしてきた。鏡から突き出たグレーターデーモンの腕がキリアに届く前に、俺の剣が一閃した。
汚らしい紫の液体が飛び散る。
アーチデーモンの血は炎を上げて消えるが、こいつの血は臭い煙を上げて消える。俺は少し気分が悪くなった。
切られた腕を押さえてグレーターデーモンの巨体がが尻もちをつく。
目のすぐ前にまでグレーターデーモンの死の鈎爪を延ばされておきながら、キリアは微動だにしていなかった。アーチデーモンも。二人して睨み合っている。
「わしは全面戦争も辞さ無い。悪魔王に会わせてくれ」キリアがもう一度言った。
それを聞いて、アーチデーモンが背後に手を振った。
鏡を捕らえていた何かの力場が消え、少し鏡の位置が前進した。
「そのまま、街路に刻まれた王の印を辿って行け。王は会われるそうだ。詰まらぬ用ならば、汝等の命は今夜限りよ」そう答えるとアーチデーモンは消えた。
どうやら、俺たちは悪魔王への謁見を許可されたらしい。
キリアが急いで鏡を調整すると、鏡に映る光景が変わった。ぐんぐんと地獄の街路を鏡が進む。
地獄の街を覗くのは初めてだ。奇麗で趣味のいい街並び、所々に吹き上げる硫黄のガス。様々な種類の悪魔が街路でわけの判らない踊りを踊っている。捕まった人間が篭に押し込められて売られている光景まで見えた。
ほどなくして鏡は悪魔の街の中央部らしい場所についた。
どうして中央部と判るかって?
巨大な輝く玉座があるからだ。何かの宝石を組み合せたのか、それとも大きな宝石を繰り抜いたものか?
その上に座っているのは悪魔王。俺も足の爪以外の部分は始めてみた。
悪魔王の姿を見るのは・・衝撃の体験だ。
美しい。
アーチデーモンの比では無い。
金色の巻き毛、端正で一点の非も無い顔、見事に筋肉が発達し、一片の贅肉も無い身体。一言で表現するならばエレガント。
額に生えた角さえもが、しなやかな獣を連想させる美しさだ。微妙な均衡を保つ自然の美の極致と言って良い。
麻痺呪文マニフォを受けたかの様に鏡を見続ける俺たちに向けて悪魔王が吠えた。
そう、吠えるだ。
声は見事な極美の芸術、天界の音楽と言っても良い響きがある。ところが、悪魔語で叫ばれるその言葉の意味は、悪魔の単語を知らぬ俺の頭にも直接に伝わった。
おぞましい、邪悪な思想。世界の死と破壊のみを望んでいる。
この悪魔王が一体、何の助けになるのか? 俺の胸の内に疑問と嫌悪が湧き起こった。
負けじとキリアが悪魔語で叫び返す。
途方に暮れた目をする俺に向けて、マーニーアンがわざわざ翻訳してくれた。
「この糞の中に湧くうじ虫のような人間どもめ。地獄の深奥、この偉大なる王座を覗くとは」
悪魔王の罵倒は続く。これでもかなり緩く翻訳したものらしい。マーニーアンは眉一つひそめなかったが・・。
「だまらっしゃい!」とこれはキリア。悪魔王を相手にして一歩も引かない。
俺は本当に驚いた。キリアは時々、とんでもない精神力を見せてくれる。
「詰まらぬ悪口の応酬をしている閑は無い。悪魔王よ」そこで一息いれた。
「太陽を見たか?」
「この玉座から世界を統べる余が何故にあのようにちっぽけな太陽を気にせねばならんのだ?」
「太陽の巨神は鎖から解き放たれた。ここに向っている」キリアは断言した。
「なんとか防がねばならん」
始めて悪魔王の顔に動揺が現れた。「嘘だ。お前は嘘をついている」
「確かめてみろ。わしは嘘は言わん。純粋な悪魔は太陽の光を嫌う。だが、太陽の光に傷つかない悪魔も存在するだろう」
悪魔王が自分の玉座の周りの何かに叫ぶのが見えた。その端正な口の端からよだれが泡と共に吹き出す。
何かすごく小さなものが、悪魔王の玉座のひじかけに飛び上がると、それに答えるのが見えた。
目を凝らした俺は、それがアーチデーモンであることがわかった。ここまで来て初めて、俺は悪魔王の本当の大きさに気付いた。
そう、確かに根源の悪魔は根源の神々同様に巨大だったのだ。
蚤がポイズンジャイアントに叫ぶ様を想像して欲しい。キリアの叫びは丁度それと同じだった。
悪魔王が苛々と指をひじかけに叩き付ける。その指一本だけでも人間とほぼ同じ大きさがある。
「お前たちが嘘を付いているのは判るぞ。
詰まらぬ嘘で我が王国を騒がせた罪は大きい。
余の力の前には太陽の神など一瞬で消えるのだ。
あれを生かしておいたのは余の慈悲だ」
伝令がほどなく戻ってきた。太陽の在処を確かめて来たのだろう。
パニック状態になった伝令の悪魔がキーキーとわめくのが魔法鏡のお蔭で聞き取れた。血相を変えた悪魔王が立上り、その拍子に鏡の視点を止めていた何かが歪んだ。その瞬間、鏡は玉座の全てを映し、悪魔王の全身が見えた。
悪魔王の上半身は極めて美しい人間の男のものだ。だが、その下半身はまさに獣だ。
腰の辺りから全身を覆う金色のうぶ毛は長くて黒い獣の毛と変わり、鈎爪の生えた厭らしい曲った足が床をどんどんと苛立たしげに踏む。
これも黒い獣の尻尾が椅子の端からはみ出ている。
醜い。恐ろしく。上と下の対比がそれをさらに際立てている。
俺たちの目から隠された真実がそこにはあった。
悪魔王が何かを叫んだ。魔法鏡が黒く変色すると、煙を吹き上げて倒れた。
鏡の修理にはかなりの時間がかかった。
マーニーアンの指先があれほど器用に動くとは今の今まで俺は知らなかった。
再び魔法鏡が動き始める。最初の地獄の門の光景がそこに映った。
だが・・これはどうしたことか?
石畳は静かに沈黙し、最前まで吹き上げていた炎は消えてしまっている。おまけに幾ら呼んでも誰も、いや、何も出てこない。
キリアが鏡を調整すると光景はするすると動いた。前回のような魔法障壁は存在しない。
空っぽだ。どこもかしこも。
崩れた石で構成された地下の街は、全ての幻影を失い惨めな様を見せている。先ほど見た見事な建築の活気ある悪魔の街は、実は幻影により飾り立てられたものであることが良くわかった。その実体は穴の開いた荒涼たる岩、岩、岩。
そこにも今は動くものは何もない。
そしてついに鏡は玉座を映し出した。
ただの巨大なゴツゴツとした岩の塊。それがあの玉座の成れの果てだった。
威勢良く、きらびやかに見えたものは全て幻影だったのだ。そして全ての悪魔は逃げ出していた。根源の悪魔、悪魔王さえもが。太陽の巨神を恐れて。
「ええい!」キリアは魔法鏡を止めた。
「話にならん。太陽の巨神と根源の悪魔を対立させて時間を稼ごうとしたのに」
「とても勝ち目は無いと言うことね。根源の悪魔でも」とマーニーアン。
「こんなことなら、あの悪魔王の鼻面にティルトウェイトの一発もぶつけてやるのだった」
キリアは苛々とつぶやいた。
ル・クブリスの宝珠と連動した水晶球に見入っていたシオンと月影がキリアを呼んだ。
太陽の巨神に動きがあったのだ。遂に目覚めて、こちらへ向けて飛び始めたらしい。
慌ててキリアとマーニーアンが水晶球を覗き込んだ。さっきの失敗に懲りて、大規模に魔法を投射することはしない。
太陽の巨神は、恐らくはマーラーテレポートで移動しているのだが、奇妙に動きはすべらかだ。星を背景にすると巨神は動いているようには見えないが、背後の月の残骸がみるみる小さくなって行くのがわかる。
キリアの早口の解説によると、船と同じ原理で小刻みに力を分散して飛んでいるらしい。あれほどの質量が一気に遠距離テレポートをすれば、如何に根源の神々と言えども、ただでは済まないらしい。
ふと思いついて俺は提案してみた。
「なあ、キリア。マーラーテレポートって岩の中に出れば冒険者は永遠に岩に封じ込められるよな。奴の進路に岩をテレポートできれば」
それに対するキリアの応えは冷たかった。
「あれだけの巨体を封じ込められる岩はどこにも無い。
それにそれだけの岩をテレポートできる魔力もな。
よしんば岩をテレポートしたとしても、ロストするのは岩の方じゃ。魔法質量は奴の方が遥かに大きい」
「でも目の付け処は良いわ。ドーム。他に何かいいアイデアは無い?」とマーニーアン。
良いアイデア?
俺は戦士だ。魔術師や僧侶じゃない。考えるのは俺の職業では無い。
酒を飲むのが俺の仕事だ。それとこのオーディンブレードで敵をぶった切るのが。
太陽の巨神がせめてジャイアント並の大きさならば、俺にもなんとかできたのに。オーディンブレードがあれば、俺は無敵なはずなのだ。
オーディンブレード・・・・オーディン?
「おおおおおおお・・ディン!」俺は叫んだ。「ララの神やオーディン神ならあるいは!」
出発の準備はすぐに揃った。
マーニーアンの計測に寄ると・・太陽の巨神がこの大地に到達するのは・・三時間後、余裕はすでに無い。
俺たちは転ぶようにしてダンジョンへ突入した。
随分長い間、俺たちのパーティは僧侶無しで過ごしてきた。
なまじキリアとシオンが僧侶系の呪文が使えるために、本職の僧侶の必要性がなかったのだ。だがしかし、今回の旅にはマーニーアンがついて来ている。
松明を手にキリアの家まで押しかけてきた心配顔のウィズ大学の長老連に、事態の解説をしてもらうため、マーニーアンには残って貰おうとしたのだが、彼女は拒否した。
「あたしはね。ドーム。こんなに長い間、カント寺院に縛り付けられてきたのよ。
自由に行動できる今だけでも、貴方たちがいつも行っている冒険に付いて行って見たいの」
そうマーニーアンは言った。
誰がその望みを拒めよう?
それに・・パーティに女性が混じっているのはいいものだ。そう、スーリが入って以来だ。
不思議だ。スーリのことを今まで忘れていたなんて。この間、死から蘇って以来、俺の中の何かが変わった。
死とはこれほどまでに人を変えるものなのだろうか?
俺たちの思惑に関わり無く、モンスターは次から次へと俺たちの前に出現した。
これでは残り時間内にララの神に会うのは無理だ。さすがに時間の経過が気になり始めて、俺は焦った。キリアの目にも焦りが強く浮き始めている。
血塗れになってフロストジャイアントを倒した時点で、ついにシオンの堪忍袋の緒が切れた。太い棍棒をダンジョンの壁にどかどかと叩き付ける。
さしものダンジョンもシオンの遠慮無い怪力に揺れた。
野蛮人シオン。ロードを職業にするにしては奇妙な通り名だ。だが、その通り名はシオンのゴツイ顔のせいだけでは無い。
シオンが切れると怖いのだ。
俺でもシオンは怒らせないように気を付けている。そのシオンが完全に切れた。
もう一度、力一杯棍棒を床に叩き付けて、シオンは叫んだ。
「俺はシオン! 野蛮なシオンだ! モンスターども」
そこでシオンはビヤ樽のように太い胸を空気で膨らませて叫んだ。
「今からお前たちを皆殺しにしてやる!」
声はどこまでもどこまでもダンジョンの中に木霊した。
恐らくは上の階にも下の階にも轟いたことだろう。
しばらくの間、ダンジョンの壁がビリビリと震動していた。
月影が息を止めて、壁に手を当てて様子を伺っている。それからふっと息を吐き出すと月影が報告した。
「モンスターが逃げ出している。かなり遠くの奴らもだ」
そこから先はすんなりと進んだ。誰だって怒り狂ったシオンの前には出たくは無い。
シュートを抜け、地下六百六十六階の地獄へと出る。
地獄と言っても魔法鏡で見たのとは違う。言わばこちらは地獄の出先と言うべきか。しかしそれにも関わらず、悪魔の種族は一匹も出なかった。どうやら全ての悪魔が我先にと逃げ出してしまったらしい。
もしララの神まで逃げ出してしまっていたら俺たちは一体全体どうすればいいのだろう?
キリアの虚空船で逃げ出す?
だが帰るべき大地も無く、船で虚空へ漕ぎ出しても、その後どうすると言うのだ?
そんな懸念を抱きながら、俺はいつもの隠しドアを蹴り破った。
ウィザードリイの様々な神々。
夜の神ストーラー、星の女神イクラシア、槌矛の巨人ガルムド。
その他、大勢の神々が俺たちの周りを駆け抜けて行った。
俺はほっと安心した。これらの小さき神々がまだいるのならば、ララ神も残っているだろう。
創造と運命の女神ニアスチはいつものように、俺の頬にキスをして駆け抜けて行こうとした。
俺はふと思いついて、頬では無く、唇を突き出した。
見事に成功!
俺のいきなりの行為に驚いた女神ニアスチの頬がぱっとバラ色に染まる。それから女神はもう一度俺の唇に情熱的なキスをすると、他の神々を追って宙に消えた。
「まあ、ドーム。あなたったらいつもそんな事してるの?」
マーニーアンが驚いてつぶやく。
「たまにはね」
俺はマーニーアンにウインクして見せた。
テレポートエリアを越えればララ神の領域だ。
俺たちはララ神の召喚円に足を踏み込んだ。いつものごとく、光のちらつき。そして巨大なトーガを着たラマ、四つ足の神獣が現れた。
ララ神だ。偉大なる魔法の存在、金色の神。
ララ神は俺たちに向かって、お決りの言葉を述べた。
『冒険者たちよ。汝らが望みはやがてかなえられるであろう』
それならばいいが。
俺たちの姿に気付くと、ララ神はひざまずいた。それで丁度俺たちの顔の上にララ神の顔が来る。
「マカデミア・ナッツは手に入ったのか?」
みっとも無いことによだれが少しララ神の口の端から垂れている。
「マカデミア・ナッツは無い。ララ神よ」キリアが答える。
「では戦わねばならぬ」ララ神は立ち上がった。
「太陽の巨神が解放された」
ララ神が攻撃に入る前にキリアは言った。ララ神の目がぎょろりと剥かれた。
「それは・・真か?」
「嘘では無い。後二時間ほどで、ここに到達する」とキリア。
「どうも様子が変だとは思っていたが。では逃げねば、我らにできることは何も無い」
「ララ神よ。あなたでも彼を阻止するのは無理なのか?」
「無理だ。彼を阻止できるものは、この世には無い。
いつかは彼が解き放たれる時が来るとは思っていたが、今がそうだとは思いもしなかった」
「助けて欲しい。我らはこのまま滅びるのか?」キリアはすがるように言った。
「君たちを助けるすべは無い。本当だ。冒険者の守護神である私としても残念なのだが。
あれは、この世界に封じられた最強の神なのだ。
では、さらばだ」
「待って!」こう言ったのはマーニーアンだ。「それならせめて、あたしたちをオーディン神の所に連れて行って」
「私にお前たちを助けるどんな義理がある?」ララ神は冷たく言い張った。
「この世界ではすでに消え去った慈悲を最後に一度だけ」
マーニーアンが続ける。僧侶ならではの言葉だ。
しばらく、とは言ってもほんの少しの間だが、ララ神は躊躇った末に言った。
「承知した。慈悲を施そう」
俺たちを背中に乗せると、いきなり悪意の霧の中へと飛び出した。
この大地を覆う謎の霧の中へだ。戦士の俺にはこの霧が悪意に感じられる。あらゆる生命を拒むもの。
オーディン神の封じ込められている流刑地はこの霧のどこかにあり、絶えず位置を変えている。だからそこへ行くためにはララ神の力を借りねばならない。
ただし、帰るのは帰還呪文ロックトフェイトでも瞬間移動呪文マーラーでも可能だ。
あっさりとオーディン神の流刑地を見つけると、ララ神は俺たちを降ろした。
「私は慈悲を君たちに施した。
恐らく君たちが生き残る事は万に一つも無いが、もし生き残ったならば私の事を忘れないでおいて欲しい。それから」と一言付け加えた。
「マカデミア・ナッツを見つけたら、私のために取っておいてくれ」
それを最後にララ神は消えた。
オーディン神の因われている森は静まり返っていた。それも道理、空は暗く、星がちらちらと見えている。いつもならばとうの昔に陽が上っているはずなのだから。この森に棲む小鬼どもも異変に気付いている。
森の中央にしつらえられた広い空き地の中心で、あいも変わらずにオーディン神は十字架に因われていた。その周りを四つの大きな宝玉が取り囲んでいる。精霊を原料に作られた、力の宝玉だ。その内の赤い宝玉にはかなり大きな傷が入っていて、その傷から陽炎が立ち上っている。その昔、オーディン神にだまされて俺が壊しかけた跡だ。
俺たちが近付くと、十字架の牢獄の中でうなだれていたオーディン神が顔を上げた。
両目を繰り抜かれたままの顔で俺たちを・・そう、確かに・・見つめた。
「感じるぞ。我が剣の存在を!」先に話しかけたのはオーディン神だ。「それに、この感じは」
「オーディン神よ教えて貰いたい」キリアが話を始めた。
キリアを無視してオーディン神は続けた。
「グングニールだ。この感じはグングニールだ!
おお、我が槍。素晴らしきグングニール!」
最後の辺りは絶叫だ。
「我が声を聞き、この戒めを断ち切れ!」
『残念だが』声が聞こえた。懐かしい落ち着きのある声。
オーディンブレードだ。俺の腰のオーディンブレードが本当に久しぶりに話している。
『オーディン神よ。
ぐんぐにーるは私が破壊した。
あの月で、敵に操られたぐんぐにーるを私は破壊した。
貴方が感じているのは、その時私が受けた魔力。
ぐんぐにーるはすでに消え去ったのだ』
その時、オーディン神が上げた絶望の叫びは、大地を揺らし、森をざわめかせた。
オーディン神の全身に一瞬赤いミミズ腫れで何かの文字の連なりが現れるのを俺は見たように思った。
一体、何の文字だろう?
絶望の石板に刻まれていた絶望の言葉。なぜだかそんな考えが俺の頭の中に浮かんだ。
絶望の石板って何だ? 俺は知らないぞ。
消えるまでの間、それは赤く明滅した。まるでこの神の体内で焚火でも燃えているかのような光景だ。
繋がれたままでがっくりとオーディン神は肩を落した。
「オーディン?」とキリア。
オーディン神はピクリとも動かない。
「オーディン神よ?」
やはり無駄だ。
「太陽の巨神が逃げ出したのだ」ぼそりとキリアは続けた。
オーディン神がそれを聞いて顔を上げた。
「太陽が逃げ出したのか?」
「すでに月は破壊された」
「陽が上らぬのでもしやと思っておったが、そうか。さっきの光は月が燃える光か」
何やら聞き取れない声でぶつぶつとオーディン神はつぶやいた。
オーディン神の前の空中に炎の文字が現れた。それを見て俺は構えた。以前、オーディン神の使う不思議な文字によって俺は操られたことがあったのだ。
どことなく見覚えのある文字。そうだ、月に描かれたあの文字だ。
キリアが読めなかった古代神聖文字。
「こんな、サインをやつは残さなかったか?」オーディン神はキリアに尋ねた。
「そうだ。その通りだ。これは一体?」
「やはり、太陽として繋がれていたのはスルトだったのか」
「スルト。炎の悪魔」そうつぶやいたのはマーニーアンだ。
「でも、何故? 貴方たちの神話世界の神がどうして、この世界にいるの?」
「如何なる世界にも終りはある。当然、この世界にも」
オーディン神は落ち着きある声で答えた。
俺はふと思った。
この神も・・権力に対する狂気じみた野望などと言うものが無ければ・・知性豊かな優しき神となり得たかも知れないと。
世界を満たす欲望と言う名の狂気とはいったい何なのだろう?
そんな俺の思惑には関わり無くオーディン神は話し続けた。
「スルト神は常に世界の終りに現れる。世界により呼び名こそ違え、奴は常に滅びの神である。
奴が解き放たれる時、その世界はすでに滅びが定められているのだ。
我が偉大なる武器、グングニールならば、あるいは止められたやもしれぬ。
だが、それが破壊されたのもまた運命なのだろう」
「グングニールはそんなに強いのか?」俺は思わず聞いてしまった。
もしスルトをグングニールが倒せるならば、それを破壊したオーディンブレードでもしやスルトを倒せるのでは、と俺は思ったのだ。
「本来の主人、つまりわしの手にあればグングニールは世界をも滅ぼす。
その真の魔力を解放できるのはこのわし、オーディーンだけなのだ。
グングニールの中には貪欲なるドラウプニール。すなわち、『食い尽くす者』が埋め込まれている。グングニールは解放されると己の周囲にある全ての魔力を吸い取り、己の力として増殖する。例えそれが敵の魔力でも。
必要ならば世界を構成するための全ての魔力を吸い尽くすこともできる。そして無限に強く成りえるのだ」
それで俺は納得した。
すでに亡き月のシギン王はグングニールに魔力をチャージするのに時間が掛かると言った。本来はそんな必要は無かったのだ。敵である俺が力に満ちていればいるほどグングニールはそれに応じて強くなるということなのだから。
「如何にすれば良い?
どうすればスルト神から逃げられる?
教えて欲しいオーディン神よ。さすれば汝の封印を解こう」
キリアは飛んでもない条件を出した。この神を解放していいものなのか?
もしかしたらあの太陽の巨神を解放するよりも、悪いことになりはしないか?
「無駄だ。それに封印を解く必要も無い。わしの野望も終りだ。
いつかこの戒めを解き放ち、再び世界をこの手にすることも夢見たが、それもすでに消え去った。
前の世界の滅びは再生が約束された滅びだった。だがここには再生の約束はない。何も残らない世界を手に入れていったい何の意味がある?
このまま、ここで朽ち果てるのがわしにはふさわしい」
それから付け加えた。
「冥界はついにわしを捕らえたのだ。かの世界より盗み来る力はわしに無益な夢を見せたに過ぎなかった。
『絶望の言葉』とは良く言ったものよ」
「あなたを捕らえたのは冥界じゃ無いわ」驚くことにマーニーアンが言った。
「あなたの欲望が、貪欲さが、あなたを捕らえたのよ。奪うばかりで与えることの無いあなたに世界が復讐したのよ」
「女よ。怪しきものよ。お前はそれをこのわしに言うのか?」
オーディン神が目の無い眼窩でマーニーアンを睨んだ。
「教えてくれ」普段、無口な月影がこれほどの大声を出すとは。「この世界を脱出する術はあるのか?」
脱出?
脱出・・・そうか!
俺たちはスルトをどうかすることばかり考えていた。あるいは船で虚空へと出ることを考えた。
だが他にも逃げ場はある。
このウィザードリイ世界の他にも真の、根源の神々の棲む世界があるはず。
しかし太陽の巨神、スルトが根源の神々の一人ならば、そんな怪物がうようよする世界で俺たちは生き抜くことができるのだろうか?
オーディン神はしばらく考えていた。それから一つの答えを返した。
「人を鎖に変えよ。それを使い壁を壊せ。それが答えだ」
オーディン神は続いてブツブツと何かを唱えた。暗黒が俺たちを飲み込んだ。
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