幕間劇7 言えないこと
暗い部屋の中に明かりが一つ灯った。光の呪文ロミルワ。ただし、出力は最小。ロウソクの灯りほどである。カント寺院の女総領マーニーアンの顔が光の中に浮かび上がる。
ここはマーニーアンの私室。
深くそして静かな力により封鎖された部屋の中でマーニーアンは魔法を行う。今まで、この世界には存在しなかった類の魔法を。
ロミルワの光が広がり、柔らかな光の霧へと変化する。光の霧の中に顔が浮かぶ。やや年齢を重ねた小柄な男。細く伸ばした鼻髭が顔のバランスを崩している。
「チャン」呆れたような声でマーニーアンが指摘する。「そのヒゲ。似合わないって何度も言ってるのに。まだ剃らないの?」
「やあ、ニアン。会った早々にお小言かね」チャンと呼ばれた男は答えた。「似合わない? まさか? みんなこれが格好良いと言うぞ」
「お世辞を真に受けないの。ザ・リムの守護者なんだから誰も批判なんかしないわよ」
「君はしているじゃないか。わかったよ。君は元守護者候補だからな。その権利はある」
チャンは居住まいを正した。
「ところで連絡したのは他でもない。ライドが死んだ」
沈黙が落ちた。ただでさえ静かなカント寺院の夜が今や物理的な脅迫とでも言うべき静寂に見たされる。
「病気? 事故?」とマーニアン。
「殺された」とチャン。
また沈黙が落ちた。マーニーアンは気を取り直した。
「元守護者候補が殺された。そんなことができるなんて信じられない。いったい誰に殺されたの?」
「相手が悪かった。ふうかじゃという妖魔だ。いま一番注目されているはぐれものの一つだ」
「なぜわざわざはぐれものなんか。どうして逃げなかったのかしら。じゃあ、ライドが作ろうとしていた王国はどうなったの?」
「滅んだ」チャンは一言だけ返した。
「そして貴方はそれを見過ごしたのね。いえ、わかっているわ。今のはわたしが悪かった。守護者が誰かに肩入れするなんて許されるわけがないわね」
「信じておくれ。ニアン。それとなく助けようとはしたんだ。だが、ライドはそれを断った」
「それもわかるわ。ライドもある意味、厳格な人だったから」
しばし二人して沈黙を分かち合った。
「それで君のほうはどうなんだ。何か問題はないのか?」
「あるわね」静かな微笑みを浮かべてニアンは答えた。
「あるのか。例のほら、キリアとかいうのは役に立たないのか?」
「その人が導火線に火をつけたの」
マーニーアンは手を伸ばした。空中に魔法の文字が浮かび上がった。複雑な図形が浮かび上がり、マーニーアンの前で踊った。簡単に見えるが。これがどれほど複雑な魔法のプロセスの下で動いているのかをこの二人は知っていた。未来を示す確率構造の浸潤波形が提示される。それは傍目には虹色に輝く宝玉に見えた。
「それほど遠くない未来、この世界は終ることになるわ」
「ニアン」チャンの声に真剣さが加わった。「リムに帰って来なさい。そちらに迎えをやる」
「だめよ。わたしはそこを出た身。帰れないし、帰らないわ。わたしも掟には厳格なの」
「しかしそこにいたら命を失うんだろ!?」
「さあ、わからないわよ。天の定めを誰が知る、とも言うしね。それにこれはわたしの選択。そしてわたしの結果でもあるの」
「しかし」
「チャン。ありがとう。でも、わたしはキリアを信じているの。彼ならきっと何とかするわ」
チャンの肩が落ちた。マーニーアンの性格は良く知っている。
「わかった。もし何かわたしにできることがあったらいつでも遠慮なく言ってくれ」
「そのときはお願いするわ」
この言葉が嘘であることはマーニーアン自身が良く知っていた。
通信が切れた。魔法の光の霧は小さくなり、ただの魔法の灯りに戻る。周囲を包んでいた異質な魔法が散逸し、ウィズ世界の正常な魔法に戻った。
次の仕事だ。
マーニーアンは立ち上がるとお茶を入れ、まだ熱いそのカップを両手で抱えるように包み込んだ。
マーニーアンの目が虚ろになった。一言つぶやく。
「ニルギド」
カップの表面がさざなみ、湯気の中に顔が浮かび上がった。その顔は、叫び、笑い、泣き、それから一切の感情の消えたデスマスクに変わった。唇を動かすことなく、どことなく揶揄する口調で声だけが聞こえて来た。
「おやおや、我より一番遠くにいる乙女よ。またこうして会えるとは何たる幸運」
「上機嫌ね。ニルギド」
「ここは居心地がいいでな」
「あなた。いつ、そこから出ていく気?」
「世界が終るその日にな。乙女よ」
「だとしたら遠くはないわね」
「何を知っている? 乙女よ。そはいったい何ぞや」
「当ててみなさい。狂気の王よ」
マーニーアンはじっと湯気の中に浮かぶ顔を見つめた。その視線に追われてニルギドの顔は崩れて消えた。その顔が消える前にマーニーアンの指が素早く動き、湯気を空間から丸く切り取った。そうして切り取った部分を手のひらの上に載せて転がした。
「言質は取ったわ。世界が終る日にはキリアから出ていく。うっかりしてたわね。狂気の王よ」
机を開けて取り出した小箱の中に湯気の玉をしまう。別に仕組んで言葉の罠をしかけたわけではない。たまたまの会話で貴重な鍵を手に入れた。まったく望外の幸運だっただけ。
いや、それとも、自分が不利になると分かっていても敢えてニルギドは言葉を発したのか?
狂気の王ならあり得る話だ。
マーニーアンは、お茶が完全に冷めきる前に飲み干した。
夜は更けていく。
今日中にやるべきことは、とマーニーアーンは心の中のメモ帳を繰った。
カント寺院の復活台帳を確かめ、お布施の金額を計算する。ボルタックの店主がまた復活費用の支払いをわざと少なく算出して出して来ている。正しい数値になおして、ついでに警告文をつけておく。ちょっと気を抜くとすぐに数字をごまかしにかかるんだから。まったく強欲な人ね。マーニーアンは少しだけ呆れた。
それが済んだら今度はキリア宛の請求書の処理だ。また赤字になっている。マーニーアンは自分の勘定費目を操作して赤字を埋めた。あの人、わたしがお金を補填しているの分かっているのかしら。キリアは天才だけど、こういう所は抜けているのよね。とにかくダンジョンで手に入ったものをすべてわたしに渡せば莫大な出費も何とかなるなんて考えている。
マーニーアンには多くの秘密がある。彼女がキリアに言わないことはたくさんある。
キリアの家計を助けていること。
密かに研究の手助けをしていること。
マーニーアンの過去、現在、そして未来。
今この世界に起きつつあること。
その結果、この世界が滅びに直面することになること。
これからキリアとドームとシオンと月影の身に起こること。そしてボーンブラストがどうなるのか。
マーニーアンにはそれらを止めることはできるけど、止める気はないこと。
そしてキリアが喉から手が出るほど欲しがっている根源の神々の秘密を、実はマーニーアンはすべて知っているということ。
なかでも一番大事な秘密は、マーニーアンが心の底からキリアを愛していること。狂おしいほどに。ニルギドは彼女が狂気からもっとも遠い乙女と呼んだが、もし愛が狂気だとすれば、実は一番狂気の王に近いところにいること。
言うべきことと、言ってはならないことの区別。マーニーアンはいつでもその境界線上に居る。
カント寺院の奥の部屋で、マーニーアンは静かに作業を続けている。
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