幕間劇5 泥棒ゲーム


 俺がいるのはリルガミンの街。建物が落とす影の中だ。

 このリルガミンの街は、自治権を持った商人たちで運営される中規模の街だ。

 暗い街路の中に人影を伺いながら、俺はおいぼれ魔術師キリアとの会話を思いだしていた。


 ある日、キリアじいさんは俺を密かに呼んでこう言ったのだ。

「月影よ。リルガミンの街の秘宝ル・クブリスの宝珠を知っているか」

 もちろん俺は知っていると答えた。余りにも有名な秘宝だったからだ。


 リルガミンの街に災厄が近づいた時、一群の冒険者達が血みどろの冒険の末に聖なる龍ル・クブリスに会い、手に入れたと伝えられる秘宝のことだ。

 善の力のクリスタルと悪の力のクリスタルを一つに融合させたこの宝珠こそ、不安定なリルガミンの街に完全なる均衡を作り出している要だということが魔法学者達により確かめられている。

 伝説は更にこう続けている。ル・クブリスの宝珠がリルガミンの街より失われる時、街の命は尽き地獄の劫火の内に総ての民は滅ぶであろうと。


 何故、キリアじいさんはそんなことを今更尋ねるのだろう?

「月影よ。そのル・クブリスの宝珠が欲しいのだ」

 俺の無言の疑問に答えるかの様にキリアじいさんはとんでもない事を言いだした。

「月の民の攻撃に対する監視システムの中枢に使えるのはあれしかないのだ」

 これで話の大部分が俺には見えた。

 俺も一度は魔術師をやっていた事があるのだ。一通りの魔法理論はそらんじている。

 なるほど確かに総ての力の流れを制御し調和させるル・クブリスの宝珠の力を流用すれば、遥か彼方にある月の光景を対極点にある魔力流の調和結合特異点として宝珠へと投影することが可能だ。魔法光学理論のエレガントな実践と言っても良い。

 だが、このエレガントな解法はたった一つの事実により拒絶される。ル・クブリスの宝珠には誰も触れない。

「断わる」俺は一寸のためらいも無く答えた。

 理由は二つ。

 ル・クブリスの宝珠をリルガミンの街から引き離せば、それだけでリルガミンの街が壊滅する恐れがある。この世界の伝説はそれなりの事実を元にしている事が多いのだ。

 もっと大きな理由は、当然の事ながらル・クブリスの宝珠は厳重に警護されているに違い無いからだ。それをのこのこ取りに行くなど自殺行ためと言っても良い。

 いや、自殺の方がまだ良い。自殺なら優しき神カドルトの慈悲の元に復活できる望みがあるが、リルガミンの街の長老達がそれほど慈悲深いとは思えない。恐らくは地下牢の中に閉じ込められて、復活もできないほど歳を取るまで放置される。

 それぐらいなら一人でトレボー城の地下にある魔術師ワードナーのダンジョンに潜って彼のアミュレットでも奪って来た方がまだましだ。これはもちろん逆説的な物言いだ。あそこに一人で行くやつはいない。必ず死ぬから。

 まったく、魔術師のキリアじいさんときたら。いつもこうだ。

 自分のアイデアに取りつかれると周りの冒険者の迷惑などまったく考慮しない。

 俺は自分の家に帰ろうとキリアじいさんに背を向けた。

 頭の上を一本のダガーが飛ぶと壁に突き刺さって震えた。

「キリア」俺はこのおいぼれ魔術師を睨んだ。

 投げつけられたダガーには十分に人を殺せるだけの力が篭っていたが、本気で俺を殺すつもりで投げたのではあるまい。

「話は最後まで聞くものじゃ。月影。

 確かにこの依頼がたやすいもので無い事はわしにも判っておる」

 たやすいものでは無い? そんなレベルじゃあるまい? キリアよ。

 ダンジョンでの嫌われ魔物のメルフィックでも焼き殺せそうな俺の視線を気にも止めず、キリアじいさんは続けた。

「もちろん、わしもそれなりの報酬は用意した。月影よ。

 ル・クブリスの宝珠と引き替えに、雪風と夜霧の消息を見つける方法を教えよう」


 この時ほど驚いたことは無い。

 どうしてこのじいさんが2人の事を知っているのか!

 誰にも言った事の無い俺の秘密を何故!

 このじいさんはどこまで俺の秘密を知っているのか?

 知られたからにはキリアを殺さなくては。


 俺の目に抑え切れない殺気が漏れ出たのだろう。キリアじいさんの目が険しくなり、小刻みにその指が震えた。

 俺はそっと部屋の家具が落とす薄い影の中へと足を浸した。影に隠れるのは忍者の攻撃態勢。

 驚愕の秘密を伝えられた衝撃で一瞬の躊躇が俺の中に生まれた。そのおかげで、すでにキリアじいさんに飛びかかって殺せる時間の余裕は無くなっていた。

 俺の忍者としての素早さでも。

 キリアじいさんの指の震えは俺に殺される恐怖のせいでは無い。今まで見た事の無い程のすばやさでキリアじいさんは空中に凝固呪文マニフォの小さな魔法陣を描き上げたのだ。

 今までに見た事がないほどの小さな魔法陣。だがそれでもその魔法陣は活性化していたし、強烈な魔力が込められていた。

 キリアじいさんは人格的には大きな欠点があるものの、魔術師としての腕は最強と言っても良い。

 凝固呪文は石化を引き起こす。ひとたびキリアじいさんの呪文にかかれば俺はまばたき一つできなくなるだろう。

 キリアを殺せる機会はただの一度。キリアじいさんが呪文を俺に向けて開放し、それが俺を石化する前の一瞬しかない。

 キリアが次の致命的な呪文を作り出す前に、鍛えたこの手でキリアの心臓を打ち抜く。俺はじわりとキリアとの距離を詰めた。

 そのときドアが勢いよく開き戦士のドームが入って来なかったら、二人ともどうなっていたか判らない。

 酒臭い息を撒き散らしながらドームがよろよろと入って来ると、どっかと二人の中央に位置するソファーへと倒れこんだ。また徹夜で野蛮人シオンと飲んでいたのだろう。

 オーディンブレードの鞘の先がソファーの上に突き出て、俺とキリアの視線を遮った。

 これだからドームは。いや、ドームとその剣オーディンブレードは恐ろしい。酔って意識も朦朧としている癖に、俺とキリアじいさんの間に流れる殺気に勝手に反応しているのだ。

 特につい先日、ドームの恋人でもあり月の民の刺客でもあるスーリが死んで以来、ドームの剣技の冴えにも酒量の増加にも目を見張るものがある。

 これではキリアじいさんとの殺し合いも中止せざるを得ない。先に攻撃を仕掛けた方が間違い無くドームに切り殺される。それも無意識にだ。

 俺は影から足を引き抜いた。

 冷静になって考えてみれば、ここでキリアを殺しても何の益も無い。

 キリアじいさんがどこから情報を得たかは知らないが、拷問したからと言ってすんなりと真実を吐くような男でも無い。だが取引は守る男だ。そう言った意味ではフェアな男だった。取引の文言を十分に吟味すればの話だが。

 雪風と夜霧。俺の一部。彼らの情報が手に入るならば、命を賭ける価値はある。

 俺は言った。「判った。引き受けよう。キリア」




 そうして俺はここにいる。


 ル・クブリスの宝珠は一般的な治療や蘇生を一手に引き受けているカント寺院では無く、街の長老評議会の手で建てられた新たなるメイ・ザーナイク寺院に納められている。ル・クブリスの宝珠は参拝客に公開されていて莫大なお布施を集めている。

 もちろんここに展示されている宝珠は偽物だ。

 キリアじいさんはウィズ大学の名誉顧問の立場を利用して研究の目的でル・クブリスの宝珠を調べた事がある。そのついでに宝珠の隠されている場所と警備状況をつぶさに覚えていたと言うわけだ。

 あくまでも偶然に。

 まさかウィズ大学の長老達もキリアじいさんがこんな事を考えているとは夢にも思うまい。

 俺はそのル・クブリスの宝珠の隠された建物を見つけると、しばらくの間、闇に隠れて観察した。

 石作りの建物の窓に映る影の動きから、俺はキリアじいさんの情報通りに警備が行われていると判断した。

 聖騎士ロードが四人交替で建物の周囲を巡る廊下を巡回している。

 シオンを見ても判るが、ロードを職業とするものは体力がある上に僧侶の呪文を使えるため、しぶとくて手ごわい。もっとも今回の俺の任務は彼等を倒す事では無い。見つからないように忍び込むことだ。

 入口はきっちりと閉じられている。しかし幸いな事に今は暑い時期だ。窓の幾つかは風を通すために開いている。冷凍呪文マダルトを使えば締め切った部屋でも涼しくも過ごせようが、街中での攻撃型魔法呪文の使用は長老評議会により厳しく制限されている。

 つまる所、街中で魔法絡みの喧嘩をして欲しくは無いのだ、長老評議会は。

 俺は三階の高さにある建物の窓から侵入する事にした。

 街路の影の中を音も無く移動して建物の壁に取り付き、壁から突き出している僅かなでっぱりを鍛え上げた鋼鉄の指先で掴むと登り始めた。

 でっぱりに最初は軽く指で触れ、微動だにしないのを確認すると体重をかけて体を引き上げる。わざとらしく突き出している部分は意識して避けた。恐らくは盗賊の侵入を避けるために罠が仕掛けてあるに違い無いからだ。小さなでっぱりと言えど、少しでも動くものも避ける。これも罠を作動させるスイッチに違い無い。

 俺は苦労して三階の窓の下まで這い登った。建物の周囲に見張りが居れば、こういった芸当も不可能になるが、余計な注意を引かないために目立つ所には見張りは置かれていない。宝珠の置き場所を秘密にすることこそ、最大の守りというわけだ。

 ああ、キリアじいさん。あんたは恐ろしい男だよ。その優れた知性は野望への狂気を隠すためにあるのか。誰しもこれほど賢い人間が同時にこれほどの狂気を内蔵するとは思わないものだ。

 伝説が正しければ、ル・クブリスの宝珠を俺が盗み出せば、リルガミンの街は滅びる。

 それを言ってしまえば、狂っているのは俺も同じに違い無い。俺の分身である二人の消息を知るためだけに、街を滅ぼす手伝いをしているのだから。

 影が近付いて来て俺の夢想を中断した。巡回中のロードだ。抜き身の剣を手に持っている。俺の潜む窓の所まで来ると、じろりと窓の外を睨んだ。

 今日は特に暑い。恐らくは風に当りに来たのだろう。警備だけが目的ならば窓の外に何者かが潜んでいないか確認しただろうから。鎧を着た者は危機意識が鈍る。

 しばらく涼んだ後にそのロードは再び窓に背を向けると巡回に戻った。


 今だ。


 俺は窓から飛び出すと、ロードの影の中へと潜んだ。

 俺の動きにつれて、どうしようも無く風が起こり、ロードの首筋を撫でた。

 ふっとロードが振り向き、剣を構えた。奴の影の中に潜む俺の視線と奴の視線がまともにぶつかったが、奴は気付かなかった。しばらく奴は窓を睨んでいたが、ただの風だと判断して、再び元の向きへと向うと進み始めた。

 全身の緊張を解いて、俺は奴の背後をついて行った。

 警護に雇われているのは恐らくは高位のロードに違い無い。長老評議会は街を守るのに金を惜しまない。しかし余りにも長い間、何者もこの宝珠の隠し場所に忍び込もうとしなかったために、警備兵そのものが油断しきっているのだ。

 でなければ窓を離れる時に背中を向けるなどという致命的な行動はすまい。

 剣を抜いたままで廊下を巡回するのは、あくまでも規則で定められているからだろう。

 人間の心とは何と脆いものだろうと俺は思う。昨日も、その前も、何も起こらなかったが故に今日も何も起こらないと思い込んで安心する。その間に災厄は忍び足で近付いて来るというわけだ。ちょうど、今の俺の様に。


 俺は災厄なのか?

 その通り。


 ロードが廊下の中央に位置する部屋のドアの前に来た所で、俺はかねてから用意しておいた小さな砂粒を影の中から撃ちだした。

 砂粒がドアに当る微かな音にロードの肩が揺れた。剣を構え直すとドアをいきなり蹴り開けた。

 ロードは一呼吸置いて、中に飛び込むと、剣ごと体をぐるりと回転させる。

 誰もいない。それも道理、俺は常に奴の背後にいるのだから。

 自分の臆病さをあざ笑うかの様に奴は剣を自分の影に突き刺すと、音高くドアを閉めて出て行った。

 危ない所だった。

 奴の影から出て、部屋の中に配置されているテーブルの影へと移っておいて助かった。どんなに注意しても運が悪ければ人は助からない、俺はその事を肝に命じて、部屋の中を進んだ。

 建物のぴったり中央に螺旋の階段が作られている。それを使って三階から一階へと一気に手摺を滑べり降りた。遊んでいるのではない。ここは少しでも階段を踏めば大きな音が鳴る様に仕掛けられているのだ。階段自体は罠だが、階段の手すりはそうではない。キリアの情報は本当に役に立つ。

 一階は幾つかの部屋に仕切られた倉庫の様なものだ。警護の者達のほとんどは入口に陣取っている。力づくの強奪に抵抗できるだけの戦力がそこには集められている。

 窓もドアも無い二階には長期間の篭城を可能にする武器や食料の類が積み上げられている。三階は本来は周りに対する見張りのために窓が設けられているわけで、決して忍者が忍び込むために開かれているのでは無い。

 ではル・クブリスの宝珠はどこに?

 俺はキリアに教えられた通りに、ドアから三番目の位置に当る倉庫に入り、隅の木箱を手順通りに動かした。これでも内部には訪問者の通知が行く様に出来ている。

 ここから先は警報が鳴る事は覚悟の上だ。

 素早く宝珠を奪い、混乱が納まらぬ内に外へと逃れる。単純だが方法はこれしか無い。

 そこにぽっかり開いた穴へと俺は飛び込んだ。

 侍従が一人、火のついた蝋燭を持って大きな欠伸をしている。訪問者の案内に来たのだろう。武装した護衛すらついていない。

 正しい手順で隠しドアを開けて入って来る者がまさかの盗人だとは思わなかったのだろう。本来なら上の者との誰何など複雑な取り決めがあるはずなのだが。こんな夜中に、いちいち階上の者達を呼んで大騒ぎをする必要は無いと見たのだろう。

 平和は人を腐らせる。

 だから、俺は騒がれない内に、その侍従の首に必殺の一撃を打ち込んだ。

 咽の中央に位置する気道を切断する事は避ける。傷口から息が洩れれば笛の音を思わせるかん高い音がする。

 首の両側にある頚動脈も避ける。ここを切ると大量の血が吹き出して来て、その匂いでどんな馬鹿でも異常に気付く。

 鼻の奥を狙うのも駄目だ。そこから流れ出した脳漿は存外に臭い。

 頚の骨を折れば、もっと血は少なくてすむが、僧侶の治癒呪文を備えている奴の中には自分の頚の骨折をあっさりと治してしまうほど熟練した奴がたまにいる。

 そう考えると人間を静かに殺すのはなかなかに難しい。

 俺がやったのは小さなダガーを一本侍従の首の後ろに突き刺すことだ。

 狙いは過たずに、ダガーはその気の毒な侍従の頚の骨の隙間に入るとがっちりとはまった。鋭利な刃が骨の隙間を広げ神経を圧迫する。それだけで人は悶絶し動けなくなる。実際の死が訪れるのはもっと先になるが。

 頚の骨の間にダガーを挟んで置けば、それを抜かない限りは治癒できないし、傷を治癒しない限りは独りではそれを抜けない。デッドエンド。打つ手なし。

 これが忍者の知恵と言うものだ。残虐ではあるが。

 その半分死んでいる男を手早く隅に隠すと、俺は走った。

 両側に並ぶドアが開いて警備の者達が飛び出して来るかとも思ったが、それも無かった。空中に微かに漂う酒の匂いが俺の疑問に答える。

 ここの警備はいつの間にか、徹底的にたるみ切っている。

 無理も無い。伝説の勇者達がル・クブリスの宝珠を手に入れたのは遥か三百年も昔。その長い年月の間、彼等は虚しい警護を繰り返して来たのだから。

 しかしこの静寂も一瞬の間だけ。一度警報が轟き、騒ぎが始まれば彼等は目覚め、その力を発揮し始めるだろう。二度目の挑戦は無い。一度失敗すれば今日を境に警備は倍に増加されてしまう。

 俺は吸血鬼のごとく素早く静かに、闇に満たされた廊下を走った。

 そして大広間、ル・クブリスの宝珠の安置される祭壇の間へと辿り着いた。


 中央に明るく燃える祭壇の炎。その照り返しを受けて、ル・クブリスの宝珠が燦然ときらめいている。メイ・ザーナイクの寺院に飾ってある偽物とは明らかに違う輝きがその宝珠の周りを覆っている。その背後に浮かび上がっているのは聖なる龍ル・クブリスの彫像だ。

 両側に人の形をした二つの彫像が立っている。

 俺は宝珠に向けて最後の一歩を踏み出し、その姿勢のまま背後に跳んだ。

 今の今まで俺の体があった場所を何か黒い物が切り裂いた。恐らくは黒塗りの短剣。忍者が闇の中での戦いに使うものだ。

 ゆらりと祭壇の両側に控えていた二体の彫像が動いた。

 宝珠を守る最後の警護の者達だ。

「俺はサムライマスターの破空」右側の男が言った。「汝の名前を名乗るがよい」

 俺は無言でそいつの目を見据えた。

 ぞくりと冷たい物が俺の背中を通り過ぎて行った。こいつは強い。恐ろしく。そう、戦士のドームほども。

「ニンジャマスターの峰」左側の影が言った。「何者の使いか・・」

 俺は微かに驚いた。その声は女性のものだったからだ。

 実際の所、女性は忍者には向いていない。骨と筋肉の付き方が忍者に必要とされる瞬発力に不向きなためだ。だが一度、そのハンデを克服して、それでも忍者になったものは男の忍者には思いも付かない力を発揮する。動きのリズムが違うためだ。

 男と女。善の属性を持つ侍マスターと悪の属性を持つ忍者。善と悪の均衡を保つル・クブリスの宝珠ならではの護衛だ。俺は妙な所に感心した。

 確かに、リルガミンの街の長老達は警護に金を惜しんではいない。これだけ平和が続いていたのにも関わらず。

 そこまで考えて警護の者達がたるんでいたわけも判った。これほどの武人を配備していたとすれば、宝珠が盗まれる可能性は万に一つも無いからだ。つまるところ、ここまで警備が手薄だったのは、侵入者を油断させ、この最後の二人にぶつけるための布石。

 俺はまんまと罠の中に飛び込んでしまった。

 祭壇の周囲では魔法は使えない事をキリアから聞いておいた。頼れるのは自分の体のみと言う事だ。

 破空と名乗る侍がずいと俺の前に出て来るともう一人に言った。

「俺一人で殺る。お前は見ていろ」

 どうやら援軍を呼ぶ気は無いらしい。それだけ自分の技量に自信を持っている証拠でもあり、それ以上に腕の奮いようも無い状況に退屈していたということだ。

 もし、俺以外にも侵入者がいたら、まず間違いなく援軍を呼んでいただろう。

 キリアじいさんはここまで見通していたのだろうか?

 ずい、と更にもう一足出ると、破空は剣を抜いた。

 黒塗りの刀身だ。祭壇の炎が作る大きな明りがあるとは言え、やはりなお薄暗い地下の寺院の中で、その黒い刀身は闇に溶け込んだ。

 いや、違う。

 刀にそって何かの炎がめらめらと吹き出ているのが闇の中で見て取れた。

 それは実際には熱く無く、それでいて見る者の心を焼き尽くす熱さを持っていた。

 俺の全身を衝撃が貫く。俺は自分の死を悟ったのだ。

 伝説の妖刀、ムラサメ。名剣カジナートや魔剣オーディンブレードなどの、この世界に存在する数々の妖刀の中でももっとも恐れられている刀の一つだ。

 そのムラサメの中でも鬼包丁と異名を持つ最強の黒塗りの妖刀が存在すると聞いた事がある。一度抜けば獲物の血を見るまでは納まらぬと言われる刀が。

 酒の上での与太話だと、今の今まで思っていた。

 抜いた剣を左足の前、斜め下段に構えると破空は擦り足で俺との距離を詰めて来た。その動きの滑らかさが破空の強さを表している。

 俺は小刻みに左右に体を動かしながら、影に隠れる隙を探した。ここではちらちらと揺れる祭壇の炎の明りが小さな分断された影を幾つも作っている。影同士が触れ合っていない以上、どの影に飛び込んだかを知られることは致命的な結果を引き起こす。

 炎を揺らして影を踊らす事は出来るが、そうすれば背後に控えている峰がその影に乗って俺を襲うだろう。破空は一対一の戦いのつもりだろうが、悪の属性を持つ忍者たるものがそんな事を気にするわけがない。

 何とか破空の隙を見つけなければ。奴が影を見ていない瞬間を。

 破空がひょいと刀を振った。床すれすれを横に跳躍しながら、俺は舌を巻いた。

 間合いが俺の思ったよりも広い。まず届かないはずの距離から刀が伸びる。

 おまけに刀が風を切る音がしない。刀は風に乗って舞い遊んでいるという表現がぴったりだ。

 俺は剣士のドームが愛用のオーディンブレードでポイズンジャイアントに切りつけた時を思い出した。あの時も剣が風を切る音はせず、ポイズンジャイアントどころか背後のダンジョンの堅い壁までもが奇麗に両断された。

 破空は軽く刀を振っている様に見えるが、その実、恐るべき集中力で刀を振るっているのだ。刃面が振り込む方向に完全に従うと風を切る音はしなくなる。

 踏み込みの早さ、剣を振るいながらも距離を詰められるバランス感覚、そして恐るべき動きの正確さ。

 この祭壇の横で敵を待つ長い長い待機の間を、破空は相棒の女忍者と修行に費やしたのか?

 いつ来るか判らぬ敵のために。ただひたすらに。信じ難い程の精神力。そして信念。

 温かいものが左手を滑べり落ちた。

 血だ。強烈な直感に突き動かされて完全に跳んで避けたはずなのに、奴の妖刀村正は俺の左の前腕を少し切り裂いたのだ。

 それも試しの一太刀で。次は本気の斬撃が来るだろう。


 避けられない。


 俺は顔に巻き付けた黒布を取り去り、己の顔を明りの元にさらした。

「名は言えぬ。だが、顔は見せよう。お前の技に敬意を表して」

 破空は頷くと宣言した。

「苦しまぬよう、切って見せよう」

 一分の隙も無い構えで破空は再び俺との距離を詰めた。

 剣の技に加えて妖刀の力。今の俺の力では破空にかなわない。

 だが戦いは技と力だけで決まるものでは無い。

 奴がここ、ル・クブリスの祭壇の前で辛い修行の日々を送っていた間、俺はダンジョンの中で死闘を繰り返していたのだ。ここで負けるわけにはいかない。

 俺は顔から外して手に持っていた黒布を破空の顔へと投げつけた。布の中には鉄片が仕込んである。

 剣が閃き、空中の黒布を切り裂く。一瞬の隙も見せない侍の破空。

 だが、その布の後を追って、俺の左手から散った血の玉が襲う事までは予測しなかったらしい。

 無数の細かい黒い血の玉が破空へと飛び、風に乗って遊ぶムラサメ刀がそれを捉えた。が、血はその黒い刀身の上を滑べり、破空の顔へと当る。

 これが毒液ならば破空は避けてみせただろう。武術者の常として、殺気の乗っていない物への反応はどうしても遅れるのだ。

 破空の視界が遮られた一瞬、俺は影へと滑べり込んだ。

 破空が再び剣を構え直した時には俺はすでに影の中で息を潜めていた。炎につれて揺れる影全てが今や破空の敵だ。

 忍者の放つ必殺の一撃を受ければいかな破空でも死は免れない。だが、その一撃を外せば、破空は次の瞬間、俺を殺しているだろう。

 どちらにしろ勝負は一瞬で決まる。

 破空の構えが変わった。剣を頭の上高く、上段に構え直した。

 なまなかな動きでは俺の一撃を受け止められないと悟ったのだ。防御は捨てて鍛え抜かれた攻撃の速さに全てを賭ける。

 炎の様な男だ。こんな状況で無ければドームならずとも酒を一献飲みかわして見たくなるような。

 ゆっくりと破空が動き始めた。床の上で揺れる影の一つに近付いて行く。気配を探っているのだ。

 やがて破空は俺の潜んでいる影に近付いて来た。俺は意識を集中した。

 破空の妖刀ムラサメが俺を両断するのが先か、俺の手が破空の胸を撃ち抜くのが先か。

 その時だった。勝負を見守っていたニンジャマスターの峰が動いたのは。一本の手裏剣が飛び、俺の潜んでいた影に突き刺さった。

 それより一瞬早く、俺は再び明りの下へと立ち戻っていた。

「峰。邪魔をするな。一対一の勝負と言っておいたはずだぞ」破空が叱りつけた。

「破空。貴方は甘い。我らの任務は侵入者を殺すこと。

 今の状況では貴方が殺されていたかもや知れぬ」峰が冷たく答えた。

「貴方がどう思おうと、機会があれば私は奴を襲う」

 その時、俺はふと思ったのだ。共に武術者とは言え、破空と峰、男と女が二人だけで長い年月、ル・クブリスの宝珠を守り続けた。

 共に修行を続けた。この孤独な祭壇の前で。


 峰は破空を愛しているのだろうか?

 それに破空もまた峰を。

 人は己の夢のために苦しい修行に耐える。

 だが、長い間の孤独と退屈が育んだ愛が己の敵になるとは考えぬものだ。

 とすれば、つけいる隙はある。俺は冷たい意識の隅で考えた。戦いは技だけで決まるものでは無い。重要な鍵は破空の持つ、武士道と呼ばれる侍ならではの精神にある。


「卑怯!」と俺は破空に叫んだ。

 破空の顔がびくりと歪んだ。俺は破空の痛い所をついたのだ。

 武士道の精神からすれば対峙者だけで行われる果たし合いを峰が邪魔したのだ。卑怯以外の何物でも無い。破空もそれを判っているだけに俺に改めて指摘されたのでは動揺せざるを得ない。かと言って、ここで戦いを続ければ、再び峰は横から手を出すであろう。忍者の属性が悪に決まっているのは故無き事では無い。忍者というものは度を越した現実主義者なのだ。

 そうなれば破空のプライドはどうなる?

 破空の構えが解けた。一つ豪快に笑うと俺の血を求めて渋る妖刀ムラサメを再び鞘に納めた。

「では峰と先に戦うが良い。わしは手を出さん」

 それから思い出した様に付け加えた。

「峰は強いぞ。わしよりもな」


 確かに、それは俺も感じていた。先ほど破空の目をくらませて影に隠れた時、俺は確かに同時に峰の目もくらませたはずなのだから。その俺の隠れた影を峰は易々と見つけ出した。

 忍者として俺とは桁違いの腕を持っているという事だ。

 雪風に夜霧、ああ俺が完全でありさえすれば。だが、今は俺の力だけでやるしか無い。

 破空に変わって峰が前に進み出ると、その足が影の中に浸された。俺も手近の影へと足を浸す。

 忍者同士の戦いだ。何かが祭壇の炎の中に投げ込まれ、その一瞬、床に落ちている影の全てが揺らいだ。

 その機会を使って影から影へと忍び跳びながら、俺は苦い思いに眉を潜めた。

 峰の動きを見逃してしまったのだ。二つめの影に移動したのまでは追えた。次の影への移動を奴はしたのか、しなかったのか?

 峰の方は俺の動きを正しく読んでいるだろう。元より峰の目を逃れられるとは思っていない。目標は只一つ、離れてこの戦いを見守っている侍の破空だ。

 峰を探している振りをしながら、俺はそっと破空を背にする位置へと移動した。

 床に描かれた影のパターンから俺を襲える位置にある影はただ一つ。峰にもそれは判っているだろう。だから俺の移動を奴は影の位置を調整するためだと思っているはずだ。なるほど、この位置なら影への隠れ技は意味を失う。

 とすれば後は格闘術の問題だけだ。どちらの手足が鍛えられているか、それが全てだ。

 峰が影の中から現れ、素早く俺との距離を詰めると、鋼鉄の棒も叩き折る程の手刀を打ち込んで来た。

 かろうじて受けた俺の腕がじんとしびれる。先ほど破空に受けた左腕の傷が衝撃でぱっくりと開いて血を吹き出す。

 峰の放つ続けざまの手刀をなんとか受け流した所で俺の待ち望んだ瞬間がやって来た。

 わずかに峰の腕が背後に引かれバランスを取る。片方の肩が毛筋一本ほど下がる。

 峰の蹴りだ。

 俺は峰の蹴りに合わせて背後へ跳躍した。

 強烈な衝撃が襲いかかり、俺の背後への跳躍を加速する。あばら骨が峰の蹴りに耐え切れずにべきべきと派手な音を立てて折れ、俺は半分演技で、半分本当に、無防備な形で破空の前へと転がった。

 もしこの時、破空が剣を振るっていたら俺は空中で両断されていただろう。

 だが俺は破空が剣を抜かない方に賭けていた。武士道精神が破空の心を縛っているのだ。

 半ば偶然の様に破空のすぐ目の前に無防備な背中を晒して俺は立ち上がった。戦いの邪魔をしないように、慌てて破空が位置を変える。その目の前を再び俺の背中が覆った。俺が破空の動きに合わせて跳んだためだ。体術に関しては少なくとも忍者の俺の方が侍の破空よりは上だ。

 背後の破空の動きも知らぬ気に俺にとどめを刺そうと峰が目の前に迫る。

 思った通りだ。

 余りにも長い間、破空と峰は二人だけで修行を積んで来たために、人数が多い時の混戦というものが考えられなくなっているのだ。そう、同士撃ちの危険を。

 峰の腕が俺の心臓目がけて突き出された。必死の動きで俺は左手をカバーに廻して、峰の腕を外側に弾いた。恐ろしく無理な防御のやり方だ。峰の腕を俺の腕に僅かに巻き込むと背後に向けてその腕を引き込んだのだ。

 厭な音を立てて衝撃に耐え切れなかった俺の左腕の筋肉が切れた。

 背後で破空が叫び声を上げる。

 目の前を横切った俺の体の後から、峰の鋼鉄の腕が突き出て来たから。

 俺の無理な防御と引き替えに、加速された峰の腕が破空の目玉に突き刺さったから。

 事態に気づいた峰が何かを叫んだ。自分の腕が破空の顔面にめり込んでいる。

 一瞬。ほんの一瞬だけ、峰に隙が出来た。

 その瞬間、俺は破空の剣を引き抜いた。俺の右手の中で妖刀ムラサメが叫び声を上げ、焼けた鉄を掴んだかの様に手の平に激痛が弾ける。

 俺の動きに気付いた峰が思いついたように手刀を打ち込んで来たが、その動きは鈍い。その手刀に肩を砕かれながらも俺は破空の妖刀ムラサメを峰の腹へと切りつけた。

 妖刀ムラサメの持つ魔力が働き、浅い切り傷を作るのがやっとという刀の勢いが急に加速された。ムラサメの血に飢えた意志が刀の刃をずぶずぶと峰の腹へと埋め込んで行く。主人たる破空の意志を全く無視して。これだから魔剣は恐ろしい。魔剣は独自の本能と意志をもっていて、おまけにいつも餓えている。

 慌てて腹に食い込む刀を外そうとした峰の両肩を俺の蹴りが砕いた。関節から砕けた峰の腕が両側に垂れ下がる。

「な!」破空が絶叫した。「峰!」

 破空は叫びながら腰の刀を抜こうとして、それが今まさに峰の体を両断し、命を奪いつつあることに思い当った。

 そして俺が危険な程、破空に接近してきていることにも。

 剣を持たない剣士はオークも同然。ドームの言葉が俺の脳裏に浮かんだ。

 俺はすでに死を覚悟した破空へと必殺の一撃を放った。



 血に塗れて、俺は暗闇の中に身を起こした。


 俺よりも遥かに強いはずの2人の武人が、己の愛するものゆえに滅びた。

 サムライマスターの破空は侍としての武士道への愛ゆえに。

 ニンジャマスターの峰は破空への愛ゆえに。


 俺の耳には破空の目を潰してしまった時に峰が叫んだ言葉が残っていた。それは忍者の雄叫びでは無く、愛する者を傷つけてしまった女の悲鳴だった。

 破空とて、一瞬の油断。

 峰の攻撃を受けて、これほど早く俺が立ち直るとも、武士道精神に従って戦っているはずの俺が破空を戦いに巻き込むとも思っていなかった。

 俺の手がその心臓を撃ち抜く前に、破空はただ一言だけつぶやいたのだ。卑怯、と。

 俺は忍者だ。武士道精神とは無縁。俺は冷酷非情に敵を殺す。必要なら愛さえも。だがそれなのに俺はそのつぶやきに応えてしまった。

 すまぬ、と。

 戦いは力だけでは無い。人を人たらしめる心も関わるのだ。

 だが、そんな人の情を逆手に取ることが勝利への核心だとすれば、俺の求める究極の忍者になると言うことは、もしかしたら単なる心を持たない殺人ゴーレムへと変わる事なのだろうか?


 俺は戦いの後の虚しい気分を抱えたまま、ル・クブリスの宝珠の前に立った。

 骨と筋肉が激痛にきしんだが敢えてそれは無視した。

 キリアの教え通りに宝珠の安置された祭壇の上部を動かして隠された罠を解除すると、祭壇の中の秘密の隙間をあらわにする。

 その中央に輝くものこそ、本物のル・クブリスの宝珠。

 祭壇の上に輝いているのもまた偽物であった。それは触れた者を巻き込んで爆発するように作られた魔法の罠だ。

 俺はそっとその貴重な宝珠へと手を伸ばした。

 何か大きな物の動く気配がした。

 顔を上げた俺の目の前にル・クブリスの彫像が俺の前に迫ってくるのが見えた。

『盗人よ。お前はその珠を持って行くつもりなのか』

 聖龍ル・クブリスの声が頭の中に聞こえた。

『それを奪えば、この街は滅ぶのだぞ』

 俺はちらりと背後に目をやった。そこには折り重なったままの二人の死体がある。

 俺は答えた。

「己が大事に思う物のために己が滅ぼされる。その点については人も街も変わらない」

 俺はル・クブリスの宝珠をしっかりと掴むと、それを布に包んで懐へとしまい込んだ。

「俺もまた、俺が大事に思うものにより滅ぼされるのだろう」

 聖龍ル・クブリスは少しだけ考えこんだ。

『確かにこの街には滅びの時が近付いている。

 それ故に我が宝珠は予言に従い、その場所を変えようとしている。お前は自分がその珠を盗んでいると思っているが、その実その珠がお前を使って盗まれているのだ。

 だが、盗人よ。盗人が来るが故に鍵が開き宝が盗まれるとしても、鍵が開かねばそも宝は盗まれぬものなのだぞ。

 たとえリルガミンの運命が尽きようとしているとしても、そなたが宝珠を盗みださねば、いましばらく街は持つのだ。これをいかに考える?』

 その言葉通り俺は考えた。

 この街はやがて滅びる運命にあるため、予言に従ってル・クブリスの宝珠は失われようとしている。だが、もし俺が宝珠をここで盗まなければ街の命はほんの僅かながら伸びるのだ。次にル・クブリスの宝珠が奪われる時まで。

 次に来るのは強盗の群か、それとも狂った魔術師の大群かも知れない。俺がこの宝珠を盗まなくても遠からず誰かは来る。そしてあの二人はやはり破れ、宝珠は盗まれる。延命措置にあまり意味はない。運命はそんな風に働く。

 宝珠は返すまい。

 俺は無言で聖龍ル・クブリスに背を向けると、再び影の中へと足を踏み入れた。

 その問いにどんな言葉を返すことが出来たろう?

 俺は自分の欲望を満足させるためにこの平和な街を滅ぼすのだ。

 それに俺の肋骨と左腕は完全に折れて砕けている。右腕は侍だけにしか持てぬはずの妖刀ムラサメに触れたお蔭でぼろぼろだ。この状態では聖龍ル・クブリスに襲われても戦えるものでは無い。

『では、我、ル・クブリスの呪いを受けよ』

 言うなりル・クブリスは何かのブレスを俺の背中に吐きかけた。

 そして振り向いた俺の目には、元通りの彫像が微動だにせず祭壇の後ろに座っているのが見えた。

 聖なる龍ル・クブリスの引き起こした魔法の幻影。本物の龍は今でも聖なる山の上に棲んでいるのだろう。

 そして俺はかの懐かしきメイルストロームの眠る街、キリアじいさんの元へと帰ったのだ。

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