第三話 天空の盃(後編)
殺される、の一言で頭がしゃっきりとした。酒が一瞬で抜けて、全身に活力が満ちた。俺の体と頭はずいぶんと便利な出来だな、と自分でも思う。
キリアじいさんはこんなときに冗談を言う男では無い。キリアが危険と言ったならば、本当に危険なのだ。そう、手遅れになるぐらい。もうすぐそばまで命の危険が迫っていることを示している。
「ドーム。大丈夫か? わしは武器と言ったら短剣ぐらいしかない。お前の腕だけが頼りじゃ」
「じいさん。大丈夫だ。本当に危険なのか」
俺は左右を素早く確かめた。部屋の中には他に誰もいない。腰には愛用の剣。俺はどんなに酔っぱらっても剣だけは離さない。剣は戦士の命だし、この魔剣はファイ師匠から譲られた大事な剣だ。
「危険だ。あ奴は」とキリア。あ奴とは王様の事らしい。
「わしから何とか情報を引き出そうとしていた。気になっていたのはわしの背後に誰がいるのかだな。意味のある情報を引き出せないと見るや、にやりと笑いおった。あ奴は危険な奴じゃぞ。ドーム。鼠をいたぶる猫のような奴じゃ」
「鼠は鼠でもこいつはきっと殺人鼠だぞ」
やはり俺の直観は正しかった。俺は剣を撫でながら言った。ちなみにダンジョン最深部には殺人ウサギがいる。ウサギなのにベテラン冒険者を一撃で殺すとても嫌なやつらだ。殺人鼠は幸いなことにまだ見たことはない。
「さあ、キリア。逃げよう」
「ドーム。扉の両側に見張りが二人いる。部屋に全員揃ったら、処刑人の一部隊がやってくる手筈じゃろう。それまでワシらを監禁するための、つまりは手練れじゃ」
「そういえば、シオン達は?」
「わしが頼んで、ある事をして貰っておる。ドーム。お前が散々酔っぱらいの振りをしてくれたお蔭で、彼らが消えたのは気付かれなかったようじゃ」
酔っ払いの振り? まったく・・じいさんの言葉はどこまで本気なのか、時々わからなくなる。
俺は責められているのだろうか、それとも褒められているのだろうか?
まあ、いい。
「じゃあ、キリア、行こうか」
問題はどうやって外の衛兵を声を立てさせずに倒すかだ。俺はしばらく魔剣オーディンブレードと相談した。
今回は半分のパワーでいいだろう。オーディンブレードはそのままでも非常に切れ味のいい剣だが、その真の性質は剣に封じられた古えの神の力にある。このような反魔法場の中でも、アイテムに封入された形の魔法は大概が影響無く働くので、その意味では絶大な安心感がある。ただ、この剣はなかなか全力を出してくれないという欠点がある。本来がなまけものなのだ。
俺に良く似ているって?
剣が主人に似る?
ま、さ、か!
主人が剣に似たに決まっているだろう。
とにもかくにも話は決った。いまは行動すべきときだ。
扉は重くて硬い金属だ。最初から獲物を捕らえるための部屋。装飾でごまかしてはあるが、体のいい牢獄だ。扉の向こうには二人の歩哨。恐らくは相当の手練れだ。倒せないわけじゃないが、それには多少時間がかかる。そしてそいつらはきっと、何かの連絡の手段を持っている。プロならば、闘いで勝とうとするよりも、まず仲間に異常事態を知らせようとする。それが一番まずい。
最初の一撃で殺さねば。
どんな手練れでも、四六時中意識を張り詰められるわけじゃない。俺たちが扉の中にいる間は、当然ながら油断する。もし、扉が少しでも開いたならばその瞬間に身構えるだろう。
ならば扉を開けずに殺せばいい。
俺は扉に手を当て、向こう側の気配を探った。
分厚い扉の向こうにいる人間の位置が気配だけでわかるのかって?
もちろんできるさ。
俺は魔剣を抜くと、高く頭上に差し上げた。剣の刀身の中に渦巻く力が感じられる。そこなら反魔法場も手が出せない。魔剣の力だけではなく、俺の剣の技も必要だ。精神を集中し、研ぎ澄ます。剣が手の延長となり、俺の一部となる。硬いはずの金属の扉が柔らかく感じられる瞬間を待つ。
いまか?
いまか?
いまか?
そうだ!
一声、音の無い気合いをかけて剣を斜めに振り下ろした。
重い金属の扉もろとも、扉の外の衛兵2人を両断した。壁の両側にも深い切れ目が入ったが、仕方ない、許してもらおう。
扉が開く。
廊下は死体から流れ出る血でひどい有様だ。血の臭い。自分に何が起こったか理解していない顔で、床の上から俺を見つめる男たちの顔。目の前に転がっているのが自分の下半身だと気づいたかどうか。
まさかこいつらもこんな殺され方をするとは夢にも思わなかっただろう。扉と壁に隔てられて、死からは隔絶されていたはずなのに。
突然の死。死神の与える衝撃。運命の残酷な一矢。この世の名残に言葉一つ残すこともできない無残なる悲哀。
だが、俺はこの結果を気にしない。
少しだけ胸が痛んだが、いつものように無視する。失われる命を痛む俺と、戦い続ける俺は、同じであり、なおかつ違う。冒険者とはそういうものだ。
床のエキゾチックな模様の絨毯も血塗れだ。もったいないなあ。そう思うのも、また俺だ。
俺とキリアは廊下を走った。宮殿の奥深く、記憶にある帰り道は遠かった。
侍従たちの一団に出会ったのは、丁度道のりの半分まで来たときだった。
出会い頭だ。隠れようがない。俺は剣を縦横に振るい、キリアは短剣でこれも目ざましい働きを見せている。魔法使いの癖になんて素早さだ。まるで、忍者並の動きだ。魔法さえ使えればキリアはほぼ無敵なのだが、それは無いものねだり。本人も苦痛に思っていることだろう。
さすがにこの人数を一撃で倒すことはできなかったが、それでも相手を圧倒し刻んでいく。
俺が十人ほど切り伏せ、キリアが二人ほど殺したときに、最後の一人が振るった剣がキリアの足に命中した。剣の腹の方だが、キリアの細い足が鈍い音を立てて折れた。当たったのが戦士である俺の足ならばまず折れなかっただろうが、キリアじいさんは肉体的には脆弱な魔法使いだから仕方がない。
道はまだ遠い。俺はキリアを負ぶって走りだした。キリアは魔術師だが、僧侶出身の転職クラスだから僧侶呪文は全部使える。だから普通ならばここで治癒呪文を唱えて問題は解決する。だが、アンチマジカルフィールドの中では、治療の魔法は効かない。一般的な治療呪文を含んだ水薬さえ、このフィールドの中では効き目が弱いし、そもそもそいつは船の中に置いてきた。まさか宮殿全体が罠になっているなんて考えもしなかったからだ。俺の魔剣は特殊な金属の中に特殊な神の力を封じ込んだ特殊な魔法の武器だから、それほど影響を受けない。これは不幸中の幸いというものだ。
うむ。俺って良い武器に恵まれたなあ。自分で自分に惚れ直した。剣が俺の手の中で戒めるかのように震えた。
ほどなく次の警備隊にぶつかった。宮殿の周りをくるりと回る渡り廊下だ。窓は高すぎてそこからは逃げられないし、今度も隠れる場所は無い。キリアを負ぶったまま引き返せるほどの時間は無かった。次の角のすぐそこまで、大勢の足音と鎧と剣の触れるかちゃかちゃという音がする。こうなれば仕方が無い。
俺は無言でキリアを床に置いた。足は綺麗に折れている。奪った剣を添え木代わりに縛り付けてあるが、この足で歩くのは難しい。
俺はキリアの顔をじっと見た。そして、キリアの前の通路に立った。
「ドーム」キリアが苦痛を堪えた声でささやいた。
「なんだい。キリア」
剣を足元の床に突き立てた。この線から先は死体しか通さん。いや、動く死体は困るけど。
俺はそっとつぶやいた。オーディンブレードよ。目覚めよ。
「わしを置いて行け」
「キリア。俺はいそがしい」
「ドーム。元はと言えばわしが、この旅にお前を引きずりこんだのだ。わしを連れては逃げられん。行け」
「もう、遅いさ。キリア。敵は目と鼻の先だ」
その通り。俺たちの前方の廊下に警備兵が現れた。俺たちの姿を見て、騒いでいる。三十人というところか。巡邏隊の規模じゃない。きっと俺たちを捕獲するために部屋に向かう途中の軍隊の一部だ。
俺は逆さに立てた剣の鍔に両手を当てて彼らが近づくのを待った。
「ドーム。引き返すのじゃ。わしが少しでも時間を稼ぐ」
「うるさいぞ。じいさん。あんたを置いて行くことは無い。絶対にだ」
俺は後ろを振り向かずに言った。こんな恥ずかしいこと、面と向かって言えるか。
「あんたは俺の親父であり、俺の親友だ。命に替えても守る」
俺の剣と酒の師匠のファイサルでも同じことをするだろうさ。
前方で兵が陣を組んだ。三つの部隊に別れそれぞれ前後に並ぶ。飛び道具は無しか。全員剣や槍だ。魔術師の姿がないのは宮殿全体に巡らされた反魔法場のせいだ。ここでは魔法は全くの無力だから。
先陣を切るのは十人ほどだ。前後に五人づつまとまって距離を詰めて来る。
中央の三人は短槍、両側の2人は長剣。厭な相手だ。集団戦法に長けているのだろう。さっきの奴らとは動きが違う。ベテラン兵だ。
なによりあの短槍が厄介だ。剣よりもはるかに。刃面を最小に作った短槍で、前に出した片手で槍本体を保持して残った片手で槍を前後に突き出す。熟練者だとすれば、瞬きの間に五回は槍先を繰り出してくる。俺はそのすべてを剣で反らさないといけない。反らせなければ、死ぬ。
甘い見通しは立てない。俺はたぶんここで死ぬ。
「じいさん。ここは戦場で、俺は戦士ドーム。戦士にとっては戦場は故郷だ。故郷で死ねるのならば、悔いは無い」
どうしてこう俺は口下手なんだろう。言いたいことの半分も言えやしない。まあ。口の上手な戦士なんているわけがないか。
「ドーム」キリアがつぶやく。
そのときの俺は知らなかったが、後にキリアは俺に語った。この瞬間、キリアは自分の咽を切り裂こうと思ったらしい。俺を逃す為に。だけど、その話を聞けたのは旅の後の感傷的だった一時期だけだ。その後は何度聞いても、キリアじいさんは知らぬ存ぜぬで押し通した。
まったく。
愛すべきじいさんだよ、あんたは。
後ろの方からどたどたと足音が聞こえて来なければ、じいさんはそこで自殺していただろう。だが、こうなっては、じいさんは俺の背中を護らなくてはならない。俺はと言えば、正面の敵のすべてを一撃で倒す必要が出来たわけだ。
そうとも。素早くやらねば、じいさんが危ない。いまこそオーディンブレードの出番だ。
奴らは近付いてくる。顔に勝利を確信した表情が浮かび上がっている。
こうやって何人の冒険者を殺して来た?
お前ら?
俺はつぶやく。オーディンブレードの中に眠る魂に。剣の心に。
剣よ。我が剣よ。戦士の全てである剣よ。我に力を貸せ!
お前の全ての力を!
今、この一瞬のみが戦士の時だ。我が愛すべき世界の為に。我が愛すべき者達の為に。
剣よ。汝が力を我に与えよ。
剣は応えた。白い渦巻が剣の中から、反魔法場の中にも関わらず、巻き起こる!
剣を掴んだ両腕が自然に上がり、白熱する剣が天高く伸びた。
剣は我であり、我は剣なり。生と死の境界に我は立つ!
視界が赤に染まった。怒りの赤、血の赤、焼き尽くす赤だ。
無意識にほとばしりでた雄叫びが廊下に轟く。その雄叫びよりも速く、俺は動いた。
前衛の五人がこの突進に驚き身構えたときには、すでに俺はその正面に立っていた。お互いに取っての死の位置。命のやり取りから絶対に逃げることのできない距離。その通り。俺は剣だ。剣そのものだ。剣は死を恐れない。剣は死を生み出すものだから。
向こう側の基本的な戦術は防御を頑丈な鎧に任せた攻撃特化。中央の短槍使いが目にもとまらぬ突きを繰り出し、左右の剣士たちが敵の攻撃を止める。だからこちらの最初の攻撃対象は剣士だ。
白熱の輝きとともに力に打ち震える剣は斜めに天より舞降りて、左の剣士に刃を喰い込ませた。敵の鎧の装甲をまるでバターかのように切り砕くと、短槍を繰りだそうとしていた三人の兵を襲撃した。
稲妻型の軌跡を描いてオーディンブレードが肉を、骨を、鎧を、槍を切り裂いていく!
そのままの勢いで右の剣士を吹き飛ばすと、剣士と剣が壁に半ばめり込んだ。衝撃で壁がごっそりと崩れ落ちる。大理石の堅い壁のはずだったものが、オーディンブレードの力を受けて砕けて大穴が開いている。先ほどまで人間だったものが血と肉の塊となってそこに張り付いている。
剣を壁から引き抜いて、俺は飛んだ。相手の頭上を越えて宙で身体をひねりながら。自分にこんなことができるとは思わなかった。
狂戦士。人類の伝説と歴史にしっかりと根付いているもの。人の内に潜み、狙い、機会をうかがっているもの。決して外に出してはいけない血に狂った獣。
オーディンブレードは狂戦士の力を持つ。それは今、魔法の奔流となって、溢れんばかりに俺へと流れ込んでいる。前列の五人が一瞬にして、文字通りにばらばらにされるのを見て、ショックを受けている残りの兵士の上に、血の霧を飛び越えて俺が現れた。うなりを上げる剣は左右に踊り、遊び、閃き、そのたびにちぎれた腕やら、耳やらが宙を舞った。
二撃、体に食らった。だが槍を受けて脇腹に開いた穴から血は流れなかった。代わりに噴き出たのは炎だった。俺の怒りの炎。
これで十人。
手当たり次第に殺した。刺して、突いて、切って、引き裂いた。悲鳴を上げる奴の首を掴み、素手で引きちぎる。俺の脇を抜けて逃げようとした奴の首筋に噛みつき食いちぎった。その間もオーディンブレードは勝手に動き、反対側に居たやつの肋骨を縦に切り裂く。
さらに十人。
俺は剣で、俺は力で、俺は無慈悲な死そのものだった。地面に転がる敵の剣を足で跳ね上げ、逃げようとした敵を後ろから貫いた。目の前に飛び出て来た相手の剣を抑えながら頭突きでそいつの顔面を砕く。握りしめた相手の腕ごとその体を振り回し、残りの敵に叩きつける。
最後の十人。
そしてたった一人生き残った大きな戦士が俺の前に立った。そいつも大きかったがそいつが持っているメイスも大きかった。俺は剣を振り下ろし、そのメイスを弾き飛ばした。そいつの背中を飛び越えて来た男が、俺目掛けて手刀を打ち込んできた。おれはそいつを蹴り飛ばした。俺の背後で小男が地面に倒れていて、何かを叫んでいた。それにさらにもう一人が現れて手にした武器を投げつけて来た。もちろん俺はそいつも弾き飛ばした。その隙に、最初の大男も何かを投げつけてきた。俺はそれを切り砕いた。
砕けた酒瓶から芳香をまき散らしながら酒が周囲に飛び散る。
酒!
酒!
酒!
うまぞうな酒!
ああ! 俺は叫んだ。それはシオンの叫びと重なった。
「もったいない」
はっと正気に戻った。狂戦士のオーラが俺から抜けていく。目の前にシオンたちが立っている。痛む手をさすりながらシオンが床の上の酒の染みを見つめている。背後に大きな袋を背負っている。
「いい酒だったのに。なあ、ドーム。酒を一本、お前さんに貸しだぜ」
「しかしひどい有様だな」とボーンブラスト。
黒ずくめの月影だけは無言で俺のオーディンブレードを見つめていた。剣は魔力を放出し尽くしたらしく、月影と同じく沈黙している。
ひょいという感じで、大男のシオンが小男のキリアを肩にかつぐ。まるで赤ん坊を抱える父親だ。俺たちは出口へと急いだ。
ええい。後ろから来ていたのはシオンたちだったのか。こんなことなら焦って戦うんじゃなかった。全身が誰かの血でびしょ濡れで気持ちが悪い。風呂だ。風呂に入りたい。いまは酒より風呂が欲しい。いや、酒だ。酒があるなら先に飲んで、それから風呂だ。一番いいのは酒の風呂だ。どぶんと飛び込んで一気に飲み干す。いい考えだ。無事に街に戻れたらギルガメッシュの酒場でやってみよう。
あいにくと酒も風呂もここにはもうない。ああ、くそっ。もうちょっと早く、俺が正気に戻っていれば、あんな良い酒をむざむざと床に飲ませたりはしなかったのに。時間を巻き戻せるならば、そうだシオンが酒ビンを俺にぶつけたあの時に戻りたい。空中で酒ビンを咥えて、そのまま一気にラッパ飲みしてやるのに。
宮殿から脱出するまで、俺はそんなことばかり考えていた。
まさか、俺たちが宮殿から無事に脱出できるとは思わなかったのだろう。船は静かに見張りも無く、元いたところに放置されていた。好都合なことに、船を動かす奴隷たちも放置のままだ。
「キリア。もう宮殿から出たぞ。アンチマジカルフィールドも無い」
「おう、そうじゃ」
キリアはそう言うと、自分で自分に完全治癒呪文のマディをかけた。キリアは魔術師だが、若い頃に僧侶の呪文も習っている。だから魔術師呪文だけではなく、全ての僧侶の呪文も使える。マディはあらゆる病気やケガを一瞬で治す最高位の治癒魔法だ。便利だが、最高位の魔法なので、駆けだしの冒険者にとっては手が届かない魔法でもある。
すっくと立ち上がったキリアじいさんは、宮殿の中とは別人のような威厳に満たされていた。再び呪文が唱えられ、俺の体が光に包まれた。自分でも気づかなかったが俺の体は穴だらけで、指も数本折れていた。それらがまとめて修復される。狂戦士のオーラの名残で痛みも感じなかったし出血もしなかったようだ。それでもこれだけの傷を受けて、よく死ななかったな。俺。偉いぞ。俺。
二度と狂戦士にはなるまいと俺は固く心に誓った。あんなものになるには、命がいくつあっても足りない。
「さあ、帰ろうと言いたいとこじゃが、ドームよ。そうはいかん」
「まだ、何かやるのか。じいさん」俺はいささかげんなりしていた。
俺はともかく、自分がたったいま死に直面していたことがわかっているのだろうか?
このじいさんと来たら、足の一本が折れているぐらいが丁度良いのかもしれない。
「船の周りにもアンチマジカルフィールドじゃ。このままでは逃げられん。」
何? ここにもか。
「それで、シオン達に調べて貰っていたのじゃ。反魔法場は鎖のようにこの船を縛っておる。ロックトフェイトでワシらだけ帰還するという手もあるが、船を失うのは流石に惜しい」
だろうな。この船の建造費用だけで、ギルガメッシュ酒場の最高級の酒がいったい何樽飲めることか。俺はしばし、最高級酒でできた大海原という幻想に浸った。こう、角盃の先を切り落とし、その先を高級酒の海につける。それから角盃をぐびぐびと飲めば、まさに飲み放題。やがてさしもの大海原も飲み干されて、引き潮ができるかもしれない。
キリアの厳しい声が俺の夢想を断ち切った。
「そこでじゃ。反魔法力場を発生している建物を破壊せねばならん。そうしないと船は飛べん」
「わかった。どの建物を潰せばいい?」と尋ねたのは船室に荷物を置いてきたシオン。
「ここへ来る前に準備はしてきたよ」
そこで一息切ると、じいさんは破顔して続けた。
「いいか、見ておるが良い。破壊の呪文ティルトウェイトは単に爆発させるのだけが能では無い。さあ、真の魔法使いの力をとくと見よ」
キリアは両手を伸ばした。トランス状態に入り、悪魔語で何かをわめく。魔法の第1段階の精霊召喚の言葉は知っているが、こんな言葉を聞いたのは初めてだ。同時にじいさんは左の手でサインを作ると、ティルトウェイトを九発、立て続けに宙に放った。
一呼吸の間に全弾連続だぜ。最高位の破壊呪文を。まったく、器用なじいさんだ。
戦士の俺でも、これがどれほどとんでもない技かは判る。こんなことができるのは伝説の魔術師ワードナぐらいのものだ。まず悪魔語と精霊語を同時に喋る必要がある。九本の魔力の流れを同時に操り、それらが一瞬たりともお互いに触れないようにする。その他にも注意する点はいくつもあり、そのどれに失敗しても、超高熱爆発は術者の口の中で起こることになる。
キリアじいさんの超高熱爆裂呪文は爆発が広がらずにそのまま宙に固まり、そして一つの顔になった。そうだ、この顔は何かの古い本で見たことがある。文章は最初から読んでもいないが挿絵が印象的だったので覚えたはず。
思い出した。炎の魔神イフリートだ。
『キリアか。久しぶりだな』魔神が話しかける。
これも初めてのことだ。召喚された者が召喚者に話すなど滅多にあることじゃない。それにキリア。いったい何時、魔神となんか知り合ったんだ。
「ゴーモーノーン。契約に従い、お前の力を見せてくれ」とキリア。
『従おう。偉大なる契約の盟主の名において』びりびりと大気を震わせて魔神が答える。
「この月の、この船を除くすべての建物を燃やし尽くして貰いたい。お前の力の限り」
キリアじいさんの周りには雷電が閃いていた。
契約とは言っているが、実際には召喚者に隙があれば魔神は勝手に暴れ始めるだろう。強力な精霊の召喚には常に非常な危険がつきまとっている。まともな者なら絶対に手を出さないぐらいに。
キリアじいさんがどちらかと言えばまともじゃない方だってことは知ってるよな?
『従おう。偉大なる根源の神の名において』
ゴーモーノーンは儀式めいて言った。
ということは、こいつは根源の神のすぐ下に位置するほどの怪物ということだ。なるほどキリアは根源の神を探す途上で知り合ったのか。
「さあ、わしらは船の中に、さもないと奴に焼きつくされるぞ」とキリア。
俺たちは急いで船へと入った。
外ではゴーモーノーンが荒れ狂っている。あらゆるものが焼けていた。炎の魔神の周囲は無数の炎の竜巻が踊り狂い、その手が伸びたところからは紅蓮の炎が噴き出す。建物は焼け崩れ、そこから飛び出した人々がそのまま生ける松明となる。炎の竜巻がぶつかり合い、この船でさえびりびりと揺れた。俺はそれを見ていられなくて、皆の後をついて防御場に守られている船の中へと入った。
火炎地獄はあれ狂う。
俺たちはここへ来るべきではなかったのかもしれない。
月の民も、俺たちと敵対するべきではなかったのかもしれない。
俺たちは船を捨てて、帰還呪文で帰るべきだったのかもしれない。
するべきであったこと。してはならなかったこと。だが、もう遅い。始まってしまったからには。
船を包むアンチマジカルフィールドはなかなか消えなかった。その間に俺たちは月影たちの報告を聞いた。
キリアは王の態度を最初から怪しいと思っていた。キリアが機転を効かせたお蔭で、月影たちは貴重な情報を得た。宮殿の奥で見つけた金属板にはわけの判らない記号が並んでいたが、ビショップのボーンブラストが聖別を行うと、記号は並び換わり、読めるようになった。どうやら魔法で暗号化してあったらしい。文字は古代悪魔語に近いものだ。
キリアの言によると、どうやら、この月の民は根源の神々がわざわざここに配置した種族らしい。
その目的は二つ。
一つはあの太陽の巨神が何等かの事故で解放されたときそれを抑える役目。
もう一つは根源の神を探す者達を殺すこと。
これこそが彼らの存在理由であり、彼らの宗教であり、彼らの生きがいだった。この金属板は彼らの貴重な聖書なのだ。
そのため月の市街はその中に多くの反魔法力場発生装置、遠距離ティルトウェイト投射器、マーラー呪文を変形した空間湾曲破細装置なんかが装備されているらしい。戦士の俺には原理はしかとは判らないが、どうやら、キリアのこの新型船でも一撃で破壊されるほどの兵器らしい。
俺たちが無事に月につけたのも理由は一つ、俺たちが果して個人の冒険者なのか、それとも後続の部隊が来るのかを知りたかったからだ。
この月全体が大きな罠だったのだ。目立つところに置いて、近づいた者を容赦なく殺す。
キリアがうまく言い逃れなければ、着いた早々俺たちは惨殺されていただろう。
あるいは、俺たちよりわずかでも弱いパーティならば。
あるいはキリアのような恐ろしい魔法が使えなければ。
ここまで生き残ったのは幸運の連続だ。いつもの冒険のように。
やがて船全体が一際大きく揺れ動くと、ようやく自由になった。どの建物かは知らないが、反魔法場を作り出していた何かが破壊されたのだ。船を包んでいた反魔法が消え、船の奥深くから魔法の杖がうなる音が聞こえ始めた。船の命が蘇る。
「これで動けるな。だけどどうするんだ、キリア。船を上昇させたら、たぶんだが生き残っている魔法塔のどれかに撃墜されるぞ」シオンが指摘した。
「それも考えておるぞ。わしらは上には飛ばない」とキリアじいさん。
「意味がわからん」とシオン。もちろん俺もだ。
「わしらはこれから下に飛ぶ」キリアじいさんは床を指さしてみせた。「行き先は月の裏側じゃ」
「岩の中に出たら瞬時に岩と同化して死ぬぞ」
「大丈夫じゃよ。シオン。わしを信じろ」キリアじいさんは嘘をつくときの癖でウインクしてみせた。
俺たちはキリアの言葉に従い、一端、月の裏に出ることにした。月都市の武器はまだ全部は破壊されていない。そして月の武器はそのほとんどが俺たちの大地方向、つまりは上に向けて設置されている。だからいきなり大地の方向に飛び出せば、この船でも一撃で撃墜されてしまうだろう。
いや、これは全部キリアの言葉だ。俺には何が何だかわからないが、まあ、こういうときのキリアの判断には間違いがない。ただし、あまり従順に話を聞いていると、極めて厄介な所に送りこまれることになる。
「準備は整った」キリアが宣言した。
「宮殿から兵隊たちが出てくるぞ!」見張りをしていたシオンが叫んだ。「魔術師もかなりいる」
「ではぐずぐずしている暇はないな。皆、何かに掴まれ、跳ぶぞ」
俺たちは船の壁に張り付いた。
「跳ぶ前に言っておく。失敗したら、その、あの・・すまん」
おい! キリア! 自信があったんじゃないのか?
「出航!」キリアが船を起動した。
一瞬の暗闇。何かの発光。その色は今まで俺たちが見た事がない色であり、マーラーテレポートが終わったらすみやかに記憶の中から消え去る色でもある。現実世界の外にだけ存在する色であり、現実世界の中には存在してはいけない色だと、俺は理解している。
そして永遠の一瞬の後に、俺たちは月の裏側に飛び出した。
巨大なお椀の底の裏を俺たちは見ていた。
お椀の内側には月の都市。ここはその地面の遥かに下。お椀の外側だ。
やはり月の大地はあばただらけだったが、そこには他に何も無かった。いや、例外的に塔が何本か突き出ている。それを見つめていて塔の本当の大きさがわかった。今まで俺が見てきたことのある塔の何十倍の大きさだ。塔の先端に微かな発光。それ以外は何もない。建造物も生き物の影も。
「月はまるで酒の杯だなあ。残念だよ。あの酒。持って来なくて」
これは俺だ。本当に、心から、そう思う。こんなときでも酒の心配かと言われても困る。何と言っても俺はただの戦士なんだぜ。
もっとも月の杯の方も中身は空っぽだ。半球形をした空のお椀が、内側を俺たちの住む大地に向けている形だ。確かに月は何時も同じ面しか見せないから、見えない後ろ半分は無くても判らない。
うむ。これは良くない。この杯の中を並々と満たすはずの酒はどこにいった?
もしやあの太陽の巨神が飲んでしまったのか?
だからあの巨神は話が通じなかったのか?
酔っぱらっていたから。そして酒を盗み飲みしたからあそこに縛りつけられていた。なるほどこれなら筋が通る。神々の間でも酒の盗み飲みは重罪らしい。俺も気をつけよう。
「これで、世界は手抜きじゃとわしが言ったわけが判ったかの?」と俺の夢想を断ち切るかのようにキリアが言う。
「つまるところ、この世界は真なる世界に似せた極めて質の低い偽の世界なのじゃ。天空にかかる太陽は太陽ではなく、夜空にかかる月は月ではない。だからこそわしは、これらを創造した根源の神々を追い求める。真なる世界への手がかりはそこにしかない」
はいはい、わかりました。いつものようにこのドームの負けですよ。キリアじいさん。負けでいいから、これ以上の議論は止めてくれ。おや、シオンは今、何を隠した?
「月は大きな盃。それはある意味正しい。月は大地の放つ『望む力』を受け止める。そしてその力はあの塔からどこかに送られる。まだワシらの知らないどこかへ。あの塔の示す先に根源の神々がおる」
「まだ行くつもりかい? じいさん」
キリアは肩をすくめてみせた。
「船の燃料は帰りの分でぎりぎりじゃ。何の用意もなしに塔の先を目指すわけにはいかん」
冷静そうに見えるが、キリアが危ういところでこの判断を下したのは俺には分かっていた。本当なら何もかも捨てて出航したいところだろう。熱情と合理の間でのせめぎあい。
「では、帰ろう。我らが故郷へ」
キリアが自分の未練を断ち切るかのように号令を下した。船は虚空を進み始めた。
結局、シオンがかなりの量のマゾン酒をこっそり盗んで船に持ち来んでいたことが判り、帰りの船旅は非常に快適なものとなった。俺たちは今も赤い光が閃く月を眺めながら一杯やった。あの光の下では、まだあの炎の魔神が暴れているのか。多くの人々が死んでいるのだろうな。だけど不思議とそれほど心は痛まなかった。彼らはただ冒険者を殺すためだけに存在するのだから。敵は敵だ。敵に同情ばかりしていたのでは戦士なんか務まるわけがない。
キリアじいさんも何故か上機嫌だった。変だなあ。
「おい、キリア。結局、根源の神々の探索には失敗したんだよな?」
「そうじゃよ。ドーム。結局、会えなかった」
「じゃあ、どうしてそんなに機嫌がいいんだ?」
「知りたいか?」
「知りたい」
いやもしかしたら俺は知りたくない。じいさんが上機嫌ということは何かまた飛んでもないことが進行しているってことだ。キリアじいさんは俺のそんな気持ちを無視して続けた。
「月の民のような種族が配置されているのは、根源の神々に到達することが、可能な証拠じゃ。だからこそ、彼らはそれを阻止する。ドームよ。わしは手ごたえを感じているのじゃ。それにな」
「それに?」嫌な予感がする。
「わしは彼らの王に本名を告げた。キリア・イブド・メソとな。おまけに彼らの都市にひどい被害を与えた」
「与えている、が正しい言葉だろうな」
戦士らしくない言い方かな? これは。現在進行形だ。そしてそれはいつ終わるかわからないと来ている。
「そうかもな。ドームよ。そこで彼らはどうすると思う?」
キリアじいさんのにやにや顔が鼻に付く。
「わからん」とは俺。
きっとその答えは聞かなければ良かったと思うに違いない。でも聞くのを止められないし、キリアの口を塞ぐ手段はない。このじいさん、首を胴体から切り離してもきっと話し続ける。
「お前が人に殴られたらどうする? ドーム」
「殴りかえすさ。もちろん」
そこまで言ってはっとなった。まさか、キリア。
「そう、そうじゃよ。ドーム。彼らは来るじゃろう。わしの所へ、草の根を分けても、わしを探し当てるじゃろう。貴重な根源の神々の情報を持って。向うから。何度でも。何度でも。わしは来た者を捕まえて、その情報を得ればいいだけじゃ。ドーム! 根源の神々は近いぞ!」
いつもキリアはこうだ。まったく。このじいさんと来たら。懲りるということを知らない。
おお、根源の神々よ。キリアを止めたまえ。
じいさんの足の一本が無くなるぐらいならば、俺は目を瞑るつもりです。
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