いつか裏切る世界のために

風城国子智

第一章 黒の刃

1-1

〈……あの、馬車だ〉


 木立から出て来た小さな馬車の影に、手の中の得物をぎゅっと握り締める。


 一頭の驢馬が引く、少し古びた幌馬車。操っているのは、ラッセと同い年くらいの、ラッセよりも華奢な少年。あれくらいの少年なら、今のラッセで襲っても、おそらく勝てる。背筋と心の震えに、ラッセは強く首を横に振った。あの馬車の中には、この十年足らずの間に唯一生まれた子供達、『奇跡の子等』が三人、乗っている。優しげに見えるあの少年は、その幼気な子供達を保護者の腕から引き剥がし、子供を欲しがる金持ちに高値で売りつける、極悪非道の『子供さらい』。呪術で以て人々に害を為す『魔女』と同等の『悪』から食料を奪うのは、『罪』ではない。ぐるぐると唸る空っぽの腹を抑えつけ、ラッセは自分の心を鼓舞するように頷いた。もう少し。あの馬車が、ラッセが潜むこの、若葉の多い木の下に来た時が、勝負。


 馬車を見つけたのは、春の陽が中天に差し掛かる前。大陸中央部の寂しげな森を貫く、街道というには細すぎる土の道を走る小さな馬車を、ラッセは木の影から影へと追いながら観察し、そして頃合いを見計らって、待ち伏せのために先回りをした。機会は、一度。これを逃せば、……ラッセの体力が保たない。痛む腹と、血が微かに滲む左二の腕を見やり、ラッセはもう一度、強く頷いた。大丈夫。あいつらに傷付けられた左腕は、既にすっきりと軽くなっている。あの場所に、あの冷え冷えとした場所に、戻るわけにはいかない。だから。すぐ斜め前に現れた馬車を見て取るや否や、ラッセは馬車を操る少年に向かって飛び降りた。


「やっ!」


 強く叫び、手の中の短い剣で少年の喉を突く。だが次の瞬間、剣を持つ腕を軽く掴まれると同時に、ラッセの身体は、当の少年の細い腕と膝によって馬車の御者席に抑えつけられていた。剣を取り上げられ、背中に回された右腕が、軋むように痛い。何事も無かったかのように歩みを止めない馬車の揺れと、喉元に感じる鋭い気配に、ラッセは完全な敗北を悟った。


「ネイ、何があったの?」


「何も」


 御者席の後ろ、幌が張られた部分から顔を出した、利かん気の強そうな目をした子供に冷静な声で首を横に振り、ラッセを御者席に抑えつけたままの少年は片手だけで器用に馬車を操る。そしてそのまま、少年は細い道から少し外れた木々の間の広場へ馬車を乗り入れた。


「さて」


 ラッセの背から少年の重みが消えると同時に、後ろに回されたラッセの腕が、縄の締め付けを感じる。その数瞬後には、ラッセの身体は広場横に見えた太い木の根本に、座らされた状態で固定されていた。


「おとなしくして」


 おそらく先程までラッセの喉に当てられていた黒い光を放つ短剣が、ラッセの目の間に突きつけられる。少し歪んだ刀身を持つ、どんなものでも切り裂きそうなその刃に、ラッセは全身の震えのままに頷いた。ラッセに刃を突きつける少年の、深淵よりも深い黒色の瞳にも、震えしか覚えない。


「もう、出て来て良いよ」


 その刃を腰に収めた少年が、馬車の方へ声を掛ける。


「ちょっと早いけど、今日はここで野宿しよう」


 少年の声に歓声をあげて飛び出してきたのは、ラッセが捕まった時に御者席の後ろから顔を出した、利かん気の強そうな男の子。その後ろから、どことなく上品な子供と、その子供の背に隠れたおずおずとした子供とが、馬車を降りてきた。

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