手紙のあなたに恋をした
春川晴人
第1話 好きとか嫌いとか
こんなタイミングでそんなこと言う人だったんだ。あたしは軽くめまいを起こした。彼女の姿はもう、ない。
サイン会で、たくさんのむさくるしい男たちの最前列で、どんな気持ちで待っていたのだろう?
『あたしもう、一日中あなたのことばっかり考えてるのがつらくてもう嫌だから、好きなの辞めるからっ』
はじめてのサイン会で放たれた痛恨の言葉は、あたしの心臓を深くえぐって傷をつけた。
はじめてのファンだったのに。
はじめてあたしを認めてくれた人なのに。
はじめてあたしを好きだと言ってくれたのに。
はじめてはっきり嫌いと言われてしまった。
「大丈夫?
マネージャーさんは、ジェンダーレスのあたしを見下すように言った。本気ではないことが、そのしぐさからうかがえる。
「平気です。特別になにかされたわけじゃないし――」
「そっ? じゃ、サイン会のつづきがんばろうね?」
なかば強制的なその言葉に、いちいち傷ついてなんかやらない。あなたに下に見られていることくらい知ってるから。
女の子の憧れみたいなオーガンジーのドレスなんか、作るんじゃなかった。これじゃ、浮かれた女性アイドルみたいじゃないか。
このドレスを作るために、どれだけの労力が必要なのか、自分で作ったから知ってる。彼女に見て欲しくて作ったのに。ドレスを見てもくれなかった。
社長は好きなことを勝手にやればいいと放り投げ、あたしは芸能界という海に飛び込んでしまった。
ジェンダーレス。
なにかと問題になってしまう単語。
男で生まれて女でもなく、自分でいたいだけなのに、なにかと区別をつけたがる世の中はとても窮屈で、あたしはどこにいてもいじめの対象になった。
『杏って、男なのにおかっぱでおかしいよな』
『杏くんって、どうしてスカート履いてるの?』
『お願いだから普通の男の子でいてちょうだいっ』
じゃあお母さん。普通ってなに?
聞いたところで答えられるわけがない。
普通の人は、そんなことを考えて生活したりしないから。
じゃあどうして、あたしだけが言われるのだろう?
あたしはただのスケープゴートで、だから、いわゆる単なる生け贄ってわけだ。
叩く相手が必要だから、あたしが選ばれた。
孤立。
家の中で泣きわめくお母さんからの理不尽な要求。お父さんが帰って来ないから、お母さんはあたしを叩きたいだけ。
孤立。
学校という狭い檻の中につめこまれた猛獣の中に放たれたあたしという子羊。
孤立。
いらない子供だったあたし。でも、生きてやるんだ。見返してやるんだ。そうじゃなければ、生まれてきた意味がなくなってしまうから。
嫌われることには慣れていたはずなのに、彼女から放たれた言葉が頭を離れない。
『好きなの辞めるからっ』
辞めちゃうの?
あたしはまだここにいるのに。
『ねぇあなた。芸能界って興味ある?』
社長と出会ったのは、歩道橋の上。あたしはよっぽど運が良かったらしい。普通、こんなところに社長はいないのだから。
『悪酔いしてたのを冷ましていたら、いい子を見つけたの。杏よ』
その足ですぐ事務所に連れて行かれて、契約書にサインしながら、社員さんの戸惑う声が聞こえてきた。
『ねぇあの子って、女?』
『いや、男じゃない?』
どっちでもない。どっちでもいい。
あたしは、あたしでしかない。
つづく
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