第8話 『リビングの記憶』

 ハクアは風呂の用意をすませるとリビングへもどり、ソファに座って読書をはじめた。彼女が読んでいるのは、アキトと一緒に図書館へ行って借りてきた海外文学の古典作品である。

 アンドロイドはインターネットにもアクセスできるので、本を読まなくてもデータを購入すれば本の内容を直接取り込むことは可能だ。


 しかしハクアは、人間と同じように本を読むことにこだわった。


 図書館で本を借り、古い紙の匂いを感じながら、ページを一枚ずつめくり、時間をかけて物語を味わうことを好んだ。

 あるいは、物語ではなく読書という行為そのものを楽しんでいるのかもしれない。


 夕食の支度を終えたアキトは、読書中のハクアに声をかける。


「その本、おもしろい?」


「ええ。でも残念。もうすぐ読み終わりそうなの」


「じゃあ新しい本を借りに行こうか」


 そう言いながらアキトはテーブルにつく。ハクアもつづいて席についた。

 もちろん彼女は食事をとらない。けれど、食事中の会話を楽しむことはできる。

 アキトは夕食をとりながら、今日一日のことをハクアに話した。

 ハクアと会話している時のアキトは、透や彩と話している時と同じように楽しそうで、表情は明るかった。

 人間が一人しかいないこの広々とした家の中で、今、この場所にはとても穏やかな時間が流れていた。アキトとハクアは血の絆で結ばれた本物の家族であるかのようだった。


 もちろん、こうした状況を不気味に思う人もいる。

 いかに人の姿をしていても、それは人ではなくアンドロイドなのだ。

 しょせんは金属とプラスチックと特殊シリコン、その他諸々の人工物の塊にすぎない。

 人間もまた、血と肉と骨、その他諸々の有機物の塊にすぎないが、両者は決定的にちがう。


 しかし、それらが絆を結んではいけないという道理は存在しないはずだ。


 食事を終え、アキトは後片付けをする。

 ハクアはソファに座り、読書の続きをする。

 後片付けがすむと、アキトはハクアの隣に座った。小さくあくびをして、目をこすり、体をハクアのほうへ傾け、頭を彼女のひざにのせる。

 ハクアは幼子をあやすように、アキトの頭を優しくなでる。


「今日はもう、おやすみなさい」


「そう、だね。でももう少し、こうしていたい」


 アキトは目を閉じて、ハクアのひざの柔らかさとぬくもりを感じる。

 ハクアからはほのかに香水の香りがした。

 アンが使っていた香水と同じものだ。


 在りし日の記憶がアキトの頭に浮かんでいく。


 アンにひざ枕をしてもらった時のことも。


 ハクアの体はアンの体と同一のものであるため、それはむしろ自然なことだった。

 心地よいぬくもりと匂いのなか、アキトは帰りのバスで思いついたことを話す。


「今度の土曜日だけどさ、ハクアも一緒に行こうよ。都会には前から行きたがってたでしょ」


「でも、透君や彩ちゃんに悪いんじゃないかしら」


「だいじょうぶ。二人ともわかってくれるよ」


「……もう十時を過ぎたわ。部屋にもどって眠りなさい」


 ハクアに言われ、アキトは体を起こす。


「おやすみなさい、キト」


 アキトはハクアの髪をすくい、耳元へ顔を近づける。


「おやすみ。ハクア」


 ささやくようにアキトは言う。

 ハクアの『コード』は明滅を繰り返し、消えた。

 ソファに座ったまま、ハクアは眠りについたように動かなくなった。

 災害などの緊急事態が起こらない限り、アキトが「おはよう」を言うまで彼女は目を覚まさない。


 アキトはリビングを出て自分の部屋へ行き、パソコンを起動して『公社』のホームページを開く。自分のアカウントにログインしてから、パソコンのそばに置いているリング状のデバイスを頭に装着する。これには人間の脳波を読み取って特定の記憶を抽出し、データ化するという機能がある。

 アキトはこれを使ってハクアと過ごした時間の記憶をデータ化し、『公社』に提供していた。


 これは彼に課せられた日々の義務だった。


 アンドロイドの国立研究機関である『公社』は、アンドロイドの性能向上のため、人間とアンドロイドのコミュニケーションに関するデータを買い取っている。

 アキトはハクアとの思い出を売っているようでデータの提供は気が進まなかったが、拒否することはできなかった。


 アキトの父親が彼にアンの体を譲る条件として示したのが、『公社』にデータを提供することだったからだ。


 データの提供を終え、デバイスを外し、パソコンを閉じる。

 こうして彼の一日は終わる。

 この仕事を、アキトは高校生になってから一日も欠かすことなくこなしていた。



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