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突然の予期せぬ事態に、その場にいる誰もが地下深くの穴蔵へ堕ちていく
「政宗!アタシにしっかり掴まってろ」
大して表情を変えずに呉葉は男をお姫様抱っこし、並外れた身体能力だけで地面に華麗に着地するが一緒に落ちた筈のジーナたちの姿が暗闇と爆発の煙に溶けて見当たらない
「これは!さっきの大男の仕業か‥‥今の今まで仕込んでいたのだな!」
ジーナは最初の攻撃でダズの方は仕留めていたとばかり思っていたが、そうではなかったらしい
「ええ、生きてました。そしてこの戦いはもう我々の勝ちです」
ダズが暗闇から現れ呉葉の背後を突く。繰り出された右腕には石塊が纏わりつき、男の体躯並の巨大な岩の拳が形造られている
躱すには気付くのが遅すぎた。だとしたら、防御以外に手はない
だが、攻撃を防ぐ事が既に叶わない事を呉葉は瞬時に悟った。呉葉の手には自身が終生を共にすると誓った伴侶がいるのだ。
鬼火を展開する場合、初めに両手から創り出さなければならない。それは愛する人を自身の手で灰にしてしまう事を意味している
そんな事が彼女には出来なかった。出来るはずなどなかった
「クソ」
呉葉は自身に迫る死を呆然と見ているだけだった
振るわれた右手が彼女の身体に触れるとベキボキバキ!と、凡そ人の身体から鳴ってはいけない音が掻き鳴らされ響き渡る
「がぁ‥‥」
衝撃を受けきれない呉葉の身体が宙を舞い、数m先の岩肌にノーバウンドで容赦無く叩きつけられると多量の赤い染みが壁にこびりつく
そして、その量は明らかに一人の身体から絞り出せる血量などではなかった
「‥‥」
ダズが二つの肉塊と成り果てたモノから徐に目を逸らすと、横にはジーナが何とも言えない表情で立っている
「どうしました、姫」
「準備が徒労に終わって拍子抜けでしたか?」
栗色の髪の隙間から垣間見える彼女の綺麗な顔立ちは、解せないと云った面持ちで包まれている
「疑問があってな。あの瞬間2人とも死ぬと分かっているお前の攻撃をどうして防がなかったかと思ってな」
「少なくとも、あの攻撃であいつは死ぬ事はなかったのに」
その問いかけに、ダズは遺憾を残す様に視線を肉塊へと向ける
「私には解る気がしますよ」
「私様には分からんな」
終わってしまえば、呆気のない幕切れだったと思う。だが、これでまだ終わった訳ではなかった
モゾリと肉塊と思しき影が動く。影は半身を引きずりながら、もう一つの動かない影の所へゆっくりと近づく
「マ‥‥サ‥‥‥ム‥‥‥ネ」
喉か肺でも潰れたのか、音に近い掠れた声を出しながら動く影は近づきもう一つの動かない影を覗き込む
「イ、キ‥‥テ‥‥ル?」
動かない影を起こそうとして、動く影は身体を何度か揺するが反応はない
「オ‥‥キ‥‥‥テ」
何度も何度も名前を呼びながら身体を揺すっても反応は無い
「オ‥‥キ‥‥‥テ‥‥‥!」
先程より強く呼びかけても反応はない。動かない影の下へどこからかポタリと水滴が落ちる
一粒、二粒とどんどん雫が落ちていく。いつの間にか、雨が降ったのか動かない影の顔もとばかりを濡らしている
馬鹿な事を。雨ではない。見渡す限りに空は快晴で雲一つ無い青黒とした夜空がただ星々を飾って広がっているだけだ。雨が降るわけなどない
「オ‥‥キテ!」
見かねたダズが声をかける
「その人は‥‥‥もう死んでるぞ」
張り詰められた琴線が突然にプツリと切れる音がした
「‥‥サ、ナイ」
「ユルサナイ」
呪言がぶつぶつと垂れ流され始める。徐々に徐々に目に見えない呪言が洞窟を満たしていくのが感じ取れる
影の全身からドロリと何かが噴き出した
今までの黒炎よりも黒いソレは、万物全てを腐敗させてしまうと感じさせる汚泥の様に影から止めどなく吐き出される
魔法の強さは思いの強さ。願いの現れだと誰かが言った
その言葉が本当であるなら、この動く影はいったい何を思って何を願ったのだろうか
解っているのは、この醜悪なヘドロが数多の命を呑み込むという事だけだ
「ーーーなんだ、これは。気ッ色悪い」
ジーナは心底気分が悪そうに顔を顰め、ソレを見つめていた
「奥の手、みたいなものでしょうか」
ダズとジーナは泥に触らない様に出来るだけ距離を取る。とはいっても、この地の底で取れる距離には限界があるのだが
「まさかあれと戦う気ですか?」
「止めないとまずい気がする」
既に勝ち負けが混在している勝負という訳ではない。ジーナはここでこの魔法を止めないととんでもないことになると漠然に感じ取っていた
ジーナが地面に手を触れると、上の壁の一部が爆発し無数の石つぶてが泥に降りしきる
「今の‥‥どうやったんですか姫」
その問いにジーナはどことなく自慢げに息巻いて答える
「あぁ、大した事じゃない。私の血でマーキングされてる場所を爆発させたってだけだ」
「他人の身体に触れたら爆発物にしてるのと要領は一緒だ。私様の血に含まれてる魔力を爆発物にして、後は起爆させてボンッ!ってな」
「元が私様の魔力だから狙いも付けやすいし‥‥‥まあ、こいつには効果はあんまり無かったようだが」
先刻までのジーナにこの様な芸当は出来なかった。少なくとも、呉葉との戦いの中では確実に出来なかった
人は常に進歩する。自分が勝てない敵にも逡巡し勝てる様になる。ダズは強くそう思わされた
だが、今程度の攻撃では この黒い泥を怯ませる事すら敵わないらしい
黒い泥はゆっくりと地面を汚染し近づいてくる。
ダズとジーナはなす術なく壁際に追いやられる
「私がやります。姫は下がって」
「これ以上、どう下がれと‥‥?」
ダズがジーナの前に躍り出て手を地面へと突き刺す。何かが流れる音がして途端に泥の侵食が遅くなる
侵食が停滞したのは地面の一部分が巨大な蟻地獄のように鉢状になり流砂が泥を中心に向けて引き寄せているからだった
泥はまるで意志を持っているかの様に流砂の流れに逆らい逃れようとする
「いけそうですね。沈めてやる」
ダズの声色は芳しくはなかったが手に込める力を強くすると少しずつ泥は呑まれる力に負けているのか砂の沼へと沈んでいく
影が苛立たし気に歯を鳴らした
「ナ...メルナァァ!!」
奇声を上げる。その声に汚泥が呼応し尖端を尖らせダズを貫かんと勢いよく飛んでくる
「くっ!」
ダズは辛うじて身体を反らすことで避けるが、流砂の動きが止まる
汚泥はその隙を見逃さなかった。際限のない殺意を形にしようと星の引力を振り払い天へと舞い上がり新たに小さな黒い星を形成する
何処までも禍々しく鈍く穢く濁った色で染まっている小さな星が怪しく光ると空気の流れが変わった
漠然とし過ぎた危険に対してどう事前に対処すればいいのかなど普通の人間に解る筈がない
だからこそ、ジーナの対処は不可解なほどに的確だった
「ダズ!私様たちの身体を魔法で固定しろ!」
「え?あ、「はやく!!吸い込まれるぞ!」
「はい‥‥!」
すかさず飛んで来たジーナの指示にダズは戸惑いながらも魔法で土色の蔓を作り出し2人の身体に結び付いた‥‥その直後だ
ダズとジーナ。両名の足が地面より浮いた
浮いているのではない。上に引っ張られているのだ。宙に浮かぶ混濁とした星の力に
引き寄せると言うよりは吸い込んでいるといった方がしっくりくる
元々影はこう言っていた。自分の炎は燃え続ける為に宙に浮く魔力を取り込むと
黒い球が浮いた時、ジーナに一つの考えが過った。即ち、もしも巨大な力を凝縮したこの球が莫大な力を維持する為に、周囲の魔力を取り込み始めたらどうなるだろうと
よしんば唯の勘と侮っていたならば、2人の肉体は今頃、星に食われていただろう
「残念だったな」
引力により荒れ狂う烈風が巻き起こり身体を強く引っ張られ揺さぶられる。が、土色の蔓がジーナたちを捕まえている以上は無意味だ
「これを凌げば私様たちの勝ちだ」
唯一引力の影響を受けていない影に向かって勝利宣言を行う。これ程の莫大な力が個人の力で何時迄も行使できる訳がないのだからと、そう考えいた
「ハ‥‥!」
しかし影は小さくつまらなそうに笑みを刻む
「姫、まずいです。あれを!」
ダズが上空を指差すのを促されるように仰ぎ見るとジーナの喉は干上がった
黒い星が歪に大きくなっていた。ヒュンヒュン!と風を切り裂きながら何かが星に取り込まれ、その度に星が膨らむ
「なにが‥‥」
目を凝らす。吹き荒れる建物の残骸や土埃と一緒に何かが吸い込まれている。何か。ではない。誰かだ。
「なっ!!」
それは人だった。自分の大切な部下とそれと戦っていた炎角族全員が塵芥のように吸い込まれている
「ミンナ‥‥死ネバイイ」
影は頬を釣り上げプチプチと残酷な笑みをつくる。標的が自分たちだけではなかったという事に漸くジーナたちは思い至り唇を噛んでしまう
ジーナは目の前の光景を前に爪が土の蔓にガリガリと食い込む程に力む
「ふざけやがっ‥‥て!!」
余りの光景に激昂し過ぎたのか、ジーナは身体に巻き付く蔓を素手で叩き壊し、黒い玉の引力に自らの身体を預けた
ーーーーーー
黒い玉は言ってしまえば超高密度の魔力の塊だ。生身で触れてしまえば、一瞬で無数の命を黒く捻じ曲げ灰燼に帰する事になるだろう
だから、ジーナが臆した様子もなく右手を玉へ突っ込むのを見たときにダズは気が動転しそうになった
「姫ーーー!」
喉が張り裂けんばかりの大声を震わせて呼びかける。ジーナはそれに気付いたのか左手をヒラヒラと振り返す
自分に任せろ。そう言わんばかりに‥‥‥
直ぐに笑みを消したジーナは腕を玉に突き刺す。右手と左手の骨が魔力の軋轢で籠手ごと粉々に砕ける音が響き渡る
それだけではない。両手が少しずつ黒く汚染されていく。程なくしてジーナは玉に取り込まれた者たちと同じ末路を辿るのだろう
「ーーー‥‥を‥‥か‥‥」
そんな死を前にして、激痛に苛まれながらもジーナの顔色は絶望に染まってはいなかった。何かに縋るように小さく言葉を紡いでいる。同じ言葉を何度も何度も
「魔法を逆算‥‥魔力を‥‥爆発物に再変換‥‥‥」
ジーナは今まで触れた他人の身体に流れる魔力を爆発物に変換していた。それとやっている事は全く同じだった。つまりは魔法を構築している魔力そのものを爆発物へ再変換しているのだ
「ソンナコトヲ‥‥シテモ」
変わらない。きっと影はそう言いたかったのだろう。黒い泥の球が巨大な爆弾になるだけだと。だが、ここで奇妙な奇跡が一つ起こっていた
黒い星が少しずつ小さくなっているのだ
「ッッ‥‥!?」
思わず影は息を呑んでしまう。何故、変換された黒い球が徐々に小さくなっていくのかが分からない
「何が起こっているか分からない。そんな顔をしていますね」
ダズはジーナから片時も目を離さず見守りながら言葉を漏らす
「貴方が言ったじゃないですか。姫が魔力を変換する際には2割から3割程度が限界だと」
何かに気付いた影の表情が驚愕の色に染まっていく
「では、変換されなかった力はどうなるのでしょうね。」
「今の現状を見れば答えは明らかですが、皮肉ですね。姫がまだ魔法を使いこなせていないからこそ、今の現状を打破できるなんて」
本当に現実という奴は皮肉屋だ。ジーナが未熟だったが故に最後の最後で勝つことになるなど誰が予測出来る
黒い球はどんどん小さく萎んていき、子供でも抱きかかえられる程に小さくなったかと思うとパチン!とジーナの手の中で弾けて消えた
いつの間にか吹き荒れていた烈風は止み、浮遊していたジーナの身体も黒く炭化した者たちも重力に捕まり糸が切れたようにゆっくりと墜落し始める
「ひめ!!」
降りしきる黒い死体の雨が幾ら身体に叩きつけられようと構わずにダズはジーナが地面に叩きつけられるより先に彼女の身体と地面の間に割り込み素早く受け止め抱きかかえてみせた
「ご無事ですか?」
勝利したというには払った犠牲が余りにも大きい。大勢の仲間を失い、ジーナも五体満足ではない。誰もがボロボロだ。だが、それでも、ダズは胸を撫で下ろさずにはいられなかった。目の前の彼女が生きている。そう思うだけで無意識に彼女の小さな体躯を抱きしめる両腕に力が入ってしまう
「なあ‥‥ダズ」
ジーナもギュッ!と彼の身体を抱きしめ返す。あれだけの事をやり遂げ疲れているのだろう。何時もの彼女らしい力強さは何処にも感じられない
浅く何度も呼吸をしている彼女にダズは出来るだけ穏やかに優しくゆっくりと聞き返す
「なんです?」
少しだけ間を置いてジーナは言葉を紡ぐ。まるで何かを悟ったように、理解したように
「今までありがとな‥‥」
そう言われたとき、ダズは思わず奥歯を噛み砕きかねないほどに歯を食いしばった。そうしないと泣いてしまうところだったからだ
「‥‥‥どうしたんですか、いきなり。気持ち悪いですよ?」
火が焼け消えるように。波が静かに引いていくように、彼女の全身から力が抜けていく。彼女から次の返事が帰ってくることはもうなかった
少女の小さな体を何度も揺さぶり話しかける
「姫‥‥こんな時に‥‥悪ふざけは‥‥‥怒りますよ」
ダズは震える唇を律し必死に言葉を繋ぐ。泣いては駄目だと思った。泣いては死んだ事を認めてしまうことになると。だから泣く事だけは‥‥
「ぐ、う ぁ ぁ‥‥」
頭では分かっているのに、瞼がだんだんと熱を持ってくる。それに伴いダズの口からは嗚咽混じりの音が漏れ出てくる
彼女は死ぬ間際に『ありがとう』と言った。なんだ、その言葉は‥‥‥?彼女はどんな気持ちでそんな台詞を吐いて死んだのだろうか
「あああぁぁぁぁぁ!!!」
もう、言葉にならなかった。泣くだけだ。そして、どうにもならなかった
†††
仲間を置いて村から1人逃げたクダンは暗い森の中を突き動かされるように走り狂っていた
早鐘を撞くように心臓の鼓動が早い。呼吸が満足に出来ず、胸が苦しくても足を止めたくなかった
一歩でも多く彼処から離れたい。それだけが彼の頭の中を支配していた
「ハァハァ‥‥‥」
寒くは無いのに気付けば、ずっと上と下の歯がカタカタと音を立て身体の震えが止まらない
「ーーーなにしてんだ、おまえ」
聞き慣れたジーナの声が突然に頭上付近から聞こえた。自然と足が止まるが辺りを見回しても誰もいない
「ハァ‥‥ハァ 幻‥‥‥聴?」
「上だよ、っと!」
声のする方に視線を寄越すと、丁度彼女が木の上から飛び、蘭の花みたいに乱れ動く脂っ気のない髪で風を切りながら、目の前まで彼女が降りてくる。驚きの余りか足に力が入らずに膝から崩れ落ちる
「驚き過ぎだろ‥‥‥立てるか。つか、他の奴らはどうしたんだ?」
自分より幾分も歳が下の少女は悪いと謝りながら疑問そうに辺りを見渡しながら手を差し出してくるが、クダンは手を取ることが出来なかった。代わりに出たのは謝罪の言葉だった。
次に何て言ったのかは覚えていない。非難も罵倒も仕方ないと考えていた。最悪、殺される事さえも覚悟していた
だが、ジーナは予想を裏切る言葉を投げかけた
「生きていて良かった。後は私様に任せろ」
弱い自分は命惜しさに仲間を見捨てた。今度は罪悪感に苛まれないように、強い少女に全てを押し付けた
どれほどの間、頭を抱えて蹲っていたんだろう。彼女が村に行き、彼女を追って仲間たちが村に行った。未だに自分はみっともなく恐怖に震えて立てなかった
「‥‥‥助けにいかなくちゃ」
頭では確かにそう考えている。だが身体が石のように固まり動かない。心が反発している
ーーーお前が剣を握った位でどうにかなる相手か?死体が余計に一つ増えるだけだ。やめておけ。お前は隅でみっともなく震えているのがお似合いだ
「‥‥何も出来ないかもしれない。それでも、逃げたくないんだ」
ーーー綺麗事を言うなよ。口ではそう言っても、心の中でこんなにも打算に塗れてるお前如きが勇者を気取る気か?
「‥‥‥ああ、分かってる。俺なんかが勇者になれる訳がない。分かってんだよ、そんな事は!」
ーーー村に行った奴らはどうせ死んでる。お前も殺される前に這いずり回って逃げろ。賢明だ
「‥‥‥でもあの人はさぁ。こんな打算まみれな俺のことを生きていて良かったって言ってくれたんだよ」
ーーー‥‥‥
「‥‥‥1度は逃げた卑怯者だけどさぁ‥‥立ち上がるのも遅くなっちゃった臆病者だけどよぉ‥‥‥」
矮小な人間1人が決意した所で、あの戦いの結果が変わるわけじゃない
それでも、こんな自分でも何かを良い方に変えれる筈だ
いつの間にか、身体の震えは止まっていた
そして村に到着した彼の勇気ある決意は、既に終わってしまったと察せられる残場を前にグラリと揺らぐことになる
村はまるで戦火に晒されたかのように全てが破壊され、所々に飛び散っている血痕がこの場で行われたであろう殺戮の狂騒劇をまざまざと視覚から訴え彼を迎え入れてくれた
「うぷっ……!」
手荒い歓迎に吐き気に襲われた。恐らく鼻腔を刺激する耐え難い悪臭だけではない。彼の目の前で仲間が無惨にも肉袋にされてしまった光景が蘇ったことも原因の一つだろう
逆流した何かを両手で口元を無理やり抑えごくりと呑み込む
「ハァ……ハァ」
まだ入り口。彼の足は村の中心に吸い寄せられるように動き始める。少しずつ動悸が速くなる
村の中心部に着いた時、そこは先ほど彼が来た時とガラリと姿を変化させていた
村の中心にはポッカリと穴が開いていたのだ
穴に近づき目に写ったのは、自分の目を疑ってしまう光景だった。穴の中は凸凹とした黒い絨毯が敷き詰められていた
それが幾重もの人の形をした何かが絡み合って織り成されていた死体の海だと理解した時には言葉が出てこなかった
最早誰が人でどれがそうじゃないかの区別すら付かない炭と灰の黒々としたナニカになって、出来上がっていたのが真っ黒な海だった。そんな死に包まれた世界で慟哭の叫びをあげる1人の男がいた
1人、否。男の腕の中に見覚えのある小さな女の子が収まっていた
その女の子の瞼は微かに開かれ、微動だにしないまま世界を見つめていた。クダンは少女が生きているのだと一瞬錯覚した。そして垣間見得る瞳からは既に一切の光が消え失せている事に気がついた
疑いようも無く、確かに、ジーナは死んでしまっていた
「嘘だ……こんなのは」
惨憺たる結果。力無く膝ががくりと折れる
「嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
†††
政宗に愛娘が誘拐されることを伝えられた。彼は大まかに未来が見える。
どんな選択をすればこんな結末にはならなかったのだろう。死の淵にいながら呉葉は考えずにはいられなかった
人間と戦わずに村の皆と何処かへ逃げれば良かったのだろうか?
いや、きっとあの子を狙って何処までも追って来るに違いない。今日という日が早いか遅いかの違いなだけだ。きっと今と同じ失敗をする
では、戦わずに話し合うのは。自分の愛する夫は人間ではないか。不可能ではないのではないか?
それも駄目だ。彼のように誰にでも分け隔てなく優しく接してくる存在こそが稀有なのだ。何より我が子を狙う奴らと何を話し合えというのか。試すまでも無く失敗する
どう考えても、残っているのは戦うという選択肢だけしかない。それもこの様。正解が無い袋小路もいいところだ
いや。戦うという選択はきっと正しかった筈だ。実力では優っていたのにどうして自分が地に這い蹲っているのか……答えは一つだ
捨てなければ無かった。本当にあの子が大切なら、あの時に自分の愛する夫を焼き殺してでも攻撃を防ぐべきだったのだ。そうすれば戦いは十中八九勝つ事が出来た
夫も娘もその何方も捨てない覚悟が結果的に両方を失う事となってしまった。仲間も大勢殺してしまい、あの子の帰るべき場所すら守れずに、みっともなく死に晒すこととなってしまった
胸中を覆うのは後悔という気持ちだった。自分にもっと力があれば失わずにすんだ。奪われずにすんだのだーーーだとしたら。もしもを考えてしまう。夫と娘と幸せに暮らせる。そんな未来が確かにあったのだと思うと悔しくて涙が止まらなかった
もうどんな小さな幸せさえも永遠に訪れない。どんなに望んでも。どんなに求めても
「なんで、こんな事に……どうしてだ?」
そんな彼女の苦しみを代弁したのは魂が抜け落ちた表情をした大男だった。少女を抱きしめながらふらふらと足元がおぼつかない様子で立ち上がり彼女の元へと向かってくる
「どうして……おかしいだろ……この子が死ぬのは、なぁ……」
彼女は思わず目を見張った。筆舌に尽くし難いが、自分と同じ大切な者を失った大男の姿は、彼女とまるで鏡合わせかのようにそっくりだったからだ
「なんで死ななきゃなんないんだよおおぉぉぉぉぉ!!!」
人の形をした化物は同情してしまうほど哀れで、目を背けたくなるほどに惨めだった
もう既にどこまでも手遅れなのだけれど。彼女は。それでも漸く気付く事ができた
(酷い顔だ。あたしも……さっきまで、あんな顔をしていたのだろうな……)
大男は帯刀していた剣を抜刀し力任せに彼女の背中に振り下ろす
「ガ…………」
「お前が死ね!化物!ふざけるな!ふざけるな!!」
一撃、ニ撃と彼女の背を赤く染める。彼女は痛みに悲鳴を上げることはなかったが、剣を振るう度に大男の方は今にも壊れそうな悲痛な叫びをあげていた
そして凶刃は、根元まで刺さるほど深々と彼女の背中から腹部にかけて貫く
(なら……あたしはもういい)
身体の中身がぐちゃぐちゃと激痛に掻き回され意識を保ちながらも、生きていた彼女は緩慢だった死が加速した事を静かに理解する
(あたしは死んでも構わない)
(けど……)
人は救いを求めるとき神に祈る
ならば、化物は誰に祈ればいい
祈る対象さえ存在しない化物は心さえ救われる事はないのかもしれない
(……あの子は。あの子だけは。)
それでも祈らずにはいられなかった。願わずにはいられなかった
(守る。絶対に)
この願いは赤い少女にとって最も残酷な願いだ。そんな事は呉葉にだって分かっている
自分たちを化物と罵るこんな世界で。自分たちを化物と拒絶するこんな世界で。受けた痛みを全て忘れて生きていくというのはとても難しいことだ。どれほどの苦難が待っている。それをこれからは独りで。もうあの子のそばには誰もいない。
願わくば、自分の娘には私たちのことを忘れて幸せに生きてほしい。復讐に生きて、摩耗してボロボロに傷ついて独りで死んで欲しくなかった。そんな在り方を肯定したくはない。今はどんなに辛くても耐えて笑っていつかある幸せに生きていって欲しいと。ただそれだけを願ったのだ
人間ではないのかもしれない。けれども。それは確かに我が子を思う母の姿であった。
「u……a a a a a !!!」
彼女の口から言葉にならない声が出た。死に物狂いの獣のような咆哮をあげ大男を逃がさない為に足首を掴み取る
「なっ……」
空気が張り裂けんばかりの猛りと死に体の筈の呉葉の行動に大男はたじろぐが、次の出来事は更に大男の目を見張らせる事となる
「お前も……一緒に……来い……!」
彼女の身体の至る部分から、黒い炎が発火し始めたのだ
右半身が見事に潰され、魔法を制御する角は折れて腹には穴が空き生きることすらままならない状態で魔法を使うという事が、どんな結末を齎すか彼女が知らない筈はないだろう
「離せ!離せ!!」
大男は掴まれた右足から手を振り払う為に、左足で何度も何度も強く蹴りつけるが、がっちり掴まれた左手から黒い炎は大男の身体へと燃え移るまで離すことはなかった
「ぐぁぁ‥‥ひ、め……」
燃え移った黒い炎は瞬く間に大男と抱きかかえられた少女を炭にした。断末魔すら赦さずに。終わらせた
しかし、終わったというのは彼女が勝ったという意味ではない。黒い炎はゆっくりと呉葉の身体も黒く侵食していく
(ああ……)
化物にハッピーエンドは決して訪れない
(私も君と同じ所に逝きたいけど、きっと無理だよね)
命を奪い過ぎた化物の彼女は、死ぬ時も。死んでからも。救われることはない
肉体は文字通り灰となって空気に溶けて消えて行き、心は地の底に引っ張られて沈んでいった
人は死んで。化物も死んで。これがあの夜の結末だった
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