お江~姫たちの戦国時代~

長尾景虎

第1話 姫たちの戦国

小説お江 姫たちの戦国と、直江兼続と

~姫たちの戦国と直江山城守とその時代~



             

               

               

               

               

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                   長尾 景虎


         this novel is a dramatic interpretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



          あらすじ


 お江は元亀四年(1573年)、近江国(滋賀県)小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の三女として生まれた。姉は茶々(のちの淀君)、初。

 生まれたときに父・浅井長政は織田信長にやぶれて自害。お江ら浅井三姉妹はお市とともに信長の庇護下に。やがて織田信長が光秀に「本能寺の変」で殺されると秀吉の庇護下にはいる。茶々は秀吉の側室・淀として秀頼を生む。初は京極高次の正室に。お江は徳川家康の息子で二代将軍・秀忠の正室として三代将軍・家光を生む。豊臣家は家康に滅ぼされ淀・秀頼は自害。徳川の天下へ。信長を伯父さん、秀吉をお義兄さん、家康をお義父さん、とよべる江の生涯はまさに「大河ドラマ」である。

                                おわり


         1 関ヶ原





時代は近江の浅井家滅亡の最中……姉川の戦いにやぶれて織田軍に攻められる浅井長政である。北に上杉、東に北条、南に徳川、西に織田、この物見にいって馬でおいたてられ必死に逃げる青年はこれより33年後、大坂夏の陣で徳川家康を自害寸前までおいつめた希代の英雄・真田源次郎信繁(幸村)である。だが、今は只、恐怖に震えて逃げるのみである。

真田家は甲斐・信濃の武田家に従っていた。甲斐の虎・武田信玄を御屋形さまと慕っていた。だが、信玄の死後はふんだりけったりである。勝頼の叔父・木曽義仲も裏切り、武田軍師・穴山梅雪や軍師・真田安房守昌幸(幸村の父親)は、今は新府城に戻るべき、という。

安房守は「新府城は難攻不落……武田家は滅びませぬ! 必ずやこの安房守が御屋形さまをお守りいたしまする!」と剛毅だった。

だが、息子達には「武田は滅びるぞ」と呟く。

息子達(嫡名・真田源三郎信幸・長女・まつ・次男・真田源次郎信繁・妻・薫・母・とり)らは「しかし、武田は滅びぬ。新府城は難攻不落と?」と驚く。

「……誰がいったんだ。そんなこと」

「父上が先ほど…!」

「とにかく武田家はもはやぼろの泥船! まずは居城岩糒(いわびつ)城で臥薪嘗胆じゃ」

先に昌幸は岩糒城へ家臣と向かった。

真田丸というか真田家族は新府城を捨てて、岩糒城まで農民のなりをして向かった。

だが、途中に武田を裏切った小山田の家来らに命を狙われる。昌幸がたすけた。

武田勝頼は織田軍においたてられ自害……あの名門武田家は滅亡した。

真田昌幸は「北条か? 上杉か?」と頭をめぐらせた。「くじで決めようか? 信幸、信繁(幸村)?」「……しかし、そのような大事なことをくじで決めていいものでしょうか?」

「父上の策をおきかせくだされ!」

「策? そんなものはない。北条か? 上杉か? ……む? まてよ! そうだ! 決めた! わしは決めたぞ!」

「何をにございまするか」

「上杉でも北条でもない。わしは織田信長につくぞ!」

「え? しかし、織田につけばまっさきに上杉との戦になりまするぞ?」

「いいか! まずは大博打じゃ! 織田信長………尾張のおおうつけに博打よ!」

「しかし、父上!」

真田安房守の意思はかたまった。

織田信長につく。

真田信繁(幸村)と父・昌幸はさっそく、織田信長に拝謁した。

織田信長はブーツにマント姿で圧倒された。

織田信長の大活躍。浅井長政の元に政略結婚で嫁いだ信長の妹・お市の方は長女・茶々(のちの淀君)、次女・初(のちの常高院)、三女・お江を産む。

近江の地でおなごが生まれた。浅井長政と織田信長の妹・お市の間に生まれた三女、江である。まだ赤ん坊でしかない。

長政は赤子を抱いて笑顔をつくり、「この子は水の都近江に生まれし子……名前はお江姫じゃ」と天にお江を掲げた。時代は浅井朝倉連合軍VS織田信長の姉側の戦いである。

勝つと信じて挙兵した。だが、流石は織田信長・第六天魔王である。勇敢な浅井勢…

しかし、そんな長政もすぐに死んでしまう。死ぬというより、織田家臣の羽柴秀吉軍に殺されたのだ。

徳川家康は織田信長と同盟を結んでいた。

織田信長は激怒した。「なんと! 何故死んだ! あの憎らしい長政め! あやつは博打に負けた!」

「博打とは……。そういえば浅井方はお市さまと浅井三姉妹(茶々・初・江)を人質にだしてきました」

「救いに行かねば殺されてしまいます」

「よし! サル、お市と姪っ子たち浅井三姉妹をもらいうけてまいれ!」

「ははっ!」

 サルこと秀吉は馬を駆りお市や三姉妹を救いに行くが、敵に追い詰められた浅井長政の嫡男・満福丸は戦国のならいで斬首になる。

失意のまま戻ったお市と浅井三姉妹は、秀吉を責めた。「サルめ! 人殺しのサル! 禿げネズミめ!」

秀吉は「申し訳ござらん! お市さま! 戦国のならいなのです!」と土下座した。

秀吉(藤吉郎)は涙を流しながら寧々に弱音を吐露した。

「愚痴を何も言わずきいてくれぬか?……わしは自分では軍略の才能があると思っておった。殿よりも機転が利き、策略に優れ、御屋形さま信長公仕込みの策略で歴史を変え、ひとをすくう……。しかし、わしの軍略など実際の世界では何の役にもたたなかった。只、逃げて、流されて、……わしは無力じゃ。何の力も無い。わしは…無力じゃった」

「藤吉郎さま。……あなたが無力でもこの寧々があやういときにはどこからでもきてたすけにきてくだされ…」

「…寧々」

ふたりは抱擁した。それは藤吉郎を崩壊からすくう抱擁であった。





 関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。

 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。

 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。

 直江らは「何故にございますか? いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか? 御屋形さま!」

 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」

 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ! 刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。

 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。


 石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。

 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。

 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるときに事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。

 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」

 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。

「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」

秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」

「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」

 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。

「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」

 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。




石田三成は安土桃山時代の武将である。

 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)

 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。


大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。

参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>

三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。

石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。

三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

 

 豊臣秀吉がまだ木下の姓を名乗り、長浜城主の当時召し抱えたのが、後年五奉行の一人として徳川家康に対抗した関ヶ原の立役者、石田三成その人である。この三成の推挙によって秀吉の近習となり、秀吉の一字をもらって吉継と名乗り、秀吉から次第にその才能を認められ、越前敦賀(つるが)城主となって五万石の大名となったのが大谷吉継である。吉継は九州豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、はじめ紀之介と称した。

 加藤清正や福島正則のように、一番槍の武勇でならす武闘派と、石田三成や大谷吉継のような官僚肌の二極に豊臣政権は分裂していた。

 石田三成はやりたくもない朝鮮侵略で、武功をあげたい福島正則や加藤清正らに恩賞も与えられず、武闘派らの憎しみを秀吉にかわって一身にかぶった。

 明治以前の日本の不治の病がふたつある。明治以前の日本にはひとつに労咳(ろうがい・肺結核)という不治の病と、天刑の病とされる癩病(らいびょう・ハンセン病)である。

 大谷吉継は父親と同じく、癩病にむしばまれており父親は全身不随になって死ぬのだが、息子の吉継も癩病で身体中に膿が出来、殆ど歩けず眼もほとんど見えない状態まで病状は悪化する。そこで或る時の数奇屋(すきや)での秀吉主催の茶会である。大谷吉継も三成も共に招かれて出席した。すでに癩病が進んでいた吉継は、その頃の会合にはめったに出席しなかった。おそらく秀吉は、そんな吉継を慰めようとして招いたらしい。その席での茶は回し飲みであった。

 自分の所に回ってきた茶碗に口を当てた時、吉継の緊張は極度に高まっていた。丹田に力を込めて、吉継は作法通りに茶を啜った。その途端、なにやら鼻水のようなものが一滴、茶碗の中にしたたり落ちてしまった。はっとする吉継は気も転倒する思いであった。列席の武将たちの目は、血膿のはいった茶碗に注がれた。さすがの吉継も手がふるえ、次席の小西行長に茶を回すことができない。不気味な沈黙が一座を支配した。気の毒そうに目を伏せる者もいた。列座の大名たちは成り行きいかんとかたずを飲んで見まもった。その時、かたわらに進み出た石田三成は、刑部の手からとっさに茶碗を受け取ると、並み居る人たちに無礼を詫びた後一息に茶をすすり飲んでしまった。吉継の目には、きらりと涙が光った。この世における二人の友情はこの一瞬、底知れぬ深さに結ばれた。

 関ヶ原での合戦に「お主には人望がないからやめておけ」と何度も諌めた大谷刑部吉継は、佐和山城に三成に呼ばれて駕籠でやってきた。この時、癩病にむしばまれた義継の身体は血膿にまみれ、眼は視力を全く失った姿であった。そこで三成は、家康挟撃の大事をはじめて打ち明けたのである。驚いた吉継は、時期尚早であるとして三成を諌め、この企てを思いとませようとした。しかし、三成の計画はすでに引き返せぬところまで進んでおり、吉継の諌めを聞くことは出来なかった。見えぬ目に涙を流しながら、翌日もまた翌日も、三成を諌め続けた。

 こうして一六〇〇年七月十一日、刑部は意を決して、三成に命を捧げるため佐和山城に入った。迎えに出た三成は吉継の手を取って「刑部」とただ一言、声は涙につまった。

(小説『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店6~12ページ参考文献参照)






焼き討ち





         浅井長政の裏切り




 確執も顕著になってきていた。織田信長と将軍・足利義昭との不仲が鮮明になった。

 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。

 義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。

 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。

「あなたを副将軍にしてもよい」

 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。

 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつかえつかえいった。「では、まろに忠誠を?」

「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。

「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」

 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。

 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!

 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。

 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。

 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。

 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。

 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。

 義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。

 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。

 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。

若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。

「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。

 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。

 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。

 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。

 浅井長政は味方のはずである…………

 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。

 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。

 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。

 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。

 金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。

 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。

 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。

 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!

 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。

 手紙はなかったが。(戦国時代の女性は、自分の署名の名前は一文字であった。お江与・お江なら、江、か、督、か、ご。細川ガラシャとして有名な明智玉もしくは珠なら、た。)

「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。

 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。

 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!

 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。

……殿(後軍)を誰にするか……

 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。

「殿は誰がいい?」信長は迷った。

 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。

「サル、殿をつとめよ」

「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。

 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。

「サル、頼むぞ」信長はいった。

「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。

 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。

 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。

「悪党ども、案内いたせ」

 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。

 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。

 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。

 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、

「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。

 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。

「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」

 信長は長政を罵った。

 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。

 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。

 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。

 信長は思った。皆殺しにしてくれる! 





         姉川の戦い



 

 浅井(近江国(現在の滋賀県)の北半分を領地とする戦国大名・浅井家)の小谷城(現在の滋賀県長浜市にあった城)で、茶々は永禄十二(一五六九)年に、小谷城城主・浅井長政と織田信長の妹・お市との間に生まれた。

「母上。何しているの?」

「おや、茶々」

「お市、御腹の子供はどうじゃ?」長政がきた。

「父上!」

「殿。ええ、順調です」

「お市、これは?」

「兄上への陣中見舞いです」

 それは袋の中の小豆が両端で止めてある。

 長政は複雑な顔をした。

「――――わしから義兄上に届けさせよう」

 そういうと、長政は去った。

 これが、〝袋の小豆〟であり、兄の信長に〝袋の鼠〟だ、としらせるものだった。

 信長は陣中で、ハッとする。

「逃げるぞ! ――――われらは〝袋の鼠〟だ。浅井長政が裏切った!」

 これが、有名な金ヶ崎でのことで、信長たちは朝倉と浅井に挟み撃ちになりながらも、必死に退却した。いわゆる金ヶ崎の退き口、である。

 信長たちは、命からがら京に逃げおうせた。

 当然、信長は浅井長政らを激しく憎んだ。

 軍勢を立て直した織田軍は、浅井朝倉連合軍を攻める。

 朝倉は滅亡、浅井親子の小谷城を包囲した。

 だが、浅井の子供たちはきゃっきゃっと城内で遊ぶ。

「ねえ、兄上。織田の軍勢が迫っているのに、兄上は怖くないの?」

「ああ。父上が負ける訳がない」

少年と童女は笑顔を交わした。

少年の名は、万福丸、浅井長政とお市の嫡男であった。

万福丸は呼ばれる。初は、茶々の袖を軽くつまんだ。

「ねえ。姉上。戦が始まったら私たちはどうなるの?」

「大丈夫よ。兄上も言ったでしょ。初ももうすぐお姉さんなんだからしっかりしなきゃ」

「はい!」

――――わたしが妹を守れるくらい強くならなくちゃ。

やがて、お市の方は出産した。末の娘・江の誕生である。

お市は床にありながら、娘たちに言い聞かせた。

「茶々、初。よくお聞きなさい。男は命を懸けて戦をしますが、女子にとっては命を生むのが戦です。お前たちもよい戦をするのですよ」

「――はい!」



 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」

 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。このとき、佐脇良之は浅井家臣として戦っていたにも関わらず、あやうくなった利家を救った。浅井を裏切ったのだ。

 佐脇良之は浅井方にも戻れず、利家の屋敷に身をよせ、浪人となった。

「……あれは雀の子かのう?」佐脇良之は茫然と屋根や蒼い空を見上げていた。


「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 利家は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、イヌ」

 利家は驚いて目を丸くした。いや、利家だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。

話を戻す。



         焼き討ち



 三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。     




         髑髏(どくろ)杯





        三方が原の戦い




    

 武田信玄は、信長にとって最大の驚異であった。

 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。

 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。

 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。

 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。

 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。

 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。

「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。

 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。

 ……これが、三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。

 だが、実は、この肖像画は江戸時代のもので、エピソードも後年の創作であるという。

もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。

 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。

 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。

 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。

 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。

 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。

信長は手をたたいて喜んだ。「天はわしに味方した。好機到来だ」




         室町幕府滅亡



 信玄の死を将軍・足利義昭は知らなかった。

 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。

 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。

 知らせをきいた信長は激怒した。

「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」

 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。

”落ち武者”のようなザンバラ髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。

「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。

「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。

 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?

「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」

 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。

 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。

「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」

 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。

「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。

 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」

「なんじゃと?! サル」

「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」

 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。

「……わかった」信長はゆっくり頷いた。

 秀吉もこくりと頷いた。

 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。

話を戻す。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい。嫡男は殺されるだろうが」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

お市は浅井長政に嫁いだ日を思い出した。兄・信長に命じられるまま嫁いだ。

浅井長政はお市を見て「そなたは武将のような女子じゃ。しかしその瞳に可憐な女が見える」といったのだ。

「女?」

お市は長政に惹かれるようになる。

すぐに茶々(のちの秀吉の側室・淀君)と初(京極高次の側室)という娘に恵まれた。

そして信長に反逆して大勢の織田勢に包囲されながら、小谷城でお市は身ごもった。

しかし、お市はお腹の赤子をおろそうとした。

薬師に薬をもらった。

「これを飲めばお腹のやや(赤子)は流れるのじゃな?」

「はっ」そんなとき、幼い茶々が短刀を抜いて初を人質に乱入した。

驚いた、というしかない。

茶々は「ややを産んでくだされ、母上! ややを殺すならこの茶々も初もこの刀で死にまする!」という。

この思いに母・お市は負けた。短刀を取り上げて、

「わかった。産もうぞ」といった。娘が生まれた。

 長政は「この姫は近江の湖に生まれし子、名は江じゃ」という。

しかし、浅井三姉妹とお市と浅井長政との永遠の別れとなった。お市と茶々、初や側奥女中らは号泣しながら小谷城落城・炎上を見送った。

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。

 長男の万福丸は秀吉の家臣によって殺害され、次男の万寿丸は出家処分に…お市は泣きながら、三姉妹とともに織田信長の清洲城に引き取られていった。

 兄・信長と信包の元で、9年間もお市の方は贅沢に幸せに暮らさせてもらった。しかし、気になるのは柴田勝家である。

 勝家はお市の初恋の相手であった。またお市は秀吉をいみ嫌っていた。…サルめ! ハッキリそういって嫌った。










         髑髏(どくろ)杯




 大軍をすすめ信長は、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。

 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。

 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。

「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。

 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………

 朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。

 そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。

 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。

 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。

「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。

 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。

 しかし、長政は頑固に首を横にふった。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。

「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。

 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………

 朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。

 そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。

 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。

 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。

「万福丸。この浅井の由緒ある小太刀をお前に預ける。逃げ延びて、この小太刀・一文字宗吉をもって浅井を再興せよ」

「父上!」

「娘たちを……兄上に渡します。わたしはここに残り、殿と冥途へ……」

「お市、駄目じゃ。お主は娘たちと共に行け。娘たちを立派に育て上げ、浅井の血を遺すのがこれからのそなたの戦ぞ」

「……承知いたしました」

「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。

 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。

 しかし、長政は頑固に首を横にふった。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。

 お市たちは、秀吉のつかいによって、落ち延びたが、お市は秀吉が大嫌いだったので、娘たちを触らせようともしなかった。茶々は万福丸から、浅井の小太刀を渡されていた。

 兄の万福丸は、逃げられないかもしれぬ。との、覚悟で、妹に預けたのだ。

 そうして、当然のように、逃げるのに失敗した万福丸は、発見され、秀吉によって殺された。男子は、将来に禍根を残さないために殺すのが武士の習い、であった。

お市も、茶々たちも号泣して、秀吉を、信長を恨んだ。



 天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。

 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。

「酒の肴を見せる」

信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。髑髏(どくろ)にはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。

「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」

 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……

 お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。

「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。

「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。


 勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         

 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。





 天正四年(一五七六)……

 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。。

「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をいった。可愛い少女である。

「あ!……姉様! ずるい!」

 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。

 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、

「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」

「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」

 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 

 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…

 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。

 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。

 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」

 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。

 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。

お江は「叔父上……織田信長さまこそ天下の英傑です。お会いできるのを楽しみにしておりました」という。自分の浅井の父親の仇などとは夢にも思わない。

物陰で初や茶々は反発する。「あやつは赤子だったので織田信長が浅井の父上の仇と知らないからあんなことが言えるのじゃ」

「お主がお江か?……そなたは自由に生きよ。この信長の姪としてな」

「はっ。」

 そして、信長はお江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。

「どちらが勝つと思う? 江!」

「謙信に決まってます」

「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」

「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」

 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍の小競合いが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。

 そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。


 信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。

 甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束ねる軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。

「武田などただの臆病ものよ!」

 信濃の豪族はたかをくくっていた。

 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。

 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。

 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。

 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。

「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿見せましょうぞ!」

 家臣たちは余裕だった。

 信玄も、

「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」

 と余裕のままだった。

 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。

「いけ! 押し流せ!」

 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。

「うおおおっ!」

 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。

 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。

 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)

 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。

「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」

 信玄は笑った。

 ある日、両軍主領があう機会があった。

 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。

 すると信玄は礼を重んじることもなく、

「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。

 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。

 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。

 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。

「……今度の戦で信玄を倒す!」

 謙信は兵に激を飛ばした。

「おう!」

 上杉軍は決起盛んである。

 第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。

 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。

 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。

「やめぬか! 義を守れ!」

 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。

 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。

 どこまでも「義」のひとなのである。

 信玄は違った。

「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」

 と、信玄は人間の利益にうったえた。

「欲」「現実」のひとなのである。

 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。

 やがて武田が動く。

 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。

「……信玄を信じよう」

 義の謙信は疑いのない男だ。

 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。

 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。

 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”

 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。

 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。

 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。

 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。

 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。

 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。

 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。

「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」

 謙信は家臣や兵に命令した。

 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。

 上杉軍は千曲川を越えた。

 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。

「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」

 信玄は驚いた。

 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。

 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」

 無数の長槍が交じりあう。

 雲霞の如く矢が飛ぶ。

 謙信は単身、馬で信玄にせまった。

 刀をふる謙信……

 軍配で受ける信玄……

 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。

 このままでは本陣も危ない!

 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!

 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。

 武田信玄は川中島で勝利した。

 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。

 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。

 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。

 武田は大大名になった。

 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。

 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。

 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。

 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、

「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」

 と考えた。それには上洛するしかない。


お江は疑問をぶつけた。「叔父上は浅井の父上や祖父や朝倉義景さまの髑髏(髑髏(どくろ))に金箔に漆を塗り家臣に髑髏杯で酒を飲ませたとか……本当なら義に劣る行為。およそ人間のやる行為ではありません。これでは叔父上信長様は神ではなく悪魔です。本当の事ですか?」

信長は「悪魔か……間抜けな神よりいい。お市、よい子供を産んだのう」

「われは真実を知りたいのです。叔父上がまことに髑髏杯をやったのか……」

「お江」信長は声をかけた。「それは作り話じゃ。わしがどれだけ非道で卑劣・残酷という印象を国内外に与えるための敵方の宣伝である。」

「なれば……髑髏杯は大嘘?」

「そうとも!」信長は笑う。「お江……噂は真偽を確かめる器だぞ」

「……器…?」

「そうだ」信長はぴしゃりと膝を打った。「髑髏杯などしたら戦国の世をおわらせられん。天下泰平のための天下布武である」

「やはり! 叔父上はすごいです! さすがは天下人・織田信長さま!」

「……ふん。お江はまっすぐなおなごじゃな。お市そっくりじゃ! そのまっすぐさを大事にせよ!」

「……はい!」お江はうなずいた。 


話を戻す。

 樋口与六兼続は「信長は義に劣る者ときいている」という。

「では、今川公に負けまするか?」とは弟。

「わからぬ。だが、今川は何万の兵……織田はたった三千だ」

「では勝つのは今川公で?」

「知らぬ。だが、信長はうつけのようにみえるが軍事の天才だという。もしも…というときもあろう」

 兼続はいった。弟・与七実頼は「しかるにそのあるいはとは?」ときく。

「奇襲だ。わしが織田信長ならそうする。要は義元公の首をとればいいのだ」

 兼続はどこまでも明晰だった。「それにしても謙信公の戦は野遊びだ」

「野遊び?」

「信長がどんどん力をつけていくのに……いっこうに天下を狙わぬ」兼続は織田方に驚異の念を抱いていた。このままでは関東守護の座さえ危うい……。

「これ、御屋形様の悪口はけしからぬぞ!」

 父は叱った。名を樋口兼豊(惚右衛門)という。母は泉重蔵(お藤)で、まだ若い兄弟をきちんと躾ていた。

 




       堺に着眼



 大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。

 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。工兵と緇重兵(小荷駄者)がところが、織田信長が登場してから、独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。

 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。

 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあった。が、兵糧が尽きて結局、撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。

 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。

 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。

  また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。

 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。

 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。

 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。


 京都に上洛するために信長は「矢銭」を堺や京都の商人衆に要求しようと思った。

「矢銭」とは軍事費のことである。

「サル!」

 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。

「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」

「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」

「矢銭、でござりまするか?」

「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」

「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。

 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。

 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。

「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」

秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。

「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」

「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」

「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」

「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。

 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もほろろに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。

 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。

 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。

 信長は勉強し、堺の富に魅了された。

 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。

 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。

 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。

 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。

「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」

「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」

 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。

 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。

 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。

 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。

 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。

 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。

 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。




         フロイス




 京都に第十五代将軍足利義昭がいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。

「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」

信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………

 信長はすぐに堺を脅迫しだした。

「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」

 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。

 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、

「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。

 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。

 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。

 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。

 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。

「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」

信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。

「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」

 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………

 信長は修羅の道を突き進んだ。

 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。

 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。

 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。

 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレンと日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。

 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。

 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。

 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。

 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。

 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。

 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。

 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には感心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。

 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。

 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。

 ……これならキリスト教徒としてやっていける…

 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。

 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。

 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。

 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。洗礼を受け、イエズス会に入会したのである。










         フロイスと信長



 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。

 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。

 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。

「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。

「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。

「よかろう」信長は頷いた。

 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。

 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。

 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。

「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。

 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。

「お主の年はいくつだ?」

「三十一歳でござりまする」フロイスはいった。

 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」

 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。

「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」

「はい。そうです」

「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」

「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」

「さようか」信長は感心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。

「二年」フロイスはゆっくりいった。

「………二年? それは、それは」信長は感心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。

 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。

 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。

 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。

 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。


 此頃、お市と江、初、茶々は織田信長の安土城に移されていた。「叔父上は悪魔にございまする!」茶々と初は実父の仇・信長に悪意をもっていた。何も知らないお江は「叔父上に失礼ですよ、姉様、姉上!」という。しかし信長は笑って「悪魔とは面白い。間抜けな神よりいい」などというばかりだ。「お市、いい姫たちを生んだのう」信長はいった。 


          焼き討ち





         浅井長政の裏切り





         姉川の戦い



 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」

 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、サル」

 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつものお館らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




         焼き討ち



 三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。     




            

 本能寺の変


         長篠の合戦と安土城





 正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「貴殿の妻と息子のふたりとも殺すように」という書状を送った。

「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!

「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」

「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」

 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」

「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」

 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。

 ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。

 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。

 それは微かな、暗い呟きだった。


 信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。

 そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。

 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。

 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。

 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列ずつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発ずつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。

 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。

「撃て! 放て!」信長はいった。

 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。

 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。

 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。

 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。

 これで東側からの驚異は消えた訳だ。

 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。


 絢爛豪華な安土城を築いた。信長は岐阜から、居城を安土に移したのだ。

 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとっては、それは我慢のならぬことでもあった。

 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……

「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、お江がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」

「叔父上、信長さまは人間にござりまする! 人間は神にはなれませぬ!」

 お江は必死にとめた。

「……お江! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。お江は驚愕した。

 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………

 お江の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。

「お……お……叔父上様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……

「叔父上様は…信長様は…神にござる!」お江は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。


真田家は安房守の謀略でもっているようなものだった。

昌幸は徳川家康に従うふりをして海部淵(あまがふち)に城をつくらせる。

のちの上田城である。徳川家につくらせて真田家は次男の源次郎信繁(幸村)を上杉景勝の人質に出した。人質にいくまえに源次郎はお梅と祝言をあげたいといった。

源三郎信幸は「どこまでいっているのだ?」ときいた。

「どこまでとは?…なにをさしておっしゃっているのか…?」

「……く…口吸い……だろうなあ」

「それなのですがお梅の腹にはわしのややこがおりまする」

「口吸いどころではないではないか! お前はおとなしい顔をしてやることはやっておるのう」

安房守は「腹にややこがいるなら祝言をあげるのは当然じゃあ!」と喜んだ。

だが、このお梅と源次郎信繁との祝言こそが謀略だった。

家康や本多信純に昌幸暗殺を耳打ちされた同じ国衆の室賀正武(むろが・まさたけ)を返り討ちにした。祝言でさそっての囲碁の刻での暗殺だった。

……ひどい!あんまりだわ。お梅ちゃんがかわいそう!

きりは泣いた。しばらくして、

源次郎信繁と源三郎信幸のふたりの息子は上田城から月を眺めながら感傷に浸った。

「兄上、わたしは不思議と室賀正武が暗殺されたとき、父上の謀略のすごさに感心してしまいました。怒りがなかった。……ですがそんなふうに思う自分が…好きになれません。…」

信繁は涙を流した。信幸は「悩め…悩め……われらは悩みながら走りに抜ける…以外には…道はない。悩め…源次郎」

息子らは涙で月を眺めた。

越後の龍・上杉謙信の甥で、義理の息子の上杉景勝には「源次郎、お主のような息子を欲しかった」とまでいわれた。

だが、激怒する徳川方は上田城に七千の兵で攻めてきた。

真田は総勢で二千兵しかない。

だが、希代の名軍師・真田安房守昌幸は奇策縦横で謀略で徳川勢力を完膚なきまでに叩きつぶす。いわゆるこれが第一次上田合戦である。

だが、この合戦で、信繁は一度目の妻・お梅を失う。

お梅が戦死したのだ。「お梅-!お梅-!」信繁は遺骸にすがった。号泣した。

だが、時代はもはや羽柴筑前守……豊臣秀吉の世である。

あらゆる大名が関白豊臣秀吉の軍門に下った。

それは毛利家も島津家も上杉家もみんなそうである。

上杉家のつきそいとして信繁は大阪城にはいる。

ものすごい絢爛豪華で巨大な大阪城に圧倒された。

だが、源次郎信繁は冷遇された。

いよいよ徳川家康まで大阪城にいき秀吉に従うようになると真田安房守も考え出す。

「父上! すぐに大阪城にいき秀吉にあわれませ!」

「いや、源三郎! もっともっとねばって真田の値をつりあげるのじゃ! どうせ下につくならもっともっと真田の値段をつりあげて…」

するとばばさまがいう。

「人間は志が大事じゃ。志さえあれば生まれに遅いも早いもない。秀吉の下につくならめいいっぱい下手にでて、後で寝首をかく。人間は誠意が大事。じゃが、それ以上に謀略も大事。すべては策次第じゃ。策がなければ何も成らぬものぞ」

結局、真田安房守昌幸や息子の信幸は大阪城の秀吉に接見する。

だが、秀吉は安房守も甘く見ておいの秀次が接見した。

真田家は裏で激怒して、安房守は「わしは何処で間違った? 何処で間違った? 教えてくれ! 何処で間違った」と狼狽した。

「父上は間違ってなどおりません!」

大谷刑部は大軍の徳川を破った安房守を“楠木正成の再来”と褒めた。

真田源次郎信繁(幸村)は秀吉に「殿下、……あの武勇に謀略に秀でた真田安房守を敵に回すのは得策ではありません」と恫喝する。

「ほう。…わしを恫喝するか。源次郎」

「はい。恫喝しまする」

秀吉はにやりと笑った。「よかろう。安房守にあおう」

こうして真田家は豊臣家に従うことになった。

大河ドラマでは姉まつが出雲阿国の舞子になっていたのを見つけ、記憶喪失で、やがて記憶が戻り、まつが真田家へ帰ってくる設定だった。

だが、何にせよ、こうして真田家は豊臣勢力に従うことになった。






 天正四年(一五七六)……

 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。。

「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をふった。可愛い少女である。

「あ! ……姉様! ずるい!」

 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。

 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、

「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」

「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」

 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 

 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…

 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。

 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。

 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」

 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。

 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。

 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。

「どちらが勝つと思う? 江!」

「謙信に決まってます」

「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘助なる軍師が…」

「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」

 お江は笑った。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 直江兼続は上杉の使者として、岐阜城へと数名で入っている。兼続は魔王・織田信長と対面した。「信長さまは上杉の御見方なのかそうでないのか…」

「のう、兼続。わしは比叡山や石山本願寺を討とうとしている。どう思うか?」

「それは義に劣りまする! 坊主を討つはみ仏に刃を向けるのと同じに御座る!」

「義とは戦の為の口実にすぎない……坊主ではない。金と欲に眼の眩んだ武装集団でしかない。それを殺すのは当たり前だ。天下は綺麗事では取れない」

「お言葉ながら……義がなければ人は野山の獣と同じにござりまする!」

「…ほう」

「い…いえ。謙信公がそう申しておられて…そのぉ」

 信長は笑って「ならば獣でも鬼でもよい。天下を取れるならばこの身、獣鬼にくれてやるわ!」といった。そして座を去ってから秀吉に「あやつの首、上杉に送れ。織田の天下に上杉は無用じゃ」という。秀吉は兼続の命が惜しいと思った。

 そこで兼続の命を、石田佐吉(三成)が救った。刺客から逃れさせ、越後へ帰した。

「あなた様の名は?」兼続はきく。と、石田が「佐吉…羽柴秀吉家臣・石田佐吉じゃ」

「このご恩……この兼続……生涯忘れませぬ!」

 兼続はそういって礼を申した。こうして直江兼続と石田三成ががっちりと組んで、関ケ原で共に戦うことになる。上杉が西軍についたのはここが始まりといっていい。


 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。                     

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。


 天正4年7月、上杉謙信は義の戦いのために上洛を目指して軍を進めた。兼続は17才… 上杉謙信にとって信長は『義に劣る俗物』である。兼続も初陣を飾った。しかし、武功は上げられなかった。智略に優れる兼続だったが、武力では勝つことができなかった。

 上杉軍が魔王・信長と激突……といえば聞えがいい。が、実情は数に勝る織田勢にじりじりと追い詰められていっただけだ。上杉謙信の天命が尽きればそれで終りである。

「御屋形様! いよいよ上杉が義の戦が出来るのですね!?」

「兼続……そちははしゃぎ過ぎるのじゃ」

 寡黙で知られる上杉景勝はそういうだけだ。「とにかく……戦では義父上さまは負けたことがない。上杉は勝つだろう」

「やはり! 我々上杉が、義が魔王に勝つので御座いますのですね?」

「おお! そういうことだ」

 景勝は頷いた。

 しかし、事態は急変した。

 織田側で、加賀で迎え撃つのは柴田権六勝家である。上杉は多勢に無勢…おされる一方だった。が、豪雪で陣が進められない。兼続ら上田衆は活躍した。が、兼続だけはひとを斬ることが恐ろしくて及び腰になる。すると景虎側の仲間から嘲笑された。

 そこで、事件が起こる。景虎側の家臣・刈安兵庫が「この女子のようなやつめ!」と兼続を挑発した。「何をっ!」兼続はついに挑発にのり、刀を抜いた。

「ほう、やるのか?! この泣き虫の兼続!」

「も…問答無用!」

 ふたりは対峙して鍔迫り合いをする。そこで「何をしておる!」ととめられた。

 仲間内で争っているようではお先真っ暗だ。兼続は三日後、謙信に呼ばれた。

 上司の景勝は頭を下げた。「いえ……殿っ! この兼続が悪いので…」

「そちは黙れっ! 御屋形様、どうかご無礼お許し下さい!」

 上杉謙信は、今の兼続では戦に出ても負ける、と感想を述べて兼続を越後上田庄に戻し謹慎させた。樋口(直江)兼続にとって、初めての戦はほろ苦いものになった。

 そののち、関東の北条の勇み足と上杉軍の加賀手取川合戦勝利とその混乱で静まった流れで、謙信は越後に戻る事に、なる。そう、いよいよ英雄・上杉謙信の、最期である。  

         




         本能寺の変




  明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。

 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」

「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」

 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。

 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」

 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。

「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」

 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。

「あの方が……いなくなれ…ば…」

 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!

「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。

 かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。

 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。

「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」

 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。

「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。

「いえ。めっそうもない」

「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」

「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでごさる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」

「ははっ」家康は平伏した。

 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」

「……いいえ」

「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」

 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。


 しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。

「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」

「は? ……羽柴殿の?」

 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。

 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。

「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」

 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。

 しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。

 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!


 元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。

 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。

 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………

 かれは完全に油断していた。


 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。

「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」

 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。

 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。

 ……時は今、雨がしたしる五月かな…

 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。

 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のグサッとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。

 ……信長を討ち、わしが天下をとる!

 光秀は頭を激しくふった。


「敵は本能寺にあり!」

 明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」

 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。

「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。

「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」

「何っ?」

「…殿…すべて包囲されておりまする」

「是非に及ばず」信長はいった。

 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。

「人間五十年、下天のうちを食らぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。

 享年四十九、壮絶な最期であった。  


お江は徳川家康らと一緒に本能寺の近くにいた。家康らはいわゆる伊賀越えとして、三河の御城にかえることになった。野武士や明知の軍が迫る。

お江は馬に乗っていたが、信長の霊のようなものが馬を走らせ、「お江! そちは生きよ!」ということで叔父上・織田信長の死を確信した。

家康は馬をかけるお江を馬でおいかけた。「お江さま!どうなされた?」

「叔父上が……織田信長は死にました」

「そうでござったか」

「われは叔父上の分も生きねばなりません!」

「いかにも!!」

だが、お江はわざと明智光秀に捕まって話をした。

光秀は「何故、織田の御屋形さまを討ったのかわからない」という。

お江は「わからない? 光秀さまは天下を狙ったのでは?」

「いや。毒を……のぞいただけにござる」

「毒じゃと? 織田信長さまは毒?」

「天下国家の…朝廷にとって……天子さまにとっての毒です」

「天子さまの? 叔父上は天子さまもいらぬと?」

「……そうです。我慢がならなかった」光秀は泣いた。



      夢のまた夢

        


真田源次郎信繁(幸村)の顔を両手で包んで、茶々のちの淀君は悪戯な笑顔を見せて、

「あら。わりと好きな顔。」とふざけた。

「姫さま。いけません。」

乳母の大蔵卿局はいう。「あのもしかして…」

「もしかして?」

「……茶々さま?」

「そうです。あたり!あなたは真田なんとかという…」

「源次郎信繁(幸村)にございます!」

「不思議なことをいいます。わたしとあなたは運命がある」

「……運命?」

「わたしとあなたは同じ同志として働き……そして同じ日に…死ぬのです」

「……遠い未来のことと思いたい」

「では、源次郎」

悪戯な笑顔のまま茶々は去った。

この信長の姪っ子で浅井三姉妹の長女(茶々・初・江)こそ秀吉の子供を二回も妊娠して運命の子・お拾い…豊臣秀頼を生むのである。

豊臣秀吉は徳川家康を懐柔し、四国、九州を平定し、北条攻めでついに天下人になる。

だが、子供は出来ない。わずかに茶々の生んだ鶴丸(夭折)、お拾い(のちの豊臣秀頼)のみである。しかし、晩年は認知症になったり、不満を爆発させたりしての朝鮮出兵などを引き起こす。太閤秀吉は甥っ子の関白秀次を自害においこんだ。

真田源次郎信繁(幸村)は“左衛門佐(さえもんのすけ)”、真田源三郎信幸は“伊豆守(いずのかみ)”の官位を与えられた。

耄碌した秀吉をおぶって大坂城の天守閣まできた江に秀吉はいう。

「どうだ?これが豊臣の世の大坂じゃ。だが、まだまだだ。いずれは朝廷から天子さまをおつれして平清盛のようにしたかったが……わしは半分も成して…いない」

「これで半分でございますか?」

「お江。……わしの天下は、すべては夢のまた夢じゃ。くやしいのう」

「殿下。……」

「わしは死にとうない。秀頼を頼むぞ、お江。死ぬのは…くやしいのう」

「……殿下」

 こうして豊臣秀吉は死んだ。享年六十二歳……

石田三成は決意していた。

……亡き太閤殿下や秀頼公のために徳川家康を討ち滅ぼす!

三成は悔し涙を流した。

「何故じゃ。豊臣家の為に豊臣政権のために尽力したこの石田三成が……何故怨嗟の的になるのじゃ? わしは……どこで間違った? お江さま。わしは…何処で間違った?」

「……石田さま」

 お江は言葉を呑んだ。



話を戻す。

本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。三成も手柄をたてた。明智光秀が落ち武者になって遁走する途中、百姓たちの竹槍で刺されて死んだのは有名なエピソードである。

 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。光秀の妻・ひろ子も自害して果てた。かくして、天下の行方は”清洲会議”へともちこまれた。

 故・信長の居城・清洲城に家臣たちが集まっていた。天正十年六月のことである。

 織田家の跡目は誰にするか……。長男の信忠は本能寺の変のとき光秀に殺されている。残るは、次男・信雄、三男・信孝か?

 しかし、秀吉はここでも策をめぐらす。信忠の嫡男・三法師(わずかに三才)を後継者にし、自分がそのサポートをする、というのだ。幼い子供に政は無理、これは信長にかわって自分が天下に号令を発する、という意味なのである。

 秀吉は赤子の三法師を抱いて、にやりとした。

「謀ったな……秀吉…」前田利家は歯ぎしりした。しかし、まだ子供とはいえ、信忠の嫡男なら織田家の跡目としては申し分ない。しかし、柴田勝家は我慢がならなかった。

 ……サルめ! 草履とりから急に出世してのぼせあがっている。許せん! わしはあんなやつの下で働く気はもうとうないわ! 勝家は心の中で激怒した。

 秀吉は信長の妹・お市をも手籠めにしようとした。

お市は反発し、柴田勝家の元へはしった。天正十年(1582年)のことだ。彼女は勝家がまえから好きだったので、意気投合し、再婚した。

浅井長政との遺児・茶々、初、江も一緒にである。前田利家は勝家を「おやじさま」と慕って、懇篤な付き合いをしていた。そのため、秀吉よりも勝家側についた。 勝家は蓮華草をみながら、「又左衛門……わしは秀吉より弱いかのう」とボソリといった。

越前城でのことであった。勝家は空虚な落ち込んだ気分になっていた。

お市と信長の三男・信孝は秘密裏に会談をもった。要するに秀吉に対抗出来る唯一の実力者・柴田勝家と再婚しよう、というものであった。

お市は浅井三姉妹に「母は越前の柴田勝家殿に嫁ぐ」といった。

茶々と初は反発した。「嫌です! われらにとって父上は浅井長政ただひとりです!」聞く耳もない。一方、勇猛な合戦で「鬼柴田」と恐れられる柴田勝家は「お市の方様、姫様たちにおかれましては…ご機嫌うるわしゅうことで」と緊張しっぱなしだ。

 姫たちはますます反発する。

お市は「勝家殿。姫様などとへりくだることはありませぬ。わらわは勝家殿の妻、この子らは娘です。お市、茶々、初、江とお呼びくだされ」

 そうはいうがお市は信長の実の妹、茶々、初、は織田信長の姪である。

 お市と柴田勝家はやがて越前・北庄城で祝言をおこなった。

初や茶々や江はあまり馴染めない様子である。だが、ある事件がきっかけで柴田勝家とお市、娘たちは親密になる。ある日のこと、江は馬でひとり城外にでた。

しかし、夜になり嵐となっても帰ってこない。

 勝家らや家臣団は真夜中捜し歩いた。しかし、江はけろっとした顔で戻ってきた。勝家は江の頬を平手打ちにした。

茶々は「何をなさるのです!」という。

だが、勝家は江を連れていき厩舎につれてきた。「この馬廻の与六に謝れ、江! そなたが帰らなければ与六は首を刎ねられておったのだぞ! 謝らんか、江!」

 こうして江は謝り、「それにしても無事でよかったのう、江!」と勝家は江を抱擁した。「義父上…義父上!」皆は熱い涙を流した。こうして義父と娘・お市は急速に親密になっていく。

初と江は、柴田の権六になつくが、茶々はそれが出来ない。

「茶々もこちらへ来ぬか?」

「いえ……」

「そうか……」

 ――――ああ、ふたりの素直さがうらやましい……

 ―――――でも……勝家さまにあまえてしまったら、浅井の父上を裏切るみたいで……

 ―――――でも、わたし、……勝家さまに父上って言いたい……




だが、秀吉の魔の手は恐ろしい。秀吉はお市や柴田勝家に内緒で、京において数千人規模の「信長の葬儀」を行った。

娘たちに「戦はせぬ」とちかった柴田勝家だったが、もう我慢の限界だった。

 お市は浅井三姉妹に諭した。「柴田勝家殿は男、敵方にああまでされては戦しかない。しかし、そなたたちの義父、柴田勝家殿は秀吉のようなサルには負けぬ。男は女子と違うのじゃ。戦ってこそ男の道なのじゃ」

 そうまでいわれては反対もできない。浅井三姉妹はお守りを義父・柴田勝家に渡し、出陣を見守った。天正十一年春。まさか「負け戦」とは誰も思わない。

 そして、琵琶湖の近くでついに、柴田勝家と羽柴秀吉は激突する。世にいう牋ケ岳の合戦である。秀吉は動かぬなら攻めないと約束していながら、山中の前田勢に発砲した。

「…サルめ!」又兵衛がわめいた。「殿、ここは撤退を! わが軍の負けです!」

 利家は撤退した。秀吉はあくる日、単身、利家の居城に馬できた。

「又左衛門! 秀吉じゃ! 開門!」

 門があいた。誰も秀吉を殺さなかった。秀吉はまつのつくっていた味噌汁をのみ、「まつ殿の味噌汁はうまいがぁ」と笑顔になった。

 そして、秀吉は利家に「又左衛門! この世で親友はおぬしだけだ。どうかわしのほうへ寝返ってくれ。おらの軍は十万、勝家は二万……勝負はみえとるがぜよ」

「しかし…」利家はいった。「おやじさまを裏切れない」

羽柴秀吉と柴田勝家との賤ケ岳の戦いでは、加藤清正や福島正則や黒田長政ら『武闘派』が活躍し、“賤ケ岳七本槍”等ともてはやされたが、石田三成だって大活躍した。

三成は賤ケ岳に先回りして地元の百姓たちに銭を渡し、夜に照明用に松明を行軍の道に居並ばせあたかも夜の山脈に火の道ができたようだったという。

また、「腹が減っては戦が出来ぬ」とばかりに銭を渡して、行軍兵用の握り飯を付近の百姓たちにつくらせ、配らせた。

 これで秀吉軍が柴田軍に勝利できたのである。

この功績によって、石田三成は武器や食糧の調達を一挙に任されるようになった。戦での武功こそないも、官僚的に優秀だった。

秀吉は三成のどこを気にいったか?「石田は忠告する時には機嫌をうかがったりしない」(『太閤記』より)お茶々(淀君)や朝鮮戦争あたりから、石田三成は秀吉のご機嫌をうかがい、大名にほとんど認知症気味の太閤秀吉の命令を忠実に従い、無理難題を三成は大名たちもしくは利休のような茶人たちや商人に命令して忌み嫌われていく。

が、これは、歴史家はスケープゴートで、三成が『憎まれ役』を買って出た、という。最近の資料では秀吉だって信長のように虐殺も命令していることがわかっている。

秀吉が「血を見るのが嫌い」というのは殺さず調略……というより自分で刀で斬って血を浴びるのが嫌い、という意味でとらえるべきである。キリシタン虐殺や一揆勢力皆殺し、等秀吉も魔王だった。

*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

三成は一五八二年の『太閤検地』『刀狩り』等の政策実行のプランナー(計画者)でもある。今まで全国の田畑の領地は百姓たちの自己申告だったが、全国一律の基準をつくり、年貢をしっかりと取りたてるようにした。それから、農兵分離の為の『刀狩り』である(というより、秀吉は自分と同じような百姓上がりの人間が台頭してこないように反乱の根を摘んだのだ)。『太閤検地』によって秀吉は二百二十万石もの禄高をほこった。

*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。


 だが、結局、前田利家は秀吉についた。結果は正解だった。結果オーライだった。

 牋ケ岳の合戦でも秀吉は勝った。

勝家は「秀吉に降参もせぬ。城も渡さん。但し、お市と娘たちは城からだす」と秀吉軍からの使いの石田三成らに伝えた。

「わしは1年だが、美しい妻と可愛い娘たちをもてた。最高の日々であった。だが、もはやこれまでじゃ、お市、娘たちさらばじゃ!」勝家は場を去った。

そこにはお市と浅井三姉妹だけが残された。お市はしばらく眼をとじてから覚悟を決めた。

茶々と初は「小谷城と同じになるのですか?」という。

お市は「…同じではない。今度は、母は残る!」浅井三姉妹は驚いた。

「な、何故にございまするか?!」

「このまま城をでてもサルの側妻にされるのがオチ。生地獄ぞ」

浅井三姉妹とお市は号泣した。「私がサルより母上を守りまする!」とは江。

「死なせてはくれぬか?江」浅井三姉妹は「ならば私たちも冥土へお供いたしまする!」と泣きながらいう。

「ならぬ! 前にそちたちに申したであろう。女子の道は今只今を生きることじゃ!」

お市はそういい場を去った。勝家は炎上する越前・北ノ庄城の天守閣で、妻のお市と娘たちに逃げるようにいった。

しかし、お市は「冥途までお共いたします」と勝家とともに死ぬ覚悟だ、と伝えた。「わらわはサルのてごめにはなりたくありませぬ。お供します」

「市……娘たちは助けてくれようぞ。あの秀吉でも子供までは殺さぬからのう。市…いやお市さま。わしのようなむさ苦しい無骨ものの妻となって頂いただけでありがたいこと。お市さまのようなみめ麗しい方と夫婦となれただけで、この勝家…天下一の幸せ者……もうよいのです」

「勝家さま…いえ旦那さま、あの世で兄・信長や万福丸たちに会いましょうぞ」

そしてお市は愛娘たちに「お前たち…これからは戦のない世の中になるでしょう。しっかり生きなさい。それでこの世を私たちの分まで生きるのです」といい宥めた。

お江は「母上! われが死んだらいの一番に母上にまた会えまするか?」

「……おう! 会えるぞ」

「………母上!」

「………母上!」

 ――――――浅井の父上。ごめんなさい……

「父上! 勝家さまはこの茶々の父上でございます!」茶々は勝家にすがった。

「茶々」 

「この茶々も、父上や母上と一緒に死にまする!」

「馬鹿者」お市は茶々の頬をビンタした。

「茶々、そなたは妹たちを見捨てるのですか?」

「――――母上様」

落ち延びる。

三姉妹は号泣して炎上する城をみた。

 お市と権六は、ふたりは笑って自害した。娘たちは秀吉にひきとられていった。

「浅井の父上……柴田の父上……母上……兄上……わたしはあなた(秀吉)をけして許さない!」茶々は号泣しながら秀吉に告げた。

 だが、長女の茶々はのちに秀吉の側室・淀君となり秀頼を産み、次女・お初は京極家正室(光秀について信長を討とうとしたり、勝家について牋ケ岳で敗れたりした駄目殿だった。が、お初の内助の功で京極高次は出世した。”蛍大名”と蔑まれた。

お初は関ケ原で家康につけと夫に進言し、徳川家の娘を嫁にした才女だった)に、三女、お江はのちに家康の次の将軍・秀忠の正室となり第三代将軍・家光を産んだ。

勝家の辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎすす」である。

お市の辞世の句は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな」お市と勝家は死んだ。それは歴史の一ページになった。

そのあと秀吉は邁進し、馬鹿なことをやって死んでいく…しかし、勝家がいたらどうなっていただろうか? もはや誰の知るところでもない。

墓は福井県福井市の西光寺。菩提寺は福井県福井市の自性寺。滋賀県高島市などにある。そこを訪れるひとは多い。そこで悲劇の女性・お市の方は永遠の眠りについている。

このとき三成はマニュアルをつくり指令をだした。

 秀吉のいうところの「三成」とは「天の時」「地の利」「人の和」であるという。

 石田三成は人物に長けた男で、秀吉に石田・長束・前田・福島がいてサポートしているように家康には井伊・榊原・本多などの重臣がいて栄えていることを知っていた。

 同じように自分も側近・軍師が必要だ、と考えた。そこで三成は禄高四万石の時代に半分の二万石を与えて島左近を迎えた。島は関ケ原で家康軍を散々悩ませたが、歴史の通りの結果になり戦死した。三成のすぎたるものは島左近と佐和山城……という訳だ。

 それは天正十五年(1586年)一月の頃で、当時・智謀兼備といわれた島左近は浪人だった。しかし当時の三成の禄高は四万石、家臣に二万石与えれば三成には半分の二万石しか残らない。秀吉は「佐吉や、島に二万石与えればおみやあには二万石しか残らん。どうするのじゃ?」とさすがに驚いてきくと、三成は「いえ。拙者は今度手柄をたてまして家禄をあげてもらいますれば大丈夫にござりまする」という。

 これは石田三成の美談として語られているが、背景にあるのは成長思考である。まさにバブル期の日本の如く、未来は永遠に景気がいいという勘違いからきているということを見逃してはならない。

秀吉は島に三成への忠節を約束させ菊桐紋入りの羽織を与えた。「三成に過ぎたるものがふたつある。嶋の左近と佐和山の城」という。

嶋左近、通称「鬼左近」あまりの有力さに戦った敵が顔もみれなく殺されたという程の猛将。だが、戦だけでなく左近は年貢などの政治力・行政力もすごい。琵琶湖と松原内湖を縦断できるように「百聞橋」をつくり、その橋は昭和初期まで現存していた。

三成と嶋左近は領知・近江佐和山の百姓や商人を大事にして北近江を発展させる。「冷酷で冷血漢・三成」というイメージは江戸時代・徳川泰平の世になり植えつけられたプロパガンダである。

三成の旗印は「大一大万大吉」つまり「すべてのひとが幸せになれる社会」である。

 また三成は上杉景勝の秀吉臣従の斡旋もしている。これは、結局は秀吉が接待するのだが、これも見逃せない三成の行政手腕である。

三成が兼続と再会したのはこのころである。三成は上杉の家臣たちを論破してゆく。兼続は「三成殿、人間性だけはわすれないでくれ、若いころのように…」と庭でいう。

三成は「殿下がわしがおね様ににぎり飯をもって泣いたことを殿下がなさったのであろう?殿下は「三成にも人間らしいところがある」といいたいのであろうが、余計なお世話だ」「だが、同僚の福島様や加藤清正殿らに嫌われているらしいが?」

「余計なお世話だ。なんともおもってない。わしの夢は天下の戦乱が収まること…すなわち殿下の命令で天下をおさめることだ」

「だが、それがむりなのだろう?」山城守兼続は痛いところを突く。

「…その通りだ。御屋形いや太閤殿下は誰も補佐できない。わし以外は…」

「ならばどうだ?」直江はいう。「五大老・五奉行制度だ」

「何だ、それは?」

「うむ。まずは秀吉公を補佐する大名、これが五大老…このなかに目の上のたんこぶ徳川家康も入れるのだ」

「…で他は?」

「まあ、前田利家公、上杉景勝公、毛利輝元公、宇喜多秀家公、小早川隆景公…」

「それでは六人ではないか?」

「徳川家康は大老として首に豊臣の鈴をつける」

「鈴か」三成はにやりとした。「で?お前も補佐役をしてくれるか?」

 山城守兼続は「いや、わしは上杉公の補佐だ。五奉行はお主・石田三成と長束正家、増田長盛、前田玄以、浅野長政だ」

「ほう、お主は頭がいいのう。亡き上杉謙信公の稚児(ホモの相手)だったとは思えぬ」

 山城守兼続は苦笑した。「謙信公は男色(ホモ)ではなかったし、わしも稚児(ホモの相手)だったことはない。公は義のひとであった」

「…そうか。ゆるせ」 

 石田三成は無礼をわびた。



 天下統一作戦は秀吉の命令で始まった。

 秀吉は牙をむきだしにして、各個撃破の戦を開始する。天正十二年三月、紀州に出兵して、根来寺・雑賀衆を制圧した。六月には四国に出兵し、長曽我部を屈服させ、引き続き、北陸に出兵し、佐々成政を降ろす。秀吉は抵抗勢力の抹殺を行った。

 上杉勢は戦わないままに秀吉に服従した。直江兼続による献策であった。秀吉の使い、前田利家は景勝とあい、「景勝…なぜしゃべらなんだ?」ときく。

 兼続が割ってはいった。

「上杉のものはみな、無口なのです」

 ……まずは秀吉のお手並み拝見だ。兼続は思った。

 景勝と兼続は秀吉と謁見し、景勝は会津120万石に転封され、兼続は朝廷より正式に『山城守』を与えられた。兼続は米沢に移ることになる。

 直江兼続は屯田兵や河の石垣修理やうこぎや紅花、青芋などを賞賛したという。それが          

のちに上杉鷹山の藩政改革に繋がる。

 秀吉は兼続の才能を見抜き「おぬしは天の時、地の利、人の和…つまり天地人をすべてもっておる! よかことじゃで……じゃが、わしを敵にまわすなよ!」という。

 兼続は答えず、秀吉の抜いた刀を前に、平伏するのみである。

「銭は幾らでもやる! この秀吉に仕えよ!」

 兼続は平伏して「この兼続、幾万の銭を積まれようとも…主君は上杉弾正小弼景勝公のみです!」秀吉は肝をつぶした。何というやつじゃ! 天下人のわしの誘いを断りおった! そして、秀吉は大笑いした。確かにこやつ……諸葛孔明の如き男じゃ!

 天守閣に登った秀吉と石田佐吉(三成)は話した。

「しかし……あやつ命をとられても仕官するのは…上杉景勝のみじゃあで答えて…あやつは越後の雪深き山奥においておくのは惜しいのう」

 三成は「だからご無駄だと申しあげましたでしょう? あのものは私の友……あの男はまさに臥竜なのです。真白い鴎は世俗に染まりませぬ」とにやりという。

「天下の知恵者……三成がそうまでいうとはいうなら、あやつは天下の器じゃのう」

 ふたりは笑った。


 秀吉は10万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴丸。男の子だった。

 秀吉は大変な喜びようで、妻のおね(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。

また、お江は秀吉の命令で佐治一成(さじ・かずなり)という武将と政略結婚をさせられた。だが、秀吉は佐治家に用がなくなるとお江と佐治一成を離縁する。そして秀吉はお江と親せきの豊臣秀勝とを夫婦結婚させた。だが、この秀勝は朝鮮出兵のごたごたで戦死した。

お江の三度目の結婚相手が徳川家康の息子・二代将軍の秀忠であった。

お江は三代将軍・竹千代(のちの家光)と国松(秀長)を産む。そうとうの姫が続いてからの徳川待望の男の誕生だった。長女は秀頼の正室の千姫である。

 そして、秀吉は十二万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴松。男の子だった。

 秀吉は大変な喜びようで、妻の寧々(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。

 あとは関東の北条と奥州の伊達だけが敵である。

 そんなとき、伊達政宗は六月になって”秀吉軍には勝てない”と悟り、白無垢で秀吉の元に現れた。まだ政宗は若かったが、判断は正しかった。トゥ レート、ではあったが、判断は正しかった。あとは関東の北条だけが敵である。

 秀吉は三十万の兵を率いて関東にむかった。

「寒いのう」秀吉は小田原城の近くの城でいった。家康は「そうですな、閣下」と下手にでた。まさに狸である。

「小田原城内の兵糧にも限りがあろう。兵糧攻めじゃ」秀吉はわらった。

 三月十九日、開戦。四月六日には小田原城を包囲し、秀吉は”兵糧攻め”を開始した。船に敵の子女を乗せて、小田原城にたてこもる北条氏たちにみせた。北条氏側は上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めたときのことを思いだしていた。上杉は一ケ月で兵糧が尽き、撤退した。秀吉もそうなるに違いない。北条氏政は思った。

しかし、秀吉の兵糧は尽きない。加藤や久鬼の水軍が海上から兵糧をどんどん運んでくる。二十万石(二十五万人の兵を一ケ月もたせる)が次々と船でやってくる。

「わははは」秀吉は陣でわらった。「日本中の軍勢を敵にまわしてはさすがの北条も勝ち目なしじゃ!」

 秀吉はまた奇策を考える。一夜城である。六月二十八日、小田原城の近くの石岡山に一夜城をつくった。山の木に隠れてつくっていた城を、木を伐採して北条氏たちにみせたのだ。忽然と、城が現れ、北条氏たちはこのとき唖然とし、格闘を諦めようと決意した。もともと勝ち目はない。日本中の軍勢を敵にまわしているのだ。

 天正十八年七月五日、北条氏政は切腹し、息子の氏直は切腹をまぬがれた。こうして、北条氏は滅亡した。

「家康殿、此度は小田原攻めに協力かたじけない。お礼として今の領地のかわりに旧北条氏の領地だった関東を与えよう。さぁ、遠慮はいらぬぞ」

 秀吉はにやりとした。

 家康はしぶしぶ受け入れた。今、関東は都会ではあるが、この頃は、草が生い茂る一面の湿地帯で、”田舎”であった。家康はそれを知りながらも受け入れた。家康は関東を江戸と称して開拓にあたった。大都会・江戸(東京)をつくるのに邁進した。

「ふん、家康を関東の田舎におっぱらってやったぞ。京都と大阪はがっちり守っていかねばのう」秀吉は高笑いをした。これで………天下を獲れる。そう思うと、胸がうち震えた。 天下人じゃ! 天下人じゃ!  秀吉は興奮した。


 豊臣秀吉の朝鮮侵攻ならびに唐入り(明への侵略)をお江に知らされたのは天下人・秀吉のその口からであった。

 千利休との茶室で、秀吉の口から聞いたのだ。というより、またしても奸臣・石田三成が相席して「関白殿下は朝鮮、果ては明(現在の中国)を支配するのが夢にございます」

 と、言ったのだ。お江は激昴して「黙られよ、三成殿!われは関白殿下にもうしあげておるのだ!唐入り、明国制覇等………正気の沙汰ではござりません。もう少しで戦乱の世から天下泰平の戦なき世が出来るのですよ」

 お江は土下座した。「どうか!どうか、御考え直しを!太閤殿下!」「お江……貴様、この太閤のわしの夢が正気の沙汰じゃないじゃと?!」

 また三成が「太閤殿下の夢を馬鹿になさるのか?」等と口をはさむ。

「だまりおれ!……三成殿!!!」

 この頃、加藤清正や黒田長政、福島正則らが「茶々さまは所詮は小娘……裏で糸を引いて豊臣政権の権勢を握って操っているのは奸臣・石田治部!あやつだけは我慢がならぬ!」

 と、口々に言い合っていた。石田三成は本当に歴史ドラマのように奸臣で、茶々や秀吉を騙したのか?それは徳川の世になれば石田三成=悪人、と描かれたのは多分にあるだろう。それにしてもやややり過ぎ。

「耳が痛いことをいってくれる人物がいるうちが花」という利休が自害させられたのも、石田治部の謀略で、ある。

 茶々に「豊臣家に一泡吹かせる為に秀吉さまの御子を産みなされ。関白殿下は茶々さま(のちの淀君)にそれはもう夢中、あらゆる贈り物も金銀も茶々さま専用のお城も築城します」

「されど、秀吉は猿のように醜く、父上や母上の仇!そんな猿に抱かれよと?」

「女子は子供を産めば寵愛されます。なあに、殿下が”種無し”で”子供をつくれぬ”でも、父親がだれかなど誰にもわかりませぬ。子供をつくり、「殿下の子をわらわは産みたい」と甘く囁けば殿下はいちころでござる」

 さすがにその三成の危険性をお江は察した。

 秀吉は馬鹿みたいに小娘の茶々にいれあげ、正室の寧々(北政所)をそっちのけで、茶々に贈り物や贅沢をさせる。

秀吉は茶々のちの淀君に「わしの側室になってちょ」と頼んで抱擁した。

茶々は「しかし、殿下にはねね(寧々)さまが…」

「あれは正室だが戦友みたいなものじゃで。愛情はもうない。茶々さま、茶々さまにはなくなるとき「茶々は幸せな人生でした」と言って死ねるように幸せにするでい、わしの側室になってちょ!頼むでえ!」

「………わかりました。殿下。」

 さすがの茶々も根負けした。こうして茶々のちの淀君は秀吉の寵愛の側室となる。

 そして秀吉の子供を二度も妊娠するのだが、果たして本当に秀吉の子供か?怪しいものだ。いままでどんな側室も一度も妊娠・出産などなかったのに。

 豊前で秀吉の命令で、旧豊前領主・宇都宮氏らを泣く泣く黒田家は謀殺したが、千利休の茶会で、徳川家康に会い、秀吉が「次の天下人は?」と御伽衆に聞き、「家康殿でしょう?」「いや、前田利家さま?」「上杉もあなどれませぬなあ」との答えに「わしのつぎの天下人は黒田官兵衛じゃ!あやつはわしが何日も考える軍略を瞬時に考え、何百万の大軍を率いる」

 ときき、衝撃を受けた。無論、官兵衛には謀反も豊臣征伐の野心もない。それをするのは狸・家康である。

 だが、秀吉に警戒され、茶会で「わしの明国制覇の夢を馬鹿にするのか?!官兵衛!」と罵倒され、千利休の(石田三成の謀略で)自害を知ると、家督を息子の黒田長政に譲り、隠居した。

 秀吉の正室のおねから「黒田殿だけが頼りであったのに……。秀吉はかわりました。天下人になるとこうも人間は変わるとは。その上、朝鮮や明国まで攻めようとは…あの男は阿呆です!」

 といわれても、もう隠居すると決めていた。現役復帰を固辞し、黒田家を豊臣から徳川側に静かに動かしたのだ。

 軍師・官兵衛は「朝鮮戦争」「明国との合戦」の敗北、無意味さを予見していたのである。

 茶々は淀君と名前を変え、おねに挨拶もしない程の慇懃無礼な態度と企みを秘めた微笑をするのだった。

 だが、軍師以外、誰もその企みを知らなかった。

 石田三成・淀君等の近江衆こそ豊臣の絶望の癌、で、あった。




          唐入り



 大和と河内、紀州の一部をふくめ百万石の大名と小一郎秀長がなると、神社仏閣からいろいろ文句がではじめた。しかし、一年もたたないうちに抗議がなくなった。秀吉は不思議に思い「小一郎、大和はどうかな?」と尋ねると「うるさくてこまっている」という。「具体的にはどうしておるのじゃ?」ときくと「金でござるよ」といったという。

 これは今でこそ珍しくないが、領土の代わりに銭を渡して納得させた訳だ。「新しい領土は与えられないけれども、そのかわり銭をやる」……ということだ。米や土地ではなく、銭、これは新しいアイデアだったに違いない。

 しかし、そんな小一郎秀長は死んでしまった。病気で早死にしたのだ。

 秀吉はそんな弟の亡骸にふっして「小一郎! おまえがいなければ豊臣家はどうなるのじゃ?」と泣いたという。小一郎は秀吉のために銭をたんまりと残した。矢銭である。

 しかし、秀吉は暴走していく。”良き弟”を亡くしたために……

「家康や大名たちをしたがわせるためには、豊臣の戦力を拡大することだ。それには矢銭(軍資金)をしっかりためこむことだ。まず農民からきびしく年貢米を取り立てよう」

 太閤となった秀吉は、一五八二年から太閤検地で農民から厳しく年貢を取り立てた。次に、農村に住んでいた武士を城下町に集合させ、身分をはっきりとわけた。

「次は、農民が一揆をおこせないように武器をとりあげることじゃ」秀吉はいった。「一向一揆や土一揆にはまいったからのう。信長公も刀狩をやられたがこの秀吉はもっと大掛かりな刀狩をやるぞ!」

 京都や奈良の大仏よりもでっかい大仏をつくる、そんな理由で秀吉は刀狩を行った。農民や僧侶から刀をとり、反乱をおこせなくした。

「年貢にはかぎりがある。商業をおこしてお金をがっぽりもうけるのじゃ。信長公のまねをして、市場の税や座という組合をなくそう! いままでは大名の領地によって違った銭が流通しているが、全国に通用する銭をつくろうぞ!」

 秀吉は経済政策をうった。大名用の天正菱大判をつくった。商工業がさかんになった。秀吉は貿易は自由にしなかった。主君よりも神をとうとぶキリスト教を弾圧した。キリスト教を禁止し、貿易だけできるようにしたのだ。

 そんなおり、息子の鶴松が死んだ。まだ赤子だった。

 秀吉はショックをうけた。何ともいわなかった。当然だろう。世界の終わりがきたときになにがいえるだろう。全身の血管の血が氷になり、心臓が石のようにずしっと垂れ下がったような気分だった。

 北政所(寧々)は眉をひそめたが、また秀吉のほうを見た。秀吉はその場で凍りつき、一瞬目をとじた。秀吉は急に「そうじゃ、唐入りじゃ! 唐入りじゃ! 鶴丸は死んで唐入りをわしに命じたのじゃ」とぶつぶついいはじめた。もう全国を平定して、大名たちに与える領地はない。開拓されていない東北北部と蝦夷(北海道)くらいだ。そうだ! 明国だ。朝鮮を平定し、明まで攻め入り大陸の領地をとるのだ!

 北政所はなぐられたかのようにすくみあがり、唇をきゅっと結び、秀吉が四方八方から受けているであろう圧力について考えた。秀吉は圧力釜に長いこと入りすぎていたためすべてのものがこぼれて、とんでもないことになっている。もう誰も秀吉をとめられなかった。「信長公以上の天下人となるのだ」秀吉は念仏のようにいった。

 この頃、兼続は石田左吉(三成)と親交を結ぶ。それが、関ケ原の密約へとなるのだ。

 家康と秀吉は会談した。

 家康は五十歳になり、秀吉は六十代であった。家康は朝鮮・中国出兵に反対しなかった。というより、これで豊臣家の軍費がかさみ、徳川方有利となる。朝鮮や明国など屈服できる訳はない。これで、勝てる……家康は、顔はポーカー・フェイスだったが内心しめしめと思ったことだろう。バカなことを……

 兼続も朝鮮出兵は失敗するとみていた。景勝にも助言する。上杉は対岸の火事をみることになる。すべては兼続の知恵であった。


 

 秀吉と家康は京を発して九州の名護屋城へ入った。

 秀吉の朝鮮戦争はバカげたことであった。それ自体が、あまり意味があるとは思えないし、秀吉の情報不足は大変なものだった。秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心についてまったく情報をもっていなかったのだ。家康は腹の底でしめしめと笑った。

 加藤清正と小西行長が先発隊としていき、文禄元年(一五九二年)六月から十一月ぐらいまでの最初の六ケ月は実にうまくいき、京城、平譲を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はずっといけると思った。しかし、この六ケ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。    で、十二月、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲どころか大砲まで装備していたそうで、日本軍はたちまち負けてしまったのだという。

 秀吉は、朝鮮を属国にして明国を攻める足場にしたいと考えていた。つまり、明と朝鮮との関係に関しても無知だったのだ。

 小西行長と宗義智はそれを知っていたため必死にとめようとしたのだ。家康も知っていた。朝鮮や大陸での戦がいかに難しいか、を。本来なら二人の王子を捕虜にした時点で、その王子たちを立てて傀儡政権をつくって内部分裂をおこさせるのが普通であろう。しかし、秀吉はそれさえしなかった。若き日、あれだけ謀略の限りで勝利していた秀吉ではあったが、晩年はすっかりボケたようだ。

 やはり”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という西洋の格言通りなのである。天下人となった秀吉は頭がまわらなくなった。

「なんたることじゃ!」日本軍不利の報に、秀吉は名護屋城の前線基地でジダンダをふんだ。「太閤殿下、そう焦らずとも……まだ先がござりまする」家康はなだめた。

(もっと苦しめ、秀吉のもっている銭がなくなるまで……戦させよう)

 家康は自分の謀略に心の底でにやりとした。

 しかし、狸ぶりも見せ「私を朝鮮攻めの前線へ!」と真剣に秀吉にいった。ふくみ笑いを隠し通して。石田三成も黙ってはいない。「いや! おやじさま、この三成を前線へ!」「よくぞ申した!」秀吉は感涙した。

 すっかり老いぼれた大政所(なか)は、名護屋城を訪ねてきた。なかは秀吉の顔をみると飛びかかり、「これ! 秀吉!」と怒鳴った。家臣たちは唖然とした。

「なんじゃい? おっかあ」

 なかは「朝鮮のひとがおみゃあになにをした?! 朝鮮や明国を攻めるなどと……このバチ当たりめ!」と怒鳴った。

 秀吉はうんざり気味に「おっかあには関係ねぇごとじゃで」と首をふった。

「おみゃあはこのかあちゃんを魔王のかあちゃんにしたいんか?! 朝鮮を攻める、明国を攻める、何にもしとらんものたちを殺すのは魔王のすることじゃ!」

(魔王とは…)

 家康は思わず笑いそうになったが、必死に堪えた。

 秀吉は逃げた。なかはそれを追った。すると座敷には家康と前田利家しかいなくなった。「魔王だそうですな」家康はにやりとした。利家は笑わなかった。

黒田官兵衛は『秀吉の九州平定』のとき、まず九州の一領主を滅ぼし、休戦して全九州の城持ち大名たちに密書を送り、「秀吉さまの軍のこわさがわかったであろう?今、秀吉軍に御味方すれば所領地安堵!」とやった。信長のように武力に頼らず知略をつかうことで、九州の城持ち大名たちは雪崩をうって秀吉傘下となる。官兵衛の知略により、秀吉軍はほぼ戦わずして九州・四国で勝つのである。

だが、秀吉は“備中高松城水攻め”の際に、信長の死を知った黒田官兵衛が「殿、御武運が開けましたな」とにやりと言ったのを忘れていなかった。その言葉を聞いて以来、秀吉は黒田官兵衛を信じなくなった。その証拠が、歴史家たちにいわせると官兵衛の豊前16万石にたいしての三成の近江佐和山19万石の差なのだ、という。

三成は歴史書では、この後、どんどんあらぬこともあることも黒田官兵衛の「悪口」を秀吉に告げ口していたのだ、とも。

秀吉は朝鮮・明国(中国)への野望も見せた。名護屋城(城跡・佐賀県唐津市)を黒田につくらせた。名護屋城は当時、大阪城の次に大きな城だったという。天正20(1592)年文禄の役では官兵衛や三成が見送る中、およそ十六万もの兵が海を渡ったという。

秀吉軍は最初の戦だけは破竹の勢いだった。釜山(プサン)から、ハンソン(ソウル)、平壌(ピョンヤン)まで進撃した。だが、朝鮮の王を逃がしたのは痛かった。翌年の戦では朝鮮水軍からの反撃に民衆の武装蜂起、兵糧攻め、飢え、寒さ、熱病などの流行病で、日本軍の士気は下がる一方だった。さすがに「このままでは日本国が死ぬ」とばかりに、三成と共に朝鮮に渡っていた官兵衛は、名護屋城の秀吉に「和平工作」をもちかける。

 だが、秀吉の要求は支離滅裂だった。明国の王女を豊臣に嫁がせ、朝鮮の王子と大臣を人質に日本に送れ……?黒田官兵衛も小西行長も総大将代理の宇喜多秀家も唖然となった。

事実上日本秀吉軍は敗北しているのに……。明国はそれでも「要求は受け入れられないが秀吉公が“日本の王”とは認めるので和平を」と持ちかける。戦前の日本では、秀吉は「日本の王は天皇陛下なのに天皇陛下を馬鹿にしたので秀吉が怒った」等と学校で教わったらしい。だが、全然違う。秀吉にとって天皇等『帽子飾り』に過ぎない。

秀吉は自分の主張が断られたので激怒したのだ。で、また戦争(慶長の役・慶長2(1597)年)が起きたが、その途中で秀吉が死んでやっと日本軍は朝鮮から手をひくことになる。

三成は狂った暴君の秀吉の命令を大名たちに命令して憎まれまくり、秀吉の死後、関ヶ原で敗北、逃亡中に捕縛され死刑になった。一方の黒田官兵衛は出家して黒田如水と号して徳川方についた。だが、福岡県の博多の祭りの山車には石田三成と黒田官兵衛の姿がある。『太閤町割り』としてふたりが福岡の町を復興させたエピソードからであるという。









          母の死とやや




  大政所(なか)が死んだ。北政所(寧々)に見守られての死だった。

 秀吉は名護屋城であせっていた。うまいこと朝鮮戦争がいかない。そこに文が届く。またしても淀(茶々)が身籠もったというのだ。これをきいて、関白となっていた秀次は狂い、家臣や女たちを次々殺した。殺生関白とよばれ、この頭の悪いのぼせあがりは秀吉の命令によって切腹させられる。秀次は泣きながら切腹した。

 朝鮮の使者がきて、両国は和平した。文禄六年(一五九八年)お拾い(のちの秀頼)が産まれた。秀吉にとってたったひとりの世継ぎである。秀吉は小躍りしてうれしがった。「でかしたぞ! 淀!」秀吉はひとりで叫んだ。

 明国からの使者がきた。「豊臣秀吉公を日本国の王とみとめる」と宣言した。

 当然だろう。いや、わしはもうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか!

「ふざけるな! わしをなめるな!」秀吉は怒った。

 戦前の日本では、これは秀吉が”天皇が日本国の王なのにそれを明国が認めなかったこと”に腹を立てた……などと教えていたらしい。が、それはちがう。秀吉にとって天皇など”帽子飾り”にすぎない。もうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか、と思って激怒しただけだ。それで、和睦はナシとなり、家康の思惑通り、秀吉は暴走していく。出陣。秀吉は大陸に十二万の兵をおくった。

 そんなおり、秀吉は春、”お花見会”を開いた。秀吉は家臣や大名たちとひさしぶりのなごやかな日を過ごした。桜は満開で、どこまでもしんと綺麗であった。

 秀吉は家康とふたりきりになったとき、いった。

「わしが死んだら朝鮮から手をひいて、秀頼を天下人に奉り上げてくだされ」

 家康は「わかりもうした」と下手にでた。秀吉が死ぬのは時間の問題だった。家康は心の底でふくみ笑いをしていたに違いない。

 だが、どこまでも桜はきれいであった。



          夢のまた夢




 秀吉は伏見城で病に倒れた。

 秀吉は空虚な落ち込んだ気分だった。朝鮮のことはあるが、世継ぎはできた。気分がよくていいはずなのに、病による熱と痛みがひどくかれを憂欝にさせていた。秀吉の死はまもなくだった。家康たちは大広間で会議中だった。石田三成らと長束、小西が激突しようと口ゲンカをしていた。家康は「よさぬか!」と抗議した。自分の武装した兵士たちにより回りを囲み「騒ぐでない!」といった。冷酷な声だった。家康の目は危険な輝きをもっていた。「ここより誰も一歩たりとも出てはならん!」

 そして、慶長三年(一五九八年)八月十八日、秀吉は「秀頼を頼む…秀頼を頼む…」と苦しい息のままいい、涙を流しながら息をひきとった。前田利家は涙を流した。が、家康は悲しげな演技をするだけだった。


「徳川だの豊臣だのといってばかりでは天下は治められない。今の豊臣には誰もついてはこない。豊臣恩顧だの世迷い言じゃ。現に豊臣恩顧の大名衆はすべて徳川方。そのような豊臣にしてしまった。されど豊臣は百万石から六十五万石になっても一大名でも豊臣が残るならよいではありませんか?滅ぶよりマシです」

高台院(寧々)はいうが、秀頼や淀君は反発した。

「自分には子供がいないからと!あなたさまをこれ限り豊臣のひとだとは思いません!」

「この秀頼、豊臣秀吉の御曹司として徳川と戦いまする!」

……確かに、例え一大名になっても……とは子供がいないからかも知れぬ。

高台院の停戦工作は失敗した。

高台院は淀君と秀頼が籠城した大坂城が炎上している炎を遠くからみる。

涙を流し合掌し黙祷した。真夜中なのに煌煌と明るい炎の明かり……

「お前様。許して下され。私の力がおよばずとうとう豊臣がこんなことに……」

すると秀吉の亡霊が言った。

「おかか!これでええではないがじゃでえ。豊臣は一代でも役を果たした。それでええ。天下を徳川に渡した。おかかの役目もおわったのじゃ。おかか、ごくろうじゃった!」

「お前様………。」

「わしのおかかになり苦労させたのう」

「いいえ。……わたしはお前様のおかかになったこと後悔はありません。またお前様の女房になりとうございまする。できれば戦のない世で……」

「はははは。まっておるぞ、おかか」

亡霊は消えた。

「…お前様。?」

高台院(寧々)は再び涙を流し合掌した。「お前さま。……豊臣はお前様と私だけのものでした。」

高台院(寧々)は再び合掌して涙し、やがて、その場を歩き去った。

豊臣家の滅亡……そして永遠の豊臣…。すべては夢の中。夢の又夢。

こうして秀吉と寧々の物語は、おわった。


 ……露といで、露と消えにしわが身かな、なにわの夢も夢のまた夢……


 こうして、波乱の風雲児・豊臣秀吉は死んだ。

 享年・六十三歳。秀頼がわずか六歳のことで、あった。


                      

         天下人・徳川家康とお江


 秀吉が死んだあと、五大老の筆頭で二百五十万石の巨大大名である家康は、秀吉が豊臣家を守るために決めておいた掟をやぶり、何事もひとりで決めていた。

 当然、豊臣家恩顧の大名たちに不満が生まれていた。

 しかし、時代はもう徳川だ、とするどい見方をする大名も多かった。

 家康は大阪城に入って、秀吉の子・秀頼とあった。守り役は前田利家である。前田利家は加賀百万石の大名で、秀吉の無二の親友でもあった。

「わしが秀頼さま、ひいては豊臣家を守る」前田利家そういって憚らなかった。

 しかし、そんな利家も病死した。

 家康にとっては煩いやつがいなくなって、ラッキーに思っただろう。

「このままでは豊臣家は危ない。家康さえいなくなれば…」

 石田三成は家康の暗殺を企てた。が、失敗した。慶長九年九月、秀吉の葬儀が行われた。これを機に、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだした。

 だが、それに気付いたのか、石田三成は夜陰に乗じて船で逃げていた。

 三成は複雑な心境だったに違いない。秀吉の生きているうちは我が物顔でなんでもやってきたのに、秀吉が死ねば、自分は暗殺の対象にまでなってしまう。

 かれはリターン・マッチを誓った。「豊臣家に恩のある大名を集めて、家康と一戦交える!」とにかく、かれはそのことで頭がいっぱいだった。

 石田三成の政治目標は、太閤の死で先行きが不安となった豊臣政権の護待と安泰、発展を計ることであったという。そのためには太閤の政権を破壊する危険のある家康を殺すことだった。家康さえ殺せば、諸大名はなびく。幼主・秀頼をトップに、三成が宰相となって天下に号令する。戦略としては正しかった。近江佐波山二〇万石の下級大名の三成が、上杉や毛利、島津という大大名を美濃の山奥・関ケ原まで出兵させるのに成功したからだ。 上杉らは西側が勝つと思ったから出兵したのだ。結局は負けたが、石田三成の企てだけは正しかった。まず大義名分を掲げ、有力なスポンサーを確保し、有名な大物を旗頭にすえる……まさに企てとしては正確である。

 しかし、しょせん石田三成など近江佐波山二〇万石の下級大名に過ぎない。家康のような知謀や軍事力がない。だから負けたのだ。

 さて、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだして、それに気付き逃げた三成は、なぜか家康のところへ助けを求めにきた。なぜだろう? よく分からない。

「三成殿、腹は空いておらぬか?」家康は上座で、石田三成を労った。

「いいえ」三成は続けた。「ひとつおききしたいことがござる」

「なにかのう?」

「家康殿は……豊臣家を何とこころえるのか?」

「……三成殿」家康はかれを諭した。「何事もせいてはことをしそんじまするぞ。三成殿、まずは頭を冷やし、佐波山に帰参してそれから考えてはいかがか?」

 石田三成は何もいわなかった。只、無言のまま下唇を噛むのだった。





         秀頼と淀




 九月九日、家康は大阪城に入城した。

「よくまいられた、家康殿」

 幼少の秀頼とともに上座にすわった淀殿は笑った。淀殿(茶々)は秀吉の側室として秀頼を産んで権威をもっていた。元々、彼女の父は信長にやぶれた北近江の浅井長政で、母は信長の妹・お市の方である。牋ケ岳の戦いで義父・柴田勝家と母・お市が自害して、はや数十年が経っていた。淀殿とて、目尻の皺までは隠せない。

 しかし家康は、淀殿の端正な美顔をながめ、そして男心をそそらずにはおけない愛らしい豊満な身体をながめた。なぜこれほどの美女が秀吉なんぞに……。家康はもう六十代だったが、絶倫だった。

 この淀殿もてごめにしたい……家康は彼女との夜のことを考えた。

 しかし、口では次のようにいった。

「世の中は物騒であります。しかし、ご安心くだされ。この家康、この大阪城にあって秀頼さまをお守り申す」

「よくぞ、よくぞ申された、家康殿!」淀殿は感激した。

 家康の演技を見抜けなかったのである。


 近江・佐波山城では石田三成の妻・お袖が「殿……家康と戦って下され!」とかれにせまっているところだった。三成は決心した。

「わが命、豊臣家に捧げようぞ! あのにっくき家康を討つ!」

 太閤亡きあとの豊臣家は内ゲバだらけだった。石田三成たちと加藤、福島、浅野らの抗争は激化していた。家康が逃げ込んできた石田三成を殺さなかったのも、かれの策略を読んだからだ。もし三成を殺せば、豊臣家の内ゲバはピタッとおさまってしまう。

 三成だけが死んでも、増田、長束、前田玄以、大谷吉継、小西行長などの官僚は生き残ってしまう。できるだけ内ゲバを長引かせ、崩壊に導く。そのためにあえてリスクを覚悟で、家康は石田三成を野に放ったのである。

 まことに狸としかいいようがない。


 徳川家康から謀反の疑いをかけられた上杉家からは、兼続が家康の元に書状をしたためた。いわゆる直江状である。

 家康は問うた。「景勝殿の治政が謀反の様に見える。景勝殿に上洛して頂きたい」

 兼続は「上杉家は一昨年、太閤秀吉殿下の御命令で国替えしたばかりでござる。国替え直後に上洛し、先程国に戻れた矢先すぐに上洛しろと言われるが、それではいつ我が国が国の治政を進める事が出来ますでしょうか? 景勝公が逆心などといわれるのは理解しがたい」と書状(直江状)で答えた。

 家康は怒りをおさえならも「近頃、橋を架けたり、道を造ったりしているそうだが…?」「道を造るのは国の行き来をよくするためであり、石垣・城の修築をするのは当然の事」「前田家が謀反しない証しとして、人質を送ってこられた。景勝殿も考慮してみてはいかがか?」

「それは家康殿の御威光でございましょう。上杉家は前田家とは違いますぞ。

 名門・上杉家は潔い覚悟をもって徳川のご軍勢をお引き受け致そう!」

 兼続はいいきった。





         関ケ原合戦




          

「三成め、会津(福島県)の上杉景勝と手を組んだらしい」

 家康は伏見城の上座で、いった。それにたいして家臣の鳥居元忠が「それで上杉が戦の準備をして、挑戦状をよこしたのですな」と頷いた。

 上杉景勝は上杉謙信の甥(謙信の姉の子、謙信は結婚もせず子ももうけようとはしなかった)で、越後(新潟県)より領地を会津に転封されていた。

「上杉との戦いに出陣する前にこの伏見城によったのは、じつはその方に話しておきたいことがあったからじゃ」

「ははっ」元忠は平伏した。

「わしが関東へ向かって出陣すれば三成は秀頼の名において、この伏見城を攻めるであろう」

「そうなればわが徳川は正々堂々と豊臣と戦える名目ができまするな」

「しかし……主力を率いての今度の出陣だ。この城にはいくらも兵は残せぬのだ」

 元忠は頷いた。強くいった。「ご心配にはおよびません。この鳥居元忠、徳川家のためなら堂々と戦ってごらんにいれます!」

「よくもうした!」家康は感激で、目がしらに涙がうっすらうかんだ。

 徳川家康に軍による上杉征伐は慶長五年(一六〇〇年)四月におこなわれた。

 こうして、家康軍は伏見城にわずかな兵だけ残し、会津に向けて出陣した。しかし、家康は軍をゆっくりゆっくりすすませ、なかなか上杉を攻撃しようとはしなかった。

「殿、上杉を早く討ちましょう!」家臣が催促した。

「まて、せいてはことをしそんじる」

 家康はどこまでも冷静だった。

 そこに早馬の伝令が届く。

「殿、三成は四万の軍勢で伏見城を攻め落としました」

「三成め、やりおったか!」

「元忠殿はよく戦い、自害して果てました」

「元忠…が」家康は暗くいった。

 家臣のものが「すぐに引き返し、豊臣の軍を打ち破りましょう!」といった。すると家康は右手をあげて掌で制し、「この中には秀吉公の恩を受けた武将もおられよう。その大名の方は大阪へ帰って、三成に味方してもこの家康決してうらみはせぬ」

 陣の一同はしんとなった。

「この福島正則、秀吉公の恩を受けたとはいえ、三成ごときめの味方などできません」

 正則がいうと、続けて鎧姿の大名たちは「われらに指図しようなどかたはら痛いわ」といった。「この黒田長政、あんなやつに天下をとられては腹の虫がおさまらん」

 家康は意を決した。

 そして「元忠、おぬしの死を無駄にはせぬぞ。……よし! 出陣じゃ! 西方にむけて出陣! 三成の首をとるぞ!」と全軍に激を飛ばした。

 こうして、西へむかって進む家康軍(東軍)は、福島正則を先頭とて、以下、黒田長政、細川忠興、池田輝政など総勢十万五千であった。

 家康の政治目標は天下統一であった。そのため一六〇〇年になると、石田三成たち豊臣家の官僚たちを一掃する必要があった。また、石田三成たち豊臣家の官僚たちは標的を家康一本にしぼっていた。三成は幼少の秀頼を頭にしているから大義名分もたつ。

 しかし、家康はそんな錦の御旗もない。

 家康は情報戦もやった。関ケ原合戦までに諸大名におくった書状は三ケ月で百八十四通にもなるという。こうして、三成嫌いの福島正則や”風見鶏”伊達政宗たちを虜にした。 つまり、勝ったら褒美の領土をやる……ということだ。

 これは二百万石以上の大大名の家康にしかできないことだ。所詮、三成など二〇万石の小大名にしか過ぎない。

 しかし、西軍には大儀があった。東軍にはうしろめたい影があったという。豊臣系は、北政所(おね)を中心とする尾張閥と、淀と秀頼、三成を中心とした近江閥に分裂した。 毛利家も、恵瓊と吉川・小早川の門閥に割れた。

 福島正則などの東軍の先発隊は、八月十四日、正則の居城である清洲城に入った。一方、伏見城をおとしていた三成の西軍は、八月十日、大垣城に入っていたのだった。家康は三成の動向を江戸で眺め、そして、江戸を出発、九月十四日には赤坂南方の、岡山の本陣にはいったのである。

 上杉は景勝の家康嫌いもあり、義に反する家康を討つ、とばかり奥州(東北)で、出羽       

の最上義光と伊達政宗と戦う。いわゆる長谷堂の戦いである。

その際、兼続は愛の兜(金小札浅葱糸威二枚胴具足)とともに景勝とともに戦をした。その愛とは慈愛、民への愛…すべての人類への愛……

「押し流せ~っ!」景勝は馬上より、激を飛ばした。

 長谷堂城には志村光安の千、上山城には里見民部の二千……上杉軍は二万…

 雲霞の如く、上杉軍が突進する。交わる矢じり、槍、飛び交う矢、銃弾…。7月24日、伊達政宗は上杉領の白石城を攻撃した。これで上杉は落城…しかし伊達と同盟を結んでいた最上義光動かない。伊達はそこで停戦を申し出てきた。

 8月14日に北目城に引き上げた伊達に、兼続は「いまこそ伊達の脅威なくなり好機でござります! いまこそ最上を討ち取りましょう!」と進言、景勝は承諾した。

            

 激戦となるも、義光から救援要請を受けた政宗は伯父の伊達政景を派遣…

 9月末に東北に西軍敗北の報告が届く。

 景勝は「何?!」と眉をつりあげた。

「ここは……撤退し再起をかましょう」兼続は上杉軍を撤退させる。            

 兼続は「御屋形様、私が殿をつとめまする!」という。

 上杉3万は最上義光率いる軍に追撃されながら、逃げては戦い、撤退した。直江兼続軍は鉄砲で、最上義光の兜に命中させ、最上の軍師を殺害する。撤退があまりに見事だった為、義光は「さすがは直江、敵ながらあっぱれ」と、謙信以来の軍神・直江兼続を褒めた。 伊達最上軍は追撃するが、撃退される。政宗が福島城を攻めてきた。

 兼続にはそんなことはわかっていた。軽く撃退して、戦はおわった。

 長谷堂の戦いでは、兼続の智略でなんとか納める。が、勝負は東北とは関係ない、関ケ原で決まってしまう……。



「家康は佐波山城をおとし、一気に大阪をねらうつもりだな。馬鹿め! よし関ケ原に陣をひいて決戦だ」三成はにやりとした。

 東軍は十万あまりの兵力、西軍は八万五千、東軍優位だった。しかし、合戦に参加したのは東軍七万六千、西軍は三万五千といわれ数のうえで東軍が有利である。

 東軍は、浅野幸長(甲斐府中)、有馬豊次(遠江横須賀)、山内一豊(遠江相良)、堀尾吉晴(遠江浜松)、金森長近(飛騨高山)、池田輝政(三河吉田)、福島正則(尾張清洲)、前田利長(越中一国)、九鬼守隆(志摩鳥羽)、筒井定次(伊勢上野)、細川忠興(丹後宮津)、蜂須賀至鎮(阿波徳島)、生駒一正(讃岐高松)、加藤嘉明(伊予松崎)、藤堂高虎(伊予板島)、黒田長政(備前中津)、寺沢広高(備前唐津)、加藤清正(肥後熊本)。他に伊達や最上義光も参戦発表したが、実際には参戦していないという。

 西軍は、上杉景勝(会津若松)、佐竹、真田、赤座、宇喜多、長曽我部、小早川、島津島……。西軍は「鶴翼の陣」で、のちの世にドイツのメッケル将軍はその図をみて「西軍が勝ったのだろう?」と、にやりとしたという。

 家康は桃配山に陣をしき、石田三成は伊吹山に麓に陣をひいた。慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、朝八時、関ケ原の霧が晴れると同時に戦の幕がきっておとされた。

「東軍の先頭は福島正則なり! 正面の宇喜多軍を討て!」

「攻め反せ!」合戦ははじまった。

 家康に伝令がくる。「藤堂は大谷の陣へ、織田は小西の陣へ討ち入りました!」

「よし! 田中、黒田、細川の隊は三成の本陣をせめよ!」

 家康はにやりとした。石田三成の元にも伝令がくる。

「本陣の兵力がかなり不足してきました」

 三成は不安な顔を隠し「毛利は何をしておるのじゃ?! 一万五千の兵をもちながら……早く戦を始めるように伝えよ!」

 毛利の元にも伝令がくる。「早く戦をはじめよとの三成様からのことばです!」

 毛利秀元(毛利輝元は大阪城にいた)は「この戦、わしの思いとおりにやる。出過ぎた指図はせぬように三成殿に伝えよ」と不快な顔でいった。

 伝令が去ると、「すこしばかり頭がよくて秀吉公に可愛がられたとはいえ、たかだか二十万石の大名ではないか。加藤清正におわれたときは家康に助けをもとめたほどの腰抜けのくせに…百二十万石の毛利に指図などかたはら痛いわ」と秀元は思った。

 このように豊臣軍の中には三成に反感をもつものが多かったという。

 間もなく昼になるが、戦は一進一退でなかなか勝負がつかない。

「家康を叩き潰せ! 軍勢を家康本陣に向けよ!」

三成は唾を吐きながら叫んだ。「大筒を家康陣に浴びせかけよ!」

「われらには大坂に豊臣秀頼さまと毛利殿がついておるぞ! 負けぬ!」

大砲が炸裂する。

「…三成の小童め! 舐めた真似を…!」

家康も大砲や軍勢をさしむける。「負けんぞ、三成! 戦に負ければさらし首ぞ! 攻めよ! 逆賊石田三成の首をねらえ!」

大砲、大筒、鉄砲の雨あられである……

福島正則は「戦は殺し合いじゃ! 三成! その首を血でかざれ!」などという。

「なにをしておる! もっと毛利に動くようにつたえんかぁ! 馬鹿者!」

「三成如き! 蹴散らせ! 黒田長政、横っ腹にせめかかれ!」

三成は額に汗をしながら我鳴った。

「小早川(秀秋)さまは何をなされているのだ! 数万の兵はまだ動かんのか」

もう激戦で互いに激突して数時間が経った。

「死にもの狂いでやれ! 戦じゃぞ!」

三成は当たり前のことを、檄を飛ばす。「勝ったら官軍! 負けたら賊軍じゃぞ!」

「三成め! なかなかしぶとい! だが、小早川が我が方に寝返ればわれらの大勝利じゃ」

家康はにやりとして「三成! 自分の首を血でかざれーっ! おせー!」と檄をとばした。

石田三成方もなかなかに奮闘している。

………これは互角じゃな?

「何にせよ、これで小早川金吾さまの2万騎が家康陣になだれ込めば西軍の大勝利じゃ!豊臣の勝利をつかみとれ! いけーっ!」

数万もの兵が殺戮の合戦で刃や鉄砲や槍で戦う。

まさに戦争! 戦、である!

次第に西軍の中にも獅子奮迅の働きをする兵たちもでてくる!

「よし! いいぞ! 家康の首を秀頼さまの手土産にせよ!」

三成は檄を飛ばす。

もうすぐ小早川さまが動く。家康め、これでお前の最期じゃ!

「小早川秀秋は何をしておるのじゃ?」三成は焦った。「二万もの兵をもっておるのに」

家康陣でも小早川秀秋のことで軍儀していた。「どうじゃ、秀秋の軍はまだ動かぬか」

「はっ、まだ動きませぬ!」

 家康は策をめぐらせた。「わが東軍にねがえると約束しておきながら臆病風にでもふかれとるのか…よし!」家康は小早川のたてこもる松尾山へ向けて鉄砲を一斉射撃させた。

 わすが二十歳の小早川秀秋は動揺した。とうとう家康が怒った……とびびった。ふつう鉄砲をうちかけられたらその相手を敵としてうちかかるのが普通であろう。しかし、秀秋は軟弱な男であったため、びくびく震えて、

「……よし……西軍の横ばらへせめかかろう…」あえぎあえぎだが、声を出した。

「殿!」

「大谷の陣へ攻めよ!」小早川秀秋は寝返った。

最初、三成は小早川軍2万騎が動いたとき「これで勝利は豊臣西軍じゃ! 小早川殿が家康陣にせめかかれば大勝利!」と笑った。

だが、違った。

小早川が大谷の陣へ攻めかかり「裏切り」が明らかになると三成は動揺して手足が震えた。「馬鹿な! 小早川金吾は豊臣血族ではないか」

思わずそんな言葉がでた。

「殿! この嶋左近、敵をふせぎますゆえ、一事、撤退を!」

「いや……左近! まだ負けぬ!」

「…負けで御座る! 小早川陣が寝返ればもはやこれまで! 毛利も動きませぬ」

「そ…そんな馬鹿な! わしは…豊臣…」

「殿! まずはお命をおつなぎくだされ! おさらばでござる、ごめん!」

石田三成は遁走する以外に道はない。

「…馬鹿な! …馬鹿…な! 左近!小早川! ば…か…な!」

「殿、こちらへ! …佐和山城へ逃げましょう…!」

家臣が手を引いて、三成たちは遁走する。

脇坂、小川、朽木、赤座の諸隊も家康陣営にねがえった。こうして、西軍は敗走しだした。

 午後四時頃、八時間におよんだ関ケ原合戦はついに家康の率いる東軍の大勝利に終わった。この合戦では二万五千丁もの鉄砲がつかわれたという。その数は世界の鉄砲の三分の一にものぼるという。こうして、家康は勝利した。息子・秀忠の十万の兵は間に合わなかったが、とにかく家康は勝った。

 上杉景勝は会津にいた。上杉は読みあやまった。関ケ原の戦いはもっと長引くとみていたのだ。それから出陣すればよい……しかし、短期で戦はおわってしまう。上杉のさらなる誤算は、合戦が終わると、総大将の毛利輝元が大阪城から出ていったことだという。大阪で毛利がもっと頑張っていれば、もう少し局面は違っていただろう。しかし、いつの時代もひとは利益より恐怖に弱い。家康が、毛利百二十万石に手をつけないというと、吉川広家という毛利の甥がそれに乗り、毛利自身も大阪城を後にして川口の屋敷に逃げてしまう。こうして、関ケ原のあと、世は確実に徳川の世になった。

 石田三成は遁走した。

「くそう……佐和山に戻って再起を計ぞ!」

 しかし、三成は愕然とする。彼の居城・佐和山城が炎上している……

 やったのは小早川軍だった。

 三成は空腹のあまり生水と生米を食べて下痢になった。百姓たちの住む村に逃げ込んで「すまぬ。しかしわしは家康ともう一度戦ってやぶり、再び豊臣家の世としてみせる」という。農民たちは感銘を受けたが、隣村の村長が裏切って追っ手がきた。

 三成は農民姿にバケて洞穴に隠れ住んだ。しかし、残念ながらみつかってしまう。

「三成じゃ! 石田三成じゃ!」

 家康は三成を後ろ手に縛り、城内部へとつれてきた。

 黒田は三成に同情した。

「三成殿……戦の勝ち負けもときの運じゃ…」

 三成はガクリと憔悴している。次々と家康側の武将がくる。しかし、小早川秀秋がくると三成は怒昴した。「奸賊、小早川秀秋! 武士の名折れ! 裏切り寝返りは歴史の汚点ぞ! 小早川秀秋! そちが徳川の腐敗の世をつくった俗物なり!」

 小早川秀秋は動揺した。まだ二十歳の若造である。

 家康は「山中に連れていって首をはねい!」と家臣に命じた。

 黒田長政や福島正則は「……武士らしく切腹を!」と願った。

「……三成は斬首じゃ!」

 家康は頑固にそういって場を去った。

 三成は山中に連れてこられた。喉がかわいた。「水をくれまいか…?」と野武士にいう。「水はない。干し柿ならあるで」

「いや、干し柿は体に毒じゃ」

 三成の言葉に野武士たちは笑った。「この恨み百年…三百年と忘れるな。かならず徳川の世の終りがくる。歴史が語るのよ、歴史がどちらが正しかったか…」「黙れ!」

 石田三成は斬首された。慶長五(一六〇〇)年十月六日……

 享年・四十一歳であった。

 辞世の句は、

 …筑摩江や芦間に灯すかがり火と、ともに消えゆく我が身なりけり…

 石田三成は遁走中に捕らえられ、切腹させられた。享年・四十一歳であった。

 息子の秀忠は遅刻した。

 かれがきたときにはもう合戦はおわっていたのだ。

「秀忠……遅かったではないか」家康はせめた。息子は「申し訳ござりません! 父上!」と平伏した。「まあ、よい……勝ったのだから…もし……わしが負けてたらどうした?」「いいえ」秀忠は首を振り「父上が三成ごときに負ける訳がございませぬ」

「さようか?」家康は笑った。

 まあ、何にせよ勝ったのだ。あとの”目の上のタンコブ”は大阪城の淀殿と秀頼だけだ。  関ケ原の戦後処理で、家康は九〇の大名を廃し、約四四〇万石を没収、減封分をくわえると六七〇万石を手中におさめ、事実上の天下人となった。が、名目上の資格はいわば「将軍代行」であったという。まぁ、さいわいなことに秀吉は征夷大将軍のタイトルがなかったから、「将軍代行」とは少し正確ではない。それが家康にさいわいした。

 家康が征夷大将軍となり、豊臣家をつぶせばいいのだ。家康は策をめぐらせた。   

 景勝と兼続は時代の流れにさからうことなく、家康に降伏した。

「……三成に騙されました。家康さまに矢をいるとはとんでもないことです」

 景勝は江戸城中で平伏した。家康は苦い顔をする。家康の家臣・本多正信は、「上杉景勝、関ケ原の役でのことにつき、出羽米沢三十万石に削封する」と書状をよんだ。「ははっ!」景勝らは平伏した。米沢はひどいころだった。……島流し同然の田舎だったからだ。


「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。

当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。

 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカのヤツです、三成!」お江はしたり顔で、彼を非難した。

「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」

 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」とお江をきっと睨んだ。

「たわけ! お義父(徳川家康)さまや主人・秀忠が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」

「たわけはお主だ、お江殿! 徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか」

「なにをゆう、お義父上(徳川)さまが嘘をいったというのか?」

「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」

「たわけ」お江は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」

「佐和山城にいったのか?」

「いいえ。でも姉上(茶々(淀君))や姉様(初・京極高次正室(常高院))からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」

「全焼したか?」

「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」

「いや、いらぬ」

 お江は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」

「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」

「ふん。姉上や秀頼を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」お江は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」

「お江殿」

「なんじゃ?」

「縄を解いてはくれぬか? 家康に天誅を加えたい」

「……なにをゆう」

「秀頼公とあなたの姉上・淀君様が危ないのだぞ!」

 お江は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、お義父上(徳川)さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」

「家康は老獪な狸だ」

「…そう」

 お江は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。

 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。

「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。






        天下人 家康

       

        征夷大将軍




 慶長八年(一六〇三年)二月十二日、家康は朝廷に働きかけて「征夷大将軍」に任命された。そして、さらに策をめぐらす。孫娘の千姫と秀頼を結婚させた。まだ十代半場の年同しの”ままごと”結婚であった。

「家康殿、きょうはめでたい日じゃ」淀殿は上座でいった。

「そうですなぁ」家康はいった。「いずれ……淀殿と秀頼さまに江戸にきて頂きたいものですな」

 淀殿は言葉を呑んだ。家康の心がわからなかったからだ。

 家康の息子(次男)、秀忠は副将軍となった。

 家康は大坂をアンタッチャブルにしておいた。もし、今、秀頼を殺せば、福島正則や黒田長政や毛利、上杉、島津、もどう動くかわからない。

 自分の立場を確固としたものにしなければならない。今、自分が秀頼をたてず天下人になる……という正体を隠しておいた。世の中には、秀頼が成長するまでの代役、と思わせた。家康は六十二歳。家康が死んだらどうなるか? 大坂側がまっているのは老将軍・家康の死である。

「秀頼公は若くて未来がある。しかし、家康はもう年……」大坂がたは時間をにらんでいる。家康は焦る。時間とかけっこをすれば、秀頼に勝てない。当時の平均寿命は四〇歳、家康は六十二だが、当時は九十歳くらいといったところか。

 家康の趣味は薬つくりで、その薬によって長生きしたという。

「家康の死をまとう」これが大坂方の願いであり、消極的ながら戦略であった。政略結婚は家康が大坂に気を配った結果だ。

 慶長一〇年(一六〇五年)二月二十四日、秀忠は一〇万人もの大軍を率いて江戸を出発して上洛した。京都で、家康は将軍職を秀忠にゆずる、と奉上した。将軍の世襲、つまり秀頼が成人しても将軍にはなれない、将軍職は渡さない、と内外に宣言したのである。

 大坂方は感昴したが、手も足もだせない。




         家康と淀



 家康は将軍を秀忠にゆずり、江戸幕府を開いた。

 城下町に外様大名をまねき、その子や妻らを人質に城に住まわせた。上杉景勝は会津百二十万石から、米沢三十万石に転封された。毛利も太閤時代には、山陽、山陰など九ケ国を領していたが、関ケ原のあとには、長門、周防の二ケ国でたったの二二万石の小大名にされた。また、家康は大名の力をそぐために、江戸の修繕や開拓などをさせた。

 つまり銭をださせ、二度と家康・徳川家にさからえないようにしたのである。

 薩摩の島津の扱いもひどかった。島津には、輸送船三〇〇隻がわりあてられた。石や木材を運ぶものだ。そんなに船などもっていないから、新たに造船しなければならない。石船一隻には、約二〇〇人の労務者で運搬できるのは巨石が二個しか運べなかったという。 金をドブにすてるように働きかけて、戦の根を絶とうと、家康は策をめぐらせた。

 同じ戦略は、大坂の豊臣家にもむかわせた。

「腐っても鯛」という通りに、太閤秀吉が残した遺産は江戸に匹敵していたという。大坂の城には金銀がたんまりとあった。これを削がなければ家康は枕を高くして眠れない。

 家康は、政治をまったく知らない淀殿をそそのかして、軍用費を浪費させる。

 寺院仏閣への投資である。

 家康は巧妙に方広寺の再建をすすめた。京都・方広寺は秀吉が天正十四年(一五八六年)に建立した贅美な寺院であった。慶長元年(一五九六年)の大地震で崩壊したままだったので、家康は淀君に「太閤供養のため……」ともちかけた。

 淀君はその気になって、慶長七年(一六〇二年)に巨額を投じて工事をはじめた。ところがその年の暮れに火事で焼けた。失火というが果たして……

 大阪方、そのあと方広寺をそのままにしておいたが、慶長十四年(一六〇九年)になって家康が再、再建をすすめた。そこでも政治にうとい淀君は大工事に着手する。

  慶長十六年(一六一一年)が転機となった。

 家康は、自分の目が黒いうちに大阪の豊臣家を滅亡させよう、とやっきになった。ときに七〇歳。あまり時間はない。

 豊臣家は指折り数えて家康の死を待った。「家康さえいなくなれば、家康の息子・秀忠には大阪を攻めるような器量はない。いずれは大坂方に組みする大名もでてくるでしょう」 宰相の片桐且元は淀君にいった。

「さようか…?」淀君はきいた。彼女は何も知らなかった。すべて、且元や大野らにまかせっきりだった。片桐且元はのちに裏切り者となるが、もし家康が七十五歳まで生きていなかったらどうなっていたかわからないという。家康が死んで、豊臣家の時代がまたくれば、忠義の家臣、となっていたかも知れない。

 だが、何の理由もなく大坂を攻める訳にはいかない。

 大義名分が必要だった。

「わしが死ぬのをまっている豊臣家……目の上のタンコブは片桐且元じゃ」

 家康はしわくしゃな顔をゆがませた。家康は大坂のもっている銭ほとんどを神社再建にそそがせる。誇り高い淀君まで涙を流し、「もう銭がない…」と泣いたとか。家康は「しめしめ」と思ったことだろう。

 方広寺は莫大な金をかけて完成した。そこで、家康はいちゃもんをつける。鐘に刻まれた文字「国家安康」「君臣豊楽」を、「”国家安康”とは家康の名を破壊し、”君臣豊楽”とはふたたび豊臣家の天下をとるということじゃ。謀反の疑いあり!」家康はいった。

「何を家康め!」

 とうとう大坂方も激怒する。淀君は「徳川と一戦交えようぞ!」とまでいった。

 そんな人々を片桐且元はなだめる。強行派の中には疑いがでてきた。「まさか且元は家康と通じているのでは……」


 ともかく、大阪城攻略には片桐且元を追放する必要がある。

 そこで家康はまた一計をこうじた。和平、慎重派こそ家康にとって邪魔な存在なのだ。   且元が駿府まできたが、家康はあわなかった。家臣の本多正純から、口頭で三箇条の要求をつきつけた。

 一、秀頼を人質にだす

 二、秀頼がだめなら淀君を人質にだす

 三、豊臣家が大阪を去って国替えに応ずる

  このような要求を大坂の豊臣方が応ずるはずはない。しかも、家康は文章ではなく、口述によって片桐且元に伝えた。且元は「豊臣家が大阪を去って国替えに応ずるというほかはない」と思った。そう判断するしかないと家康は踏んだのだ。しかも、何の証拠もない。大坂城では、片桐且元にたいしての不満が吹き荒れていた。裏切り者では…ないか?                     淀君は且元とは別に、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を駿府まで派遣した。且元は信用できない、という訳である。局は大野治長(淀君の愛人)の母である。

 すると家康は大蔵卿局とただちに面会し、あいそよく振る舞った。

「わしは秀頼公に悪感情などもってはおりませぬ」家康はいった。

 大蔵卿局は感激し、「さすがは家康さま、わが豊臣家を大事にしてくださる」

「秀頼公にどうかよろしくお伝えくだされ」

 家康は真にせまる演技で、頭を下げた。

 これでは、片桐且元が勝手に”人質”だの”国替え”などと主張していることになる。 大蔵卿局が大坂にかえって家康との会見を報告すると、強行派はとうとう家康の策にはまってしまう。片桐且元は必死になって「家康殿がそう申したのです!」と訴えたが、あとの祭……暗殺されそうになって、やむなく且元は城外に退去し、封地の茨木にひそんでしまう。国替えを提案したのに拒否したことは、「謀反」にあたる。豊臣家は一大名である。大名が将軍の命を阻むのだから立派な「謀反」で、征伐の大義名分がついたのである。 家康は高山右近を追放した。そして、豊臣家を揺さぶりはじめる。淀君は大量の浪人衆を大坂城に招集した。「家康と一戦交えようぞ!」ということであった。

 そんな中に真田幸村の姿もあった。家康、ときに七十三歳。息子、秀忠とともに大阪にはいり、茶臼山で軍儀を開いた。

「今度こそ、大阪の豊臣家を成敗せねばならぬ」家康はいった。

 秀忠は「しかし、秀吉公の築いた大坂城は難攻不落……おとせるでしょうか?」と疑問を投げかけた。すると家康は「なぁに、時間と知恵をかければいいだけじゃ」と笑った。

秀忠と江は結婚し、嫡男・竹千代(のちの三代将軍・家光)や秀頼に嫁がせた千姫などを産んでいた。”かかあ殿下”で有名で、秀忠は”戦下手”でもしられた。


         大坂冬の陣



 慶長十九年(一六十四年)十一月二十六日、大坂冬の陣の幕はきっておとされた。

 真田幸村が「真田丸」で頑張る。しかし、数におとる豊臣軍はしだいに劣勢になる。

「天守閣や城に大砲を打ち込め!」家康は命ずる。

 こうして、大坂城の天守閣には昼夜大砲が打ち込まれる。淀君と秀頼は恐怖に震え、狼狽した。ひいい~っ! ふたりは恐怖で声も出せないほどであった。

  和睦のため、家康の方から阿茶局がきて、淀君と大坂城で会談をもった。淀君は恐怖心から和睦を受け入れた。条件は大坂城の堀を埋める、というものだった。

 その程度なら……淀君はどこまでも無知だった。

「皆のもの、わしは……悔しい」まだ若い秀頼は泣き崩れた。こうして、大坂冬の陣おわり、豊臣家はいよいよ風前の灯となった。

 家康は朝廷にも働きかける。「武家への叙勲は徳川将軍の推挙によるべきこと」

 申し入れは以上であった。一見なんということもないが、源頼朝と義経の例がある。頼朝が天皇に叙勲しないようにいってあったのに、天皇は義経に勲位を与えた。そういうことがないように、との家康の配慮である。

 家康は「秀頼は、どんな人物になっているのか」と、秀頼の器量を計った。大坂であったときに、秀頼は軟弱者ではあるが秀吉のような知恵がある、と見方をもった。

 秀頼は秀吉とは違い、猿顔ではなく、美男子の成人であった。

 家康は秀忠を信用してなかったので、自分の死後、秀頼と秀忠でどちらが勝つか……? と不安になった。だから、豊臣家を滅亡させよう、自分が死ぬ前に滅亡させよう、と誓ったのである。 家康は条件通りに、大坂城の堀を埋めた。しかも、全部埋めた。難攻不落とさえいわれた大坂城は丸裸状態となった。

  それから数か月後、豊臣家にまた不穏な動きがあった。

 常高院(淀君の妹・初、京極高次の未亡人)を招集し、淀君と会談した。

「秀頼殿には大坂を出て、郡山にうつされること」常高院はつげた。家康の口状通りだった。淀君は「そんな話のめるものか!」と反発した。

「姉上! 家康殿に今、逆らえば……豊臣家は滅亡の運命にござりまするぞ」

「かまうものか!」淀君は激怒した。「家康なんぞに…」

 常高院は秀頼とも話した。しかし、秀頼は無知だった。徳川家康ともう一戦交えよう、などとぬかしたのだ。秀頼は家康が評価したような「頭のいい知恵者」ではなかったのだ。 これは家康にとって、嬉しい誤算であったことだろう。

 豊臣家の重臣・大野治長は、寺を焼き討ちにした。

「伏見城も二条城も焼き払ってくれる!」大野治長はいった。

 そんなおり、家康の孫娘・千姫が大坂より救出された。



         大阪夏の陣



 慶長二十年(一六十五年)夏、大坂夏の陣の幕がきっておとされた。しかし、大坂城は堀をうめられて丸裸……攻略も容易だった。大坂方はわずかな浪人たちだけで、家康方は全国の大名軍を率つれている。どちらが勝つのは馬鹿でもわかることだ。

 そんな中、真田幸村だけは善戦し、単独で家康の本陣まで迫って、もう少しで家康を殺すところまでいった。しかし、それは失敗し、幸村は討ち死にする。

 大坂城を家康は包囲した。何十万という軍勢で、大坂城をかこんだ。やがて大坂城は炎上し、陥落する。

 早朝、秀頼と淀殿は城の外側の蔵にいた。家康はそこも囲った。

「……秀頼殿、このおろかな母を許してくだされ」淀君は泣き崩れた。蔵の中にはふたりと家臣わずかしかいなかった。蔵の窓から朝日がうっすらと差し込んでくる。

「母上……この秀頼、太閤殿下の子として……立派に自害して見せましょうぞ」

 家康は蔵の前で、「蔵に鉄砲を撃ちかけよ!」と兵に命じた。鉄砲が撃たれると、秀頼と淀殿は、蔵にあった火薬に火をつけ、爆発がおこった。

 こうして秀頼と淀殿は死んだ。家康は「たわけ! なぜ死んだ?!」と驚愕の演技をした。「わしは秀頼殿と淀殿を助けようと思うてたのに…」

 秀忠はその演技を見抜けず「なんということだ…」と落胆した。

  しかし、家康はどこまでも狸だった。秀頼には側についていた女子との間に三歳の娘と七歳の男子がいたという。家康はその子らを処分した。つまり、殺した。豊臣家を根絶やしにするためである。落ち武者も虐殺した。何千人も殺した。まるで信長のように。ジェノサイドだ。しかし、これは治安対策と、やはり豊臣家を根絶やしにするためであった。  家康はそのあと、尼となっていた秀吉の妻・高台院(おね)と寺ではなした。

「もう世は徳川の時代……豊臣家はもうありません」高台院はいった。なぜか、冷静で丁寧な態度であった。

 家康は「高台院さま、この家康、天下太平のため、徳川幕府を開き、平和な世の中をつくりたく思いまする」と丁寧にいった。

「それはよきことです」高台院はいい、続けて「これからは無益な戦がない世の中に……なるのですね?」

「さようにござる、もう戦などなくなりもうす」

 家康は微笑んだ。すべて……おわったのだ。

 その顔は恍惚のものであり、登りつめたひとの顔であった。

石田三成の豊臣西軍対徳川家康の東軍の関ヶ原対決の前に犬伏(いぬぶし)で、真田家は一計をこうじた。真田安房守昌幸と真田源次郎左衛門佐信繁(幸村)は西軍へ、真田源三郎伊豆守信幸(伸之)は東軍についた。どちらが勝ってもいいようにとの策だった。

これを『犬伏の別れ』という。

だが、関ヶ原の合戦は東軍の大勝利でおわった。

小早川秀秋の卑しい裏切りが原因だった。

本当は死罪だったが、真田伊豆守伸之と本多平八郎忠勝が何度も土下座したので、家康は真田安房守と幸村を紀州高野山の麓・九度山村に幽閉した。

そこで十数年……その間に希代の軍師・真田安房守は病没した。

そこで大坂の豊臣対徳川の戦いでお江の夫で二代将軍徳川秀忠は家康に命令を受ける。豊臣秀頼方と戦って倒して欲しいとの要請だった。夜中の屋形の外で月明かりの中、秀忠とお江は話した。

「大坂にいくのですか?」

「いや。いかない。わしはここが気に入っている。戦ったことなどないし…戦下手なのじゃ、わしは」

「いきなさいよ」

「え?」

「大丈夫。あいつはあの希代の軍師で謀略家の徳川家康の息子だ。関ヶ原では神君であり父親の家康が石田三成ら豊臣軍をやぶった。きっと息子も物凄く軍略も戦の仕方も優れているに違いない。皆、そう考える。後は……ハッタリよ」

「しかし…」

「あなたはこの国に生まれて何をした?何を成したの?何もしていないじゃない。関ヶ原の合戦には遅参した。聚楽亭のらくがきの犯人も捕まらなかった。北条の城に忍び込んで北条氏政さまと話したようだけど…北条開城の武功は結局、あとから北条の城にいったなんとか官兵衛さんの武功だし……あなたは徳川秀忠二代将軍として歴史に何を残す気なの? このままじゃ凡人よ。凡人」

「うるさい! うっとうしいんだよ、お前は!」

「はい。そうですよ。わたしはうっとうしい」

「お前、いいことをいったと思っているなら大間違いだからな! お前がいうことくらいとっくに自分に問いかけている!」

「でも、それでも…あなたは大坂城にいくべきよ。歴史に自分の名前を刻むんじゃなかったの?徳川秀忠は神君(家康)公よりも希代の英雄として歴史に名を成すんじゃなかったの?」

「……お江。…わかった。………わかった。」

こうして徳川秀忠(二代将軍)は江戸を発して三十万あまりの大軍を指揮して大坂城へ向かった。

「かならず豊臣家を滅ぼす! わしは戦下手ではない! 家康の息子だ!」

徳川勢三十万対豊臣軍牢人衆十万……

ここで大坂五人衆がでてくる。真田幸村、後藤又兵衛基次、毛利肥後守勝永、明石掃部頭全澄、長宗我部盛親、の五人だ。七人衆とはそれに木村重成と薄田兼相を加えた衆。

「最期まで諦めなかったものに努力したものだけが最期は勝利する!」

真田幸村は豊臣秀頼や淀君に問いかける。

大坂冬の陣では、『真田丸』の出城で徳川軍を完膚なきまでに叩きつぶすが、和議がなり、外堀だけでなく内堀まで埋められ大坂城が“裸城”になると夏の陣では特攻作戦しかなくなる。真田幸村は家康を自害寸前まで追い詰める。

「源次郎、わしを殺したところで徳川の世は安泰! もはや徳川の世じゃ。」

「そんなことはわかっているー! だが、わしは死んでいった仲間達、愛していた仲間達のために戦わなければならないのじゃー!」

 真田幸村は徳川家康と対峙した。

銃弾が幸村に浴びせかけられる。「佐助―!」煙幕がはられる。

幸村はちかくの寺で休憩していた。

「もはやこれまでかな?」

「源次郎さま。…」

「……佐助。お主いくつになった?」

「五十五歳にございます」

「そうか。体がつらいだろうなあ」

「全身が痛うございます」

「これまで……佐助」幸村は脇太刀を抜いた。「……真田家は兄上がいればいい。後悔はない」

 大阪城炎上、豊臣家滅亡……こうして大坂夏の陣は、おわった。

 徳川秀忠は勝利軍の二代目として江戸幕府将軍として江戸で躍動した。

お江との間に息子・竹千代(のちの三代将軍・家光)も生まれた。

「これで徳川家も安泰じゃ。ようやった、お江、秀忠!」

家康は仲むつまじい秀忠夫婦に目を細めた。



 家康は厠で倒れた。

 すぐに寝室に運び込まれた。家康は虫の息だった。老衰だった。

 床についているあいだ、家康の血管を、思い出が洪水のように駆けめぐった。信長のこと、秀吉のこと、そうしたものではなく、じっさいの出来事ではなく、感情……遠い昔に失ってしまった思い出だった。涙があとからあとから溢れ出た。

 家臣たちは口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石になり垂れ下がると同時に、全身の血管が氷のようになるのを家臣たちは感じた。すべておわりだ。家康公がとうとう死んでしまう。

「わしが……死んだら…日光に東照宮をつくり、わしの亡骸を葬ってくれ…」

 家康はあえぎあえぎだがいった。

「…と、殿!」家臣たちは泣き崩れた。

「わしは…」家康はあえぎあえぎ続けた。「……勝利…したのだろか?」

 空が暗くなり、明るくなり、世界がひっくりかえった。家康が七十五年間抱きつづけた感情が胸から溢れ出て、麻痺した指先を伝って座敷の畳みに零れ落ちた。

 そして、家康は死んだ。

 元和二年(一六一六年)四月十九日、家康死去、享年七十五歳で、あった。


 ……ひとの一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し、焦るべからず……


 家康の格言で、ある。

 こうして、家康の策により徳川政権は二百六十年続いた。

 家康の知恵の策略の勝利、であった。


お江は江戸城でうかれる竹千代(のちの三代将軍徳川家光)と乳母のお福(ふく・のちの春日局)らを叱った。「竹千代! 大坂にはそなたの姉上の千や伯母上やいとこの秀頼殿やらもいたのじゃぞ! その身内が大変な戦にあってお命を落としたというに……そなたはうれしいのですか」

「……」お福が口をはさんだ。

「されどお江さま! 豊臣は徳川の天敵……その豊臣が滅んだのにうかれてはならぬとは。これは武家の習いにござりましょう?」

お江はお福の頬をびんたした。

「お江さま?」

「そなたは黙っておれ!」

「竹千代! そなたは何故に弟の国松(のちの徳川秀長)のように賢く生きれなんだ? 他人の不幸を喜べばいずれしっぺかえしを食らうのがわからないのですか」

お江はかなしい瞳のまま言った。が、竹千代は答えない。

だが、さすがは家康の孫である。竹千代……元服して三代将軍・徳川家光となる男は立派な武将となった。次男の国松も元服し、徳川秀長となる。

また、秀忠の愛人の子・保科幸松(ほしな・こうまつ)も元服して、保科正之(ほしな・まさゆき)と名乗り、初代会津藩主となった。

お江やお福の知恵で“大奥”や“一夫多妻制度”も完備され、鎖国体制、バテレン禁止令も発布された。この頃よりお江は病気になった。

ある日、お江は病気明けに馬で山道を野駆けした。

「秀忠さま……思えば長い人生でした。叔父上、織田信長は「自由に生きよ」とわれにいいましたが……こうして太平の世が訪れるまで自由には生きれませんでした」

「お江……そなたはわしの希望じゃ」

「秀忠さま……行きましょう」

「うん。行くか……お江!」

ふたりは馬をかけた。沈む太陽に向かって…、落日燃ゆる道の先に向かって……

こうしてこのお江と秀忠の物語は、おわる、のだ。

お江よ、直江兼続よ、永遠なれ、こういって終焉としたい。



         あとがき 米沢の春

         






 兼続と景勝……ふたりの性格はまったく正反対だった。

 兼続は弁がたち、策略家である。いっぽうの景勝は無口で、謀略性もない。

 上杉は兼続でもっているようなものだった。

 こんな逸話も残っている。戦後、江戸城で伊達政宗に行き合い、挨拶もしない兼続を政宗は「陪臣の身で大名に挨拶しないとは無礼千万!」と咎めた。すると兼続は、「戦場では(負けて逃げていく)後ろ姿しかみていなかったので気付きませんでした」と皮肉った。  直江兼続は家臣の前で静かに語った。

「領民の皆さん。

 われは今日、厳粛な思いで任務を前にし、皆さんの信頼に感謝し、我々の祖先が払った犠牲を心にとめて、この場に立っている。上杉景勝公が我が国に果たした貢献と、政権移行期に示してくれた寛容さと協力に感謝する。

 これまで上杉謙信公が、上杉の義と愛を当主として宣誓を行った。その言葉は、繁栄の波と平和の安定の期待に語られることもあったが、暗雲がたれ込め、嵐が吹きずざむなかでの宣誓もあった。こうした試練の時に上杉が前進を続けられたのは、役人や家臣の技量と展望だけでなく、「我ら、上杉」が、先達の理想と、上杉の義に忠実でありつづけたためである。それが我々の世代にとっても、そうありつづける。

 誰もが知る通り、我々は重大な危機にある。わが国は会津二七十万石から米沢三十万石になり、天下太平の世でも憎悪と暴力が広がって膨らみを持っている。経済状況も悪く、それは一部の人々の貪欲さの無責任さにあるものの我々は困難な選択を避け、次世代への準備に失敗している。

 多くのひとびとが家を失い、商人が倒産した。領民の健康もカネがかかりすぎ、多くの学校(制度)も失敗した。毎日のように我々の軍による使い方が敵を強め、米沢を危機に陥れている証拠も挙がっている。

 これが情報や統計が示した危機だ。全上杉領土で自信が失われ、上杉の没落は必然で、次の世代は多くを望まない、という恐れが蔓延している。

 今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが、上杉・米沢いずれそれを克服できるということだ。今こそ我々が米沢藩の時代をつくっていくのだ!

 この日に我々が集まったのは恐れではなく、恐れではなく、希望を選んだからで、争いのかわりに団結を選んだからだ。この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治的な独断をやめることだ。そのために私はここにやってきた。

 我々はいまだ若い藩だ。だが、古の言葉を借りれば「幼子らしいこと」をやめるときがきた。我々が不屈の精神を再確認する時がきた。より良い歴史を選ぶことを再確認し、世代から世代へと受け継がれた高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐときがきた。それはすべての人々が平等で自由で、最大限の幸福を獲得できるという約束である。

 我々が国の偉大さを確認するとき、偉大さは与えられるものではなく獲得するものだと知るべきときがきた。自分で勝ち得るものがそれなのだ。

 我々のこれまでの道はけして近道ではなかった。安易に流れるものでもなかった。それは心の弱い、強欲な豊かなひとだけが得をするという安易な道でもなかった。

 むしろ損を選ぶひと、実行の人、創造のひとの道だ。恵まれたひとだけでなく、貧しいひとも豊に夢を持てる社会構築こそ大事なのだ。

 我々のために彼等は、ないに等しい荷物をまとめ、海を渡って新しい生活をしたのだ。 我々のために彼等は額に汗して働き、越後、会津、米沢に住み着き、鞭打ちに耐え、硬い土地を耕してきたのだ。我々のために彼等は川中島や関ケ原や、大坂の陣で戦い、死んだ人々を思い起こそう!

 我々は旅を続けている。我々は今だに、日本一繁栄し強力な藩だ。我々労働者は今、危機の真っ直中にある。しかし、我々の能力は落ちてはいない。過去に固執し、狭い利益しか守れず、面倒な決定は後回しにする時代は終わった。

 我々は道や橋、商業流通の網を作り、我々の商業を支え、我々の結び付きを強めなければならない。我々には緑や風や風土、商いが必要で、我々がやらなければならないことは緑田畑のための環境公共事業である!

 我々は「できない」という人々にこう答えよう。「我々には出来る」と。答えは一様ではないだろう。「そうだ」だけでなく「否」という覚悟も大事になるだろう。しかし、我々は商い活性化や環境と戦わなければならない。取り組まなければならない。差別とも戦わなければならない。私の父は越後の百姓同然の身分だった。その息子が宣誓している。 謙信公は昔、私にいった。「私には夢がある」と…我々の米沢は白い米沢でも黒い米沢でも赤い米沢でも黄色い米沢でもない、出羽米沢藩三十万石なのだ!

 我々は今こそ立ち上がろう!

「未来の世界に語られるようにしょう。厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時、共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み、それに立ち向かうと」

 将来、我々の子孫に言われるようにしよう。あの時代は間違いではなかったと。試練にさらされたとき我々の旅は、たじろぐこともなく、後戻りすることもなく、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に届けたのだ、ということを記録しよう。我々は「できない」という人々にこう答えよう。「我々には出来る。と」

 こうして直江兼続は大喚声に包まれる。第一歩だった。

 しかし、そんな兼続も死んだ。死ぬまえ、兼続は江戸で、「米沢に帰りたい。そこで死にたい」と荒い息のままもらした。景勝は「春になれば米沢に戻れる」といって励ました。 兼続はわずかにうなずき、「御屋形様…義を…大切に」といい、数日後、眠るように息を引き取った。享年六十歳だった。

 元和五年(一六一九)のことである。兼続には景明という息子がいたが、病弱で、元和元年に死んだ。ふたりの児女も早世、家康の重臣・本多正信の息子を養子にしていたが、               

慶長十六年に帰され、兼続の死の十六年後・妻お船も死ぬ。そして直江家は絶えた。

 元和九年、景勝は六十九歳となった。お互い年寄り同しになった伊達政宗と笑顔で語り合った。この頃、嫡男は元服し、定勝と名乗った。

 この頃から、景勝は病気になった。

「もうよい。お迎えがきておる」医者にいった。しきりに謙信や兼続の話しをした。

 景勝は自ら遺言書をつくり、三月二十日、米沢城で静かに息を引き取った。

 享年六十九、当時としては異例の長寿だった。

寛永三年(1626年)家光が三代将軍となり、春日局らがサポートしているのをみてお江はその波乱に満ちた人生をおえた。信長、秀吉、家康、戦国三英雄にかかわった人生で、あった。

 お江、直江兼続はまさに軍師だった。そのためこの人物が注目されるのは当然である。お江よ、直江兼続よ、永遠に、こうして筆を納めたい。



      エピローグ 米沢上杉藩



            

 上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。

 もちろん、上杉家の祖、上杉謙信も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山、鷹山といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉の甘煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。

 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。


 のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種実の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。 高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。

 血筋は争えない。

 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。

 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか?ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!

 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。

 では、謙信公や景勝公や兼続の影響を受けた鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?

 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれてるくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。

 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。  当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。

 上杉重定はのちにこう言っている。

「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」


 当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。

 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。

 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。

 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。

 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。ホモだったともいわれる。

 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にと          

らわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。

 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。

 しかし、やがて事態は一変する。

 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。

 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。

 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、グズグズしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。

 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。

 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。

 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。

 だが、問題はそのあとである。

 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。

 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。

 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。

 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。

 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を抑えてて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したといわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。

 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。

 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。

  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。

 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。

  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。

 混乱する訳である。

 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。

 そのような暮らしは長く続くことになる。

 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。

 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。

 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?

 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。

 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。

 しかし当時は、士農工商問わず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。

 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。


 上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。

 また、有名なのが毒殺さわぎである。

 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。

 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。

 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。

 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。

 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。

 さぁ、上杉藩は大パニックになった。

 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死の間際に養子なり後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。

 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。

 まず、

 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。

 だが、

 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べたり、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?

 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。

 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。

 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。

 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。

 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。

  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。

  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。

 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、

  収入 6万5000両…………130億円

  借金 20万両    …………400億円

 という具合になる。

 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。

 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。

「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう!米沢を生き返らせよう!」

 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。

 そして、改革は五十年ののち開化する。鷹山の意思の、力だった。

 そして、謙信、景勝、兼続、この英雄たちの意思の力、でもあった。

                                   おわり



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  関ケ原の豊臣西軍の敗北により、西軍側の上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石(4分の1)まで領地と禄高に減らされた。つまり謙信以来の名門上杉の会津本店が潰れ、米沢支店に全員転がってきた訳だ。4分の1で家臣の禄高は減らされたが、まだ減石が必要だった。そこで直江山城守兼続は、自分の禄高を減らした。

 米沢では兼続は河川工事や紅花や青ソの栽培を奨励する。

 しかし、家康は各諸藩の力を削ぐ為に次々と江戸の開発事業に銭を出させる。只でさえ、上杉家は台所事情が苦しいのにどうするか? 兼続は家康家臣の本多正重の息子を養子に迎え、支出を抑えてもらえるのに成功した。

 また、主君・上杉景勝に数万石の禄高を与えられることになった時、自分の禄高を減らして危機を救った。また兼続は米沢の某所で、鉄砲を隠れて密造し、乱戦に供えたという。 まだ徳川が全国制覇した訳ではなく、まだ豊臣家が大阪におり、そこで戦闘があるだろう……そういう思いだった。大阪冬の陣がいよいよもって開戦されると、上杉は徳川側につき大阪城の豊臣を攻めた。この戦で、上杉の鉄砲が火を噴いた。

 そして、いよいよ大阪夏の陣で徳川の天下となる。

 大阪夏の陣の6年後、直江兼続は病死する。実の子も養子も病死していた。こうして、直江家は断絶した。兼続の死後、上杉・米沢では兼続を称えるのがためらわれていた。関ケ原で上杉家が没落したのは兼続だし……というのだ。

 しかし、兼続の死後200年で兼続は英雄となる。第九代米沢藩主・上杉鷹山(治憲)により直江兼続の業績が見直された。こうして、直江兼続は英雄として見直され、米沢は再び試練を迎えるのである。                       おわり




<参考文献>

ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「上杉景勝」児玉彰三郎著作(ブレインネクスト)、「上杉謙信」筑波栄治著作(国土社)、「上杉謙信」松永義弘著作(学陽書房)、「聖将 上杉謙信」小松秀男著作(毎日新聞)、『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」大河ドラマ「江 姫たちの戦国」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。


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お江~姫たちの戦国時代~ 長尾景虎 @garyou999

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