おんな謙信! おんな武将上杉謙信公~謙信女性説小説~

長尾景虎

第1話 謙信女性説小説~おんな上杉謙信公~

小説 おんな謙信! おんな武将上杉謙信公(加筆版)


~上杉謙信公は女性だった?!戦国時代最大のミステリーに迫れ!~

                      ーうえすぎ けんしんー

       ~「おんな武将」上杉謙信公の戦略と真実!今だからこそ、上杉謙信~

                total-produced&PRESENTED&written by

                   NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎


         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”


                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


         あらすじ


 長尾虎千代(のちの上杉謙信)は一五三○年、越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。生母は栖吉城(長岡市)による。女性だったが男として育てられた。のちの男装のおんな武将、おんな謙信こと上杉謙信である。

 虎千代が七歳の時、父親の越後の守護代・長尾為景が死ぬと、兄と妹との骨肉の争いが始まる。虎千代は、兄・晴景より逃れ、家臣の新兵衛におんぶされて栖吉城へ。そこで文武に励む。やがて長尾景虎と名を改めた虎千代は、成長し、頭角を現しだす。

 しかし、そんな時、黒田秀忠によって守護代(守護の代官)長尾晴景(景虎の兄)が殺されてしまう。そこで初陣。不戦勝をもぎとる。だが、若輩の景虎は、カリスマがほしかった。そこで、「われは毘沙門天の化身なり」と称し、一生不犯を宣言する。

 つまり一生結婚も男とのセックスもしないというのである。しかし、それは若き頃の亡き恋人への貞操だった。いや、絆だった。

 武田晴信(信玄)との川中島の合戦では、天才的な謙信の戦略によって優位に。その間、何度か暗殺されかけるが、ある忍者に命を救われる。それは、若き日の恋人にうりふたつだった。…だが、意気揚々の謙信のもとに疫病神がころがりこんでくる。関東領管・上杉憲政、である。景虎は上杉家を継ぎ、何度か上洛を試みる。しかし、武田信玄や信長の勢力におされ、遂には一五七八年、志なかばのまま、不世出の天才・上杉謙信は脳溢血のため死んでしまう。享年、四十九歳。最後まで男装し、おんなだと一部の者しか知らぬまま。

 この物語の執筆では、上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンターティンメントとしてご理解願いたい。

 では、ハッピー・リーディング!


                                   おわり

この小説の一部は小説『聖将 上杉謙信』小松重男著作(毎日新聞社)からのオマージュです。盗作ではなく引用です。どうぞご理解の程よろしくお願いいたします。


       序章 おんな謙信 女子武将・上杉謙信




 

享禄三年(一五三○)、春。越後国、春日山城。城は山の高みにあり、雲が一つ、春風に揺れて浮かんでいる。

 だが寺に至る参道で、お紺は、激しい感情と戦っていた。

「お紺よ。今日よりそなたの生んだ次女は、虎千代で姫武将じゃぞ」

 お紺の手を引く旦那は、春日山城主の越後国主・長尾為景だ。

「私の子は、女子で……男子ではありませぬ」

 言い返してきたのは念を押される度に、である。。

 だが、答えは常にない。為景の言い付けにより、女子に生まれし次女は、姫武将として男子として、育てられるのだ。虎千代……女子なのに虎千代。

「されど、お紺よ。その子供が生まれる前に毘沙門天の夢を見たのであろう?」

「はい。毘沙門天がわれの腹を借りて、天から地に現れる、と」

「なれば……その子供は女子ではない。毘沙門天の化身の男子じゃぞ」

「されど……」

 初めお紺は、自らの変わりようの由が知れなかった。心がおだやかではなかった。

 長尾家には跡取りの男子がいない訳でもなかった。竹千代より十数歳年上の長尾晴景、という嫡男がいた。だが、頭も悪いし病弱で、使えない。

ならば、と、父の跡を継ぐため、虎千代は寺に入れられると知った。お紺は激しく抵抗した。だが、為景が頑として聞き入れなかった。

 桜が散るにはまだ早かったが、春が疾風のように迫る感がある。水に濡れた桜の花びらが、道の辺の所々に舞い落ちている。花筏……辺りの様子が、お紺の心を動かす。 

「殿。私は厭でございまする。耐えられません……男子として虎千代を生きさせるなど」

 立ち止まって退いた。だが為景が、お紺の手をしかと握って離さぬ。

「頼むゆえ、願いを聞き入れてくれ。儂には、虎千代しか世継ぎがおらぬ」

「……晴景がおるではないですか!」

「あれでは駄目なのじゃ」

 やがて、虎千代は五歳になる。もう、姫武将というより、若君のような童である。

「虎千代よ。案ずるでない。これより参るは由緒ある寺。ただ直向きに、仰せに従っておればよい。よき跡継ぎになれようて、お主なら」

 難しい言葉を並べ立てた為景を、お紺は憎んだ。詳細は尋ねるなとの、言い分だ。

「お世継ぎなど、務まりませぬ。虎千代は、女子です」

 お紺は反対したが、為景が答えない。気を逸らすように、坂の上の寺の門を指差した。

「見よ。彼の御仁が、そなたの師となるお方じゃ」

 寺の門の側に、墨染の衣を纏った僧侶が見える。お紺は目を凝らしたが、僧侶の顔までは分からない。すかさず虎千代の手を、為景が無言で引いた。再び坂を登り始める。

 参道を登りきると、二人を僧侶が迎えた。

「よくぞ参った。その童が、御殿のお世継ぎさまですか」

 皺皺の顔が、日々の修行の厳しさを表していた。静かな態度ながら、油断は見られぬ。だがお紺は、僧侶の目の奧にある優しさに気付いていた。

「この子は、世継ぎではありませぬ。上人様からも、殿を説いて下さいまし」

 お紺は懸命に訴えたが、僧侶が軽く笑っていなした。為景に話し懸ける。

「勇ましき女子よ。かような心ならば、武士に育てたくもなろうて」

 お紺は驚きを覚えた。為景が僧侶と話していて――殿が、しきりに謹んでいる。家では見せぬ柔らかな笑みを、顔に浮かべていた。見たこともない殿の態度が、お紺を厳しく戒めた。(男子になど、なりとうはない。されど、父上も困っておられる) 

 しばし僧侶と語らった後、為景とお紺が去って行った。別れの言葉はない。

目にする為景やお紺の背は、切ないほどに小さかった。

虎千代には、為す術もない。遠ざかりゆく両親を、ただ見送るほかになかった。

「行くぞ、虎千代」としゃがれ声が虎千代の哀しみを押し込めた。父から〝和尚様〟と、呼ばれていた僧侶である。

「虎千代などと、呼んで下さいますな。私は、女子でございます」

 和尚様が、無言で虎千代の頭を撫でた。だが為景とは異なり、手を引かない。踵(きびす)を返し、境内の砂利を踏んでゆく。

 遠のいてゆく和尚。虎千代は、和尚様の背を追って行った。


話を戻す。

越後の春日山城で長尾為景の妻・お紺がややを腹にやどしていた。

のちに謙信となるややである。のちの仙桃院となる年上の姉・綾姫は、

「母上、綾もおともいたしまする」

と、いろめ傘の母親と側近の女性に声をかける。綾姫はまだ幼い(五歳)。

「あなたはいい子ですね。でも、いまは暑いし大変だからよしといて」

「林泉寺に御百度まいりにいかれるのでしょう? 母上のほうが身重で大変でしょうに…」

「母は夢で腹のややこが毘沙門天の化身として宿る夢をみた。必ず男子であるように祈るのです」

「……毘沙門天の化身?」

「そうですよ。晴景の弟です」

「よしよし。腹をさすってやろう」為景は妻・お紺のおおきな腹をさすった。

「いいか。お前は毘沙門天の生まれ変わりの男子じゃ。立派な武将になれ」

「殿……必ず男子にございます。毘沙門天の生まれ変わりなら男子でしょう」

「そうか」夫婦は笑みを交わした。

しかし、生まれてみるとそれは女子の赤ん坊だった。

しくしく泣くお紺。

「申し訳ありません……わたしの信心が足りなかったのです」

為景は「おなご?」と歯をむいた。しかし考えた名前は〝虎千代〟であった。

「この子供は女子ではない。男子じゃ! 姫武将として男として育てる! 琴も笛も舞いも教えない! 武術や槍、刀、弓や学問や孫子の兵法や馬術を習わせて男として育てる!」

「しかし……おなごではありませんか」

「いや! 今日からこの赤子は姫武将……いや、男子じゃ!」

虎千代は六歳から十二歳くらいまで林泉寺に尼というより僧侶として育てられた。

おなごではなく、男として。

まるでおんな謙信という。おんな長尾景虎、おんな上杉謙信、であった。


 上杉謙信公については、様々な逸話が現代まで残っている。

「越後の龍」

「七十戦無敗の神算鬼謀の軍神」

「義の武将」

「奇策縦横の天才武将」

 むろん、私の住む米沢市の藩時代の藩祖であり、かなり尊敬しているので、あまり謙信公を〝くさす〟真似はしたくない。だが、〝不犯の名将〟で、女性を抱かず、子もなさず、結婚もしなかった。と、いえば、〝聖将〟〝無欲の天才軍神〟……というより男色(つまり、ホモ)だっただけではないか? みたいに思ったりする。

それか〝不能〟だったか。

直江兼続などは謙信の稚児(ちご)(男色の少年愛のホモの相手)だったのだとか。

信長も信玄も〝男色〟も好んだ、というが、きちんと子供は残している。

謙信公だけは子供も子孫もない。養子の景勝と景虎だけ。物凄いホモで、女性だと帆柱立つ(勃起)ことがなかっただけではないか? 女に免疫がない、とか。

だが、そういったことも上杉家の謙信公の数々の伝説で、〝あまり触れなくていいこと〟みたいになっている。女を抱いたことがない……つまり、童貞か?

いつだったか、風俗店に行き、部下と遊んだ、というのは本当なのか?

女性だったというのは本当か? 嘘に決まっている。

また、恋の相手の話も〝フィクション(架空)〟だともう判明している。

近衛前久の妹の〝妙姫〟とか。存在しない。

あと、何で、得にならないのに『義の戦』だの何度も実行していたのか? 家臣も足軽もそれで疲弊していたようだが。勝っても領土も財産も禄高も増えないなら、何故、軍を動かし続けたのか? 〝義の戦〟とは、〝カッコつけ〟のパフォーマンスか?

何が気に入らないでなのかは知らないが、何で、五度も川中島合戦を繰り返したのか?

この少年時代の謙信の奇行のひとつが、歩きながら、あるいは馬に乗りながら、『孫子の兵法』を歌い上げることと、奇抜な仙道のような服を着て、「われ、毘沙門天の化身なり!」といっては物思いにふけるような態度をとることである。毘沙門堂に籠って祈ったり……。

確証はないが、謙信は、自分は中国の孫子や諸葛亮孔明に勝るとも劣らない軍神だ、と思っていたのではないか? だから、英雄全とした〝仕草〟や〝服装〟〝態度〟をとった。

とくに、扇子を前にかざしたり、ふったり、急に立ち止まり、瞑想するように目を閉じ、戦略を練っているかのような顔をして無言を貫く態度を……好んだ。

「また、やっている」姉の綾(のちの仙桃院)はあきれることだらけであったろう。

 確かに、軍略や兵法などや学問の才能は凄く高い、知識と教養のひとである。

 子供の頃はやんちゃで、力持ちであり、ガキ大将でもあり、強かった。

 いじめは畢竟(ひっきょう)、と、仲間の子供たちを諫めた。

 だが、奇行は直らない。まあ、子供のころから『義の人』『越後の龍』『毘沙門天の化身』の噂を広めるのに腐心していた。

 だが、姉の綾(のちの仙桃院)は「不犯の名将」「生涯不犯」「生涯結婚しない」というのには、「ちょっと待って。虎千代!」と思っただろう。

 まあ、「またはじまった」である。

とにかく、謙信は自分を〝神仏〟のように見せたいのだ。


幼少時代の謙信は腕白で手のつけられない〝利かん坊〟であったという。弓矢や刀を好み、近所の小僧たちとチャンバラをしては勝ち、泣かせる腕白坊主のような少女であった。

さすがに着物も男物。男として育てられた戦の天才、のちの上杉謙信。

「……虎千代? 男子の名前ではないか……」十八歳年上の晴景は肩を落とした。

「兄上の二人目の妹ですが……」

「まあ、おれは生まれながら病弱で頭もよくない。おなごとて毘沙門天の生まれ変わりののだろう? 父上がおなごでも…と必死になるのもわかるけどなあ。俺は……戦が嫌いじゃ。陣をどうするとか人を殺すより、歌や鼓を奏でていたほうがいい。綾、俺も女子だったら」

「……兄上。……おなごの虎に家督を奪われてしまうかも…よろしいんですか?」

「……ふん。かまわないさ。おれは弱いんだ。強いものがこの越後を春日山城を守ればいい。まさに時代は戦国…群雄割拠の殺戮の時代だ。おれは……いいよ、そんなもん」

長尾晴景は遠くの空を見るような目で言った。

このひとは歴史小説では無能で愚鈍な馬鹿者として描かれる事が多いがはたして……。

長尾晴景(長尾家の長男)は越後の市井の人々と、しかも、遊女(風俗女)に「はるさん」と呼ばせて赤子までつくり、頻繁に越後の市井の人々とふれあったというのは、フィクションである。ちなみにその作品では晴景は身分を隠して、「はるさん」と呼ばせて町人のふりをする。

「だから佐渡の銀集めの人足だって…」

「嘘だあ、こんな病弱で白い肌の人足がいるもんかい」

「いや…本当だって。」

病弱で頭も悪く愚鈍であるが、遊女(風俗女)と密会して妊娠させ、その子と遊女(風俗女)が、「晴景の暗殺」を狙った水の毒をのんでかわりに死ぬ……というのは少しやり過ぎである。

まあ、漫画だからかなり演出として仕方が無いが(笑) ただひとつわかっているのは長尾晴景には夭折した猿千代という赤子がいたこと。

上杉謙信が女性だったのではないかという説の根拠に〝生涯、独身を通しひとりの嫁も娶らず、子供をひとりもつくらなかった〟ことと、上杉家に残る〝謙信直筆の書のほとんどが優しい柔らかな筆使いである〟こと。〝毎月腹痛におそわれ陣を引いた(生理?)〟こと。遺された甲冑の大きさなどから推測するに謙信の身長は五尺二寸(一五六センチ)程度であったにも関わらず「大柄」と伝えられている。これは〝女性にしては大柄〟という意味では?

そして女性説の為につくられたような越後や米沢に残るゴゼ唄(目の見えない芸能者(瞽女ごぜ)がうたう唄)が

♪とら年とら月とら日に(謙信の誕生日は享禄三年(寅年)一月(虎月)二十五日(寅日))

♪生まれたまいしまんとらさまは(〝まんとら〟は謙信の二番目の名前、「政虎」とも「政治をする虎様」のことだともとれる)

♪城山さま(春日山城・上杉謙信の居城の山城・現在新潟県上越市に城址がある)のおん為に 赤槍立てて御出陣 男もおよばぬ太刀無双(男性だったら男もおよばぬ…とはならない筈)

また甲斐の虎・武田信玄(晴信)だが、例のでっぷり太った髭の肖像画は、あれは信玄ではなく、能登(のと)の畠山義総(はたけやま・よしふさ)という説が有力だ。で、本

当の武田信玄公は若いときからの労咳(肺結核)で、細身の色白な美男子だったという。

徳川家康が天下をとり、徳川幕府をつくった辺りから幕府は「武家御法度」をつくり、女性の大名を禁じた。

ということはおなごの城主、大名も珍しくなかったのだ。

井伊直虎、立花誾千代、寿桂尼、淀君……

上杉家は初代の謙信を「男」とする必要に迫られ、江戸時代に例のひげ面の上杉謙信公肖像画が誕生する。


享禄九年(一五三六)、九月。虎千代こと長尾景虎は、七歳になっていた。あれから三年が経っている。男子として寺に預けられてから、だ。

寺には、二十人以上集まっているが越後の周辺を在所とする武家の子弟である。日々、手習いや、武芸の鍛錬に勤しんでいる。

子弟の中でも、景虎の才覚は際立っていた。坂を駆ければ誰よりも速く、書物をそらんずれば誰よりもくわしい。景虎にとって、既に童向けの往来物は退屈なだけだった。今では兵書は元より、歌集や論語までひもとき始めている。一方で、馬に乗せれば大人よりも上手かった。

近頃は、剣の稽古も始まっていた。真剣ではなく、木太刀である。

景虎の稽古の相手は、虎次郎という童だった。齢は一つ下の六つである。足が遅く、読み書きが不得手だ。身体も小さいが、力だけは少し強かった。

在所が近いだけの由で、組まされていた。

 前の二人が、拙い太刀捌きで打ち合っている。木剣がかち合う乾いた音も、軽々しく勢いに欠ける。二人とも攻め手を失う。後は、肩で息をして見合っている。

「そこまで。次、景虎さまと虎次郎」声を懸けた。

 朋輩衆が座り込んで見守る中、景虎は虎次郎と向き合った。

「皆、景虎さまの太刀筋を、よく見ておけ」

景虎の心に陰が差す。迷惑が顔に表れぬよう、景虎は努めた。

剣術指南が「初め」と命じた。奮い立った虎次郎が、勢い猛に打ち込んでくる。二大刀、三大刀と、剣を合わせた。難儀ではないのは虎次郎を打ち倒すことである。

だが、景虎は困じていた。周りの目が景虎を見つめている。何事につけ、これ以上、朋輩より長じたくなかった――自分は近頃、周りの憧れと嫉みを集めている。

賢い景虎は、そのことを知っていた。文武に秀でているだけではない。切れ長の瞼に、長い睫毛。紅唇に白い肌。顔形が優れているゆえだと分かっていた。

年上も朋輩には多い。芽生え始めた色欲が、景虎へと向けられていた。

「どうした、打ってこい。お前の剣は飾りか」

怒りに任せて剣を振るうには、景虎は、知恵が優れすぎていた。木太刀とはいえ樫である。命を奪う危険もある――景虎は、自分が恐ろしくなった。

虎次郎に押されるまま、退いた。わざと、ふらついて見せる。

「そこまで。二人とも、剣を納めよ」

剣術指南は、冷めた様子で、「次の二人、出でよ」と、目を逸らせて命じた。

景虎は、密かに安堵していた。

またも虎次郎と景虎の試合となった。

虎次郎は、景虎の速さにはついて来られない。だが難儀は、腕ではない。かつてのように、目立ちたくないゆえでもない――このところ、景虎は虎次郎から、思いを懸けられていた。

男色の気があるのか、女と見抜いているのか。人を見るに鈍な虎次郎が、密事を見通せるとは思えぬが、景虎には迷惑だった。

「確かに、男にしておくには、惜しい細面じゃな」

 景虎は息を飲んだ。虎次郎が、口の端を歪めて笑っている。

(虎次郎ごときでも、知っていたとは)

 砕けゆく心を、懸命に持ち直した。正眼に構えたまま、言葉を返す。

「稽古の最中に、由なし事を申すな」

 剣術指南役が、言い争いを聞いて咎める。厳しく叱りつけた。

「しかと構え、剣を合わせよ」

 景虎は押し黙った。ひとまず口を噤んだ虎次郎の総身から、獣のごとき悪臭が漂う。

(何と醜く汚らわしい生き物か、男とやらは)

「いかがした、早う、打ち込んで来い」

 再び虎次郎がにやけた。景虎は思うよりも速く、虎次郎の面を叩き込めた。

「ぐっ………女子の分際で、賢しこい奴め……」

 虎次郎が、その場に倒れ込んだ。

 伏したまま動かない虎次郎に、朋輩衆が駆け寄る。剣術指南役が、景虎に鋭い目を向けた。

「景虎様よ、わざと額を打ちおったな」

景虎は我に帰り、愕然としていた。倒れた虎次郎は息をしているが、気を失っている。下手をすれば、殺していた。

「腕は上がっても、心が練れておれぬ――虎次郎が気付くまで、付き添うておれ」

景虎は茫然と立ち尽くした。木太刀を手にしたまま突っ立っていた。


話を戻す。

春日山城の雪の中、虎千代と父・為景は湯を飲み遠くの海や山をめでた。長女の綾姫と長男の病弱な晴景は屋敷の部屋で琴と鼓を奏でる。

為景は、「男が鼓をうまく叩いても国は守れん。虎千代、この春日山城を越後をどう守り、どう攻める?」

虎千代は「前々から土塊(つちくれ)で春日山城の模型をつくり、われが武田の将ならばどう攻めるか策をねっていました」

「そうか」

「どうか……今度の戦ではこの虎をつれていってくだされ!」

「すまぬ。……虎よ。…わが軍の跡目は晴景じゃ」

「わかっておりまする。しかし、……兄上が駄目なときはこの虎を……!」

「よかろう! そのさいには兵法三十六計を学べ!」

「はい。父上のひざのうえにのってもよろしゅうございまするか?」

「ふ、子供のようなことを……まだ赤子の気でいる」

親子は微笑んだ。これが父とムスメの最後の団らんとなった。

下克上によって謙信の父・長尾為景は主君を討ち越後を手に入れた。そのため逆臣のような為景を憎む国人衆も多く、春日山城はいつも危険と隣り合わせであった。

豪族との争いが絶えなかった。謙信もそんな父が死に寺より春日山城に戻されたのだった。

幼少の頃より寺(林泉寺)にいれられた当初の虎千代は、当時、腕白で和尚に錫杖(しゃくじょう)で叩かれまくった。さすがに耐えられず、

「おれは城に戻る! 春日山城で飯をたらふく食う!」と反発した。

だが、和尚に「お前には帰る場所などない。ここだけだ! 今日は罰として薬石(夕飯)抜きじゃ!」としかられる。林泉寺は謙信の祖父が建てた寺。林泉寺の六代目の和尚が名僧・天室光育(てんしつ・こういく)。我が儘腕白だった謙信がのちに冷静沈着な武将になったのもこの光育の修行の賜物だ。

林泉寺では虎千代は厳しく修行させられた。崇謙が、

「この本堂の床を朝から晩まで雑巾できれいに磨きなされ!」

「この床は汚れてはおらぬ! ほれ、足も真っ白だ! 掃除とは汚いものを綺麗にするものだろう? 無駄ではないか?」

「それは違いまする、虎千代さま。益々きれいにする。掃除とは心の掃除でございまする」

「馬鹿な! おれはこんなことしないぞ!」

「わたしは庭の掃除をして虎千代さまがサボらないように見張っています。もし、さぼればお灸をすえまするぞ」

「……お灸?」

「幽霊がいっぱいでる部屋に閉じ込めまする!」

「……」虎千代はぞっとする。

それでも掃除をして夕ご飯をもらうと反発した。粥と梅干しのみ……ふざけるな!

「おれはつかれているんだ! 握り飯をだせ!」

虎千代は粥の器を手で弾く。粥は床に落ちる。

崇謙は虎千代を抱えて、罰として蔵に閉じ込めた。虎千代は崇謙の腕を咬んだ。

兄弟子の僧侶が不遜な虎千代を諫めた。

「し……城に帰りたい……姉上と父上に……母上に……あいたい! ……なぜ、毘沙門天の化身のはずのおれが女子なのじゃ?」

「女は男より強い。その強さで男よりも強い力でやがては越後を守ってくだされ」

兄弟子の益翁崇謙(やくおう・しゅうけん)は虎千代を抱擁して頭をぽんぽんと優しく叩いた。

謙信(長尾虎千代→元服して長尾平三景虎→三十一歳で、関東管領で、上杉政虎→四十一歳で上杉謙信)は崇謙のふところで号泣する。

「おなごなれど……できるかのう?」

「歴史は男だけがつくるとは限りますまい」

「……じゃな。わしは姫武将……おなご武将じゃな」

「…はい」

 のちの上杉謙信の「謙」の文字はこの崇謙からとられたことは有名だ。

虎千代のちの上杉謙信の人生におおきな影響を与えた僧侶でもある。

雨の日、光育と虎千代は話した。

「…虎様は何になられまする?」

「虎は毘沙門天の生まれ変わりじゃ! 大将にならず、誰がなる!」

「おなごのあなたは後いくつかしたらどこか遠くに嫁にやられるでしょうなあ」

「な……何を…! 虎は…嫁になどいかぬ!」

「では、何に?」

「決まっておろう! 虎は父上のような戦人となるのじゃ!」

「虎様、戦はあそびとは違いまするぞ。腕白が戦上手とは限りません。越後のために越後をまもるために学びなされ!」

虎千代がはじめて生理(初潮)を迎えたとき、虎千代は、

「病気じゃ! 股から血が出た! 薬師を!」と当惑した。母親は微笑んで、

「病気じゃないのよ。これはおとなのおなごになったという証……毎月腹痛と出血がくる」

「…なんで?」

「それは子供を産み育てるためじゃなあ。びっくりしたであろうな。母が前もって教えておれば……まさかこんなに早いとは…」

「母上……この血は…」

「これ、着替えをもて」

しかし、虎千代は暗い山道を駆けて林泉寺へ向かった。

門前の崇謙に抱きつく。

「崇謙、大変じゃ! われがおなごになるのをとめてくれ! 股から血が出た。毎月、この腹痛と出血があると……これでは戦にいけぬ!」泣き崩れる。

「ならば隠し成され! おなごは大人になれば股から血が出る。だが、それを隠さねば家臣たちから「所詮はおなご」と侮られましょう。ここは男のふりで通すしかない」

基本的には「謙信を男性化する」と提案したのは本庄実仍(ほんじょう・さねより)と和尚と益翁崇謙であったという。男装させ、胸をさらしでまいて隠し、男のなりをした。

姫と知るのはわずかな側近のみ。


半刻後。人影のなくなった稽古場は、静かで広く、人の声もなかった。

景虎は稽古場の片隅に座していた。一人ではない。気絶した虎次郎の頭を、膝の上に乗せている。

一刻も早く逃げ出したかったが、剣術指南役には逆らえない。

「ようやっと、二人きりになれたの」

ぎょっとして目を向けると、虎次郎が膝の上で笑っていた。ふと膝の上が軽くなる。虎次郎が、やにわに覆い被さってきた。

「何を致す。よせ、不届き者め」

「神妙にせい。今、女子に戻してやるゆえ」

抵抗しても、力任せに組み伏せてくる。かつてであれば、虎次郎を倒すに難儀はなかった。だが近頃では、男子のほうが育ちがよい。速さでは負けずとも、力で押されてしまう。

「汚らわしい、止めよ!」

 景虎は拳を面に飛ばした。虎次郎が、鼻から血を垂らした。手で押さえて、自分の血を見詰めている。景虎を見下ろして嘲笑った。

「こそばゆいのう、女子の突きは」

 かえって情が激したらしい。いっそう高ぶった様子で、襲ってくる。

「離せ、下郎。お前はそれでも武士か」

 景虎の言葉を、虎次郎が嗤った。

「武士ゆえ、女子と交わろうとしておろう」

虎次郎の手が胸元に触れた。いくら晒で押さえても、膨らみつつある乳房は隠しようもない。動きを止めた虎次郎が、卑しい笑みを満面に広げた。景虎は身体から力を抜いた。

観念したように目を閉じると、虎次郎が景虎の稽古着を広げた。胸の晒が露わになる。虎次郎が、自分の帯を外す音が聞こえる。額に、虎次郎の稽古着の裾が触れた。咄嗟に目を見開き、近くの脇刺しに手を伸ばし、虎次郎の腹を刺し上げた。

血が滴る。浅い傷だった。虎次郎の股座を、脛で蹴り上げた。虎次郎が股を押さえ、悶えている。

稽古場の気を切り裂いて、景虎は「去ね」と、猛々しく一喝した。内股の虎次郎が、ふらつきながら、立ち去ってゆく。

泣くまいと思った。泣いたら負けだ、とも思った。

元より虎次郎のごとき者とは、争っていない。景虎は、稽古着の前を直すと、立ち上がった。

(男は、醜い。そして、汚らわしい)

 心の中で幾度も唱えつつ、景虎は稽古場を後にした。

 のちに、虎次郎こと中村主水覚兵衛は切腹に、なる。


話を戻す。

虎千代は、十五歳で、初陣で大勝利をおさめる。

のちに“栃尾城の合戦”と呼ばれることになる長尾景虎と揚北衆軍との戦いでは、景虎は十五歳にして天才的な軍略をみせる。物見の情報で栃尾城を囲む軍勢は小荷駄(食糧補給隊)をもっていないことで「これ見よがしに軍勢を誇示しているが栃尾城に攻撃しては来ない。こちらが籠城戦をするのを目論んでいる。小荷駄もない。ならば少数でも勝てる。少数精鋭の部隊で火矢を打ちかけ進撃すれば勝てる」と本当に揚北衆を敗ぶる。

崇謙に林泉寺の桂の木でつくった毘沙門天像をおくられ「虎は怖い。栃尾の城の人間がひとりでも死んだら……しかし、この毘沙門像で勇気がわいた」

「虎さまは死にまするか?」

「いや、わしは死なない。必ず勝利する! 春日山の兄上のためにも!」

こうして生涯に七十戦して二引き分け六十八勝の戦の天才ののちの軍神さま、上杉謙信(長尾景虎)が歴史に鮮烈な登場を飾る。大勝利をおさめた戦では、白頭巾がとれ、長い髪をなびかせながら姫武将として闘った。

崇謙に景虎は「勝ったぞ、崇謙! われら越後が勝った!」と報告する。

さらに景虎は「虎を抱け、崇謙! 虎を本物のおなごとしてみよ!」

「……虎様。あなたさまは毘沙門天の生まれ変わり。おなごになっては越後を守られないですぞ!」

「……しかし…」

「この場でこの崇謙に生涯不犯を誓いなされ!」

「…不犯? …崇謙…そうじゃな」

元服を兄・晴景にやってもらい男として、平三景虎・長尾景虎となった。

のちのおんな謙信、おんな上杉謙信、である。

父親の長尾為景の葬儀の時には、虎千代は黒い甲冑をつけてハチマキを頭に巻き、男装で参列したという。隣席の兄の晴景が「泣いてもいいんだぞ? 虎」というが、虎千代は、

「泣かぬ! 虎は泣かぬ!」と気丈にいった。

姉・綾姫が坂戸城主・長尾氏に嫁に行くとき虎は「嫌じゃ! 嫌じゃ!」と反発した。

しかし姉が「虎…わたしはね。虎、あなたが生まれたときうれしかったの。…妹が出来たら…琴や歌を教えて…でもひとつだけ夢が叶った。見て、虎」

それは花畑だった。

春日山城址の山頂側に「お花畑」という可愛い名称の土地がある。その横に上杉謙信が籠もった毘沙門堂があったという。

毘沙門天の化身、戦の天才、軍神・上杉謙信公……


謙信公が躁うつ病であったことは、すでに現代医学で確証済みである。

躁(そう)状態のときは戦に出て、軍略や兵法の巧みさで勝利し、義の行いをしてカッコつける。だが、うつ状態のときには、無気力で重い気持ちになり、戦どころか毘沙門堂に籠り、一日中、祈っている。酒も「小心者」だがら、そんな自分に発破をかけるように深酒をする。馬上杯だの、乗馬でも飲み、酒のつまみに塩辛い漬物を食べる。

これが、のちに脳梗塞につながり、死因になった。

一人を好み。孤独がむしろ好きだった。

パラノイア(誇大妄想狂)でもあったのかも知れない。

ストレス性の病気で毎月胃腸の病で腹痛が襲う。

そして、極め付きは「不犯宣言」である。

「わしは誰とも結婚しない。女も抱かない。子もなさない。生涯不犯である!」

 姉の綾(のちの仙桃院)は呆れて、

「お前様はまだそのようなことを……」

「何がおかしいでしょうか? 姉上」

「なんで結婚しないの? 子供をつくらないの?」

「それはわれが毘沙門天の化身であるからです。神は子供をつくらない」

「はあ?」

「おれは孫子も諸葛亮孔明も超えますよ。みていてください!」

 またはじまった。……姉の綾は頭を抱えた。

 だが、このはったりやペテンがまだ家臣や部下には知られていない。

 名門の家系がそのはったりを真実化させるのか?

 とにかく、もう勘弁してほしい。それが綾の本音ではなかったのか?



誰でも知る奇策によっての歴史上の勝利の合戦は、織田信長と今川義元の『桶狭間の合戦』と、毛利元就(もうりもとなり)と陶(すえ)晴(はる)賢(かた)との『厳島の合戦』であろう。

毛利の『厳島の合戦』はまさに謀略に次ぐ謀略で敵を厳島に誘い込んで毛利元就は陶晴賢の首をとった。織田信長の名を世の中に知らしめた『桶狭間の合戦』は今川軍五万VS織田軍二千の奇襲戦法であった。油断した今川義元の本陣に信長は奇襲をかけて、義元の首をとった。まさに奇蹟の大勝利である。

だが、軍神としても知られるのちの上杉謙信こと長尾景虎は戦で死んでいった足軽達の累々たる屍をながめ、「わしは戦が嫌いじゃ。ひとを殺して血を流す戦のない太平の世をつくりたい。戦のない世をつくりたい! 戦国時代をおわらせたい! ……これは夢幻かのう」

ある日、鏡の前で謙信はおなごの衣を羽織ってみた。宇佐美定満がやってきて、

「お脱ぎあれ!」という。

「……何故じゃ?」

「御殿は長尾(上杉)家の御屋形さまだからです。春日山城の主であるからです。」

「…そうか。」

のちに関東管領・上杉憲政は戦や謀略に負けて越後に落ち延びてきた。

長尾景虎はその上杉憲政(のりまさ)を三顧の礼で迎えいれ、この人物より「上杉」の姓を授かった。

景虎は言う。「われの名はこれより、長尾景虎から……上杉…上杉政(まさ)虎(とら)である。これより我は上杉である!」と全国諸大名に発した。

のちの関東管領・上杉謙信の誕生、である。




 愁いを含んだ早夏の光が、戦場に差し込んでいる。上杉軍と武田軍は川中島で激突していた。戦況は互角。有名な白スカーフ姿の上杉謙信は白馬にまたがり、単独で武田信玄の陣へむかった。そして、謙信は信玄に接近し、太刀を浴びせ掛けた。軍配でふせぐ武田信玄。さらに、謙信は信玄に接近し、三太刀七太刀を浴びせ掛けた。焦れば焦るほど、信玄の足の力は抜け、もつれるばかりだ。なおも謙信は突撃してくる。信玄は頭頂から爪先まで、冷気が滝のように走り抜けるのを感じた。「おのれ謙信め!」戦慄で、思うように筋肉に力が入らず、軍配をもった手はしばらく、宙を泳いだ。

川中島の蒼天には中国の故事で、「正しい戦・政」をするものの頭上にだけ現れるという巨大な蒼い龍が、そして黄金の虎が、両雄激突の頭中で現れていた。

きらきらと光る龍虎……まさに圧巻であった。流石は越後の龍。流石は甲斐の虎!!

「運は天にアリ! 鎧は胸にアリ! 手柄は足にアリ……我毘沙門天の化身なり!」

「こざかしい、謙信入道よ! ひとは城! ひとは石垣、ひとは堀!」

「越後のそして関東のために勝負いたすぞ、信玄入道!!」

「こい! 謙信!」

三太刀七太刀……蒼天の龍虎もまばゆい光で戦う!

まさに、義の軍神・越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄との両雄激突となる。

蒼天の龍虎……これがすなわち、天下人への道で、ある。

はてさて、勝利の女神はどちらの英雄に微笑むのか?龍VS虎…運命のふたりの戦国武将。 戦国乱世の世を、義を貫いて生き抜いた軍神・上杉謙信。越後の虎とも龍とも呼ばれた猛将・謙信は自らを戦いの神毘沙門天の生まれ変わり化身と信じ、「毘」の一旗を揺るがして闘った戦国最強の名将の中の名将である。

上杉謙信にまつわる逸話や俗話や仮説の中に、謙信が実は女性であったという説がある。そう謙信が女性だった。

にわかに信じがたい説だがそういう説もあるということだ。

長尾景虎、のちのおんな謙信、おんな上杉謙信は女性の月もの(生理)は重かったという。戦の最中でも、影武者をたてて春日山に引き戻り、籠もることもあったという。

おんな謙信が女性だと知るのは一部の回りの家臣などだけであった。が、武田晴信(信玄)と、軍師・山本勘助だけは知っていたという。それを言いふらさず秘密の儘にしたところが流石は天下の武田信玄、と、軍師・山本勘助、である。おんな謙信は一部でしかなく、ほとんどの家臣や敵方は男の武将だと思っていた。故に、生涯独身の景虎を毘沙門天の化身、越後の龍、越後の虎、軍神(渾名)、と恐れたのである。

*偉人たちの健康診断(NHKBS放送分2017年12月6日木曜日夜20時~21時)

偉人たちの健康診断。今回は越後の竜とされた上杉謙信公。75勝2敗と戦国時代最強の武将。天下平定に燃えていた矢先、突然の死………四十九歳で突然倒れて死亡する。本人も周囲もあまりにも突然のことで謎が深まり“暗殺説”も出たほどであったという。

そこで今回は上杉謙信の死の原因を徹底検証します。科学の力で検証。その謎に迫るのは、二枚のまったく異なる肖像画。信長をも恐れさせた謙信の頭脳は謙信公のある生活習慣がつくりだした。(判断力、軍略、兵糧攻め、接近戦、兵法、奇襲、相手の動きを詠む)それは春日山城毘沙門堂での瞑想……瞑想が謙信の天才をつくった。だが、現代でも恐れられるある生活習慣病が謙信にはあった。

医師(内科医)おおたわ史絵さんと歴史学者の本郷和人さんが検証します。

上杉謙信はシュッとした痩せていて強い、というイメージ。イケメンで強いイメージ。誰とでも対等にかかわり、敵にも信用された謙信。公の人格を知るのが二代藩主で甥っ子の上杉景勝への“伊呂波尽(いろはつくし)手本”(国宝)。文字を丁寧に教えた。

武田信玄は「自分が死んだら上杉謙信を頼れ(息子・勝頼に)」といい、北条氏康は「ただ一人、死んで骨になっても義理をとおす武将だ」とのべる。

謙信は四十九歳で突然倒れる。兵を集めて京へ行くのか? 関東に行くのか? 一説では織田信長と乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いをするつもりだったという説も。

厠(かわや・トイレ)で突然倒れた。

新潟県上越市。かつての越後国。二十一歳で越後を統一した軍神・上杉(うえすぎ)謙(けん)信(しん)。毘の旗は上杉謙信が〝毘沙門天(びしゃもんてん)の化身(けしん)〟と自分を信じて、矢も鉄砲の弾も当らないと考えていたから。

川中島での武田信玄との戦い……信長との手取川合戦……謙信「信長、案外、弱し」

歴史学者の大和田さんは「上杉謙信は自分で天下統一ではなく、室町幕府の足利将軍による幕府の天下統一」。

二枚の肖像画(山形県米沢市のひげ面のかっぷくのいい肖像画*江戸時代に画家の想像で描かれたもの)(新潟県上越市の常安寺に伝わる細い女性のような肖像画)。

江戸時代、上杉家が治めた米沢藩(山形県米沢市)。ここに謙信のものとされる甲冑(かっちゅう)があります。米沢市の宮坂考古舘、ここに室町時代後期とされる上杉謙信の甲冑(素懸白綾威黒豉葦包板物腹巻・まらけしろあやおどしくろしばかわつつみいきものはらまき)(伝 上杉謙信所用)……軽い牛皮つくりで前立ては勝(かち)虫(むし)といわれるトンボ。トンボは前にしか進めないので縁起がいいとされる。戦国時代は勝虫がよく用いられた。甲冑師の森崎千(たて)城(き)さん(男性)のもとこの謙信の甲冑を計らせて頂いた。

甲冑は通常、本人を採寸してつくられる。つまり、甲冑により謙信の体格身長などがわかります。甲冑の謙信の腕の部分(順天堂大学の研究で身長と上腕部とが相関関係があるとのこと)で、「右上腕部の長さ×2.79+73.242=身長」である。謙信の上腕部(肩から手首まで)は30.5cm。これで計算すると上杉謙信の身長は158.3cm。

謙信は痩せていたのか? 太っていたのか? 

室町時代の鎧の胴回りは本人の胴回りにフィットするようにつくられている。胴回りを測ってみると、85.5cm。日本人のメタボリックシンドロームの診断基準は胴回り(基準)85cm以上。上杉謙信はメタボで太っていた? では、やせた肖像画はいったい? 

その謎をとくのが上杉家執政・直江兼続の日記。“謙信公はご病気でもないのに日々やせていった”“最近の謙信公は食べたものをすぐに吐いてしまう”

このやせた肖像画は〝謙信の晩年の肖像画〟ではないか?とも。

また文禄八(一五六五)年謙信三十六歳。突然高熱を出して、左脚に風腫というできものができて、苦痛で倒れた、とも。これにより謙信は生涯、左脚をひきずっていた、とも。

急激な痩せ、おう吐、大きな腫れ物……これらの原因となる病気は? 

医師の若林さん「上杉謙信は“糖尿病”だったのではないか」

糖尿病は血液の中の糖分が増えること。これが目にいき、血管が詰まると失明、腎臓にいくと人工透析が必要に、手足にいくと壊死(えし)して最悪切断のケースも。通常は、人間は血中の糖分をインスリンが吸収して体のパワーとする。しかし、糖尿病となるとインスリンが減り、パワーがだせず、血管が糖でドロドロになる。そのため糖分が吸収できず痩せていく。

現代の糖尿病の患者数は厚生労働省発表で約1000万人。今まで年間2万人が切断や失明などをしている。

糖尿病の自覚症状(*尿がたくさん出る・回数が多い*のどが異常に渇く*だるい*食欲はあるのに体重が減る)(多飲多食)(口渇感)……これらの自覚症状が出たらもう進行がすすんでいる。(血糖値(標準値)は100mg/bl)

原因は乱れた食生活に運動不足、暴飲暴食、アルコール、タバコ、遺伝……

 戦国時代の上杉謙信の食生活は一汁二菜と質素。カロリーも高くない。毎年戦で運動不足でもない。では何故糖尿病に??上杉謙信公が上洛したときの様子の日記・近衛前久(さきひさ)日記(国宝)“若衆 数多 あつまり候て 大酒まてけて 度々 夜をあかし”(若い衆を大勢集めて朝まで大酒を度々くらったようだ)。また馬上杯(ばじょうはい)と称して馬に乗りながらも大酒を飲んだ(一合とっくり二合半約450ml)。更に謙信は戦場で弓矢がとびかう中、酒をのみつづけた。多年にいたる大量の大酒飲みが糖尿病の原因。

当時、玄米でつくる“どぶろく”ではなく、白米純米でつくる新しい酒(諸白・もろはく)がつくられていた。いつでも飲める酒環境があった。

上杉家の子孫(上杉孝久さん)も「謙信は酒豪だった」と認める。財力のあった謙信は高価な諸白(お酒)をいくらでも呑めた。

そして諸白は糖分が多かった。普通の酒の糖度が(大甘口-6甘口-5~-4やや甘口-3~-2普通-1~+1やや辛口+2~+3辛口+4~+5大辛口+5~+6)で今の酒は+3.7ぐらい。

一方、諸白は-18。100ml中の糖度値9g。現在の日本酒(純米酒)の約2.5倍の糖分。馬上杯一杯だと、角砂糖12個分。酒の飲み過ぎによる脳梗塞で、謙信は死んだ。

天正6(1578)年3月9日、上杉謙信は厠で倒れた。動脈硬化、脱水による糖尿病での脳梗塞だった。意識が戻らず、ロレツも回らず、失語病……同13日死去(享年四十九歳)

〝四十九年一睡夢一期栄華一盃酒〟上杉謙信

NHK番組『英雄たちの選択 上杉謙信』より参照。

上杉謙信と言えば義の武将、軍神、越後の竜、越後の英雄、武田信玄との川中島の戦い、米沢藩藩祖……。だが、上杉謙信は足利幕府と朝廷との間の中央工作を金余氏を通して行い情報を得て、秘密工作を行っていたことは、あまり知られていない。

時の将軍・足利義輝に金三千定を贈った(謙信が)。

謙信の大金の元は「青苧(あおそ)」。莫大な資金を得た上杉謙信は調停工作を行う。

天文二十二年(将軍・足利義輝京追放)その陰には三好(みよし)長慶(ながよし)という黒幕がいた。

文禄二年(1559)謙信は上洛して将軍家の復権を計り、三好長慶を討つことを決意した。上杉軍五千…。今川義元や織田信長らは「幕府や朝廷などいらない」としていた時代に、上杉謙信は幕府や朝廷を大事にした人物だった。

脳科学者の中野信子氏は「〝社会脳〟が発達したひと」と謙信を評価する。

「その時代の社会の動きがわかるひと。幕府の将軍や朝廷の公家に献金している。営業マンなどがつかう手だが、相手にお願いをして、〝(相手が)このひとのためにこれだけやったから〟=あのひとのことを自分は好きに違いない…という心理を利用した」

船道前(港税)と青苧(あおそ)ビジネスと金山で莫大な資金を得た上杉謙信。

その謙信の父親の長尾為景は朝廷より“紺地色の日の丸”の旗をもらいうけている(上杉神社蔵)。

上杉謙信は四月二十九日、上洛した。と、同時に甲斐の武田信玄(晴信)が信濃に侵攻した。侵攻は三度目の川中島合戦後の将軍が仲裁にはいって結んだ和議をあからさまにやぶる悪なる行為であった。

謙信は三つの選択に迫られる。一、三好を討つ。二、越後防衛のために信玄に兵を向ける。三、関東管領として関東に打って出る。

謙信は京で前の関白・近衛前(このえさき)久(ひさ)と会談し、関東管領の上杉五郎憲政をたすけて関東管領を受けた。これにより、上杉の姓をも賜わり、長尾景虎から上杉政虎と名を変えた。関東管領として毛氈鞍蔽(もうせんくらおおい)いなどを賜わり、関東軍つまり官軍として関東に侵攻すると、十一万もの兵が集まった。謙信は三を選択した。

しかし、謙信は北条氏の小田原城を落とすことなく、鎌倉の鶴岡八幡宮で、「頭が高い」と忍の成田某を扇子でむち打ってしまう。

これで「なんだ。その程度の人物か」とカリスマ性を失い、十一万もの兵はバラバラになった。それで第四次川中島合戦になる。関東平定は諦めざる得なかったのだ。

謙信VS信玄の三太刀七太刀……だが、謙信は多くの武将や政治家や宗教家がしたように〝神話〟をつくればよかったのだ。「毘沙門天の化身」という割にはそれが越後国内向けであり、「軍神」「義の武将」というのも越後国内向けだった。

もし、成田が謙信を「毘沙門天の化身」「軍神」「義の武将」と思っていれば頭を叩かれても文句も言わなかった筈である。神の化身なのだから……。

それにしても、十一万の大軍で北条の小田原城を落としておけば〝関東平定〟は出来た。

それがやりもせず、身分が高くて頭を下げなくてもいい成田某をむち打つのでは話にもならない。関東の偽北条家(鎌倉の北条家とはなんの関係もない)を討てば話は違った。

つくづく残念である。



武田の無敵騎馬隊が風林火山の旗印の元、上杉謙信こと長尾輝虎との対決の為に川中島に陣を進めていた。武田晴信は出家して「信玄入道」と号していた。

 騎馬隊や歩兵部隊全四万もの大軍である。馬上に隻眼の醜い男あり。このひとが「武田の謀将」と恐れられた軍師・山本勘助である。藁の眼帯をして顔中斬り傷の跡だらけである。

それより数年前……

山本勘助、また戦いに敗れた。この人物は謎に包まれている。

 わかっているのは全身に二十八の傷跡。四十過ぎの中年で、醜く裂けた片目が印象的である。

 戦で三十四年負け続け、全身に傷跡だらけ。だが、この男こそのちの武田(晴信)信玄の軍師となる山本勘助入道道鬼、である。

 九年後の駿府のあばら家で、その勘助は蝋燭のカスを集めて、新たな蝋燭をつくる内職のようなことをしている。

 もう夜で、あばら家の長屋の一室で、醜い傷だらけの顔の男は蝋燭を削っている。

 外から相棒の青木大膳が「おーい、バケモノ! いるかー?!」とくる。

「酔っておるな?」蝋燭から目も離さず勘助は言った。

「だから何だ? この化け物! いいか、俺はなあ、近々のうちに仕官の道が開けそうなんだよ。どうだ? 羨ましいだろう?」

「………確かなのか?」

「おうとも!」大膳は息巻いた。「この駿府に明日の夜頃、あの武田の重臣・板垣信方さまが通られる。そこでだ、俺のこの剣を見てもらうのよ」

 そういって大膳は抜刀すると、蝋燭の灯りの部分だけを斬り、剣先に火のついた蝋燭部分を載せた。すばやい太刀裁きである。

「どうだ? バケモノ! なにが天下無双の軍師で兵法に明るいじゃ! ばーか! 俺に土下座するなら仕官の後、俺様の家来にしてやらぬでもないぞ」

 勘助は少し黙ってから「すこし甘いのではないか? その程度の腕で、あの甲斐の国主・武田さまの重臣・板垣信方さまがなびくか?」

「じゃあ、どうすればいいっていうんだよ、この化け物!」

「お前がその板垣信方を斬るのだ!」

「あ?! 何を言う!」

「いや、本当に斬るのではない。お主が頭巾で顔を隠して板垣さまに斬りかかる。そこをこの俺がたすけて、俺が仕官して、のちにお前を相棒として仕官させるのだ」

「成程、命の恩人として恩を売るのか? なるほど、やれるか? バケモノ」

「ああ。これで俺たちもあの甲斐の武田さまの家来じゃ!」

「おう! ははははぁ」

 首尾は順調だった。青木大膳は頭巾で顔を隠して、その夜、わずかな供回りだけの板垣信方に斬りかかった。

「板垣覚悟―!」

「まてぃ! 助太刀いたす!」

 山本勘助は現れて、板垣信方を守った。何と、青木大膳を斬り殺したのだ。「ぎゃーああぁ!」顔と首を斬られて、……話が違う…大膳は土手に斃れて、河に落ちた。即死らしい。

 ……大膳よ、成仏いたせ! お前の分までこの勘助は生きるでなあ。にやりと笑った。

 当然、というかその後、山本勘助は武田家への仕官の道が出来た。

 この頃、甲斐の元・国主で武田晴信(のちの信玄入道)の父親・武田信虎と勘助はあっている。密会で、信虎は駿府の今川へ追放されていた。

 覆面姿なのに勘助は「もしや信虎さまでは?」とするどい。

「さすがじゃのう山本勘助! どうだ、一国一城の主になりたくはないか? 武田晴信、わしを駿河に追放した晴信を殺せば一國やる。どうじゃ?」

 勘助は断るでもなく引き受けるでもなく、「いやいや、なんとまあ」といい杖で歩き去った。信虎の家臣は東雲(しののめ)半二郎である。

「御屋形さま、斬りまするか?」東雲は訊いた。

「いや。斬るには惜しい。バケモノだ」信虎は言った。

 武田の重臣は板垣信方、甘利虎秦、飯富(おぶ)虎昌、諸角虎定、馬場美濃守信春…

 信玄の弟、左(さ)馬(ま)守(のかみ)信(のぶ)繁(しげ)は、「兄上が駿府に駿河にいく必要はありませぬ」という。武田信虎追放のことでだった。

 武田晴信(のちの信玄)は「父・信虎をとるか? それとも俺(晴信・信玄)をとるか?ふたつにひとつじゃ」という。

 ……それがしは月の如く……

 ……御屋形様は太陽の如し…

 山本勘助は元・妻のミツや友達の伝助のことを考えていた。妻は懐妊しており、ややももうすぐであった。だが、その愛しいミツは武田晴信(信玄)の実の父・武田信虎にまるで「野遊び」のごとく種子島(火縄銃)で殺された。勘助は当然「武田信虎」への復讐を胸に誓った。

 だが、後述するが晴信はその鬼畜のような実父を甲斐(山梨県)から駿河(静岡県)の今川の元へ追放する。それを知った山本勘助が男泣きに泣いて「さすがは甲斐の武田の御屋形様じゃ! わしの冤魂を晴らしてくださった!」と武田晴信に仕官した、という訳である。

 その際、勘助は自分を大きくみせようと「われは軍師にござる」と勘助はいったという。

「軍師? わははは」武田の重臣たちは嘲笑したが、武田晴信(信玄)だけは嘲笑もせず、

「なるほど」

 と、いうだけだった。とにかく山本勘助の才を見込んだのだ。




  武田信玄(晴信)は大永元年(一五二一)に生まれた。

 父は信虎、幼名は勝千代である。

 しかし、父・信虎は晴信を嫌っていた。

「あんな女子のような青白い者になにができる!」

「御屋形様! いいすぎではありませぬか?」

「何をこの!」

 信虎はその家臣をいきなり斬り捨てた。

 信虎は嫡男の晴信よりも、晴信の弟の信繁を溺愛している。

 当然、晴信には面白くなかった。

 晴信は石水寺へ馬を走らせるのが好きである。

 今日も家臣ふたりを連れて馬で疾走していた。

 だが、心は晴れない。

 父・信虎が「晴信を暗殺せよ」と家臣に命ずれば殺される。それは火を見るよりあきらかだった。晴信には心晴れるときがない。

 晴信が初陣のとき、海之口城の主、平賀源心を討ちとったが、城をそのままにしたことを信虎は気に入らない。

 それを廃嫡の理由にしている。

 馬をすすめると、甲斐のうす汚い服装の領民たちが直訴しにきた。

「なんだ?! この方を守護さまの嫡男・晴信さまとしっての所存か?!」

 部下の板垣信方が馬上から怒鳴った。

 晴信たちは馬をとめる。

 すると、民たちは平伏し、せつせつと訴えてきた。

「その守護さま、信虎さまがいけないのです!」

「……なに?」

「信虎さまは昨日も、民がただ気にいらない……という理由だけで民を何人も無慈悲に斬り殺しました!」

「すぐに合戦もしたがり、女を強姦します!」

「この前などは、妊娠中の女子の腹を斬りさいて、女か男かとさぐり、血だらけの手を叩いて喜んでおりました! 我慢がなりませぬ!」

 晴信は言葉もでない。

「……このままではこの甲斐の国(現・山梨県)は滅んでしまいます!」

 そのような鬼畜のようなことをあのオヤジはしていたのか……?

 ……鬼畜の血を受け継いでいる自分が恥ずかしい。

 晴信は家臣たちに尋ねた。

「そのほうら、存じておったのか?」

 家臣たちは顔をそむけた。

「存じておったのかときいておる?!」晴信は怒鳴った。

 家臣たちは馬から降りて平伏し、

「存じておりました! しかし若君の耳にお入れするにはちょっと……憚りまして…」

 晴信は顔を真っ赤にして、

「もうよい!」

 と怒鳴った。

 ……わが父は困ったひとじゃ! 困ったひとじゃ!

 父・信虎のせいで、甲斐の領民の心は離れていく……

 ………なんとかしなければ!

 のちの信玄は、決意をかためた。

 甲斐は小国である。洪水も多くて、石高も少なかった。荒れ果てた小国だった。しかし、のちに信玄は金山衆から金を得て、戦費を稼いだ。

 信虎は領民を虐殺し、民も馬も悩まされた。




 晴信の正室は三条の方である。

 三条左大臣から天下ってきた。けっこうきれいな女だが、性格が悪い。

 ……魔性の女というところか。

 正室・三条の方は、

「いかがなされましたか? 殿」と冷たく尋ねた。

「父上が領民たちを虐殺している……許せん」

 三条の方は笑って、

「いいではありませんか。領民の命などささいなもの。国が治まっておればそれでよいのです」

「いや…」

 晴信は首をふった。

「このままでは、父のせいで、甲斐の領民の心は離れていく……心が離れるとは国が滅びることぞ」

「さようですか? わらわはそうは思いません」

 三条の方はそう冷ややかにいうと、場を去った。

 ………なんという冷たい女子じゃ。

 ………父上をなんとかしなければ……

  晴信は愛人ができた。

 三条の方をもう抱く気はない。

 結構な美人である。目鼻立ちがすっとしていて、化粧せずともよいほど肌のツヤがいい。晴信と愛人は愛しあった。

晴信は思い出していた。

 政略結婚の相手、於満津のことだ。彼女は上杉朝興の娘で、晴信が十代のとき嫁にきて妊娠したが、死産し、母親のほうも死んでいる。

愛人は、その於満津にどことなく似ていた。

 肌の感触、白粉の匂い、声……



 信虎は、歌会に晴信が出席していないことにも腹を立てた。

 つむじをまげた。

「あの晴信はなぜわしの歌会にこないのじゃ?!」

 信虎は憤慨してもいた。

 家臣の板垣信方が、

「若殿さまはご病気で……」と気をきかせた。

「嘘をつけ! あのガキは…」

 信虎は怒りがおさまらない。すぐひとを斬る狂人である。

「病気は頭じゃないのか? あの馬鹿は弟の信繁の半分の頭もない」

 すると晴信がやってきた。

「………遅いぞ! 晴信!」

 信虎は怒鳴るようにいった。

「父上、妊娠中の女子の腹を斬りさいて、女か男かとさぐり、血だらけの手を叩いて喜んだとはまことですか? それと領民を虐殺したそうですね?」

「それが何だというのだ? 領民の十人や百人……殺して何が悪い?」

「他国はどうみますでしょうか?」

「………他国?」

「例えば、北条(氏綱)、今川(義元)……父上の虐殺をしったら…」

「やかましいわ! この小童め!」

 信虎は激昴し、杯を晴信に投げつけた。

「誰のおかげで食べていけると思うとるのだ! 晴信!」

 信虎はきく耳をもたない。

 ………これはいよいよ追放しなければならないのか。


 愛の行為はすばらしかった。

 晴信が丁寧にしたためか……

 すべては愛あればこそだった。

 ふたりは行為がおわると、ぐったりと布団の上に横たわった。

「そちに話がある」

「はい、若さま」

「おれは父上を追放するぞ」

「えっ?!」

 愛人は驚いて叫びそうになった。

「このまま父上がいたら領民の心が離れ、やがて国がバラバラになってしまうのだ」

「しかし……若さま」

「お前ならわかってくれるだろう?」

「……はい」

 愛人は頷いた。

 家臣たちからも不満の声があがった。

 ……守護の信虎さまを追放し、隠居させねば甲斐の国がほろぶ…


 天正十年(一五四一)五月、雨。

 信虎と晴信は甲冑に陣羽織をきて、領土拡大のために出陣した。

 信虎は失敗したら晴信を今川へ差し出す気である。                  

 ふたりはそれぞれ別々に今川義元(駿河(静岡県)の守護)に手紙をおくった。

 信虎の文は「晴信の悪口」が延々と書かれており、義元は不快に思った。

 しかし、晴信の方は「父親を追放する」と勇ましい。

 義元は子供の頃の晴信をみたことがある。

 女子みたいに白い肌で、やせていてとても貧弱な少年だった。

 それが今では父親を追放する……などと息巻いている。

 義元は、間者(スパイ)山本勘助に手紙をしたためて、「晴信に届けるように」と指示をだした。(山本勘助が軍師になったのはこののち)

 勘助は文を届けた。

 その際、勘助は抜群の軍略を披露した。

「そち、名は?」

「山本勘助と申します」

 かれは平伏した。

「よし! 今日からお前を雇おう!」

 晴信は決意した。

 ……この男、つかえる。

 そんな中、不幸が舞い込む。

 愛人が労咳(肺結核)にかかり助かる見込みがないというのだ。

「……な! なんということだ!」

 愛人は喀血した。

「しっかりいたせ!」

 彼女は荒い息で、床に付している。

「……若さま…若さま…」

 愛人は晴信の腕の中で死んだ。

「死ぬな~っ!」

 晴信は泣いて叫んだ。


 天正十五年五月十三日、尾野山城、十四日に海野城、十五日の爾津元直が和睦をもとめ、武田の勢力におちた。

 晴信は古府中に向かって馬を走らせた。

 ……父追放は親不孝になるだろう。

 しかし、やらねば甲斐が滅ぶ!

 晴信は気ばかりが焦って、いた。



         立志




             

 謙信公の名を知らぬ者はいまい。

 上杉謙信は特に、越後国(新潟県)と置賜(山形県米沢市)では「英雄」である。

「戦国時代」の天才・織田信長が武田信玄とともにもっとも恐れたのが上杉謙信公といわれ、彼女は、合戦の天才と称された。

上杉家の祖であり、米沢藩を開いた景勝の叔母にあたる。上杉といえば私の郷里の米沢、米沢といえば上杉だが、上杉謙信は越後国(新潟県)の生まれ育ちで、米沢にきたこともない。天下分け目の「関ケ原の合戦」の後、置賜(山形県米沢市)に転封され米沢藩を開いたのは、謙信の甥にあたる上杉景勝である。

また、有名なのが名君・上杉鷹山公だが、ここでは時代が違うのであえてふれない。

上杉家の、初代・上杉謙信は、天才的戦略により、天下の大大名になった。越後はもとより、関東の一部、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までも勢力圏を広げた。八〇万石とも九〇万石ともよばれる大大名になった。

 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼女がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。

 上杉謙信こと長尾景虎は越後(新潟県)の小豪族・長尾家に亨禄三年(一五三○年)生まれ、越後を統一、関東の一部、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までも勢力圏を広げた人物だ。 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。

 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることも女(この小説では異性の男子)と性的に交わることもなかった。

一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわなければならない。

(この小説で登場するくノ一や幼き日の恋人などは架空の人物でありフィクションである) 

また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と合戦し、敵の武田信玄に「塩」を送ったりもした「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず室町時代の風習を重んじた。

 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。

 しかし、やがて事態は一変する。

 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで侵攻してきたのである。

ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数におされ、ジリジリと追い詰められるだけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて織田信長の圧倒的兵力に追い詰められていく。

 そんな時、天正六年(一五七八年)三月、天才・上杉謙信が脳溢血で遺書も残す間もなく死んだ。

 それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。

この物語は、この非凡で不世出な天才・上杉謙信の物語である。

 上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンタテエインメントとしてご理解願いたい。


村上義清の要請を受けて、そののち有名な武田晴信(信玄)と上杉政虎(謙信)との川中島合戦が始まる。武田の軍師の山本勘助とおんな上杉謙信……勘助と晴信だけがおんなと感づく。「おなごでは男の武田晴信に勝てないと思うか? 軍師・山本勘助!」

「いや。要は軍略次第でござろう」

「ほう。おなごでも男の子でも関係はないと?」

「左様……されど武田晴信さま、武田の御屋形さまは武勇に優れている。じゃからこの勘助はほれた」

「越後の竜、上杉政虎ならば戦国時代をおわらせられる!」

「晴信さまでは無理じゃと?」

「天下取りは越後の仕事じゃ!」

 謙信は言い切った。

この頃、のちに天下を狙う尾張のおおうつけ織田信長と松平元康(のちの徳川家康)は第六天魔王となのり、尾張と美濃を平定し美濃を岐阜と改め安土城を築いていた。

武田晴信(信玄)と湖衣姫のなれそめはまさに歴史物語である。

信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせるがやがて織田信長は近江の浅井と越前の朝倉氏を攻める。のちにいう姉川の戦いである。信長は『天下布武』の旗頭を掲げた。

天下を武力で平定するという意味である。

木下藤吉郎(のちの秀吉)と柴田勝家との口げんかには信長は飲んでいたワインのグラスを投げて「見苦しいぞ、やめい!」と止めた。ガラスが音をたてて割れた。

その頃、上杉政虎(のちの上杉謙信)は春日山城で、毘沙門の旗と龍の旗をひるがえして家臣達に言った。

「刀八毘沙門と、かかり乱れ龍のこの神旗があれば、わが軍は必ず合戦に勝利する。我は毘沙門天の化身ぞ! ……運は天にあり! 鎧は胸にあり! 手柄は足にあり! 何事も敵をわが掌中に入れて合戦をすべし! 死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり!」





武田晴信(信玄)は孫子の旗印を掲げさせた。

 …風林火山……

 館には中国人が招かれていた。「孫子の兵法の知識に明るい」とのふれこみであった。

「疾きこと風の如く」

「静かなること林の如く」

「侵略すること火の如く」

「動かざること山の如し」

 中国人僧侶は日本語でいった。

「それをこの武田晴信の旗印とした」

「風林火山?」

「そう、風林火山じゃ。だが、わしは孫子の本は手にするが孔子の論語(道徳の本)はいらぬ。わが父や嫡男・義信をおとしいれた身でのう」

山本勘助と武田信玄こと晴信は息が合った。だが、最初は「なんじゃ、この傷だらけの醜男は!」と思ったらしい。

 軍議中であった。

「御屋形さま、これが例の山本勘助にございまする」信方は紹介した。

 末座に勘助がひかえる。

 のちの信玄入道こと晴信は嘲笑って、

「お主、戦に負け続けて一度も勝ったことはないのであろう?」

「御明察!」

「それで天下無双の天才軍師とは片腹痛いわ! ならば信濃(現在の長野県)の諏訪攻めの軍略をいってみろ!」

 勘助はにやりとして、「この戦、戦わずして勝ちで御座る」という。

 晴信の家臣たちが「何を言うとるバケモノ! 戦わなければ勝ちも負けもあるまい!」

「いいえ。兵は詭道なり。戦わずして勝つのが兵法の上策に御座る。こちらの武田勢は二万。諏訪兵はわずかに八千。高島城を囲い兵糧攻めにいたしまする」

「兵糧攻めか? しかし、相手が応じなかったら?」

「まずは武田兵二万で高島城を囲み、この勘助を城に武田家の交渉人として差し向けてくださればこの勘助、見事に戦わずして勝って御覧に入れまする」

「ぬかしたな? バケモノ。なら後学までに聞くが、この甲斐をお前ならどう攻める?」

「攻めませぬ」

「攻めない?」

「ならば勘助、甲斐を兵糧攻めにして塩を切らしまする。人間は塩がなければ生きてはいけません。甲斐武田領は山国。海がない。僅かな岩塩だけではたちまちに干上がりまする」

「成程、バケモノ! 気に入った! 軍師じゃなあ」

「この勘助、信濃諏訪の大島城に行きまするが一日たっても戻らぬ時は殺されたと思って、二万の武田勢で諏訪頼重の大島城を攻め滅ぼしてくだされ」

「勘助、武田の為に命をかけるか?」

「いいえ、御屋形さま、武田晴信さまの為に、で御座る」勘助は微笑んだ。

「バケモノ。何故わしを斬らん? 父上に頼まれたのであろう、晴信を殺せと」

「御明察」勘助は苦笑した。「確かに後数十年若ければこの山本勘助も夢も見ましょうが…もはやまともに歩けぬほどの老人なれば軍師として、生きるしかありません」

「そうか。軍師か。それにしても醜いバケモノ軍師よ」

 ふたりは笑った。

 結果だけ先に書けば、諏訪は落城した。諏訪頼重の娘で〝諏訪の姫〟こと由布姫または湖衣姫は「醜いお顔」と口元で言って、勘助は動揺した。

 いや、惚れた。懸想したのだ。勘助は自決しようとする姫の命を救い、「姫、死ぬことなどいつでもでき申す。それより、生き続けて、諏訪の血を残してくだされ! 甲斐の武田の御屋形さまの若を御産みになり、諏訪血に武田の血をおいれくだされ」

「しかし、武田は親の仇! その仇に抱かれよ、と?!」

「女子は子を産み、若や姫を産めば寵愛されまする。姫さまにはそれしか道が御座りませぬ! 生きぬいてくだされ!」

 こうして諏訪の姫は若(四郎勝頼のちの武田勝頼)を産んだ。武田信玄は他にも側室も子もがいたが、例えば同じ側室の於(お)琴(ごと)姫(ひめ)とは仲良しだった。

「人は城、人は石垣、人は堀」

 山本勘助は言った。

 結局、諏訪の姫は労咳(肺結核)で、血を吐いて死ぬが、勘助はそんな諏訪姫を守り通した。

 信州(長野県)諏訪(長野県諏訪市)は難なく落城となった。諏訪攻めでは湖衣姫という収穫があり晴信は満足した。勘助は自決しようとしていた諏訪姫こと湖衣姫をとめて諭した。

「死ぬなど馬鹿げています。ですが、あなた様にはもはや帰る家もありません」

「だから死ぬの…じゃ。離しいや!」

「なりません! 姫は子を産んで勝つのです!」

「が…我慢せよと?」

「いかにも! この勘助の醜い顔に免じて。…自決はなりませぬ。この勘助が諏訪の姫を生涯守りまする!」

 湖衣姫は、この醜い顔の男を信じてみようと思った。

 勘助は諏訪攻めの武功により、いよいよもって「軍師」に推挙された。だが、姫輿に乗っていた筈の湖衣姫が真冬の中で脱走した。だが、まだ小娘だ。すぐに勘助にみつかった。

 勘助は自分の殺された妻ミツと腹の子の話をした。

「生涯、この勘助は湖衣姫さまの護り神になりまする」

 そこまでいわれれば仕方ない。湖衣姫は覚悟を決めた。


 正室は三条の方である。

 しかし、晴信は諏訪からの人質である湖衣姫がどんな女なのか興味を抱いた。

 ぶさいくな女子ではないか? なら斬り殺してくれようぞ!

 わしはぶさいくな女子が大嫌いじゃ。ぶさいくな年増女なら斬り殺してくれようぞ!

 晴信はわくわくした気分で湖衣姫の城入りを待った。

 鼻は高いかな? 肌は白いかな?

 だが、晴信は城入りした湖衣姫をみて、喜んだ。美人である。ぶさいくな女子なら殺しているところだ。「湖衣にござりまする」声もいい。

 まだ十代だという。

 しかし、晴信は心休まるときがなかった。労咳(肺結核)にかかってしまったのだ。

 医師・仙元は、

「歩くのはほどほどに二~三年はゆっくりしていてください」という。

 晴信は「馬鹿を申すな!」といい、咳込んだ。

 何日後かに床上げをすると、三条が見舞いにきた。

「御屋形様、お体は?」

「まぁ、まぁじゃ」

「北の廓にはいかれますな。湖衣姫は人質、抱いてはなりませぬ。汚れまする。湖衣殿はたいそう美人ではありますが、品が悪い。殿に抱かれたいと思うておるとか」

 晴信は我慢した。

 湖衣姫のほうがそなたより美人で品もいいわ!

 そんな言葉が晴信の喉元までかかった。しかし、晴信は何もいわない。元・公家の娘で、気位ばかり高いじゃじゃ馬め!

 甲斐(山梨県)は今年、凶作だった。

 家臣の板垣信方が「今年は甲斐では凶作で、民も困っております」という。

「領民の不満は? 一揆などあるまいな?」

「それはないと思いまする。甲斐は山間部が多く、越後や信州より米がとれませぬ。小麦ならとれるのですが……」

「諏訪は? 駿河は?」

「わかりませぬ」

 晴信は怒った。

「馬鹿者! ……さっそくだが約束をやぶった禰津元直は許せぬ。兵をすすめよ」

「かしこまりました」

 家臣一同はまだ若い殿、晴信に平伏していった。


 頼重に入道という坊主は、

「武田の晴信さまは若いが優れた軍略家……挙兵はまったほうがよいかと…」

 といったが、頼重は「晴信などおそるるに足りぬわ!」といって兵をすすめてしまう。 

頼重軍一千が大門峠を越えた。

 軍は、甲斐の国の豪族、津金衆、小尾衆を攻めた。

 しかし、まもなく撤退しだした。

 天文十年晩秋のことであった。


「諏訪頼重とは?」

 晴信は館で尋ねた。

 下座に平伏していた秘使・鎌田五郎は、「たいした男ではありませぬ」という。

「たいしたことはない?」

「はっ! すぐに討ち果てます」

 晴信は上座で頷いた。そして、山本勘助に「今川義元のところへいけ」と命じた。

 山本勘助は「はっ!」というと場を去った。

 今川のもとに着くと山本勘助は、これこれしかじかでまいった、と義元につげた。

 義元は「そうか。勘助……武田晴信に懐柔されてはおるまいな?」ときいた。

「はっ!」

 山本勘助は駿河(静岡県)の今川のもとでそだった。故郷なのである。

 韮崎の諏訪軍二千は峠を越えた。

 甲斐では晴信の父・信虎が殺戮をくりひろげ、評判はつとに悪かった。

 早く、信虎をどこかへやってほしい……民はそう思っていた。

 兵を進めたものの、諏訪軍は甲軍に恐怖していた。

 諏訪頼重の弟、諏訪頼方などは顔を蒼白にしておびえる始末だった。

 諏訪軍はしばしば甲斐へ攻め込んだ。

 頼方は「兄上……諏訪は人質の湖衣姫をやった身…甲斐とは同盟を…」

 と嘆願する。

 しかし、頼重は「湖衣などなんでもないわ。戦うのが戦国の習い……おびえるでない」 

と取り合わない。

 そんな天文十一年六月二十四日、武田軍三千が、甲斐を越え諏訪になだれこんできた。

「あわてるでない!」

 諏訪頼重は馬上でやっとのこと叫んだ。

 千野伊豆入道は、頼重に上原城守備を勧める。諏訪頼重は動揺を隠せない。

 その夜、大雨が降った。

 入道の兵は武田の同盟軍、高遠軍に夜襲をかけた。

 天文十一年一月七日のことである。

「入道が二千の兵でせめてくるぞ!」

 ある噂が広がった。しかし、それは策だった。入道の兵は千人にもみたない。

 やがて合戦となり、入道は戦死……上野城は炎上した。

 晴信は「……おしい男をなくした」と嘆いた。

 諏訪頼重は桑原城に籠城した。

 門をしめ、兵士を配備した。

 しかし、晴信は桑原城を攻めなかった。

 山本勘助は不思議に思って「御屋形様……なぜ攻めないのです?」と問うた。

 晴信は笑って、

「一晩もたてば降伏してくるじゃろう。兵は出すな」といった。

 桑原城内では、諏訪頼重がぶるぶる震えていた。恐怖だった。

「……余が人質に……?」

 頼重は女中にしがみつきながらいった。

 城を囲む板垣は、「ちゃちな城だ」と思った。

 しかるに、晴信が予言した通り、午後には諏訪頼重は降伏してきた。


 山本勘助は禰津元直の娘とあった。

 絶世の美女だった。

「……勘助殿、これは晴信さまからの恋文です」

 姫はにこりとしてから文を彼にみせた。笑顔も可愛い。

「勘助殿、あなたは今川の手先ではありませんか?」

「めっそうもない!」勘助は首をふった。「わたくしは武田晴信さまの使いです」

「ならばこれも…」

 姫はほほほと笑った。

 文は、諏訪頼重が姫にあてた恋文だった。

 勘助からそれをきかされた晴信は苦笑いを浮かべ、

「頼重も姫をねらっておったか…」といった。

 諏訪頼重は陣中で切腹した。

   おのずからかれはてりけり草の葉の

   主あればこそ又もむすめば


 晴信の妹は「なにも切腹させることもありませんでしょうに」と兄を睨んだ。

「これが戦国の習いじゃ」

 晴信は怒鳴るようにいった。

 諏訪頼重は湖衣姫の父親である。

「……諏訪頼重殿、自刀!」

 湖衣姫は知らせをきき、驚いた。しかし、気丈にも泣かなかった。

 湖衣姫は「これも父上の天命でしょう……」と呟くようにいった。



 此頃、山本勘助と武田晴信は越後の話をしていた。

 越後守護職・長尾為景が死んだという。後釜である筈の嫡男・晴景は病弱でありその弟(実は妹)の長尾景虎(のちの上杉謙信)が戦で晴景軍を倒し、春日山城に入城したという。

 長尾景虎は七歳の時に春日山(上越市)城下にある暮洞宗林泉寺に預けられ、天堂光斎禅師の指導のもと育った。まだ十代の青年であり、自分自身を「毘沙門天の化身」と称しているという。

春日山城の毘沙門堂は八角形で、ここで護摩(ごま)を焚き、無我の境地で神言を唱えている青年が長尾景虎(上杉謙信)である。謙信は毘沙門天の神に「生涯不犯」を誓った。

 つまり、生涯結婚もせず、子ももうけず、懸想もせぬというのだ。

 だが、男色(ホモ)でも変態でもない。

 神に誓って、上杉謙信は男色でも変態でも不能者でもない。おなご、だ。


 伊那軍と甲斐諏訪連合軍との合戦が始まった。

 その年の十月二十五日、安国寺で決戦はクライマックスに達した。

「いけ! 押し流せ!」

 晴信の激が飛ぶ。

 兵士たちが弓や槍で戦う。陣内にもどった晴信は勝利を確信した。

 合戦は甲斐諏訪連合軍の勝利におわった。

 天文十一年、禰津元直の娘を晴信は館に向かいいれた。

 絶世の美人だが、男のように気丈な娘だった。

 諏訪、佐久、小県を制圧した二十三歳の晴信は、軍費のため砂金堀を命じた。

 甲斐などには有望な砂金山がある。

 石見国大森銀山、但馬国生野銀山、佐渡金山(上杉)、越後国上田銀山(上杉)、越中国河原、松倉、亀谷、吉野、下田の諸国金山、岩城国黒森金山、駿河国梅ケ島(今川)、富士金山(今川)、伊豆国……

 晴信は金山銀山の確保が最重要だと考えた。

 国を運営するには経済がよくなければならない。それには金銀がいる。

 ある晴れた日、晴信は共のものを連れて馬で領土を走っていた。

「……どういう意味じゃ?」

「わらわを御屋形様の側室にしてくだされ!」

 姫は男の子のように笑った。

「……側室じゃと?」

「はい、姉上と同じように」

「姉上?」

 晴信の目が点になった。答えが是非ともききたかった。

「……湖衣殿のことです」

「湖衣姫はそなたより年下ではないか」晴信は呆れた。

 姫は、

「しかし、湖衣殿は人質となってからずっと殿の側におられる。経験からいっても姉と同じです」と答えた。

「まだ湖衣は抱いておらぬ」

「ならばわらわを先に抱いてくださいまし」

 晴信は口をぽかんと開け、「わかった」といった。


 小県、長窪城主・大井貞隆は武田と一戦交えた。

 大井は北信の村上義清とも近い………

 晴信は家臣の甘利に「おぬしが大井を殺せ!」と命じた。

 行軍六百余り。

 馬どうしで輪をつくった。武田軍の士気もあがる。

 合戦ははじまった。

 長槍のせりあい……矢が雲霞の如く飛ぶ……

 やがて長窪城は陥落した。

 大井貞隆は囚われの身となった。

 ざんばら髪の大井に、晴信は上座から、

「大井貞隆、わしに逆らうとは馬鹿な男じゃ!」といった。

 大井は武田の家臣のものに両肩を捕まれていて動けない。

 ……くそったれ!

 大井は鎧姿のまま舌打ちした。

 かれは「どうせ切腹じゃ」と思い、人質となってから二ケ月後に脱走を計った。

 しかし、武田家臣につかまってしまう。

「大井貞隆、わしに逆らうとは馬鹿な男……しかも脱走とは…切腹いたせ!」

 晴信は激昴した。

「糞食らえだ!」

 大井貞隆は暴れた。

 晴信は刀を抜き「ならばわしが斬り殺してくれるわ!」

 といって大井に斬りかかった。

 一刀両断……大井は絶命した。


 湖衣姫は夜をわくわくとまった。

 御屋形様が自分を初めて抱いてくれるという。

湖衣姫は末通娘(処女)だった。

「湖衣!」

 夜、薄暗い中、晴信がきた。

「御屋形様!」

 湖衣姫は着物を脱ぎ、晴信に抱き着いた。細いが出るところは出ていて、晴信は蝋燭の火を吹き消すと、自分も裸になった。



「わらわが先だといったのに…姉上と……!」

 そんな中、武田側についていた高遠が裏切り、兵士が甲斐の屋敷に放火した。

 いやがらせだった。

「高遠め!」

 晴信は激怒した。

 しかし、すぐに顔色をかえた。

 晴信は二十五歳で大国を率いることになった。

 残酷な父・信虎には隠居してもらおう………晴信は本気だった。

 晴信はまた、当時の最新兵器「鉄砲」にも興味をもった。

「鉄砲とはどういうものか?」

 家臣に尋ねた。

「天文十二年、種子島に鉄砲が伝来して以来、鉄砲はおそるべき速さで普及されておりまする。まず、九州においては大友宗麟がポルトガル人をよび集めて、鉄砲製造にかかわっており、破壊力や戦闘での仕様では有効だそうです」

「…どういうものなのかをきいておる」

「火薬に火をつけ、弾丸を発射して敵を倒すものでござる!」

「他の武将たちは?」

「金にいとめをつけず集めているとか……」

 晴信は歌舞伎役者のように唸った。

「ならば武田にも鉄砲を大量にいるな。買ってこい」

「はっ!」

 家臣たちは平伏した。

 しかし、世の中はうまくいかない。

 晴信はまた体調を崩した。労咳がまた悪化したのだ。

 かれは激しく咳こんだ。

 晴信は寝込むことが多くなった。

 三条の方は見舞いにきて、

「きっと殿の死んだ愛人の労咳がうつったのでありましょう」と嫌味をいう。

 湖衣姫は「わらわがかわってあげとうございます」と晴信を労った。

 晴信は、午後は寝込むことが多くなった。

 そんな中、中国人が訪ねてきた。

 その日は晴信の体調もよかった。

「わしは中国の書………とくに孫子の兵法がすきじゃ。風林火山のところがな」

 晴信は上座から下座の中国人僧侶にいった。

 中国人は平伏してから、床におかれた旗をみた。


  ……疾如風称如林侵

    掠如火不動如山………


 中国人は訳した。

「疾きこと風の如し、静かなること林の如し、侵略すること火の如し、動かざること山の如し……」

「そうか! わしの戦略と同じじゃ」

 咳こみながら晴信はいった。

 中国人は「……孫子の兵法は優れていますが、大事なのは戦のしかただけではありません。国は経済が潤ってこその国です」と平伏した。

「経済?」

「……経世済民のことでございまする。民が豊かにならねば国はなりたっていきません」「なるほどのう。そちのいう通りじゃ」

 晴信は頷いた。

「その通りじゃ!」

 そんな中、真田幸隆軍が甲斐に侵攻してきた。「一兵残らず殺せ!」晴信は命じた。


上杉謙信といえば「義の人」「義の武将」であり、「不犯の名将」「聖将」「戦に一度も負けたこともない軍神」である。義の為に生き、義の為に死んだ。

だが、領地である越後の政治だけでなく、本拠地・越後府中(新潟県上越市)の春日山から関東や信濃や越中などに「楽しむが如く」戦をした。戦の前に神社に認(したた)める願文(がんもん)も織田信長や北条氏康が生涯で一通なのに、上杉謙信(長尾景虎)や武田信玄(武田晴信)は十七通にも上る。

 だが、当然ながら願文の写し(コピー)が大量につくられ、部下や家臣や領民に出回る。「毘沙門天の化身」「軍神」「聖将」というのも情報戦の為であり、男色だから女性と結ばれなかった訳ではない。只、軍資金も志や野望も戦略もなく義だけなら「ただの馬鹿」だ。

 当然、人間だから性欲もあったろうが、不幸なことに時代がそれを許さなかった。

後述するが、戦の怪我で睾丸を摘出せざる得なくなり、それで煩悩も消えたのだ。

いや女か。

 生涯61勝2敗8分(越後国内5勝0敗0分・関東38勝2敗0分・信濃0勝0敗6分・北陸17勝0敗0分)

とにかく戦に強い。無論ただ武力に任せて突撃した訳ではない。

謙信公ほどの軍神ともなると戦略や奇抜な戦、兵法が頭にある。

だが、やはり大まかな戦略は教えられるが率先(そっせん)垂範(すいはん)(リーダーが先に行動して模範を示す事)する以外に謙信公も信長も説明出来ない。

 とにかく勝てたのは知恵を、戦略家で、戦略が見事であったためだ。但し、謙信公は只、「義の為に戦え!」と綺麗事ばかり言っていた訳ではない。

綺麗事(志の高さ)も大事だが謙信公は巨万の軍資金を蓄えてもいた。

 腹が減っては戦が出来ぬ。金がなければ食べられない。領民が安全安心に暮らし、笑え、喜び、すこやかに暮らせる天下泰平の世の中を謙信公は目指した。

 軍資金というと越後(新潟県)だから「コメ・ビジネス」か? 冥加(みょうが)金(きん)(商人が商いで得た一部を主に税として納める金)か? いや違うのである。

当時、明治に開墾されるまで越後(新潟県)は水田がほぼなく、一面湿地帯や池だった。

 だから、そこに生える「青苧」という植物からとれる茎から〝からむし〟をつくり、それで衣類などをつくって財を成した。とはいえ、それは首都・京都の公家『三(さん)実(じょう)西家(にしけ)』が新潟から船で京に渡り、青苧衣類のビジネスをする『青苧座』の実権を握っていた。

 そのうちの木綿の流通前の青苧は、絹より安く、頑丈なため、青苧座や、新たな青苧商売人たちを『三実西家』がコントロール出来なくなる。

そこで謙信公は、京の三実西家にパイプを持ち青苧ビジネスの既得権益を奪う事をする。

神余(かなまり)親網(ちかつな)という武家の官僚をパイプ役に『青苧座』をコントロールし、他の座を徹底的に排除して、青苧座の利権と三実西家へのキックバックをやり、税も取るということをする。

 いまでこそ日本海側は『裏日本』等と嘲笑されるようなフィールドだが、戦国幕末まで日本海側こそビジネスのメインなフィールドであった。

 越後は青苧座でもうかり、また〝謙信公が敵に塩をおくる〟という言葉で有名な甲斐・信濃の大名・武田信玄に(北条や今川の兵糧攻めで)塩が尽きたとき適正価格で売ったのは、謙信公のお気に入りの豪商・蔵田五郎(くらたごろう)左(ざ)衛門(えもん)である。

 謙信公は豪商・蔵田氏に青苧座の管理や越後のビジネスを一任して、「蔵田の命令に従わない者は成敗せよ」と下知をしていたという。

 武田信玄との川中島の戦い、でも有名な上杉謙信公だが、川中島とは新潟の春日山(現・新潟県上越市)からわずかに80kmの距離であり、名目として信玄に敗れた武将を助ける為ということだが、『防衛戦争』の意味合いが強かった。しかも五回とも全部引き分け。

 二十七歳のときに大名をやめて高野山に出家するが、それも計算であり、家臣が「戻ってきてくだされ」と血判状をつくり、同盟意識を植え付ける為の芝居であった。

 本当に女性と性交渉をしたこともなく、去勢後はその言葉さえ忌み嫌った。いや女か。

 永禄二年(一五五九)京に上洛し、戦に敗れて逃げてきて、自分を頼った関東管領・上杉五郎(うえすぎごろう)憲政(のりまさ)に姓名と関東管領の職をゆずり受けている。

 そして、永禄四年(一五六二)関東管領に就任した。姓名を上杉政虎とした。号が謙信。

 京では第十三代将軍・足利義輝の名代として帝に拝謁、その後、関白の近衛前嗣(このえさきつぐ)と密書(お寺の祈願書・午(ごおう)王(ほう)宝印(いん)に近衛自らの血で)交わしている。

 作家で歴史研究家の乃至政彦(ないしまさひこ)氏は、密書の内容は関東平定ののち、関東管領として巨大な関東軍を指揮して戦乱の世をおわらせる、ということだと分析している。

 確かに、謙信公なら乱世を終わらせることも出来たかも知れない。一向衆や石山本願寺とも和睦していたし、軍略の天才であるのだから。

 だが、歴史は動く。天正七年(一五七七)に加賀の国・手取川で織田軍北陸派遣軍五万を、得意の軍略で完膚なきまでやぶった上杉謙信公……だが、そこまでであった。

 天正八年(一五七八)、謙信公は脳溢血で四十九歳で病死してしまう。原因は酒の飲み過ぎである。歴史に「もし」はない。だが、もしも上杉謙信公が病死しなければ天下は上杉のものであり、その後の秀吉も家康もなかった。

 さすがに病には勝てなかったが、さすがに米沢市の上杉の城下町・米沢市の守り神、である。いまでは米沢市の上杉神社(米沢城跡)もすっかりきれいになり、観光客も目立つ。

 謙信公は、この米沢の地で、永遠の眠りについている。

(映像参考文献『nhk歴史館 上杉謙信編』2013年10月3日放送内容)

ちなみに黒田秀忠が長尾家(のちの上杉家)に二度も謀反を企てたのは当主である長尾晴景が病弱であり、景虎をおなごと侮ったからである。

また栃尾城の本庄実仍(ほんじょうさねより)を頼ったのは揚北衆への牽制の意味があった。

揚(あが)北衆(きたしゅう)とは「阿賀野(あがの)川(がわ)」以北の国人たちのことで、有力な豪族のものたちであった。揚北衆への牽制の為に長尾景虎(のちの上杉謙信)は本庄実仍の居城・栃尾城に入城したのだった。

その歳、景虎は城内のものに「おれは長尾家の当主、長尾晴景の妹、長尾景虎である!

われはおなごじゃ! じゃが、おなごであることを隠すつもりはない!

 われは毘沙門天の生まれ変わりじゃ! わざと神はわれをおなごの体にしたのかそれともこれは運命なのかわからんが、おれはおなごでもこの越後を守る守護神……軍神…になるつもりである!

わかったか! おれは越後をこの手で豪族どもから奪い統一する! おれを信じてついてきてくれ!」と宣言した。

そして、のちの謙信の景虎は母親の危篤をしる。

母は綾姫に「寄る年波には勝てないということね。いつ…お迎えがきてもおかしくない。」

「母上、しっかりなさいませ。母上には綾のややの面倒を見ていただかなければ…」

「そうか。おばばは綾のややこの世話か。しかし……虎には申し訳ないことをしたのう。母が毘沙門天の夢の話をしなければ……姫武将などには……可哀想な虎千代……」

「……母上」

すると坂戸城主・長尾家に嫁いでいた綾姫は兄の晴景に、

「兄上! どうぞ、虎千代をわれらのもとへ! ただのおなごとしてお返しくだされ!綾にはたったひとりの妹にございまする!」

と頼み込む。

「何故わしが…?」

「兄上は虎の元服をおこなった。父上の為景と兄上の晴景から「景」の一字をとり、「景虎」と男子の名を命名なされた。ですが、今、母上に今生の別れで虎におなごの着物をきせて「姉」と「妹」として母上の冥土の土産としとうございまする!」

「そうか……勝手にいたせ。」

「ははっ!」

こうしてのちの仙桃院は虎千代のちの謙信におなごの着物をきせて髪を下ろし、姉妹として母親の死を看取った。

「…母上!」景虎はおなごの着物を着て母に会った。

「虎はもうおなご…戦にも出ません。姫として生きます」

「……虎…確かに…お前はおなご…綺麗ですよ、虎……母の夢が叶いました」

母・お紺は微笑んで逝った、という。

帰りの夜道で景虎は「……母上は嘘を信じて逝き申した」

「ねえ、虎……その嘘を本当には出来ないの? もう男のふりをせずおなごとして生きては駄目なの?」

「…虎は…毘沙門天の生まれ変わりでござりまする。男子のはずがおなごの身…なれど虎は父上と誓いました。病弱な晴景兄さまに代わってこの虎が越後を守る、と」

「…虎、その兄と闘うおつもりですか?」

「……必要とあれば! 虎が越後を守る、それが天命にござる!」

「…虎……」姉は泣いた。景虎は姉の涙の意味がわからなかった。

景虎と崇謙は話した。

「虎様は益々武将として男のようにふるまい白頭巾で連戦連勝。しかし、この崇謙は一度も虎様を男子と思ったことはありませぬ。鎧をつけ、刀をふるい、戦人となってもわれにとってはひとりのうつくしいおなご。花のようなおなごに御座いまする」

崇謙は馬上の景虎の手に口づけをした。

……おなご?おれを…おなご……

のちの上杉謙信は無言になった。


姉・仙桃院のまだ幼い子・卯の松(のちの喜平次・のちの二代・上杉景勝)に文字を教える心優しい謙信。「わしはおなごじゃが、子は生涯産まぬ! またわしは戦いの神・毘沙門天に生涯独身や不犯を誓ったゆえ結婚も初夜もせぬ!」

「義の戦をしよう!」という謙信の理想論に宇佐美定満ら家臣は反発。越後国におなごであることがまことしやかに噂で流れると、強い豪族らがはりあって越後はめちゃくちゃに。ゴタゴタに嫌気がさした謙信(輝虎)はとうとう大名をやめると家出して高野山へひとりで向かった。女人禁制の高野山だったが男のなりではいった。そこで山本勘助とばったり会った。「晴信さまはあなたさまを正室にと…」

「……な? ……なめるな!」

上杉の家臣達は謙信に忠義を誓う連判状をつくり、さらに、その証拠として人質を輝虎(謙信)にさしだした。そのかいあって謙信は隠居をやめ、ふたたび大名として生きることになった。しかし、この隠居騒動は謙信の“芝居”だった。

ライバル(好敵手)の武田晴信(信玄)と軍師・山本勘助だけは見抜いていた。






 甲斐は枯れ果てていた。

 のちの信玄、武田晴信は父、信虎を追放して国主となった。

 甲斐はすぐに洪水や冷害に襲われ、荒れ果てていた。小国だった。しかし、晴信の戦略と政治力によって甲斐(山梨県)とのちに信州(長野県)を領土とすることになる。

 甲斐には二十以上の金鉱があったという。

 しかし、豪族の金山衆が握っていた。

 晴信はそこを攻め、支配した。矢銭(軍事費)のためである。

 信虎は駿府に無理やり隠居させられた。

 かれは不満だった。殺戮の限りをつくした信虎の追放に、甲斐の人々は喜んだという。「くそったれめ!」

 信虎は激昴し、刀を抜いた。

 夜だった。

 隠居屋敷の庭で枝を斬りおとし、暴れた。

 信虎は、白髪まじりのおいぼれ爺さんになっていた。ひと殺しの好きな質である。

「死んでくれるわ! 晴信め!」

 かれは刀を首にあて、「死んでやる!」とさけんで力んだ。

 しかし、息を荒くして地面に崩れ落ちた。

 ……はあ…はあ…はあ……晴信!

 女中は笑った。

「死ぬことも出来ない」

「……やかましい!」

「大殿は、他人は殺せても自分は殺せない。無理なことは無理なのです」

 年増の女中は惨めな信虎を嘲笑した。

「うるさいわい!」

 信虎にはどうしようもなかった。

 確かに、他人は殺せる。しかし、自分は殺せないのだ。

 ちなみに、かれの生活費は晴信が払っていたという。

「糞ったれめ!」

 信虎は刀をぶんぶん振って、荒い息で木を斬りつけた。

 女中の嘲笑はやまない。

 信虎は、こんな惨めな生活をさせる息子に我慢がならなかった。

 しかし……何もできない。

 信虎はやっと自分が無力だと感じはじめていた……。





 晴信の労咳(肺結核)がひどくなり、かれは咳き込むことが多くなった。

 医者は診察して、

「労咳を治す薬はありませぬ。ここ二~三年は静かに暮らしたほうがよいと考えまする」 

という。

 晴信は激昴して、

「二~三年も動かなんだら甲斐の国は他国の武将に蹂躙されてしまうわ! 馬鹿を申すな! この藪め!」と叫んだ。

「御屋形様!」

 家臣の板垣信方がいった。

「なんじゃ? 板垣」

「志磨の湯へ湯治にいかれてはいかがでしょうか? 病にもききますでしょうて」

「湯治? ………まぁそれもいいかも知れぬな」

 晴信は苦笑した。武将が湯につかって湯治か? ……情ない。

 しかし、晴信には湯で疲れをとる暇はなかった。

 北信の村上義清との合戦があったからである。

 武田晴信率いる二千の兵は、依田から千曲川をそって西北方へすすんで来て、中之条あたりに陣をひき、村上義清の軍と対峙していた。

 諸将軍を集めて、晴信はいった。

「今度の戦は村上義清の首をとることである! 敵を全滅させることにある。敵を包囲し、壊滅させるのだ!」

「おう!」

 諸将軍はいきりたった。

 天文十七年二月十四日、開戦となった。

 両軍数千がいりみだれる。

 槍が無数に重なり、雲霞の如く矢が飛ぶ。

 そんななか、板垣信方が戦死した。

「くたばれ!」

 敵がそう叫んで刀を振るのを討ちしそんじて、晴信は内股あたりに傷を受けた。

 痛みは感じなかった。晴信は馬上から敵を斬り殺した。

 さらに敵がやってくる。

 合戦は長期戦となった。

 夜になると「のろし」が岩鼻城からあがった。それに呼応するように葛尾城からも狼煙があがった。村上義清は恐怖におののいた。

「やはり武田は強い」

 武将らしからぬことを村上は呟いて陣を離れた。

 晴信は二千の兵を率いて上野城に入った。

「御屋形様! 夜食を調達しましょう」

 家臣がいった。

「すまぬ」晴信は鎧兜をはずしていった。

 ……それにしても板垣信方が死んだのは残念である。

 山本勘助がやってきた。

「御屋形様、越後にいってきました」勘助はいった。

「越後といえば…」

 晴信は続けた。「長尾景虎という武将が名をあげているというな。まだ二十歳だそうではないか」

「いかにも長尾景虎(のちの上杉謙信)はまだ二十歳です」

「余より十歳も若い。なのに越後中に恐れられているとか…」

「そうです」

「勘助、越後へもう一度行き、長尾景虎を調べよ」

 晴信は命令した。

「はっ!」

 山本勘助はさっそく越後へ向かった。

勘助は越後(新潟県)に潜入した。越後では越後の百姓や兵士に化けて情報を集めた。が、怪しまれ春日山城で長尾の御屋形様(景虎・のちの上杉謙信)の姿を拝んだところで捕らえられた。謙信は若く、女のように(おんななのだが(笑))青白く長髪で、手足も細い。

まるで弁財天が如しだ。白い頭巾をしている。

 だが、本人は「毘沙門天の化身」という。毘沙門天の替りに正義の「義の戦」をするという。「そなたは甲斐武田の間者であろう?」

 勘助は縄で縛られたまま「いいえ、あっしたちは越後の百姓でがんす」とシラをきる。

「ならば何故春日山にきたのじゃ?」景虎の右腕で参謀の宇佐美定満が「死にたいか」と脅しをかける。すると上座の館でだまってきいていた青年が「やめい!」と手を翳した。

 男のような低い声だが、風貌はまるで見目麗しき姫の如しだ。

「そこの雙眼! 仲間を皆殺しにされねばいわぬか?」

「わしは百姓でがんす!」

「黙れ!」景虎は刀を抜いて、館近くの木に後ろ手に縛られている勘助にせまった。

「死ぬのが怖いであろう? 間者と認めれば放してやろう」

「間者ではありませぬ。それがしは百姓! 好みは土いじりでがんす」

 景虎は勘助の右太ももを浅く刺した。それでも勘助は激痛を耐えて、自分は百姓である、という。のちの上杉謙信もなかなかの風流人で、「ならいい。甲斐・信濃に戻りし折は武田晴信によろしゅうな」とにやりと笑い、

「こやつらの縄をほどき甲斐・信濃に戻せ」と寛大さもみせる。

 皆殺しにする程、景虎は了見がせまくない。





 塩尻峠で、また合戦があった。

 天文十七年(一五四八)七月十五日、寅の上刻(午前四時)三百騎が塩尻峠を越えた。

武田軍は今井にむけて走った。

 対小笠原合戦である。

 陣の中で、晴信は吉報をまった。

「千野弥兵衛殿、土屋信義殿、今福平蔵殿討死……」

 早馬の伝令は訃報ばかりを伝えてくる。

 晴信は頭巾をかぶり、陣の中央でどんとかまえている。顔色ひとつかえない。

 晴信の本陣は今井の北方にあった。

 雨がふってきた。

 やがて夜となり、朝がくると小笠原軍は驚いた。

 武田軍がいないのである。撤退したのだ。

「くそったれ! 逃げやがったか!」

 それは、晴信の「走為上の計」だった。

 軍の態勢を立て直すと、晴信は二千の兵を動かし、小笠原長時を塩尻峠から追い落とした。さらに晴信は兵を村井まですすめた。

 小笠原が逃げて空城になった城を、急いで修復させた。

 晴信は勝ち名乗りをあげた。

 かれはいう。

「金をつかうことを惜しむな。必要なときはいつでも古府中にいってくるがよい。中信濃を完全に手中に治めるためにはまず民の心をつかまなければならない。人だ…」

 晴信は有名な言葉をいう。

「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵…」

 この言葉通り、晴信は立派な堀のある城はつくらなかった。

 武田の城は、人が守る。外堀も内堀もいらぬ。館さえあればよい。

 それが武田晴信の考えだった。

 晴信は武田と戦って負けて、武田に忠誠を示したものは金山には送らない。が、負けてそむいたものは金山に送った。

 武田の金山は二十四鉱もあったという。

 晴信は捕らえた男を金山におくり、女は家臣に与え、ブスな女は鉱山の遊び女とした。 美女だったら、側室として館に住まわせた。

 晴信は風邪ということで、館で寝込んだが、周囲は風邪ではないことを知っていた。


 晴信は湖衣姫と夜、愛の行為をした。

 晴信の疲れがひどすぎてゆっくりするしかなかったためか、愛の行為は素晴らしいものだった。湖衣姫はあえぎ、甘い息をもらした。

「うれしゅうございまする! はあはあ…御屋形様! 御屋形様!」

 湖衣姫は絶頂を迎えた。

姫は嫉妬した。

「湖衣姫殿ばかり御屋形様は抱かれる。……われは寂しゅうござりまする」

 

 対小山田信有の合戦となった。

 陣では気分がすぐれぬ甲冑姿の晴信が、咳をしながら戦況報告をまっていた。

「……小山田信有の首、討ち取りましてござりまする!」

 吉報がきた。

「そうか! よし!」

 晴信ははじめて感情をみせた。笑顔だった。

 晴信の側には初陣の息子、勝頼の姿もある。

「おめでとうござりまする、父上!」

「……勝頼、勝ち戦じゃ」

 晴信はいった。



 晴信の館に今川義元からの使者がきていた。今川の老臣・岡部美濃守だった。

 晴信は「……ついにきたな」、と、にやりとした。

なんでも関東管領・上杉憲政が北条氏に追われ、越後(新潟県)に逃げたという。

「上杉が?」

「はっ!」岡部は平伏してから「なんでも長尾景虎を頼っていったときいておりまする」

「……長尾景虎……越後の龍か」

 晴信は息子に目をやった。

「勝頼、どうおもう?」

 晴信は息子をためした。

「上杉憲政など恐るるに足りません。放っておいてもよいかと…」

「………そうか」

 晴信はがっかりした。もっとゆうこともあろうに……


 武田は十五年にもおよぶ治水工事をしていた。釜無川と御勅使川が度々けっかいするので一本にまとめようとする工事だった。

 その堤はいまでも信玄堤と呼ばれ、利用されているという。


 今川の人質だったのちの徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が織田家に転がりこんだのは、まだ、信秀が生存中のことだ。その頃、織田信秀は斎藤道三の美濃(岐阜)の攻略を考えていた。道三は主君だった美濃国守護土岐頼芸を居城桑城に襲って、彼らを国外に追放したという。国を追われた土岐頼芸らは織田信秀を頼ってきた。

 いくら戦国時代だからといって何の理由もなく侵略攻撃はできない。しかし、これで大義名分が出来た訳だ。「どうかわが国を取り戻してくだされ」と頼ってきたのだ。

「わかり申した」織田信秀は強く頷いた。「必ずや逆臣・道三を討ち果たしてみせましょう」 こうして、戦いは始まった。

 吉法師もこの頃、元服し、信長と名乗る。そして、初陣となった。斎藤氏との同盟軍・駿河(静岡)の今川の拠点を攻撃することとなった。信長少年の武者姿はそれは美しいものであったそうだ。織田勢は今川の拠点の漁村に放火した。

 ごうごうと炎が瞬く間に上り、炎に包まれていく。村人たちは逃げ惑い、皆殺しにされた。信長少年はその炎を茫然とみつめ、「これが……戦か」と、力なく呟いたという。

「信長はどうかしたのか?」信秀は平手に尋ねた。

「いや。わかりませぬ」平手政秀は首をかしげた。たかが放火と皆殺しだけで、なぜ若大将がそんなに心を痛め、傷ついてしまったのか…。典型的な戦国武士・平手政秀には理解できなかった。父・信秀も、あんな軟弱な肝っ玉で、大将になれるのか、と不安になった。  

この頃、織田家に徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が転がりこむ。

 なんでも渥美半島の田原に城をかまえる戸田康光という武将が、信秀のところにひとりの少年を連れてやってきたという。

 戸田は「この童子は、松平広忠の嫡男竹千代です」といって頭をさげた。

「なんじゃと?」信秀は驚きの声をあげた。

 戸田が隣で平伏する少年をこづくと、「松平竹千代(松平元康、徳川家康)…に…ござります」と、あえぎあえぎだが少年は、やっと声を出して名乗り、また平伏した。

「戸田殿、その童子をどこで手に入れたのじゃ?」

「はっ、もともとこの童子は三河の当主・松平広忠の嫡男で、今川と同盟を結ぶための人質でござりました。それを拙者が途中で奪ってつれてきたのでござります」

 戸田はにやりとした。してやったり、といったところだろう。

 織田信秀は当然喜んだ。「でかした、戸田殿!」彼はいった。「これで…三河は思いどおりになる」

 そして、信秀は松平竹千代を熱田近辺の寺に閉じ込めた。

 この頃、尾張(愛知県)の当主・織田信秀は三河(愛知県東部)攻撃がうまくいかず苛立っていた。当主の松平広忠の父松平清康が勇猛な武将で、結束したその家臣団は小規模な集団ながら、西からは織田、東からは今川に攻められたが孤軍奮闘していた。

 しかし、やはり織田か今川につくことにして、結局、今川につこうということで今川に人質・竹千代を送ったのである。

 松平は拡大を続け、次第に松平姓を名乗る部族が増えていった。しかし、数がふえれば諍いが起こる。松平家は内部分裂寸前になり、そこに尾張の織田信秀と駿河(静岡)の今川義元が入り込んできた。

 義元はすでに「京都に上洛して自分の旗をたてる」という野望があった。

 この有名な怪人は、顔をお白いで真っ白にし、口紅をつけ、眉を反り落とし、まるで平安時代の公家のような外見だったという。自分のことを「まろ」とも称した。

 上洛といっても京都の足利将軍を追い立てて、自分が将軍になるという訳ではない。

 今川家はもともと足利支族で、もし足利本家に相続人がいなければ、今川家から相続人をだせる家柄である。ただ、今川義元とすれば駿河一国の守護として終わるより、足利幕府の管領となるのが目標であった。それの邪魔になるのは尾張の織田と三河の松平だ。

 美濃(岐阜)の斎藤氏については織田などをやぶったあとで始末してやる…と思っていたという。そんな野望のある今川義元は、伊勢に逃れた松平広忠を救済した。

「まろが織田を抑えるうえ、三河にもどられよ」

 当然、松平広忠は感謝した。今川義元は大軍を率いて三河に出陣した。そんな頃、人質・竹千代が戸田に奪われ、織田家にやってきたのだ。

 織田信秀は松平家の弱体と、小豆板での勝利に狂喜乱舞した。今川は策を練った。

「松平広忠殿、もはや織田家に下った竹千代は帰ってはこぬ。そこで、まろの今川の家来となったらいかがか?」

 当然、小勢力の松平家は家臣となろうとした。しかし、「そんなことはできない。竹千代様の帰りをあくまでも待って、われらは松平家を再興するのじゃ」と頑張る者たちもいた。それがのちに徳川家普代の家臣群になっていったという。


 美濃の斎藤道三は、尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。

 興味深々なのは舅の斎藤道三の方である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……

 斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。

 信長のお共の者も八百人くらいだ。ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。

「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。

 側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。

 道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。

 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。

 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。

「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。

 道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。

 道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。

 寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。

「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。

「これは、これは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。

「織田信長でござりまする。舅殿」

 信長は笑みを口元に浮かべた。

「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」

「散々です。しかし、もうすぐ片付く筈でございまする」

「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。

「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」

「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」

「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」

「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」

「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしとは違う気迫じゃ」

「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでござる」

 ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。

 信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。

 こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。

 そして、いよいよ織田信長の天下取りの勝負が始まるのであった。それは武田晴信をも恐れさせる勢力に、織田信長がなることを意味していた。 


川中島合戦では上杉謙信は妻女山に陣を敷いていた。上杉は、武田信玄の夜討ち、軍を二手にわけての正面と背後からのいわゆるきつつき作戦を見抜いた。深夜に上杉謙信はしずしずと軍を下山させ、濃い霧の中、信玄の正面の八幡原に陣を整えた。

早朝、濃い霧が晴れると武田信玄入道は目の前に刀八(とばつ)毘沙門(びしゃもん)の旗を見て驚く。武田のきつつき作戦は失敗、武田は慌てて鶴翼の陣をとる。上杉は車懸の陣で攻め立てる。まさに激戦! そして川中島合戦の見所である上杉謙信VS武田信玄の三太刀七太刀……上杉謙信が白馬でわずか一騎で信玄に太刀をあびせたのだ。

 愁いを含んだ早夏の光が、戦場に差し込んでいる。上杉軍と武田軍は川中島で激突していた。戦況は互角。有名な白スカーフ姿の上杉謙信は白馬にまたがり、単独で武田信玄の陣へむかった。

謙信は信玄に接近し、太刀を浴びせ掛けた。軍配でふせぐ武田信玄。

さらに、謙信は信玄に接近し、三太刀七太刀を浴びせ掛けた。焦れば焦るほど、信玄の足の力は抜け、もつれるばかりだ。なおも謙信は突撃してくる。

信玄は頭頂から爪先まで、冷気が滝のように走り抜けるのを感じた。「おのれ謙信め!」戦慄で、思うように筋肉に力が入らず、軍配をもった手はしばらく、宙を泳いだ。

川中島の蒼天には中国の故事で、「正しい戦・政」をするものの頭上にだけ現れるという巨大な蒼い龍が、そして黄金の虎が、両雄激突の頭中で現れていた。

きらきらと光る龍虎……まさに圧巻であった。流石は越後の龍。流石は甲斐の虎!

「運は天にアリ! 鎧は胸にアリ! 手柄は足にアリ……我毘沙門天の化身なり!」

「こざかしい、謙信入道よ! ひとは城! ひとは石垣、ひとは堀!」

「越後のそして関東のために勝負いたすぞ、信玄入道!」

「こい! 謙信!」三太刀七太刀……蒼天の龍虎もまばゆい光で戦う!

まさに、義の軍神・越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄との両雄激突となる。

蒼天の龍虎……これがすなわち、天下人への道で、ある。

はてさて、勝利の女神はどちらの英雄に微笑むのか?龍VS虎…運命のふたりの戦国武将。

 戦国乱世の世を、義を貫いて生き抜いた軍神・上杉謙信。越後の虎とも龍とも呼ばれた猛将・謙信は自らを戦いの神毘沙門天の生まれ変わり化身と信じ、「毘」の一旗を揺るがして闘った戦国最強の名将の中の名将である。信玄は太刀を軍配で受けながら、

「おなごの幸せをつかむのがよかろう!」

「……なめるな! わしは越後の大名! 毘沙門天の化身ぞ!」

「あくまで、貫き通すか」

「……当然!」

「……おのれはおなご!」

「わしは…もはや男の子じゃ!」

「……ふっ」

「………またあいまみれようぞ、信玄入道!」

謙信は白馬で去った。「……上杉謙信、日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)よ!」

 結局、五回もの川中島合戦は引き分け。この合戦が元で武田信玄は上洛途中で労咳(肺結核)で死んだことになっている。また、上杉謙信もまた数年後に厠で倒れて脳梗塞で死んだことになっている。だがしかし、本当は死んだはずの武田信玄(晴信)と上杉謙信(おんな謙信・輝虎)は何処ぞかの未開の土地で夫婦となり……幸せになったのではないか?

そういう結末も、あってもいい。



軍神・謙信






 兼続らはひととおり戦談義と見学を終えた後、母の見舞いに山をおりた。   

 生母の名はお藤という。

 母はすでに出家している為、定額山善光寺によることになる。最近はめっきりと病気がちになってもいた。いわゆる病気見舞いのようなものである。兼続には不安があった。何度も自分にかわって母の見舞いにきている弟から「母者の病状は悪い」と、きかされていたからだ。しかし、それを顔に出して面会する程、兼続は馬鹿ではない。

 上杉謙信にはかなわないまでも、内に智略を秘める利発な人物は、心をなかなか見せない。智略家に多い、謀略性がこの男の特技でもある。母上が死ぬ訳がない……

 それはわずかな希望であった。

 しかし、元来の現実主義者でもある兼続ではあったが、やはり不安は隠せない。

 ひとは死ぬ。

 子より親が先に死ぬのは道理でもあり、自然の摂理でもある。

 ……それはわかっているが……

 兼続は涙が出そうにもなった。痛々しい母の顔をみたときである。いかに智略家であっても感情までもコントロールはできない。悲しいし、母恋しい思いもあるに決まっている。 早くより謙信の姉・仙桃院に目をつけられて上杉家に仕官し、仙桃院の子・卵松・喜平次(上杉景勝)の補佐をしていた兼続に代わって、弟が母の見舞いと看病を続けていた。

 母は布団から身を起こして、

「元気そうでなによりです、与六」という。

 兼続は、「いいえ。母者。どうか寝ていてくだされ」という。

 お藤は、坂戸城主・長尾政景の重臣だった樋口惚右護門兼豊に嫁ぎ、坂戸城(現在・新潟県南魚沼市)で、二男一女をもうけた。それぞれ、         

  樋口与六兼続(のちの直江兼続)

  樋口与七実頼

 などである。

 その中でも若いときから秀才でならして春日山城の上杉家に召し抱えられた兼続にかわって、実頼はよく母の看病にあたっていたのだという。

 母は繰りごとのように「上杉家……もっと長尾輝虎(のちに上杉謙信)公に仕え精進しなさい。お前は母の子ではなく、越後の子になりなさい!」

 という。当たり前だ。越後に生まれの人間は、若い御屋形様、謙信公は軍神のようなものである。一度も戦に負けたことがない無敗伝説は『越後の龍』の伝説となっている。

「ははっ!」

 兼続はうやうやしく母に頭を下げた。

 そして、兼続には母が消えかけた蝋燭の風前の灯と映り、その後の言葉が出なくなった。

母者! ……どうか一日でも長く生きてくだされ。心の中で思うだけである。



 兄弟ふたりは壮天の青空をみつめ、丘の上にいた。

 そよ風が頬をかすめ、心地好い。

 ふたりはしんとした顔になり、

「母者は……だいじょうぶであろうか?」といいあった。

「まあとにかく」兼続はいった。「わしは上杉家のために精進する。母者の命通りに…」

「御屋形様は天下をとれるじゃろうか?」

「……わからぬ」

 弟は訝しがった。「わからぬとは? 御屋形様は越後の龍……だれにも負けないはずじゃろうが兄者?」

「その御屋形様は天下を獲ろうという野心がない。越後の関東の守護となればあるいは…」 兼続には残念でならない。武田信玄如きは天下を欲していた。織田に討たれた今川義元も天下を狙った男だ。しかし、御屋形様(謙信)は領土を広げようという欲がない。

 上杉謙信のような軍略の天才ならば天下だって夢ではない筈だ。

 しかるに……

 兼続は遠くを見るような目をした。

「とにかく……わしは上杉家のために尽力するのみだ。のう実頼、それでよかろう?」

「兄者?」

 ふたりは無言になった。ちなみに喜平次はのちの上杉景勝である。

 与六(のちの直江兼続)と喜平次は幼少の頃、一緒に雲洞庵で学んだ。

 そんなとき馬の足音がきこえた。まずい! 赤い四菱の旗指物……武田軍じゃ!

「おんしら上杉者かぁ~っ?!」

 馬が三騎やってくる。とにかく逃げねば。

 矢が雲霞の如く飛んでくる。

「痛っ!」

 矢が兼続の肩をかすめた。少し、出血した。ふたりは駆け出し、藪の中に逃げ込んだ。 何とか逃げきったようである。それにしても危なかった。ふたりは大きく溜め息をもらした。武田め! 信玄が死んだからと勝頼の時代となっても荒々しい。

 過擦り傷の兼続は肩をおさえた。血が滲んだ。

「どうなされた?」

 可憐な女子が、ふたりに声をかけてきた。

 武田者ではないらしい。

「なあ~に。少し矢が掠めて血が出ただけじゃ」

 兼続はいった。女子は「化膿すると悪い。手当てしてやろう」という。

「このあたりの者か?」

 実頼は尋ねた。

 女子は「そうだ」という。「とにかく岩宿にこい」

 ぶしつけな態度をよそおっているのか…はたまた田舎者だからか…

 しかし、麗しき女子である。身形は不様というか貧乏くさいが。まさか間者か? とにかくふたりと女子は岩宿にいった。手当されてる間も、兼続は用心するような目で女子を見ていた。間者だとしたら武田…いや違うな。北条? 今川? それとも何処ぞや。

「…女子、名は?」

 兼続はきいた。

「お船」

 女はぶしつけに横顔のままいった。そして、急に笑顔になり、何かいいかけた。

「なんだ?」

 実頼は不信に思い、きいた。

「あなた方は越後訛りがある。しかも武家のものであろう?」

 するどかった。

「あなた様は樋口兼続さまですね?」

「…なぜわしの名を?」

 兼続は驚いた声をした。するどすぎる。やはり間者か?

「幼い頃より明晰で、船で溺死した政景の夫人、仙桃院さまに取り立てられて召し抱えられ、世継ぎの景勝さまの小姓頭兼補佐役となられたのでありましょう?」

 ふたりは無言で刀にそっと手をかけた。

「わらわは怪しい者ではござりません。斬ってもらっても結構ですが、まずそれより景勝さまは上杉の養子となられたとか……しかも養子はもうひとりいて北条からの養子・三郎景虎さまとか…」

「くわしいの、女。どこぞかの間者であろう?」

「いいえ。兼続さま、見当違いでござりまする」

 女はふふふと微笑んだ。可愛い顔立ちである。「もう武田の者もいなくなりましたでしょう。武家のお偉いさまがこのような岩屋にいるべきではありません」

「……世話になった」

 兼続は驚いた顔のまま、腰をあげた。何者だ? この女子は……。

 ふたりはとにかく、場を去った。これがのちの運命の女となろうとは兼続でさえ思わない。するどく、明晰な女子じゃ。兼続は初めて、賢い女というものを知った。

 現代では女性が活躍するのは珍しくはないが、戦国時代では女子は活躍の場さえなかった。只の子供を産む道具のような見られ方が一般だったのである。




                            

 仙桃院は四十九歳……しかし美貌のために三十代頃にしかみえない。

「上杉家はわらわの弟・政虎(謙信)の神通力(カリスマ)で動いているようなもの」               

 息子・景勝を補佐する兼続に本音を吐露した。

 兼続は平伏してから、「仙桃院さまはさすがにわかっていらっしゃる」

「しかしのう、兼続。われの息子で弟の養子・景勝以外にも、北条からの養子・三郎景虎もいる。政虎(謙信)はどちらを世継ぎに選ぶのか?」

「わかりませぬが、拙者の考えではやはり利発な景勝様でござりましょう」

「弟は不犯などと申して女人を受け付けぬ。こまった武将じゃ」

「いや」兼続は口をはさんだ。「なればこそ……御屋形様は神の如く崇められておりまする。ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じでござる!」

「神か? しかし所詮は人間。天罰などと申しても義の戦などと申しても所詮は人間のおごりに過ぎぬ」

 仙桃院はするどかった。さすがは謙信の姉である。凡人だった謙信の兄・晴景とは違う。 兼続は何といっていいかわからずにいた。

 仙桃院は察した。「…ともかく、何があろうと、景勝のこと頼みまする」頭を軽く下げた。

恐れ多い。兼続はふたたび平伏して「ははっ!」と歌舞伎役者のように唸るような声を発した。利発で聡明な男じゃ。仙桃院は微笑んで、

「そなたが男前なので、周りの女子たちが噂しておる」という。

「…なんと?」

「そなたにはひとに好かれる才があるようじゃの」

「いえ。めっそうもない。わたくしも御屋形様にならって不犯を…」

「女子を求めぬと?」

「いいえ。そのう…」兼続は困った。「どうしましょう?」おかしな言葉が口をついた。

 仙桃院は笑って、

「無理なことじゃ。弟・謙信は変人なだけ……真似をしようとも不可能じゃ」

「…とにかく景勝さまを死ぬまで補佐いたしまする!」

「それは重畳! 頼みまするぞ」

 仙桃院はいった。兼続はこの後、秀吉から幾ら銭を積まれても仕官を断り、景勝を補佐し続ける。直江兼続はやがて、徳川家康までも恐れさせていくのだ。


 上杉政虎(謙信)が二度目の上洛のときとなった。

 朝廷から正式に関東守護に任命された。京は殺伐としていたが、上杉の行列が続いた。そして、事件は起こった。

 春日山城にいた宇佐美定満(フィクションの上杉謙信の大軍師・宇佐美定行とは一字違いだがこちらは実在の人物)は兼続を呼び止めた。深刻な顔だった。

「与六、そち、御屋形様をどう思う?」

 謙信に三願の礼をもって向かいいれられた宇佐美は、また謙信の弱さも見抜いていた。 兼続は、「御屋形様はまるで戦神のようでござりまする」という。

 宇佐美の白髪頭の眉間に皺がよった。

「戦神か……そうであればよいがな。領国の衆もそう見ていよう。しかし…所詮は御屋形様とて人間に過ぎぬ。怒りや癇癪や涙……人間なればこそだが失敗もしよう。そうすれば神話も消え失せようて…」

「何か上洛のおりありましたのでございましょうか?」

 兼続はわざと知らぬふりをした。宇佐美にはわかっていたが、あえて口にしない。

「上洛し、行列していたところ下馬せず見ていたものがおった」

「成田長政にございますな?」

 兼続はにやりといった。

「やはり…」宇佐美は唸った。「そちは只者ではないな。やはり知っておったか」

「いえ。只、わが耳に早く届いただけにござりまする」

「御屋形様は怒り身頭に達したのか鬼のような形相で白馬からおりて近付き……成田を馬の上から引き摺り下ろし、鞭うった」

「『無礼者めが!』とでしょう?」

「うむ。まずいことだ。〝人間〟を出しては御屋形様でなくなる。他国の御屋形なればそれでもよかろうがのう」

「北条の籠城中にひとりでむかい、矢の霰の中、酒を飲んで死中に活を得たこともありましたとか…」

「うむ」宇佐美は顎を軽く撫でて「それもこれもすべては演技であれば上杉家を継いでも意味なしじゃ。義だの仁などと申したとて領民は見限りようて…」

「それで関東出兵のおり、成田勢が裏切って北条側についたのですな? 人質の伊勢夫人が越後におるというのに……こまりましたな」

 まるで宇佐美定満がふたりいるようである。謙信にとっての宇佐美と、景勝にとっての宇佐美……。ふたりは深刻な顔で黙り込むしかなかった。

 しかし、当の本人・上杉謙信はいっこうに気にもせず上洛ののち、武田攻めのために武諦(ぶてい)式をとり行なうのみだ。武諦式とは謙信が出陣前にとり行なう儀式であり、現在の米沢市の上杉祭りでも川中島合戦ショーの前日にとり行なわれている。

 政虎から輝虎となり、出家してこの年、上杉謙信となった御屋形様は武楴式を行う。

「天はわれにあり、鎧は胸にあり…われこそ毘沙門天なり!」

 おおおおっ~っ!

 謙信の激で、軍の兵士たちからどよめきが起こる。「いざ出陣!」…おおおお~っ!

 川中島の戦いは七度行われたが、結局痛み分けでおわる。

 このために信玄は天下を獲ることもなく肺病で死んでしまう。



 上杉謙信は与六兼続を弟子のように見ていた。

「兼続……そちはまだ若い」

 謙信は座敷でいった。兼続は下座で平伏している。

 謙信は剃髪しているために白いスカーフ(頭巾)のようなものをかぶっている。「若いからこそ義を軽んずる」

「申し訳ござりません」兼続は再び平伏する。

「たが、それはいい。若いとはいいものじゃ。われもそちのようなときがあった」

「御屋形様が?!」

 謙信の思わぬ言葉に、兼続は驚いてみせた。義に劣る行為とは、兄・長尾晴景を追い落として領首になったことだという。兼続の生まれる前ではある。

「わしの義を受け継ぐのは養子の景勝でも三郎景虎でもない。そちじゃ」

 兼続は恐縮して、「恐れ多いことで…」と平伏した。

「正直な気持ちじゃ。期待しておるぞ。上杉家が生きるも死ぬるもすべてはそち次第じゃ」 

謙信は正直に本音を吐露した。

 天才軍神は、宇佐美定満の後釜となるであろう兼続の天才を理解していた。さすがは英雄である。こののち謙信と兼続は本当の師弟関係になっていくことになる。         

 お船は直江家、直江景綱の子女であり、お船の方と呼ばれていた。

 お船はじゃじゃ馬をならして、兼続と再会した。騒ぎをおこしお供のものを困らせた。   

そして、お船は兼続と結婚し(お船の元・亭主は直江景綱の養子になった直江信綱)、直江兼続となった夫に「泣き虫!」とふざけてみせた。

「…何じゃと?」

「昔とかわりありませんね? 幼い頃わらわたちは遊んでおって…旦那さまは木に登ったはよいがおりられなくなって泣きました。同じです…泣き虫! 旦那様がそのような泣き虫では困りまするよ」

 お船は可愛い顔で、いった。

「わかった。もう泣くのはやめじゃ!」

「…でも、私がみまかったときだけは泣いてくださいまし!」

 お船が乙女心をみせると、兼続は「そうじゃのう」といった。

 何にしてもこれで兼続は年上の嫁をもらった。しかし、子はすぐに夭生してしまう。直江兼続はお船以外の側室を生涯もたなかった。妻だけを愛した。

ここでも兼続は義を通したのだった。




 一五三○年、長尾虎千代(のちの上杉謙信)は越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。栖吉城(長岡市)による古志長尾氏の娘が生母である父親の越後の守護代・長尾為景は虎千代が七歳の時(一五三六年)に、死んだ。

 為景は身まかる前、病の床に伏しながら、虎千代と晴景を呼び付けた。彼は咳混みながら、兄弟仲良く、長尾家を守れといったという。そして倒れ、そのまま死んだ。為景はかっぷくのいい体つきで、口髭を生やし、堂々たる人物であったという。

 謙信は幼児期をふりかえり、「父上が死んでから、葬儀の時、俺は甲冑をきせられ葬列に参加した。皆が敵にみえてたいそう怖かった」と家臣に何度も話したという。

 それも実は事実で、彼女の父親の死によって、覇権を握ろうという豪族たちが葬儀にかなり参列していたという。戦国時代だから、もちろん「下剋上」も考えられる訳だ。七歳の虎千代(のちの上杉謙信)であっても怖かったろう。兄の晴景が無能であり、虎千代(のちの景虎)が賢いので、男装させ男の武将として育てられた。一部の家臣しかおんなだと知らない。

知的な人間であるが、どこかあまり女性的な顔というより中性的な風体だ。

ちいさな乳房は厳重にさらしを巻いて隠していた。普段は着物や鎧だからわからない。

だが、……昨日の友は、今日の敵……というのが「下剋上」であり、戦国時代であるのだ。

 上杉謙信にとって、父親の葬儀は忘れられない思い出である。

 参列者の中に、謀反を起こした家臣や、下剋上精神の豪族が沢山いたからだ。しかも、虎千代は幼い兄弟のみで、母もすでに亡くなっていて、たいそう孤独で脆弱な立場にいた。「いつ、殺されてもおかしくない」

 虎千代(のちの上杉謙信)もさすがに震えただろうか?

 いや、そうではなかった。

 彼女は、まだ、なぜ幼い自分や兄弟の命が狙われるのか理解していなかった。…つい先日までは親父のことを「大殿さま! 大殿さま!」と呼んでペコペコしてやがったくせに…。

彼女(虎千代)は、たったひとりの家臣・金津新兵衛とふたりっきりで、奥座敷に入った。そこには、彼女の父親・長尾為景が横たわっていた。

 柩には花がいっぱいしきつめられ、その中に、謙信の亡父・長尾為景が横たわっていた。硬直した「デスマスク」。それはなんとも哀れであった。しかし、その硬直し蒼白くなったその顔は、何かを言い掛けているようにも思えた。

「………いい顔をしている」

 虎千代は呟いた。虎千代は確かに、不思議な印象を与える人物である。年は七歳であったが、がっちりした首や肩がたくましさを示し、目はツリ上がっていて堂々とした印象の子供だった。

 十二月の寒い日だった。

 分厚いグレーの雲から、しんしんと雪が降りしきっていた。しかし、時折、雲の隙間から弱々しい陽の光が差し込んで、辺りを白く照らしていた。それは、とても幻影的で、気が遠くなるほどのしんとした感傷だった。

 彼女(虎千代)と、家臣・金津新兵衛は襖から差してくるぼわっとした光を浴びながら、亡骸を見ていた。…それはかつて「越後の龍」とよばれて恐れられた「謙信の亡父・長尾為景」そのひとだった。新兵衛は腹部に収束感を覚えた胃が痛くなり、嘔吐を覚えた。

「「越後の龍」も死ねば…ただの亡骸か…」

 家臣・金津新兵衛がそう不遜なことを思っていると、

「のう、新兵衛」

 と、虎千代がきいてきた。

「はっ、なんでございましょう、若君?」

「俺や兄上が弱いので、家来どもが刃向かうのか?」

 新兵衛は即答せず「……はぁ」としばらく迷ってから、

「つづめていえば、そういうことになり申す」と言った。

「まるで獣(けだもの)みたいだな」怒りが籠っていた。

「はぁ」

 家臣・金津新兵衛は怪訝なまま溜め息をついた。また 二十七歳の家臣だった。

「この春日山城に住みついている猫や犬ものう、幼き頃に親をなくすと…強い野良に酷い目にあわせられる」

「……はあ」

「要はそれと同一ということじゃ」

 虎千代が言った。新兵衛は改めて、この少女であるはずの虎千代の利発さに驚くのだった。「その通りでございまする」彼は頷いた。

 そして続けて、「虎千代さまの命を狙う可能性も大きいかと……その獣のような連中がでござる」と、真剣に言った。

「俺を殺しにくるというか?」

「はっ。いかにも!」

 金津新兵衛は強く言った。「そこで安全のために今しばらくは私や家来とともに行動して下さい」

「……家来? おぬしに家来がいるのか?」

「はっ。恐縮ながら四人だけですが……」

「四人も?」虎千代が驚いたように言った。「俺の家来はお前ひとりだけだ」

「なにをおっしゃいますか。私の家来はすなわち若殿様の家来にございます」

「……そうか」虎千代が言った。「ならば俺が大将になったらその四人をとりたててやる」「ありがたきお言葉にございます。それならば四人も喜びましょう」

 金津新兵衛はにこりと言った。

 ふたりがふり向くと、前とかわらぬ硬直した「デスマスク」があった。

 それは豪族として生き、武将として生き、そして守護代として死んだ長尾為景の最期の表情だった。虎千代(のちの上杉謙信)はこの父親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。だが、残念ながら遅すぎた。父親が彼女の成功を認めることはもうないのだ。

 失敗を咎めることも、娘のことを誇りに思うことも、もうないのだ。

 豪族の、ただの平凡な武将、守護代で革命の夢ばかり追っていたと決め付けていた父親…。しかし……。虎千代の背後に冷たいものが走った。

「なぁ、新兵衛」虎千代がきいた。「あそこにある刀覚えているか?」

「大殿さまが大事にしていらした名刀でございますか?」

「うむ。おやじの大事な「子供」だったんだ。あのくそったれの刀がさ」彼女の声には、怒りをふくんだ苦しさがあった。「おれはあの刀には触れさせてももらえなかった。「名刀だからな」っていうのが親父の口癖だった。「敬意を払わなくては、童子の触るもんじゃない」っていうのさ」彼女の声は気味悪いほど横柄で、金津新兵衛は長尾為景の言葉のこだまを聞いていたような気がした。

「もっと幼い時、俺はその糞ったれの刀をこっそり持ち出した」

 金津新兵衛は驚いたような顔をした。

「どうしてそんなことを」新兵衛の視線が虎千代の目にそそがれ、答えを待っていた。

「だって、娘として当然じゃないか!」

 虎千代(のちの上杉謙信)はこわばった声で言った。そして、「それで外で振り回してあそんでた。で…」彼女の声が苦悩に満ちたものになった。「見付かった」

「大殿さまに?」

「あぁ、それで俺は暗い蔵の中に閉じ込められた……おやじは冷酷だった。母も助けもしなかった……二日間も」

「それは、ひどい」新兵衛は深いショックを受けて、呟いた。

「怖かったですか?」

「あぁ、最初の恐怖さ。それいらい、俺は父親も母親も信じなくなった。母はすぐ死んだが、父はやっと今……ってところさ」

 自分が家臣として雇われる前に、そんなことが。そんな事情があったのか。娘、もっとも男装させ息子として育てたのにたいして決して満足しようとしない、執念深い横暴な父親から逃げ出そうとした少女。自分だってやれるんだということを示したかった少女の物語。しかし、残念ながら遅すぎた。父親や母親が彼女の成功をみとめることは決してないだろうし、失敗を咎めることもけしてないだろう。彼女のことを誇りに思うこともけしてないのだ。

 虎千代が金津新兵衛に笑顔を見せた。それは”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔だった。

「若殿さま!この刀をお持ちくだされ」

 それから、新兵衛が例の「糞ったれの刀」をもちだして彼女に渡した。「これは虎千代さまのものです」

「…………新兵衛」

 虎千代が受け取って「すまぬ」と言った。

 それから、彼女等は柩を見送った。

「俺や兄上が弱いので、家来どもが刃向かうのだな」

 虎千代が呟いた。そうしてると、いつのまにか可愛らしい少年が彼女のもとに歩いてきて、ちいさな花を差し出した。彼女はそれを無言で受け取ると、彼は身を翻していってしまった。……誰だろう? 虎千代は、心臓がどきどきするのを感じた。…なんだろう? この気持ちは……?

 その夜、虎千代は「悪夢」を見た。

 彼女が独りふとんで眠っていると、父親の気配を感じた。目を移すと、遠くの座敷に、なんと父親が横たわっていた。その姿はまさに亡霊だった。蒼白く、透明なのだ。

「……虎千代」

 突然、為景の亡霊が娘のほうに顔をむけて言った。「……虎千代、闘え! 自由のために…。お前ならやれる。お前には勇気がある。お前は男子として、自由のために闘え!」

 虎千代は声も出なかった。そうして動揺していると、亡霊はふっと消えた。

 その次の朝、彼女は金津新兵衛にそのことを言ったが、新兵衛は信じず笑うだけだった。…そのようなものはただの「夢」にござる、というのだ。

 そうだろうか?

  まもなく年が改まって、虎千代は八歳となった。天文六年のことである。

 春日山城と目と鼻の先の府内(直江津)に館を構えている守護上杉定実が使いの者をよこして「虎千代を連れてくるように。大事な話がある」と言ってきた。

 金津新兵衛は「すわこそ……若殿さまの身が危ない」と緊張した。

 ……守護は、若殿さまを殺すかも知れない……もしや……。

「若殿さま、申し訳ござらぬが「仮病」を使って頂きたい」

「仮病?」

「はっ、このままでは虎千代さまの身が危うくござる。病気なれば危険地へまいらなくてもようございます」

「そうか。……では俺は、炒豆と焼栗を食べ過ぎて腹くだりしたことにしよう。そちはもっともらしい言い訳をいいながら向こうの様子を探ってまいれ」

「はっ」

 金津新兵衛は、まだ八歳であるはずの虎千代の「智将の片鱗」に感動を覚えた。…もしかするとこの若殿さまは本当に大物になるやも知れぬ。…越後国一…いやこの天下一の武将に………おなごではあるが…。

 新兵衛は家臣たちに「くれぐれも警戒するように」と言って出掛けた。

 虎千代はあししげく厠(かわや)(トイレ)に通った。「腹が痛い、腹が痛い」と言いながら、苦悩の表情で厠に何度も通った。そして、薬師のもってきた薬を、虎千代はわざと大袈裟に呻きつつ飲み込んだ。

……あざやかな芝居である。まず家臣に見せて、敵にも嘘が伝わらないようにする。一番みせるのが召使の女たちにである。女は口が軽い。芝居で病気のふり……などと本当のことをいえば、たちまち守護の耳にも入るというもの。

女、子供には注意しすぎるということはない。

もっとも本当は自分も女子でガキなのだが。

 だが、だからといって虎千代は「女子嫌い」でもなかった。只、女は愚か、と思っていた。が、嫌いな訳でもなかった。この思いは、冷たかった亡き母親へのコンプレックスであろう。女子など糞っくらえだ!

 まだ、父親の長尾為景が健在で、城のあちこちを自由に歩きまわっていた頃、虎千代は猫や猿が赤ん坊に乳をやるのをみるのが大好きだった。幼い子供が母親の暖かい胸に抱きしめられて乳を飲む……なんとも幸せな気分になったものだ。それにひきかえ、俺の母親は……。虎千代は母を呪った。

 戻ってきた金津新兵衛に、虎千代は言った。

「府内に俺をつれていくのか?」

「はい、御屋形様はたいそう優しい方のようで…私の勘違いでございました」

「なんだと?」

 虎千代は怒った。…先程まで「仮病をつかえ」といっておいて、すぐ手の平をかえしたように「さっそく府内(直江津)にまいりましょう」と手前勝手なことをいうので怒ったのだ。金津新兵衛は、守護の上杉定実を虎千代の敵のひとりにあげていた。というのも、

父親の長尾為景は守護代のくせに守護・上杉定実を圧迫したり、幽閉したりしたこともあり、さながら家臣を扱うような態度をとったからだ。しかも、上杉定実の養父で、先代の上杉房(ふさ)能(よし)を襲って自害させたこともあったからだ。

 話をきいて虎千代は、

「ならば逆臣は父上のほうではないか?」と言った。

「話だけなればそうでしょう。ただ、御先代さまは守護が無能なため、あえてそのような態度をとったのでありましょう。すべて国人衆のためにです」

「俺が守護なら、そのようなやつの息子(娘)は殺してやるわ」

「だから、このようにお守りしておるのです」

「そうか。…………兄上は無事か?」

 虎千代は話題をかえた。

 兄上とは、虎千代の兄・長尾晴景のことである。晴景はうらなり顔で凡人だ。死期を悟った長尾為景はこの二十七歳の青年に守護代・当主の座を譲っていた。れっきとした春日山城主であるが、豪族の誰も彼を認めてはいなかった。

 上杉定実の元にいくと、たいそう優しく可愛がられ、りっぱな太刀や馬まで贈られた。「虎千代」は幼名を改め「景虎」ときょうから名乗ることになった。「まことにありがたく存じまする」

 景虎は晴景と定実に平伏して言った。

 越後守護・上杉定実は、色部、黒川、本庄、加地、水原、中条、新発田などの豪族たちを臣従させねば国主にはなれない、と説いた。それから守護は、加地の祖先のことを説いた。そのところ、それは佐々木四郎高綱のことでありましょう、と明晰に景虎が言った。「そちは物知りじゃのう? 八歳とは思えん」

 無能の兄・長尾晴景は面目を保とうとして馬脚を現した。「そのようなことはわしも知っておる。佐々木四郎高綱が梶原景時と戦って勝った話しは有名だからな。いい気になるな」

 越後守護・上杉定実は吹き出した。

 …俺は知らなんだ、お前は物知りだのう…と褒めてやればいいのに…この守護代のおつむは弟(本当は妹)の半分もない。女色だけは一人前だが…。

「守護代殿、景時は景季の親父じゃ。あまりいいかげんなことを申すと、弟に笑われまするぞ」

 無能の兄は、とたんに恥ずかしさで顔を真っ赤にした。そして、きっと弟(妹)を睨んだ。

「景虎殿、わしを亡父のかわりだと思ってよいぞ」

 上杉定実は言った。…馬鹿にするな! お前のような弱いやつを誰が父親などと思うか?!景虎はそう思ったが、ぐっと堪えて言葉にはしなかった。

 こうして、天才・景虎はのちにふたりの凡人に反感を買い、生命を狙われることになる。その危険を逸早く察知したのは、景虎の家臣・金津新兵衛だった。

 晴景が景虎との話し合いで隠居するとき、晴景は気弱に言った。

「おれはいつでも虎……お前を守っているきになっていた。おなごのお前を守るんだ……と。だが、守られていたのはおれのほうだった」

「兄上。……」

「虎よ……できるか?この越後の山を、川を、民を、国を…すべてのものをお前が守ることが出来るか?のう虎……できるか?」

「…兄上。これいじょう犠牲を出すわけにはまいりません。失礼ながら兄上、ご隠居なされ。あとはこの虎が越後の民や国を守りまする!」

「……できるか? 虎」

「はい。できまする!」景虎は涙目で言った。



「逃げましょう、今のうちに……若殿さま!……」

「逃げる?」

「はっ」新兵衛はうなずいた。「このところ毎週のように悪い噂がきこえてきます」

「俺を殺すと……?」

「その通りにございます」新兵衛はふたたび頷いた。「さぁ、逃げましょう。私の家臣のもの四人も一緒に若殿さまをお守りいたします」

「……どこに逃げるというのか?」

 景虎は怪訝なままきいた。

「まぁ、若殿様の母君の実家、栖吉城へいくのが妥当かと」

「………栖吉城か。ならば、そこへいく道程、刺客がくるやも知れぬ。変装してまいろう」「変装?」

「そうだ。山伏の格好が妥当であろう。それならば怪しまれぬ」

 景虎の家臣・金津新兵衛や家臣四人は感心してしまった。……なるほど。さすがは景虎さま、それはいい。山伏か。………こうして六人は山伏の格好となり、山道を急いだ。

「俺がこの峠に陣を張れば、春日山城の兄上を攻め崩せると思うが、どうだ?」

 景虎は言った。新兵衛や家臣四人はハッとした。若殿はもう春日山城攻めを考えてらっしゃる。なんと野望の高き少女だろう。

 しばらくすると、太陽も沈みかけてうっすらと夜がきた。一行は足をとめ、「腹が減った」と景虎は言った。だから、ひとにぎりの家臣の者は用意していた弁当を開けた。

「俺の大好物が入っておるではないか」

 景虎は言った。…彼女の好物の栗強飯と鮭の酢割だった。

「箸をだせ」

「はっ!これに」弥太郎が箸を差し出すと、景虎は雪の上にどっしりと胡座をかいだ。そして食べようとした。その時、家臣の千代松が、

「お待ち下さい」と言った。

「……なんじゃ?」

「毒味をします。それがしが口にしたものだけをお食べ下され」

 千代松はそういって食べると「旨い」と言った。だから一同は笑った。「よし、食おう」食い始めると、誰かが竹筒の水を差しだした。ごくごくと飲む。

「おや」

 景虎は言った。「これは若狭屋に謀られたぞ」

「なんですと?! 毒ですか!?」景虎の家臣・金津新兵衛や家臣四人はうろたえた。しまった!と思った。竹筒に毒を……? しかし、景虎は笑った。

「これは酒じゃ」景虎はまた笑った。「俺は初めて酒を飲んだが、とても旨いものじゃのう、わはははは」

 一同はほっとした。

 こうして、「大酒家」として景虎は八歳にしてその片鱗を見せつけるのだった。        

         越後の龍




 無事に栖吉城に景虎たち主従六人が着いた。が、案の定、城主・長尾景信に逗留を断られた。景虎たちを迎え入れれば、また越後に争いがおこる…というのが理由だった。

 無理もない。それを景虎は理解した。で、

「おっしゃることごもっともと存ずる。すぐ立ち去るうえ、ご心配なく」

 景虎はそう丁寧に凛然たる態度でいった。

 城主・長尾景信や家臣の古志長尾家のみんなは、景虎の利発さに舌を巻いた。

「ついさきごろ元服されたといいながら、まだ幼少にあられまするゆえ、さぞや我儘でもいうかと思いきや、なんとも物分かりのよい立派な態度……われら一同、心から感謝いたしまする」

 と言って、八歳の甥・景虎にへりくだった後、長尾景信は新兵衛のほうを向いた。そして、まだ幼少の主君をここまで立派に育て上げたこと、を褒めたたえた。女子とは知らぬ。

 新兵衛は、「ありがたきお言葉にございます」と頭を下げた。ぞくぞくするほど嬉しかった。一族の雄に貫禄を示せない者が、一族の主になれる訳がない。若殿さまにはそれがある。若殿さまは「越後の龍」になるに違いない!

「金津新兵衛とやら」

「ははっ」

「先程申した通り、いま景虎殿をお迎えいたすと、とんでもないことになるやも知れぬ。だが、時がくれば……」長尾景信は言葉を濁した。そして続けて言った。「ひとまず栃尾にまいれ。紹介状を書こう。そこで時を待つのじゃ」

「ははっ」古志長尾家のものの栃尾城だが、いまは本庄実仍(さねより)という城代にあずけてある。岩船小泉本庄家のものの実仍だが、古志長尾家への忠誠は疑いもない。…そこなら安心だ。

「では、手紙を書くまで」

 長尾景信はそういって、景虎ら六人を城内に入れた。すると、座敷には当の本庄実仍がいた。それで景虎は「なんだこれなら手紙など不要ではないか」と思った。

 それからすぐに、俺に城の鉄壁さを見せて、思わず本音を口外するように手を打っておいたのだな、と気付いた。

 春日山城より栃尾城は小粒だが、展望がよく、天守閣からの眺めは最高だった。

「……いい眺めだ」

 景虎は言った。

「若殿……ここでさらに徳を積んでもらいます。まず、剣も大事ですが、まずは「頭」から鍛えましょう」金津新兵衛はほわっとした笑顔のまま言った。それにたいして、

「あぁ」

 景虎(のちの謙信)はそう頷くのだった。

 こうして天文六年から七年間、景虎(のちの謙信)は武術や学問の鍛練に勤しんだ。年齢でいえば、八歳から十四歳までの果敢にして大切な時期である。また、越後国の歴史や勢力などにも力を入れて勉強した。あらゆる経験者、体験者を呼んで話をきいた。だが、つまらぬオベンチャラや妄言には怒りをあらわにし、

「もうよい、下がれ!」

 と怒鳴り散らしたという。それでも帰らぬ者には太刀を抜く動作をして「帰らねば…斬り殺すぞ!」とさえ言ったという。

 しかし、耄碌気味の老人が記憶をたよりに一生懸命思い出そうと話すのには優しく耳を傾け、ごちそうを与え、帰りぎわに金まで与えたという。

 このようにして、景虎(のちの謙信)は自分の才を磨いた。

当たり前だが「声変わり」はしなかった。景虎は極めて低い声で話したという。

     

「御寝されたか?景虎様は」

 金津新兵衛が、寝室の外の見張り役・千代松に囁くようにきいた。

「しっ!」

 千代松は今宵が宿直だから、槍をかまえて襖ぎわに控えている。

「まだ読んでおられます。そろそろぽつぽつとお泣きになられるかと思います」

「よし、わかった。しっかり見張ってられよ」

 新兵衛はそろそろと足音をたてぬように遠ざかって、どこかへ姿を消した。千代松は眠気醒ましに茶を袋から取りだして、口にふくみ、飲んだ。

 そろそろ泣き声がきこえてきた。……「九郎判官(義経)が衣川で腹を召されるところだな」千代丸の勘は当っていた。部屋の中では、景虎が『義経記』を読みながら目を真っ赤にして泣いていた。(九郎判官とは源義経のことだ)

 景虎は、源義経の大ファンで、物心がついた頃からの崇拝者だった。

 ……景虎がこのようにして夜中に読書に耽り、ひとり泣くのを知るのは、主従六人以外では、くノ一(女忍者)の千代だけだった。だが、このくノ一も景虎を女子と知らぬ。

 千代は雇主の若狭屋にあやまった情報を流してしまったことに、後悔していた。…景虎が泣いているのは、母恋し…のような心境かひとり寝がさびしくて泣いているのだと思っていた。しかし、それは間違いで、彼女は、『義経記』の九郎判官が衣川で腹を召されるところの話が哀れで泣いているのだった。それを知った時、千代は、彼?(景虎)とセックス(性交)して結ばれたいと強く思った。

 若狭屋に雇われていたくノ一の千代だった。もう三十近い年増だったが、鼻スジもよく目がぱっちりとした美人で、少女のようにも見えた。

 彼女は、景虎に惚れてしまったのだ。

 しかし、仲間の男忍者は「お前にたらしこまれたら、あの若君は「色ボケ」になって才能を枯らしてしまう」とひやかすだけだった。

「あら、そうじゃないわ。若君はわれと結ばれれば、さらに男を磨くはずよ」

 千代はにこにこと言った。

 彼女は今、少年に化けて景虎ら主従六人の馬に餌をやったり、からだを洗ってやったりしているから千代松らの会話を盗みきいておおよそのことは把握していた。

「あの若君は、きっといつか天下を獲るやも知れない」

 千代は、わくわくとしたまま思った。

 大人気・謙信の用心棒・鬼小島弥太郎(戦死の地も新潟県長岡市にあり、お墓も長野県飯山市に残っているが、彼の名前は上杉家の軍役帳や名簿に残っていない)は上杉謙信のボディガード的な謎の多い人物だ。存在したか不明だが、ここでは存在したことにしよう。

一切、鬼弥太郎の活躍の場はもうけないが(笑)


長尾景虎ことのちの上杉謙信は家臣を残して山の温泉につかった。

おなごなので裸は恥ずかしい。

これは俗説なのだが、その温泉に湯治できていた武田晴信(のちの信玄)が風呂にはいっていて出くわした、という話がある。彼は若いときより労咳であった為湯治が習慣だった。

「……おんな。どこからきた?」

まさか春日山の城、とも、われが長尾景虎、ともいえず、

「北国から……着物の反物を売りに都にいく途中です」と嘘をいう。

「なら…おんな。その反物とお前をすべてわしが買おうか?」

「……いいえ。連れがいますので…」

「ならば連れごと銭を出すから買おう。ついてまいれ。わしの城に…」

「……城?」

「わしは武田晴信じゃ」

「な? ……すいません。少しまだ仕事がありますので…」

おんな謙信は逃げた。あれが武田晴信か……

まさかこののち川中島で一騎打ちするふたりとは誰も思わない。

おんな武将・長尾景虎(のちの上杉謙信)は越後の海を春日山城から眺めていう。

「信玄(武田晴信)は細面の山狐の如き細い男じゃった。山育ちで海も見たことがない。甲斐には海がない。海をみずにそだった男には天下は取れない!海…この海の向こうにはいくつもの知らぬ島々や異国がある。海を見ずに育った男には天下は無理!山や川はすべて海に注がれる。儂(わし)の目は越後の目。空や海や山の目。越後の龍、越後の虎……それがこの春日山城城主この関東管領・長尾景虎ぞ!海もしらぬ男になどまけぬ!」

しかし、慢心する景虎に、軍師・宇佐美定満は「今の景虎さまは越後の内戦で勝っただけの武将。今の景虎さまは虎ではなく、猫にすぎない!武田晴信(のちの信玄)は勝つためにはなんでもやる男!ならばこその“甲斐の虎”でござる!」

景虎は怒り、抜刀する。

しかし、宇佐美は「このおいぼれ、斬るなり老人の戯れ言と聞き流すなり好きにしてくだされ。こうおいぼれると死など怖くはない。長尾景虎の伝説に花を添えましょう。但しわたしを斬っても景虎さまは虎になれず猫のまま。」

景虎は刀を振った。御簾(みす)が切れて、ぼろぼろに落ちる。

「宇佐美……晴信のことを詳しく話せ!」

(宇佐美定満・うさみ・さだみつ・越後の国主・上杉為景に長年仕えた老臣で長尾景虎時代の上杉謙信を語る上で欠かせない名将。宇佐美は父親が長尾為景に敗れたために不遇の時代を過ごす国衆。長尾政景の謀叛のさい、景虎に口説かれ寝返り、その戦略によって政景を降伏においこんだ。ちなみに上田の長尾政景は謙信の姉・(綾姫)仙桃院の旦那さま。)

「景虎さまは毘沙門天の化身、生まれながらの戦の天才と……越後中…いや諸国でも有名。ですが、それゆえ少し危うさも感じます。今のあなたでは武田晴信には勝てない。武田は国をまたいで駿河(するが)の今川や相模(さがみ)の北条との戦をしている百戦錬磨の大国。それに比べて景虎さまは越後内部のちいさな国衆をやぶっただけの新参者だ。武田晴信は恐ろしく頭が切れる冷徹な男です。その下にいる家臣もまた兵(つわもの)ぞろい。武将だけで三十人は越える。しかも、武田には名軍師の山本勘助なる醜男もいる。晴信は合戦の時、何数人もの間者(忍び・武田の忍者軍団は『三(み)ツ者(つもの)』)をはなち、軍略を練って合戦をする。殺すときは何千人何万と首を取る。冷徹で情けがない。負けた兵士は一人残らず殺す。さらった男たちは奴隷として売り、女子たちは金山の遊び女や売春宿で死ぬまで地獄をみせる。今のあなたでは晴信には勝てない!」

「ならば!この猫の景虎(上杉謙信)を虎に化けさせてみよ! 宇佐美!」

宇佐美定満は景虎(上杉謙信)の軍師として師弟関係となり、この人物により景虎は軍略を磨いていく。この定満、謙信の姉・仙桃院の助言で長尾政景より、景虎(謙信)のもとに仕官したのだった。

 戦国時代はどこも財政難。いつの時代も戦争には金がかかる。

有名なのは佐渡の金山だが、謙信が治めた頃よりずっと後で金山がつくられた。武田の甲斐にも金山があった。謙信は内政や経済にも明るかった。青苧(からむし)の流通や運搬に税をかけ、府内の海に新たな船着き場をつくり、こわれた橋や道路を民間委託で改善したりした。また、謙信が酒豪であって酒好きであったのは上杉家の在存するいくつもの「盃(さかずき)」をみればわかる。山形県米沢市の上杉神社の謙信の使っていたいくつもの盃。その中に「馬上盃(ばじょうはい)」と呼ばれる直径十三センチくらいの盃は朱色の花柄の女性用のような盃。馬にのっていてまで酒を愛した。

武田の騎馬隊は戦国最強。その中でも最も有名なのは「赤備え(あかぞな)」という甲斐の甲山の猛虎と恐れられた飯富(おぶ)虎(とら)政(まさ)(弟は飯富昌景・のちの山県昌景)率いる“武田赤備え騎馬隊(全身赤き甲冑)”……敵はその姿を見ただけで恐れおののいたという。

馬は、甲斐が古くから甲斐の黒駒の産地だったから。鎌倉時代から朝廷に献上されてきた名馬の産地……それが最強軍団・甲斐の武田軍である。

ある作品では、おんな上杉謙信と武田信玄が出会って、恋愛感情にも似た描写があるのだが、そこは漫画と理解したい。

『上杉謙信女性説』じたいが90%以上の確率で嘘であり、信憑性が低い。だが、そのトンデモ説の女性説で描いているのがこの作品でもある。

そこはエンタテエインメントとして理解してください。


この頃、長尾(のちの上杉)家を継ぐ男子は長尾為景の子のちの晴景のみ。しかし、無能で病弱で頭が悪い。ということで景虎(のちの謙信)が尼寺から帰国して、かつての恋人との永遠の別れに悲しむいとまもなく、景虎が長尾家を継ぐ者として、長尾家に戻った。

戦国時代の習いでは嫡男が家を継ぐのが普通である。しかし、景虎の実の兄・晴景はあっさりと兄妹合戦を上杉定実からの調停で停戦・隠居し、景虎を養子とすることで長尾家(上杉家)を守った。これは謙信があまりにも天才過ぎたからか? それとも晴景がクズ過ぎただけか? なにはともあれ長尾晴景の決断は見事だった。歴史家の言うような長尾晴景は本当にクズだったのか? いや、むしろ兄として妹を守ったのではないか……

天文十六年冬、長尾景虎(のちの上杉謙信)は春日山城に入城した。

上杉謙信女性論を唱えた八切止夫さんは「家をつなぐというのは血縁関係でつなぐだけでなく、今でいう会社組織のトップなので、それを守る使命がある。ただ、当時一般的には(家を継ぐのは)男の役目。普通は養子を迎えれば済んだ話だが、景虎の場合は特殊だった」という。多くの戦国武将が群雄割拠する戦国時代の中で、景虎は世にも稀な女性の戦国武将として男装して生きることになった。


「おや、景虎。ようやく戻ったかえ」

「姉上」

「駿府のれん様から、また珍しい京の菓子が届きましたぞ」

「おばさまから?」

今川の重鎮である関口(せきぐち)親(ちか)永(なが)の奥方れんは長尾家の出だ。夫との間に瀬名(せな)姫という虎とあまりかわらない歳の姫がいる。

「ああ、猪(ちょ)羹(かん)、これは甘葛ではなくて砂糖羊羹ね。虎に食べさせたかったのよ」

景虎も年頃だ。姉の綾姫(のちの仙桃院)は化粧をすすめたが、いらぬ。ぶきみだ、という。白粉も紅もいらぬという。姉の化粧道具を見て、女の顔をつくるのにこれだけのものが必要なのか?と疑問をもった。極めてボーイッシュ(男の子のよう)な景虎だった。

もともと女性として生まれたが男子として育てられたからきわめて男気があるのは当然だ。

十四になったある日、下腹に違和感を覚えて指をやると、股にぬめりがあった。

「まあ、景虎の姫様。おめでたいことですよ」

いわゆる〝月のもの(月経・生理)〟がとうとう景虎にも来たわけだ。

本丸の奥で母や女どもとともに過ごせば、女は一か月か二か月かに一度は、血を流す日があることは知っていた。

きっかけは母の化粧道具の中に、ぽつんと、蒔絵のない箱があったことだ。開けてみると蚕の繭玉があった。いわゆる現代でいうタンポンな訳だ。

「なぜ桶箱(オマル)などに? 厠にいけばよいではありませんか」

景虎が言うと、姉と侍女が、顔を合わせにんまり笑った。よほど妹の体が成熟したことがうれしいらしい。

「動くと漏れるゆえ、汚れるし、そなたも恥ずかしいであろう。なに、三か月もすれば腹に力を込めれば垂れずに済み、厠でひりだせるようになる。皆、そうしてきたことじゃ。そなたも慣れよう」

始めはさすがに困惑していた景虎だったが、なるほど、姉の言う通り三か月もすれば慣れた。

だが、この〝月のモノ〟と〝結納〟と〝おめでたいこと〟とは何のことか? よくわからない。大人に聞いても横に揺れて恥ずかしがるばかり。春画等も長尾景虎は見たこともなかった。だが、そんなこともいずれはわかること。子供が出来る為に産むために〝生理の激痛〟がある、と知った。

だが、長尾景虎は実際のところ、生涯母親としてお腹を痛める事も、女子の幸せもなかった、という。家臣のごく一部のしか景虎がおんなとは知らない。

すべては長尾家、越後の領民の為に。国の為道の為に。――紅はいらぬ、剣をもて!

やがてそんな理解のある姉上である綾姫(のちの仙桃院)も嫁に行った。

景虎は泣いた。これでたったひとりの理解者・姉上がいなくなる。

ちなみにこの綾姫(のちの仙桃院)の産んだ息子・喜平次(のちの景勝)が、上杉謙信(長尾景虎)の養子となり、上杉家第二代(米沢藩上杉家初代藩主)となるのである。

(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用(改筆) 四〇~九十三ページ)

    


 空の高い季節だった。

 秋の変わりやすい天気で、空のブルーには薄い雲がふわふわと浮いていた。うっすらうらうらとした雲の隙間から、時折、きらきらとした陽射しが照りつけ、辺りが輝いて見えた。陽射しがまぶしいほどで、河辺に反射して、ハレーションをおこしていた。

「いやぁ、いい天気だ」

 景虎はひとりで森の散策をしていた。

 これは、彼女の早朝の日課だった。…森をいき、自然と戯れる。自然と同化する。それが精神を安定させ、活力に繋がる。すべて、自分のためだ。

 しかし、その日はいつもと違っていた。

「あっ」

 景虎は言葉をのんでしまった。いつのまにか、たくましい容姿端麗な少年が目の前にいたからだ。彼は「薪拾い」をしているようだった。彼こそ、景虎の「幼い日の忘れえぬ恋人」になる美吉だった。彼はまばゆいばかりの美少年だった。

 美吉の顔は小さくて、全身もきゅっと小さくて肌は焼けていて、全身がきゅっとしまっているが細マッチョ、目が大きくて睫がびっしりと生えている。彼はまるで彌勒ようだった。

「……可愛い。まるで人形のようだ」景虎はドキドキとした。

 しかし彼女には不思議だった。なぜ、この男子を見ただけで胸が苦しくなるのだろう?

胸が締め付けられるかのようだ。喉も乾く。体が火照ってくるようだ。

 景虎は「恋」したことがなかったために、その気持ちが理解できなかった。

「………ご機嫌うるわしゅう」

 美吉がにこりと微笑む。と、彼女はますます真っ赤になった。

 しかし、景虎は心臓が二回打ってから、

「……お、お主の名は?」

 と、きいた。

「美吉です。………あなたは?」

「景虎、長尾景虎」

「あ!」美吉はびっくりして平伏し、「これは、これは、若殿様でしたか、申し訳ございません。ご無礼お許し下さい」と言った。

「よいのだ。それより……」

「はい」

「それより、美吉殿、明日もここで会おう…明日だけではなく明後日も明々後日も…」

 景虎は照れながら言った。美吉も照れて、それからふたりは笑顔を交わした。それは魅力的な笑顔だった。

 こうして、ふたりは誰にも知られずに早朝のデートを重ねることになる。時には、彼らは口吸い(キス)を交わすこともあったろうか? それは誰にもわからない。とにかくふたりは誰にも知られずに恋人として付き合うようになっていった。

 しかし、そんなふたりの蜜月もすぐに終りを告げた。

 美吉がひとりで森を歩いていると、急に不良を絵に描いたようなチンピラが向うからやってきた。彼は「いやだな」と感じた。男達はほんとうになイヤらしくゲヘヘと笑った。まさに欲望剥きだし、だった。まさに汚い格好をした「不良」だった。

 彼は逃げようとして、駆け出した。が、すぐに行く手を遮られてしまった。

「おい、男……もっている有り金をだせ! 殺すぞ!」

「うああぁ…っ!」

 チンピラたちは彼を押し倒し、金目のものをぶっしょくした。美吉は必死に抵抗したが、無駄だった。すぐに有り金を毟り取られ、乱暴に扱われ、刃物で何度も刺されてしまった。「……げへへ。けっこう銭を持ってんぜ」

「やったぜ!」

「あとはもうひとりの金持ちのぼんのような男だ!」

 チンピラたちは彼を「物」のように扱い、刺殺した。

 そんな時、

「やめろーっ!」と声がした。それは、悲鳴に気付いて駆けてきた景虎だった。

 彼女は怒りの声のまま駆け付け、すぐさま男達を刀で斬りつけた。

「ぐあうぁぁあ!」

「ぎゃあぁ」

 男たちはやがて断末魔の悲鳴をあげて、ドサッと地面に転がって息絶えた。しかし、そのようなクズどもなどどうでもよかった。「美吉殿!」景虎はすぐに彼の元へ近付き、起こそうとした。しかし、彼は腹や頭から血をどっと流して、すでに死んでいた。もう、息がなかった。もう、表情を変えることもなかった。

「美吉殿! 美吉殿っ!」

 景虎は涙ながらに言った。胸が苦しく、悲しかった。瞳に冷たい涙があふれ、何度も頬を伝わって地面にぽたぽたと落ちた。信じられなかった。…昨日まで、あんなに楽しく語りあっていたのに……。

「美吉殿っ!」景虎は涙ながらに叫んだ。

 しかし、彼はもう二度と彼女に微笑みを返すことはなかった。

  美吉の葬儀には、身分を隠した景虎もいた。当時の葬儀は「土葬」である。景虎の目を涙が刺激したが、彼女はまばたきしてなんとか堪えた。

「一生、お前だけを愛する……」

 景虎は、美吉の遺体に、そう誓った。


 景虎は、悲しみを乗り越えた後、また一段と成長した。

 景虎たち六主従の乗る馬六騎は春日山より高い栃尾山を駆け上がり、やがて目的地に着いた。そこからは佐渡島が一望できた。

「佐渡島が大きく見える」景虎がしみじみと言った。

それはとても微かな心症が混じっていた。……美吉殿……。彼女は一瞬、風に飛ばされそうな瞳になった。だが、それも一瞬で、家臣たちに気付かれるほどではなかった。

「そうでしょう」新兵衛がにこりと頷いた。

「昔、父上が佐渡島に渡ったのは……」

「今から三十年ほど前ときいておりまする。船出されましたのは越中の浜でしたが、お戻りは浦原津(新潟市)だったときいております。それからこの寺泊を越え、椎谷にて高梨政盛の手勢と合流されたと」

「そうか」

 景虎は頷いた。

 景虎が生まれる二十年ほど前、彼女の亡父・長尾為景はあわや関東管領・上杉顕定に討ち取られそうになって佐渡島に逃げた。が、やがて形成逆転、上杉顕定を討ち取ったのである。そもそもそ上杉顕定が為景を殺そうとしたのは、実の弟で越後守護の上杉房能を守護代の為景に殺されたからだった。つまり、守護の代官でしかない男が、守護の上杉家や関東管領を虐殺した訳だ。いかに下剋上の時代とはいえ、為景の悪評は広まった。…無理もない。

 その話をきくのが景虎には辛かった。

 しかし、今は亡父・長尾為景の気持ちもわかる。

 景虎は十六歳になっていた。しかし、彼女には心休まる時はなかった。恋人の死に悩み、暗殺の影に怯え、亡父の残した地位や権力を奪取して維持しなくてはならない。ただし、馬術、弓術などと大酒を楽しむときには心が安らいだ。ぐっすり眠り、美吉のことを忘れ、鬱病から逃れるために酒をしこたま呑むようになっていた。

 しかも、酒がまわると強気で豪気になるため、居候の直臣ばかりでなく誰かれとなく取り立てるものだから、家来はすぐに六騎、七騎と増えていった。

〝景虎が挙兵するやもしれない〟

 そのような噂もしだいに広がっていった。

 面白くないのは兄の晴景と妹(景虎の姉で、景勝の母)で、

「小童(こわっぱ)のくせに生意気な」と思っていた。

とくに晴景の妹(景虎の姉で、景勝の母)が輿入れしたばかりの上田(六日町)長尾家では、晴景以後の守護代を自分の家系で……と思っていたのに、まったく視野にいれてもいなかった景虎がしゃしゃり出てきたのだから、面白くなかった。

さて、景虎には兄の晴景と姉だけでなく、五つ年上の兄もいたことになっている。これは資料に信憑性があるかどうか不明だが、その兄が黒田秀忠なる人物に殺されたという。 

……本当に景虎の兄だったかはさだかではないが、殺された。

 謀反の旗を翻して春日山城に乱入した黒田秀忠に天文十一年、殺されたのだ。

 その訃報が届いた時、景虎は兄・晴景が自分の弟をむざむざ黒田秀忠に殺させたことに怒り心頭だったが、「栃尾の居候(景虎)も殺してしまおう」と近隣の小豪族たちに黒田秀忠がいっているのを知って、

「謀反者を成敗さねば!」と思った。

「黒田秀忠討つべし!」

 景虎は叫んだ。そして、本庄実仍に、「兄も挙兵するだろうか?」と尋ねた。

「はっ、多分……いや必ず」

「そうか」

 景虎は頷いた。


景虎は一説によると合戦で下半身を負傷し、去勢したような形で「俗欲・性欲」からの解放、を得たという。だが、実際は女子(女性)だった。最初から“ついて”なかった。


         初陣




     

 兄・晴景にへりくだって景虎は、下知を仰いだ。

 つまり、黒田秀忠を討つべきかどうか兄上が決めて下され…と仰いだのだ。このことは近隣の豪族や国人衆からも高く評価された。いい気分なのは晴景である。景虎が身分をわきまえて下知を求めてきたのだから…。しかし、彼は八年前、妹からうけた屈辱も忘れてはいなかったし、それを払拭できずにいた。

「景虎の栃尾軍が黒田秀忠軍に大勝したら、ますます自分の立つ瀬がない」

 無能の兄・晴景は思い悩んだ。

 しかし、グズグズはしてられない。事は急を要する。そこで、無能の兄・晴景は「黒田秀忠を討つべし!」という下知状をしたためて妹に送った。

「いざ、ものども! 黒田秀忠、討つべし!」

 馬上で景虎は兵を率いて、いった。

 すると、「おおーっ!」と、雄叫びが響いた。

 若きおんな武将・長尾景虎の初陣である。

 彼女は漆黒の鎧を身にまとい、黒く凛々しい馬にまたがっていた。…近くにいる少年に変装している女忍者・千代が「もう待ちきれない。すぐにでも若と交わりたい」と思うほど、若き武将・長尾景虎は凛々しかった。男らしくみえた。

「御大将、ごらんあれ!」

 本庄実仍が馬を寄せてきて指差すと、その方角には栖吉城よりの兵・二千騎が見えた。軍勢がおのおの旗指物をはためかせながら進んでくる。率いるのは無論、長尾景信に違いない。「俺が春日山の兄上に下知を仰いだからこそ、栖吉城の長尾景信も動いたのだな」 長尾景虎は、本庄実仍の眼を見て微笑んだ。

 目指す黒滝城へ近付くと、すでに与板城主・直江実綱と三条城の山吉行盛が、陣を張っていた。地侍たちは、ふたりが挙兵したので、長尾勢に寄騎していた。

 長尾景虎(のちの上杉謙信)は、地侍たちが挨拶にくると、名前を、旗指物の名を読み上げ(教育が域届かず、漢字の間違いが多かったが、景虎は全員の名前を覚えていて)、「なんの誰それ、大儀!」と、挨拶をした。そのため、

「大将が俺の名を覚えていてくれた」

 と、彼女の評価は益々高くなった。

「あのものは来なかったの」

 景虎はわざと口の動きがわかるように、新兵衛に言った。

「いかがなさりましょう?」

「うむ。使いをやれ」

「はっ」新兵衛は言った。

 と、馬丁の少年が、腹を押さえて陣幕から出ていった。

「野糞か? 御屋形様がいるんじゃけぇ…遠くでやれよ」馬丁長のおやじが言って笑った。しかし、その少年は女忍者の千代だった。

 ……怪しいと思ってたが、やっぱり……景虎は少年の正体に気付いて思った。

「しかし、あのもの自らが使いのもの(千代松と弥太郎)の跡をつける訳ではあるまい」お前たちの跡をつけるか、あるいは追い越していく者を生け捕りにせよ…そう命令してあるのだが、うまくやれるだろうか……? 景虎は心配になった。忍者は生け捕りになるくらいなら自殺する、ということを知っていたからだ。

 自殺されてしまったら、こちらが間者に気付いた、と知らせるだけだ。

「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」

 しかし、誰が間者を放った……? 兄上か? もっと違うものか?

 景虎は猛烈に頭脳を働かせてから、

「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」と新兵衛に言葉にして言った。

「ごもっともなお考えと存じます」新兵衛は言い続けて、「申し訳ありません、間者に最近まで気付きませんでした」

「しくじったの、ふたりは手ぶらで帰るやも知れぬ」

「なかなか腕のたつ間者でございました」

「まったく」景虎は続けた。「あの若者は、われらが栃尾にきてすぐに雇った馬丁……とすると雇主はやはり兄者…」

「でしょう」

 新兵衛も頷いた。……ふたりの推理は肝心なところで違っていた。まさか、雇っているのが若狭屋であることなどわかるハズもないが……。

 ふたりは長尾晴景への敵愾心を募らせた。

「腹黒い男じゃ、兄上は」

 景虎は猛烈に腹を立てた。

 一方、千代は、林の奥に入ってから脱兎のごとく逃げた。…自分の正体がばれたのに気付いたのだ。「こりゃ、逃げるしかないよ」

 林をどんどんと進むと、やがて黒田秀忠の居館らしきところに着いた。誰もいない。人影がまるでなかった。皆、黒滝城に籠城しているからに違いない……千代は思った。

「しめしめ、これで化粧していい服でも着れば、姫さまにでも妾にでも化けられる」

 千代はにやりとした。

 今、千代は少年の変装をしているけれども、もともと美人なので「どこそこの姫」にでも簡単に化けられる。…それくらい千代は美人だった。

「しかし…どうしょう?」

 千代は迷った。

 このまま山を越えていけば、黒田勢の兵士に見付かる。こんな状態だから皆、むらむらと欲求不満であり、すぐにでも押し倒されて犯された後、殺されるに決まっている。では、といって栃尾勢の陣にいっても「何ゆえ女子がひとりで来たのか……?」と、怪しまれるに決まっている。「しかし…どうしよう?」

 そう迷いながらも、千代は三十分もしないうちに綺麗な美人の娘に変装してなよなよと黒田秀忠の居館から出てきた。

「まてよ」と思った。

 黒滝城からもここが見える。城に近付いてくる手弱女は内通者と見られて、矢で射られるに決まっているではないか。こりゃヤバイ! 景虎様と寝るまでは死ねないんだよ。

 千代は森にひそみ、日暮れを待つことにした。

 その頃、景虎は決断を迫られていた。

「なら、これより戦評定をいたそう」

 敵の黒田秀忠が〝わしは頭をまるめてさすらいの旅にでるゆえ許してくれ〟などと申し入れてきたのだ。…本心か? 騙しか?

 各軍団の大将たちがぞくぞくと陣幕の中に集まってきた。景虎は礼儀正しく、丁重に意見を正し、自分の意見はいわなかった。しばらくすると、各軍団の大将たちは本音を言い始めた。

 それは、受け入れるべし、という内容がほとんどだった。

 ……黒田秀忠勢力をそのままにしても我らの害にはならぬ。

 〝黒田秀忠が頭を丸めて旅立つのを見てから…〟という案は景虎はとらなかった。…許すといったのにそれでは警戒されるだけじゃ…。

 千代の思惑は外れた。

 日暮れを待って栃尾兵にわざと掴まり、景虎の元へ連れていかれねんごろに一夜をともに…と考えていたが、

「なんだ、黒田の館より逃げてきたのか。気の強い女子だの。黒田の物見に見付からぬうちに戻れ。戦はなしじゃ。われらは引き揚げじゃ。鞍替えはならぬぞ」

 と物見の黒金孫左衛門に見付かって叱られた。

「えっ? 城攻めをおやめになるので……?」

 千代は面食らった。

「そうじゃ。はよう戻れ」

「はい」

 千代は面食らったまま言った。

 しかし、のこのこと黒田城にいく訳にもいかない。誰ひとり知っている者がいないばかりか、今着ているのはすべて盗んだ着物である。このままいったら丸裸にされて犯され、その後すぐに殺されてしまうだろう。「まずい…」

 千代は頭をめぐらせた。そして、

「あぁぁぁ…」と色っぽい声で呻きながら、よろよろと足軽大将のほうに倒れかかった。

「いかがいたした? 女」

 千代は発作でもおこしたような演技で、足軽大将のほうに倒れかかった。千代の色っぽい身体に触れ、白粉(おしろい)の匂いを嗅いで男は興奮してしまった。

「おい、女!しっかりいたせ…誰か薬師を」

 足軽大将は頬を赤くして、鼻の下をのばした。いやらしいことを考えてしまった。

 この女(千代)の情報は、景虎たちの元へも届いた。

「女子が……?」

「用心いたせ」景虎が言った。「黒田の刺客かも知れん。あの黒田秀忠は降伏すると見せ掛けて刺客を送ってきたのやも知れない」

「酒を飲まないようにしましょう。念のために兵に禁酒させます」

 新兵衛が言った。

「そうだの、用心のためじゃ。俺なら酒を飲んでも酔わぬが、普通のものは酔っ払ったら役立たなくなるからの」

「さよう。弓もひけず、馬にも乗れなくなりもうす」

 新兵衛が頷いた。「女子の夜の相手もできなくなるかと」と笑った。

「ふふ……城攻めが二、三日も続けば彷徨い歩く女子供も珍しくないだろうが…」

「まったく」

「おい、あの馬丁の親方を呼べ」

 景虎が命じた。するとさっそく親方が震えながらやってきた。景虎は罰しないといい、安心させてから「さきほどの馬丁は?」と聞いた。

「服とももひきを残したまま姿を消しました」

 親方はぶるぶる震えながら、言った。

「さようか。ならば…」

「ならば…?」

「その女にそのももひきを履かせよう。ぴったりなら、それで分かる」

「しかし」新兵衛が、「では、女を丸裸にするので?」ときいた。

「そうだ! なにか差し障りがあるか?」

「いえ」

 家臣たちは言葉を失った。……これはまずいと思った。景虎はおそらく女子の裸を見たことがないはず。それがいきなりこのような戦場の神聖な場所で、女の裸をみたら…どうなるだろう? 女のたわわな胸や尻、グロテスクな陰部を見たら……興奮か? 勃起か? 

それとも女への幻滅か? とにかくロクなことにならない…。

だが、杞憂だ。景虎は女子だ。

 そう思っていると、幕の後ろで景虎の愛馬の鳴く声がした。

「俺の馬が……なんだ?!」

 そうしてると、馬に乗った千代が背後に駆け出した。

「おのれ、俺の馬を……追え! 生け捕りにいたせ…!」

 景虎が大声で言った。

「やはり名うての間者でござりましたか」

 新兵衛はそういい「壁に耳あり…でしたな」と続けた。

「本当に女子だったのか? 男の女装では?」

「いや。足軽の話によるとたわわな乳房があったと…」

「そうか」

 景虎がうなずいた。

 そこへ使いのもの(千代松と弥太郎)が帰ってきた。

「間者を見なかったか?」

「いえ」

 ふたりは言った。で、景虎が「馬鹿もの!」と怒鳴った。

「申し訳ございません」ふたりは平伏した。

 …それから話題が、女子の話になると弥太郎は都の女の味は格別だ、と言った。その間者もそれで、若殿さまも味見をできたところを惜しうございました、と言った。

 しかし、景虎には「女の味見」の意味がわからなかったので、何度も説明を求めた。

 新兵衛は恥ずかしいことを説明せねばならず、難儀した。

 説明が終わると景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。

「お主らは淫乱じゃ」というのである。

「五戒を知らぬのか?」

「………五戒でございますか?」

「うむ」景虎は言った。「五戒とは、不殺生、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒…これが五戒だと坊主に教わった。しかし、われら武士に不殺生は無理じゃわな。だが、不邪淫は守れる。これぞ上杉の義じゃ」

「不邪淫とは……女子と交わることで?」

「そうじゃ!交わることじゃ」

 景虎は言った。

「しかし……女子のやわ肌に触れ、何をいたすのは気持ちよきことで…」

 景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。「それが、いかんのじゃ。煩悩を消せ!」

「煩悩を………ですか?」

 家臣は景虎の純さに唖然とした。

 一方、逃げおうせた千代は、馬を降り、栃尾城に戻る算段を考えていた。

 男忍者に「これは御大将の馬らしいので届けにまいった…といえば入れてくれるよね」と、千代が笑顔で言った。彼等は、正体がまだばれてないと思っていた。

「そうだな」

 彼らはさっそく城に向かった。

 偶然に城の物見櫓から下界を見ていた景虎と新兵衛はふたりに気付いた。

「あいつらがきます」

「そうか……今度は逃がすなよ」

 景虎は言った。

謙信は毎月10日くらいになると腹痛をおこして陣を引き春日山城へ三日以上引きこもった。

これは女性の生理ではなかったのではないか?といわれる女性説の根拠である。






  景虎が側近の黒金孫左衛門をつれて寺に到着したのは、新緑も目に鮮やかな、うららかな春の夜である。

 到着してから景虎は、礼を尽くしてから神社の中へはいっていって、見渡した。

 殺風景な寺ではあったが、その寺を景虎は愛した。

 信心深い上杉政虎はあらゆる越後の寺を見学し、手をあわせたが、なにか納得できぬものを感じていた。どうも景虎には気に入らない。

 有り体に言ってしまえば、贅沢で絢爛豪華すぎるのだ。

「神仏は華やかに飾ればいいってものではない。信仰心がなければ何にもならぬではないか」

 上杉政虎はいった。せっかく馬で遠出してきたのだから、よい寺でお参りしたいではないか。そう思うのは女性にとって当然のことであったのだろう。

 寺には『毘沙門天』の大きな像が奉ってある。

 上杉政虎は像に手を合わせ、「毘沙門天よ、われに力を与え給え!」と祈った。

 そして、景虎ははもどかしくなって、唇を噛んだ。神仏の加護があまりない。そう思うと、寒くもないのに、身体の芯から震えが沸き上がってくる。

 つぶった目の網膜の奥から闇が広がっていき、耳元に神仏の声がきこえた。

(……正義のために戦え!)

(民のために戦え!)

(この国の乱れを糺せ!)

(出陣せよ!神仏の名のもとに!)

 自分以外のものが精神を蝕んでいく感覚で、全身は氷のように硬直したままだ。

 篝火(かがりび)がたかれている。

 篝火は大きくて、辺りを朱色に染めていた。火の粉が舞っている。

 毘沙門天の像も朱色に染まっている。

 とにかく、景虎は一生懸命に祈るので、あった。



         不犯へ



「騙しやがって!」

景虎たちに捕まると、千代が悪態をついた。

「馬鹿者! 八年間も騙されておったのはこっちじゃ!」

 新兵衛が怒鳴った。そして「府内からつけてきておった時よりわれらはしっておった」 と言って笑った。

 ……いつ頃からばれてたのだろう…?とにかく、千代は縄でがんじがらめにされているために、すっかり意気消沈してしまった。この時代、間者(スパイ)を捕まえた時には残虐な目に合わせることが決まっている。耳を剃り落としたり、手足を切断したり……そのようにして雇主に返すのだ。それではもはや間者としては役に立たない。そこで、捕まった間者は自殺することが多かった。

 彼女も自殺しようとしたが、思いとどまった。そして、

〝是非とも景虎に殺されたい〟……と強く願った。

「このものをどうしてくれよう」

 新兵衛が言った時、

「是非とも景虎様に殺されたい、是非とも首をきって下さい」と千代は願った。

「あっぱれな覚悟だ。しかし、しばし待て、まだきき糺すことがある」

「なんだい?」

「お主、新兵衛の屋敷で奉公しておったの?」景虎は糺した。

「やや、そういえばみたことがある。若者かと思ったが……」

「ははは」千代が嘲笑した。「お前さまの奥方を騙すための変装さ」

「なんだと?!」

 新兵衛が声を荒げた。

「やい、まだ死にたくないけれど、捕まったからには仕方ない!はやく殺せ!」

 千代はすっかり観念して尻を捲った。その迫力はさすがの景虎をもたじろがせた。

「はやく殺せ!」

「いわれぬでもそうするわい」新兵衛がまた声を荒げた。

「いや、耳を剃り落として春日山城へ送りつけるほうがよいのでは?」

 景虎が提案し、新兵衛も「それがよいでしょう」と言った。

「待て!」千代が言った。「なぜ春日山に?」

「今更すっとぼけても遅い!おぬしらの雇主におぬしらを返すだけだ!耳をそり落としてのう」

「では、わたしらを雇ったのは春日山城の御殿様だと?」

「知れたことを申すな!」

 新兵衛が声を荒げた。すると、千代が嘲笑して、

「あははは……。それはとんだ勘違いだわ。私たちを雇ったのは若狭屋ですもの」

 と言った。

「馬鹿を申すな。なぜ商人がわれわれの動向を探るために忍者など使う?」

「あんたは…」

 …そんなこともわからないのかい? 商売のためさ…。千代が再び嘲笑した。

「もうよい。縄を解いてやろう」

 景虎は言った。そして続けて「どうせこやつらは害にはならん。逃がしてやろう」と言って千代の縄を解いてやろうとした。そして、同じ、女のやわ肌に触れた。

……暖かく柔らかい…景虎は胸がドキドキするのを感じた。そして、一度きりだが死んだ美吉の手を触れた時のことを、走馬燈のように思い出した。

 その途端、瞳に熱いものが込み上げてくるのを感じ、上を向いて堪えようとした。が、無駄だった。やがて、彼女の瞳からぽたぽたと熱い涙がこぼれ落ちた。彼女はそれをすぐぬぐった。……美吉…この女も、美吉に似ている……そう思った時、煩悩が彼女を捕らえた。

「どうなさったので?」

 千代はわけがわからず尋ねた。

「いや………なんでもない」景虎はふたりの縄を解いて「さぁ、去れ。われら両人は口外せぬゆえ、お前たちも若狭屋には顛末を告げるな」

「ご恩は一生忘れません」

 ふたりの忍者はそういって礼を述べ、ささっ! と、姿を消した。


「俺もついに煩悩にとらわれたか……」

 景虎は頭をかいた。…どんなことをしても寺で座禅を組んでも、男の肌のことが思い出され、むらむらした。……かたくたくましい肌…景虎は胸がドキドキするのを感じた。そして、一度きりだが死んだ美吉の手を触れた時のことを、走馬燈のように思い出した。

「……美吉。あの女……美吉に似ている……」

「煩悩に悩まされているようじゃのう」

 常安寺の和尚が言った。

「和尚……俺もついに煩悩に捕らわれた」

「いよいよ正念をもって煩悩を断じませぬと大変なことになりまする」

 和尚が真剣にいった。

「……そうか」

 景虎は頭をかいた。……男、男、男の肌……たくましい胸…煩悩が頭をよぎった。しかし、美吉のためにも煩悩を絶たなければ…。しかし、あの女……美吉に似ている……。

「この越後の国には有力な国人衆が大勢おり、なかなか支配するのは骨が折れまする。しかも、兵力だけでは支配はだめです」

「……というと?」

「やはり、ひとを引き付ける神懸かり的なものがないとうまくいきません」

「…神懸かり的なもの?なにか手はないか?」

「まず…」和尚が言った。「あまねく有力国人衆の大勢が真似の出来ないことをせねば」

「真似のできぬこととは?」

「一生不犯(ふぼん)でござる」

「一生不犯…とは生涯結婚せず妻子を儲けないことであろう」

「はっ。しかし……すこし違いまする。生涯結婚せず妻子を儲けないことと生涯女子(異性)と交わらないことにござる」

「それが真似のできぬことなのか?」

「さようにござる」

「なぜ?」

「拙僧は経験がまだまだなのでござるが、女子と交わった者にきけば、男と女子との性的な交わりはたいそう気持ちのよいものとか…」

「男と女子との性的な交わり?」

「さよう」

「ふむ」

 景虎は思った。やはり煩悩の元はそれか……。男と女子との性的な交わり? それで男の肌や胸や裸のことを考えると自分のあそこがうずうずするのか……。しかし、こんなイヤらしい気持ちは死んだ美吉に申し訳ない………よし!

「よし、和尚、俺は生涯不犯を通すぞ!」

 景虎は決心した。そしてそう言った。……死んだ美吉のために!

「ご立派なお考えにござる。しかし、世間に公表せぬほうがよいかと…」

「なぜじゃ?」

「将来奥方をもらい妾をもったとき、周りの者が〝あの大将は公約をやぶった〟といって侮られ成敗の対象となりもうすかと」

「馬鹿もの! 俺が公約をやぶったりするか! 俺は生涯不犯を通すぞ! ……死んだ美吉のために!」

「……美吉とは?」

「いや、なんでもない! 生涯不犯を国中に広めよ」

 景虎は新兵衛にも言った。常安寺には毘沙門天の像があった。のちの謙信は像に生涯不犯を誓った。死んだ恋人のために生涯不犯…というこの話を知ったのは千代だけだった。

千代はうっとりと「……なんて素敵なのかしら…」と思った。そして、にこりとした。

 死んだ恋人のために生涯不犯……………なんて素敵なのかしら…。女景虎を知らぬ。

 この頃、のちのライバル・武田晴信(信玄)には成長過程の息子、勝頼がいた。武田晴信(信玄)は才能のない勝頼には期待してなかった。「わしの後は…」信玄は嘆いた。景虎が合戦で負傷して去勢のような形で煩悩を消すに至ったという噂が広まったのはこの頃である。だが、実際は女性だった。おんな武将、長尾景虎、のちの上杉謙信だった。




         殺人




 若狭屋に千代はすべてを話した。

 景虎らに捕まったこと、雇主を明かしたこと、おのれの正体が露顕したので観念して全部しゃべったこと……すべて正直に告げた。

 どうせ景虎に殺されると思ってチクッた訳じゃないが、なにより重大な秘匿のはずの雇主の名をばらしたのには罪が重いと思っていた。だから、

「すぐさま殺して下さい」

 と頼んだのである。

 当然ながら、若狭屋は初め激しく怒った。

 しかし、すぐに「まてよ……」と思った。なぜ景虎さまは世の慣いに反して間者を解き放ったのだろう……? 千代の話をきくうちに「相手がわしだから…」と思われてきた。雇主が自分だから……?

「なるほど、景虎殿はあのときの弁当の礼の意味で間者を解いたのだな。なんとも律義な方じゃ」 若狭屋はにこりとした。

「越後の主となられた暁には、商人の払う税が必要で、商人を大事にせねばならぬということを若いながらわかっておられるのだ。なんと聡明な方じゃ」と感心した。

 ……若狭屋は千代らを許すことにした。…そういう事情なら仕方ない。自分のことを景虎が高く評価してくれたようで、悪い気はしない。私は必要とされているのだ!

 若狭屋は再びにこりとした。

 さらに若狭屋は景虎を褒めたうえ「よし、お前を自由にしてやる。命はとらぬ。どこへでもいけ」と言って千代を解いた。更に、一生縛りという生涯契約も解いて、もはや支払った莫大な契約金は返さなくてもよい、とまで言った。

「わたしを自由にしてくれるのですか?」

「そうじゃ」

「……ありがたき幸せ」千代は礼を述べた。

「どこへでもいけ。お前ほどの器量よしなら都で幸せに暮らせるだろうよ」

 と若狭屋は勧めた。

「じゅうぶんな路銀を与えよう」

「有り難きお言葉……なれど、私は都にはまいりません」千代は続けた。「この越後の国にいて……あの方の行く末を見守りたくございます」

「景虎さまのことをか?」

「はい」

 すると、若狭屋は、あははと笑った。

「さてはお前、栃尾にいって景虎さまを虜にする気じゃな」

「いいえ、めっそうもない」

 千代は真っ赤になって否定した。……するとその態度がおかしくて、若狭屋はまた、あははと笑った。

「あの方に惚れたのじゃな? お前は……」

「いえ」千代はますます真っ赤になった。…とてもごまかしきれぬ。千代はその後、

「恥ずかしながら…」と胸の内を打ち明けた。

「なるほど……。お前さんの懸想(けそう)(恋)が叶うとよいがの」

 若狭屋は言った。そして、はははと笑った。

「お前、せんだって栃尾にいった時はなんと名乗っておったのじゃ?」

「いえ。きかれぬうちに別れましたので…」

「よし、わしがよい名を考えてやろう」

「はっ」

「………琴とはどうじゃ?」

「琴? 楽器の琴ですか?」

「うむ」

「わかりました。今日より私は琴と名乗ります」千代は礼を述べ、琴と名乗った。そのままその場を後にした。

 その頃、景虎の耳には、頭を丸めてさすらいの旅にでた筈の黒田秀忠が黒滝城に戻ってきた……との情報が入っていた。「………黒田秀忠め!」景虎は怒りを感じた。

 そう思いながらも、彼女は千代のことを考えていた。

 と、そんな時、櫓にいた本庄実仍が気付いた。

「あの者たちは何をしておるのかの?」

 新兵衛を手招いた。

「あの百姓たちでござるか」

 本庄実仍の視線を辿って麓の刈谷田川を見下ろした新兵衛も、手招きした。

「あいつらは百姓ではないぞ」

 景虎が気付いていった。「川で魚とりをやっているように装っているが、あの百姓ふたりは川の深さを測っておるぞ」

「御意」

 新兵衛たちも同意した。

「あの場所はよりによって、景虎さまが寝泊まりしている居館にさも近い。……刺客に狙わせる所存かと……」

「くそう、どうしてくれよう」

 いまや男子がどうのといっている時ではない。どうやってあの百姓ふたりを生け捕りにするのか……。そのことで頭がいっぱいになった。

 …生け捕りにしたいのは山々だが、これは殺すしかないな。…無益な殺生は避けたいが……しかし!

「いくぞ! やつらを血祭りにあげるのじゃ」

 景虎が言った。

 そしてすぐさま馬を駆けて、例の百姓たちに近付いた。「お主ら……なにをしておる?」 新兵衛が尋ねると、百姓は動揺した声で、

「魚とりでやんす」と答えた。

「問答無用! 黒田の手先だな?!」

 景虎が言うと、百姓たちは狼狽し、そして逃げ出した。

「待て!」

 百姓たちは駆けたが、無駄だった。すぐに景虎たちに追い付かれ、ズババッ! と斬り殺された。……とうとうやってしまった……殺人を…。景虎は血飛沫をあびて、刀をかまえてしばらく立ち尽くしてしまった。

「無益な殺生をしてしまった……」

 彼女は荒い息で、興奮しながら言った。そして、「人間死ねば皆…同じ…」と語った。


 景虎は十七歳になった。天文十五年(一五四六)、のことである。

 彼女は節目を示すため、越後守護・上杉定実(さだざね)に「黒田が再びそむいたのですが…」と伺いを示した。それにたいして上杉定実から

「そなた自らが栃尾勢を率い、黒田の籠る黒滝城を攻め落とし、あまねく国人衆に采配をふるわれるのがよろしかろう」という書状が届いた。

 ……さては俺をおだてて、向こう見ずに突っ走らせる気だな…景虎には、定実の見え透いた考えが手にとるようにわかった。新兵衛も「その手にのらないよう」と言った。

 しかし、彼女は、栃尾軍五百人だけで黒滝城を攻め落とすことに決めた。

「今度は、黒田秀忠や家臣全員が剃髪したとしても許さん。女子供も皆殺しだ」

 景虎は激しく怒っていた。……「さすらいの旅にでた筈の秀忠を迎え居れた家臣も同罪じゃ! おれは女子供でも許さぬ!」

 彼女はまるで阿修羅の如き形相だった。新兵衛は「いやはや、若殿さまはまるで阿修羅…いや、毘沙門天の如きお方じゃ…」と感心した。

「毘沙門天か……それはよい。俺は今日から毘沙門天じゃ。毘沙門天の化身だ」

「……化身ですか?」

「うむ」景虎は頷いた。そして続けて「俺の軍の旗指物も毘沙門天の〝毘〟としよう」

 と強く言った。「突撃の旗頭は〝龍〟だ」

「………女子供まで皆殺しにするのですか……?」

「しかたなかろう。生き残せば将来の災いとなる」

「なるほど」新兵衛が言った。

 そもそも景虎は黒田秀忠にナメられていた。黒田は長尾景虎を恐れてはいなかった。もともとこの黒田秀忠という男は嫡流ではない。一説では、彼の実父で胎(たい)田(だ)常陸(ひたち)介(すけ)という越前朝倉家の牢人が、いつごろからか上方に流れてきて、先代の守護代・長尾為景(景虎の亡父)に召し支えられた。その時、その息子(秀忠)が美男子だったので可愛がられ、黒田の名跡を継がせたばかりか執政として登用し、重要視された。

 つまりホモの相手として……である。ちなみに謙信も景勝も兼続もホモ(男色)ではない。当たり前だ。上杉謙信は女性なのだから。

 先代の守護代・長尾為景(景虎の亡父)が生きているうちは随分と傍若無人に振る舞っていたそうな。

「新兵衛、いくぞ!」

「はっ」

 景虎と新兵衛はゆっくりと馬で黒田の城に近付いて、それから近くにいた侍女ふたりの首を太刀で斬り落とした。「きゃあぁあっ!」一斉に悲鳴があがる。

「火だ! 火をつけろ! 館に火をつけるのだ!」

 景虎らが馬を反転させて、飛んでくる無数の矢から逃れながら叫ぶと、待機していた部隊が火矢を放った。黒田の兵士どもは皆慄然とした。「火攻めだ!」と狼狽した。

「火を消せ…っ!」「うあぁぁっ!」

 この一部始終を櫓から見ていた黒田秀忠は、「もう終りじゃ…」と呟いた。「わしはあの若造を軽くみすぎた。まさか女子供残らず皆殺しにするために火を放つとは…」

 紅蓮の炎が辺りを包む。それは長尾景虎の勝利の炎…いや、怒りの炎だった。

 こうして逆臣・黒田秀忠は絶望し、切腹して果てた。…勝利したのは景虎の方だった!


         擁立



 栃尾城へ長尾景虎は凱旋した。

 しかし、黒田秀忠よりも更に強敵が現れていた。栃尾城を虎視眈々と狙っている坂戸城(六日町)の、上田長尾の房長・政景父子である。

 今度の敵は、黒田秀忠ほど甘くはない。

 黒田秀忠の自滅の報を受けて、各地の豪族たちがぞくぞく栃尾に集まっていた。

 むかしから仲の悪い栖吉長尾家と上田長尾家は何度か本拠地近くで鍔ぜりあいをやったが、なかなか決着が着かなかった。だが、今、栖吉長尾家の栃尾には軍勢が滞在しているから上田勢が攻めてくることはないであろう。

 景虎は一息ついていた。

 だが、まだ安心できない…とも思った。

 上田長尾勢は、黒田秀忠ほど甘くない。黒田の場合は「皆殺しにする」という脅しを景虎が実行し、「毘沙門天の化身」という噂を信じて自滅した。しかし、上田長尾勢は、甘くない。

 上田長尾の房長・政景父子が、春日山城の俺の兄・長尾晴景と結託して俺を討つことも考えられるな。用心せねば……。今や、守護の上杉さえも敵だと思わねば…。

 景虎は用心を心に誓った。

 そんな時、金津新兵衛が、

「若殿さま。私ごとで憚りまするが…どうかきいて頂きたいことがございます」と気弱な態度で言った。

「なんだ? そちも一生不犯の誓いを立てたのか?」景虎はきいた。

「いいえ、恥ずかしながらそれは出来ませんが……あのとき春日山においてまいりました女房より手紙が届きまして…」

「女房殿も栃尾に来るのか?」

「いえ、実は……」金津新兵衛が頭をかいた。そして続けて、「離別して実家に帰りたいゆえ、去り状をくれと…」

「いまさら離別か?」

「はっ、さように申しております」

「だめだ!」

「……は?」

「だめだ!」景虎は強く言った。「別れてはならぬ。なんとか仲直りせよ」

「………仲直りで…ごさいますか?」

「そうだ。別れたら残された子が可哀相であろう」

 景虎は強く言った。金津新兵衛は思い出していた。景虎が、もっと小さい頃、城の猫や犬の母親が子に乳をすわせている姿を幸せそうに、しかし少し寂しげに見つめている景虎の表情を……。景虎は母親というものの暖かさを知らない……何も…。母親の愛を与えられなかったから、「生涯不犯」などと言い出したのか?金津新兵衛は死んだ彼女の幼恋人・美吉のことを知らなかった……。

「わかりました。なんとか仲直りいたしましょう」

 金津新兵衛は言った。

「よし」

 景虎は頷いた。

 それから景虎は「女遊び」の家臣を叱ることもあったが、上田が攻めてくるまでは平凡な日々が続いた。……なんとも平和な日々で、ある。月に一度の生理日は病気といってやすんだという。一部の家臣しか景虎がおんなと知らないのだから仕方がない。

 勝戦以来、「景虎を守護代に」という意見が楊北の国人たちからあがっていた。それと同時に本庄実仍が中心となって、楊北の中条藤資(ふじすけ)、中条の舅の高梨政頼(まさより)、箕冠の大熊政(まさ)秀(ひで)、与板の直江実(さね)綱(つな)、三条の山吉行盛、栖吉の長尾景信が連判し、「景虎を守護代に」と書状を守護に送る動きをした。

 長尾景虎、守護代へ擁立、である。

 昔から、越後の豪族たちが真っぷたつに別れている時は、楊北の国人衆を味方につけた方が勝つ、と決まっている。楊北の国人衆のほとんどは上田長尾家でなく景虎派だった。 

上田長尾衆は予想以上に景虎に敵愾心を燃やしていたという。

 いまや越後は、守護代・長尾晴景派と次期守護代・長尾景虎派に分かれて、いつ戦が行なわれてもおかしくない状態だった。しかし、実際には戦はなかった。あったとしてもそれは軍記のフィクションに過ぎない。

 だが、あえて戦をした……というフィクションも面白いので、次に紹介したい。


 上田長尾衆の長尾房長・政景父子が、春日山城の長尾晴景と呼応して栃尾を攻めてきた。これは景虎にとっては予想していた通りだった。

「御大将、敵の先鋒が近付いてきます」

 櫓の物見が言った。

「きたか…」

 景虎が不世出の天才軍師・宇佐美定行(架空の人物)を伴って物見櫓から見ると、敵は五千だった。(景虎が天下の大大名となって率いた兵士が八千だから、五千人はあまりにも多すぎる。しかし、そこが軍記のフィクションだ)

 早暁に出発して山越え川越えやってきたというのに、この五千人の兵士はくたくたながら栃尾城に向かってくる。

 栃尾城がみすぼらしい小城と侮っていたのだ。

「御大将、敵は疲れきっております。今、出陣すれば勝てるかと」

 不世出の天才軍師・宇佐美定行がにやりと言った。

 いってるのが天才だから、景虎も「そうじゃな」と言うかと思ったが、そうではなく、

「いやならぬ」と言った。

「……なぜでございます? 好機をみすみす逃すので?」

「いや。やつらは小荷駄(こにだ)(食料や武器などを運ぶ輜重隊)を連れておらぬから、闇にまぎれて引き上げるぞ」

「………あ! ……なるほど!」

 天才もびっくりした。そういえば…。

 それから夜になると、あかあかと松明が燃え始めたけれど、敵は暗いところにばかりいる。景虎がいった通り、闇にまぎれて撤退しようとしたのだ。篝火は、ダミーで、まだここに駐屯しているぞ、と栃尾に見せる策略だった。「金蝉脱殻の計」である。この計は、上杉謙信も武田信玄との戦いの時に使っている。それはさておき、

 景虎は、敵がやれやれ撤退できた…と安心しているところで

「いまだ! 進め!」と兵を走らせた。「引勢は弱いぞ!」

 わああああ…っ!かかれー!

 栃尾勢力はいっせいに上田長尾衆へ遅いかかった。逃げた上田兵たちはくたくたにくたびれていて、さらに予想もしなかった奇襲で、パニックになった。そして、大敗を喫して、春日山の晴景は手勢なんと一万を率いて出陣、米山峠を越えて柿崎の下浜に陣を布いた。 景虎も全軍三千を率いて出陣…! しかし、途中で「昼寝でもいたせ」と兵たちを休ませた。驚いたのは敗北軍の上田・晴景たちである。しかし、彼等は「しめた」と思った。

「これで楽に逃げることが出来る」

 敗北軍の上田・晴景たちが峠を越えて下りにかかると、突然、ゆっくり休んで疾風怒濤の景虎軍が襲いかかり、上田・晴景たちは諦めて切腹した。


 ……これが軍記に書かれてあるエピソードである。

 しかし、兵を一万も持っていたら誰も晴景たちには逆らうハズもない。また、先発隊だけで六千もいるなら、誰も逆らわないし景虎を擁立することもないだろう。まぁ、フィクションはフィクションとして考えてもらいたい。この物語『おんな謙信!おんな武将 上杉謙信公』も謙信公が女性だったら…というフィクションである。



「越後でおこった戦をどう思う?勝頼」

 武田晴信(信玄)は才能のない軟弱な息子にきいた。

「……越後で……?」

「越後で戦があったろう?!」武田晴信(信玄)は顎で合図をして、ひとばらいを命じた。すぐに、館からお側の者がいなくなる。

「……あぁ、越後で……たいした戦ではありません」

 勝頼は狼狽し、オドオドしながら言った。

「たいした戦ではない?」

「はい……多分」声が萎んだ。

 では、長尾景虎という男をどう思う? 織田上総介信長は?」

「たいしたことありませんよ」

 勝頼は狼狽し、オドオドしながら苦笑すると、父親の武田晴信(信玄)は急に怒りを覚えて、「馬鹿野郎!」と怒鳴って平手打ちを食らわした。愚鈍の息子は畳みに衝撃でふっ飛ばされた。武田晴信(信玄)は「馬鹿もの!長尾景虎という男も織田上総介信長も強敵となる人物だ! ……お前も、まがりなりにも跡取りなら……跡取りらしく頭をつかえ!」 

と息子を罵倒した。それに対して愚鈍な息子は何も答えることが出来なかった。    

         勝利





「越後の守護代を晴景から景虎に委譲する」という申し入れ書状が越後国主・上杉定実から届く。と、国人衆、豪族衆から祝福された。

 実際には、委譲といっているが、無能の守護代・晴景をクビにして景虎にポストを与えるということを皆知っていた。だから、国人衆、豪族衆が栃尾城にまたぞろ集まってきて、まるで勝戦のような盛り上がりとなった。

 長尾景虎の「勝利」である。

 しかし、

「若殿様、案じていた通り……」

 金津新兵衛が言った。「春日山の政景(まさかげ)が若殿さまの入城を拒んでおります」

「やはり………政景めは諦めぬか」

 長尾景虎(のちの上杉謙信)は呟くように言った。そして、俺が政景だったらどうしただろう? と考えた。今度こそ守護代の座に……と思っていたら、急にポッと出てきた十八歳も年下の景虎なんぞに横取りされて……。誰だって「このやろう」「いつか見てろ」「なんとしても座を守る……」と思うだろう。

 俺だってそうだ。

 だが、政景の暴挙は許す訳にはいかん。

 金津新兵衛は、

「いっそ早々と春日山城にご入城なされては?」と言った。しかし景虎は、

「それこそ奴の思う壺だ。矢で狙い撃ちにされるやも知れない」

「……まさかそこまでは…」

「いや、用心にこしたことはない。何せ、今は下剋上の戦国乱世だからな」

 景虎は慄然と言った。

「御意」新兵衛も同意した。「ここしばらくは隙を見せぬことが肝要ですな」

 しばらくすると、春日山の晴景から手紙が届いた。

〝暮れも押し迫ってからの隠居は気がせくゆえ、隠居所がきまって普請が終り次第、引き移ることにいたす〟

 という挨拶だった。

「隠居する金がない……という催促かの?」

「だったら、もっと送ってあげればよろしいかと」

 栃尾では皆うかれていた。しかし、景虎だけは「用心」を心掛けて冷静だった。とにかく隙を見せないようにしなければ…。

 景虎は、各実力者たちに書状を送った。

〝本年中に……との話だったため、当方は本年の大晦日、春日山へ入城いたすことに決め申した。よって貴殿にも式典および祝宴に参列していただきたく、どうか師走の二十七日までに府中(直江津)へ到着されたい〟

 名目上は国主である上杉定実だが、誰も才能も実力もない定実を「国主」とは敬ってなかった。そこに実力は未知数ながら、いよいよ実質的な「国主」となりそうな景虎に「ぜひ参列していただきたい」といわれて喜ばぬ豪族はいなかった。

 景虎は予定どおり春日山城の主となった。弱冠十九歳の越後守護代の誕生である。天文十七年、大晦日のことである。

 大勢の豪族が祝いに春日山に集まって、騒がしいほどだった。

 ごく少数の家臣が晴景の隠居地についていっただけで、他の春日山の家臣たちは引き続き景虎の元で、改めて働きたいと願った。

「よし、残らず召し抱えよう」

 景虎は言った。

 そして、幼い時より自分を守ってくれた五人を取り立てた。あの日、自分を守ってくれた家臣……。すなわち、金津新兵衛、金津以太知之(いたちの)介(すけ)、小島弥太郎、戸倉与八郎、黒金孫左衛門の五人である。新兵衛は留守衆総大将、他は侍大将に任じた。

 …今から十二年前のことを、景虎は思い出していた。

 あの日、俺は金津新兵衛らにおんぶされて、寒い山や峠を六人だけで越えた。晴景や上杉定実の刺客に怯えながら逃げた……。それが、今、こうして春日山に帰ってきた。しかも、城主として、守護代として……。景虎の胸に熱いものが込み上げた。

 ……俺は、勝利したのだ。この人生の試練に…。

 そう思うと、ますます興奮した。やった!と思った。

 しかし、同時に、「これは益々一生不犯でいかねば」

 と心の中で思った。……一生不犯でいかねば。


 案の定、長尾政景は祝いの席に参列していなかった。

 景虎はいらだったが、すぐに「まぁ、よかろう」と思った。どうせいずれ決着をつけることになろう。それまで泳がせておいてやる。彼女は余裕だった。

 それからすぐに、関東管領の上杉憲政から「救援してくれ」との書状が届いた。上杉憲政は関東の豪族・北条家に圧迫されていた。しかし、景虎はまだ若輩…。迷った末、今回は「救援」に挙兵するのを見送った。

 こうして平穏に天文十年(一五四九年)も過ぎた。それは、嵐の前の静けさ、だった。




         国主へ



 景虎は二十一歳となった。天文十九年(一五五〇)のことである。

 ストレスや煩悩を解消するため、相変わらず大酒しているが、金津新兵衛らが妻を娶ってからは付き合わせないようにひとりで酒を飲んだ。

「そちらは女房と飲め。わしは独りで飲むわ」

 それは景虎の優しさだった。

 金津新兵衛、金津以太知之介、小島弥太郎、戸倉与八郎、黒金孫左衛門らは、昼間は家臣に武術や馬術などを教え、夜は妻に字を習った。そのため(?)、次々と子供が産まれた。夜のほうも「おさかん」だった訳だ。

 景虎は正直「羨ましい」と思った。

 何度、常安寺の門察和尚に謝って「不犯を解消したい」と思ったことか…。その度に、煩悩が頭をよぎった。男のかたい肌、たくましい体に豊かな尻……そして亡き美吉との恋…。

「くそったれめ!煩悩よ、消えろ!」

 しかし、大酒を呑む、遊びをする……では愚兄・晴景と同じではないか?

「それでは豪族や国人衆になめられる!」

 景虎は頭をかいた。

 それからまたすぐに、関東管領の上杉憲政から「救援してくれ」との書状が届いた。しかし、景虎の家臣らは大反対をした。「関東管領の上杉憲政は誰からも敬られてもいなく尊うとまれてもいない。誰も豪族衆は味方に駆けつけない」というのである。

 それでも、義理と大儀を重んじる景虎は迷った。「しかしながら……」なにかいいかけたが、しかし言葉にならなかった。

 ……関東管領の上杉憲政を救うべきか? 救わぬのか?

 そんな時の早朝、なんと千代がやってきた。

 彼女は、あの時と同じように綺麗で初々しかった。

「おしさしぶりにございます、景虎様」

 可愛い声で、千代は言った。景虎は庭に独りでいたのだが、どうにも興奮してしまった。そして、慌てて取り繕った。

「……お前はあの時の…」

「はい、千代……いえ、琴と申します」

「……こ…琴か……いい名じゃ…」

 どうにも緊張し、胸がばくばくする。それは琴も同じだった。

 景虎が興奮するのも無理はない。まだ、処女で、しかも琴(千代)のような美人で肉づきのよい男っぽい女を見たら、誰だってまいってしまうだろう。

「……今日は…なんのようじゃ?」

 頬を赤らめながら、景虎は尋ねた。

「はい。……私を雇って頂きたいと思いまして…」

「雇う? お主を……?」

「はい」

 おなご謙信をしらぬ家臣らは遠くの物陰から見ていて、にやりとなった。

「われらにもあのようなころがあったのう。若い頃がなつかしいわえ」

「さっそく、あの女子が殿の筆下ろしをしてやればいいのに…なにをぐずぐずしているのかの?」

「さようさよう…はやく抱き合え! ほれ」

 しかし、景虎は「だめだ」と言った。

「……どうしてでしょうか?」

 琴は言った。それにたいして、彼女は

「俺に女は…いらぬ」と無理をして言うだけだった。「だが……また逢いにきてくれ」と優しくも言った。

「………わかりました。またお逢いしましょう」

 琴はそういうと後ろ髪ひかれる思いで、その場を去った。


 すっぽりと雪が積もった府内で二月も末に近い二十六日、越後守護上杉定実が死んだ。

当時の二月二十六日は春だが、雪深い越後では野も山も町も雪の下にある。

 危篤の知らせをうけて駆け付けた景虎は、昼なのに暗い守護館の奥座敷で、死んだ上杉定実のデスマスク(死に顔)を見た。それは寂しくもあれり、呆気なくもあれりだった。

 上杉定実には息子も子もないから、これで上杉家は断絶である。

「公方様(将軍)は新しい守護を連れてくるのだろうか?」

「まさか! 若殿を守護にすればいいのだ」

「しかし……我々家臣の思うように公方様がなさるものか」

「そうじゃな」

 家臣たちが噂していると、都より勅使がきた。

「このたび、長尾景虎に勅書を下される」

「ははっ」

 景虎はあわてて正式の衣冠に着替え、うやうやしく勅書を拝受した。

「なにっ」

 景虎はわが目を疑った。勅書には、

 長尾景虎に、こののち白傘袋と毛賤鞍覆(もうせんくらおおい)の使用を許す”と認めてあった。

「ありがたき幸せに存じます」

 景虎は平伏した。書状には主上(後奈良天皇)の御名と、おおきい天皇の印があることに気付き、景虎はふたたび平伏した。

「かしこまって承りまする」

 当時、天皇が白傘袋と毛賤鞍覆の使用を許した臣下は、かならず国主大名に限られていたから、このたびの勅使は

「お前を越後の国主にしてやる」ということなのである。

 景虎も家臣たちも大喜びである。

 こんな雪深い国に都からはるばるやってきた勅使をもてなさねば……。

「新兵衛、ごちそうを用意せよ」

「はっ」

 新兵衛はすぐに動いた。

 もはや、越後の国主は、景虎なのだ。

 ということは、もはや越後の国主の景虎の格上や同格の者はいないハズである。しかし、長尾政景だけは認めてはいなかった。

「あんなやつが白傘袋と毛賤鞍覆の使用を許されるとはなっておらん!」

 長尾政景は激怒したという。あんな女子のような華奢な体つきの野郎が! 女と知らぬ。

 こうした人物はどこにでもいるが、越後国主の景虎らにとって、この政景は逆臣と映る。すぐにでも成敗せねばならぬ危険人物である。

 ………それにしても、

「都の公方様はよく越後の事情をおわかりになったものじゃ。特別、知らせた訳でもないのに……よくおわかりになったものじゃ」

 景虎は感心してしまった。


           

「宇佐美定満が謁見を申しでておりますが」

 新兵衛が言った。

「うむ。わかった……通せ」景虎は言った。

 この宇佐美定満は、軍記の架空の人物「天才軍師・宇佐美定行」と一字違いだが、こちらの宇佐美定満は史上実在の人物である。

「宇佐美定満にございます。御殿様におかれましてはごきげんうるわしゅう」

「……うむ。近こうによって楽にいたせ」

 平伏する宇佐美に、景虎はにこりと笑顔を送った。…しかし、宇佐美は緊張したままだった。…無理もない。定満は、むかし景虎の亡き父・為景と戦ってやぶれ、自ら命を絶った宇佐美房(ふさ)忠(ただ)の子だが、父が自殺した後は諸国を流れ歩き、やがて上田長尾家につかえた人物である。そのため、「裏切り」のような気になっていた。

 宇佐美定満が緊張するのも無理はない。

 しかも彼は、先発で上田長尾の板戸城を攻める、と申しいれてきた。

「よかろう」景虎は頷いた。

 天文二十年正月、政景はついに景虎の挑発に乗ってしまった。

 景虎が上田長尾家の重臣・発(ほつ)智(ち)長芳(ながよし)の居城を攻めると、政景は金子(かねこ)尚(なお)綱(つな)を救援にやった。

と、景虎の意をうけた伏せ勢が速攻で発智長芳の母、妻、子供らを捕らえ、人質として春日山城に移してしまった。そのため人質の命が心配で、敵は攻撃できなくなった。そのところに、裏切り者・宇佐美定満の留守城を穴沢新右衛門尉や栗林経元らに攻めさせた。

 また、栖吉の古志・長尾勢も上田長尾勢と衝突した。

 戦況は、上田の不利、だった。

 上田の板戸城内では、「あの景虎は阿修羅……いや毘沙門天の化身。おそろしい男だ」

「あいつは幼児期に惨めな生活をしたゆえ、怒ると何をするかわからない。おそろしい男だ。用心せねば…」という恐怖が走っていた。それから景虎から「最後通告」があると、白旗を挙げて降伏しよう、という動きがぞくぞくと上がった。女子と知らぬ。

 それで、長尾政景が白旗を挙げて降伏すると、景虎は上田長尾勢を許した。

「(皆殺しにしたら)あいつ(景虎)は阿修羅のごとき男と悪評がたつ」

 景虎は笑った。


         凱旋




 越後を統一したことには国主となっただけではならない。

 越後には独立した豪族衆がうようよいる。特に、揚北の有力豪族は独立心も強く、景虎に加勢することなど考えられない。いわゆる「外様」なのだ。

 もっとも、景虎は、いよいよさかんになってきた商業取り引きからの税で財産を貯えていたから余裕もあった。そのひとつが小千谷縮み、青苧、佐渡の金からの収益税である。

 天文二十一年、正月。

 平井城(藤岡市)の関東管領上杉憲政は、昼間からやけ酒をあおっていた。そして、重臣の曽我兵庫助に愚痴をこぼした。

「誰も年賀の祝いに来ぬ」

 曽我兵庫助は呆れていた。この人物が「千載一遇の好機(チャンス)」を逃したことにたいして「なにをいまさらいってるのか…このひとは…」と思った。

 昨年(天文二十年)の三月十日、もう数年も前から落ち目の関東管領上杉憲政は、じわじわと小田原城の北条氏康に追い詰められていた。北条氏康がいよいよ二万の兵を率いて平井城に攻めてきた。この時、「越後の龍」「毘沙門天の化身」と恐れられた景虎に援軍を頼んだが、救援してくれなかった。で、

「なにくそ!」

 と思い、辺りの豪族衆に挙兵を頼み、なぜかあれよあれよと兵が集まった。岩槻、箕輪、小幡、白倉、沼田、新田、赤井、佐野、足利、桐生、渋河、大胡、山上、後閑…などの城主が精一杯の手勢を引き連れ、ぞくぞく平井城に馳せ参じた。

「おおっ!やったぞ」

 関東管領上杉(関東の守護代・関東管領の山内上杉家)憲政は、にやりとなった。

 北条はいってみれば侵略軍、関東軍は「義軍」である。大勢の援軍をうけて、勇気百倍、士気も高ぶる。しかし、それからがいけない。せっかく北条勢が撤退しだしたのに、追撃をしない。それどころか上杉憲政は、「祝いの儀をやろう」などとまだ戦も終わらないうちから馳せ参じた豪族たちにいう。追撃すれば、北条を攻め滅ぼせたのに、この人物の呑気な……いや愚鈍のせいで、「千載一遇の好機(チャンス)」を逃したのだ。

 こうして上杉憲政は命を救われたものの、「やっぱりあの男はおかしい」ともう誰もこの上杉憲政に味方しなくなった。…皆呆れたのだ。

 それで、ヤケ酒……という訳である。

 しかるに、二度目の北条軍侵攻の時は、誰も集まらなかった。それで、落ち目の関東管領上杉憲政は、逃げた。この人物は、春日山の景虎のところへ逃げてきた。

 ………とんだ「疫病神」である。

 しかし、義理堅い景虎はよろこんで受け入れた。

 そうすると、さっそく上杉憲政は(肉付きのいい女と酒を催促して)隠居した。長尾景虎は上杉と名をかえる。(上杉という名は、この人物からもらったものだ)こうして、この「疫病神」は老人になるまで、景虎にヒルの如く吸いつくことになる。上杉憲政は、のちに「御館(おたて)の乱」でまきこまれて死ぬが、それまで、八十歳くらいまで生きたという。まさに、憎まれっ子、世に憚る……である。

 こうして、上杉家・初代、上杉政虎(謙信)が誕生し、凱旋、となった。


 謙信は比叡山に一時出家し、頭髪を丸め、白頭巾をはおり、白馬で凱旋した。図らずも去勢のような形で、悟りを開いた。いや女か。姉・仙桃院の息子・喜平次(のちの上杉景勝)を養子にし、山の上から麓の越後を眺め「共に毘沙門天に恥じぬ国をつくろう!」といったという。「はっ! 伯母上」景勝だけは謙信がおんなだと知っていた。






 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。

 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。

 斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。

 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。

 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。

「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。

 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。

急に動きをとめ、はっとした。

「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。

「は?」

「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。

 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。

 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。

 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのいい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義義昭を信長を気にいったという。

 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。

 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。

 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。

「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。

 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。

 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。

 今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。

 特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。

 今川義元は〝なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか〟と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。

 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。

最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」

今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。

「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。

 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。

 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。

 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、

「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。






 松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。

 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。

 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。

「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。

 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」

 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。

 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。

 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。

「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」

 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。

 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。

「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。

「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」

「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」

「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。

「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」

「まったくあきれる。あれでも大将か?」

 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」

 信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。

まるで猿のような顔である。

彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。

信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。

「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」

「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」

「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」

 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。

「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」

「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」

 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」

「奇襲?」信長は茫然とした。

「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」

「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。

「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。

 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。

いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲?

 くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。

「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。

「なんじゃ、猿」

「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」

「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」

「八百あまり」

「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。

「いま何刻じや?」

「うしみつ(午前2時)で御座りまする」猿はいった。

「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」

 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。

「人間五十年、下天の内を食らぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。

「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。

これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。

「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。

 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。

「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」

 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。

 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。

 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。

 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」

 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。

「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。

 信長は叫んだ。

「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」

 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。

「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」

 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。

「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。

 織田軍は密かに進軍を開始した。









                 

 太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。

 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。

 しかし、信長はその策をとらなかった。

「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」

 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」

 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。

「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。

「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」

 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!

 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。

 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!

「御屋形様をお守りいたせ!」

 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。

「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。

 義元はこの時四十二歳である。

「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。

 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。

「勝った! われらの勝利じゃ!」

 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。

 かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。

「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」

「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。

「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。

 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。

 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。

 今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。

 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。

 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。

 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。

 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。

 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。

  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。

 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」

 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。

 晴信はこの桶狭間合戦を知り、「信長という男は強敵ぞ!」といった。       






         武田信玄



 参考文献(NHK歴史秘話ヒストリア「戦国のボス・武田信玄 最強の秘密~ダメ上司から名将への道~」)

 のちの武田信玄の統率力は現代ビジネスマンの手本。現代のサラリーマンの理想の上司(戦国武将部門)の1位が武田信玄、2位豊臣秀吉、3位織田信長、4位徳川家康、5位上杉謙信という順番になっている。「甲斐の虎」「戦国最強」のイメージだろう。

 山梨県(甲斐)には『信玄の隠し湯』とされる信玄が温泉をつくらせた温泉施設が24箇所ある(例えば川浦温泉など)。

 武田二十四将や家臣たちの保養所(今でいう福利厚生)として、戦での兵の傷を癒すためである。

 武田信玄は、幼少時代は太郎、のちに晴信に改名し、出家して信玄と名乗った。負けん気の強い性格であったという。

 だが、信玄の父親・武田信虎は国内で、飢饉で飢餓が広がっても対策を打つでもなく、隣国との戦を繰り返すのみ。当然ながら武田家は兵糧にも事欠くようになる。

 それで家臣団は信玄に、父親の信虎を追放して信玄自身が領主となれ、とクーデターを求めた。特に武田家重臣で信玄の養育係であった板垣信方(いたがき・のぶかた)は、

「甲斐(現在の山梨県)のことを考えますれば信虎さまはすみやかにご隠居頂きあなたさまが新たな当主となって頂くのが得策。多くの家臣もそれを支持しております」

 と献策をする。その当時の信玄(武田晴信)は困惑した。しかし、「私は民や甲斐の国を救いたい」として、後述するが父親の信虎が駿河(するが・現代の静岡県)にわずかな兵だけで駿河入りした信虎を国境を封鎖するなどして信虎を追放して、国主と信玄こと晴信は成るのである。

参考文献(NHK歴史秘話ヒストリア 戦国最強のボス・武田信玄 最強の秘密 ~ダメ上司から名将への道)

 

 信虎追放後、家臣たちは年若い晴信(信玄)なら御しやすいと勝手なふるまいをするようになる。例えば勝手に国境に関所をもうけて税を徴収して着服したり、他国の使者と交渉そっちのけでベロベロになるまで酒を飲みかわすだけだったり。

信玄は「すべてのことがうまくいかず迷惑している」(甲陽軍鑑)と心を痛める。

信玄は家臣との関係に嫌気を差し、首領としての職務を放棄してしまう。

 それにひとり心を痛めたのが板垣信方である。「このままでは御屋形様が血を吐く思いで、父親の信虎さまを追放したことが無駄になってしまう」

 だから、職務放棄を続け家臣たちや遊女、女中たちと昼夜問わず酒浸りの信玄を諌めた。

「信虎さまは非道の行いが過ぎたゆえ、追放されました。されど、今の御屋形さまはあまりにわがまま勝手で信虎さまより悪しき大将」

 今の言葉に腹が立ったならそれがしを斬り捨ててください、とまでいう信方の諌めで目が覚めた信玄は「国を思う気持ちは家臣たちも同じはず。やってみよう!」

 と、改心した。

 信玄は名将といわれるまでに変わった。まず、家臣の意見を聞いた。例え自分の意見と違う意見でもじっくり聞いたという。

 また、武功や善い行いをしたら(今でいう成果主義で)金品を与える等して家臣団をまとめた。

 武田軍の強さは「人の和」「結束力の強さ」

 信玄は豪傑のように肖像画からはみれるが、実はけっこう繊細であった。筆がマメで、家臣へのきづかいが見られる。

「接待の準備や城内の方づけは必要ない」等と細かく伝え、「そちの行い天晴であるかたじけない」と感謝し、娘の安産を願う文もみつかっている。(甲陽軍鑑)

 信玄といえば山本勘助。実在したらしい。最近、信玄から勘助への二通の手紙が群馬県でみつかった。

 やがて経済力をつけるために甲斐から信濃(現在の長野県)に進攻した武田軍。信濃は一枚岩ではなく、攻めやすい。越後(現在の新潟県)も貿易や塩や魚などの漁業等の為に欲しかった。

 信玄は信濃の四分の一を手中にした。しかし、信濃北部を領地とする村上義清との戦いで、武田軍は惨敗した。この戦で腹臣の板垣信方が討死した。

 信玄も傷を負って敗走。この負け戦で、懐柔したはずの信濃の武将もすべて敵に戻った。その危機で役だったのが軍師・山本勘助である。

 山本勘助は尾張(現在の愛知県)に生まれ、全国を仕官先を求め放浪し、軍略や築城や戦略や占い・加持・祈祷(占い・加持・祈祷は戦国時代の武将は戦の前に占いに頼った為)等の知識を育んだ。

 この勘助の軍略により、信玄は信濃を手中におさめるのに成功させた。

 山本勘助は「闘いに勝つ三要素」を説く「ひとつ、戦いのための謀。ふたつ、軍勢の配置。みっつ、戦況の把握」(甲陽軍鑑)

 また、信玄は適材適所を旨とした。弱虫で戦下手な(死ぬのが恐くて戦場で敵兵から逃げ回るだけの)岩間大蔵左衛門を信玄は、

「家臣たちの秘密話や動向を密かに探り、逐一、自分に報告せよ。怠れば首をはねる」とつかった。ここで岩間は死ぬのが恐くて大活躍、いまでいう警察機関(大目付)の重臣となったという。

 武田信玄といえば上杉謙信との川中島の戦い、である。川中島とは信濃と越後にまたがる千曲(ちくま)川(がわ)と犀川(さいかわ)の中心の広大な中地である。川中島の合戦は十二年間も続いた。

 ほとんどは睨み合いとちょっとの数名の兵士たちの小競り合いだけ。歴史専門家は「戦国大名たちは本心は戦がしたいんじゃない。軍費も兵隊の喪失ももったいない」と大名たちはそう考えられているという。

 最近の研究では引き分けの「川中島の戦い」も、実際は武田信玄の勝ちだという。足利幕府に働きかけて(金品を送るなどして)強引に『信濃守護職』に任命され大義名分をつくり、上杉謙信の家臣団を調略して信濃を領土にするのに成功したからだという。

 後述するが川中島での『きつつき戦法(軍師・山本勘助の策)』『謙信との三太刀七太刀』も有名だ。その戦で山本勘助らが討死している。

 だが、信玄は信長を討ち滅ぼし、天下人になる為に京を目指して軍を、甲斐・信濃から西に向けて行軍。

 三方が原では家康を完膚なきまで叩き潰し、家康は失禁しながら馬上で糞尿まみれのままで遁走した。

 だが、信玄の生涯はここでおわる。信玄は病に斃れ、享年五十三歳で病死する。

 信玄の言葉は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだ(恨み)は敵なり」である。


 長尾景虎が関東管領上杉憲政の後を正式な手続きは済んでないけれど、つぐということを真っ先に知って危機感を抱いたのは、甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)だった。

 武田晴信(信玄)は天文十一年、実父・信虎を駿河(静岡の中心部)に追放して、つぎつぎと隣国・信濃(長野県)を侵略して領地を広げた。……もちろんそのことを景虎が知らないハズはないが、まさか自分も巻き込まれることになろうとは思ってもみなかった。 前途洋々の年も暮れて、あけて天文二十二年の二月十日、景虎の兄長尾晴景が府内(直江津)の隠居所でひっそりと死んだ。享年は、四十二歳だった。

 憎み、追い落とした人物なれど、景虎にとってはたったひとりの兄である。こんなに早く死ぬのなら、もっと懇篤な付き合いをしていればよかった……。景虎は悔やんだ。

 葬儀も終わると、ふたたび混沌とした時代が幕をあけた。

 ……武田信玄勢、侵攻である。

 甲斐の武田勢が、ふたたび葛尾城を攻めている、こんどは村上勢のほうが不利……という情報はすでに景虎はつかんでいた。

「新兵衛、着替えて屋敷にまいる。そちたちも着替えてまいれ」

「はっ」

 こうして侍臣、重臣たちに「衣服を改めて御屋敷へ参じよ」という命令が伝えられた。ちなみに「御屋敷」とは、春日山城の城主屋敷のことである。

 ざんばら髪に血だらけの陣羽織姿の村上義清と家来たちも、すぐに湯浴みなどの接待をうけ、こざっぱりした着物を与えられた。

「さあ、食べてくだされ」

 食事を差し出しててきぱきとやっているのは、金津以太知之介であった。村上勢の落ち武者が春日山に向かっている、という情報が鳥坂城や箕冠城から届くや、すぐさま家臣たちを連れて着物などを用意しておいたのだ。

「これはかたじけない」

 村上義清らが礼を述べた。

「この度はまことに何とお礼を申し上げてよいやら…」

 とうに五十を過ぎた村上義清は、まだ二十四歳の景虎に家臣のような口を利き、ふかぶかと頭を下げた。

「うむ」

 景虎は恭しく言った。まだ、正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを皆知っているのだから、ここで威厳を見せなければならない。そのため、景虎は威厳あらたかな態度をとった。

 ……どうだ?これでよいか?…新兵衛に目配せすると、新兵衛は「よろしい」と頷いた。

……これでよいのだ…。しかし、

 ………政景め、まだ諦めておらぬな。

 並んだ国人衆の中で、ひとりだけ面白くない態度をとった政景をみて、景虎は思った。

「村上殿」

「ははっ」

「もう少し近うに」

「ははっ」村上はもう一度、平伏したけれど、そのまま座を動かなかった。

 無理もない。すっかり緊張して、敗北のトラウマ(心の傷)で堅くなっているのだ。

「村上殿の武勇はそれがし、つとにきいております」

 景虎はにこりと言った。すると、村上が、

「いえいえ、武勇など……それがしなど殿の足元にもおよびません」と、また平伏した。

「今回は大変であったのう」

 景虎がそういうと、くやしくて、仕方ない…武田晴信(はるのぶ・信玄)を倒し、領地を奪還したいけれども兵がたりない…。と、村上は不満を口惜しく語った。

「それならばわれらの兵馬をお使いくだされ」

「………まことにございますか?」

 村上義清の声がうわずった。…信じられない思いだった。なにせ長尾衆と村上は、永年いがみあってきた仲である。しかし、聖将といわれる景虎が嘘をつく訳もない。

 その村上の問いに、景虎は笑って答えるだけだった。

 ひととおり会話が終わると、本庄実仍が村上に挨拶した。

「村上殿、よく存じませぬが、ご挨拶が遅れまして失礼申した。なにとぞ、お許しくだされ」

「いえいえ、とんでもございません」

 村上はふたたび平伏した。…どうせ弱敗の情ない落ち武者…と考えていただろうと思っていたが、そうではなかった。村上は、手厚い対応に感激してしまった。

 彼は、涙さえ流したとも言われる。

 ……こんな俺を褒めて、尊敬してくれる。いっそのこと……ここの家臣となりたい!… 村上義清がそう心の中で思っていると、

「皆の者、村上殿がたらふく食べ、精がついたところで出陣じゃ!」

 と、景虎は言った。そして続けて、「武田晴信(信玄)は戦上手な男じゃ。けして抜かるでないぞ! われらが村上殿の諸城を取り上げられぬとな、こんどは越後まで攻めてくる。皆の者、出陣の準備はよいか! 上杉の義を見せよ!」

「おおっ!」

 雄叫びがあがった。

 こうして、武田晴信(信玄)vs長尾景虎(上杉謙信)の因縁の戦いがスタートする。いわゆる、川中島の戦い、である。

 川中島とは、信濃国更級郡の東北、千曲川と犀川が合流する三角地帯のことで、幅八キロメートル、長さは約四〇キロメートル、面積は約二六二平方キロメートルもある。川を下れば、美濃(岐阜の南部)や飛騨(岐阜県の北部)へ行くことができる。すでに信府をとった武田晴信(信玄)が、この要所(川中島)をとろうとするのは火を見るよりあきらかである。川中島から甲府へは一五〇キロだが、越府までは半分の八〇キロ…ここをとられてしまってはまずい。こうした危機感から天文二十二年(一五五三)八月、「第一次・川中島の戦い」が始まる。

「行け!」

 景虎は号令を出した。


 武田側の兵は史実では一万、上杉側は八千人とされる。

 天文二十三年、武田信玄が支配していた地域は甲斐および信濃のうち諏訪・佐久・上伊那・上田・松本地方で、合計四三万石になる。その兵は合計一万一千人…。

 景虎(謙信)の元には信玄の侵略に恐怖していた豪族たちが集まり、一万人もの兵ができた。しかし、「第一次・川中島の戦い」では八千人しか動かしてない。急な戦役だったし、揚北衆も間に合わなかったのだ。

 上杉と武田軍との最初の戦いは、景虎の天才的な軍術によって上杉謙信(景虎)の圧勝に終わった。この結果、信玄は川中島へ勢力を伸ばすことに失敗した。

「第一次・川中島の戦い」は、長尾景虎(上杉謙信)の勝利だったといってよい。

 信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍4万人の戦いだといわれる。

 甲府市要害山で大永元(1521)年、武田信玄(晴信)は生まれた。

この頃の16世紀は戦国時代である。文永10(1541)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束ねる軍がない。

武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の40キロ前までで軍をとめた。

それから3~4ケ月動かなかった。信濃の豪族は油断した。

そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。

領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。

「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。

第一次川中島の合戦は天文22(1553)年におこった。

まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。

上杉謙信(長尾景虎)である。

謙信はこのときまだ22歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。

謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。

また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。

上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(2万人の負傷者)

 天文23(1554)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。

第二次川中島の合戦は天文24(1555)年4月に勃発。

信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。

上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生。謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧、信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。

謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。

 やがて武田が動く。

上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。

謙信はそれならば、と兵を引き越後に帰った。

第三次川中島の合戦は弘治3(1557)年4月に勃発。

武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。

そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”上杉謙信は激怒して出陣した。

上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。

〝敵を捕捉できず、残念である〟上杉謙信は激怒する。

〝戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる〟

信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退。

永禄2(1559)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。

謙信は将軍にあい、彼女は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。

上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。

謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄3(1560)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。

三国同盟に亀裂が走ることに……。

上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。

今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、4~6月まで雨が降らず降れば10月までどしゃぶり。凶作で飢餓も。

 第四次川中島の合戦は永禄4(1561)年、5月17日勃発。

それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。

上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。

上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の2キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。

15日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。

しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。

一糸乱れぬみごとな進軍だった。 

上杉軍は千曲川を越えた。

『鞭声粛々夜渡河、暁見千奥擁大牙、

遺恨十年磨一剣、流星光底逸長蛇』川中島 詩吟「頼山陽」

「べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる…」有名な詩吟の一説“上杉謙信の行動”だ。

9月10日未明、信玄が海津城を出発。

永禄4(1561)年、9月10日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。

やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。

妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。

上杉軍は攻撃を開始する。

妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。

が、上杉軍の鉄砲にやられていく。

 愁いを含んだ早夏の光が、戦場に差し込んでいる。上杉軍と武田軍は川中島で激突していた。戦況は互角。有名な白スカーフ姿の上杉謙信は白馬にまたがり、単独で武田信玄の陣へむかった。そして、謙信は信玄に接近し、太刀を浴びせ掛けた。軍配でふせぐ武田信玄。さらに、謙信は信玄に接近し、三太刀七太刀を浴びせ掛けた。焦れば焦るほど、信玄の足の力は抜け、もつれるばかりだ。なおも謙信は突撃してくる。信玄は頭頂から爪先まで、冷気が滝のように走り抜けるのを感じた。「おのれ謙信め!」戦慄で、思うように筋肉に力が入らず、軍配をもった手はしばらく、宙を泳いだ。

川中島の蒼天には中国の故事で、「正しい戦・政」をするものの頭上にだけ現れるという巨大な蒼い龍が、そして黄金の虎が、両雄激突の頭中で現れていた。雷が鳴り、大雨になる。

きらきらと光る龍虎……まさに圧巻であった。流石は越後の龍。流石は甲斐の虎!

「運は天にアリ! 鎧は胸にアリ! 手柄は足にアリ……我毘沙門天の化身なり!」

「こざかしい、謙信入道よ! ひとは城! ひとは石垣、ひとは堀!」

「越後のそして関東のために勝負いたすぞ、信玄入道!」

「こい! 謙信!」三太刀七太刀……蒼天の龍虎もまばゆい光で戦う!!

まさに、義の軍神・越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄との両雄激突となる。

蒼天の龍虎……これがすなわち、天下人への道で、ある。

はてさて、勝利の女神はどちらの英雄に微笑むのか?

龍VS虎…運命のふたりの戦国武将。

 戦国乱世の世を、義を貫いて生き抜いた軍神・上杉謙信。越後の虎とも龍とも呼ばれた猛将・謙信は自らを戦いの神毘沙門天の生まれ変わり化身と信じ、「毘」の一旗を揺るがして闘った戦国最強の名将の中の名将である。謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。 

このままでは本陣も危ない! 

信玄があせったとき武田別動隊が到着し、9月10日午前10時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃! ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。 

死傷者2万(両軍)の戦いは終了した。

「上杉謙信敗れたり!」信玄はいったという。

上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。

*第五次川中島の合戦は永禄7(1564)年、勃発。しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。

武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。

こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。

それは上杉謙信からのものだった。

たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。

武田は大大名に。いよいよ信長と戦おうとしたとき、元正元(1573)年、信玄は病に倒れて死んだ。享年53。

信玄は死の床で息子勝頼に「なにかあったら上杉謙信公を頼れ」といったという。

そして、上杉謙信もあとを追うように死んでしまう。

こうして、英雄たちはこの世を去ったので、ある。

   



         上洛




 なんとしても上洛しなくてはならない、長尾景虎(上杉謙信)は、そう心に強く願っていた。堅く心に決めていた。

 すでに手土産として献上物を都に届けてあるのに、当人の景虎が来なければ、

「やつは武田晴信(信玄)の侵略をふせぐのに精一杯で、上洛できなかったのだ」

 …などと言われて嘲笑を受けてしまう。それは避けたかった。

 上洛の目的は昨年(天文二十一年)、弾正少弼(弾正台の次官、正五位下相当)に任命されたので、主上(後奈良天皇)と、将軍(足利義輝)などに御礼を言上するためである。 

献上物は、剣や黄金、巻絹などさまざまな豪華品だった。

 しかし、新兵衛は、

「もう少し、武田側の動きをみてから上洛したほうが…」と意見していた。

「武田が北信濃を荒らしていることは、おそらく都へも聞こえているハズ…」

 と諫めていた。すると、景虎が珍しく怒り、

「たわけ! なればなおさらいかねばならぬ」と怒鳴った。

「ならば私がお供を…」

「ならぬ! お主がこの城を留守にしてどうする?」

「いや、しかし…」

「上洛までの旅は、金津以太知之介ら四人だけでいく。はよう伝えよ」

「…はっ」

 新兵衛は平伏した。

 こうして、景虎ら一向は、野を越え、山を越え…都へと急いだ。

 そんな時だった……。

「美吉……」

 景虎らが野宿をして、焚き火にあたりながらウトウトしていると、森に「男子」を見た。「美吉……美吉ではないか」

 それは、幼い頃の恋人の少年、美吉そのひとだった。以太知之介らは眠っていて気付かない。景虎は目を疑った。

「美吉……美吉ではないか」

「姫様…」

「これは夢か……?」

「そう」美吉がにこりと言った。「これは夢です」

「夢なら……覚めないでくれ……美吉」

 景虎は願ったが、ダメだった。

「殿! どうなさりましたか?」

 金津以太知之介ら四人が目を覚ましてそう尋ねると、彼の霊はふうっと消えてしまった。「美吉……」景虎はがっくりと呟いてしまった。美吉……美吉……愛してるよ…。

 金津以太知之介ら四人は訳がわからず、首をかしげた。が、景虎だけは、胸を熱くするのだった。

 美吉……美吉……いつまでも愛してるよ…。景虎は心の中で、言った。

 景虎(謙信)は一生結婚も子供もいらぬと毘沙門天に誓ったため、子も成さず、抱かれないままだった。よって家督は養子の景勝(実の姉・仙桃院の子、喜平次)と北条からの養子、景虎だった。ふたりは雲洞庵で学んだ。のちの直江兼続(樋口与六)もその寺で、北高全祝という僧侶により学んだ。御館の乱で、勝ったは兼続サポートの景勝だった。

 上杉景勝は直江兼続という軍師を得て、上杉魂をみせたのである。



         内憂外患




 景虎が留守中、実は、国元ではごたごたが起きていた。

 いまは臣従している地侍同士のごたごたで、ある。双方の言い分はもっともで、要するに土地争いだった。

 その争いを止めようと調停した重臣、すなわち本庄実仍、大熊朝秀、直江実網が乗り出したとたん、今度はその三人の争いになった。いわゆる「内ゲバ」である。

 本庄実仍と直江実網は景虎擁立の面々で、重要視されている。しかし、大熊朝秀は父・政秀からの段銭方(年貢金の徴収役)として財政を掌握している。つまり、景虎派閥と昔からの官僚の間がうまくいかなくなったのである。

 景虎はこれを裁かなければならない。

 上洛して、天皇や足利将軍にあっていた景虎は、この内ゲバ情報をきくと、すぐに郷里にとって帰した。そして、すぐに家臣を、

「仲間割れしているようでは今度は負ける!」

 と罵倒した。

「……しかし、土地の問題は複雑、意見も割れます」

「馬鹿者!」景虎は怒鳴った。

「そちらが考えなければならないのは、自分の私利私欲ではないはずだ! まず……考えなければならないのは領民の幸せだろう。民の模範とならなければならぬ武士が、そんなざまでどうする?! しっかりいたせ!」

「……ははっ」

 家臣たちは平伏した。

 それから間もなく、北条勢との戦になった。

 この辺りも豪雪地帯である。まるっきり孤立無援の北条勢はとっぷりと雪に囲まれた城で籠城を続けた。ようやく雪が溶け出しても、黒滝城の時のように景虎が皆殺しにするのではないか? ……という恐怖に襲われて、北条側は戦意を失っていた。

 その頃合をみはからって、景虎は、安田景元に「降伏せよ」と北条高広に言わせた。

「いま俺のいうとおりにすれば、北条高広以下の者を皆たすけて、領土も遣わすぞ。降伏すれば殺しはしない」

「はっ、かたじけなく存じまする」

 と、北条高広に代わって安田景元が礼を述べたけれど、とても景虎が言葉通りにするとは思えなかった。今は下剋上の時代だ。平和な時代ならまだしも、約束などあってなきようなもの……皆殺しにするに決まっている……。

 しかし、籠城の将兵たちはその言葉を信じた。

「あの方は、皆殺しにする、といえば殺すし、助ける、といえば助ける方……信じて降伏しよう」

「そうだ! そうだ!」

 家臣たちに押されて、北条高広は単身、まる腰で景虎の元へいき、平伏した。

「高広、面を上げよ」

「……ははっ」

「おぬし、直垂の下は白無垢じゃな」

「おうせの通りにございます」

「なぜ死装束など?」

「……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うございますゆえ」

「馬鹿者! 切腹せよなどと申さぬわ! 俺が助けるといえば助ける」

「……ははっ」

 こうして景虎は春日山に帰ったが、帰る途中ビクビクものだった。…北条高広が追撃してくるかも…と恐れたのだ。

 ……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うゆえ死装束を着てきた…などと堂々とぬかしおった。それに比べて俺は……。なんとも情ない…。

 そういえば、和尚が言っておったのう。

〝人間、死ねば土に帰るのみ…〟

 景虎はひとり苦笑してしまった。なるほど。

 わしも「生涯不犯」を通す身なれば、そういう気構えがほしいものじゃ。

 …ちかぢか、修行にまいろう…。


 明けて天文二十四年(一五五五)の七月、ついこの間、それぞれの本拠地に帰ったばかりの武将たちにふたたび動員令を発する次第となった。また、武田晴信(信玄)が川中島へ侵攻してきたのだ。いわゆる第二次川中島合戦である。

 その前年の天文二十三年(一五五四)の八月、武田晴信(信玄)はまだ支配下に置いてない下伊那地方に侵攻し、これを制した。これにより川中島以北を除く信濃のほぼ全域を支配下に収めた。信玄は、謙信の家臣・北条高広をそそのかして謀反を起こさせ、謙信こと景虎はすぐに鎮圧した(前述)。だが、これに怒り、謙信は武田征伐のため川中島に出陣したのである。

 第二次川中島合戦は、景虎がしかけて、武田晴信が対応する形となった。結果は、引き分けのような感じだったが、実態は、武田晴信はまたしても川中島を制することは出来なかった。講和条約は上杉有利だったという。つまり、武田信玄は苦しい状況に立たされていた訳だ。しかし、合戦も後半になると、家臣たちの士気低下も著しく、両軍大将とも苦しんだ。だが、またも謙信有利のままに合戦は終わったので、ひと安心したという。

 上杉謙信(長尾景虎)は、「大儀」で動く。

 しかし、

 家臣たちは「利害」でしか動かない。私利私欲や利益でしか動かない。

 春日山城に戻ると、景虎は不満をもらした。

 新兵衛は、「それもいたしかたなし」と諫めたが、どうにも納得いかなかった。景虎はもともと欲望や野心の強い女ではない。ものにこだわらない性格で、気弱さを酒でカヴァーしている女だ。そして何より「大儀」を重んじる女である。それが、度々の「内ゲバ」で、苦しんでいた。そして、

 なにを思ったか、景虎は「出家する」といい、寺に籠ってしまった。

 それで、金津新兵衛らはパニックになった。

「そうだ!」女謙信をしらぬ家臣は言った。「殿は〝生涯不犯〟などと浮き世離れたことをいってるが、女子の味でも知ってもらって……まともな大将になっていただこう」

 新兵衛は反対した。女謙信を知っていたからだ。

 そして、さっそく無知な家臣たちは、琴(千代)に逢い、「そなた、思い切って景虎様と睦びおうてくれぬか?」と頼んだ。

「……なぜわらわが…?」

 琴は真っ赤になって言った。

「……隠さずともよい。そなたは景虎様のことが好きなのであろう? 殿もそなたのことを」

「だから、愛しあって、殿に女犯の悦びを覚えさせて、まともな男にしておくれ。もちろん褒美も出す」

「……わかりました。でも、褒美はいりません」

 琴は興奮した。景虎が『義経記』を読んで泣くのを知って、恋して以来十年……。やっと思いが届く、通じるのだ。愛しあい、愛を育めるのだ。

 こうして、琴は寺までひとりで行った。

 その部屋には景虎が、ひとりでいた。

「……景虎様!」

 琴はそういって部屋にはいると、すかさず着物を全部脱いで丸裸になった。痩せた華奢な体に手足…。ふくよかな胸、くびれた腰、まるい尻、可愛い表情…。琴は景虎を誘惑するように裸のまま、彼女に抱きついた。

「……琴殿か」

「抱いてください、景虎様!」

 琴が彼女に覆い被さるような形になった。

「………むむ」

 そういったきり、景虎は肩を抱いた。……うれしい! その気になってくれたわ……琴がそう思った瞬間、景虎は奇怪なことをいって琴を周章狼狽させた。

「よくぞ試してくれた。礼を申す」

「……え?」

「見ろ!お前にだけ秘密を明かす。わしは女子じゃ」

「………ほんと…」

「これも修行のおかげじゃ………これで城に戻り、戦や政に専念できる。おぬしがみだらな裸でせまってきて、心の臓は高鳴ったが、肝心の物がなくはそなたのものを突くこともできぬ」

「………失礼しました」

 琴はすばやく服を着ると、部屋を出た。そのとたん、瞳から涙があふれでた。…自分はしらなかった! 女だった、くやしかった。実は、琴は処女だった。…最初の男は、やはり景虎と決めていたのだ。その彼にいや彼女に拒絶され、ショックだった。

 琴は、新兵衛のところへいって説明し、詫びた。すると、新兵衛は、

「ははは…。琴殿は初々しいことじゃのう」と、彼女が処女であることを知ってか、からから笑った。そして、

「殿がおなご武将というのは内緒じゃぞ」と言った。

 しかし、当の景虎はそして、

「……死んだ美吉のためにも「生涯不犯」を通すぞ」と心に誓うのだった。




 のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。

 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。

 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。

 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。

 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。

「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。


 信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。

 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。

 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。

 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。

 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。

 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。

 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?

 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。

 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。

 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝は軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。

 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。

 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)

 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。

これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。  

このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。

 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。

 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。

 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。

 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。

 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。







 足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど感心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。

 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。

 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。

 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」

 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。

 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。

 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。

 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。

 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。

 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!

 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。

 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。

 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。

 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。

 そこで信長は「天下布武」などといいだした。

 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!

 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。

 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。

「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。

 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!

 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!






 足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。

 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。

 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、

「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。

 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。

 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。

 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。

 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津に逃れて、やがてそこで死んだ。

「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。

 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。

 信長は義昭のために二条城を造らせた。

 足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。

「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。

 信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。

「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」

「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」

「それは?」

「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」

 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       




         信虎からの使者







 武田信玄の元に、北条からの使者がきた。

 名を、大道寺義継という。

「そちが、北条殿からの使者か?」

 信玄は甲斐の館で接見した。

「はっ! 大道寺義継と申しまする!」

 義継は下座で平伏した。もう夕暮れ時だった。

「川中島での上杉との勝利、まずはおめでとうござりまする」

 上杉謙信に勝ったことを、義継は祝福した。

「それは北条殿の言葉か?」

 信玄は冷静なまま尋ねた。

「そうです」

「北条殿は他になんと?」

「はっ! 川中島では越後軍は大打撃を受けた様子……」

「ほう」

 信玄は感心した。

 ……北条もよく調べたものじゃ。忍をつかったのであろうが……

「しばらくは、越後軍は侵攻してきますまい」

 義継はにやりと笑った。

「……それで?」

「いまこそ、共通の敵を叩き潰すべきです」

「共通の敵?」

 信玄は、義継をためした。

「上杉謙信でござりまする!」

「北条は武田と組もうと申しておるのか?」

 信玄の喉仏が上下した。

 かれは息を吸い込んだ。

 義継はふたたび平伏して、

「その通りでござりまする!」と強くいった。

 信玄の家臣・太郎義信が口をはさんできた。

「御屋形様!」

「なんじゃ? 太郎義信」

「一気に厩木城(前橋市)に攻め込み、上杉の拠点を陥すべきです」

 他の家臣は、

「いや、もう上杉など相手にしているときではない。西に武田の勢力を拡大し、今川を陥すべきです!」

 という。

 しかし、軍儀の中で、武田信基だけはひとこと発しない。

 信玄は不思議に思って、

「信基(のぶもと)? ……何か申せ」と発言をうながした。

 武田信基とは、信玄の末の弟である。

「兄(信玄の弟)信繁が討ち死にして毎日悲しくてしかたありません」

 信基は涙を目に浮かべた。

 信玄は「馬鹿者!」と叱り、

「われらは川中島で勝ったのだ!」と強くいった。

 信基は「いえ、引き分けです。上杉謙信の首をとれませんでした」

 信玄は舌打ちして、

「相手は大打撃を受けたのだぞ? こちらは山本勘助らを失ったが、そんなに損害は受けておらぬ。負けでも、引き分けでもないわ!」

 信基は押し黙った。

 信玄は「上野に侵攻しよう」と話題をかえた。

 信基は「上野攻撃はいいが、出兵はだめだと思いまする」といった。

「どういう意味じゃ?」

 信玄は是非とも答えがききたかった。

「上野攻撃はぶらぶらと突いては抜き、突いては抜きすべきです」

 家臣の穴山は笑った。

「ぶらぶら? ははは」

 信玄は「突いては抜き、突いては抜きとはまるで女子との夜のことのようじゃ」

 一同はどっと笑った。


       

 十月末に甲信軍二千が碓氷峠に到着した。

 小田原の北条氏は上野に向かって攻撃を開始した。十一月五日、甲信北条軍三千は軽井沢に布陣した。

 信玄は「ぶらぶらでも慎重に……明日は一気に碓氷峠を越えて箕輪城に攻撃をかけよう」 と陣で下知を飛ばした。

 しかし、信玄は箕輪城に火を放たなかった。

 それより効率のいい、兵糧攻め、の策に出た。

 信玄は笑った。

「国がかわれば山の形もかわるのもじゃ」

 信玄は関東の山々を、目をこらして眺めた。

「突いては抜き、突いては抜きとはまるで女子との夜のことのようじゃ」

 再度の冗談に、家臣は苦笑した。

 信玄はふたたび労咳が悪化し、床に伏した。

 しかし、それは極秘だった。

 陣には信玄の影武者がいた。

 箕輪城攻めは信玄の影武者がやっていたのである。

 影武者は箕輪城攻めにふみきれない。

 そんな中、上杉政虎(謙信)が関東に侵攻してくると、武田軍も北条軍も陣をひいていった。信玄の影武者に決定権はない。

 湯治中の信玄から命令がきたのである。


  信玄の病気は悪化し、咳こむことが多くなった。

 血を吐いて、信玄は動揺した。りっぱな口髭の大男が、なんとも情なく動揺していた。 信玄はまた志磨の湯につかっていた。

 家臣のものが女のボディ・チェックをしているところだった。

「御屋形様!」

 家臣が湯まできた。

「……どうしたのじゃ?」

 武田信玄は裸のまま尋ねた。湯につかっていた。

「信虎さまからの使者です」

 家臣は答えた。

「……隠居中の父上からの?」

 信玄はあきらさまに嫌な顔をした。

「連れてまいりまするか?」

「連れてまいれ」

 信玄は強くいった。

 それは女だった。裸ではないが、細い手足の美貌の女だった。

「……女子か…」

「信虎さまから書状をもってまいりました」

 女は動揺もせずいった。

 可愛い声だった。

「お主、男のものをみても興奮せぬのか?」

「はい」女は頭を下げた。

「……名は?」

「あかねと申します」

 あかねはやっと頬を赤らめた。

「お主の可愛さで、わしのモノが帆柱立ってしまったわい」信玄は苦笑した。

 あかねはやっと手で顔を覆い、女らしい仕種をみせた。

「……しょ、書状などないではないか?」

「ここにあります」

 あかねは奥歯の歯を抜くと、隠しておいた書状をとりだした。

 信虎からだった。

 たいした内容ではない。

 要するにあかねを渡しにきたのだ。

  今川、武田、北条による三国同盟が成立した。

 信玄は家臣をよんだ。

「なんで ござりましょう? 御屋形様」

「松平…」信玄は続けた。「松平家康を連れてきてもてなせ」

「松平さまを?」

「はよういたせ!」

「はっ!」

 家臣は座をたった。

 松平家康とは、のちの天下人・徳川家康のことである。

 まだこの頃、家康は若い武将のひとりに過ぎない。

 家康の実力を見抜くところが、いかにも信玄らしい。

 あかねの話によると、老父・信虎は十六歳の妾をもち、昼夜〝情事〟にふけっているという。

 まだ十六歳の小娘を、だ。

 信玄はその話をきき、

「おそれいった」

 と苦笑した。

 ……オヤジは年柄もなく夜昼となく女子を抱いているか……

 信玄はイヤラしいことを考えて、帆柱立った。

 男とは悲しい生き物だ。

 隠居しても女子を求める……

「ひとを殺さないだけましか」

 信玄は頭を冷やした。

 しかし、信玄はセックスどころではない。

 病気が悪化し、また床に伏した。

 箕輪城も倉賀野城も門を閉ざしたままだ。

 しかし、ここで非常事態が起こる。

 敵に、陣の信玄が影武者だとバレてしまったのだ。

「馬鹿者!」

 信玄は激昴し、床上げをした。


 その年、武田軍一万五千は碓氷峠を越えて上野にむかい、箕輪城、倉賀野城にそれぞれ二千の兵をあてて、本城松山城を囲んだ。

 信玄は無理して陣を張り、

「箕輪城、倉賀野城は放っておいても陥ちる。松山城が肝要じゃ!」

 と下知をした。

 松山城は武蔵国、現在の埼玉県である。

 やがて城攻めの合戦がはじまった。

「いけ! 攻め陥とせ!」

「やあぁ~っ!」

 兵士何千が槍で入り乱れる。雲霞の如く矢が乱れ飛ぶ。

 そんな中、武田軍の猛将としてしられる甘利の家臣・米倉が腹に銃弾を受けた。

「ぎゃああっ」

 米倉は馬上から落ち、足軽たちによって陣まで運ばれてきた。

「薬はない!」

 軍医はいった。

「……はあ…はあ…なんだと?!」

 米倉はあえぎながらいった。

「しかし…」軍医は続けた。「馬のしょんべんならある。それを塗れば傷が化膿せずにすみまするが?」

 米倉は「馬鹿やろう!」といって「馬のしょんべんなど誰が塗るものか!」と怒鳴った。

その後、がくりとなり死んだ。

 信玄は合戦に勝った。

 箕輪城、倉賀野城も松山城も陥ちた。

 信玄は武蔵国(埼玉県)を手中に治めたのである。

「武田軍は無敵ぞ!」

 信玄は勝ち名乗りをあげた。

 兵士たち、武将たちから歓声があがる。

 信玄はガッツ・ポーズでそれに答えた。


 しかし、信玄の病は癒えない。

 信玄はまた志磨の湯で湯治していた。

 信虎の使いあかねが、駿河の国からきたのは永禄六年のことだった。

 前と同じようにあかねは、まず飯富三郎兵衛の邸を訪ね、駕籠にのり、志磨の湯を訪ねた。

「父上の身に何かおきたな?」

 信玄は、あかねの顔をみたとき、彼女の心を読んだ。

 あかねの顔には悲壮感がただよっていたからだ。

「信虎さまはもう府中にはおられませぬ」

 あかねはそういうと眼に涙を浮かべた。

「どこにいったのだ? なぜそのような急なことを……」

「お殿様は現在遠州掛川の満願寺に隠れておられまするが、近いうちに京都へのぼる予定でございまする」

 あかねはそういうと、着物に隠してあった密書を信玄に手渡した。

 慌てて書いたのだろう。

 字が乱れていた。

 信玄に軍をつれて上洛して天下をとれ……という内容だった。

「………あかね」

 信玄はうら若き美貌の女、あかねに甘く囁いた。

「……いけません!」

「いいではないか」

 しかし、苦痛ではなかった。

 むしろ喜びだった。


 信玄はいつになく落ち着いていた。

 天下の情勢ははげしいものだったが、そんなことを気にすることもなかった。

 ただ、情報は忍びによって集めていた。

 なんでも松平家康と今川氏真(義元の息子)との関係が断絶状態になっているという。 信玄はいつでも駿河(静岡県)に手をのばせるように交渉相手を決めて連絡をとっていた。まず、瀬名駿河守、関口兵部小輔、葛山備中守などである。

 武田軍の重臣たちにはいつでも戦ができるように準備をすすめていた。

 そんな中、信玄の正室・三条の方が伊勢物語という書物を借りにきた。

 伊勢物語は、今川義元の存命中に信玄が借りていたものである。

「よかろう。読め。しかし……すぐ返せよ」

 信玄は書物を妻に貸した。

 そうして数日後、驚いた。

 今川氏真が「伊勢物語を返せ」と使者をよこしたのだ。

「なにをいまさら今川め!」

 信玄がいうと、嫡男・義信が、

「同盟関係をむすんでいるのですから、今川氏に従うべきです」と真面目な顔でいう。

「信義をつらぬくべきです」

 信玄は笑って、

「戦国の世に信義などない。強いものが弱いものを滅ぼすのが習いである。いま駿河をとっておかないと北条や松平の分割地となってしまう。上杉と北条も和議を結ぶかもしれぬ。源氏の血をひくわが武田こそ天下人にふさわしいのだ。今川を攻め滅ぼし、駿河を手中に治める。それが武田のやり方だ」

 と強くいった。

「三国同盟は?」

「そんなもの糞食らえだ」信玄はもっと強くいった。

「戦国の世に同盟だの和議だのあるものか!」

 嫡男・義信は口をつぐんだ。

 元来、頭の弱い男である。しかも父・信玄に頭があがらない。

 信長からの使者・織田掃部忠寛がやってきた。

 信玄に平伏すると、忠寛は、

「四郎勝頼さまに織田より雪姫さまを正室としてさしあげまする」

 という。

 信玄も可愛い姫に満足した。

 ……この姫には手を出すまいぞ。息子の妻じゃからな。

 信玄は咳こみながら「ありがたく頂戴いたしまする」という。

「ははっ!」

 忠寛は平伏した。

 勝頼はまもなく父と同じ労咳となった。

 かれは医者のいうことに従い、休息をとった。

「若殿さま、いましばらくの辛抱でございまする。体が固まれば…」

 体が固まるとは二十歳を越えるまで……ということである。

 勝頼の初陣は箕輪城攻めだったが、信玄に労咳(肺結核)を染つされた訳だ。


         


 信長上洛







 信玄は大勝した。

 箕輪城陥落によって、信玄は関東の国半分を制圧した。

 しかし、この合戦で、甘利左衛門を失った。

「……甘利左衛門が討ち死にしたのは残念じゃ」

 信玄は館で、残念がった。

 甘利左衛門は勇猛な武将だった。

 信玄は、

「勝頼は、初陣だったのによい働きをした。よくやったぞ」

 と、次男をほめた。

 しかし、さっぱりうれしくない。

 面白くないのは無能の嫡男・義信である。

 義信は信玄と三条の方との子だった。

 勝頼は信玄と湖衣姫との子である。のちに陰謀を企てる湖衣姫ももはや若くはなかった。  あかねの局に信玄はひさしぶりにいった。

 あかねは信玄を迎えるということですぐ酒を用意した。冬はすぐそこまできていた。寒かった。しかし、火鉢は寒くてもつけない。あかねは服を脱ぎ、裸となって布団に入り、蒲団を暖め、信玄をまった。信玄は大酒飲みではない。

 たしなむ程度であり、飲むとすぐ顔が赤くなった。

 あかねを抱くと、熱のこもった口吸い(接吻)と愛撫で、あかねをおおいに満足させた。

 そして、絶頂を迎えた。

 武田、北条、今川による三国同盟はとっくに断絶になっていた。


 北条氏に上杉から同盟依頼がきた。

 北条はむげにその誘いを断る訳にもいかなかった。

 北条側の間者(スパイ)によれば今川の領土・駿河には武田の間者がうようよしているという。数日後には今川は崩壊するかも知れない。

 北条が今でも気にしているのはやはり上杉輝政(謙信)であった。

 北条は上杉が関東に雪崩のように軍をおくってきた恐怖を忘れない。

 小田原城を包囲されて籠城したことを北条親子は今も忘れない。

「もう少し様子をみてからにしよう。武田とはことをかまえないほうがいい」

 北条氏康はいったが、息子の氏政の考えは違った。

「わたしは武田の同盟が崩壊した今、武田とは戦うべきです!」

「しかし……」

 親子は対立した。


 二月に入って、勝頼の正室・雪姫が子を産んだ。

 信玄、四十七歳のころである。本当ならばもっと孫がいてもいいはずだが、長男の義信には子がなく、次男の竜芳(信頼)は若いときに失明して僧侶となっていた。

 そんな中、織田信長の血をひく男の子が産まれたのである。

 信玄は大喜びしたという。

 信玄には、公式には七男八女がいた。

 男の名は上から書くと、義信、竜芳(信頼)、信之、勝頼、盛信、信貴、信清の順となる。ほとんどに信の字がある。勝頼だけに信がないのは母の湖衣姫が、父の頼重の字をどうしても入れてくれと信玄に頼んだからである。

 そんな雪姫も病気で死んだ。

 信玄は不安になって、家臣たちに自分に絶対服従するよう誓書を書かせたくらいだ。




 大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。

 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。    

ところが、織田信長が登場してから、工兵と緇重兵(小荷駄者)が独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。

 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。

 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあったが、結局、兵糧が尽きて撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。

 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。

 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。

 また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。

 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。

 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。

 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。


 京都に上洛するために信長は堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しようと思った。

「矢銭」とは軍事費のことである。

「サル!」

 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。

「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」

「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」

「矢銭、でござりまするか?」

「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」

「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。

 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。

 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。

「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」秀吉は唾を飛ばしながらいった。

周りの商人たちは笑った。

「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」

「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」

「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」

「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。

 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もホロロに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。

 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。

 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。

 信長は勉強し、堺の富に魅了された。

 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。

 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。

 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。

 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。

「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」

「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」

 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。

 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。

 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。

 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。

 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。

 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。

 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。








 第十五代将軍足利義昭が京都にいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な〝道具〟が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。

「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………

 信長はすぐに堺を脅迫しだした。

「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな! すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」

 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。

 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。

 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。

 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。

 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。

 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。

「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。

「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」

 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を〝道具〟としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、〝自分の野望を実現させるための道具〟、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………

 信長は修羅の道を突き進んだ。

 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。

 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。

 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。

 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレン、バテレン、と日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。

 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。

 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。

 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。

 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。

 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。

 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。

 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には感心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。

 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。

 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。

 ……これならキリスト教徒としてやっていける…

 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。

 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は近江の土豪で、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。

 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。

 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。

洗礼を受け、イエズス会に入会し、日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。








 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。

 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。

 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。

「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。

「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。

「よかろう」信長は頷いた。

 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。

 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。

 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。

「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。

 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。

「お主の年はいくつだ?」

「三十一歳でござりまする」フロイスはいった。

 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」

 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。

「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」

「はい。そうです」

「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」

「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」

「さようか」信長は感心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。

「二年」フロイスはゆっくりいった。

「………二年? それは、それは」信長は感心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。

 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。

 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。

 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。

 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。

 信玄は今川氏真をやぶり、駿河(静岡)を制圧した。

 おいぼれた父ともあったが、何も話はしなかった。

 信玄は次々と金鉱を発掘して、軍費を蓄えた。

 信玄の眼は西に、むいていた。                         



          勝頼と義信







 上杉輝政(謙信)は、未だ完全に北条親子を信用してはいなかった。

 誓約書をかわした途端に出兵せよ、という要請にも納得いかなかった。よって越後軍は動かなかった。武田の軍が迫ってきているという情報は、北条をあわてさせた。

「……なんたることじゃ! なんたることじゃ!」

 北条氏康は関東の小田原城で憤った。

 信玄のほうはというと昼夜、可愛いあかねと情事にふけっていた。

 そんなときだった。

 とうとう信玄は喀血してしまった。

「…はあ…はあ……! お……御屋形様?!」

 信玄は口からの血を拭い、

「あわてるな! ……このことは内緒だぞ。よいな?」

 あかねは裸のまま何もいえなくなった。

 信玄は、

「わしの使者として北条のところへいってくれ」

 というと、行為をやめた。

「……御屋形様…?」

「北条親子と会って情報をさぐってくるのだ」

 信玄は強くいった。

 あかねは頷いて、「かしこまりました」といった。

 関東小田原城の北条氏のもとにあかねがやってきた。

「あかね殿は信玄公からの使者でござりまするか?」

北条氏康は尋ねた。

「そうでござりまする」

 あかねは平伏した。

 すると息子の氏政が「武田は北条を攻めるとか……」と睨んだ。

「それはわらわにはわかりませぬ」

 あかねはいった。

 すると、北条氏康は上座から「わからぬ?」

 と首を傾げた。

「わからぬなら何の用で小田原までまいったのじゃ?」

「いけといわれましたので来ました次第です」

 あかねはまた平伏した。

 その夜、北条氏政からの刺客が、あかねの寝所をねらった。

「覚悟!」

 ふとんに刀が刺される。

 しかし、蒲団をあけてみると藁があるだけだった。

 あかねは危険を察知して、逃げたのだ。

 彼女は慎重な性格である。

 御屋形様こと武田信玄が、北条を攻めることを知っていた。そして、自分が狙われることも……

 こうしてあかねは助かった。


 信玄は嫡男・義信を殺した。

 それは、息子の勝頼を「武田の跡取り」としよう、とした湖衣姫の陰謀の結果だった。 信玄はまんまと女の浅知恵に乗ってしまったのだ。

「……しまった!」

 信玄が思ったときは手遅れ、しかたなく「武田の跡取り」は四郎勝頼に決まった。

 北条では、

「武田は軍を関東に向かわせるかな?」

 と不安でいっぱいだった。

「……上杉はなにをしておる?! くそっ!」

 北条親子は城で、動揺を隠せない様子であった。

 やがて秀吉によって、滅ぼされる北条氏も、この頃は繁栄まっさかりである。

 武田軍は碓氷峠を越えたという。

 しかし、武田軍が碓氷峠を越えたのは初めてではない。

 上杉との川中島合戦のときも碓氷峠を越えている。

 その頃、上杉輝政(謙信)は百姓一揆鎮圧で、関東出兵どころではなかった。

「小田原にすすむぞ!」

 勝頼はこの頃、二十四歳になっていた。

 北条攻めは、上杉と徳川と手を組んだ北条をこらしめるという信玄の考えであった。

「武田軍の強さをみせつけてやる」

 信玄は病をおして、出陣していた。

 北条氏政は武田軍(甲軍)が近付くと、あわてて関東の武将たちに応援を要請した。しかし、それら武将には信玄の手がのびていた。

 誰も従わない。

 上杉輝政にも矢継ぎ早に出兵の早馬を飛ばした。

 徳川家康にも出兵を要請した。

 武田軍二万は小田原へ迫っている。誰も応援にこない。

 やがて北条攻めが始まった。武田軍二万が小田原城を囲む。

 籠城戦となった。

 北条氏康は「武田の兵糧がきれるまで籠城じゃ!」といった。

 しかし、北条の氏照は武田軍と激突した。

「押し流せ! いけーっ!」

「おおっ!」

 激しい槍が無数に交わる。雲霞のごとく矢が放たれる。

 信玄は軍配をふるい、

「逃げる敵は追うな、打ちかかってくる敵だけを討て!」

 と命じた。

 手柄をあせって兵たちが分散するのを戒めた言葉だった。

 三増峠での戦いで、武田軍は勝利した。

 北条の城は陥なかったが、三増峠での戦いの勝利で、

 ………武田軍恐るべし……

 という印象を与えるのには充分だった。

 戦いで負傷した武田兵などは担架に運ばれて、同僚の肩をかりての凱旋となった。

 寒い冬だった。

「何っ?! 兵士たちが諏訪神社の神柱を薪につかっておると?」

 信玄は報告をきき、激昴した。

 かれは神仏を信仰する人間だった。

 ……なんとバチ当たりな!

 怒る訳である。諏訪神社は武田家を守るために建てられた神社である。

 信玄は勝頼を呼び、かくかくしかじかだ、と伝え、兵士の首をはねるように命じた。

 不届き者は首をはねられた。


 三条の方は信玄によって労咳(肺結核)をうつされた。

 彼女は死んだ信玄の愛人のことを思った。

 なぜなら、その側室が労咳を信玄にうつして死んだからだ。湖衣姫も労咳で死んだ。勝頼にまでうつった。そして、三条の方である………

 信玄は、

「不憫な女よ……」と三条の方をあわれに思った。

今宵だけは抱いてやってもいいと思った。

 三条の方はそれをきくと顔を赤らめ、二十も三十も若くなった気がした。

 御屋形様がわらわを抱いてくださる……

 それだけで濡れだした。「ゆるりとな……」信玄は耳元で囁いた。





 織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。

 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。

 義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。

 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。

「あなたを副将軍にしてもよい」

 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。

 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつかえつかえいった。「では、まろに忠誠を?」

「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。

「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」

 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。  

しかし、おのれ信長め……とも思った。

 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!

 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。

 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。

 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。

 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。

 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。

 義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。

 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。

 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。

 若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。

「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。

 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。

 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。

 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。

 浅井長政は味方のはずである…………

 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、〝美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう〟、という考えで快進撃を続けた。

 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。

 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。

 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。

 金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。

 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。

 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。

 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!

 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。

「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。

 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。

 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!

 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。

 ……殿(後軍)を誰にするか……

 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。

「殿は誰がいい?」信長は迷った。

 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。

「サル、殿をつとめよ」

「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。

 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は〝両腕〟として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。

「サル、頼むぞ」信長はいった。

「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。

 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。

 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。

「悪党ども、案内いたせ」

 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。

 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。

 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 

とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。

 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。

 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、

「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。

 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。

「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」

 信長は長政を罵った。

 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。

 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。

 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。

 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。








 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。

そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、サル」

 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




 石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見た。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」



     三方が原の戦いと信玄の死

        






                   

 信長にとって最大の驚異は武田信玄であった。

 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。

 武田信玄は本願寺の総帥・光佐(顕如)とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。

 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。

 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。

 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。

 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。

「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。

 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。

 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。(実は最近、このエピソードは後年の作り話だと判明した)

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。

 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。

 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。全軍もどった甲斐の伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。

「自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること」

 信玄は枕元で勝頼につげた。       

 血を吐く。「武田の風林火山の旗を、瀬田(京)にたてよ」

「父上! 父上!」勝頼は涙を流した。                 

 そして、天正元年(一五七三)、労咳(肺結核)のため武田信玄は死んだ。

 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。

 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。

「天はわしに味方した。好機到来だ」信長は手をたたいて喜んだ。

 上杉謙信は武勇果敢で、戦略にたけた人物ではあったが、その武を誇らなかったと同時に、文に鼻をかけて人を見下さなかったひとである。

 不倶戴天の敵武田信玄の死を聞いて食事中に箸を投げ、

「信玄は年来の仇敵ではあるが実に惜しいことをした。いま見渡したところ板東に信玄ほどの英雄はいない。信玄が死んでしまえば、板東の弓矢(武士道)はこれによって衰える」と溜息し、ハラハラと熱い涙を流したそうである。


 一五六二年(天正十)武田騎馬隊は信長に長篠でやぶれた。

 有名な三段鉄砲隊と騎馬軍団との戦いである。上杉景勝と同盟を結び妹の菊姫を上杉景勝の嫁に出した。が、織田方の前に信玄の娘婿の木曾義昌や従兄弟の穴山信君や家臣らに勝頼は次々と裏切られ、最後に味方したのは上杉のみ…。

「当方は数が足りない訳ではないが、お味方して頂くのはありがたい。当方の心配は無用」武田勝頼のせいいいっぱいの見栄とプライドの文を上杉に送る武田勝頼だった。涙がこみ上げてきた。

 偉大な父をうしなった勝頼は息子の信勝とともに天目山で自害、武田氏は滅亡した。

 武田信玄は不幸なひとだった。病がなければ必ず天下をとっていたであろう。またライバル、上杉謙信も不幸だった。信玄のあとを追うようにして脳溢血で死んだからだ。

 こうして、戦国時代の英雄、武田信玄は世を去った。

 そして、信長もその後、本能寺で暗殺されてしまうのである。

 天下は秀吉に、そしてやがて家康にと移っていくのである。

 信玄の論後を紹介したい。


 …凡そ軍勝を、五分を以って上となし、十分をもって下となす。そのゆえは五分をもって励を称して七分は怠を生し、十分は驕とするゆえたとえ戦に十分の勝を得とも驕を生すれば次には必ず敗れるものなり。

 すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要奈利………





         戦



 甲斐では、武田晴信(信玄)の息子・勝頼(義信)が、城に留守役でいた。

「ごくろうさまです、父上」

 勝頼が、帰ってきた武田晴信に言った。

「うむ。そちらの者は?」

「私の軍師です、父上」

「軍師……?」

 信玄が怪訝な顔をすると、そのヤサ男が、「おあいできて光栄です。中沢対馬守雄蔵と申します」と平伏した。

「…中沢雄蔵?……そちのような若いものが軍師……?」

「はい」中沢が堂々と自信満々に言った。「軍術にはいささか自信があります。私なら上杉などをこっぱみじんにする策があります」

「……上杉勢をこっぱみじんにする策?」

「はい」

 中沢はにやりと言った。

 すると、今まで黙っていた武田晴信(信玄)が、ははは…と笑った。つられて、息子と自称・天才軍師も笑う。しかし、それで終りだった。すぐさま怒りにまかせて、信玄が中沢雄蔵を小太刀で一撃すると、中沢は血をドバッと出して「ぎゃあぁっ!」と断末魔の悲鳴をあげて倒れ、生き絶えた。

「……な?! なにを? 父上!」

「少しは手向かってくるかと思ったが……ふん」

 信玄は、中沢の屍を見下ろしながら、鼻で笑った。そして、「お前もこうなりたくなかったら、少しは跡取りらしく振る舞え!なにが……軍師だ。バカが!」

 と、息子・勝頼に平手打ちを食らわせ、罵倒した。

 それにたいして、勝頼は何もいえなかった。



 景虎はもはや比叡山などに籠る必要はなくなった。

 大酒と怪我での修行のためとはいえ、男の裸を見ても、うずくこともない。煩悩も修行でおさえられたのだ!…少なくとも景虎はそう思った。

 

 上杉謙信公が、(無責任にも)越後の城も領地も捨てて、出奔し、比叡山延暦寺に向かったことは有名な話だ。だが、ひとりで出奔したが、何度も後ろを振り返り、「早く、追ってきてくれ」と思っていたことは想像に難くない。

 のろのろと進み、何度も振り返り、その土地に何時間もとどまったりする。

 それは、追ってきてもらって、「御屋形様、お戻りくだされ」というのをひたすら待った。

 家臣団の結束を強めるための芝居……なでではない。

 また、〝こまったちゃん〟がでたのだ。

 姉は「またやっている」とそれをきいて呆れた顔をしたことだろう。

 〝越後の龍〟伝説を広めるのに陰で腐心した謙信公……。

〝甲斐の虎〟武田信玄の伝説は、〝越後の龍〟のライバル(好敵手)のために信玄を利用しただけだったりそうじゃなかったりする。

やはり、謙信公はこまったちゃんである。



彼女は、一時期、出家したため頭髪を丸めた。頭を丸めるというと、なにかいんちき坊主や、黒服に袈裟姿の坊主を連想する。が、景虎の場合は有名な白いスカーフを頭からかぶった状態で、それはお洒落だった。いわゆる尼さんな訳だが、家臣は男性と思っている。

 上杉謙信といえば誰もが思い描く、あの白スカーフ姿、である。

 明けて弘治三年(一五五七)になると、やはり武田晴信(信玄)が講和条約を反古にして、飯山城を攻撃した。晴信(信玄)はまず二月に、馬場信春の軍勢に葛尾城を攻略させ、ついで飯綱、戸隠を席巻して越後の防衛線たる飯山城を攻撃してきたのである。

 景虎は激怒し、雪溶けをまって出陣した。いわゆる「第三次川中島合戦」である。

 景虎は四月二十五日には、武田方諸城を攻撃している。その後、上杉は善光寺に布陣し、旭山城を改築して兵を入れ、武田軍の出陣を待ち受けた。だが、武田軍の動きがないので、再び武田方諸城を攻撃している。

 この時、武田晴信(信玄)は上田にいたが、謙信出陣の報を受けると、ただちに信濃へ転進している。だが、所在も何も秘匿にした。

 武田晴信が北上してこないと知ると、景虎は五月中に坂城・岩鼻まで侵攻し、武田信玄を牽制した。それでも武田晴信は動かなかった。

 ところが七月になると、武田側が上杉側を牽制しだした。北安曇郡に派兵して小谷城を攻略しだしたのだ。そのため、国本を脅かされた景虎は、撤退せざる得なくなった。

 この攻防は、上野原(長野市)の戦い、として知られるが、両軍とも激しく衝突した…というわりには正確な資料がのこされていない。たがいに兵をひいた…としか軍記に書かれていないのだ。

 しかし、景虎は全軍を率いて春日山に戻ったのに、武田は小山田信茂の軍団を残して善光寺と戸隠を支配させたのだから、この戦は武田側の勝利というべきであろう。

 そして、またぞろ武田信玄は講和条約を申しいれてきた。

 景虎は、激怒して、

「休戦など無意味だ!」と、言った。そして続けて「今度はすべての兵を出してもらう。すべてだ!揚北衆の兵もすべて!」と家臣たちに言った。

「しかし……せっかく講和を申し入れてきているのですから…」

「甘い!これは武田晴信の罠だ!あの男は約束など糞とも思っておらぬ。また、すぐに反古にするに決まっているではないか」

「……しかしながら」

「妥協してはならん!」

 景虎は、激怒して言った。

 その場には、景虎の姉の子・景勝(幼名・卵の松、喜平次)と養子の景虎がいたが、まだ幼かった。謙信はふたりにいう。

「いいか、ふたりとも。妥協してはならぬぞ。人生で一歩でも妥協し、撤退してみろ。すべての人生に負けてしまうのだ。お前たちは強い童子たちのハズ……ならば妥協する前に戦うのだ。欲しいものは力で勝ち取れ!」

「いいか、お前たちがもし大きくなって立ち上がれば、皆がついてくる。望んでも得られなかったものが手に入るのだ。金も地位も名誉も権力も……何もかも。

 だが、大事なのはそうした私利私欲ではない。大儀だ。民のための政や戦をすることだ。権威は力できまるが、民からの信頼や尊敬は得られない。それを得るのは人徳だけだ。お前たちが立ち上がれば……皆ついてくる。俺もふくめて…。だから、妥協するな。よく、俺のすることを見ておけ!」

 景勝と、養子の景虎は、ふたたび沈黙してしまった。

 無理もない。ふたりは幼過ぎるのだ。

 だが、謙信の姉はふたりに、景虎は気違いだから同調するな、と諭した。そして続けて、妥協こそが道。妥協して名より実を取りなさい、と諫めた。

 ……妥協こそが道。妥協して名より実を取りなさい、これをふたりはどうとらえたのだろうか? 少なくても謙信の養子・景虎は実行したのかも知れない。結果、景勝に「御館の乱」で負けている(後述)。ふたりは幼過ぎたのだ。

 弘治三年(一五五七)の九月に後奈良天皇が退位。十月に正親町天皇が即位した。すぐに即位式を行うから…と、足利将軍が上洛を促してきた。

 翌年二月、景虎はいわば「外交官僚」にあたる神余親綱(かねもりちかつな)を都に派遣して、「明年、上洛します」と将軍に伝え、近江や越前の朝倉氏や六角氏へ書面をかいて通行を許され、一五五九年四月に再び上洛を果たした。

 その前、越中の神保長職が武田晴信と通じたときくや、ただちに(三月二十六日)兵を率いて境川を渡り、たちまち富山城と増山城を落とした。

 そして四月、意気揚々と景虎は凱旋。それを出迎えたのは、疫病神・上杉成悦(憲政)だった。彼は見覚えのある紋様を見て、にこりとした。

「おお、わが上杉家の家紋をつけておられるのか」

「はっ。それがし上杉を継ぎましたゆえ、関東管領として使わせて頂いており申す」

「それはよいことじゃ。重畳、重畳」

 上杉成悦(憲政)は、わははと笑った。

 成悦は、おのれの実名(憲政)の一字をとって、政虎と名乗るように勧めていた。

 虎千代から景虎に、長尾景虎から上杉政虎に、そしてついに上杉輝虎となるのである。(謙信と名乗るのは晩年)


               

 七月中旬に安房の里見義暁が、急使を寄越した。

 安房国とは今の房総半島の先端にあたる。千葉県の南部だ。ここから新潟まで使者を送るのは道も整備されていなかったこの時代、大変なことである。

 ……里見はよほど切羽詰まっておる。

 景虎の思った通りだった。

 使者は、

「安房の里見義暁に臣従いたしております正木時茂にございまする。われらは目下、久留里城に立て籠もり、このたび関東管領を御継ぎなされた景虎様の御出陣をば、いまや遅しと待ち受けておりまする」

 と、はあはあ息も荒くいう正木を労って、景虎は休息を与えた。

「ありがたきしあわせ」

 時茂は平伏した。そして、ぐらぐらと倒れそうになりながら、里見一党の危機を訴えた。関東の大大名・北条氏康に攻められていたのだ。

「正木時茂とやら」

 景虎は言った。

「はっ」

「これから救援に挙兵するとしても、途中、いろいろな敵を倒して安房にいかねばならぬ。久留里城に立て籠もっている軍を救出するのは、とても困難じゃ」

 すると、正木時茂は、この春日山より出陣しただけで、北条は久留里城の囲みを解くだろう、と言った。

「……それはなぜじゃ?」

「はっ。この御城にも北条の雇った間者(スパイ)『風魔党』が潜んでいますゆえ、すぐ北条も過剰反応いたし申す」

「…なるほど。ところで正木時茂とやら」

 景虎は言った。

「はっ」

「そのほう、つい五月の中頃、今川義元が織田信長に尾張の桶狭間において討ち取られたことを存じておるか?」

「ええっ?! ……まことでございますか?」

 正木時茂が驚くと、景虎は膝をピシャッと打って、

「おそろく、北条氏康は籠城軍が変事を知らぬうちに攻め落とすつもりなのじゃ。今川が滅亡したとなれば例の盟約とて元の木阿弥となるやも知れぬ。そういつまでも上総(かずさ)にもおられまい」

「御意」

 時茂は一刻も早く、今川滅亡の情報を知らせたいと思った。実は、小田原の北条氏康は、いまから六年前の天文二十三年、甲斐の武田晴信ならびに駿河の今川義元と盟約を結び、三国の不戦を誓ったのである。この「三国同盟」は、今川義元と織田信長、武田晴信と長尾景虎、北条氏康と里見義暁および景虎傘下の憲政らに勝つために結束したのである。

 だが、今川滅亡の今、その同盟もどうなるかわからない。

 ……いまこそ、北条氏康を倒す好機だ!

 景虎は強く思った。

 ……いまこそ、千載一遇の好機だ!

 こうして、上杉政虎こと上杉謙信は、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、連戦連勝を飾った。景虎、三十二才、意気揚々の至福の時、である。

 この大活躍のため、景虎の噂は野を越え、山を越え、尾ひれ背びれがついて広まった。

〝毘沙門天の化身〟

〝口から火を吹く〟

〝七尺(2メートル)もの大男で怪力〟

〝越後の龍〟

〝目から火矢を放つ……〟

 

元々、〝毘沙門天の化身〟というのは謙信公の小心から出た「ハッタリ」である。

 小心者だった謙信公が、酒の力を借りて、その伝説を広めるのに腐心した。

 〝義の武将〟というのもそうである。

 織田信長も神のようにあがめられたいと思ったが、上杉謙信公も同じだった。

 神のようにあがめられ、恐れられ、尊敬されることによって、自分は歴史に英雄として名を遺す。そのためにはなんでもした。〝軍神〟伝説もそうである。


上杉政虎こと上杉謙信は、「怪物」として恐れられるようになる。

 琴は上杉謙信の活躍を宿で知り、大喜びした。「わらわの愛した方は天下人になる!」

  面白くないのは武田信玄である。

「暗殺だ! 上杉政虎(謙信)を暗殺するのじゃ!」

 信玄は甲斐の館で、間者に怒鳴るように命令した。「いま奴は有頂天になっていて…スキもあろう。そこを狙え」怒りで声が震え、頭が痛くなってきた。

 暗殺者は、すぐに行動を開始した。商人の扮装をして越後国に入り、春日山の近くでチャンスを待った。景虎が森を散策する習慣を知っていたのだ。とにかく、その二名の暗殺者はじっと待った。

(………はやくこい! 糞上杉の当主め!)

 そう思って二日もたつと、やっと上杉政虎がひとりで歩いてきた。「……よし」

「よく狙え。外すなよ…」興奮して、瞳孔が開き火照るような感覚に襲われた。

 二名の暗殺者は火縄銃を構え、遠くの森を歩く景虎を狙った。

「危なーい!」

 男の声に気付くと、景虎は一瞬、身をふせた。

(…弾が外れた)

「くそっ!」

「御屋形様、ご無事で?! ………待て!」すぐに家臣の者がきて、ふたりの暗殺者は討ち取られた。景虎を救ったのは、偶然森を通りかかった眉目な男だった。

「……そなたは……」

 ひとりになった景虎がびっくりするほど彼は美形で、そして、幼恋人で死んだはずの美吉にそっくりな男だった。たくましい体、細長い手足、ゆたかな腹筋に、可愛らしい顔と瞳。それは亡き美吉にそっくりであった。

 汚い着物を着て、いかにも田舎者という感じた。

 景虎は動揺し、声をうわずらせながら呟くように問うた。

「………美吉?」

「いいえ、美吉は私の兄でした。…私は、双子の弟・紀吉と申します」

「……紀吉……紀吉殿か。よい名じゃ」

 景虎はどきどきと胸を高鳴らせながらいった。

「……なぜ、助けた?」

「…………それは……その優しい目でわたくしを見つめるから…です」

「そうか。だが、美吉のことを俺はいつまでも忘れぬ」

「ありがとうございます。兄もよろこびますでしょう」

 ふたりはしばし、見つめあった。そして、人知れず抱擁し、キスを交わした。それは、一瞬だったが、甘いキスだった。彼女は離れ、

「……すまぬ。紀吉殿…俺は”不犯”を貫くことになっておる。今の”口吸い”はふたりだけの秘密じゃ。俺は男、武将上杉謙信ということになっている、よいな?」

「はい」

 ふたりは、頬を赤らめながら見つめあった。


 この頃、景虎は「小田原城攻め」を計画していた。

 北条氏康の打倒、である。しかし、そんな中、国主となった武田晴信との戦いがまた始まった。

「第四次川中島の合戦」である。

 海津城の完成により、信玄の川中島支配態勢はより強化された。このとき謙信の目は川中島でなく、関東に向けられていた。関東管領の内諾をうけて帰国した謙信は、一一万の大軍を集め、北条氏康が籠る小田原城を囲んだ。その後、鶴岡八幡宮で関東管領に正式に就任したのである。

 謙信が、関東にいっている間、信玄は川中島支配を固め、謙信は足元に火をつけられる形となった。そのため、謙信は六月二十八日に帰国、ただちに川中島出陣の準備を開始した。…八月十四日、謙信(景虎)は一万三〇〇〇の兵を率いて春日山城より出陣した。

 合戦は敵味方入り乱れての激戦となり、謙信と信玄の一騎打ち(三太刀七太刀)もあったという。しかし、戦況は武田信玄の勝利と見るのが妥当である。

 武田はやっと支配地とした川中島を磐石なものとしたし、上杉側は信玄の首をとられなく敗走した。一説によれば、上杉軍は全軍の七二パーセント、武田軍は全軍の八八パーセントの死傷者を出したというが、これはちょっと多すぎる。いずれにしてもかなりのダメージを受けたことは間違いない。特に、武田は、信玄の弟信繁、諸角豊後、山本勘助、初鹿野源五郎らが討ち死にし、嫡男や信玄自身も負傷するなど幹部クラスの負傷も大きかった。 この戦役で、有名な上杉謙信と武田信玄との一騎打ちがあった。(三太刀七太刀。白馬にのった謙信が一騎だけで信玄の陣に突込み、太刀をあびせ、信玄が軍配で受ける。有名かシーンだ)






         謙信の最期



 もともと「儀利」を大事にし、「大儀」や「威厳」を重んじる輝虎(景虎)は、この頃、聖なる目的によって戦う……つまり聖戦を主張しだした。

「われらは正義の聖戦をしよう!」

 というのである。

 しかし、家臣たちの間からは「だったら神のご加護がもう少しあってもいいのでは…」という陰口がきかれたが、輝虎の耳には届かなかった。彼女、昔のように家臣たちと酒を飲み交わすこともなかった。完全に孤独だった。孤独の「変人」だった。

 若い身空で「生涯不犯を通す」などといっては独身を通し、結婚もしない、子も成さない、恋人さえいない……。彼女は、孤独だった。琴や紀吉もすでに病で死んでいた。

「新兵衛……俺はまちがってないか……?」

 晩年、輝虎はすっかり耄碌した新兵衛に何度も尋ねた。

「……まちがって…おりませぬ…」

 耄碌した新兵衛は、よぼよぼと言った。

「……そうか」

 輝虎はすっかり酒びたりとなった。

 それから数か月後、武田信玄が病死(元亀四年(一五七三)四月十二日)し、新兵衛も老衰のため死んだ。輝虎(謙信)は落ち込み、例のお守りを手にいろいろ考えた。涙した。 死んだ琴や紀吉や新兵衛たちや孫左兵衛のこと……いろいろな思い出が脳裏をよぎった。  

ふと死んだ為景の声が、輝虎の心に聞こえた。”闘え! 自由のために! お前なら出来る。お前には勇気がある。自由のために闘え!” 輝虎は毘沙門天の像に必死に祈った。そして、「悟り」をひらいた。「俺は正義のために闘うぞ!」彼女は叫び、そして出陣した。 やがて、事態は一変する。

 一五七〇年頃になると織田信長の天才が発揮され、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉輝虎は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められるだけだった。戦闘においては、上杉輝虎の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて織田の圧倒的な兵力に追い詰められていった。

流石は上杉謙信、織田勢との『手取川合戦』では織田軍をコテンパンにやっつける。織田の火縄銃をどしゃぶりの雨を利用して、織田鉄砲隊を無力にして、奇襲作戦……

まさに神がかっている謙信は、織田軍に壊滅的損害を与える。

謙信はいう。「信長、案外弱し」……されど北陸にいるのは織田信長ではなく、織田の重臣・柴田勝家である。せっかく上杉謙信が軍略を駆使しても、最大の好敵手・織田信長がいなくては話にもならない。しかし、謙信はこの数年前より原因不明の頭痛やめまいや身体のだるさや微熱などに、悩まされていた。とにかく頭が激しく痛くて仕方がない。

後年は酒の飲み過ぎと塩辛の食べ過ぎの脳溢血というが………

 そんな時、一五七八年三月十三日、天才・上杉輝虎は厠で酒の呑み過ぎで脳溢血のため、遺書も残すこともなく床にでたところでうつぶせに倒れた。僧衣姿で、頭巾もして、右手には数珠ももっていた。「どうなされました?」「御屋形さま! 誰かー! 医者じゃ! 医者を呼べ!」だが、三月四日にもんどり打って倒れてから、一度も正気も意識も回復しないまま、越後の龍・上杉謙信(長尾景虎)は亡くなり、その魂は昇天した。享年は四十九歳、号は「不識院殿真光謙信」であった。

 謙信の死は脳溢血ではなく、大虫、いわゆる婦人病ではなかったのではないか? という説もある。山形県米沢市にある“謙信の着物”とされる着物も、赤い花柄のいかにも女性用の着物である。

また、ひげ面の上杉謙信の肖像画であるが、あれは謙信の死後、江戸時代になって絵師が想像上で描いたものである。

実際の謙信が生存中に描いたとされる謙信の肖像画は明らかに女性、である。

丸い顔に髭がなく、白い肌にまるい体躯に丸みをおびた手体……まさにおんな謙信おんな上杉謙信…

 謙信の葬儀は数日後、行われた。常安寺での葬儀には豪族や家臣ら九千人が参列したという。皆、天才軍神の死を、悼み涙を流した。謙信の棺にはびっしりと花がしきつめられていた。手にはお守りがあった。門案は経を読み、「殿、わたくしもすぐにまいります」といい切腹した。遺体は甲冑を着せられ、大きな釜壺に封印された。

「謙信公は正義のために闘い、大儀のために闘った。もうあのような軍神は二度と現れまい」一同は涙を流し、天才の早すぎる死を悼んだ。のちに謙信の遺体は米沢の上杉御廟に奉られた。今でもそこを訪れる者は多い。彼女はそこで永遠の眠りについている。

おんな武将、上杉謙信公という真実も知らぬままに。


         ポスト・スクリプト



 謙信の死で、上杉家は大パニックになった。

 なんせ後継者がひとりも決まってなかったからだ。

 上杉の二代目候補はふたりいた。

 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子・景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館の乱」と呼ばれる相続争いの戦が起こる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐずしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。

 ぐずぐずしてられない。

 しかし、景虎はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵・武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理を巧みに利用したのだ。

 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。

 それから羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。

 だが、問題はその後である。

 豊臣秀吉の死で、事態はまた一変してしまう。

 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により「関ケ原の戦い」が始まった。



 そよ風が吹いていた。上杉景勝は馬上で出羽長谷堂の、遠くにいる徳川側の最上義光軍を眺めていた。すぐ背後には、謙信以来の勇猛な上杉兵士たちがいる。皆、無言だった。 景勝は、徳川につこうと思っていた。

 母(死んだ謙信の姉)のいう「妥協」である。

「……いこう」

 上杉景勝の声がしぼんだ。そして幹部の家臣に、馬をあるかせるように顎で合図した。………徳川側について「勝馬にのる」……「妥協」するのだ。

 しかし、ふと、上杉景勝は馬をとめた。そして、腰にさした、叔母(死んだ謙信)の大事にしていた名刀をじっと見た。そして、考え、悩んだ。この刀は祖父・為景が大事にしていた例の刀だ。

 脳裏に、謙信の言葉が走馬燈のようによぎった。

〝いいか、妥協してはならぬぞ。人生で一歩でも妥協し、撤退してみろ。すべての人生に負けてしまうのだ。お前は強い童子のハズ……ならば妥協する前に戦うのだ。欲しいものは力で勝ち取れ!〟

 軍師・直江兼続はじっと信じるような目で景勝をみていて、軽く頷いた。

〝いいか、お前がもし大きくなって立ち上がれば、皆がついてくる。望んでも得られなかったものが手に入るのだ。金も地位も名誉も権力も……何もかも。

 だが、大事なのはそうした私利私欲ではない。”大儀”だ。民のための政や戦をすることだ。権威は力できまるが、民からの信頼や尊敬は得られない。それを得るのは人徳だけだ。お前が立ち上がれば……皆ついてくる。俺もふくめて…。だから、妥協するな。よく、俺のすることを見ておけ!〟 「運は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり、何時も敵をわが掌中に入れて制すべし(合戦すべし)、 死なんと戦えば生き 生きんと戦えば必ず死するものなり、運は一定にあらず 時の次第と思うは間違いなり、武士なれば 我が進むべき道はこれ他なしと 自らに運を定めるべし」…伯母上!

 しばらく静寂がおそった。

上杉景勝は「……謙信公の意志を継ごう!」

 と背後を振り返り、叫んだ。

「謙信公の意志を継ごう! ……妥協することなく、戦うんだ! 徳川に盲従することなく、大儀をもって戦おう!」胸に、早鐘のような鼓動が蓄積されるようだった。全身が火照ってきて興奮で全身が熱くなってきた。謙信公の声が、耳に、心に、響くかのようだった。「おおおぉーっ!」

 津波のような喚声があがった。

「行けーっ!」

「おおおぉーっ!」

 ……東北・出羽の長谷堂地方で、上杉全軍は最上義光・伊逹政宗連合軍相手に駆け出した。いわゆる『長谷堂合戦』である。



 こうして、上杉軍は石田三成率いる西軍に加わり、徳川と対峙した。結果は、徳川の勝利だった。が、上杉は大儀をもって挑んだために重要視され、米沢に転封されたが、武田や最上などのようにお取り潰しを受けず、上杉は歴史にその名を轟かた。上杉家はそののち、幕末まで生き延びた。

 上杉謙信の、「意志」の、勝利であった。

         



  上杉謙信最新研究の上杉謙信「上杉謙信女性説の信憑性」

 ミステリィの謎解き。

まずは、上杉謙信の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


上杉謙信が女性ではなかったかという説の根拠に〝生涯、独身を通しひとりの嫁も娶らず、子供をひとりもつくらなかった〟ことと、上杉家に残る“謙信直筆の書のほとんどが優しい柔らかな筆使いである”こと。〝毎月腹痛におそわれ陣を引いた(生理?)〟こと。 

遺された甲冑の大きさなどから推測するに謙信の身長は五尺二寸(一五六センチ)程度であったにも関わらず「大柄」と伝えられている。

これは“女性にしては大柄”という意味では?

そして女性説の為につくられたような越後や米沢に残るゴゼ唄(目の見えない芸能者(瞽女ごぜ)がうたう唄)が

♪とら年とら月とら日に(謙信の誕生日は享禄三年(寅年)一月(虎月)二十五日(寅日))

♪生まれたまいしまんとらさまは(〝まんとら〟は謙信の二番目の名前、「政虎」とも「政治をする虎様」のことだともとれる)

♪城山さま(春日山城・上杉謙信の居城の山城・現在新潟県上越市に城址がある)のおん為に 赤槍立てて御出陣 男もおよばぬ太刀無双(男性だったら男もおよばぬ…とはならない筈)

また甲斐の虎・武田信玄(晴信)だが、例のでっぷり太った髭の肖像画はあれは信玄ではなく、能登(のと)の畠山義総(はたけやまよしふさ)という説が有力だ。で、本当の武田信玄公は若いときからの労咳(肺結核)で、細身の色白な美男子だったという。

徳川家康が天下をとり、徳川幕府をつくった辺りから幕府は「武家御法度」をつくり、女性の大名を禁じた。

ということはおなごの城主、大名も珍しくなかったのだ。

井伊直虎、立花誾千代、寿桂尼、淀君……

上杉家は初代の謙信を「男」とする必要に迫られ、江戸時代に例のひげ面の上杉謙信公肖像画が誕生するという説。だが、男に決まっている。

 まず、上杉謙信女性説を言い始めたのは半世紀以上前の作家の矢切止夫というひとである。そこで、矢切氏は、「まんとらさまが……男も及ばぬ太刀無双」を政虎、つまり、謙信のことである、としている。だが、そんなゴゼ唄はいまだに発見されていない。

スペイン人が謙信を、「(景勝の)tia(叔母)」と書いた、という資料もまったく見つからない。おそらく、矢切氏の頭の中だけの妄想で、大嘘の可能性が高い。

月に一度、腹痛で陣を引いた(謙信の生理?)というのも、必ず、毎月に……とかいう話であったが、これもそんな資料は存在しない。これも妄想に過ぎない。

しかも、矢切氏の小説はまるでポルノ小説である。

また、謙信女性説の漫画もあるが、あの漫画も最初はよくても、だんだんと話が破綻してきて、最後あたりは上杉謙信の人生の歴史をなぞるだけになっていった。

最後は川中島の信玄との三太刀七太刀、でクライマックス……だったが、なら別に謙信が女性でなくてもおなじことでしょう? みたいな漫画でしかない。

まあ、謙信と信玄が一騎打ちしたのは嘘で、謙信ではなく、家臣の荒川長実(ながざね)であるのだが。




    おんな謙信!おんな武将上杉謙信公     おわり    



<参考文献>

ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「雪花の虎」(漫画)東村アキコ著作、「上杉景勝」児玉彰三郎著作(ブレインネクスト)、「上杉謙信」筑波栄治著作(国土社)、「上杉謙信」松永義弘著作(学陽書房)、「聖将 上杉謙信」小松秀男著作(毎日新聞)、「上杉謙信は男か女か」八切止夫、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」「天と地と」「天地人」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」「利家とまつ」「信長」「風林火山」「秀吉」「功名が辻」「おんな太閤記」「関ヶ原」「麒麟がくる」「軍師官兵衛」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。裁判とかは勘弁してください。




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おんな謙信! おんな武将上杉謙信公~謙信女性説小説~ 長尾景虎 @garyou999

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