オウム真理教の狂~何故エリートたちは麻原に騙されたのか?!~
長尾景虎
第1話 オウム真理教の狂
オウム真理教1
未解決事件シリーズ
ドキメント警察小説
大河小説オウム真理教の狂 『悪魔』麻原彰晃のテロリズムの真実
巨魁妄動篇
DANGER ~the last story ~
~「オウム真理教の真実!」
今だからこそ、オウム真理教の狂気
セミノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
NAGAO Kagetora
長尾 景虎
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
あらすじ
「オウム真理教(改名名はアレフ)」…社会に衝撃を与えた「松本サリン事件」(死者8人負傷者150人超)、「地下鉄サリン事件」(死者13人負傷者6300人超)あの狂気と暴走とはなんであったのか?警視庁広報部の佐藤良夫は『なぜオウムは暴走したのか?』の著者・早坂 武禮(はやさかたけのり・仮名)に取材の為あった。
早坂はオウム真理教の古参幹部ではない。しかし、本を読んでも「暴走の謎」がわからない佐藤は、早坂からオウム真理教・元古参幹部で塀の外にいる女性・鈴木麗子(仮名)を紹介される。
彼女と早坂は婚姻関係にあるという。子どもはない。かわりは猫たちだ。麗子はオウム真理教・古参幹部のなかでは何の罪も犯しておらず、教団発足当時から「麻原彰晃(本名・松本智津夫)」逮捕まで知っていた。
だが、教団暴走の謎は理解できていない。オウム真理教からの脱退はしたもののまだ「何故オウム真理教が暴走したのか?」の答えがない。それは佐藤良夫との取材で、明らかになる。
参考文献一連の「オウム真理教」「毎日新聞記事」「サンデー毎日記事」、ウィキペディア、著者多数、『なぜオウムは暴走したのか?』著者・早坂 武禮、NHK映像資料「オウム真理教」「クローズアップ現代」「未解決ファイル」「NHKスペシャル」等他。
第一部小説部(小説パート)オウム真理教の狂気
何故、オウム信者たちは「悪魔」麻原彰晃に騙されたのか?何故オウムは暴走したのか?
1 オウム真理教の狂気
オウム真理教の教祖麻原彰晃(本名・松本智津夫・63歳)や弟子たち(早川紀代秀68歳、中川智正55歳、井上嘉浩48歳、土谷正実53歳、新実智光54歳、遠藤誠一58歳)の死刑が2018年7月6日早朝執行された。すべての弟子たちが死刑執行されたのは2018年7月26日(岡崎一明死刑囚(57)、横山真人死刑囚(54)、端本悟死刑囚(51)、林泰男死刑囚(60)、豊田亨死刑囚(50)、広瀬健一死刑囚(54))である。
弟子たちより、教祖は”殉教者”にならないだろうか?墓はつくらず骨も粉末化にして海へ散骨することだ! 神格化を防げ! 再犯防止戦略を急げ!
遺体は教団やカルト組織とは絶縁したとされる四女に渡された。松本死刑囚の遺言「遺体は四女へ」があったのだという。そのまま荼毘(だび)にふされ、『遺骨』やらが“金儲け”や“信仰”に利用されないことを願うばかりだ。
だが、死刑は当然としても麻原が何も語らないまま死刑執行では「教訓」がない。
弟子達も教祖と同時に死刑では「教祖とともに殉教」となってしまう。
オウム事件のような凶悪な事件を繰りかえさない為に、騙された彼らの教訓がなければどうしようもない。宗教テロ、テロリズムへのプロセス(過程)……学ぶ姿勢がなければ。
傷跡残したオウム真理教
オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚 (63歳)の死刑が執行された(2018年7月6日・金曜日)。
1995年に松本死刑囚が逮捕されてから 23年。地下鉄・松本サリン事件など27人の死者や、6000人以上の負傷者を数えた一連のオウム事件とはなんだったのか?判決公判証言などから松本智津夫死刑囚と裁判の経緯を振り返る。
化学兵器を使って大都市の真ん中で敢行された無差別テロ。若者を凶悪犯罪に巻き込んだマインドコントロール。
20世紀末に社会を根本から揺るがしたオウム真理教事件では、死刑判決13人を含め、190人の有罪が確定した。なぜこれほどまで、多くの信者が、理不尽な犯罪に手を染めたのか。なぜ悪魔「麻原彰晃」にだまされたのか ?
答えを語らぬまま教祖の死刑は執行された(教祖の遺体は荼毘にふされ四女に渡されて、遺骨は粉状にされて海に蒔かれたという。墓を作れば聖域化・神格化されるからだ)。
「真実を語る機会が失われ、多くの闇が残されてしまった。」死刑執行に対してその指摘もある。果たしてそうだろうか?
「私は『すべきではない』といった」(坂本堤弁護士一家殺人事件)。「(弟子たちに)ストップを命じたが、負けた形になった。」(地下鉄サリン事件)。「殺害を指示していない、弟子たちが勝手にやったと思われる。」(元信者殺害事件。)
松本死刑囚は一審の途中から意味不明の言動を繰り返した。「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ……」沈黙し、被告人質問に応じなかった。
冗舌に無罪を主張していた時期もあった。松本死刑囚を沈黙に追い込んだのは、教祖の指示を明言した、かつての弟子たちだった。
井上嘉浩死刑囚(48歳)はリムジンの中で松本死刑囚が「サリンでないとだめだ」と、サリン散布を命じた場面を明らかにした。
自分に不利な証言をする井上死刑囚を前に、松本死刑囚は「反対尋問を中止していただきたい」と訴えたが、尋問は続行された。
それでも、本人の口から真実を語ってほしい。一片でも謝罪の言葉を聴きたい。そう願う人たちが、法廷で松本死刑囚に必死に迫った。
「何の目的でそんなことしたのか ?」
サリン事件で被害者の男性は追及した。中川智正死刑囚(55歳)は「サリンを作ったり、人の首を絞めるたりするために出家したんじゃないんです」と泣き崩れた。
裁判長は「多くの被害者や弟子が、あなたの供述を望んでいるが、それでも、話しをしようとはと思いませんか?」と問いかけた。
だが、沈黙を続ける松本死刑囚が、言葉を発することはなかった。一審判決が、「刑事責任を逃れをとする態度に終始している」。
「今では、その現実からも目をそむけ、閉じこもって隠れている」と断罪したのは頷ける。起訴された信者の多くは、マインドコントロールの呪縛から解き放たれ、人間性を取り戻した。救済を求めて入信した若者たちが、狂信的な教義に絡めとられ「ポア」と称して、平然と人を殺害するまでになる「カルトの恐ろしさ」を示したことは大きな教訓といえる。
地下鉄でサリンをまいた広瀬健一死刑囚(54歳)は「独占的な教義にとらわれ、被害者の生命、人生、生活の大切さに気付かずに奪ってしまったことは人間として恥ずかしい限り」と記した。
最初に死刑が確定した岡崎(宮前に改姓)一明死刑囚(57歳)は現役信者に「 1日も早く目を覚まして、麻原から離れてもらいたい」と訴えた。
オウム真理教は特定の時代と世代を反映したからこそ、「大教団」となり「大事件」を起こしてしまった。高度経済成長と団塊の世代にとっての、連合赤軍事件と似ている。
好景気の下、世間の軽さについて行けず、引きこもりにもなれない若者たちは、次々とオウムに吸い込まれた。松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の「カリスマ性」と「教団幹部の能力の高さ」もあった。
オウムは 70年代頃以降の若者に定着したSFやオカルトの文化をバックボーンの一つとしていた。この時期から20世紀末までに大人になったひとはだれもが 「1999年に世界が滅亡する」という「ノストラダムスの大予言」を見聞きした覚えがあるはずだ。
オウム真理教は、こうした、「終末思想」をことごとく利用した。オウム真理教の信者たちが「世紀末の世界を救う」という麻原の教え。「オウム信者だけが世界を救う」という終末思想。救済などの名の下に日本国や世界を支配して、王となることを夢見た麻原彰晃。
麻原彰晃(本名・松本智津夫)は、 1955年3月熊本県八代市に生まれた。生まれつき目が悪く、盲学校を卒業。
上京後の82年ごろから仏教やヨガに傾倒して、「麻原彰晃」の教祖名を名乗り、 80余年には「オウム神仙の会」を設立した。
85年には空中浮遊する写真が雑誌で掲載されるなど、「だれでも修行すれば超能力者になれる」と説いた。
87年団体名を「オウム真理教」に変更し、自らをオウムの主宰神であるシヴァ大神とコンタクトをとれる「グル(尊師)」と称した。
教団には、超能力や、死後の世界に関心をいだいたり、社会に不満を持ったりした若者が引き寄せられ、 88年までに出家信者は百人から二百人。
在家信者は 3000人から4000人に達したとされる。
100万円以上を寄付した信者に、教祖の血をのませる「血のイニシエーション」を施すなど、資金集めも活性化した。
そうした中、教団は陰惨な事件を次々と起こした。信者の親たちが、坂本堤弁護士(当時33歳)らの支援を得て、「被害者の会」を結成した。
それに危機感を持った松本死刑囚は、教団幹部らに「今、ポア(殺害)しなければいけない人物」として、坂本弁護士を名指しした。
オウム信者によって、松本弁護士一家は殺害され、山に埋められた。なぜ「高学歴のもの」までもが、悪魔・麻原彰晃にだまされたのか?
競争に負けた学歴エリートや、知識だけのエセエリート……それらがオウム真理教の知識人の正体であった。
エリートも多かった、オウム真理教の信者は「こんなはずではなかった」感を抱いているだろう。
もちろん、オウムの信者の枠中には、認知症の老人や、発達障害や障害者の人々や、若者、弱い立場の若者、も多かった。
宗教が広まる一つの背景には「貧困、病気、家庭不和」があり、「社会の中で地位を得られなかった者」が「宗教組織の中で地位を得ようとすることに意味を見いだす」、という部分もある。
それがカルトというものだ。死刑囚となって死刑執行された信者や、死刑をまつ元信者らは、まさしく不幸だった。
が、悪魔「麻原彰晃」にだまされたことは自業自得というか、本人たちの認識の甘さがあった、ことは、否定できない。
「死刑にしてしまうと事件の動機が永久に解明されない」という考えもあろうが、松本死刑囚がいったいどういう真相を隠して、死刑執行されたとでも言うのだろう?
死刑執行は当たり前だが、あまりにも時間がかかり過ぎた。
*麻原の執行当日の様子を、立ち会った刑務官らの話に基づき再現しよう。
「何をする。バカヤロー」
午前7時に独房で目を覚ました麻原は朝食をきれいに平らげた後で突然、刑務官に出房を促され、運命を悟ったのか思わず「チクショー」という叫び声を上げた。
刑務官に両腕を抱えられ、うす暗い廊下を歩いて、執行前に僧侶らの説諭を受ける教晦(きょうかい)室に入る。
「松本智津夫君。残念ですが、法務大臣から刑の執行命令が来ました。お別れです」
拘置所長がそう伝えた途端、麻原の身体が激しく震え出した。彼は教誨を受けず、遺言も残さなかったが、遺骨の引取先としてすでに教団から離脱した四女を指定したという。
《麻原は午前8時過ぎ、抵抗することなく執行された》と報じられたが、実は激しく動揺し、「何をする。バカヤロー」と泣き叫び、刑務官が後ろから羽交い絞めにしてやっと目隠しをし、後ろ手に手錠をかけ、4人がかりで死刑台の上に立たせてロープを首に巻き付けた。
執行直前、麻原はブルブルッと身体を震わせて手足を力いっぱい突っ張り、ゴクッと生つばをのみ込んだという。
麻原の遺体は3日後に火葬された。が、その遺骨の引取先をめぐって今、一時対立していた麻原の妻と三女が協力し、法務大臣に引き渡しを要求するなど騒動に発展している。
麻原逮捕後のオウム真理教は、妻が支持する後継団体「アレフ」(信者数約1470人)と、そこから分派した上祐史浩・元教団幹部主宰の「ひかりの輪」(同150人)、非主流派が結成し三女がかかわるとされる「山田らの集団」(同30人)がある。3団体の拠点は15都道府県に35施設、保有資産は12億円近いというから驚きだ。
このほかロシアや東欧諸国を中心に今も数千人の信者が活動しているといわれ、最盛期に1万数千人(海外を含めると3万人以上)いたとされる信者が、麻原逮捕後1000人を切るまでに落ち込んでいたはずの教団の、最近の復活ぶりが目立っている。
拙著『オウム真理教事件とは何だったのか?――麻原彰晃の正体と封印された闇社会』でも詳しく述べているが、公安調査庁や警視庁公安部によると、一連のオウム事件を知らない20代から30代前半の若者を中心に、オウム後継団体の信者が増加。祭壇に麻原の写真を掲げ、事件前に唱えられていたオウム真理教の教義を復活させるなど、麻原への帰依が強まってきている。
公安当局が国内の「アレフ」道場で押収した勧誘マニュアルを見ると、最初はインターネット交流サイト(SNS)で人生相談に乗り、ヨーガサークルへの参加を募って入信させる。その段階では教団名も麻原の存在も明かさないが、修行が進むにつれて麻原の説法をDVDで何度も見聞きさせるなど、オウム復活を堂々と打ち出していた。
また、新實智光ら4人の死刑囚と女性信者の養子縁組や結婚を進め、元幹部らの知名度を利用して組織強化と若者層の囲い込みを狙っている。
さらに、麻原の三女が2007年から東京拘置所で元教団幹部の死刑囚4人と定期的に面会し、差し入れの書籍を回し読みさせることで、「教団に強い影響力を持つ人物(麻原等)の意向を伝達し、密かに意思疎通を図っていた」(法務省幹部)ことが判明しており、こうした不穏な動きが起きつつある情勢に、公安当局も三女の行動を中心に3団体の施設や教団関係者の動向を監視するなど警戒を強めてきた。
モスクワとサンクトペテルブルクで強制捜査
当局が特に注視しているのが、ロシアなど海外諸国の残党たちである。
ロシア内務省は2016年4月5日、ロシア2大都市のモスクワとサンクトペテルブルクでオウム真理教の後継団体「Aleph(アレフ)」に対する大規模な捜索を行い、信者や幹部の住居など計25カ所を特定し、強制捜査に及んだ。そのうち、サンクトペテルブルクでは集会を開くなどしていたロシア人信者ら約10人を拘束したとされているが、詳細は公表されておらず、不明のままである。
ロシア政府は1995年3月、国内におけるオウム真理教の宗教活動を禁止した。同月に東京で起きた地下鉄サリン事件を受けた措置で、国内で増大するロシア人信者数に危機感を強めていた結果とみられている。
ロシアの捜査当局によると、モスクワとサンクトペテルブルクでは2011年前後からロシア人信者の手で密かに教団が再結成され、かなりの勢いで増加し組織化されていたという。当局が内偵捜査を進めた結果、2012~2014年にはインターネットを通じて教団が多額の資金を集めていたことも判明。信者による集会なども増えてきたため、この日の強制捜査につながったという。
また、旧ユーゴスラビアのモンテネグロでは2016年3月下旬、日本人4人を含むオウム真理教と見られる信者58人が警察当局に身柄を拘束された。これについて、モンテネグロ内務省は3月29日、拘束したのは「外国の閉鎖的な宗教集団」と関係がある日本人4人を含む外国人58人だったと発表し、事実関係を認めた。
日本人以外の54人はロシアを含む独立国家共同体(CIS)諸国の出身者だったといい、ロシア内務省はそのうち44人がオウム真理教のロシア人信者および関係者だったと見て捜査を進めている。
モンテネグロを管轄する在セルビア日本大使館によると、日本人はいずれも男性で、50代が1人、40代が2人、30代が1人。滞在目的が申告した観光と違い布教活動だったため、首都ポドゴリツァで身柄を一時拘束され、出国命令を受けたという。
モンテネグロ警察当局は3月25日、ポドゴリツァと北方にあるダニロフグラードのホテルなど2カ所を捜索。計58人を一時拘束し、パソコンなど多数の電子機器類などを押収した。
ダニロフグラードのホテルで拘束されたCISの信者たちはノートパソコンを通じて、教祖の麻原彰晃の説法を聞いていたようである。
なぜ今、死刑を執行したのか
最後に「なぜ今、死刑を執行したのか」という読者の素朴な問いに答えよう。
法務省は「平成で起きた事件だから平成で終わらせたい」と言っているが、それが本心なら、刑事訴訟法で《執行命令は判決確定から6カ月以内》と定められているのに、収容中の死刑確定囚が110人に上るという事実をどう説明するのだろうか。
「この機会を逃すと、自民党総裁選後の新政権の法相人事次第で死刑が執行できなくなる可能性がある。今年後半から天皇即位関連の行事・式典が目白押しで、再来年は東京五輪だから、執行するなら今しかない」(法務省幹部)というのが表向きの理由だ。しかし、そこには何らかのウラ事情が隠されているのではないだろうか。
豊かな社会に生まれ育ち、一流大学を出たエリート層の若者たちがなぜ、カルト教団に入信し、殺人や無差別テロに手を染めたのか?
犯罪心理学者らはさまざまな見解を示しているが、私は、高度経済成長が終わってバブルが崩壊し、世の中に利己主義が蔓延するなかで、若者たち、特に将来を期待されるエリートたちの孤独感が増し、将来不安が広がったことに原因があるような気がしてならない。
そして今も、それら懸念材料はなくなってはおらず、オウム真理教を増大させた社会の「病」は拡大こそすれ、消え去ることはない。
「麻原は悪い奴だから処刑して当然」という庶民の気持ちはよくわかるが、報復的な処罰感情は新たな差別と処罰の論理を生み、終わりなき暴力連鎖に発展する危険性がある。
これまでも死刑執行が政治的に利用された事例はいくつか見られるが、麻原の遺骨の神格化や遺体埋葬場所の聖地化を許さないことはもちろんだが、庶民が処罰依存症を深めることをよしとしてはならない。けっして麻原の処刑で、すべてが終わったわけではないのだ。*一橋文哉氏著作文献参考引用(*~*間)
「死刑が確定した教団元幹部13人」
松本智津夫(63)教祖名・麻原彰晃 2006年9月15日(死刑確定日)松本弁護士一家殺害・松本サリン・地下鉄サリン・仮谷さん監禁致「死刑執行」
岡崎(宮前)一明(57歳) 2005年4月7日 坂本一家殺害 「死刑執行」
横山真人(54歳) 2007年7月21日 地下鉄サリン 「死刑執行」
端本悟(50歳) 2007年10月26日 坂本一家殺害・松本サリン「死刑執行」
林(小池)康夫(60歳) 2008年2月15日 松本サリン・地下鉄サリン 「死刑執行」
早川紀代秀 (68歳) 2009年7月17日 坂本一家殺害「死刑執行」
豊田亨(50歳) 2009年 11月6日 地下鉄サリン 「死刑執行」
広瀬健一 (54歳) 2009年11月6日 地下鉄サリン 「死刑執行」
井上嘉浩(48歳) 2009年 12月10日 仮谷さん監禁致死・地下鉄サリン「死刑執行」
新美智光(54歳) 2010年1月19日 坂本一家殺害・松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
土谷正実(53歳) 2011年2月15日 松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
中川智正(55歳) 2011年11月18日 坂本一家殺害・松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
遠藤誠一(58歳) 2011年 11月21日 松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
「オウム真理教」は「テロリスト集団」であった。
今では当たり前のことだが、当時はまだ「麻原彰晃が悪魔だ」、とはわからない状態である。ちょうど第二次世界大戦のナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーが「悪魔だ」と当初わからなかったのに似ている。
ヒトラーはユダヤ人600万人を大量殺戮(ホロコースト)した。麻原彰晃(本名・松本智津夫)は暴君と化し、「オウム真理教(改名名はアレフとひかりの輪)」…社会に衝撃を与えた「松本サリン事件」(死者8人負傷者150人超)、「地下鉄サリン事件」(死者13人負傷者6300人超)をおこした。
あの狂気と暴走とはなんであったのか?警視庁広報部佐藤良夫は「なぜオウムは暴走したのか?」取材をまかされていた。
あの地下鉄サリン事件や麻原彰晃逮捕から早いものでもう25年以上くらい経つ。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
なのか?オウム真理教(改名名・アレフ)には38億円の賠償金の懲罰がある。が、20億円は未払い。しかし、アレフやひかりの輪には当時3200万円しかなかった資産が2012年時点で4億円あるという。オウム真理教のテロリズムを知りもしない無知なガキが入信しているという。
馬鹿な奴ら、といってしまえばそれまでだ。
麻原彰晃「正義が不義に負けてはならない! 正義のオウム真理教が、不義の社会の俗物集団に負けてしまえばそれだけ“救済”が遅れる!」
早川「オウム真理教は正義なんでっか?」
麻原彰晃「当たり前だ。オウムはアルマゲドンから人類をすくう“絶対正義”だ」
岡崎「アルマゲドン?……本当に世紀末に世界戦争は起るのですか? ソ連もだいぶ前に崩壊しましたが…」
麻原彰晃「アルマゲドン(世紀末世界終焉)は必ず起るよ。必ず! そのときこそオウム信者の出番だ。世界戦争から人類を救うのはオウム信者だ!」
土谷「アルマゲドンは誰がおこすのですか?」
麻原彰晃「北朝鮮……イラクの“ヒゲの大魔王”サダム・フセイン……大勢いるだろう」
井上「しかし……なら何故日本政府や公安警察はオウム真理教を目の敵にするのですか?“絶対正義”なのに…」
麻原彰晃「それはそれだけオウム真理教が重要だからだ。嫉妬してるのだ。オウムがすべての人類をすくうから……。自分たちじゃ出来ないから嫉んでいるのだ」
上佑「オウム信者は世界を救えますか? グル(尊師)?」
麻原彰晃「当たり前だ。だから、人類救済のためのオウム真理教だよ」
中川「オウムが………世界を…人類を救う…いいですねえ」
麻原彰晃「いいか? 世界救済の日が近い。アルマゲドンまで時間がない。修行をいそげ!オウム信者も寄付ももっとふやせ! 救うぞおー!」
信者たち「よーし! 救うぞー! 救うぞー! 救うぞー!」
麻原彰晃「オウム!マンタラブー!」
まるで漫才かナチスヒトラーだ。
脅威のカルト・テロリズム組織『オウム真理教』……破壊と殺人の悪のテロ組織!!
オウム真理教
略称 オウム、オウム教
設立年 1989年8月29日
設立者 麻原彰晃
廃止年 2000年2月
種類 宗教法人
目的
主神をシヴァ大神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、パーリ仏典を基本としてシヴァ大神の意思を教学し実践する者の指導のもとに、古代ヨガ、ヒンズウー教、諸派大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要なワークを行う。/教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制政治体制を我が国に樹立すること。
本部
日本の旗 日本
東京都江東区亀戸(登記上)
山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)(実質)
静岡県富士宮市(実質)
東京都港区南青山(実質)
メンバー
最盛期
日本:15000人
ロシア:35000人
関連組織
真理党
ウェブサイト
閉鎖(インターネットアーカイブ)
新興宗教の団体
青山総本部(東京・南青山、1994年、2015年4月解体)
オウム真理教(おうむしんりきょう)は、かつて存在した麻原彰晃を開祖とする新興宗教。日本で初めて化学兵器のサリンを使用し、無差別殺人を行ったテロ組織でもある。
概説
教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)はヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができるなどと言って若者を中心とする信者を多く獲得した。マスメディアではオウム真理教出家者が理系の高学歴者ばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、多くの宗教団体にありがちなように、実際は社会で普通に生きてゆくことに疑問を感じたり社会に居場所をなくした人たちや、DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害を持つものなども多く、こうした社会的弱者の構成員も多かった。
教義的にはヒンドゥー教や仏教といった諸宗教に合わせ、ノストラダムスの予言などのオカルトもミックスした独特のものとなっていた。当初はヨーガのサークルに過ぎなかったものの次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産を布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者が判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法、行政、警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(「オウム真理教事件」)を起こしたほか、自動小銃や化学兵器、生物兵器、麻薬、爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた。
1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephと改称され、また別の仏教哲学サークルひかりの輪が分派した。
名称
命名には京都の私立探偵目川重治が関わっている。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。
「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機とオームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めた。
時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳しくは目川重治#オウム真理教を参照)。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする。
さらに「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「唵」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」、すなわちすべては変化するものであるということを表している。
また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦やイエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教や原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学であるという。
沿革
前史
ヨーガ教室
1984年(昭和59年)、超能力開発塾「鳳凰慶林館」を主宰していた麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。当時はアットホームなヨーガ教室で、この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。
麻原彰晃「この写真を……是非に掲載してください!」
雑誌記者「これは?」
麻原彰晃「超能力によりあぐらをかきながら空中浮遊した瞬間の写真です」
雑誌記者「これが超能力ですか。浮いてますね。確かに」
麻原彰晃「でしょう? うちの団体では、修行を積めば誰でも超能力が身につき、飛べるようになるんです」
雑誌記者「へえーっ。それはすごいですねえ」
実際は嘘だった。あぐらをかき、脚を床にバンバンと弾かせると一瞬だけ地面から浮き上がることがある。その瞬間をカメラで撮影しただけだった。
だが、オカルト雑誌の記者が考えもせず麻原彰晃の「空中浮遊」の写真を掲載したことで、被害が拡大した。だが、当時は麻原彰晃が『悪魔』だ、とは誰も知らない。
オカルト雑誌だけを攻めるのは酷というものだろう。
麻原と家庭
当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた。
当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。
麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた。
今なお世界のテロ専門家たちは「オウム真理教(アレフ)」の事件を調査している。
元・米国海軍長官リチャード・ダンジク氏もそのひとりだ。氏は「世界中の人々が化学兵器サリンによるテロがふたたび繰り返されない為にも、オウム真理教のテロから学ぶべきときにきている」と辛口だ。
警視庁の建物の?階が広報部だ。警視庁ビルは戦後すぐに建てられた建物が東京オリンピック近くになって建て替えられた。広報部の佐藤良夫は現在42歳、オウム事件の時はまだかけだしの20代のペイペイであった。当時は右も左もわからず山梨県上九一色村の教団のサティアン前で取材をしていた。彼はイケメンな方だ。現在はまだ結婚はしていないが、どこか俳優のディーン・フジオカを彷彿させる男前であるから、女性がほってはおかない。
無論、良夫が童貞な訳ない。恋多き男前である。
だが、恋愛と結婚は別だ。
彼は警視庁広報部の部長から「オウム真理教の暴走」について取材するように依頼されていた。もし広報誌で連載して、反響がいいなら出版化や電子書籍化してくれるという。これはやらねばならない。これは自分の広報部記者生命が懸っている、佐藤良夫はストイックに思った。本当は警察官だが、広報担当だから武器はペンというよりPCのワードだ。スマホや携帯電話やタブレット端末である。そしてクラウドである。
根が「まじめ人間」なのだ。
死刑囚や数多い元・信者からデータをとり、700本にも及ぶ極秘テープなどから「オウム真理教の暴走」に迫る。麻原は教団発足当初から毒ガス・サリン70トン(致死量70億人超)をつくり、「アルマゲドン(世界のおわり)」を実現しようとしていた。
サリンは(*塩化メチル*ヨウ化メチル*塩化チオニル*三酸化リン*フッ化ナトリウム*フッ化水素*フッ化カルシウム*フッ化カリウム*イソブロビルアルコール*メチルホスホン酸ジクロリド*メチルホスホン酸ジメチル*メチルアルコール*五酸化リン*亜リン酸トリチミル)からなる。元・神奈川県警はサリンまで後少しに迫っていた。だが、教団の中に警察関係者の親戚がおり、「ガサ入れ情報」が教団に漏れていたという。
元・警視庁警備局長(公安トップ)の菅沼清高氏は「オウム真理教をマークしておけ、とは警視庁内に指示してはいた。が、まさかオウムが猛毒ガス・サリンを使うとまでは想像もしていなかった」と下唇を噛む。無念であったろう。
ちなみにオウム真理教の設立の目的というものがある。以下のようなものだ。
「主神シヴァ神として崇拝し、松本智津夫(別名・麻原彰晃)はじめにシヴァ神の意思を理解実行する。その指導のもとに、古代ヨーガ、原理仏教、大乗仏教を背景とした教養を広め、行事を行い、信者を強化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目的とし、その目的達成するために修行する」
何じゃそりゃ?言っている理想とテロ行動が結びつかない。
所詮は教祖の指示を妄信しただけだ。
ちなみに教祖・松本智津夫(別名・麻原彰晃)の風貌を知らぬものはすくないだろう。ぶくぶくと太って背は低く髪や髭が長く、髭ダルマ親父みたいな感じだ。視力が悪い(頭も悪いのだろうが(笑))。盲学校卒でインテリでもイケメンでもない。おっさん、だ。
何故このような男に騙された人間が多かったのか……?「結果論」ならいくらでもいえるが当時はどうだったのか…? 何故オウムの暴走を止められなかったのか?
もはや死刑執行で「あの世の人」だが、悪魔であり、ヒトラーである。
「おい、どうだ? 佐藤」
警視庁広報部のデスクの一席で佐藤良夫は、時代遅れのテープ式ウオークマンのイヤフォーンからの音声に聞き入り、ネコ背で椅子に座りしきりにメモをとっていた。
当然というか、上司の野田部長の声は聞こえない様子である。
「おい佐藤!」
野田部長が佐藤良夫の肩を叩いた。それでやっと佐藤は、
「あ、部長」と気付くのだった。イヤフォーンを外して佐藤良夫は昼飯もまだだったことに今更気付いた。「そんなにオウムの説教テープが面白いか?」
「いいえ」佐藤は間をおいてたどたどしくいった。「面白いとかそういうんじゃないんです」
「じゃあなんだ?」
「なんというか麻原の言葉は死んだオヤジに似ているんです」
「おまえのおやっさん死んだのか?」
「はい、交通事故で…」
「そうか。でもお前オウムに入信するなら原稿上げてからにしろよ」
部長は冗談をいった。ふたりは笑った。
「しかし、部長。よくこれだけの極秘テープ音源が検察に押収もされず残っていましたね」
「ああ」部長はタバコを口にして「全部で700本…しかも極秘テープだ」
「検察は何で押収しなかったんですかね?」
「まあ1995年の地下鉄サリン事件…そして麻原彰晃逮捕と裁判で「おわった」ってことだろう? 検察は俺ら警察と違ってさ、送検されて裁判しておわりだ。おわりの元など興味なかったんじゃねえか」
「なんか日本の検察らしいですね」
「まあな、アメリカとかイギリスなら二度と同じテロが起きない様にさ、CIAやFBIやMI6がいろいろ研究したりするんだろうがな」
「ほんとに日本の検察って大丈夫なんですかね? こんなに教団の極秘テープをうち(警視庁広報部)に流出されても平気なんて…」
「そういやお前バイリンガル(帰国子女)だったな」
「ええ、アメリカ時代は近所で麻薬事件があっただけで僕ら家族まで何度も裁判対象になったり、捜査の対象になったり、日本の検察よりなんていいますか……タフ…そうタフなんですよ」
「日本の検察はソフトボールか?」
ふたりは笑った。
「まあ、とにかくオウム事件を風化させたり研究したりしなければ日本はまた「いつかきた道」に逆戻りですよ。部長、俺、この早坂にあってみます」
「『なぜオウムは暴走したのか?』の著者・早坂 武禮(はやさかたけのり・仮名)か?」
「そうです。彼自身元信者であるそうです」
「だが、いいか佐藤」野田部長はゆっくり言った。「世の中は「今更オウム真理教?」みたいな風潮もある。インパクトだよ。朝日の橋下徹伝記連載や文春の孫正義伝記みたいな…」
「3・11東日本大震災以後「脱原発オンパレード」でしょう? 今更のオウムでも…どかんとインパクトある連載にしますよ。警視庁広報誌でも読んでいる読者がいる訳ですし。まあ、読者は警官関係者ですがね」
佐藤は顔を紅潮させていった。「必ずヒットしますよ。北朝鮮拉致事件記事みたいなものに!」
「そりゃ頼もしい」野田はたばこをくゆらせた。「早坂にはアポとってんのか?」
「はい、もちろん。もう少し時間がありますんで俺はもう少しテープ聞いています」
佐藤はまた猫背でイヤフォーンを耳にあて、再生させた。
「おいおい、昼飯忘れてまでオウムか? 本当にオウム真理教…ったっていまは「アレフ」「ひかりの輪」か? に入信せんでくれよ」部長は苦笑した。
そうオウム真理教は1995年「地下鉄サリン事件」を起こした。事件というよりテロである。地下鉄の丸ノ内線などの霞が関駅近くで、実行犯の林郁夫・林泰男・広瀬健一・横山真人・豊田亨らが、新聞にくるんだビニール袋入り液体サリンを混雑する列車内部で床にそっと落とし、先の尖った傘で袋を突き、逃げ去り、大量殺戮を犯したのだ。
実行犯を突き動かしたのは「救済の為ならポアしても構わない」という麻原彰晃の教え、であった。
「警察は何をやっていたのか?」
夫の高橋一正さん(列車のサリンを拭いて亡くなった)の妻・高橋シズエさんは故人となった一正さんの遺影で涙を堪える。故人となったのではない。麻原彰晃とオウム真理教に殺されたのだ。麻原彰晃(本名・松本智津夫)はカルト教団をつくるにあたり、ある新興カルト教団の男からアドバイスを受けている。
「宗教や占いやカルトに入信する輩は心が弱い人間だ。魚釣りみたいに餌で何人も釣り上げればいい。お金を吐き出させ、「お金は命の次に大事なものだ。それを献上させて「解脱」だのといい」お金儲けしろ」
何ともいかがわしいアドバイスだが、オカルトや占い師、祈祷など殆ど全部嘘っぱちである。皆さんはオウムの「ポア」が理解できないだろう。福永法源の「(手相ならぬ)足相」などわかるまい。勿論、私だってわからない。
占いだの宗教だの「お金儲けの手段」なだけだ。
くだらないんだよ。血の海を泳ぎ、地獄を見てきた私にしたら「何を戯言言ってんだ、馬鹿!」でしかない。念仏唱えて仏像に祈ったって病気は治らない。当たり前だ。
自身も元古参信者で、元・オウム真理教広報部長で、偽証罪で懲役3年の刑を受けた上祐史浩氏(宗教団体「ひかりの輪」代表)はいう。
「オウム真理教の武装化は1993年ではなく1990年熊本県波野村(なみのそん)で、麻原は集団救済の為ではなくヴァジラヤーナ(オウム教では殺人の教え・サンスクリット語で本来は「仏教の世界」のこと)の為に軍事兵器をつくろうとしていた。熊本県波野村に300人を送り込んだのです」
今は上祐氏は「オウム真理教(現在・反上祐派「アレフ」と上祐派「ひかりの輪」)」の派生宗教団体で生活している。事実上のオウムの元・幹部ではあった。
しかし、麻原の教えは間違いであった、と認めてもいる。
麻原はテープで「第二次大戦で何人死んだ?」と上祐に問う音源があるという。
麻原「第二次世界大戦では戦死者は?」
上祐「え? 第二次世界大戦でですか? 世界でですか?」
麻原「市民も含めて…」
上祐「爆撃で死んだ市民だけで9000万人くらいでしたか」
麻原「兵士も含めると」
上祐「億いくんじゃないですか?」
麻原「だろう? 一度戦争が起こると億単位でひとが死ぬんだよ」
上祐「世界大戦は起こるんですか? ソ連も崩壊してしまいましたが…」
麻原「いいか。世界大戦…いわゆるアルマゲドンは絶対にくるんだよ」
上祐「アルマゲドンで何億人くらい死にますかね?」
麻原「多分オウム真理教信者以外全員死ぬ」
上祐「え? 全員ですか?」
麻原「そうだ。だから教団は武装する。攻撃は最大の防御、だよ」
アルマゲドン(世紀末戦争)を信じて暴走したオウム真理教。
オウム真理教の犯罪事件は「信者A殺人事件」「坂本弁護士一家殺人事件」「サリン・プラント建設・殺人予備事件」「LSD密造事件」「覚せい剤密造事件」「麻酔薬密造事件」「メスカリン密造事件」「元信者B殺人事件」「滝本弁護士殺人未遂事件」「自動小銃密造事件」「松本サリン事件」「元信者C殺人事件」「経営者VX殺人未遂事件」「会社員VX殺人事件」「被害者の会会長VX殺人未遂事件」「宮崎資産家拉致事件」「公証役場事務長監禁致死事件」「都庁郵便物爆破事件」「新宿駅青酸ガス事件」「地下鉄サリン事件」
首謀者の麻原彰晃は一切証言しないまま「死刑確定」した。
麻原彰晃(本名・松本智津夫)は認知症(ボケ)の仮病をつかいおむつをしてボー然と監獄の天上の照明を眺めている。だが、「死刑確定」の日はひとりになると「何でなんだよ!糞っ!」と悔しがった。「病気なんだから死刑はないだろう」、などと浅知恵だった訳だ。
麻原彰晃にはまだ「一連の事件の証言」が残っている。
死刑は当たり前だが、殺さず一日でも地獄の日々を送らすのだ。殉教者にはするな!
本当のことを話す日まで。しかし、2018年7月6日に死刑執行になった。
麻原の音源テープはうつろな声でささやく。
麻原「私はこの世の救世主だ。オウム真理教は世界一の教団だ。イスラム教でもキリスト教でもない仏教でもないオウム真理教が世界を救うんだ。アルマゲドン…第三次世界大戦は必ず来るしそのためにオウム真理教が救済の為に…」
麻原「救済するぞ! 救済するぞ! 救済するぞ!」
1995年山梨県上九一色村には30棟のサティアンという工場みたいな白い壁の建物があった。(現在は更地になり慰霊碑がある)毒ガス対策で籠の鳥をもった機動隊ガスマスク隊がいき、遠まきに報道陣が報道している。まだ20代の警視庁広報部新米記者時代の佐藤良夫の姿もある。
ガスがないと知ると、盾と武装した機動隊が出撃。鋼鉄の壁を電気カッターできり、突入!階段の中2階の隠し部屋に札束を積んで寝そべっていた麻原彰晃が発見された。
機動隊の男は壁を壊しながら「麻原か?」ときく。960万円をもって隠れていた。
「…はい」麻原は赤い教団着のまま言った。髭ダルマみたいな男が連行され護送車に入れられる。マスコミのカメラは鉄格子の護送車の窓に見える髭ダルマを写し、
「麻原です! 麻原彰晃代表逮捕です!」
「麻原逮捕です!」
と大々的に報道する。
あれから23年……。2012年42歳となった佐藤良夫は、旧式のウオークマンで「オウム真理教極秘テープ」をイヤフォーンで聴いていた。場所はある山梨県の湖畔のホテルに向かう自家用車内である。まだ午後少し、くらいだ。
警視庁広報部佐藤良夫は「なぜオウムは暴走したのか?」の著者・早坂 武禮(はやさかたけのり・仮名)に取材の為あった。そのホテルでアポイントメントをとっていたのだ。
早坂は意外と若い感じを与える中年男である。
白髪頭に猫背で、華奢な感じにも見える。服装は佐藤は背広なのに早坂は普段着である。
「どうも、警視庁広報部の佐藤良夫です」
「早坂です。オウム真理教のことを聞きたいそうですね?」
ふたりは握手をすると、ホテルのまどろむ日差しの中のロビーのイスに座った。
「はい。早坂さんにきくのが一番と思い伺いました」
「わかりました。オウムは大罪を犯した。ぼくが証言することで何かよくなるなら」
「早坂さんも古参信者でしたね?ほとんどの古参信者は塀の中です」
「私にオウム真理教の何が聞きたいのですか? 本にすべて書いていますから読めば大体はわかりましたでしょう?」
「確かに…しかし、肝心な何故オウムが暴走したのか? わからなかったんです」
「文章が弱かったかなあ」
早坂の冗談に佐藤は笑わなかった。
「私は二度とオウム真理教のテロ事件が起きない様に「オウム真理教のすべて」が知りたいのです!」
早坂はちょっと考えてから、「ちょっといいですか?」と席を立ち、携帯で話した。
そして戻ってきて、
「佐藤さん猫大丈夫ですか?」ときいてきた。
「え?」
意味が解らない。
とにかく佐藤は早坂を乗せて、案内通りに…地方の假家に猫たちと住むオウム真理教の元・古参幹部で同棲中の鈴木麗子(仮名・50代)を紹介した。
鈴木麗子は最古参信者で髪の長い平凡な顔をしたおばさんだった。太ってはいない。
「彼女はサマナナンバー20番、選挙にも出ましたよ。村井、早川より入信は早い」
早坂は苦笑いした。
「おふたりはご夫婦ですか?」
家でお茶をだす鈴木麗子に聞いた。麗子は質素な服のままで「いいえ、同棲っていうんですか? 身分が身分ですし……。私たちだけが幸せになってもオウム真理教の被害者の方たちに申し訳ないですし…」とか細い声だ。子供はない。かわりは沢山の猫たちだ。
鈴木麗子(仮名・NHK未解決ファイルでの仮名は深山織枝)…オウム真理教元・古参幹部。
村井秀夫(同じ時期に入信し、地下鉄サリン事件後刺殺される)佐伯(岡崎)一明死刑囚(坂本弁護士殺害)、オウムのすべての殺人に関わった新実智実死刑囚(にいみともみつ・禿頭)、教団の武装化を進めたのが早川紀代秀死刑囚…しかし鈴木麗子(仮名・NHKでは深山織枝)はそうした面々と同時期に教団に入信して、事件に関わることがなかった稀有な存在だという。
早坂は「このひとは鈴木麗子…もちろん仮名でNHKでは深山織枝だけど(笑)」と彼女を紹介した。「どうも警視庁広報部の佐藤です」名刺を差し出す。
「早速ですいませんが、オウムに入信したところからでいいんで…お話を聴かせてもらえますか?」
佐藤ははやる気持ちを隠しきれず聞いた。
「はあ」麗子は戸惑った。「私のような人間の経験談がお役にたつかどうか…」
「是非オウムの真実をお聞きしたいのです。貴女と同期の古参幹部はすべて塀の中です。あなたに聞く以外考えられません。無論早川や新実や佐伯には手紙のやりとりはしているのです。ですが、彼らの証言は検察のフィルターがかかっていて真実に辿り着けない」
「はあ」麗子は覚悟した。「子供の頃から夢と現実がわからなかったんです。自分のまわりが違うんじゃないかって」
時代は1986年11月、バブルの入り口…。
麗子はコンサバな服を着て眉毛を太く書いた厚化粧で、広告のイラストレーターをしていた。「よう麗子ちゃん、髪形決まってるね。この間みたいな広告頼むよ! お金なら幾らでも出すしね」ショップで派手な背広の上司は笑顔でいった。
「まかせといて! そういやあ遠藤さん今日も合コン?」
「そうさ! お金はじゃんじゃんつかわなきゃね! バブル万歳!」
ひょっとこみたいな顔の遠藤上司は上機嫌で出て行った。
麗子は当時20代、ボーイフレンドと同棲していた。夜にタバコをふかして帰ると、
「ああ、なんか疲れるなあ。ねえ、もっといい給与の会社にトラバーユしちゃおうかなあ?」
と当時のボーイフレンドに愚痴った。「何読んでるの?」
ボーイフレンドの読む本は「超能力の研究 著者麻原彰晃」あのあぐらをかき宙に浮いている写真がカバーであった。(あぐらをかいて本当に宙に浮けるわけではなく、あぐらのままぴょんぴょん脚をしていると一瞬だけ宙に飛び上がりすぐ床に落ちる。飛び上がった瞬間を撮影しただけ)
「この麻原ってどう?」当時のボーイフレンドは麗子にきいた。
「浮いたってしょうがないでしょう?」
麗子は当時苦笑いをしたという。
しかしそこからが違った。何故か麗子(NHKでは織枝)は麻原の本を朝方まで熱心に読みふけった。熱中したといっていい。朝方起きだしてきた同年代のボーイフレンドは、
「あれ? その本眠らずに朝まで?」
「うん。あっくんなんかね。このひとの言っていることすごくわかるの!」
「宙に浮く人の?(笑)」
「まあ、それはそれでね。でもこのひとも孤独なのよ。夢と現実の狭間で孤独に耐えているの」
「(笑)…そう?」
ボーイフレンドは上っ面ばかりだ、麗子は不満である。本にある電話番号に電話してみた。当時は携帯電話もスマートフォンもインターネットもない。
「はい、オウム神仙の会です」
「あのう、麻原彰晃さんの本を読んで電話したものですが?」
「ああ、合宿の予約のお電話ですね?」
「合宿?」麗子は戸惑った。が、女の電話の声は合宿はこれこれで幾らお金がかかってとロボットのように速射砲だ。「わかりました」
鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)らは中規模バスに乗せられ人気のない山道を登っていた。ポロシャツの村井秀夫は前の席で「麻原先生はアルマゲドンが必ず起こるっていっていたよ」という。「それホンマ?」早川紀代秀は怖がった。
麗子とボーイフレンドは顔を見合わせ「これってそういうところ?」と囁いた。
バスは雪の積もる木造合宿所(清流荘)前に着いた。赤い教団服の新実ともうひとりが出迎える。「ごくろうさまです。オウム神仙の会(オウム真理教の前身)へようこそ」
新実らは頭を下げる。
「さあ、こちらです」
木造の合宿所はオンボロだが、年期がはいっている。中に入ると意外と綺麗に整頓してあると驚く。麗子は私服の麻原の姿を見かけた。
大きな部屋には20人が入った。教団服の佐伯(岡崎)一明は「皆さん床にお座りになって座禅を、ダメな方は蓮華座でいいので」
「蓮華座ってなんでっか?」早川はきいた。
「座禅のくずしたもので片足だけ組む座禅ですよ」
一同は座禅を組む。
そこに金色のマントと宗教服の麻原が来た。髭ダルマみたいな太った男だ。
説法が始まった。
麻原「例えばあるひとがお金があれば高価な車も買える。彼女は玉の輿に乗ったといっても何も感じない。昨日今日のコメがあればいいではないか? 一千万円も百万円もいらない。そう思えるようになる。つまり世の中にあふれているインフォメーション、情報というものが役に立たなくなる。それが「解脱(げだつ)」だ。いいですか? 皆さん」
一同は案内されて外の通路をあるいていくと、
「あれ見て!」
「すごい!」
と、感心した。髭ダルマ麻原彰晃が、上半身裸で雪の上で座禅を組んでいる。少し距離がある。真冬である。「寒くないのかなあ?」一同はざわざわしだした。
寒かったに違いない。我慢したのだろう。
新実は「先生は最終解脱しているため寒さを感じないのです!」
とにやりと自慢する。
なにが最終解脱だ?
だが、一同は関心した。凄い! 凄い!
合法活動
オウム神仙の会からオウム真理教へ
1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。
「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った。宗教化で会員の三分の一が脱会した。
1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。
同年にはサンデー毎日で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判、オウムバッシングが始まった。
ダライ・ラマを利用した宣伝
麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世とインドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタを持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。
ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝に利用していたが、事件後はマスコミの取材に対して軒並み深い関係を否定している。
1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している。
麻原の健康不安と死への願望
1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変や肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという。3女松本麗華は、この頃から「麻原の死への願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている。
オウム真理教2
2 オウム真理教の教えと麻原彰晃の狂
「あなたは騙されているのよ!」
鈴木麗子(仮名・NHKでは深山織枝)の母親がいった言葉はそれだった。
娘は財産をすべて教団に寄付して、オウム真理教に入信するという。当時は宗教団体というより「ヨーガ団体」ではある。麗子の母親は荷作りして、出家しようという娘に、
「これは詐欺よ、出家するのに全財産寄付する義務なんておかしいと思わない?」
「でも、尊師は俗世の穢れを落とすのに必要だとおっしゃるのよ」
「でも、その麻原さんって結婚もしてるんでしょう? 詐欺よ、詐欺!」
「もう! うるさいな、お母さん」
麗子は憤慨した。「今のままじゃダメなの! この世の中を救済するのよ」
「救済…あなたが誰を救うの?」
「いえ、私だけでなく尊師と信者全員でよ」
もう引っ越しトラックが来ていた。「…これも運んでください」
「ねえ、麗子! やめときなさい!」
「うるさいのよ、もう、放っといて!」
1984年(昭和59年)、オウム真理教の前身であるヨーガ団体(オウム神仙の会)で無知な若者たちを次々と虜にしていった麻原彰晃(本名・松本智津夫)…。
麻原「ここにいるあなた方はほとんどそうなんじゃないか? 今の世の中で違和感を生じている。あなたは周りの人たちからおかしいと思われている人たちじゃないかと思う。それでは数が多いから正しいかということになる。そんな馬鹿な話はない。だから私はあなた方の苦しみがよくわかる」
湾岸戦争、1999年、ノストラダムスの大予言、アルマゲドン、恐怖の大魔王ブーム……
麻原「最終戦争は必ず起こる。そんなときそれを止めることができるのはあなた方だけだよ。どうやったら隣人を救済することができるか? 愛だよ。救うことが、いいですか皆さん? 出来る」
救済の為に活動するという麻原彰晃…
佐藤良夫は「本当に世紀末に世界大戦が来ると思われていたのですか?」
麗子は「まあ…当時は」と言葉を切った。「麻原尊師が絶対でしたから」
「でも、人類を救済するどころか霞ヶ関の地下鉄や松本市で大勢殺しましたよ」
「だから、それは…」早坂が割って入った。「それは「結果論」でしょう? 当時はみんな麻原さんに騙されていたんだし」
「「救済」の為には人殺しもいいと?」
「だから!」
早坂はタバコをくわえ吹かした。「後からなら何だって言えますよ」
「そうですね。すいません」佐藤は生真面目に謝罪した。そして、
「じゃあ、オウム真理教は発足当時から大勢の信者に支持されていたのですか?」
と鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)にきいた。
いっておくが佐藤良夫はボイスレコーダで話をすべて録音している。
「いいえ」麗子は否定した。「オウム真理教の発足当時は、東京下町の木造家屋に信者は数人しかいなくて、そこで修行してましたね」
「麻原もそこに?」
「はい。奥さんとお子さんも」
「1980年代後半ですよね?」
「そうですね」麗子は頷いた。「よく蟻がでる家で…皆で踏まないように気を付けようなんて」
「熊本県波野村や山梨県上九一色村進出の前ですか?」
「そうです」
「その後、私は真っ暗な独房に入れられまして…」
「独房? 何か悪いことでもしたのですか?」
「いいえ」麗子は強く言った。「修行の為です。あれは1988年4月だったと思います。独房といっても真っ暗なコンテナの中で…数か月か水と少しのパンだけで一人っきりで座禅を組んで」
「そんなことをされて頭にくるとかなかったんですか? 怒りとか?」
「いいえ。修行ですから。でも確かに苦しかったですよ。暗闇の恐怖。空腹の恐怖」
「それで?」
「私はその修行に二回失敗しているんですが…修行が成功して変わりましたね。」麗子は続けた。「独房から出たらチエーンスモーカーだったのにタバコを止められたり、方向音痴も治ったりしましたね(笑)」
当時、麗子は暗闇の独房で泣きじゃくっていた。「た…助けて! いやあ! 誰かあ…ああ!」数か月後、独房の扉が開いた。ジャージ姿の麻原彰晃(松本智津夫)だった。
「そ…尊師!」
麗子は泣きじゃくりながらすがるように麻原の腕に手をやった。
「アドン大師、光は見えたか?」
「……上から差し込む光なら…」
「よし!」麻原はいった。そこは富士山麓の上九一色村のサティアンの前のコンテナだった。「それはオウムの神の導きの光だ。闇で見た状態を感じるか?」
「…いいえ。感じません」
「よし! カルマがとれたのだ! おわったらホーリーネームとマントラを授けよう」
「ありがとうございます! ぐ…グル(尊師)!」
麗子は小汚い服装と乱れた髪のまま頭を下げた。
1988年8月(昭和63年)山梨県上九一色村のサティアンは完成していた。サティアンと呼ばれた白い工場のような建物が密集して建てられ「オウム真理教のエンブレム(紋章)」がはためく。その日は晴れで「オウム真理教富士山総本部」の開所式典の日であった。
演壇にはカラフルな仏像・仏画やオウム真理教のシヴァ神の像、金色のマント修行服姿の麻原彰晃と麻原ガールズたち。修行者の大勢のチャイナ服みたいな服装の男女が盛り上がっている。幹部連中も演壇にたって声援にこたえている。広い室内である。
麻原も上機嫌だ。「いいですか? 皆さん。我々オウム真理教がアルマゲドンから世界を救うんですよ!」
「救済するぞ! 救済するぞ! 救済するぞ!」
「修行するぞ! 修行するぞ! 修行するぞ!」
シュプレヒコールが始まった。
麻原は「皆さんが世界を救うんです。いいですか?」
と煽る。皆クレイジーである。
麻原は「皆さん、先ほど解脱したばかりのアドン大師です」と鈴木麗子を紹介した。麗子は演壇に上がった。拍手喝さいだ。
「私は彼女にアドミュラル大師というホーリーネームを付けた。恐怖と悲しみを乗り越えての解脱だった。一言」
麻原はマイクを彼女に渡した。
麗子は教団服で長い髪で頭を下げてから、「アドミュラルです。グルのおかげでこうして解脱しました。すべてグルのおかげです。皆さんありがとうございました!」
拍手喝采だ。麻原は椅子に座りながら、
「いいですか? 皆さん、世界を救うためには3万人の解脱者が必要です。皆さん、頑張ってください」とマイクで言った。また拍手喝采だ。
麗子(NHKでは深山織枝)はデザイナーだった経験を活かして、教団内部に飾る鮮やかな印象派の絵のような仏画を描く役割であった。平田信は「すごいいい絵ですねえ」と感心し、麗子も満足げであった。
佐藤良夫には理解できない世界である。
無論、誰だって理解できない。まるで麻原の子供の頃の夢「ロボット帝国」である。
「4か月の独房での達成感は?」
「すごいものでした。私は2度失敗したのですが、恐怖が神のこころのようになくなる。悟りっていうか」麗子は真面目な顔でいう。
本当らしい。冗談ではどうもなさそうだ。
早坂が割って入った。「かわりかけのころですよ。ヨーガサークルから宗教法人に成った頃。なんていうか木造家屋民家が中小企業なら、富士山総本部が大企業ですかね」
「ちょうど、その頃一人目の信者殺害事件が起こったのでしたね?」
佐藤は早坂に詰め寄った。
「沢田さん(仮名)?」
「そう沢田さんです。一人目の被害者の信者です」
確かに殺害現場や殺人を麗子も早坂も見てはいない。しかし1998年9月、信者の沢田さん(仮名)はオウム真理教に嫌気がさして、イスラム教の信者のように演壇に向かって座ったり立ったりして修行していた連中を手で払いのけ「やめろ! やめろ!」と騒いだのは目撃していた。麻原の幹部たちは沢田さん(仮名)を拘束した。
麻原らは個室で話した。麗子も早坂もいない。
麻原は言った。
「沢田は頭がショートしてるからなあ、風呂場で水をかければいい」
幹部連中は深夜、沢田さん(仮名)の頭を強引に風呂場の水に押し付けた。しばらくやっていると沢田さん(仮名)の心臓が止まっていた。
まずい! どしたらええんや? 必死に心臓マッサージするがムリである。
「とにかく男子風呂より広い女子風呂に遺体を移そう」
麻原が来て死体を手でみて、
「もうだめだなあ。元素が分解しだした」などという。
また個室で密談しだした。麗子も早坂もいない。
女信者が「内々に処理しないと」という。
麻原は「警察に届けると救済計画が大幅に遅れるなあ。アングリマーラ(宮前(岡崎)一明)はどうだ?」
宮前「救済がストップするのはまずい」
麻原「村井は?」
村井「沢田もグルにポアしてもらった方がいいと」
麻原「具体的には?」
村井「地下に埋めるというのは?」
千葉「湖に沈める」
早川「護摩法(ごまほう=供物を焼く宗教的行為)がええとおもいます」
さっそく真夜中にサティアンの庭先で秘密裏に「護摩法(ドラム缶に入れた沢田さんの遺体をガソリンをかけて焼きだした)」が開始された。麻原と一部の幹部だけで、この証拠隠滅はおこなわれ、他の信者は三階の広場で修行が命じられた。
麗子は窓から偶然、「(護摩法の遠くの)炎」をみた。
「あれ? 護摩法やってる。何で私は仲間外れな訳?」
麗子は呟いた。早坂は「護摩法好きなのにね」とほほ笑んだ。
麻原は「心を強くもて!」と幹部にいった。
「はい!」
「マントラをとなえろ! オウム・マニテネブー」
麻原は人差し指と中指をかざして、呪文を唱え始めた。
沢田さんは焼かれ、遺骨は湖にまかれたという。事故死など大勢の信者は知らなかった。勿論、鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)や早坂 武禮(はやさかたけのり・仮名)もしらなかった。すべては企業の隠ぺい体質と同じである。事故死だが、警察に届ければ教団の宗教法人化が遅れる。「救済」が聞いてあきれる。
結局、この程度の宗教団体だから「テロリズム」に走ったのだ。
麗子や早坂は「沢田さんは教団からでて実家に帰った」と聞かされていた。
明けて1989年2月(平成元年)、信者の香川さん(仮名)はオウム真理教に嫌気がさして、イスラム教の信者のように演壇に向かって座ったり立ったりして修行していた連中を手で払いのけ「やめろ! やめろ!」と騒いだのは目撃していた。
麻原の幹部たちは香川さん(仮名)を拘束した。
「香川さんが揺れている(宗教が薄れている)」
麗子や早坂は香川さんが独房に入れられたと聞いた。
「香川さんも解脱?」
「いや、揺れているらしい」
「揺れてる?」
「ああ」
暗いコンテナ内部には呪いのマントラのような麻原の吹き込んだテープの音声が響く。
「香川嘉雄、魔境から解脱せよ! 香川嘉雄、目を覚ませ!」
しかし、香川さんは「うるせえ、いんちき教祖!」と反発した。「ここを出たらすべて警察にいってやる! うるさい! うるさい!」
麻原らはまた密室で幹部会議をしていた。麗子も早坂もいない。
「おい、グル(尊師)の為にひとを殺せるか?」麻原は聞いた。
「…はい!」
「マンジュシェリー(村井秀夫)がいうんだ。香川が本気で教団を出ようとしているんだ」
「グルを殺してでもというております」
「あいつは沢田が死んだときにいたからなあ。あいつが喋れば救済が遅れるなあ」
「それはまずい」
「お前らもう一度言って香川の様子を見て来い」麻原は正座している幹部たちに仁王立ちで言った。「駄目なら……ポアするしかないか」
幹部たちは驚いた。ポアとは「霊を高める」とか「守護霊を強める」という仏教語ではある。しかし、オウム真理教では「ポア」=「殺人」ということだった。
村井は「どうやってポアするかですね」と疑問を投げかけた。
「五寸釘?」誰かが言った。
麻原は「私は血を見るのが嫌いだからなあ」などという。
「では毒を飲ませるのは?」
「ロープで首絞めて……あとは護摩法で」
「しょうがないやつらだなあ」
香川さん(仮名)の最終判決が決まった。死刑!オウム真理教幹部に絞殺されるのだ。
早川はコンテナの見張りで深夜の暗がりで懐中電灯をもって、
「ゆるしてえな香川…」とぶつぶつ恐怖に震えている。
「香川! 麻原グルが、お前が教団をでていってもいいとおっしゃった。だが、その前にちょっとだけ目隠しさせてもらうぞ」
真っ暗なコンテナ内部で香川は胡坐をかきながら布袋をかぶされた。幹部らは懐中電灯の中、ロープを香川さんのくびにかけて「いいか? 香川…すぐ出られるから暴れんなよ」
といい、力を込めてロープを引っ張り、香川さんを絞殺した。
「んんん! ぐああ!」
断末魔の叫びがかすかに聞こえる。「すまんのうすまんのう」早川は動揺しながら念仏を唱えたという。見張り役で正解であった。もう動揺と恐怖で足元がふらふらだ。
麻原彰晃は真夜中、三階のホールに一同を集めていた。無論、香川さん(仮名)沢田さん(仮名)を殺害したことなどいう訳はない。
「小乗のツアンダリー」というパンフレットを蛍光灯の明かりの中、大勢に配り始めた。早朝まで「ありがたい(笑)」修行をするという。
鈴木麗子(NHKでは深山織枝)はまた窓から外の遠くの炎を観た。
「また護摩法やってんだ。何で私抜きで護摩法やるかなあ」
思わず呟いた。
早坂は「君は護摩法好きなのにね」と何も知らずほほ笑んだ。
麻原が去ると大勢で修行が始まった。
麻原は下の炎の近くにきて、「ガソリンまいたらもっと燃えるんじゃないか?」ともいう。
こうして香川さん(仮名)も沢田さん(仮名)のように骨にされ湖に沈められた。
数日後、麗子はサティアンの食堂で女友達と「あれ? 最近香川さんいないよね?」という話をしていた。麗子はひとりでパンをほおばっていた新実に「ミラレパ大師」と声をかけた。
「香川さん知らない?」
だが、新実智光は「……知らん」と動揺しながら呟いて、どこかに行ってしまった。
「どうしちゃったの? ねええ(笑)」
知らぬは仏…である。
「ミラレパ大師(新実)が動揺しています」と村井。
麻原はまた個室の密談で「ミラレパに毎夜、ヴァジラヤーナの経典を唱えるようにいいなさい」と命令した。その深夜から誰もいないうす暗い教団修行室で演壇に向かって座禅を組んだ新実智光が、大声で経典を唱えるのが目撃されている。
新実は禿頭で修行着のまま悪魔のマントラのような説法を口ずさむ。
「私は修行の道を歩んでいる。修行の道に障害があるとするならば、とびかかる火の粉を振りほどくように障害を取り除き、あるいは命あるものをないものとして救済の道を行く。それこそがヴァジラヤーナなり!」
波野村の攻防
1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また右翼団体なども扇動され激しい攻防があった。
そして1990年10月、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件で強制捜査を受け、早川紀代秀、満生均史、青山吉伸、石井久子、大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。
後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。
武装化の中断、妄想・幻聴の出現
国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)~1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。
だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている」などといった麻原の妄想、幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している。
教団の再武装化
「麻原彰晃#マハーヤーナとヴァジラヤーナ」も参照
1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。
この中で土谷正実、中川智正、滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。
また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。
この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった。中川智正によると、この被害妄想は1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという。
洗脳の強化
過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件、男性現役信者リンチ殺人事件、逆さ吊り死亡事件などが発生した。
1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200~300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた。
また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。
洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている。「麻原彰晃尊師が世界を救う! アルマゲドンから人類を救う!」
「君たちは騙されていたんだ!」
「黙れ! オウムの敵の警察め!」「引っ込めー!」
「救済するぞー! 救済するぞー! 救済するぞー!」クレイジーな麻原チルドレン。
省庁制発足と松本サリン事件
1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。
3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。
同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。
戦いか破滅か
1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。
「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致・監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件、宮崎県資産家拉致事件、鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。
さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」、「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
サリン事件は、オウムである
松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。
だが麻原は1995年1月17日の阪神淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。
地下鉄サリン事件と強制捜査
しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日に地下鉄サリン事件を決行。12人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。
ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある。
「しかし……地下鉄でサリンをまいたら……」
「なにを情けないことをいうんだ!ハルマゲドンまでもう時間がないんだ!オウム真理教信者がハルマゲドンのとき全人類を救済するんだ!そのための一歩じゃないか!!」
いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。
強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。
強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩、中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。
1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
鈴木麗子「そのときは香川さんや沢田さんたちが焼かれているとは気付かなかったんです。殺されていたなんて。自殺か病死かして死んだんだと。ポアしてもらったのかと」
佐藤は反発した。「ひとを殺すことが修行なんですか? それって宗教なんですか?!」
早坂は割って入った。「だからね、佐藤さん。それは「結果論」でしょう? 彼女をせめたって麻原さんじゃないんだから何も出てこないでしょう?」
3人は佐藤良夫の車で、山梨県上九一色村近くの湖畔にきていた。
「わあ、懐かしい」
「サティアンはもうないけど懐かしいなあ」
麻原(テープの声)「このAさんを殺したという事実をだよ。他の人たちが見たらば、人間界のひとが見たらば、これは単なる殺人と。いいかな? 客観的に見たらばこれは殺生。しかし、ヴァジラヤーナの考えの背景にあるのはポア、立派なポアだよ」
麻原はポアとヴァジラヤーナを殺人をためらう弟子たちに教えた。
麻原は「救済のためなら人を殺してもいい」と教えた。
(香川さん殺害後の説法テープ)麻原「例えばこれは仏陀釈迦牟尼(ぶっだしゃかむに)の前世の例だね。大きな船に300人の貿易商が乗っていて、その中のひとりが大変に悪い心とカルマ(悪業)を持っていて船のみんなに迷惑をかけて、殺して商品をすべて自分のものにしようとした。そのとき、はい。仏陀釈迦牟尼はどうしたか? その悪いカルマを持った極悪人をどうしたか?」
「注意した?」
「先生の本を読ませる?」
「脅す?」
麻原「なるほどねえ。カマラ大師は?」
「色々だます?」
「ポアさせる?」
麻原「ポアねえ。いいけど、ちょっとちがうねえ。もう少し修行して熟考してみようか」
佐藤は「このときのポアとは殺人の意味ですよね?」と麗子にきいた。
まだ湖畔で午後であった。3人以外誰もいない。
「いいえ。それは誤解です。ポアとは心を清らかにして極楽浄土に天昇させるものです」
「じゃあ、ポアとはありがたいことですか?」
「そうです。とてもありがたいことです」
「なら隠す必要ないじゃないですか?」
「それは……」鈴木麗子(NHKでは深山織枝)も早坂 武禮(はやさかたけのり・仮名)も言葉を切った。まあ、騙された方も悪い。だが、一番の悪は金と権力欲に取りつかれた麻原彰晃(本名・松本智津夫)である。
佐藤はひとりで警視庁本庁に戻り、屋上でタバコをふかしながら麻原の説法のテープを、時代遅れのウオークマンで聴いていた。
上司の野田部長がきた。「おう、佐藤やってるな」もう夜中である。「本当は禁煙だぞ」
「部長、オウムの元信者は何故かオウム真理教の暴走の話になるとオウムを庇うんです。何ていうか……そう「ピュア(純粋)」なんです」
野田部長は深刻な顔をして、
「いいか? 佐藤。お前オウムに寄り添い過ぎてないか? オウムの被害者は2度地獄を味わったんだ。1度目は家族を殺されて、2度目は何もわからず裁判が終わった(3度目は麻原彰晃たちの死刑執行ということ)」
「……そうですが」
「テロリスト集団に広報部とはいえ警察官が同情してどうする? お前もサリンまいたり警察庁長官を狙撃したりするのか?」
「いいえ……只、自分はオウムの真実が知りたいんです」
「ミイラ取りがミイラになるなよ」
「はい」佐藤は身の引き締まる思いであった。
あれから30年以上。1989年オウム真理教の被害者の弁護にあたっていた坂本堤弁護士一家を邪魔なものとして、オウムは拉致(1歳の子供・龍彦ちゃんまで)、殺害して山奥に遺体を埋めた。実行役は村井秀夫(故人)、中川智正、早川紀代秀、端本悟、岡崎一明、新実智光。現場で白いオウム真理教のバッチが見つかる。が、麻原らがメディア・スクラムを受けるが麻原達は一貫して容疑を否認した。
マスコミ「麻原さん、現場にオウムのバッチ(プルシャ)が落ちていたって、それでもやっていないというんですか?」
麻原「じゃあ私がいおう。証拠を出しなさい!証拠を出しなさい!」
1990年(平成2年)には麻原彰晃(本名・松本智津夫)や新実智光や鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)も選挙に出馬。全員落選。坂本弁護士一家を殺害して2か月後に何知らぬ顔で選挙出馬であった。麗子(織枝)は坂本弁護士殺害を知らなかった。
♫しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー あ・さ・は・ら・しょ・う・こ・う
(『♪尊師マーチ』作詞作曲ホーリーネーム・カッサパ(カッサパは現在行方不明))
麻原は敗戦の弁「これはおかしい。全員落選するはずがない。これは惨敗だと。これは「国家の陰謀」に違いない。これからオウム真理教がどぶ川の中の蓮華のように咲くためには国家警察、社会、反社会であり困っている人々を救済していくのだと…」
「オウム真理教は陰謀にかかった! アルマゲドンで全人類を救済する我々が負けたら“世界の終わり”だ!」
「救済するぞー! 救済するぞー! 救済するぞー!」やはり、クレイジーだ。
衆議院議員総選挙への出馬
1989年の参院選でマドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てたが、その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩と岐部哲也であった。
しかし結果は惨敗し、当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される。
海外への進出
麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた。1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアやスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)、マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。
1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インド・ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学、京都大学、千葉大学、横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。
オウム真理教放送の開始
ロシアでは、1992年4月1日にオウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語やロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシャ語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される。
一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった。
番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などが放送されたほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた。
1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らの反論が放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「悔いのない死」を呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった。
非合法活動
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件逮捕(拉致)現場
住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。
全ての基点
1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。
坂本弁護士事件と衆議院選の裏側
翌年の選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。
そして1990年、麻原は真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙に出馬。選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビで報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた。
結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌やホスゲンによる無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を指示する。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。
無差別テロ計画
麻原は選挙での惨敗を受け、オウム真理教の国家転覆計画を実行に移し始めた。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならないなどと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。
1990年4月、「オースチン彗星(英語版)が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した。
セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌・ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった。
参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。しかしこのセミナーで多数の出家者を獲得し、選挙での惨敗後に脱会者が続出した教団を蘇生することには成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった。
オウム真理教は反社会反国家である。麻原の命令の元、オウム真理教は武装化、宗教の名のもと信者に覚せい剤を投与、毒ガス兵器である「サリン」を製造した。
サリン生成(土谷正実・故人)、噴霧車製造(林泰男・故人)、実行犯(村井秀夫(故人)、新実智光(故人)、遠藤誠一(故人)、中川智正(故人)、富田隆、端本悟・故人、中村昇)
1993年頃はオウム真理教の科学部が例の「ヘッドギア」をつくってテストをしていた。
緑のサマナ服の村井秀夫は「どうですか?」と道場で聞く。
白いサマナ服の鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)は「これ、痛いし熱いし…」
「俺ら茹蛸にするつもり?」
「やはり化学班のつくるものは駄目だなあ」
村井は「3万人成就まで時間がない」という。この頃、土谷正実は麻原に命じられ、秘密裏にガスマスクをしながらサリンを生成していた。劣悪な滅菌室で、ガスの成分で、何度か部下も倒れ死にそうになったという。奇怪な組織であった。解脱に至る為の第一段階はお布施の極限。自分の財産は1円に至るまでお布施する。麻原の髪の毛が3000円、麻原の血を飲む「血のイニシエーション」の儀式が100万円。全てが「お金」。邪魔なものは「ポア」=「殺害」「抹殺」…。その第一到達が「長野県松本サリン事件(1994(平成6年)6月27日)」である。裁判官たちの官舎にむけて深夜、噴霧器車でサリンを撒いたのだ。
化学兵器による初めてのテロ事件であった。
当時はオウム真理教のテロというより、近所の河野さんが疑われた。しかし、とんでもない間違いで、河野さん自身も被害にあい、奥さんも毒ガスの為「植物状態」になり数年後に亡くなっている。すべてはオウム真理教、松本智津夫のせいである。
鈴木麗子(深山織枝・仮名)はオウム真理教がやったとはわからなかったが「オウム真理教を脱会したい」と麻原彰晃(本名・松本智津夫)につげたという。
麗子は「ニューナルコを受けました」
佐藤は「ニューナルコ?」
早坂は「ヘッドギアをして記憶を消すために何度も注射を受ける事。彼女、いろいろ知っちゃってたんだろうね」
麗子は「医師免許をもつ林郁夫さんが横たわる私の腕に「ちょっとチクっとしますよ」と何度も注射を打って…。だからそこらへんの記憶がほとんどないんです」
早坂は「僕らその頃に車の中でふたりっきりで話すようになって。「松本サリン事件はアルマゲドンの前兆だ」なんて壁紙みて。なんか怖いね。オウム真理教って怖いねって」
麗子は「それで「買い出しに行ってくる」っていって私たちはサティアンを車で出て…でそれっきり教団とは離れました」
佐藤は「そして「地下鉄サリン事件」が起こった?」
そうオウム真理教は1995年「地下鉄サリン事件」を起こした。事件というよりテロである。地下鉄の丸ノ内線などの霞が関駅近くで、実行犯の林郁夫・林泰男・広瀬健一・横山真人・豊田亨らが、新聞にくるんだビニール袋入り液体サリンを混雑する列車内部で床にそっと落とし、先の尖った傘で袋を突き、逃げ去り、大量殺戮を犯したのだ。
実行犯を突き動かしたのは「救済の為ならポアしても構わない」という麻原彰晃の教え、であった。(指示・指揮、松本智津夫(故人)・村井秀夫(故人)・井上嘉浩(故人)、サリン生成、中川智正(故人)・土谷正実(故人)・遠藤誠一(故人)・菊池直子、実行犯、林郁夫(送迎・新実智光(故人))・林泰男(故人)(送迎・杉本繁郎)・広瀬健一(故人)(送迎・北村浩一)・横山真人(故人)(送迎・外崎清隆)・豊田亨(故人)(送迎・高橋克也))
麗子は「そうです。ふたりであの仮屋でテレビで観て…そして麻原さんが逮捕されて」
佐藤は「でも、本当におふたりは何もしらなかったんでしょうか? サリン造ってるとか? 武器造ってるとか? われわれ警察よりマスコミの方が詳しい程ですよ」
麗子は「今となっては何とも…でもオウム真理教は…オウム真理教は間違いだった」
早坂は「そう間違いだった」
麗子は「そう。間違いだったと思います。被害にあわれた皆様ごめんなさい」
ふたりは泣き崩れた。そして麻原彰晃らの死刑執行……
「麻原彰晃尊師が……死刑執行? やはり、オウム真理教は間違いだった」
それはどんな涙であったのか、今となっては確認のしようがない。
第二部(ドキュメント部) オウム真理教事件後25年目の真実 『麻原彰晃ら死刑執行』でわかった最新の真実!!ここまでわかったオウム真理教の闇と全内幕!
これがオウムVS警察だ!
「死刑が確定した教団元幹部13人」
松本智津夫(63)教祖名・麻原彰晃 2006年9月15日(死刑確定日)松本弁護士一家殺害・松本サリン・地下鉄サリン・仮谷さん監禁致「死刑執行」
岡崎(宮前)一明(57歳) 2005年4月7日 坂本一家殺害 「死刑執行」
横山真人(54歳) 2007年7月21日 地下鉄サリン 「死刑執行」
端本悟(50歳) 2007年10月26日 坂本一家殺害・松本サリン「死刑執行」
林(小池)康夫(60歳) 2008年2月15日 松本サリン・地下鉄サリン 「死刑執行」
早川紀代秀 (68歳) 2009年7月17日 坂本一家殺害「死刑執行」
豊田亨(50歳) 2009年 11月6日 地下鉄サリン 「死刑執行」
広瀬健一 (54歳) 2009年11月6日 地下鉄サリン 「死刑執行」
井上嘉浩(48歳) 2009年 12月10日 仮谷さん監禁致死・地下鉄サリン「死刑執行」
新美智光(54歳) 2010年1月19日 坂本一家殺害・松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
土谷正実(53歳) 2011年2月15日 松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
中川智正(55歳) 2011年11月18日 坂本一家殺害・松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
遠藤誠一(58歳) 2011年 11月21日 松本サリン・地下鉄サリン「死刑執行」
傷跡残したオウム真理教
オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚 (63歳)の死刑が執行された(2018年7月6日・金曜日)。1995年に松本死刑囚が逮捕されてから 23年。地下鉄・松本サリン事件など27人の死者や、6000人以上の負傷者を数えた一連のオウム事件とはなんだったのか?判決公判証言などから松本智津夫死刑囚と裁判の経緯を振り返る。
化学兵器を使って大都市の真ん中で敢行された無差別テロ。若者を凶悪犯罪に巻き込んだマインドコントロール。20世紀末に社会を根本から揺るがしたオウム真理教事件では、死刑判決13人を含め、190人の有罪が確定した。なぜこれほどまで、多くの信者が、理不尽な犯罪に手を染めたのか。なぜ悪魔「麻原彰晃」にだまされたのか ?答えを語らぬまま教祖の死刑は執行された(教祖の遺体は荼毘にふされ四女に渡されて、遺骨は粉状にされて海に蒔かれたという。墓を作れば聖域化・神格化されるからだ)。「真実を語る機会が失われ、多くの闇が残されてしまった。」死刑執行に対してその指摘もある。果たしてそうだろうか?「私は『すべきではない』といった」(坂本堤弁護士一家殺人事件)。「(弟子たちに)ストップを命じたが、負けた形になった。」(地下鉄サリン事件)。「殺害を指示していない、弟子たちが勝手にやったと思われる。」(元信者殺害事件。)
松本死刑囚は一審の途中から意味不明の言動を繰り返した。「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ……」沈黙し、被告人質問に応じなかった。冗舌に無罪を主張していた時期もあった。松本死刑囚を沈黙に追い込んだのは、教祖の指示を明言した、かつての弟子たちだった。井上嘉浩死刑囚(48歳)はリムジンの中で松本死刑囚が「サリンでないとだめだ」と、サリン散布を命じた場面を明らかにした。自分に不利な証言をする井上死刑囚を前に、松本死刑囚は「反対尋問を中止していただきたい」と訴えたが、尋問は続行された。それでも、本人の口から真実を語ってほしい。一片でも謝罪の言葉を聴きたい。そう願う人たちが、法廷で松本死刑囚に必死に迫った。「何の目的でそんなことしたのか ?」サリン事件で被害者の男性は追及した。中川智正死刑囚(55歳)は「サリンを作ったり、人の首を絞めるために出家したんじゃないんです」と泣き崩れた。裁判長は「多くの被害者や弟子が、あなたの供述を望んでいるが、それでも、話しをしようとはと思いませんか?」と問いかけた。
だが、沈黙を続ける松本死刑囚が、言葉を発することはなかった。一審判決が、「刑事責任を逃れをとする態度に終始している」。「今では、その現実からも目をそむけ、閉じこもって隠れている」と断罪したのは頷ける。起訴された信者の多くは、マインドコントロールの呪縛から解き放たれ、人間性を取り戻した。救済を求めて入信した若者たちが、狂信的な教義に絡めとられ「ポア」と称して、平然と人を殺害するまでになる「カルトの恐ろしさ」を示したことは大きな教訓といえる。地下鉄でサリンをまいた広瀬健一死刑囚(54歳)は「独占的な教義にとらわれ、被害者の生命、人生、生活の大切さに気付かずに奪ってしまったことは人間として恥ずかしい限り」と記した。
最初に死刑が確定した岡崎(宮前に改姓)一明死刑囚(57歳)は現役信者に「 1日も早く目を覚まして、麻原から離れてもらいたい」と訴えた。
オウム真理教は特定の時代と世代を反映したからこそ、「大教団」となり「大事件」を起こしてしまった。高度経済成長と団塊の世代にとっての、連合赤軍事件と似ている。
好景気の下、世間の軽さについて行けず、引きこもりにもなれない若者たちは、次々とオウムに吸い込まれた。松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の「カリスマ性」と「教団幹部の能力の高さ」もあった。
オウムは 70年代頃以降の若者に定着したSFやオカルトの文化をバックボーンの一つとしていた。この時期から20世紀末までに大人になったひとはだれもが 「1999年に世界が滅亡する」という「ノストラダムスの大予言」を見聞きした覚えがあるはずだ。オウム真理教は、こうした、「終末思想」をことごとく利用した。オウム真理教の信者たちが「世紀末の世界を救う」という麻原の教え。「オウム信者だけが世界を救う」という終末思想。救済などの名の下に日本国や世界を支配して、王となることを夢見た麻原彰晃。
麻原彰晃(本名・松本智津夫)は、 1955年3月熊本県八代市に生まれた。生まれつき目が悪く、盲学校を卒業。上京後の82年ごろから仏教やヨガに傾倒して、「麻原彰晃」の教祖名を名乗り、 80余年には「オウム神仙の会」を設立した。85年には空中浮遊する写真が雑誌で掲載されるなど、「だれでも修行すれば超能力者になれる」と説いた。87年団体名を「オウム真理教」に変更し、自らをオウムの主宰神であるシヴァ大神とコンタクトをとれる「グル(尊師)」と称した。教団には、超能力や、死後の世界に関心をいだいたり、社会に不満を持ったりした若者が引き寄せられ、 88年までに出家信者は百人から二百人。在家信者は 3000人から4000人に達したとされる。100万円以上を寄付した信者に、教祖の血をのませる「血のイニシエーション」を施すなど、資金集めも活性化した。そうした中、教団は陰惨な事件を次々と起こした。信者の親たちが、坂本堤弁護士(当時33歳)らの支援を得て、「被害者の会」を結成した。それに危機感を持った松本死刑囚は、教団幹部らに「今、ポア(殺害)しなければいけない人物」として、坂本弁護士を名指しした。オウム信者によって、松本弁護士一家は殺害され、山に埋められた。なぜ「高学歴のもの」までもが、悪魔・麻原彰晃にだまされたのか?競争に負けた学歴エリートや、知識だけのエセエリート……それらがオウム真理教の知識人の正体であった。エリートも多かった、オウム真理教の信者は「こんなはずではなかった」感を抱いているだろう。もちろん、オウムの信者の枠中には、認知症の老人や、発達障害や障害者の人々や、若者、弱い立場の若者、も多かった。
宗教が広まる一つの背景には「貧困、病気、家庭不和」があり、「社会の中で地位を得られなかった者」が「宗教組織の中で地位を得ようとすることに意味を見いだす」、という部分もある。それがカルトというものだ。死刑囚となって死刑執行された信者や、死刑をまつ元信者らは、まさしく不幸だ。が、悪魔「麻原彰晃」にだまされたことは自業自得というか、本人たちの認識の甘さがあった、ことは、否定できない。「死刑にしてしまうと事件の動機が永久に解明されない」という考えもあろうが、松本死刑囚がいったいどういう真相を隠して、死刑執行されたとでも言うのだろう?
死刑執行は当たり前だが、あまりにも時間がかかり過ぎた。
オウム真理教
略称 オウム、オウム教
設立年 1989年8月29日
設立者 麻原彰晃
廃止年 2000年2月
種類 宗教法人
目的
主神をシヴァ大神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、パーリ仏典を基本としてシヴァ大神の意思を教学し実践する者の指導のもとに、古代ヨガ、ヒンズウー教、諸派大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要なワークを行う。/教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制政治体制を我が国に樹立すること。
本部
日本の旗 日本
東京都江東区亀戸(登記上)
山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)(実質)
静岡県富士宮市(実質)
東京都港区南青山(実質)
メンバー
最盛期
日本:15000人
ロシア:35000人
関連組織
真理党
ウェブサイト
閉鎖(インターネットアーカイブ)
新興宗教の団体
青山総本部(東京・南青山、1994年、2015年4月解体)
オウム真理教(おうむしんりきょう)は、かつて存在した麻原彰晃を開祖とする新興宗教。日本で初めて化学兵器のサリンを使用し、無差別殺人を行ったテロ組織でもある。
概説
教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)はヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができるなどと言って若者を中心とする信者を多く獲得した。マスメディアではオウム真理教出家者が理系の高学歴者ばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、多くの宗教団体にありがちなように、実際は社会で普通に生きてゆくことに疑問を感じたり社会に居場所をなくした人たちや、DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害を持つものなども多く、こうした社会的弱者の構成員も多かった。
教義的にはヒンドゥー教や仏教といった諸宗教に合わせ、ノストラダムスの予言などのオカルトもミックスした独特のものとなっていた。当初はヨーガのサークルに過ぎなかったものの次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産を布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者が判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法、行政、警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(「オウム真理教事件」)を起こしたほか、自動小銃や化学兵器、生物兵器、麻薬、爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた。
1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephと改称され、また別の仏教哲学サークルひかりの輪が分派した。
名称
命名には京都の私立探偵目川重治が関わっている。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。
「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機とオームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めた。
時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳しくは目川重治#オウム真理教を参照)。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする。
さらに「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「唵」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」、すなわちすべては変化するものであるということを表している。
また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦やイエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教や原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学であるという。
沿革
前史
ヨーガ教室
1984年(昭和59年)、超能力開発塾「鳳凰慶林館」を主宰していた麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。当時はアットホームなヨーガ教室で、この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。
合法活動
オウム神仙の会からオウム真理教へ
1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。
「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った。宗教化で会員の三分の一が脱会した。
1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。
同年にはサンデー毎日で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判、オウムバッシングが始まった。
ダライ・ラマを利用した宣伝
麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世とインドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタを持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。
ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝に利用していたが、事件後はマスコミの取材に対して軒並み深い関係を否定している。
1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している。
麻原の健康不安と死への願望
1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変や肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという。3女松本麗華は、この頃から「麻原の死への願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている。
1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。
この中で土谷正実、中川智正、滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。
また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。
この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった。中川智正によると、この被害妄想は1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという。
洗脳の強化
過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件、男性現役信者リンチ殺人事件、逆さ吊り死亡事件などが発生した。
1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200~300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた。
また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。
洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている。「麻原彰晃尊師が世界を救う!アルマゲドンから人類を救う!」
「君たちは騙されていたんだ!」
「黙れ! オウムの敵の警察め!」「引っ込めー!」
「救済するぞー! 救済するぞー! 救済するぞー!」クレイジーな麻原チルドレン。
省庁制発足と松本サリン事件
1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。
3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。
同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。
戦いか破滅か
1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。
「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致・監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件、宮崎県資産家拉致事件、鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。
さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」、「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
サリン事件は、オウムである
松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。
だが麻原は1995年1月17日の阪神淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。
地下鉄サリン事件と強制捜査
しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日に地下鉄サリン事件を決行。12人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。
ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある。
「しかし……地下鉄でサリンをまいたら……」
「なにを情けないことをいうんだ!ハルマゲドンまでもう時間がないんだ!オウム真理教信者がハルマゲドンのとき全人類を救済するんだ!そのための一歩じゃないか!!」
いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。
強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。
強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩、中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。
1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
鈴木麗子「そのときは香川さんや沢田さんたちが焼かれているとは気付かなかったんです。殺されていたなんて。自殺か病死かして死んだんだと。ポアしてもらったのかと」
佐藤は反発した。「ひとを殺すことが修行なんですか?それって宗教なんですか?!」
早坂は割って入った。「だからね、佐藤さん。それは「結果論」でしょう?彼女をせめたって麻原さんじゃないんだから何も出てこないでしょう?」
3人は佐藤良夫の車で、山梨県上九一色村近くの湖畔にきていた。
「わあ、懐かしい」
「サティアンはもうないけど懐かしいなあ」
麻原(テープの声)「このAさんを殺したという事実をだよ。他の人たちが見たらば、人間界のひとが見たらば、これは単なる殺人と。いいかな?客観的に見たらばこれは殺生。しかし、ヴァジラヤーナの考えの背景にあるのはポア、立派なポアだよ」
麻原はポアとヴァジラヤーナを殺人をためらう弟子たちに教えた。
麻原は「救済のためなら人を殺してもいい」と教えた。
(香川さん殺害後の説法テープ)麻原「例えばこれは仏陀釈迦牟尼(ぶっだしゃかむに)の前世の例だね。大きな船に300人の貿易商が乗っていて、その中のひとりが大変に悪い心とカルマ(悪業)を持っていて船のみんなに迷惑をかけて、殺して商品をすべて自分のものにしようとした。そのとき、はい。仏陀釈迦牟尼はどうしたか?その悪いカルマを持った極悪人をどうしたか?」
「注意した?」
「先生の本を読ませる?」
「脅す?」
麻原「なるほどねえ。カマラ大師は?」
「色々だます?」
「ポアさせる?」
麻原「ポアねえ。いいけど、ちょっとちがうねえ。もう少し修行して熟考してみようか」
佐藤は「このときのポアとは殺人の意味ですよね?」と麗子にきいた。
まだ湖畔で午後であった。3人以外誰もいない。
「いいえ。それは誤解です。ポアとは心を清らかにして極楽浄土に天昇させるものです」
「じゃあ、ポアとはありがたいことですか?」
「そうです。とてもありがたいことです」
「なら隠す必要ないじゃないですか?」
「それは……」鈴木麗子(NHKでは深山織枝)も早坂 武禮(はやさかたけのり・仮名)も言葉を切った。まあ、騙された方も悪い。だが、一番の悪は金と権力欲に取りつかれた麻原彰晃(本名・松本智津夫)である。
佐藤はひとりで警視庁本社に戻り、屋上でタバコをふかしながら麻原の説法のテープを、時代遅れのウオークマンで聴いていた。
上司の野田部長がきた。「おう、佐藤やってるな」もう夜中である。「本当は禁煙だぞ」
「部長、オウムの元信者は何故かオウム真理教の暴走の話になるとオウムを庇うんです。何ていうか……そう「ピュア(純粋)」なんです」
野田部長は深刻な顔をして、
「いいか?佐藤。お前オウムに寄り添い過ぎてないか?オウムの被害者は2度地獄を味わったんだ。1度目は家族を殺されて、2度目は何もわからず裁判が終わった(3度目は麻原彰晃たちの死刑執行ということ)」
「……そうですが」
「テロリスト集団に広報部とはいえ警察官が同情してどうする?お前もサリンまいたり警察庁長官を狙撃するか?」
「いいえ……只、自分はオウムの真実が知りたいんです」
「ミイラ取りがミイラになるなよ」
「はい」佐藤は身の引き締まる思いであった。
あれから30年以上。1989年オウム真理教の被害者の弁護にあたっていた坂本堤弁護士一家を邪魔なものとして、オウムは拉致(1歳の子供・龍彦ちゃんまで)、殺害して山奥に遺体を埋めた。実行役は村井秀夫(故人)、中川智正、早川紀代秀、端本悟、岡崎一明、新実智光。現場で白いオウム真理教のバッチが見つかる。が、麻原らがメディア・スクラムを受けるが麻原達は一貫して容疑を否認した。
マスコミ「麻原さん、現場にオウムのバッチ(プルシャ)が落ちていたって、それでもやっていないというんですか?」
麻原「じゃあ私がいおう。証拠を出しなさい!証拠を出しなさい!」
1990年(平成2年)には麻原彰晃(本名・松本智津夫)や新実智光や鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)も選挙に出馬。全員落選。坂本弁護士一家を殺害して2か月後に何知らぬ顔で選挙出馬であった。麗子(織枝)は坂本弁護士殺害を知らなかった。
♫しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー あ・さ・は・ら・しょ・う・こ・う
(『♪尊師マーチ』作詞作曲ホーリーネーム・カッサパ(カッサパは現在行方不明))
麻原は敗戦の弁「これはおかしい。全員落選するはずがない。これは惨敗だと。これは「国家の陰謀」に違いない。これからオウム真理教がどぶ川の中の蓮華のように咲くためには国家警察、社会、反社会であり困っている人々を救済していくのだと…」
「オウム真理教は陰謀にかかった!アルマゲドンで全人類を救済する我々が負けたら“世界の終わり”だ!」
「救済するぞー!救済するぞー!救済するぞー!」やはり、クレイジーだ。
海外への進出
麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた。1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアやスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)、マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。
1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インド・ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学、京都大学、千葉大学、横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。
オウム真理教放送の開始
ロシアでは、1992年4月1日にオウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語やロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシャ語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される。
一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった。
番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などが放送されたほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた。
1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らの反論が放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「悔いのない死」を呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった。
非合法活動
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件逮捕(拉致)現場
住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。
全ての基点
1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。
坂本弁護士事件と衆議院選の裏側
翌年の選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。
そして1990年、麻原は真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙に出馬。選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビで報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた。
結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌やホスゲンによる無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を指示する。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。
無差別テロ計画
麻原は選挙での惨敗を受け、オウム真理教の国家転覆計画を実行に移し始めた。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならないなどと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。
1990年4月、「オースチン彗星(英語版)が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した。
セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌・ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった。
参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。しかしこのセミナーで多数の出家者を獲得し、選挙での惨敗後に脱会者が続出した教団を蘇生することには成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった。
オウム真理教は反社会反国家である。麻原の命令の元、オウム真理教は武装化、宗教の名のもと信者に覚せい剤を投与、毒ガス兵器である「サリン」を製造した。
サリン生成(土谷正実・故人)、噴霧車製造(林泰男・故人)、実行犯(村井秀夫(故人)、新実智光(故人)、遠藤誠一(故人)、中川智正(故人)、富田隆、端本悟・故人、中村昇)
1993年頃はオウム真理教の科学部が例の「ヘッドギア」をつくってテストをしていた。
緑のサマナ服の村井秀夫は「どうですか?」と道場で聞く。
白いサマナ服の鈴木麗子(NHKでは深山織枝・仮名)は「これ、痛いし熱いし…」
「俺ら茹蛸にするつもり?」
「やはり化学班のつくるものは駄目だなあ」
村井は「3万人成就まで時間がない」という。この頃、土谷正実は麻原に命じられ、秘密裏にガスマスクをしながらサリンを生成していた。劣悪な滅菌室で、ガスの成分で、何度か部下も倒れ死にそうになったという。奇怪な組織であった。解脱に至る為の第一段階はお布施の極限。自分の財産は1円に至るまでお布施する。麻原の髪の毛が3000円、麻原の血を飲む「血のイニシエーション」の儀式が100万円。全てが「お金」。邪魔なものは「ポア」=「殺害」「抹殺」…。その第一到達が「長野県松本サリン事件(1994(平成6年)6月27日)」である。裁判官たちの官舎にむけて深夜、噴霧器車でサリンを撒いたのだ。
化学兵器による初めてのテロ事件であった。
当時はオウム真理教のテロというより、近所の河野さんが疑われた。しかし、とんでもない間違いで、河野さん自身も被害にあい、奥さんも毒ガスの為「植物状態」になり数年後に亡くなっている。すべてはオウム真理教、松本智津夫のせいである。
波野村の攻防
1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また右翼団体なども扇動され激しい攻防があった。
そして1990年10月、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件で強制捜査を受け、早川紀代秀、満生均史、青山吉伸、石井久子、大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。
後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。
武装化の中断、妄想・幻聴の出現
国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)~1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。
だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている」などといった麻原の妄想、幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している。
教団の再武装化
「麻原彰晃#マハーヤーナとヴァジラヤーナ」も参照
1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。
この中で土谷正実、中川智正、滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。
また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。
この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった。中川智正によると、この被害妄想は1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという。
洗脳の強化
過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件、男性現役信者リンチ殺人事件、逆さ吊り死亡事件などが発生した。
1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200~300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた。
また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。
洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている。「麻原彰晃尊師が世界を救う!アルマゲドンから人類を救う!」
「君たちは騙されていたんだ!」
「黙れ!オウムの敵の警察め!」「引っ込めー!」
「救済するぞー!救済するぞー!救済するぞー!」クレイジーな麻原チルドレン。
省庁制発足と松本サリン事件
1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。
3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。
同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。
戦いか破滅か
1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。
「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致・監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件、宮崎県資産家拉致事件、鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。
さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」、「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
サリン事件は、オウムである
松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。
だが麻原は1995年1月17日の阪神淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。
地下鉄サリン事件と強制捜査
しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日に地下鉄サリン事件を決行。12人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。
ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある。
「しかし……地下鉄でサリンをまいたら……」
「なにを情けないことをいうんだ!ハルマゲドンまでもう時間がないんだ!オウム真理教信者がハルマゲドンのとき全人類を救済するんだ!そのための一歩じゃないか!!」
いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。
強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。
強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩、中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。
1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
麻原逮捕後の活動
長老部体制
東京地検は麻原彰晃こと松本智津夫を17件の容疑で起訴した。1996年1月18日時点で、一連の事件に関与して逮捕された信者は403名、そのうち起訴183名。
教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告が、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され、宗教法人法上の解散が確定した。
1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。
破防法処分請求棄却後により教団も活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。
この頃教団は、当時黎明期であったインターネット上に公式サイトを開設 (1999年、休眠宣言により事実上閉鎖。初期版/中期版/後期版)。麻原が毒ガス攻撃を受けていた、坂本弁護士一家殺害事件は弁護士事務所の者が怪しい、だんご三兄弟ヒットはフリーメイソンの陰謀などと主張したり、麻原や上祐が出てくる探索ゲーム「サティアン・アドベンチャー」、オウム×新世紀エヴァンゲリオンの二次創作があったりとやりたい放題の内容であった。さらに一部の熱心な信者は一般人を装って、ネット上にオウム事件陰謀説を流布していた。
休眠宣言
教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。
予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「オウム真理教休眠宣言」、12月1日は「正式見解」を発表し事件を形式的に認めた。
12月1日教団正式見解
9月末の休眠宣言以来、教団として、一連のいわゆるオウム事件に対する見解を発表すべく検討を重ねてまいりました結果、本日以下の見解を発表できる ことになりました。
いわゆるオウム事件に関して、教団として現在まで裁判の進行を見守ってきた結果、当時の教団関係者の一部が事件に関わっていたことは否定できないと判断するに至りました。
長老部のメンバーを代表とする現教団の信者たちにとって、一連の事件は知らないところで起こったこととはいえ、当時の教団にあって同じ団体に属した者 として、現在裁判で明らかになりつつあることが起こったことは大変残念であるとともに、被害に遭われた方々をはじめ、ご家族の方々に対し、心からお詫びを申し上げたいと思います。
(省略)
最後になりますが、現在「オウム新法」といわれる法律が成立しようとしております。わたしたちの関係者が関与した事件によって、憲法で保障された基本的人権を侵害する法律が制定されようとしていることは、大変遺憾なことであり、また国民の皆さまに対して申し訳なく思う次第です。
この法律が、もし成立するとするなら、わたしたち以外の団体に決して適用されることがないよう心から願ってやみません。
— 1999年12月1日 教団代表代行 村岡達子
後継教団
Aleph
2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ」へと名称変更した。同年7月、「アレフ」は破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない。2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した。
分裂
2007年(平成19年)5月には上祐派の信者たちが脱会、新宗教団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は麻原の教えからの脱却を志向していると主張しているが、公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版でもその活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている。
2014年(平成26年)~2015年(平成27年)頃、Aleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成された。
ケロヨンクラブ
1995年(平成7年)のオウム事件後に結成された分派。代表の北澤優子が信者の死亡事件で有罪判決を受けた。
その他
麻原の4女によると、この他にも偽装脱会者が「第二オウム」として陰謀論、占い、スピリチュアル、IT、福祉などを通じ陰の布教を図っているという。
教義
教義の概要
オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教やインド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている。
そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー的宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教の創造主としての神は梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。
従って、オウム真理教に於いては儒教・道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。
具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教の六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする。
また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、麻原が一時はまったというGLAなどの新宗教の経典や出版物、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定ではない。
教義の柱
1995年当時のオウム真理教横浜支部道場
オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。
1.最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
2.無常に基づく正しい教義
3.その教義を実体験できる修行法
4.その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
5.修行を進めるためのイニシエーションの存在
無常
オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望・煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という、仏教の無常観に即した麻原の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべての現象は無常である。よって今感じている喜びはいつか終わりが訪れた時にその喜びが失われることで苦しみを必ず生じさせる。また今は何も無くともいつか自分にとって嫌な現象が訪れた際にも同様に必ず苦しみが生じる。何かを欲求して得られなかった場合も同様に苦しみが生じる。したがって無常である煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。
シヴァ
オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。
輪廻転生
教団では輪廻転生が信じられていた。麻原は自らの出版物を通して、徳川家光、朱元璋など多くの前世を持つと称していた。中でも意識堕落天の宗教上の王は直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている。
詳細は「麻原彰晃#前世」を参照
輪廻転生と関連してカルマの法則も信じられていた。虫500匹を殺すカルマが人1人を殺すカルマに相当する、接触しただけでカルマが交換される、スポーツやグルメを楽しむとカルマを負って低い世界に落ちるなどといった独特の教義があった。
エネルギー
オウムでは霊的エネルギー(気)を実在すると考え、これを強めるためとして様々な修行をしていた。麻原の爪や体毛を煎じて飲んだり、麻原の風呂の残り湯を飲んだりするのも「エネルギー」を高める目的があった。
「エネルギー (オカルト)」も参照
ポア
ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これは実際の生死とは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めて意識を高次元の状態に移し替えることと解釈されていた。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。したがって、死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「積極的に(実際に)死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という特殊な技法も「ポア」と呼ばれることがあり、これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている(※これは、一連の犯行の際に、教団幹部らが教団内部で実際に使用した事例などに基づく解釈である)。
ハルマゲドン
麻原は転輪王経やヨハネの黙示録、ノストラダムス・酒井勝軍・出口王仁三郎らの予言、占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦・ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。麻原によるとハルマゲドンの原因は、キリストと人類の進化を求めるフリーメーソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器やプラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、アニメ・漫画的ともいえるストーリーであった。現代の人類は悪業を積んでいてこのままでは三悪趣に転生してしまうので、ハルマゲドンを引き起こすことも救済であると問いていた。なお麻原は逮捕後の1996年の破防法弁明手続において「1995年11月にラビン首相の暗殺によって世界の首脳がイスラエルに集まったため、これをもってハルマゲドンに集まったというプロセスは終了した」「私たちはハルマゲドンに出会うかもしれない。出会わないかもしれない。ハルマゲドンが起きるなどということはその中でも一言も言っていない」と予言を半ば撤回した。
体系
オウム真理教では、修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗/秘密真言金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。ただし、顕教が大乗を説くのに対して密教は金剛乗(ヴァジラヤーナ)を説くことは多いが、通常の仏教語の定義とは異なる。
ヒナヤーナ
ヒナヤーナ(小乗)とは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。
マハーヤーナ
マハーヤーナ(大乗)とは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、完全なる自己の浄化(ヒナヤーナの完成)がなければ、真の意味でのマハーヤーナは成立しないともいう。オウム出版発行の機関紙の名前にも使われている。
タントラヤーナ
タントラヤーナ(秘密真言乗)とは、マントラを唱える等の密教的な修行を指す。ただし、左道タントラなど、現代日本では非倫理的・非道徳的とされる部分については、教団の公式見解において否定されていた。
ヴァジラヤーナ
「密教」も参照
ヴァジラヤーナ(金剛乗)とは、グルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。『カーラチャクラ・タントラ』などに見られるもので、麻原はカール・リンポチェと会ってからヴァジラヤーナを説くようになったという。警視庁はこのヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈、オウム後継教団は現在もこの教義を根幹に据えていると見ている。ヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあった。 ラトナサンバヴァの法則 - 財は善の為に使用されるなら盗んでも良い
アクショーブヤの法則 - 輪廻に最適なタイミングであれば殺しても良い
アミターバの法則 - 恋愛感情によって真理の実践を妨害している異性は奪っても良い
アモーガシッディの法則 - 結果のためには手段を選ばない
ヴァイローチャナの法則 - 時期尚早として麻原が明かさなかったため詳細不明
これは「一般的な戒律に反する行為・言動」が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。「天界の法則であって人間界においてはなし得ない」という注釈のもとで説かれたこともあった。麻原は真言宗でも同じことを言っているとした。金剛乗とは密教のことを指す。日本に仏教を伝来した真言宗の開祖である空海の時代は、仏教は密教として扱われたこともあり、国内においては狭義の意味では金剛乗は真言宗のことを指す。真言宗のうちもっとも重要な経典の一つである金剛頂経は仏教学的分類においてはタントラ密教経典に分類される。金剛頂経は「金剛頂経瑜伽十八会指帰」にもある通り全十八会からなり、その内初会「真実摂経」のみが日本に伝わっているが、ニ会以降の内容では後期密教との過渡期の内容に踏み込み、上記の五仏の法則に近いと言える内容も実際に存在する。しかしこれはインド仏教がイスラム教と戦争状態にあった時代に、既存仏教伝統に対して向けられたカウンター的な側面をもつものであり、上祐史浩は五仏の法則を現代で文字通り解釈すべきでなかったとしている。
法則
世界観
この世界は、熱優位の粗雑な物質による愛欲界、音優位の微細な物質の世界である形状界、光優位のデータの世界である非形状界が重なり合っているとする。
愛欲界
(現象界、欲界)
形状界
(アストラル界、色界)
非形状界
(コーザル界、無色界)
大到達神智完全煩悩破壊界
(マハー・ボーディ・ニルヴァーナ)
大完全煩悩破壊界
(マハー・ニルヴァーナ)
上位非形状界
(上位コーザル) 非認知非非認知境
無所有境
識別無辺境
空間無辺境
上位形状界
(上位アストラル) 清潔居住天 超越童子愛欲本質神天 中位非形状界
(中位アストラル)
善現象愛欲神天
善安楽愛欲神天
超燃焼愛欲神天
超空間愛欲神天
偉大果報愛欲本質天
美天 総美愛欲本質神天
無量美愛欲神天
かすかな美しさの愛欲神天
美愛欲神天
光天 無量光愛欲神天
かすかな光の愛欲神天
光愛欲神天
神聖天
(梵天) 大神聖天
神聖臣天
神聖代議愛欲神天
神聖衆愛欲神天
戯れ堕落天
(天界) 第6天界(為他神以神通創造欲望満足従事天) 下位形状界
(下位コーザル) 下位非形状界
(下位アストラル)
第5天界(創造満足天)
第4天界(除冷淡天)
第3天界(支配流転双生児天)
第2天界(三十三天)
第1天界(四天王天)
東 - 堅固王国天
西 - 成長天
南 - 統治変化自在天空天
北 - 守庶民外傷天
意識堕落天(阿修羅)
人間界
低級霊域(餓鬼界)
動物界
地獄界
チャクラと五大エレメント
チャクラ(チァクラ)と五大(五大エレメント)の理論を融合した形で導入している。体の上部にあるチャクラほど高い次元につながっているとされた。子供向けの自慰行為防止説法で、麻原は以下のように語っている。
「 心臓と、おしっこするところは、どちらが上かな?もちろん、心臓のほうが頭に近いから、上だよね?体の下の部分に、心が集中するとね、その子は下の世界に生まれ変わるんだって。やだねえ (良い子の真理 3巻) 」
元素
対応する体の構成要素
対応するチャクラ(チァクラ)
色
対応する感覚器官
空
空間(肺など) ヴィシュッダ 青 聴覚
風
呼吸 アナハタ 緑 触覚
火
体温 マニプーラ 赤 視覚
水
血液などの水分 スヴァディスターナ 白 味覚
地
肉・骨 ムーラダーラ 黄 嗅覚
修行法
当初は、専らヨーガの手法を用いた修行が行われていた。その後、本来「秘技伝授」を意味する宗教用語であった「イニシエーション」という言葉を、オウム独自の「解脱者のエネルギーを伝授することで弟子を成就、解脱させる」という意味で使うことで信者を増やしていった。しかし一方で、麻原彰晃は終末思想を煽り、1994年前後には違法薬物や電気による様々な洗脳施策を取るようになった。
詳細は「オウム真理教の修行」を参照
評価
著名人
教団は著名人との交流があったが、事件後は一変して多くの人物がオウム批判に転じている。
雑誌で好意的な対談を行った栗本慎一郎は事件後初めてオウム分析を週刊誌上で行い、オウムと北朝鮮、および世界基督教統一神霊協会との関係を指摘した。
ビートたけしはテレビ番組で麻原と対談し、その後雑誌で再び麻原と対談などしていたが、事件後は否定的な見解を取っている。
麻原の著書『生死を超える』の書評を書き、麻原を修行者として高く評価していた思想家の吉本隆明は、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうとする立場から「オウムの犯罪を根底的に否定する」としながらも、なお「オウム真理教はそんなに否定すべき殺人集団ではない」「麻原は現存する世界有数の宗教家」などと述べた。
『ノストラダムスの大予言』の著者五島勉は、「(ただの新書を)まさかこんなに子どもたちが読むとは思わなかった。なんと小学生まで読んで、そのまま信じ込んじゃった。(略)当時の子どもたちには謝りたい」「一人の変なやつが命令を下して、しかも権力をやっつけるんじゃなくて、自国の国民にサリンをまいたわけでしょう。そこのところが、どう思うも何も間違いです」と答えている。
麻原彰晃や林郁夫らがかつて所属していた阿含宗の教祖桐山靖雄は、信者がオウムに流れていることに対して「あの若造め生意気な」と激怒していた。
宗教学者
作家で宗教学者の島田裕巳はオウム真理教に宗教学の立場から取り組み、好意的な発言をしていたが、地下鉄サリン事件が同教団の組織的犯行であることが発覚するとメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件へのオウムの関与を否定するコメントを出したことで江川紹子、有田芳生、浅見定雄らから批判を受けた。のちにオウムを批判する立場からの著作を出している。
同じく作家で宗教学者の中沢新一もオウムに好意的な発言をし、地下鉄サリン事件後はメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件についてのコメントも批判を浴びた。島田や苫米地英人などが中沢を批判する著作を発表している。
島薗進は、新宗教における「隔離型教団」の代表的な例としてエホバの証人、統一教会、幸福会ヤマギシ会と共にオウム真理教をあげ、他宗教団体と比較した上で、とくに、人生の価値を非常に低く見る点を徹底した教えが説かれていると主張している。自分自身を仏教の系譜上に位置づけ、天皇への崇敬を示すことは全くないが、ハルマゲドンの危機に際し日本主導による未来を説いた。島薗は、オウムに見られる日本中心的な思考については、首尾一貫していないとしている。
上祐史浩と交流のある大田俊寛は、麻原・オウムの思想はロマン主義・全体主義・原理主義・神智学的で、「ユダヤ=フリーメイソンに支配され物欲に溺れ動物化する人々」と「霊的に進化する人々」を二分し、前者を粛清しようとする思想だと分析している。
今日的な影響
オウム真理教の教義は、元となっている宗教教義を誤って解釈したもの、意味を取り違えたもの、都合主義的な拡大解釈などが少なくない。しかし、密教を中心に原始仏教からキリスト教まで幅広い宗教から摂取して、オウム独自の体系化が図られたため、仏教学者やキリスト教神学者を含む宗教学者・宗教家が、事件から二十年を経た今でも論評・批判することは稀である。このため麻原の説教の録音テープや録画映像が、いまだに布教に用いられてアーレフの信者などに信奉されており、マスコミも折りにつけてそれを問題視した報道を行っている。
活動
1989年(平成元年)3月、東京都に対し宗教法人の認証を申請。6月、東京都は受理を保留したため、オウム真理教は鈴木俊一東京都知事を相手取り、行政の不作為の違法確認訴訟を東京地方裁判所に提起した。8月、東京都が宗教法人として認証。
宗教法人規則認証申請書の記載内容
設立1989年8月29日主たる事務所の位置東京都江東区亀戸目的主神をシヴァ神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、真にシヴァ神の意思を理解し実行する者の指導のもとに、古代ヨガ、原始仏教、大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要な業務を行う。規則代表役員は、9人の責任役員の互選により選任され、オウム真理教を代表し、その事務を総理する権限を有する。
責任役員は、信徒および大師のうちから、総代会の決議をへて、代表役員が選任する。
総代会を組織する総代は、信徒および大師のうちから、責任役員会の議決を得て、代表役員が選任する。
信徒とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、代表役員の承認を受けたもの。
大師とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、信徒を正しく指導できると、代表役員が認めたもの。
役員等代表役員:松本智津夫(麻原彰晃)
責任役員:松本知子、石井久子、大内早苗、上祐史浩、都澤和子、飯田エリ子、新実智光、大内利裕
監事:満生均史、別所妙子
本部
オウム真理教教団本部は上九一色村に多数点在するサティアンではなく、富士宮市の教団「富士山総本部」である。 また、東京方面での布教活動の総拠点となったのが東京、南青山の東京総本部である。
日本シャンバラ化計画
麻原は1987年、「日本シャンバラ化計画」を発表した。これによると、ゆくゆくは日本主要都市すべてに総本部を設置しそこから日本全土に布教活動をし、いずれは自給自足のオウムの村「ロータス・ビレッジ」を建設するというものだった。
公称信徒数
特記なければ日本国内のみ。
1985年12月 - 15人
1986年10月 - 35人
1987年2月 - 600人
1987年7月 - 1,300人
1988年8月 - 3,000人
1990年10月 - 5,000人
1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
1997年 - 1,000人
1999年 - 1,500人
(以降は後継団体)2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
2002年 - 1,650人
2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)
2005年 - 1,650人
2008年 - 1,500人
2009年 - 1,500人(Aleph出家450人、在家850人。ひかりの輪出家50人、在家150人)
2011年 - 1,500人
2014年 - 1,650人
2016年 - 1,650人(出家300人)+ロシア460人
信者
教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。
このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた。黒信徒の入会金は信者の家族や知人が代わりに払っていたので一応信徒としてカウントし水増ししていた。
オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった。
修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期によるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。(詳細はオウム真理教の階級を参照)
オウム真理教幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫、土谷正実、遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸、公認会計士資格を持つ柴田俊郎、医師免許を持つ林郁夫や中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。
他にも建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀、山形明など自衛隊員、松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也、彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチームの鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。
以下に示すのはオウム真理教の雑誌ヴァジラヤーナ・サッチャが1995年6月28日(強制捜査・オウム事件発覚後)に行った出家修行者対象のアンケートデータである。
旧・青山総本部(東京・南青山、2011年)性別 男 459人(41%)女 661人(59%)計1120人
年齢 平均 30.1歳最多 26歳(102人)
他の宗教団体への入信経験 あり 35%なし 65%
学歴 大卒 37.8%短大卒 7.0%専門学校卒 16.7%高卒 25.2%
入信動機 1位 本を読んで 273人2位 勧誘 171人3位 出家者・修行者の姿を見て 61人4位 教義に納得して 52人
訴訟・嫌がらせ
教団には弁護士青山吉伸がおり、批判に対し多数の訴訟を乱発していた。毎日新聞、西日本新聞、熊本日日新聞など初期からオウム報道をしていたマスコミも訴訟のターゲットとなり、事件発覚までマスコミがオウムへの追及を敬遠する一因となった。
さらに敵対者や脱会活動に対しては、
ビラまき - 毎日新聞社の入るビルを25分の間にビラで埋め尽くしたこともあった
通勤経路にオウムのポスターを貼る
車を並べる
無言電話
梵字による仄めかし
盗聴
街宣
オウム真理教の音楽を流す
などの嫌がらせを行い、これらはエスカレートし数々の襲撃事件に至った。
国外での活動
1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシアを初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイやロシア連邦首相のヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。
このためオウム事件後、実はオウムはロシアや北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」「(事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している。また新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している。
2018年、ロシアのオウム真理教の中心人物とされるミハイル・ウスチャンツェフ容疑者が逮捕された。
事業
オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設、不動産、出版、印刷、食品販売、飲食業、家庭教師派遣、土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた。95年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク→PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した。
様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった。
コンピューター関係マハーポーシャ
マハーポーシャ・オーストラリア
マハーポーシャ・台湾
マハーポーシャ・ウクライナ
APC名古屋
CPUバンク
真愛、ヴァンクール - コンピュータソフトウェア企画設計
ポセイドン - PCショップ「トライサル」、PC部品卸会社「ハイバーシティ」を経営。なお、「ハイパーシティー」は地下鉄サリン事件遺族高橋シズヱの住むマンションに店舗があった
オリエントエンジニアリング - PCショップ「PCバンク」「PC REVO」を経営
ナスカ - 広告代理業、情報処理サービス
飲食業オウムのお弁当屋さん
うまかろう安かろう亭
うまかっちゃん
運命の時
出版オウム出版
なあぷる- オウムとの関係を否定し滝本太郎に抗議した
巧人館
その他株式会社オウム - オウム神仙の会設立の年である1984年の5月28日に設立。出版業の他、ヨガ教室を開催したりしていた。土地購入のダミー会社としても使用し、これが松本サリン事件の一因となる
ドゥプニールミリオネール - ロシア射撃ツアーを企画。越川真一が代表。後に株式会社アレフとなる(びっくりドンキーを経営するアレフとは無関係)神聖真理発展社 - 資産隠し目的
マハーサンパッティ - 1992年1月24日設立。宝石屋、弁当屋、テレクラを経営
アルス総合建築事務所
アルファ企画家庭教師派遣グループ
M24 - スーパーマーケット
マイトリーバ・ベビーシッター - ベビーシッター派遣会社。二ノ宮耕一が代表
ファインウォーター - 浄水器販売
シーディーコレクター
日本健康クラブ - 化粧品・医薬品・食料品販売
セシン - 建設業の人材派遣
ドンファン - テレクラ
スーパースターアカデミー(SSA) - エアロビクス教室。鹿島とも子が校長
ヴァジラクマーラの会 - 美人信者による修行教室
エ・ヴェーユ - 大阪に設立した能力開発塾。派手な化粧をした女性信者で勧誘していた
偽装サークル日本印度化計画 - 1994年の早稲田大学学園祭に出店。筋肉少女帯の同名の曲や日本シャンバラ化計画との関係は不明
近未来研究所、ヨーガ同好会、中国武術研究会、インド化計画―カレー研究会 -1994年設立の大学ダミーサークル
アクエリアスプロジェクト21、マイブーム研究会 - 東京大学
新世紀CIRCLE - 京都大学
薬品・武器関連のダミー会社長谷川ケミカル - 1993年4月2日設立。長谷川茂之が社長。サリンなどの原料の調達が目的
株式会社ベル・エポック - 1993年8月4日設立。社長・目的は長谷川ケミカルと同じ
ベック株式会社
下村化学
ぶれーめん - 井上嘉浩が役員。パイナップル加工会社とのことだったが実際には細菌プラントをつくろうとしていた
オウムプロテクト - ロシアに設立した警備会社
サンプラン - 薬品を隠す倉庫を借りていた
不動産取得目的のダミー会社ジェービーテレコム有限会社
世界統一通商産業 - 早川紀代秀が代表
他にもスリランカの紅茶園などを経営していた。
教団での麻原の絶対性
信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている。幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという。さらに麻原含めた上司の指示は説明無しに従わなくてはならなかったため、信者はいつの間にか事件に関わっていたということが度々あった。
公安調査庁は信者の証言を引用して「正悟師以上になると尊師のロボット」「形式上はピラミッド形組織だが基本的には尊師と信徒は1対1の関係」としている。
オウム真理教「死刑囚」プロフィール
麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名: 松本 智津夫〈まつもと ちづお〉
1955年〈昭和30年〉3月2日 - 2018年〈平成30年〉7月6日)は、熊本県出身の日本の宗教家、テロリスト。宗教団体オウム真理教の元代表・教祖。日本で唯一の「最終解脱者」を自称していた。一連のオウム事件を起こし、1995年(平成7年)5月16日に地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕、1996年(平成8年)3月27日に警視庁本庁舎から東京拘置所に移送され、2006年(平成18年)に死刑確定、2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行された。
1996年(平成8年)6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。その後、2000年(平成12年)にオウム真理教は宗教団体「アレフ」(現:Aleph)に改組され、Alephにおいての公式呼称は「旧団体代表」とされた。
経歴 成人前 松本智津夫
1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目の視力は1.0程度だった。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった。藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのではないか」という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという。
祖父は熊本県出身の日本人警察官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた。麻原の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面で生まれ、終戦後、共に朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。盲学校の教諭も見たことがないほどの非常に貧しい家だった。両親は働きづめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った。智津夫はいたずらっ子で農機具を盗んだり壊したりしていた。その度に兄や姉から尻を叩かれたり外に放り出されていた。テレビアニメが大好きで、視聴中は智津夫が尊敬していた長兄にもチャンネル権を譲らなかった。
盲学校
1961年(昭和36年)4月、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、転校の際には泣いて嫌がったという。近所では「口減らし」ではないかと噂が流れた。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。
盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配、全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、全盲の生徒相手に落とし穴を仕掛けたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていたという。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」と言った。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」と語ることもあった。凶暴なので退学させろとの声も出ていた。金への執着が強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。
一方、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述べている。
成績は中程度であったが、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を目指すが当時は視覚障害者では医師免許が取れなかったこともあり諦め、高等部専攻科に進学する。
体格が良く、当時の教師によると高等部3年の時には身長175センチ体重80キロはあり、部活動は柔道に打ち込んだ。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。
毛沢東や田中角栄などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の自民党の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。なお、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している。後の真理党の時のように先生の陰謀だと言い出したこともあった。19歳の時には盲学校の自治会で破壊的な主張を繰り返し、大混乱に陥れた。
1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。
成人後 結婚
東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る。1976年(昭和51年)1月、熊本市春日(現在の同市西区春日)に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める。鍼灸は上手だったとの患者の証言がある。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町(現在の同市中央区黒髪)に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける。この頃既に「弁護士か宗教家になりたい」と語っていた。
1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール(東京都渋谷区)に入学したが、東大受験は3度諦めている。広瀬健一によると麻原がこれを挫折と捉えていたかは不明で、自動小銃密造事件の際には広瀬らに大学受験の思い出を楽しそうに自分語りしたという。また、理系学問に興味があった。英語や中国語も独学でやっていた。
1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。
この頃、鍼灸師として「病気の人を完治させることができない、無駄なことをしているのではないか」と悩み、無常感を抱き、四柱推命や気学を研究し始める。だが運命を知っても運命を変えることはできないと考えて見切りをつけ、台湾鍼灸、漢方、断易、六壬を経て、奇門遁甲と仙道にたどり着き、神秘体験を経験する。さらなる修行を求めて以前は嫌いだったという宗教に近づき、GLAの高橋信次の書籍、中村元や増谷文雄の翻訳仏典により、阿含経そして阿含宗に出会う。
薬事法違反で逮捕
1980年(昭和55年)7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。同年8月25日(25歳)、根本仏教系の新宗教団体阿含宗に入信。
1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」を開局、1982年(昭和57年)に無許可の医薬品を販売し四千万円を稼いだものの、「効き目がないどころか下痢をした」などと告発され同年6月22日に薬事法違反で逮捕、20万円の罰金刑を受ける。
妻の松本知子は、3女の松本麗華によれば、1982年に麻原が薬事法違反で逮捕されたことや、宗教にのめり込み家に戻らなくなったことなどが原因で、許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、神経症に罹ったと告白(自著『転換人生』にも書いている)。その後、対人恐怖症・外出恐怖症を発症、強迫神経症もひどくなる。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。夫婦喧嘩の末に家出をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、3姉妹の中で知子についていくものはなく、気の毒に思った3女の麗華が何度か家出について行った。
オウム真理教 オウム神仙の会
1982年(昭和57年)、経営塾などをやっていた人物である西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい、「松本彰晃」を名乗る。
1983年(昭和58年)夏(28歳)、身体を清浄なものとする阿含宗の教義などが、本来の阿含経とかけ離れていると感じ脱会。東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める。「麻原彰晃」には「アシュラ・シャカ」という意味が込められている。
1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立。石井久子によると、当時の麻原は中性的なヨーガの先生といったところで、宗教的な感じはせず命令するタイプでもなかった。
1985年(昭和60年)、神奈川県の三浦海岸で修行中に「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたという。秋には空中浮揚したと称する写真が雑誌『ムー』『トワイライトゾーン』に掲載された。
1986年(昭和61年)4月、税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。すでに「武力と超能力を使って国家を転覆することも計画している。その時は、フリーメーソンと戦うことになるだろう」などと語っていたという。
早川 紀代秀(はやかわ きよひで)
(1949年7月14日 - 2018年7月6日)は、元オウム真理教幹部。元死刑囚。ホーリーネームはティローパ。教団内でのステージは正悟師で、省庁制が採用された後は建設省大臣だった。麻原の信頼が厚く、裏のトップといわれた。
人物
兵庫県川辺郡東谷村(現・川西市)に生まれる。その後大阪府堺市に転居し、大阪府立三国丘高等学校を経て神戸大学農学部に進学後、大阪府立大学大学院では緑地計画工学を専攻。学生運動にも参加し公安にマークされていた。修了後、鴻池組に勤務。1979年11月結婚。1980年に退職する。
社会人時代から、『幻魔大戦』などのSFや超常現象に次第に傾倒していき、1984年、阿含宗に入信。その後麻原の著作に共感を覚え、1986年4月にオウム神仙の会に入会し、1987年11月1日に出家。
オウム以前の早川に対する評判は「いいやつ」「頭が良い」「ノンポリ」「口数少ない」など様々。オウム時代は 温厚で頼れる存在だが、感情の起伏が激しく、怒ると怖いとの評判であった。自身より階級が高い正大師の上祐史浩に「何やっとんかマイトレーヤ!!」と怒鳴る、麻原彰晃すら叱る(麻原との最初の出会いのときにも時間に遅れた麻原に怒っていた)など、裏のNo.2と言われるだけの影響力を持っていた。チョコレートなど甘いものが好き。
入信後
青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上である。なお、麻原よりも年上の幹部信徒としては他に大内利裕や林郁夫、後述の波野村事件で早川とともに逮捕された満生均史らがいる。
出家後は不動産獲得の中心的役割を担い、富士山総本部の建設責任者になり、全国の支部道場の用地取得などを行った。また1991年、山梨県上九一色村に第2サティアンを建設し、1993年にはサリンプラント建設に関与。
1990年の第39回衆議院議員総選挙で真理党が出馬した際には、早川自身は立候補せず、対立候補のポスター剥がしなど裏方の選挙支援をしていた。
1988年12月に大師となり、1994年7月に正悟師となる。
事件への関与
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件に参加し、殺害に関与。またTBSのスタッフが坂本堤弁護士のオウム批判のインタビュー映像を放送直前に早川に見せたことが事件のきっかけのひとつとなった(TBSビデオ問題)。事件時に手袋をしていなかった早川や村井秀夫は麻原に指紋消去を命令され、熱したフライパンや豚の皮で指紋消去を行わされた。
熊本県波野村の国土利用計画法違反事件で逮捕され、住居制限と教団関係者との接見禁止を条件に保釈されている(1992年夏に解除)。保釈中も教団幹部として数度ロシアを訪れ、度重なるロシア訪問でロシア政府高官とパイプを築いた。オウムはロシアではステータスの高い団体であったので、世間で言われているように裏社会に強かったということはなく、AK-74自動小銃を入手するのにも苦労し、見かねたロシア人通訳が手配してくれたという。他にも1994年6月1日に旧ソビエト連邦製の30人乗り大型ヘリコプター「ミル17」やLSDの原料をロシアから購入した。
早川は他の幹部と比較するとテロの現場にはあまり参加していないが、早川はその理由として1993年の出来事を挙げている。1993年12月、オウムは創価学会の一大拠点である東京信濃町をボツリヌス菌噴霧車で襲撃しようとしたが、警備に怪しまれたため早川の判断で中止させた。これに対し麻原は早川がいるとワークが成功しないとして不満を持ったという。
影の交渉役であったことから後に週刊誌などである事ない事を書かれるようになったが、早川と面会した滝本太郎によると「単なる宗教好き、精神世界好きのおじさん」とのこと。
オウム事件の動機については「ハルマゲドンの規模を小さくして、救済しようとしていた」と語っている。
裁判
1995年4月19日、TBS『ニュース23』の取材を受けた後、建物侵入罪で逮捕。教団が初期に起こした殺人事件など計7事件で起訴され、第一審で死刑判決。控訴・上告はともに棄却、2009年7月17日、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは6人目。
裁判では、麻原の「ここで抵抗しなくちゃならない」「妻が強姦されてるんだぞ」などという意味不明な不規則発言と麻原への退廷命令に号泣したこともあった。また坂本堤弁護士一家殺害事件の際に坂本龍彦の遺体に毛布をかけた理由について「別に理由はない」と言ってしばらくの沈黙の後、「寒そうだったから」と述べ、その後悲鳴に近い声を上げ、1分近く証言台に突っ伏した。「修行僧」として、白いオウム服に数珠という出で立ちで出廷したこともあった。
再審請求したが、棄却された。
週刊ポスト(2013年2月15・22日号)『死刑囚78人の肉筆』に掲載された早川直筆文によると、拘置所内では読書、相撲や洋楽のラジオ番組視聴、ビデオ視聴を楽しんでおり、妻や友人との面会や文通、毎日の修行(瞑想プラナヤーマ等)を行っているという。
オウム真理教の国家転覆計画(11月戦争計画)の根拠として、早川ノート、早川メモというものが一時期話題になったが、本人によれば実は岐部ノートであるとされる。
死刑確定後
2018年(平成30年)3月14日までは、早川を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が、東京拘置所に収監されていた。しかし、2018年1月、高橋克也の無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した。
オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(宮城刑務所仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた。早川は同日付で、福岡拘置所に移送された。
7月6日、福岡拘置所で死刑が執行された。68歳没。
洗脳が解けた過程
逮捕前、麻原から「まだ逮捕状は出ていないので逃げ隠れするな」と言われたのに言われた時点ですでに逮捕状が出ていたこと、「銃刀法で逮捕される」と予言されていたのに実際には建造物侵入罪で逮捕されたことで、「弟子の逮捕という重大事項を見誤るなんて予言能力は無いのではなかろうか」と怪しく思ったのが最初の疑念である。逮捕後、接見に来た青山吉伸弁護士から「麻原尊師が不利になる事を言うな」と言われると「麻原は自分の身を守ることしか考えていないのか」と、麻原の人格を疑い始めた。次に、麻原の予言によると核戦争が起きた際に放射能被害を受けるはずだった村井秀夫が核戦争勃発前に刺殺されたこと、麻原は以前から癌を患っているとされ、日々酸素吸入までしていたのに、いざ麻原が逮捕されると実は健康そのものであると発覚したことなど、予想外の事実が次々と明らかになり、幻滅していった。
最後に、麻原は逮捕後に自殺を図ろうとしたが、出されたカレーライスを食べたくて「自己ポア」を断念した、という俗物的一面を知り、これをだめ押しとして、信仰心を失った。
オウムでの渡航歴
早川の記述に基づく。1989年1月 ドイツ1989年12月 ドイツ1991年11月 ロシア(翌年2月までに数度訪露している)1992年4月 スリランカ1992年夏 ブータン、インド
1992年秋 ザイール1992年冬 ロシア1993年2月 ロシア1993年4月 オーストラリア(ウラン鉱脈探しのため)1993年5月 ロシア1993年夏 ロシア→フランス1993年8月末 ロシア1993年9月 オーストラリア1993年10月 オーストラリア1993年12月 ロシア
1994年2月 ロシア→中国1994年3月 ロシア1994年4月 ロシア(射撃ツアーに参加)
1994年7月 ロシア1994年9月 ロシア1995年3月 ロシア
井上 嘉浩
誕生1969年12月28日
日本の旗 日本 京都府京都市右京区
死没
2018年7月6日(48歳没)
日本の旗 日本 大阪府大阪市都島区(大阪拘置所)
ホーリーネーム アーナンダ
ステージ 正悟師
教団での役職 諜報省長官
入信 1986年
関係した事件
VX事件
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件
地下鉄サリン事件
判決 無期懲役 → 死刑(執行済み)
現在の活動 死亡(刑死)
井上 嘉浩(いのうえ よしひろ、1969年12月28日 - 2018年7月6日)は、元オウム真理教幹部。元死刑囚。京都府京都市右京区出身。ホーリーネームはアーナンダ。教団内でのステージは正悟師。
来歴
幼少期はドキュメンタリー番組が好きで世界の貧困問題や犬の殺処分問題に関心があり、NHKの新宗教と若者をテーマにしたドキュメンタリー番組に出演したこともある。父は真面目な性格であったが家でもくつろげず、夫婦喧嘩をよく起こし、父のような生き方をしても幸福はないと感じた。母は自殺未遂をしたこともあった。武道、ヨーガ、阿含宗を経て高校2年の頃(1986年)オウム神仙の会のセミナーに参加し麻原彰晃の姿に感銘を覚え、麻原を理想的な親のように感じた。
1988年京都の私立洛南高等学校を卒業し、3月1日に出家。親と麻原との交渉では大学を出てから出家する予定であり、日本文化大学法学部へ入学するが麻原の指示で中退。後に井上は大学を出ていないので教団内では重要な立場に無かったと主張したが、もっとも本人も大学に行く気は無く卒業即出家したがっていたという。その後母親もオウムの在家信者となる。
1990年の石垣島セミナーの頃からヴァジラヤーナの非合法路線に関与する。私立探偵の目川重治から盗聴技術を教わったこともあるとされ、教団が省庁制を採用した後は諜報省(CHS)長官として盗聴や誘拐、不法侵入などを実行、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、被害者の会会長VX襲撃事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件に関与する。新宿駅青酸ガス事件、東京都庁小包爆弾事件には首謀者として関わった。地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で特別指名手配されていたが、1995年5月15日に秋川市(現:あきる野市)で発見され、公務執行妨害の疑いで、豊田亨と共に現行犯逮捕される。乗っていた車の中から東京都庁小包爆弾事件・島田裕巳宅爆弾事件で使われた爆発物の原料となる物質が発見された。
1995年12月26日付で、オウム真理教から脱会したとして、サマナや信徒宛にメッセージを出し、脱会を促す。メッセージの中では「グルの意思」の名の下になした修行の結果、生じた犯罪行為によって身体は拘束されているが、心は以前よりもずっと自由である旨が記されていた。さらに、教団で培った様々な観念は崩れ去り、覚醒を得ようとするなら「最終解脱者」や「救済者」は必要がない、「尊師」も「正大師」も「サマナ」もそんな階級などいらない、教団など何一つとして必要ないと言い切った。
裁判
裁判ではオウム事件を反省する態度を見せたが、自分が重用されていなかったと主張し責任を矮小化・転嫁する傾向があり、証言の信憑性に疑問が持たれた。第一審では死刑が求刑されたが、目黒公証役場事務長事件では逮捕監禁罪を認めたが逮捕監禁致死罪を認めず、地下鉄サリン事件では連絡役に留まるとして2000年6月6日に東京地裁で無期懲役判決を受けた。オウム真理教事件において死刑求刑に対して無期懲役判決が言い渡されたのは初めてであった。
だが検察は控訴。さらに新実智光も「今の井上君は『蜘蛛の糸』のカンダタと同じだ」として、地下鉄サリン事件で井上がかなり重要なポジションにあったこと、島田裕巳宅爆弾事件の直後に井上が「やったやった、この事件は新聞に載るくらいの事件だ」と喜んでいたことなどを証言し始めた。これ以前にも井上の部下で運転手だった井田喜広が、井上が坂本堤を「バカなやつ」「悪業だから一家全員をポアした」、薬剤師リンチ殺人事件の被害者を「すごく汚かった」「断末魔がすごい」と面白がっていたと証言したり、遠藤誠一が「井上はよく嘘をつく」「麻原からアーナンダは死に神をも騙すと言われていた」と証言するなど、麻原追及の急先鋒を演じる井上の立場は揺らいでいた。
控訴審(東京高裁、2004年5月28日)では目黒公証役場事務長事件の逮捕監禁致死罪を認め、地下鉄サリン事件の現場指揮者ではないが総合調整役として無差別大量殺人に重要な役割を担ったことが認定され、一審判決が破棄されて死刑判決を言い渡された。2009年12月10日に上告棄却、2010年1月12日に上告審判決に対する訂正申し立てが棄却され、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定したのは9人目。
死刑確定後
2018年(平成30年)3月14日までは、井上を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が、東京拘置所に収監されていた。
しかし、2018年1月、高橋克也の無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した。このことから、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(宮城刑務所仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた。
井上は、新実智光とともに、2018年3月14日付で、大阪拘置所に移送された。移送翌日にあたる2018年3月15日、「死刑回避のためではなく、事実は違うことを明らかにしたい」と東京高裁に再審を請求した。
2018年7月6日午前、大阪拘置所にて死刑が執行された。両親により2日後に荼毘に付され、浄土真宗の寺で葬儀が営まれている。最期の言葉は「まずはよし」。再審請求は両親が受け継ぐ意向である。
死刑確定後開かれた共犯者の裁判員裁判での主な証言
公証人役場事務長殺害説
死刑確定後の2011年に井上は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件の被害者(事務長)の長男に関係者を介して手紙を出した。その内容は、これまで事務長の死因を麻酔薬の副作用と述べていたが、それは事実ではなく、中川智正(当時医師)が故意に殺害した可能性がある、というものだった。しかし、この時点での捜査機関の対応はなかった。
その後2012年1月に平田信が、6月には高橋克也が逮捕され、両名は公証人役場事務長事件に関与していたため、同事件の捜査が再開された。井上の新主張(後述するように井上は「新主張」ではないとも主張しているが、その裏付けは示されていないので「新主張」と表記する)を裏付ける証拠や共犯者の供述はなく、井上が事件発生から16年以上経って自分の過去の証言や供述を覆したこともあり、検察庁の認定は麻酔薬の副作用による死亡ということで変わらなかった。
平田の一審裁判員裁判では、平田が逮捕監禁罪(「致死」はついていない)で起訴されていたこともあり、事務長の死因は争点にならなかった。判決は事務長の死因を麻酔薬の副作用と認定し、井上の証言について「死因について突然新たな供述をするなど、証言は誇張や記憶の混同があるのではないかとの疑問が残る」と指摘している。井上の新主張は採用されないまま、2016年1月13日に最高裁は平田の上告を棄却、確定した。
高橋克也の一審裁判員裁判では高橋が逮捕監禁致死罪で起訴されていた上、弁護側が事務長の死因について争ったため、これについて詳しい審理が行われた。「中川が故意に事務長を殺害した可能性がある」との井上の証言に対し、中川は否定したほか、共犯者で元医師の林郁夫は、井上の証言に対して「あり得ない」と証言し、他の共犯者も井上の証言を否定した。2015年4月30日の高橋に対する一審判決は、「井上の証言はその内容が突飛である上に、これに沿う関係者の証言もない」「井上の証言はそのまま信用できないというほかにない」、他方、中川の証言は他の共犯者の「証言などにより支えられている」として事務長の死因を麻酔薬の過量投与による事故と認定し、井上の新主張を採用しなかった。2016年9月7日の高橋に対する控訴審判決も一審判決を支持し、井上の新証言を採用しなかった。
井上が新主張を行った理由については、事務長の長男が「これまでの説明とあまりにも違い、すべてを信じることはできない。再審のための証言ではないかと受け止めた」と語っているとおり、中川が井上と無関係に被害者を殺害したのであれば被害者に対する井上の責任は軽くなるため、再審請求が目的だったのではないかと指摘する報道も存在する。
なお、井上は、中川が事務長を殺害した可能性があるとの話は、自身の一審の段階から弁護人に話しているが弁護人から他に話すことを止められた、とも証言している。
菊地直子との対立
東京都庁小包爆弾事件への関与が問われた菊地直子の一審裁判員裁判で、井上は、小池泰男から手伝いの信者について逮捕される覚悟があるかどうか了解を取るよう求められ、井上が女性信者2人の了解を、中川が菊地の了解をそれぞれ得ることとなった旨や、井上が菊地に爆薬を見せねぎらいの言葉をかけた際に彼女が驚かなかった旨を証言した。一方で中川は、自分が菊地に逮捕される覚悟の有無を確認するという話は記憶がなく、自分は井上らに対し、菊地は「何も分かってないからよろしく」と言ったと証言した。2014年6月30日、東京地裁は井上の証言を信用できるとし、それを菊地が事件を起こすことを認識していた根拠の一つとして、菊地に懲役5年を宣告した。
その後、二審東京高裁は2015年11月27日に判決の中で、井上の証言について、「多くの人が当時の記憶があいまいになっているなか、証言は不自然に詳細かつ具体的」でその信用性は慎重に判断されるべきであると述べ、二審で事実調べした結果によれば井上らは他に重要な役割を担って本件居室(八王子市のアジト)に出入りしていた女性信者2名に対しても活動の目的を秘匿していたと認められる、菊地はクシティガルバ棟での土谷正実の助手であって井上の部下ではなく教団内におけるステージとしても一般信者の2つ上である師補というステージ立場にあったに過ぎず、この菊地に対し井上が殊更に爆薬を見せてねぎらったというのは不自然と言わざるを得ない、などとして、井上の証言よりも中川の証言を信用できるとし、菊地に対する一審懲役5年を破棄して改めて無罪判決を言い渡し、2017年12月に最高裁もこれを支持、無罪が確定した。
その他
この他、井上と中川の主張は地下鉄サリン事件に使われたサリンの原料を誰が持っていたのかについても対立している(ジフロ問題)。中川は、井上の一審判決間際に、サリン原料が井上の使っていた東京・杉並のアジトで保管されていたことを暴露し、高橋克也の一審公判の中でも井上による保管の様相を詳細に語っている。井上はこれを否定し、中川が持っていたと主張している。この食い違いについて、中川は2014年5月14日の菊地直子一審公判において、「(井上死刑囚は)過去の裁判で対立した私に対して意地になって、反対のことを言おうとしている」とした上で「井上君の言っていることは事実ではない」と証言した。
このような井上と他の幹部の主張の食い違いは、中川との間のみにあるのではない。重要事件における自らの立場は補佐役にすぎなかったと主張する井上は、新実智光とはVX事件でどちらが主導的だったのかについて、また、小池泰男とは地下鉄サリン事件の運転手役をどちらが指名したのかについて、真っ向から対立している。
人物像
麻原と話し方や動きがそっくり。
高校時代、学校でもヘッドホンでオウム真理教の音楽を聞いていた。
勧誘が得意で「導きの天才」と呼ばれた。井上が入信させた信者は1000人以上という説もある。在家信徒に入会金や会費を負担させ、その家族や友人などを同意を得ずに名義だけの会員にさせる「黒信徒」を作り、獲得信者数を増やしていた。ある女性信者は法廷で「麻原はくそじじいだが、井上は好きで好きでたまらない」と語っている。また、教団内では中村昇と並ぶプレイボーイと言われた。教団東京青山道場は「アーナンダワールド」で、女性の大半は井上の手下だったという。オウムの他では政治活動家の外山恒一が同世代の井上に思い入れがあり、処刑される前に革命政権をつくって救出したかったという。
麻原からぞんざいな扱いを受けることが多々あったと語る。 非常に信心深く、修行に際しては同じ行を繰り返し行うことで知られていたことがワイドショーに出演した元信者の告白などで語られている。ワイドショーでは水中クンバカの行を行い、5分30秒も水中で結跏趺坐を組み続ける姿も放映された。しかし麻原から返ってきた言葉は「何を怖がってんだよ」だった。
手記によると、19歳のとき教団で禁じられている恋愛を行ってしまい、8月の炎天下にコンテナ内で4日間の断水断食を命じられ死にかける。なお、井上は性欲の破戒をしたことは認めつつも童貞であると主張。
20歳のときには突然ステージを下げられたうえに修行を命じられた。瞑想修行中に麻原の妻である松本知子から「眠っている」としつこく注意されたが、「私は起きている」と反論すると、麻原から「どこまで歪んだ根性をしてやがるんだ。このバカたれが!」と言われカーボン製の竹刀で50回ほど打擲され、2週間ほど記憶が無くなった。
21歳のときには「お前が救済の邪魔なんだ。お前は単なる駒なんだ。何で言われた通りのことができないんだ、バカ者めが。もう一度言う、邪魔なんだ。お前は駒通りやればいいんだ」と言われたという。
地下鉄サリン事件の際にもサリン到着が遅かったため東京から上九一色村に独断で移動し叱責されている。
うまかろう安かろう亭にあったカラオケで麻原が女性信者とキャッキャしながらカラオケをしているのを見てのちに「VXをかけてやりたかった」と述べている。
逮捕後、飯田エリ子にラブレターまがいの替え歌などを送った。公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で井上の立場を支持するよう揺さぶりをかけるためともいわれる。
拘置所内で自殺を図ったことがある。
尾崎豊のファンだった。「オウムに入った若者たちの心境は尾崎豊の歌の心境に近い」と語っている。
俺たちは本当に幸せなのかな?
この世界、金さえあれば何もかも手に入ると考えている大人たち
朝夕のラッシュアワー
時につながれた中年達
夢を失い
ちっぽけな金にしがみつき
ぶらさがっているだけの大人達
工場の排水が
川を流れていくように
金が人の心を汚し
大衆を飢え死にさす
時間に
おいかけられて
歩き回る一日がおわると
すぐつぎの朝
日の出とともに
逃げ出せない
人の渦がやってくる
救われないぜ
これがおれたちの明日ならば
逃げ出したいぜ
金と欲だけがある
このきたない
人波の群れから
夜行列車にのって
— 井上が中学三年生の時の宿題で描いた絵「願望」より
新実 智光(にいみ ともみつ、または新實 智光)
1964年3月9日 - 2018年7月6日)は元オウム真理教幹部。ホーリーネームはミラレパ。教団内でのステージは正大師で、教団が省庁制を採用した後は自治省大臣だった。1986年のオウム真理教の最初に開かれたセミナーから出席し、宮前一明や大内利裕と並ぶ古株。坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件の実行犯。地下鉄サリン事件では運転手役。2010年2月に死刑が確定。2018年7月6日、大阪拘置所で死刑が執行された。
人物
1964年(昭和39年)資源回収業の両親の元に愛知県岡崎市にて生まれる。
少年期、青年期
岡崎市内の小学校、中学校、愛知県立の高校を卒業。高校時代よりオカルト雑誌を愛読。複数の新興宗教に通う。学生時代は、その風貌から「空海」というあだ名をつけられたこともある。友人に恵まれ学生生活を楽しむが、生まれつきあった口唇の傷(口唇口蓋裂)に苦しみ、いじめに遭う。さらに高校生時代に地元の東岡崎駅で目撃した2度の自殺事故に衝撃を受け、「死とは何か」を考え精神世界に興味をもつようになり、多くの宗教団体に入信する。麻原の言う「苦を感じなければ修行の道に入らない」との鉄則を高校時代から感じていた。
高校時代に、傷や病気が治ると信じ、ある宗教団体に入信するが、教義は「入信しない者の魂は、神の意思によって滅ぼされる」というものであった。新実は、そこには何ら神の愛はない、単なる神のエゴイズムに過ぎぬと感じ脱会する。これは新実にとって、最初の宗教への挫折となる。
読書に打ち込んだり、仙道的なことや瞑想を行うが次第に宗教から遠ざかり、空手など肉体的鍛錬に興味が移る。
大学時代・オウムとの出会い
その後、愛知学院大学に入学。友人の勧めで大学時代の終わりに、再び別の宗教団体に入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というものは、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるのだろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。このため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。
このときにオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚の記事が目にとまり、ヒヒイロカネのプレゼントに応募したことがきっかけで、大学卒業間近の1986年正月、オウムの前身「オウム神仙の会」のセミナーに参加し、すぐに入会し会員となるが、その際に送られてきた運命鑑定書には、新実が自分では認めたくない隠していた内面が書かれていた。シャクティーパットとこの運命鑑定書により、一気に傾倒を深め行法を続けると赤と青の光が見えるようになり、著しい精神的変化が起こった。
神秘体験
麻原彰晃に惹かれたのは、他の宗教の多くが「神の啓示を受けた」とするものが多いのに比し、麻原は自分自身で修行をし苦難を乗り越えた「どこにでもいるような人」であったからだという。最初のセミナーで、新実はその雰囲気が自分自身が求めていたものと直感する。そこでバイブレーションに浸りながら修行することで身体の浄化作用を実体験し、宿便が出たり、体調の回復を実感する。この神秘体験によって、深く麻原に帰依するに至る。当初は半信半疑であったもののその考えは180度転換する。
シャクティーパットにより、アストラル体の浮遊を感得し、体が痺れ多大な至福感を覚える。このときに「麻原に一生付いていくほかない」と確信する。このときの体感を「生死を越える」に詳しく書いている。麻原に礼を言い、道場へ行くと、突然肉体のクンダリニーが昇り、シャクティー・チャクラーが起こる。ムーラ・バンダ、ウディヤーナ・バンダが起こり、その後背中の方が盛り上がり、首のところでジャーランダラ・バンダが起こり、頭の方へすっと抜けた感じがした。これが精神集中やマントラを唱えるだけで自分自身で抑えられないほどに、すぐに起こるようになる。新実自身によれば「この霊的な変化が本当に自分の内面で起こったことをきっかけとして、やっと信に目覚めさせてもらった」という。
卒業後は地元で、みそなどを製造する食品会社マルサンアイに就職し営業担当となるが、その後、勤務先でも上司の信頼を得、新入社員の代表にもなることができ業務成績も優秀で、会社始まって以来のもっとも優秀な新入社員とまで評価されるようになった。
しかし、その後心が現実生活に向かったため「魔境」に陥り二度も自動車事故を起こした。1987年5月のゴールデンウィークの前頃から事故のヴィジョンが見え始める。通常なら事故のヴィジョンは否定するが、新実は事故を実際に起こせばどうなるかという気持ちが沸き起こり、時速120㎞で田んぼに突っ込んだことがあった。麻原のシャクティーパットや霊的な体験によって守られているという自信があったため、死なない確信があった。普通なら否定すべき誘惑に引っかかったと感じ、後にそれを「魔境」で「暴力のカルマ」だったと受け取った。5月に新実は「魔境へ入り込んだ」と信じ込み、会社を半年で退職。
出家後
ミラレパ
1987年9月にセミナーでサンガ(出家制度)が結成されたことを知り、即出家を決意。五体投地や麻原の手伝いを行う。サンガで麻原の元で修行を積み、11月には魔境から出たと感じた。先の「暴力のカルマ」は「女性に対してのカルマ」に変化していったと感じる。当時の容貌を「強姦魔」のようだったと感じ、潜在意識が表層意識に現れ、心に落ち着きがなくなったと感じていた。その後、オウム内での本の営業のワークに集中することで魔境から脱したという。
新実はシッディの経験が豊富で、光が見えたり、変化身が抜け出したり、過去世を思いだすなどの経験があった。空中浮揚の前段階といわれるダルドリー・シッディがツァンダリーのセミナー頃から起こりはじめ激しいクンダリニーの突き上げがあった。頭が空白になり跳んでいる間も意識がない状態を経験するが、それをきっかけにグル・ヨーガ、ツァンダリーの瞑想を始めサハスラーラに精神集中するだけでぴょんぴょん跳ねだすようになる。この時は寝てもたっても跳ね回っていたため、麻原がヒヒイロカネをバケツ一杯持たせたが、それでも飛び跳ねていた。
その後、15日間にわたる独房修行にて三昧境に入り黄色い光に包まれ、意思のヨーガーであるラージャ・ヨーガの成就者ラトナサンバヴァと同一化して黄色の化身となり、光の中に没入した状態となり、それを「無ではなく空」の状態と感じ例えようのない至福感を味わう。その瞑想の最中に麻原からの電話で成就したことを告げられる。この新実の成就に関して麻原は「最後のエネルギーの固定はまだまだだが、成就と判断したのは六神通の中で過去世をかなり見た、ダルドリー・シッディが早くから起きている、グルを意識すると快感状態になるという条件を満たしている」とコメントした。
また、前世に並々ならぬ興味を持っており、他の信者とも前世を話題にすることが多かった。麻原の4女の松本聡香(ペンネーム)を追い回しては「さとちゃんはどこから来たの」と聞いていたが、聡香が1度だけチベット密教のカギュ派の僧侶の名前を思いつきで答えたところ、逮捕されたあとに面会に来た信者に伝え広めた。
1987年12月3日、24歳のときにオウム真理教内の独房に2週間こもり、クンダリニー・ヨーガを成就したと麻原彰晃に認定され、大師のステージとミラレパのホーリーネームを授けられる。
日本語のわかるドーベルマン
1989年、麻原の指示により男性信者殺害事件に関与。男性信者を羽交い絞めにした末にロープで絞殺する手筈であったが男性信者の抵抗に遭い、慌てた末に男性信者の首の骨を折って殺害してしまう。続いて坂本堤弁護士一家殺害事件の実行役に指名され、坂本家に侵入し、坂本の妻(当時29歳)らを絞殺。
当初男性信者殺害事件では犯行後、茫然自失に陥り、後悔の念をあげたりしていた。坂本弁護士一家殺害事件の際にも精神的に不安定になり、山に死体を埋めにいった時には、新潟の海岸でひとり呆然としていたという。だが中川智正や端本悟とそれぞれ5日間独房に監禁されたり、麻原から与えられた「悪業によって地獄に至っても本望だ」などという詞章を数万回唱えるなどして洗脳され、その後、数年間教団の信者の指導、監督、スパイ、拷問などを担当、苦しませるのを楽しんでいるような雰囲気すら持つようになっていった。男性信者殺害事件、坂本弁護士事件の共犯者である宮前一明によれば、「村井と同じくらいかわいがられていた。日本語の解るドーベルマン」。
1990年2月、衆議院議員選挙に真理党候補として東京10区から出馬し落選した。選挙の敗北により麻原は大規模テロを指示。新実もボツリヌス菌テロ計画に関与し、北海道で土壌を採取したり、実験用マウスを購入するなどして協力。浄水場付近に散布していた際に警察に検挙されたこともあった。
1990年7月8日、26歳のときにマハー・ムドラーの成就を認定され、正悟師となる。
1992年9月教団のロシア進出に伴い、オウム真理教モスクワ支部の初代支部長を務めながら頻繁に日本との間を往復する。
最も血なまぐさい男、ミニ麻原
新実はその後も殆どのオウム事件に関与することとなる。
教団内では信者の監督・監視を行い、省庁制施行後は自治省大臣となっている。薬剤師リンチ殺人事件に関与したほか、オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件では凄惨な拷問を主導、温熱療法関連事件では 教団内で禁止されている男女交際をした教団元仙台支部長に温熱修行を強要し死亡させる(事故として処理され立件されず)、温熱療法に疑問をもって教団を出た看護師を拉致するなど、残忍な犯行を繰り返しており、裁判を傍聴し続けた降幡賢一は新実を「最も血なまぐさい男」、佐木隆三は「ミニ麻原彰晃」と評した。一方で男性信者リンチ殺人事件で麻原に指示されたマイクロウェーブ焼却炉での殺害を避けたり、男性信者殺害事件の被害者が地獄ではなくシロクマに転生したことを聞いて安堵したり、松本サリン事件で共犯者に対して犯行前に意志の確認を行ったりする、買い食いが趣味などと人間味も見せていた。ステージの低い信者に対しても礼儀正しい一面もあった。
毒ガス関係の事件にも1993年の池田大作サリン襲撃未遂事件をはじめとして多く関わった。池田サリン事件では第2次攻撃で防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し重体に陥り村井秀夫、遠藤誠一から人工呼吸を受けオウム真理教附属医院に搬送され、治療の結果一命を取り留めた。江川紹子ホスゲン襲撃事件、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件でも実行犯の一人。松本サリン事件では警備役、地下鉄サリン事件では東京の地下鉄千代田線でサリンを散布した林郁夫の送迎役であった。地下鉄サリン事件では人が倒れているのをテレビで見て「グルの意思を達成できて嬉しかった」という。逮捕後、大乗のヨーガの成就を認定され正大師に昇格。
裁判
1995年4月12日、霞ヶ関のマンションで逮捕される。取調官には「自分を尊師と一緒に日比谷公園で公開処刑してほしい」と言ったとされる。
一連のオウム真理教事件で計11件で26人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた。死者26人は麻原彰晃の27人に次ぐ死者数である。なお公証人役場事務長逮捕監禁致死事件については被害者の死亡には関与しておらず、新実の被害者への死亡への関与が認定されなかったのはこの事件のみである。
法廷では、「尊師と一緒に断罪されたい」「ポアは慈悲の心による救済」と麻原崇拝とオウムの思想を捨てることなく、最後まで事件の正当性を主張し、「私自身は、千年王国、弥勒の世のためには、捨て石でも、捨て駒でも、地獄へ至ろうと決意したのです。つまり、多くの人の喜びのために、多くの人の救済のために、この身体、この生命を投げ捨てて殉じようと覚悟したのです」と語り、「日本シャンバラ化計画(オウム真理教の国家転覆計画)が実現させられず申し訳ない」と別の意味での謝罪を行った。贖罪としては死刑となり、来世において真理勝者になることしかないとした。また、内乱罪の適用を主張した。
「 私が出来る償いは、それは、一つは、「死刑」になって「捨身供養」すること。そして、もう一つは未来際に真理勝者となり、すべての人の苦しみを死滅させ、絶対的自由・幸福・歓喜を与えることが出来るよう菩薩としての修行をすることです。しかし、私の場合それでも重過ぎて償いきれるかどうかわかりません。
グル・シヴァ大神、すべての真理勝者方、どうか私の償いができますように。そして、すべての人が、この苦しみの世界から解放されますように。
なお、公訴事実については、被告人質問の際にすべてを正直にお話します。(新実智光被告意見陳述)」
麻原の裁判に証人として出廷した際には麻原を守るためか黙秘することもあったが、自分の裁判では「オウムの正史を残すため」として、事件の全貌を率直かつ正確に答えた。やがて麻原の裁判でも、尊師は悟っておられるから問題ないはずとして事件の内容を語り始めた。麻原に帰依している者が事件の詳細を語ったことは、結果的にオウム犯罪の大きな証左となった。麻原は新実に「消えろ」「破門だ」などと怒鳴り証言妨害をしようとする場面もあった。
第一審・控訴審と死刑判決を受け、上告したが2010年1月19日に棄却。2月16日に判決に対する最高裁への訂正申し立ても棄却され死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは10人目。
被害者に対しては、「オウムの犯罪の原点とされる富士山総本部のリンチ殺人事件から最後に関わった地下鉄サリン事件まで、すみませんとか申し訳ないとか言うつもりはありません。それを言うくらいなら、最初からしなければいいのです」、「全ては因果応報。罪の無い人達が亡くなったのではなく何らかの原因がある」と、決して最後まで謝罪しなかった。論告求刑公判では検察側が論告を読み上げるのを声をあげて笑っていた。
獄中からも、信者たちへ教義の指導を続けていた。2006年7月から2007年4月までの1年間文通をしていた麻原の四女松本聡香から「責任も取れないのに、そんなことをするのはよくないのではないか」と疑問を呈される。四女との面会の際に新実が「すべてはシヴァ神の意思なのですよ」というのに対し、四女が激しく反発したところ、「責めないでほしい、責めるならやり取りはやめる」と言い、それ以降二人の交流はなくなる。また、死刑執行に備え転生の準備をしている、(アレフの上祐派独立騒動に対し)仏陀になるまで論争に興味を持たないと四女に伝えた。
死刑確定後
2012年8月に獄中結婚したアレフ信者の妻が、2013年、知人をアレフへ入信強要したとして逮捕され、有罪判決を受けた。
2015年、高橋克也の裁判に証人として出廷した。麻原への帰依は変わっていなかった。
2018年(平成30年)3月14日までは、新実を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が、東京拘置所に収監されていた。しかし、2018年1月、高橋克也の無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した。
オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(宮城刑務所仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた。新実は同日付で、井上嘉浩とともに、大阪拘置所に移送された。
2018年からは安田好弘弁護士を担当に再審請求を行っていた。
人は皆 時の定まぬ 死刑囚 会って別れて 夢と消えゆく
雨が降り 天が泣くのか 水無月に 大地うるおす 慈悲の甘露
— 死刑判決を受けて発表した短歌二首
2018年7月6日、大阪拘置所内で死刑が執行された。54歳没。
関連事件
オウム真理教男性信者殺害事件(殺人罪)
坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪)
松本サリン事件(殺人罪、殺人未遂罪)
薬剤師リンチ殺害事件(殺人罪)
男性現役信者リンチ殺人事件(殺人罪)
駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
会社員VX殺害事件(殺人罪)
被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
地下鉄サリン事件(殺人罪、殺人未遂罪)
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(犯人隠匿罪・隠避罪)
信徒監禁事件(監禁罪)
池田大作サリン襲撃未遂事件(立件なし)
土谷 正実(つちや まさみ)
1965年1月6日 - 2018年7月6日)は元オウム真理教幹部。元死刑囚。東京都出身。筑波大学大学院化学研究科修士課程修了、博士課程中退。化学(物理化学と有機化学)を専攻。ホーリーネームは クシティガルバ。教団では第二厚生省大臣をつとめた。教団の化学者として化学兵器や薬物を生成し、マスコミから化学班キャップと呼ばれた。ステージは菩師長であったが、地下鉄サリン事件直前に正悟師に昇格した。
殺害実行や謀議には関わっていないが、サリン生成方法を確立し、無差別大量殺人を可能にしたとして大量殺傷事件の共同正犯で2011年に死刑判決が下った。
ザ!世界仰天ニュースの「洗脳スペシャル(2012年4月4日放送)」「家電が爆発&死刑執行サリンを作った土谷正実の真実スペシャル(2018年7月17日放送)」で半生が特集された。
2018年7月6日、東京拘置所にて麻原彰晃らと共に死刑執行。
人物
長男として東京都町田市で出生。5歳下の妹、7歳下の弟がいる。家庭は裕福だった。幼少期は内向的でおとなしく、のちにオウム入信をめぐって激しく対立することになる母親から非常に可愛がられて育つ。夢を正夢にするなど合理的に説明できない感覚があり、教師に尋ねたが、納得のいく回答は得られなかった。
中学・高校時代
中学生になると活発なクラスの人気者になる。楠木正成の「楠公精神」をきっかけとして日本史に関心を持つ。東京都立狛江高等学校時代はラグビー部に所属。生きがいのように打ち込み、中心選手として活躍した。性格は明るくひょうきんで、同級生にも後輩にも慕われていた。高校時代の愛称は「ツッチー」。成績は良くなかったが、高校2年生の時にイオン化傾向に興味を抱いて化学を勉強し始め、学年トップになる。相性の悪い先生に代わると一気に点数が0点近くまで落ち、好き嫌いの激しい一面があった。この頃、人間が一生のうちに脳細胞の数%しか使わずに死んでいくことを知る。「非効率だ、これを100%近くまで発揮するものがあるはずだ」と考えていた時にテレビ番組でヨーガを知り、漠然とした興味を抱く。
大学・大学院時代
ヨーガを極めるためヒマラヤへ行きたいと思うが現実的ではないので諦め、一浪して1984年に筑波大学第二学群農林学類へ進学。荒井由実や中島みゆきの歌を聴くごく普通の青年だった。高校時代から憧れていたラグビー部に入部。しかし、早々に重傷を負い5月末には退部を余儀なくされて、自暴自棄に陥り酒浸りの生活を送る。生活はだらしなく、時間にもお金にもルーズであった。高校時代からの恋人との交際を反対する父親と喧嘩になり、仕送りを断たれて新聞配達のアルバイトで食いつなぐが、次第に恋人とうまくいかなくなる。夜遅くまで何度も電話をかけては、恋人と連絡が取れないと傷つき、床を転げ回って苦しんだ。漫画『ゴルゴ13』のワンシーンを思い出し「体を傷つければ心の痛みを忘れられる」と自ら胸を果物ナイフで40cm切りつけた。「肉体的苦痛により精神的苦痛が和らいだ」「この気持ちを合理的に説明するのは宗教だ」「新たな価値観を掲示する団体が登場したら所属しよう。それまでに得意な化学の能力をより伸ばしておこう」と考えた。1986年夏、恋人にふられ、別れたことを父親に報告すると仕送りが再開。授業にはあまり出なかったが、化学だけは熱心に勉強し、卒業論文は「木材の防腐剤に関する研究」だった。
卒業後は同大学院化学研究科へ進学。院試で「もし不合格になったらどうするのか」と問われ「そのときは青年海外協力隊に参加したい」と回答していた。大学院では有機物理化学研究室に入室し、炭化水素の光化学反応を研究。修士論文は「片道異性化に関する研究」であった。指導した教授は「発想力豊かで、将来国際的な研究者になる」と高く評価した。博士課程に進んだがオウムにのめり込んで研究室へ顔を出さなくなり、1993年に正式に中退した。
入信・出家
入信及び洗脳の経緯
1989年2月、同乗していた車が交通事故を起こして鞭打ち症を患い、医師の勧めで水戸市内のヨーガ教室へ通いはじめる。同年4月22日、友人から麻原彰晃説法会に誘われた。説法は遅刻して聞き損ねたが、科学に詳しい村井秀夫に関心を抱いて、村井の勧めに従い同日世田谷道場を訪れた。「ここなら本格的なヨーガの修行ができる」と、宗教団体との認識を持たずに入信。深夜から開催された「超能力セミナー」に参加したところ、日頃徹夜して研究に励むなど意思の強さや体力には自信があったのに修行について行けず、か弱そうな女性信徒が楽々こなしているのを見て驚いた。蓮華座を組みダルドリー・シッディ(座禅ジャンプ)を体験した。
教団の指導通りにヨーガを練習すると、中学生のときから患っていた椎間板ヘルニアが快癒したうえ神秘体験をするようになった。8月、水戸支部長岐部哲也の指導による激しい修行後、頭頂に肉髻ができた。図書館で調べたところ肉髻は仏教の経典にも記載があったので、それまでの「オウム=ヨーガ教室」という見方を改め、初めて麻原彰晃の著作を読んでみたところ、大いに感銘を受けた。
この頃、オウム入信を電話で母親に報告。「オウムには、1日20時間も自分の好きな研究ができるところがある。がんもエイズも治る」と話した。母親は、2Lの塩水を鼻から入れて口から出したり、麻紐を鼻から口に通したりする修行をしていると聞き、心配で脱会するように説得したが叶わず「他人を絶対勧誘しないこと」「毎月実家に帰ること」「修士はとること」と約束を交わす。
9月に入り岐部から出家を促されるが母親との縁を絶てずに断った。11月、坂本堤弁護士一家行方不明事件を知り、オウムの関与を疑ったが「国家権力の陰謀だ」と言われ、以降、1995年に逮捕されるまで長期に渡って信じ続ける。大学院仲間のプライドの高さや妬みに嫌悪感を感じる一方で『オウム水戸道場の人たちは優しく純情なので行くとホッとする』とのめり込んでいく。
1990年4月、博士課程に進学したが、6月から研究室に通わなくなった。教団の雑誌「マハーヤーナー」掲載の信徒の宗教体験を読み、自分の体験は低レベルであると思って、より次元の高い宗教体験を求め修行に専念し始めた。両親に知らせずに引っ越し、実家に帰らなくなる。世田谷道場や水戸支部へ通い詰め、高額のオウム教材購入やセミナー参加費の支払いにより教団への借金が嵩む。「1日1食、睡眠3時間」の教義を実行しながら車を運転して交通事故を頻発し、その処理のためにアルバイト先の学習塾生徒の親からお金を借りるようになる。学習塾、家庭教師、警備会社、豆腐屋と朝から晩までアルバイトに明け暮れて得た50万円近いバイト代を全額教団に注ぎ込み、正常な思考能力を徐々に失って行った。
1990年10月、シークレットヨーガ(個人面談)で初めて麻原と対面。「尊師が空であり、海であり、太陽である」と感じ、尊敬の対象は実父から麻原彰晃へとうつっていった。1991年1月5日、富士山総本部道場での「狂気の集中修行」に参加。厳しい修行にバテてしまい、周りの出家信者が寝食の制限を受けながら成就を目指し修行している姿を見て「自分には厳しい出家生活は到底無理だ」と考えていた。
出家を巡る家族と教団の攻防
周囲に借金をしたり、学習塾講師・家庭教師の立場を利用して教え子の中高生数人をオウムに入信させたりと、他人に迷惑をかけるようになった。土谷が入信させた高校生の親から抗議を受けた両親は1991年7月13日、話し合いをするためにアパートを訪れた。しかし居留守を使われて会うことはできず、父親名義の土谷の車を廃車処分にして生徒の親と相談。翌々日に「現代のお助け寺」として知られる茨城県の更生施設「仏祥院」に脱会を依頼。7月19日未明、土谷を車から引きずり下ろしてマイクロバスに連れ込み仏祥院の独居房「反省室」に監禁した。元信者の永岡辰哉が1ヶ月にわたり教義の矛盾を説いて説得にあたったが「お前たちから学ぶことはない」と聞く耳は持たなかった。
関係者が土谷のアパートを訪れると、冷蔵庫には米と味噌だけ。室内はオウムグッズで溢れ、布施のために購入した宝くじが数十枚、預金通帳の残高は僅か10円だった。
部屋からは2種類のメモが発見された。1通はA4レポート用紙7枚の「予言メモ」で、麻原が話した予言を土谷が書き取ったものとされ、「1億人総AUM(オウム)。1995年にはオウムが国家をしのぐほど台頭」「マイトレーヤ(上祐史浩)、尊師の代わりに指揮をとる」「土谷が中心になって千年王国を築く」「土谷は92歳で死ぬ」「1997〜1998年までに日本沈没」等と書かれていた。もう1通には土谷の現実的な苦悩が書き綴られていた。
「 借金に追い回されている。オウムに借りている。色々な人を騙して借金しまくっている。
自分を偽装し自分を信頼させて入信させる。
上から何人入信させろと命令され、棒で叩いて脅される。
無免許運転、交通事故→睡眠時間が少ない 」
仏祥院での監禁開始から2週間が過ぎた1991年8月6日、つくば警察署から土谷の実家に、「筑波大学助教授殺人事件捜査のため土谷に会いたいので居場所を教えて欲しい」という電話が掛かってきた。母親は居場所を伝え、同日午後には仏祥院で土谷は警察官と面会。この時の警察と母親の電話をオウムが盗聴しており、土谷が仏祥院に匿われていることが突き止められた。
翌8月7日、林郁夫・井上嘉浩・青山吉伸らが仏祥院に現れ、土谷と会わせるよう要求。青山は「私は弁護士だ。会わせないのは違法だ」などと言い、井上らは警察官が駆けつけるまで居座った。8月8日、町田の実家周辺に「土谷正実くん不法監禁される!」という中傷ビラが撒かれ、教団が土浦警察署に不法監禁の訴えを出した。8月9日になると実家近隣300軒、父親の勤務先、仏祥院周辺に「緊急告発 ○○社勤務の土谷○○(父親名)が息子を監禁している」などと書かれた中傷ビラが撒かれた。「家に火をつけるぞ」という嫌がらせ電話・無言電話がかけられ、留守を守っていた妹が怖がるほどであった。
中村昇・井上嘉浩・青山吉伸・小池泰男らが街宣車を5台動員して仏祥院に連日押しかけ、解放を求めた。24時間体制で張り込み、拡声器を使って麻原の説法やオウムの歌「真理のたたかい」を朝から晩まで流し続けた。説法が聞こえてくると、土谷は体を震わせて泣き出したりうめき声をあげたりした。オウムの激しい奪還工作は続き、(土谷が入信させた)学習塾の教え子を連れてきて「土谷を返せば高校生を家に戻す」と交渉を持ちかると、「自分がオウムに戻らないと彼は家に帰れない」と漏らしていたという。土谷は両親、弟妹、生徒の親らの前で合田から「オウムをやめると言わなければ殺すど」、母親から「いえ、私が殺します」と言われた。幼い頃から母親の後ばかりついて回っていた土谷は母親の「殺す」という言葉に大きな衝撃を受け「もう帰る場所はない、オウムで生きていくしかない」と思いつめた。
オウムは、教団顧問弁護士・青山の名で人身保護請求を申し立てるという手に出た。人身保護請求の国選弁護人に密かに「脱会する気はなく逃げたい」と伝える一方、家族らには「オウムをやめたふり」をして8月25日に翌日に予定されていた人身保護請求の裁判に備えて、両親、弟妹および合田夫妻とともに、オウムの車の追跡をかわしながら深夜3時半に帝国ホテルに到着。4時頃、隙をついて母親のバッグから現金を抜きとり脱走してタクシーで世田谷道場へ逃げ込み、端本悟らに連れられオウム真理教富士山総本部へ行って1991年9月5日に出家した。出家番号は953。
両親と仏祥院は半年に渡って毎月3回、「8のつく日」に教団施設を訪れ行方を捜し続けたが、再会はできなかった。土谷は合田を恐れており、探しにくると窓から外を伺っていたという。逮捕後、両親は拘留先の築地警察署や拘置所へ面会に訪れたが土谷はこれを拒み続け、公判では「自分を判断力のない赤ん坊か廃人扱いした両親を許さない」と証言するなど骨肉相食む絶縁状態となった。2006年以降、洗脳が解けたあとに「オウム真理教家族の会」会長の永岡弘行や、幼馴染の大石圭を通じて家族との和解を試みるも、最後までかなうことはなかった。
出家後
教団内のステージでは1994年7月1日に師長補となり、9月6日に師長(菩師長)、翌1995年3月17日の尊師通達で出家からわずか3年半で正悟師に昇格した。
1992年7月6日、麻原彰晃から石川公一とともに大学生を対象に勧誘する「学生班」活動に従事するよう命じられる。井上嘉浩の指導を受けながら国立大学を中心に大学図書館へのオウムの書籍の寄贈や学園祭での麻原彰晃説法会の企画・立案を実行するなどの布教活動を行った。仏祥院による再奪還を恐れ、外出時は武道経験者の信徒(キタカ)をボディーガードとしてともなった。1992年11月以降は村井秀夫指示のもと、化学兵器生成へと駆り立てられていった。
1994年6月に教団が省庁制を採用すると遠藤誠一が大臣である厚生省の次官に、厚生省分裂後は第二厚生省大臣になった。マスコミは土谷を化学班キャップと呼んだが、捜査当局やマスコミが作り上げた空想の存在だと主張している。
兵器と違法薬物の製造
独学で研究と実験を重ねてサリン・VXの生成方法を教団において確立し、中川智正・遠藤誠一・滝澤和義らとともに多くの化学兵器、違法薬物を生成した。材料の購入はオウムのダミー会社「長谷川ケミカル」(社長は長谷川茂之)などが行っていた。
日時 製造物 量 用途・使用事件 備考
1993/08 サリン 20g 標準サンプル サリンプラント計画も開始
1993/11 サリン 600g 第1次池田大作サリン襲撃未遂事件 中川智正と協力
1993/12 サリン 3000g 第2次池田大作サリン襲撃未遂事件
1994/02 サリン 30000g 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件
松本サリン事件 青色サリン溶液(ブルーサリン)。約70%がサリン、約30%がメチルホスホン酸ジイソプロピル。当初は池田大作襲撃に使うつもりで製造指示。生成プロセスの指示・助言、生成物の分析。生成は中川智正と滝澤和義によるもの
1994/02 LSA 4g LSD製造 信者が東京工業大学で文献を収集
1994/03 ソマン 10g 教団武装化 サリンよりコストがかかるので量産されず
1994/03 PCP 7.8g
1994/04~07 RDX 10g 教団武装化 東京都庁小包爆弾事件のRDXは1995年に中川智正が製造したもの
1994/04~07 TNT 300g 教団武装化
1994/04~07 PETN 300g 教団武装化
1994/04~07 HMX 10g 教団武装化
1994/05/01 LSD キリストのイニシエーション
ルドラチャクリンのイニシエーション この時は数gを製造し、1994年11月までに最終的に115gを製造。当初は兵器として製造指示。麻原もLSDを試し、「宇宙の始まりを見てきた」といって感激したという。遠藤誠一と協力
1994/06 イペリット 50g 教団武装化 漏れ出したことがきっかけで1994年7月10日に信者リンチ殺人事件が発生した
1994/07 覚醒剤 ルドラチャクリンのイニシエーション この時は5gを製造し、1995年2月までに最終的に227gを製造
1994/08 ホスゲン 数リットル 江川紹子ホスゲン襲撃事件
1994/08 青酸 数リットル 新宿駅青酸ガス事件
1994/08~09 VX 20g 第1次滝本太郎VX襲撃未遂事件 土谷は「現代化学」1994年9月号(8月15日発売)を読んでVXの製造法を知った
1994/08~09 ニトログリセリン 2000g 教団武装化
1994/09 VX 20g 第2次滝本太郎VX襲撃未遂事件 警察官がいたので襲撃は実行されず
1994/09 チオペンタールナトリウム 自白剤
バルドーの悟りイニシエーション 遠藤誠一と協力。チオペンタールは公証人役場事務長監禁致死事件被害者の死因にもなった薬物でもある
1994/11 VX塩酸塩 100g 駐車場経営者VX襲撃事件 効果が無いものを間違って製造。土谷によると、原因は遠藤がトリエチルアミンではなくジエチルアニリンを使用したため
1994/11/30 VX 50g 駐車場経営者VX襲撃事件
会社員VX殺害事件
被害者の会会長VX襲撃事件? 襲撃においては注射器が2本用意され、それぞれ1~1.5ミリリットルが吸入された
1994/12/25 VX 40g 被害者の会会長VX襲撃事件? 純粋VX。被害者の会会長事件については11月30日のものか12月25日のものか不明。使用量は駐車場経営者VX事件と同じ
1994/12/31 イペリット 200000g 教団武装化 1995年3月22日の強制捜査までに井戸に流して処分
1995/03/02 メスカリン硫酸塩 3000g イニシエーション 遠藤が標準アンプルを合成し、土谷が合成方法を改良した。麻原の誕生日に合わせた
1995/03/19 サリン 6~7リットル 地下鉄サリン事件 約30%がサリン。生成プロセスの決定、薬品・器具の提供、生成の助言、生成物の分析。生成は遠藤誠一、中川智正によるもの
化学兵器生成に至る経緯
1992年11月22日、麻原彰晃に「1997年から日本は崩壊する。教団を防御するため、マンジュシュリー(村井秀夫)に技術を貸してやってくれ」と言われ、村井の元で化学研究を始めた。
第1サティアンに化学合成の実験部屋を与えられた。村井はしばしば実験部屋を訪れ原爆やレーザー兵器製造・アンモニアなどの薬品製造プラント構想を語り、内心実現不可能な話だと感じたが、「否定的な観念を持つべきではない」と思い直す。1993年4月『毒のはなし』『薬物乱用の本』の2冊を見せられ「(化学の)勘を取り戻すために幻覚剤PCPを合成してみたら」と指示された。村井の「1年で自衛隊程度の軍事力をオウムで持つ」との発言に唖然としていると「潜水艦もビラ配りロボットも、もう作った」と返され、これらが実は噴飯物だったことを当時知らなかった土谷は、オウムの冊子に掲載されていたビラ配りロボットの写真を思い出し、「オウムの科学力は優れているんだ」と信じ込んだ。5月、村井の命令で渡部和実らとロシアへ行く。渡部らの成果のない仕事ぶりに呆れるが、「彼らは村井のもとで潜水艦やビラ配りロボットを完成させたのだから、これでちゃんと仕事はできているんだ」と自分を納得させた。その後も村井から原爆の製造など突飛な指示を受け驚くが、ステージの高い村井が嘘をつくことは考えられず、まずは村井曰く「簡単に作れる」というアンモニア製造プラントが実現されるかどうかを見届けることにした。
1993年6月、ついに化学兵器製造を指示される。「殺生をしてはならない」というオウムの教義を守りゴキブリも殺さない生活をしていたこと、イラン・イラク戦争で化学兵器がクルド民族に使われた残酷な場面を思い出したことで抵抗を感じたが、銃弾や砲弾を受けた死体写真を見せられ「化学兵器はダーク、戦闘機や戦車はクリーンというイメージは、軍需産業による情報操作で、軍需産業を動かしているのはフリーメイソンだ」と諭されたり、中国人民解放軍が通常兵器しか持たないチベット軍を壊滅させたことを調べさせられ「ハルマゲドン勃発時、教団を守るために武器を持つ。化学兵器を持つことが敵に対する抑止力になる」「オウムから仕掛けることはない。ファーストストライクはない」と説かれたりして、次第に化学兵器生成・所持への躊躇いは薄れていった。波野村の教団施設の強制捜査を行った熊本県知事の細川護熙が内閣総理大臣へ登りつめたことを指摘され、「教団は国家に弾圧されている」と危機感も植え付けられた。
筑波大学の図書館で、殺傷力や製造行程を考えて大量生産に適した化学兵器としてサリン生成を決め、専門書を読みあさって実験を開始。2ヶ月後には標準サンプル生成に成功、大量生産方法の研究を開始した。1993年10月にサリンプラントが完成し、必要な原料をダミー会社を通じて手配。サリン製造の協力者として化学知識を有する中川智正(医師)、実験助手として村井の元妻M(元神戸製鋼分析室勤務)・中川の恋人S(看護師)・男性信徒T(土谷のボディーガードをつとめた。ホーリーネームはキタカ)の4名が配属され、1993年11月から1994年1月にかけて約34kgのサリンを生成。生成中に縮瞳など複数回サリン中毒を起こし、治療にあたったSに「親子連れを見ると、この人たちも死ぬのだと思いサリン生成を葛藤したが、尊師に『ヴァジラヤーナの救済』だと言われ取り組んだ」と話している。Mによると、土谷は必要なこと以外は口をきかなかったという。土谷や中川らはサリンを「サリーチャン」「サッチャン」と隠語で呼んでいたが、周りの信者は薄々サリンを製造しているのだと気がついていた。この頃、オウム入信前の友人と連絡した際に「薬物を扱っていて体調が悪い」「尊師はびっくりするほど過激になった」と話している。また、何かを迷っている様子で「尊師に言われたことは何でもやるべきか」と信者に相談していた。
正大師の村井秀夫に畏敬の念を抱く一方、村井の指示は非化学的で失敗が目に見えていたこと、失敗がわかっていても言われた通りにしなくてはいけないことからバカらしくなり、一時期やる気を失っていた。
1994年6月19日、現世(オウム以外の一般社会)で唯一心を許せた学生時代の恋人A子に電話をかけ職場の話という形で愚痴をこぼした。20日にも電話をかけ、教団施設を離れて大酒を飲み車中で泥酔。翌朝A子宅を訪ねると、乳児をあやしているのを目撃。A子の献身の対象はかつては自分だったが、今は乳児であり「現実逃避をしてA子に会ったが、昔とはもう違う」「現世には自分の居場所も、一時避難する場所すらもないのだ」と深く傷つき自ら上九一色村へ戻っていった。教団に戻ってしばらくすると、村井から教団内の水分析を頼まれ、分析したところサリンを検出。翌月にはイペリットを検出した。坂本堤弁護士一家失踪事件を「教団を陥れる国家権力の陰謀」と信じていたこともあり、「尊師の説法通り教団は毒ガス攻撃されている」「自衛力を持たねば教団が潰される」と使命感に駆られて兵器生成に邁進した。1994年9月、友人に「人混みへ行かないでほしい」と連絡している。
1995年1月1日、 読売新聞が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」とスクープ。村井秀夫から化学兵器類の廃棄を指示され、中川智正らとともに、クシティガルバ棟内で保管していたたサリン、VXガス、ソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業中にサリン中毒にかかった。廃棄および設備の解体後、村井及び中川により、VXガスとサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド」が発見され、これが地下鉄サリン事件で撒かれたサリンの原料となる。
ハルマゲドン予言本「日出づる国、災い近し」に「ボーディサットヴァ・クシティガルバ師長」として登場し、サリンやVXガスを解説している。また、新種の化学兵器の開発方法や効果的な使い方などについて自説を展開している。
違法薬物生成に至る経緯
1993年12月頃、LSDが化学兵器として利用できることを文献で知った村井秀夫・中川智正からLSD製造を指示され、合成方法を調査。1994年2月末、都内ホテルで開催された教団幹部の会議で麻原彰晃から1kgの製造指示を受け、5月1日に遠藤誠一らとともに、標準サンプル数グラムを完成させた。完成したLSDを分析する際に試しに舐め、ゲラゲラ笑いだし竹刀を振り回すなどの幻覚症状を起こした。その後製造した115gのLSDは「キリストのイニシエーション」に使用された。
1994年6月頃、LSDの幻覚作用に感激した麻原に「幻覚作用のある薬物をもっと製造しろ」と命じられた村井秀夫から覚醒剤の製造指示を受ける。警察捜査が行われた場合を想定し、覚せい剤製造をしていると分からないような特殊な生成方法を考案した。7月半ば、標準サンプル製造に成功。その後227gを製造し「ルドラチャクリンのイニシエーション」に使用された。
クシティガルバ棟
オカムラ鉄工から持ち込んだ事務用品を収蔵してあった物置を改築したもので、1993年8月26日に完成。第7サティアン横にあった。当初は「土谷棟」、のちにクシティガルバ棟と呼ばれた。実験装置の注文から支払までを担当し、化学機器のカタログを見ては金に糸目をつけない買い方で次々に注文。2,300万円の「コントラボ」含む300点・総額6,000万円の機器を揃えた。大手メーカーでも持っていないような機械もあり、業者に用途を尋ねられ「コンピュータの半導体の研究に使う」と回答している。食事も寝泊まりも棟内でして、まるで修行僧のような生活だった。
逮捕・裁判
逃走・逮捕
地下鉄サリン事件直前の3月20日未明、クシティガルバ棟にも強制捜査が入ると考えて収集した論文を焼却処分し、実験データ・マジックマッシュルーム・信徒仲間から集めた現金30万円を持って、部下の信徒Hの運転する車で逃走、各地を転々とした。逃走中、川越のアジトで会った井上嘉浩に「あれ(VX)、すごいね。永岡は顎が外れたみたいだよ」と言われ、自分の生成したVXが被害者の会会長VX襲撃事件に使われたことを初めて知ったという。
4月中旬に村井秀夫から連絡を受けて上九一色村の教団施設へ戻った。第2サティアンの地下2階の隠し部屋でピアニスト監禁事件関与などで指名手配中の信徒を匿うよう指示され、4月20日から隠し部屋に潜伏。4月26日に警察により隠し部屋が発見され、16時27分に遠藤誠一ら7人と瞑想しているところを犯人隠匿容疑で現行犯逮捕された。未だ指名手配はされておらず、逮捕状も発行されていなかったが、テレビ報道などで「サリン生成責任者」として名前が挙がっていた。土谷は逮捕前、電車に乗った際に週刊誌の吊り広告や駅売店の新聞を見て、自分が顔写真付きで「化学班キャップ」として報じられていることを知っていたという。
逮捕後は「(坂本事件も松本事件もオウムとは無関係だと思っていたので)信徒が大勢逮捕されることで教団の嫌疑が晴れる」と意気込みを感じていたが大崎署に連行された時に「沿道に溢れたマスコミや一般人からのカメラのフラッシュを浴び、とんでもないことに巻き込まれた、悪のヒーロー・極悪人のように扱われていると思った。意気込みは吹き飛んだ」 と話した。
逮捕後、接見に来た青山吉伸弁護士の指示に従い、麻原彰晃を守るために黙秘していたが、取り調べに当たった警部から、麻原彰晃が内乱罪で逮捕される可能性があることを聞かされて供述を始め、7つの事件への殺人罪などに問われ再逮捕・起訴された。
第一審(東京地裁)
1995年11月10日の初公判で「職業は麻原尊師の直弟子」と答えたのち、第6回公判まで黙秘。第7回公判で初めて意見陳述を行い「麻原尊師への帰依を貫徹し死ぬことこそ私の天命」と述べた。化学鑑定人の証言にメモを取る以外は、教団内で「誰にでも穏やかに接する」を評された通り物静かで、自身の公判でも共犯者の公判でも黙秘を貫き被告席で敬虔な信徒といった様子で瞑想していた。
第75回公判で、初めてサリンやVXを製造したことを認めたが、用途は知らず殺意も共謀もなかったと無罪を主張。自らを「正大師や正悟師などの花形スターとは逆の『地味な存在』」と説明。上役だった村井秀夫や遠藤誠一の話になると突然興奮して、のちに明らかになる激情的な性格の一面を露わにした。村井が企画・開発したものがすべて頓珍漢だったことについて「村井さんは机上の学問では優秀だが20個のプロジェクト全てに失敗し、そのコントラストの酷さは世界中を探しても見つからない」と批判した。
私選弁護人を解任し、新たな弁護人を選定できなかったために国選弁護人がついたが、敵意をむき出しにして接見を拒否した。
裁判が終盤に進むにつれ、当初の物静かな様子は影を潜め、自らを「わがままな荒馬」と評して激情的な様相を呈した。検察官に歯向かい暴言を吐くなど不規則発言も多かった。起訴された多くの幹部が次々に脱会し、麻原批判に転じていったなか、強い帰依心を表明し続け、麻原擁護のため「事件はオウム潰しの陰謀説」を唱え始めた。豊富な化学知識に、日米開戦から細川政権成立までを1本の線に結びつけた独自の日本史観を交えて、身振り手振りに時には声色までを使った熱演で、検察側立証や化学鑑定書の些細な間違いに楯突き、一連の事件に使われた化学兵器は自分の生成をしたものではないし、何者かによる策略である、もしかしたら村井秀夫が関係しているかもしれない、自分も村井には爆殺されかけたのだ、との持論を展開した。
被告人質問で「人を殺傷するサリンの生成を何故続けたのか」と問われ、この日、仏祥院に監禁してまでオウムから脱会させようとした両親の「オウム壊滅の過程で正実の命が失われるのは仕方ない(父)」「死刑になって当然(母)」との検事調書が読み上げられたためか「私には、人生の帰り場所はないんですね。サリン生成を嫌です、とやめるのは下向(脱会)を意味する。生成して保存するだけ。軍事年鑑を読んでも米ソは使っていない」と答えた。「人生で一番後悔していることは何か」との問いには「(犬猿の仲だった)遠藤を殴らなかったこと。もし殴っていれば(遠藤が生成した地下鉄事件の)サリンも作れず、(地下鉄サリン)事件は起きなかった」と答えた。
一方で公判で遺族の証言を聞くのには耐えられず拘置所で嘔吐し、松本サリン事件の遺族・被害者の供述調書を証拠として提出している。
2003年7月14日、検察側は論告で「麻原彰晃の頭脳として、悪魔に魂を売り渡した殺人化学者」「サリン、VXの生成方法を確立して大量無差別殺人を可能にした。被告なくしてはサリンなどの化学兵器はなく、無差別大量殺人事件もなかった。刑事責任は松本被告に準じた存在」と厳しく糾弾、死刑を求刑した。論告の際、検察が土谷の唱える「陰謀説」を「荒唐無稽」「化学的合理性がない」と一蹴し「殺人化学者」と連呼すると「何言ってんだバカ」「早く死刑求刑しろよ」「(それまで法廷でやり合った同年代の検察官に対し)お前が死刑求刑するのかよ」と怒鳴りつけ、目があった傍聴人に「お前、何笑ってんだ」とすごんだ。
弁護側は「殺人に使うとは知らずに生成に関与させられただけで殺意はなく、事前共謀にも参加していない」と無罪を主張した。2003年9月18日の弁護側最終弁論では、一連の事件は陰謀とする自作の小説「AUM13(オウム・サーティーン)オウム事件を解析するための13の公式」(土谷の好きな漫画ゴルゴ13のパロディで、主人公「土谷正実」が共犯者の調書や裁判記録を元に、オウム事件が陰謀であると証明する13の公式にたどり着くという50ページの上申書)」を2時間かけて自ら朗読した。
ともに化学兵器製造に関与した中川智正、遠藤誠一はすでに一審で死刑判決を受けていたが、二人は殺害実行犯としていくつかの事件に加担していた。対して土谷は一度も実行犯になることはなく、事前謀議にも加わっておらず、化学兵器の製造方法を確立し、製造したのみであった。そういった意味で、土谷の刑事責任をどう裁くのかは、微妙な問題をはらんでいた。
しかし、2004年1月30日、服部悟裁判長は「人類の福祉や幸福の実現に用いる化学を悪用し、殺人用の化学兵器生成に傾注して無差別大量殺戮を可能にした。実行犯らにも増して厳しい非難を受けるのは当然」「松本事件では捜査段階の供述で他の教団幹部らが不特定多数を殺害しようとしていることを認識していたと供述している点から犯行を幇助する意思があった」「地下鉄事件では捜査段階の供述で自分が製造したサリンが近い将来に地下鉄を含む東京都内で使われることを知っていたと判断でき、共同正犯の責任を負う」として指名手配信者の隠匿の罪以外の6事件で有罪とし、死刑判決を言い渡した。判決の最中、傍聴席の信徒仲間を振り返って笑みを浮かべるなど、最後まで遺族への謝罪はしなかった。
「尊師を『麻原』と呼び捨てにした」などの些細なことから2度私選弁護人を解任して審理を止めたため、判決までに8年以上を要した。
控訴審(東京高裁)
控訴審には、第一審の化学知識の誤りを指摘する「控訴趣意書」と「控訴審に出廷する義務はない」と記した書面を提出。国選弁護人との接見を拒否し、公判及び判決に一度も出廷しなかったため、わずか4回で結審した。2006年8月18日の控訴審は控訴を棄却して死刑判決を維持した。
白木勇裁判長は、「裁判に向き合う姿勢を見せなかった。自ら控訴しておきながら審理を拒否する被告に更生の気持ちをくみとることはできない」と非難し「被告の関与なくして無差別大量殺人は起こらず、単なる工場長だったなどと矮小化はできない」と述べた。
上告審(最高裁)
弁護側は初めて6事件すべてへの加担を認めた。「共犯者として責任は免れないが、信仰心を利用させられただけ。ほう助犯にとどまる」として、無期懲役に減刑するよう求めたが、2011年2月15日に最高裁第3小法廷は被告側の上告を棄却。判決で那須弘平裁判長は、殺人行為に直接関わっておらず犯行の具体的計画を知らなかったとしても、「松本サリン事件で悲惨な結果が発生したことを認識しながらも、サリンやVXの生成を続け、地下鉄サリン事件などを引き起こしたと指摘し「一連の凶悪事件において極めて重要な役割を果たした、被告人の豊富な化学知識や経験を駆使することなくしてこれらの犯行はなし得なかった」と述べた。オウム真理教事件で死刑が確定するのは11人目。
「当然の結果。生涯謝罪の気持ちを持ちながら、自分に何ができるか考えたい」と話し、死刑を受け入れていた。一連のオウム事件の全容が分かるような文章を書くことを目指していたが、実現できないまま死刑執行された。
洗脳が解けるまで
逮捕後、捜査により麻原彰晃の説法通り「国家権力の陰謀」が明らかになると信じていたが、逆に麻原の嘘が次々と明らかになった。悲惨な被害状況への罪悪感から来る良心の呵責と麻原への帰依心との間で揺れ、離れかけたが、初公判直前の1995年9月に「光り輝いてるなか、麻原が現れる」という宗教体験をして信仰心が蘇り、一審が終わるまで麻原への命をかけた帰依を表明し続けた。
2003年2月28日の麻原の第250回公判には弁護側の最後の証人として出廷し、「偉大なる完全なる絶対なるグルに帰依し奉ります。最高の叡智であられる偉大なるシヴァ大神に帰依し奉ります。完全なる絶対なる真理に帰依し奉ります。すべてのタントラヤーナ、ヴァジラヤーナの戒律に帰依し奉ります。私の功徳によってすべての魂が高い世界へポアされますように」と麻原への帰依を改めて宣言し、笑みを浮かべて法廷を去った。
洗脳がとける転機になったのは2002年7月から2003年2月にかけて、麻原彰晃の一審に弁護側証人として出廷したことである。「堂々と証言してほしい」という土谷の期待に反して麻原は被告人質問で一言も証言しなかった。「尊師は弟子をほっぽらかしにして逃げたのではないか」と思い始め、2004年頃から教団との軋轢が生じ始めた。
決定打となったのは2006年12月、麻原の一審判決時の精神疾患の兆候が取り沙汰されるような異常行動を記した雑誌記事を読んだことである。「自分が麻原の一審に証人出廷した際、精神疾患の兆しはなく、自分の証言も理解していたし裁判長の反応も気にしていた。一審判決時に精神病を患っているはずがない、弟子達を差し置いて詐病に逃げた」と感じ、麻原から気持ちが離れた。
被害者遺族の苦しみと麻原の説く四無量心が相容れないという矛盾、麻原を観想することにより「監禁されたような精神状態」をもたらすようになったこと、麻原の娘側とのトラブルが重なったことから、「麻原のために命を捨てろ」と言い続けるアレフ関係者・団体(人権救済基金)との面会も2010年3月末を最後に断った。
死刑確定直前の2011年2月には報道各社に手記を寄せ、麻原に対し「個人的な野望を満足させるため、弟子たちの信仰心を利用しながら反社会的行動に向かわせ、多くの命が奪われたことに対し、教祖としてどのような考えを持っているのか、詐病をやめて述べてほしい」と語っていた。
晩年
晩年は東京拘置所に収監された。
2009年12月、2006年夏から接見していた土谷の入信のことも知る古い付き合いの女性と2009年に獄中結婚した。
作家の大石圭とは実家が隣同士の幼馴染。妻が大石圭のファンだったことから、妻を通じて交流が再開、2010年から2014年6月まで手紙のやり取りや面会を行っていた。大石に宛てた手紙には「化学兵器を作ったことを後悔」「麻原よりも先に死刑になりたい」などとつづられ、量子力学の本を写経して日々を過ごしていることを明かしていた。大石との接見は2014年から途絶えていたが、死刑執行後に土谷の妻から「ただ一人の友達で実の兄のように慕っていた」と聞かされたという。
2013年頃から精神に変調をきたし、元部下の菊地直子の2014年5月の公判では他の死刑囚の証人とは異なり拘置所での出張証人尋問となった。高橋克也の公判でも証人請求されたが、「精神不安定」「過去に法廷で不規則発言を繰り返した」ために却下された。
2014年11月以降、刑務官と揉めて懲罰に使われる保護房に収容されたり、閉居罰にかけられたりしていて、死刑執行当日の朝も保護房に収容されていた。
妻によると、普段は心穏やかで化学書を読んで過ごしており、再審請求もせずに死で償う覚悟をしていた。2018年3月14日のオウム死刑囚7人の分散収容のための移送について知らされると「取り返しのつかないことをしてしまい申し訳ない」と俯きながら話したという。
死刑執行
2018年7月6日、収容されていた保護室から刑場へ連行され、麻原彰晃やかつての麻原の寵愛を競い合った遠藤誠一と共に死刑が執行された。執行された7人の中で、再審請求をしていなかったのは土谷だけだった。53歳没。7月9日に多磨葬祭場で火葬され、遺骨は妻が引き取った。執行前、事件の被害者・遺族に残した言葉はなかった。妻との最後の面会は執行3日前の7月3日だった。
エピソード
遠藤誠一との対立
元上司の遠藤誠一とは不仲だった。
ボツリヌス菌や炭疽菌によるテロ失敗が重なり、遠藤の生物兵器に代わって土谷の化学兵器が重宝されるようになると、遠藤は土谷と一緒に仕事をしたがるようになった。土谷と協力して化学兵器を生成していた中川智正は遠藤に追い出され、1994年6月の省庁制導入により、土谷は正式に遠藤の部下になった。
遠藤の化学的に間違った指示、高圧的な言動に悩むが、1994年夏に「尊師の意思は大臣を通じて実現される」という麻原彰晃の説法を聞き、遠藤の指示に黙って従うのが自分の立場なのだと理解した。自分が求める理想の化学と、遠藤から出る非化学的な指示との落差については考えないようにして、雑念であると封じこめた。
しかし遠藤の冷遇は続いた。土谷と麻原が二人で会うことを禁止したり、遠藤の実験棟「ジーヴァカ棟」に出入りできないように鍵を取り上げたり、仕事を取り上げたりして2人の関係はさらに悪化。「やりたいことをやらせてもらえない」「手柄を取られた」と遠藤への不満を周囲に吐露するようになった。土谷は遠藤の配下から独立しようと、業者との担当窓口を探すなど模索をはじめた。
同年11月頃、二人の対立に気づいた麻原から電話で「殴り合いで遠藤の手を折っても構わないから言いたいことは言え、遠慮するな」と言われたが、ステージが上の遠藤に対し意見を述べることはできず、遠藤と土谷のそれぞれが管轄する部署を作ることになった。土谷の新部署名は麻原の意見で「究聖科院」に決まりかけたが、遠藤の横槍により、遠藤率いる「第一厚生省」に対し「第二厚生省」という部署名にされたうえ、以前と変わらず事細かに指図をしたり、土谷の部下に直接指示を出したり、土谷の部署が生成した薬物を遠藤の部署が納品する形にしたりして、下請け的な扱いをし続けた。
一連の事件の裁判が始まると、遠藤は自分の役割を矮小化して、土谷・中川などの悪口を言って責任をなすりつける証言を繰り返した。土谷は当初、自身の法廷でも共犯者の法廷でも黙秘していたが、1999年1月7日に井上嘉浩公判に証人出廷した際、遠藤(と村井秀夫)を名指しで批判したのを皮切りに、5月には自身の公判に証人出廷した遠藤を自ら尋問して詰め寄った。「遠藤の証言には信用性がない」として、教団時代の遠藤の言動を列挙して「あなたは法廷で真実を話すと宣誓したが、偽りのない教団生活を送っていたのか?」となじった。「遠藤は物や人に対する支配欲から出家生活を続けていた」「遠藤や村井がいたから教団は破滅した」と遠藤に対する批判の口調と罵倒は審理が進むにつれ激しくなり、被告人質問の1項目として「遠藤弾劾」をあげるまでになった(中川智正も遠藤の証言は嘘であるとして対立している)。
死刑確定後も、接見者の大石圭に宛てた手紙で、遠藤を「正直に話していない」と弾劾し、接見時も「遠藤が無能だから自分がサリンを作らされた」「自分の死刑が確定した時にたまたま遠藤とすれ違ったが実に嬉しそうにしていた」と怨念を募らせていたという。
人物評
「化学が大好きで、難しい本を買って黙々と勉強していた」 - 大学時代の友人
「(失恋で荒れた様子を見て)普段は穏やかで優しいが攻撃的な性格も潜んでいる」 - 学生時代の友人
「真面目で宗教的な人物」 - 麻原彰晃三女の松本麗華
「超真面目」- 元オウム幹部の野田成人
「非常に『義』に強い一方、非常に『情』にもろい」- 元オウム幹部の石川公一
「理想の上司」「部下に対する対応が丁寧で、長所をほめ、欠点に対して感情的にならない」- 土谷の元部下の菊地直子
「一途で思い詰める性格」「人を信じ過ぎ、『絶対』の人が一人いればいい」-幼馴染の作家大石圭
「頭脳的には素晴らしい化学者」-1995年に取り調べを担当した元警視庁捜査一課理事官
発言
「僕は親のペットじゃない!」- 両親が脱会・脱洗脳目的で矯正施設に監禁した際の反論
「オウムには大学以上の設備があり、1日20時間以上研究できる」
「尊師の本名が『松本』だから狙われたのではないか」-1994年の松本サリン事件後、オウムの犯行と知らずに村井秀夫の元妻と話し合った
「『断食して修行すれば、力がわいて夢精をしなくなるなど雑念がなくなる』という尊師の説法に共感した」-1995年取り調べを担当した元警視庁捜査一課理事官に話した
「職業は麻原尊師の直弟子」 - 1995年11月10日 初公判の人定質問において
「高校生の頃、人間は脳細胞の数%しか使われずに死んでいくと知った。非効率な生物だな、これを全て発揮する力があるはずだと考えた結果、ヨーガに興味を持った。本場のヒマラヤで修行することは現実的でなく、流れるように大学へ進んだ」- 1999年1月7日井上嘉浩公判で弁護人から「オウムに何を求めていたのか」と問われて
「(麻原は)きみはすごい、すごいね土谷くんと言ってくれる。私にはそういう人が合う」
「私には人生の帰り場所はない」「人生で一番後悔しているのは遠藤を殴らなかったこと」 -2003年7月14日、一審被告人質問にて
「傍聴席にいっぱい人がいる中で、遺族は人目をはばかることなく泣いた。人目に付かない自宅ではどれほどの涙を流したことか」-洗脳から解けたあと、被害者遺族に対する苦悩を明かした野田成人宛の手紙
「公判で涙目を流している遺族を見たとき、何も言葉がなかった。『すみませんでした』では軽過ぎる」「麻原氏は詐病をやめ、一連のオウム事件に関連する事柄について述べてほしい」- 2011年最高裁判決直前にマスコミ各社に寄せた書
「静かに死を迎えたい」「ご遺族、被害者の鎮魂を考えると、死刑は反対できない」- 2011年6月 確定死刑囚に対するアンケートへの回答
「化学兵器生成を『尊師・教団を守るための純粋な帰依としての実践』と考えていた」「サリン合成に興味はなく、心底から嫌だった」「しょせん私はオウム真理教のテロリスト」-幼なじみの作家大石圭へ宛てた手紙
「若い人の入信をとても心配している。純粋な子たちだから」-若い人のオウム入信が増えていることについての言葉
関連事件
幻覚剤PCP密造(麻薬及び向精神薬取締法違反)
松本サリン事件(殺人幇助)
駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂)
会社員VX殺害事件(殺人)
被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂)
地下鉄サリン事件(殺人、殺人未遂)
手配信者の隠匿(犯人蔵匿)(無罪)
中川 智正(なかがわ ともまさ)
1962年10月25日 - 2018年7月6日)は、元オウム真理教幹部。元死刑囚。岡山県出身。ホーリーネームはヴァジラ・ティッサ。 2018年、死刑執行。
人物・経歴
岡山市内の繁華街で洋服販売店を営む両親のもとに長男として生まれる。1978年3月岡山大学教育学部附属中学校。1981年3月岡山県立岡山朝日高等学校卒業。高校時代には「嫌いな人間はいない」と豪語。手塚治虫「ブッダ」の影響で医師の道を目指し、一浪を経て1982年に京都府立医科大学医学部医学科に進学。大学では柔道部に所属した。
大学祭では実行委員長を務め、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。また、障害者のボランティアをしていて、学園祭で車椅子を押して会場を回るなど、正義感が強く優しい青年だった。
入信・出家
1988年2月24日オウム真理教に入信。
オウムと最初の出会いは、1986年11月にたまたま見かけた麻原の著作『超能力秘密の開発法』を読んだことである。当初は特に興味もわかず、本も途中までしか読まずに放置した。しかし医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場をのぞいたことが発端となった。1988年1月に宣伝ビラや情報誌でオウム真理教の音楽コンサート「龍宮の宴」の開催を知り、どうしても行かねばならぬように気がして、1988年1月に最終公演を観に行った。初めて麻原に会ったが、麻原に後ろからいきなり「中川」と声をかけられた。初めて会ったのになぜ自分の名前を知っているのだろうと驚きを感じた。直後大阪支部道場に行って早川紀代秀と話した。それでも入信する気は起きなかったが、「龍宮の宴」から数日後「お前はこの瞬間のために生まれてきたんだ」という幻聴が聞こえるなどの神秘体験を経験。この神秘体験は強烈で「口では言い表せないくらいの衝撃で、もう俗世では生きて行けない」とまで考えた。1988年2月に再び大阪支部に行き平田信、新実智光、井上嘉浩と話し、入信を決意した。
1988年5月に医師免許を取得し、研修医として一年ほど勤めたが、6月に体から意識が抜け出すのを感じて手術室で失神。精神科も受診したが通院は続かず、1989年8月31日、周囲の反対を押し切り退職し看護師の恋人とともに出家(恋人はのちに中川とともにサリン生成に従事し逮捕)。
出家後
1990年7月頃にオウム真理教附属医院が開設されると同医院の医師となったが診察は行わず麻原彰晃の主治医として健康管理などをしていた。麻原の子を孕んだ石井久子の帝王切開も担当したが、経験が無かったので薬の投与を間違え石井を殺しかけたこともあった。
1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川3区で立候補し落選。
教団が1994年に省庁制を採用すると、法皇内庁長官になり、側近として活動した。地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格。
1995年8月22日、自ら申請して医師免許取消処分。
事件との関わり
坂本弁護士事件
出家してわずか2ヵ月後、坂本堤弁護士一家殺害事件に関わることになる。 犯行時に中川がプルシャ(オウム真理教のバッジ)を事件現場に落としたため、オウム犯行説が当初から疑われ教団は反論に追われることとなった。だが結局1995年まで真相が明らかになることはなかった。
化学兵器
1993年10月からは教団の武装化路線の本格化と土谷正実によるサリン合成の成功に伴い、土谷とともに化学兵器製造に従事。池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件に関わる。松本サリン事件ではサリン生成に従事した他、実行犯に加わった。中川は土谷や遠藤誠一と共にサリンやVXといった兵器の製造管理を任されていた(土谷正実#兵器と違法薬物の製造も参照)。土谷と遠藤は対抗意識から仲が悪くなっており、中川が緩衝材の役割を果たしていた。
1995年1月1日、 読売新聞朝刊が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」とスクープし、土谷正実とともに土谷の実験棟「クシティガルバ棟」で保管していたたサリン、VXガス、ソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業および廃棄設備解体後、廃棄しそびれたサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)」が発見され、これがのちの地下鉄サリン事件で使用されたサリンの原料となる。ジフロを隠しもっていたのが中川か井上かは裁判でも結論が出ていない。地下鉄サリン事件では土谷正実の製造アドバイスのもと、遠藤誠一とともに遠藤の実験棟「ジーヴァカ棟」でジフロからサリンを生成の上、袋詰めにし、サリン中毒の予防薬「メスチノン錠剤」も準備し、遠藤を介して村井秀夫に引き渡した。
逮捕
地下鉄サリン事件後、井上嘉浩、小池泰男、豊田亨、富永昌宏らと共に八王子市のアジトに逃亡。麻原の捜査撹乱命令を受けて爆薬RDXを製造し1995年5月16日に東京都庁小包爆弾事件を起こす。1995年5月17日に逮捕される。
公判
一審
一連のオウム真理教事件で計11件25人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた。
1995年10月24日に開かれた第一審(当時池田修裁判長)初公判では、ロッキード事件の田中角栄の第一審判決公判(3904人)を超える4158人の傍聴希望者が集まった。公判では当初、事件そのものへの証言を避け裁判長から「あなたはいつも曖昧模糊としている」と批判されたが、一審途中から供述を行い、「消えてしまいたい」と語った。
麻原の第200回公判に証人として出廷した際には、「尊師がどう考えているか、弟子たちに何らかの形で示してもらいたい。私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた。また最終意見陳述では「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」と謝罪した。
地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、教団としてサリンの材料のほとんどが証拠隠滅のために処分される中で、中川が密かに所持していた一部の原料から生成されたと検察側は主張した。中川とその弁護団はこれを否定、中川らが処分できなかったサリン原料の一部を井上嘉浩が保管していて、それが地下鉄サリン事件のサリン原料になったと主張した。中川の一審判决はこのサリン原料の由来を「不明」とし、最終的にこの判决が最高裁で確定した(詳細は地下鉄サリン事件#事件で使用されたサリンの原料は誰が保管していたのかを参照)。
中川の状態は文化人類学やシャマニズムでいう巫病の状態であったとの指摘もされており、弁護側は被告人の経験した神秘体験とは即ち幻覚などの病気であり、正常な精神状態に無かったと主張した。
2003年10月29日、東京地方裁判所での第一審(交代した岡田雄一裁判長)で死刑判決を受けた。
控訴審以降
控訴審では、2組3名の医師が、入信・出家から各犯行時における彼の精神状態について意見書を提出した。それらによれば彼は入信直前から解離性精神障害ないし祈祷性精神病を発症していた。犯行時の責任能力については、「完全責任能力」「限定責任能力」と医師の判断が分かれた。
2007年7月13日の東京高等裁判所での控訴審(植村立郎裁判長)では、彼が精神疾患にかかっていた可能性を認めたが、責任能力はあったとし死刑判決は覆らなかった。
その後、弁護団は上告したが、その上告趣意書の中で、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士の意見書や絞首刑に関する過去の新聞記事を引用し、「絞首刑では死刑囚はすぐ死亡するわけではない」「首が切断される場合もある」などとして、絞首刑は憲法36条が禁止した残虐な刑罰である、首が切断された場合は絞首刑ではないから憲法31条に反するなどと主張した。
2011年11月18日、最高裁第2小法廷で、中川被告人の上告が棄却されたことで、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは12人目。
死刑確定から死刑執行へ
2018年(平成30年)3月14日までは、中川を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が、東京拘置所に収監されていた。しかし、2018年1月、高橋克也の無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した。
その間、中川は、毒物学の専門家であるアンソニー・トゥーと、度々面会を行った。2018年3月13日、14回目の面会時、中川は、トゥーに対し、身辺整理を始めたことを明かし、「これが最後の面会になるかもしれない」と伝えた。
オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(宮城刑務所仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた。中川は同日付で、広島拘置所に移送された。トゥーとの面会は広島拘置所移送後の4月が最後となったが、そのときも中川は死刑に対する怖れを見せず、別れ際に「先生もお元気で。これが最後の面会かもしれません。英語の論文では大変お世話になりました」と言い残した。
2018年7月6日、麻原彰晃らと同日、広島拘置所で死刑が執行された。享年55。「自分のことについては誰も恨まず、自分のしたことの結果だと考えています。被害者の方々に心よりおわび申し上げます。施設の方にも、お世話になりました」と言い残した。遺体は執行翌日、家族が引き取っている。
証人
2015年2月19日に開かれた高橋克也の第20回目の裁判員裁判公判(東京地裁・中里智美裁判長)で、証人尋問に出廷。麻原彰晃について、「絶対的なもの。人間ではなく化け物のようだと思っていた。殺されるより怖い存在だった」と証言した。中川は地下鉄サリン事件2日前に村井秀夫からサリン製造を指示された際、麻原の意向だと知り、「絶対にやらないといけず、理由は聞かなかった」と証言した。中川は2011年に死刑が確定しているが、過去にもVX事件と目黒公証役場事務長監禁致死事件の審理でも証言している。
その他
甲本ヒロト、水道橋博士らとは付属中学校時代の同期生である。
米国の政府系のシンクタンク新アメリカ安全保障センター(CNAS; The Center for a New American Security)のリチャード・ダンジック(en:Richard Danzig)元米海軍長官のオウム真理教に関する研究に協力し、ダンジックが中心になって発行したレポートの中で、中川に対しては「特に、中川智正博士(ママ)の惜しみない情報提供には恩義を感じていることをここに記しておきたい。本稿がもし、この種の攻撃脅威に対する理解を深め、防止につながるものになるとすれば、それはこれらの多大なご協力によるものである。」と評されている。
死刑確定後は、俳人の江里昭彦と俳句同人誌「ジャム・セッション」を創刊し、独房での内省の句を詠んでいる。俳人・金子兜太は「『オウム』という先入観抜きに」「一人の作品として読みました。」「青少年期を詠んだ句は澄み、柔軟な感性さえ感じます。」「それに比べて、事件後の自分を詠んだ句は硬い。動揺を見せまいとする覚悟のようなものが感じられます。」と評している。
俳人・恩田侑布子は、「奈落の底から生まれた俳句は勁い。認識と感情が一本の草になって立っている。草は人間とは何かを問う境界線になろうとしている」と書いた。
アンソニー・トゥーとの交流
米国コロラド州立大学名誉教授アンソニー・T・トゥ(台湾名:杜祖健)博士と刑死するまでの間に15回にわたって面会しており、同博士は2012年の時点で「今回も中川氏が率直に話してくれたので、多くの事柄が明るみに出た。オウム教団の化学兵器、生物兵器の事情がさらに詳しくわかった」と語っていた。死刑確定から刑の執行まで、法務省はトゥーと元アメリカ海軍長官で退官後にワシントンで紛争予防のシンクタンク「新アメリカ安全保障センター」を運営するリチャード・ダンチックの2人には特別面会を許可していた。ダンチックは約20回の面会を行っている。ダンチックらはプロジェクトとしてなぜサリン事件が起きたのかを調査しているのに対し、トゥーは毒物学の専門家として、オウムがサリンやVXガスの製造に至った背景を探っている。本来10分の面会時間を特別に30分許可されていた。中川は独房生活のさびしさゆえに面会を楽しみにしているとトゥーは語っている。通常死刑が確定すると、肉親と弁護士以外は面会できないが判決が確定前に文通していた場合は例外となる。トゥーは最高裁で上告棄却で死刑確定した2011年11月18日の2週間前に文通を開始しており、面会できる権利を得た。面識はなかったもののダンチックより中川に会うことを勧められた。当初は土谷正実死刑囚が科学の専門家であったため、土谷に会うことを希望していたが土谷の刑が確定していたため面会ができず、中川に連絡を取ったところ中川からも会いたい趣旨の連絡があったため2011年に最初の面会を行った。死刑囚としての中川の心情を不安定にさせないよう、死刑や殺人という言葉の使用は避けていた。
1994年にトゥーは専門誌『現代化学』に、サリンやVXガスなどの化学兵器に関する論文を書いており、中川や土谷の2人もそれを目にして土谷は自分でもVXガスの製造が可能であると考え、資料を集め作成したと中川から聞かされた。中川は、警察がかなり早い段階で上九一色村のサティアンの土壌からサリンを検出できたことを不思議に思っていたが、面会の際にトゥーは自分が警察に協力したと告げたところ、中川は1分ほど黙ってしまったという。が、その後「ああ、そうでしたか。先生がお手伝いしたのですね。でも、オウムがつぶれてよかったです。でなければ、殺人がもっとたくさん起きていた」と言った。トゥーは金正男暗殺事件の前に実際に人間に対してVXガスを使ったという公式の記録はなく、中川が唯一の経験ある人間であることから、その経験の記録は残すべきと考えるが、日本政府がそれを行っていないことを批判している。
2016年10月には、化学専門月刊誌で、サリン事件の概要を説明するとともに、「地下鉄サリン事件のサリン原料を保管していたのは誰か」「第7サティアンのサリンプラントでサリンができていたのか」「サリンを使ったテロが再び日本で起こるか」「どうして高学歴の科学者がオウム真理教に入って事件を起こしたのか」等のアンソニー・トゥー博士からの質問に答えている。
2017年2月13日にマレーシア・クアラルンプール国際空港で起きた金正男暗殺事件に関し、マレーシア警察によるVX検出の発表前に、金正男がVXで襲撃された可能性に言及した手紙を獄中からアンソニー・トゥ博士に送っていた。
2018年、アンソニー・トゥーと連名で執筆した化学兵器の神経剤VXに関する論文が5月21日、日本法中毒学会の学術誌「Forensic Toxicology」電子版に掲載された。この論文の掲載に中川はこだわりを持っていたという。
金正男暗殺事件を取り上げた論文が「遺稿」として2018年7月に雑誌『現代化学』8月号に掲載されると報じられ、7月18日発売の8月号に「オウム元死刑囚が見たVXガス殺人事件 VXを素手で扱った実行犯はなぜ無事だったのか」のタイトルで掲載された。
中川とトゥーの面会記録は中川の刑の執行までは公開できないことになっていたため、執行後の7月26日にKADOKAWAから『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』のタイトルで公刊された。印税の20%は中川の遺族に渡されることになっている。本書は発売前から多くの反響が寄せられたことから、KADOKAWAは異例とも言える発売前の重版をおこなった。
他
オウム真理教・指名手配犯の平田信・菊池直子・高橋克也も逮捕され刑が言い渡された。オウム真理教の教祖麻原彰晃(本名・松本智津夫・63歳)や弟子たち(早川紀代秀68歳、中川智正55歳、井上嘉浩48歳、土谷正実53歳、新実智光54歳、遠藤誠一58歳)の死刑が2018年7月6日早朝執行された。すべての弟子たちが死刑執行されたのは2018年7月26日(岡崎一明死刑囚(57)、横山真人死刑囚(54)、端本悟死刑囚(51)、林泰男死刑囚(60)、豊田亨死刑囚(50)、広瀬健一死刑囚(54))である。弟子よりも、教祖は”殉教者”にならないだろうか?墓はつくらず骨も粉末化の後に、海へ散骨になったという。神格化を防ぐために。再犯防止戦略を急ぐしかない。二度と“オウム真理教”のようなテロ集団を生んではならない。
こうして佐藤良夫や警視庁広報部や我々の「オウム真理教の真実」への追及は、本当におわった。国破れて山河あり、城春にして草青みたり。
おわり
「オウム真理教 略歴」「参考文献」
オウム年表
一連の事件における被害者数は、死者30人・重軽傷者6000人以上。さらに教団内に関しては判明しているだけで死者5人、行方不明者は30人以上。一連の事件に関与した教団幹部に対し、刑事裁判では13人の死刑判決、5人の無期懲役判決が出されている。
逮捕者についてはオウム真理教事件#逮捕者を、違法薬物・爆薬・化学兵器製造については土谷正実#兵器と違法薬物の製造を参照。
1983-1988年
1983年
麻原彰晃こと松本智津夫、東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設
1984年2月14日
鳳凰慶林館に代わり「オウムの会」を東京都渋谷区で創設。当初はヨーガのサークルであった
1984年5月28日
株式会社オウム設立
1985年秋
オカルト雑誌「ムー」「トワイライトゾーン」に麻原の空中浮揚写真が掲載される
1985年
麻原、「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたとする
1986年4月
「オウム神仙の会」に改称
ステージ制導入
1986年7月
麻原がヒマラヤで最終解脱したと主張する
1986年9月
僧伽(出家制度)発足
1986年
『超能力秘密の開発法』『生死を超える』出版
1987年2月
大阪支部開設
1987年2月24日
ダライ・ラマ14世とインドで会談
1987年7月
インド訪問。麻原、この時に現地の高僧からタントラ・ヴァジラヤーナを伝授されたとする
1987年8月
「オウム真理教」に改称。本部を渋谷区から世田谷区に移し、月刊誌『マハーヤーナ』発行開始
1987年11月
ニューヨーク支部を開設(初代支部長は上祐史浩)
1988年7月
日本シャンバラ化計画発表
1988年7月6日
ダライ・ラマ14世とインドで会談
1988年8月
静岡県富士宮市に富士山総本部を開設
1988年9月22日
在家信者死亡事件。富士山総本部に来ていた在家信者が修行中に死亡。遺体は、護摩壇で焼かれた上に、旧上九一色村の精進湖へ遺棄
1988年11月
江東区に東京総本部を開設
1988年11月5日
トンネル無断工事で静岡県を告訴
1989年
坂本弁護士事件で一時危機を迎えるも、事件が迷宮入りしたことでオウムは生き延びた。
2月10日
教団最初の殺人事件、男性信者殺害事件発生
3月1日
東京都に対し宗教法人の認証申請
4月24日
東京都庁、文化庁に麻原と信者約300人が押し寄せ、宗教法人早期認可を求め抗議
6月22日
坂本堤弁護士らがオウム真理教被害対策弁護団を結成
8月16日
東京都選挙管理委員会に真理党の政治団体設立を届出
8月25日
宗教法人認可(8月29日設立登記)
10月2日
サンデー毎日が『オウム真理教の狂気』の連載をスタートし、高額な布施や未成年出家者に対する親権者の監護権侵害などを取り上げ糾弾する。各メディアもこれに追随
10月9日
10月16日
麻原、文化放送の番組に出演しバッシングに対して反論
10月中旬
毎日新聞社本社、文化放送、文化放送プロデューサーなどに対してビラ貼りや街宣車での嫌がらせを実施。麻原、毎日新聞社の爆破やサンデー毎日編集長牧太郎の暗殺を構想
10月21日
オウム真理教被害者の会設立
10月26日
青山吉伸、上祐史浩、早川紀代秀が東京放送(現・TBSテレビ)千代田分室を訪れ、取材内容に抗議、放送を中止するよう圧力をかける(TBSビデオ問題)
10月31日
夜、青山吉伸、上祐史浩、早川紀代秀が横浜法律事務所を訪問した。10月29日に申し入れた事前の約束では青山1人の予定だった
11月初頭
麻原、坂本堤の殺害を指示
11月4日
坂本堤弁護士一家殺害事件。遺体はオウムが持ち出したため、失踪扱いに。周囲は当初から拉致と見ていた
11月7日
坂本堤弁護士に関して捜索願が提出された
11月15日
坂本堤弁護士に関し公開捜査に切り替えられた
11月18日
坂本堤弁護士に関し教団が記者会見し「(現場に落ちていたプルシャについて)坂本弁護士が被害者の会の親から預かったものか、第三者が故意に置いたと考えるのが自然」「警察からは事情聴取も受けていない」「申し入れがあれば捜査に協力する」と発表
11月19日
前夜の会見を受けてか日曜日にも関わらず神奈川県警察は教団幹部に事情聴取を申し入れたが、教団側は「集中修行の期間」を理由に事情聴取を拒否
11月21日
11月19日に幹部事情聴取を拒否した理由である集中修行の期間であるにもかかわらず、幹部がアムステルダムに出国
11月29日
富士宮市議会で社会党の渡辺利光市議がオウム真理教について市当局に質問。富士宮総本部には7月に216人が住民登録されていたが、8月に東京都杉並区宮前のある住所に向けて一斉に転出が始まり、11月1日までに17人に減ってしまったという
11月30日
教団はボンで会見。坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言だと主張。一行にはドイツ語を話せるものがおらずボン支部へも道に迷い語学が堪能な記者が見かねて教えたという
12月24日
読売テレビ制作のテレビアニメ「シティーハンター3」第11話に麻原彰晃の顔写真のコマが一瞬挿入される(サブリミナル)。1995年5月2日に発覚。読売テレビは同年5月23日付で郵政省(現:総務省)から「番組基準の遵守を問われるような放送を行い、社会問題を引き起こした」として注意の行政指導を受けた
年末
一行はニューヨークから帰国後テレビの生番組にフル出演、その後さらにインドに渡り帰国
1990年
選挙で惨敗しいよいよ武装化に着手。熊本に進出し住民との戦いも始まった。
1月7日
麻原自身を含む幹部25名が真理党を結成し中野文化センターにおいて第39回衆議院議員選挙への出馬表明。ただし演説したのは麻原だけ、他の24人は本名さえ明かさずホーリーネームでの出馬であった。会場では麻原のお面をかぶった運動員が踊り、「ショーコーショーコー」と麻原の名前を連呼する歌を流し、集まった300人以上の信者が手拍子するという状態で、江川紹子は「選挙運動といっても、その実質は教団や教祖の宣伝」としていた
2月18日
第39回衆議院議員総選挙執行。全員落選。これ以降、社会敵視傾向に拍車がかかる(オウム真理教の国家転覆計画)
3月
生物兵器ボツリヌス菌・ボツリヌストキシンの研究を開始
4月
石垣島セミナー。教団の立て直しに成功。ただし当初の目的であったボツリヌステロは実行できず
4月~5月
首都圏にボツリヌス菌・ボツリヌストキシンを散布するが失敗
5月
日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村の土地を5000万円で入手・造成。シャンバラ精舎とする
波野村でホスゲン爆弾計画開始
6月1日
オウム真理教付属医院設立
8月16日
オウム真理教国土利用計画法違反事件。熊本県が国土利用計画法と森林法違反で教団を告発
10月22日
波野村の教団施設が熊本県警の強制捜査を受ける。このため教団武装化を中断
10月30日
国土法事件で早川紀代秀と満生均史が出頭、逮捕
11月
国土法事件で青山吉伸、石井久子、大内利裕が逮捕
時期不明
山梨県旧上九一色村に進出開始
1991年
昨年末の国土法事件と強制捜査を受けて武装化路線を中断し、文化活動にシフトした。
3月
ダンスオペレッタ『死と転生』公演開始
3月7日
ニフティサーブに「オウム真理教会議室」を開設
5月26日
~6月9日
インド訪問
7月3日
~7月13日
インド訪問
8月19日
~8月26日
チベット訪問
8月26日
~8月31日
ラオス訪問。国賓待遇
9月28日
『朝まで生テレビ!』にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫、杉浦実が出演。池田昭、島田裕巳など兼ねてからオウムに共鳴的であった宗教学者も出演した。オウムのライバルであった幸福の科学幹部らも出演し激論を繰り広げた。
番組途中に麻原が番組の運行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いなどと興奮し、大声で司会の田原総一朗に食ってかかり、パネラーの一人であった下村満子が「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」と麻原をたしなめる一幕もあった。江川紹子はオウム側が優勢であったと評しており、実際にこの番組をみてオウムに入信した信者もいた
9月30日
~10月3日
スリランカ訪問
10月
麻原、キリスト宣言。自分をキリスト(メシア)であるとする
10月5日
~10月12日
インド訪問
11月
信州大学、東北大学、気象大学校、東京大学、京都大学、世田谷区民会館で麻原講演会
12月
麻原、『ビートたけしのTVタックル』に出演
1992年
昨年同様に文化活動を行っていたが、徐々に武装化を再開。
1月14日
マハーポーシャ設立
1月24日
マハーサンパッティ設立
2月
来日したロシア共和国のオレグ・ロボフらと会談。ロシア進出のきっかけとなる
3月7日
~3月16日
ロシア訪問。ルツコイ副大統領と会談
4月1日
オウム真理教放送「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」開始。ロシアから放送
5月
スリランカ訪問
5月27日
教団が長野県松本市に取得した土地の地主が、売買・賃貸契約の無効と土地の明け渡しを求めて教団を提訴
6月
不動産会社「マハーポーシャ・オーストラリア」を設立、教団の核開発計画のため、直後に500,000オーストラリアドル(約3000万円)で西オーストラリア州パースの北東700kmにあるレオノーラ地区バンジャウォーン(バンジャワン)牧場を購入した
6月16日
「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」、英語放送開始
北海道大学、京都教育文化センター、名古屋大学で麻原講演会
7月
インド訪問。ダライ・ラマ14世と会談
スリランカ訪問。チャーター機の機長に機内食がまずいと言いがかりをつけトラブルに
ブータン訪問。国賓待遇。麻原にブータン政府から「最聖」の称号を与えられたと発表
夏
炭疽菌研究開始。以後、徐々に武装化を再開
9月
モスクワ支部を開設(初代支部長は新実智光)
麻原が新実智光、遠藤誠一、豊田亨ら幹部を含む25人の信者を連れてオーストラリアを訪問、バンジャウォーンでウランを探すため約1ヶ月滞在。パース空港到着時、一行が塩酸などの劇薬を所持していたことが明らかになり、遠藤誠一など2人が危険物持ち込みで罰金刑に処せられた。豊田亨は現地に「豊田研究所」と札のついた専門の化学実験室を持っていた
9月14日
オカムラ鉄工乗っ取り事件
パソコン通信のBBS「オウム真理教ネット」開設
10月
コンゴ訪問
11月
キーレーン交響楽団結成
東京工業大学、信州大学、大阪大学、千葉大学、横浜国立大学、東京大学、京都大学で麻原講演会。麻原、講演に同伴した村井秀夫ら信者に「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と発言
インド訪問。マハーボディ寺の菩提樹の下に座りトラブルに
11月23日
京都大学で講演し「2000年までに破局が訪れる」と予言
12月10日
南青山に東京総本部開設。同時に亀戸の旧総本部は新東京総本部と改称
12月18日
松本支部での説法で「93年の後半、特に10月以降急激に新しい変化」と予言
1993年
生物兵器計画がことごとく失敗していた最中、サリンの製造に成功。
1月
台湾訪問
3月
台湾訪問
3月21日
麻原が杉並道場での説法で「1997年にハルマゲドンがある」旨の発言
春
村井秀夫が土谷正実にサリン製造を指示
4月2日
化学薬品購入目的のダミー会社「長谷川ケミカル」設立
4月8日
麻原が広島支部で説法、この頃から説法に「核兵器」「細菌兵器」「化学兵器」「軍備」という言葉が頻発するようになる
4月9日
麻原が高知支部での説法で初めてサリンに言及
5月
富士清流精舎建設
6月
皇太子成婚パレード炭疽菌散布計画
6月6日
オウム真理教男性信者逆さ吊り死亡事件。遺体は幹部らによって遺棄
6月28日
第1次亀戸異臭事件。新東京総本部から炭疽菌を散布するが失敗
7月2日
第2次亀戸異臭事件
8月
土谷正実、サリン合成に成功。同時にサリンプラントの建設を開始(サリンプラント建設事件)
首都圏に炭疽菌を散布。皇居や創価学会に炭疽菌を散布したが失敗
8月4日
化学薬品購入目的のダミー会社「ベル・エポック」設立
9月
インド訪問
10月
麻原、教団が毒ガス攻撃を受けているとの主張を始める
11月
第1次池田大作サリン襲撃未遂事件。サリンを使用した初の事例
ロシア訪問
12月18日
第2次池田大作サリン襲撃未遂事件。現場警備担当の創価学会員数名負傷。実行時に防毒マスクを外した新実智光が重症
時期不明
化学薬品購入目的のダミー会社「下村化学」、ロシアへの射撃訓練ツアーを企画した「ドゥブニールミリオネール」などを設立
1994年
化学兵器や麻薬を手に入れたオウムはいっそう過激になり、多くの事件をおこした。
1月30日
薬剤師リンチ殺人事件
2月
中国本土訪問
サリン30キロ(青色サリン溶液)製造。後に滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件で使用
2月27日
麻原、「東京にサリン70トンをぶちまくしかない」と幹部に説法
2月28日
自動小銃の密造を開始。旧ソ連のAK-74を密造
3月27日
宮崎県旅館経営者営利略取事件、被害者は5ヶ月間監禁され、解放後の9月2日に告訴
4月
富士川河口付近でサリン散布実験
信者らがロシアを訪問し軍事訓練ツアー。化学兵器探知器、LSD原料、小銃弾などを持ち帰る
村井秀夫が土谷正実に爆薬サンプル製造を指示
5月1日
LSD密造開始
5月9日
滝本弁護士サリン襲撃事件
6月
村井秀夫が土谷正実に覚醒剤製造を指示
6月1日
Mi-17到着
6月27日
麻原の体調悪化に伴い省庁制の発足式を午前0時から都内うまかろう安かろう亭で挙行。22省庁を開設し大臣と次官を設置。当時の教祖、麻原は神聖法皇に。松本麗華を法皇官房長官とする
夜、松本サリン事件。長野地裁松本支部官舎に隣接する住宅街でサリンを噴霧し、8人を殺害。重軽傷600人。当初は被害者の一人であった河野義行に疑惑の目が集まった
7月
覚醒剤密造開始
フランス訪問
7月9日
未明、第7サティアンに建設中のサリンプラントで薬品漏れ事故が発生。周辺で異臭騒ぎがあり、治療が必要な人的被害はなかったものの近くのブナなどの葉が褐色に変色、教団側は否定したが地元の人たちは発生源は教団だと確信していた
7月10日
オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件。スパイ疑惑をかけられた信者が拷問の末死亡
7月15日
元仙台支部長温熱死事件
夕方、7月9日に続き第7サティアンで再び異臭騒ぎ
7月28日
女性看護師拉致監禁事件
7月30日
河野義行が退院して「顔も名前も出して結構です」として記者会見を開き、自らの無実を訴えた
8月
ロシア訪問
村井秀夫が青酸、ホスゲン製造を指示
8月10日
教団「雄叫び祭」を開催。内容は早食い大会やカラオケ大会など
河野義行が病院で書いた手記が文藝春秋9月号に掲載されて発表され、この後徐々に報道の扱いが変化して行く
9月頃
土谷正実、VXの合成に成功
9月
滝本太郎弁護士VX毒殺未遂事件
機関誌「マハーヤーナ」に代わって過激路線の「ヴァジラヤーナ・サッチャ」が創刊される
9月20日
江川紹子ホスゲン襲撃事件
11月
強制捜査の噂が流れサリンプラント建設を一時中断
ニューナルコ開始
11月
サリンプラントで異臭騒ぎ
強制捜査の噂が流れる
11月4日
滝本太郎弁護士ボツリヌス菌毒殺未遂事件
12月2日
駐車場経営者VX襲撃事件
12月5日
鹿島とも子長女監禁事件
12月10日
ピアニスト監禁事件
12月12日
会社員VX殺害事件
時期不明
警察当局が異臭騒ぎのあった第7サティアン付近の土を採取し、警察庁科学警察研究所で調べたところ、サリンの分解物メチルホスホン酸及びサリン製造の際の副生成物メチルホスホン酸イソプロピルが検知され、松本サリン事件で現場に残留していた副生成物とほぼ一致したことが判明
1995年
オウム破滅の年。
1月1日
「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」中で麻原彰晃は「95年は、社会的に見ても、世界的に見ても、非常に不安定な時代を迎えるわけだが、オウム真理教にとっては逆に外的な圧力は弱められ、大発展の年になるはずである」と予言したが、これは大きく外れた
読売新聞が上九一色村の第7サティアン周辺でサリンを生成した際の残留物質である有機リン系化合物が検出されたとスクープ、これを受けてサリンプラントを解体しシヴァ大神を祭った神殿に改装するよう麻原が指示。保有していたサリンも処分された
密造していたAK-74が完成
1月4日
上九一色村の教団施設にサリンを噴霧したとして、教団信徒18人が村内の肥料会社社長を殺人未遂罪で告訴。教団は会見を開いて毒ガス攻撃を受けているためサリン副生成物が検出された旨主張、上九一色村のオウム対策委員会副委員長で産業廃棄物処理業を営んでいた人などを殺人未遂罪で刑事告訴した旨明らかにした。これをきっかけに教団とサリンの関係を公然と論評するマスコミも出て来た
オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件
1月8日
教団信者が占星術を用いて神戸で地震があることを「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」内で予言
1月17日
阪神淡路大震災発生。1月8日の予言的中と宣伝
2月9日
1月4日に教団が行なった刑事告訴について、告訴された一人が麻原ら4人を誣告罪と名誉毀損罪で甲府地方検察庁に告訴、さらに教団と幹部4人を相手に1億円の慰謝料を求めて甲府地方裁判所に民事訴訟を提起
2月28日
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、オウムに拉致された男性が死亡。犯行に使われたレンタカーから教団信者松本剛の指紋検出が報じられる
3月13日
「オウム真理教被害対策弁護団」の滝本太郎弁護士が警察庁長官と検事総長宛に「本当にオウムがサリンを撒く可能性がある」と速達で上申
3月15日
霞ケ関駅アタッシェ事件。東京・霞ケ関駅構内で、オウムが設置した不審なアタッシェケース(中身は超音波振動による自動式のボツリヌストキシン噴霧器)が発見され、警視庁の爆発物処理班が出動する
3月17日
複数の教団幹部のステージ昇格を伝える尊師通達が発令される(当月付けから7月付けまで計23名)
3月17日
警察庁において警視庁機動隊と捜査一課捜査員によるオウム真理教に対する一斉家宅捜索を3月22日に行う決定
3月18日
「オウム真理教から被害者を救出する会」主催による1万人集会
リムジン謀議にて地下鉄サリン事件の実行が決定される
3月19日
脱会希望の大学生を拉致した容疑で大阪府警が教団大阪支部に家宅捜索、信者3名を逮捕。夜、島田裕巳宅爆弾事件、東京総本部火炎瓶事件を起こす
3月20日
地下鉄サリン事件。東京の営団地下鉄(現・東京地下鉄)でサリンを撒き、13人を殺害、約6000人が重軽傷
3月22日
警視庁が公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教信徒の逮捕状を取り、上九一色村の教団施設など1都2県の施設25カ所を一斉捜査
3月30日
警察庁長官狙撃事件。オウム犯行説あり
4月1日
オウム真理教附属医院の佐々木正光医師が麻原について肝硬変、Q熱、慢性心不全、心内膜炎の疑い、皮膚炎と5つもの病名を挙げて「約1ヶ月の加療及びベッド上安静が必要であると判断する」との診断書を作成したが、5月16日に逮捕された麻原は健康上何の問題もなかった
4月18日
ロシア全土における活動禁止命令
4月23日
村井秀夫刺殺事件
5月5日
新宿駅青酸ガス事件
5月6日
林郁夫が地下鉄サリン事件の実行を自供
5月16日
東京都庁小包爆弾事件
山梨県上九一色村の教団施設を一斉捜査。第6サティアン内にて麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕
6月30日
東京地方検察庁と東京都が法人解散請求を東京地方裁判所に申請
10月30日
東京地方裁判所が宗教法人法に基づく解散命令を決定(同年12月確定)
10月31日
11月1日
米上院政府活動委員会の調査小委員会がこの期間に開いた公聴会で、CIAの調査とサム・ナンの執筆による、100ページ余りの『オウム真理教事件報告書』が提出される
12月
国会で宗教法人法改正法が成立
1996年以降
1996年1月18日
破防法第1回弁明手続
1996年1月30日
宗教法人オウム真理教解散命令事件。宗教法人格を喪失
1996年4月5日
破防法第2回弁明手続
1996年4月24日
麻原初公判
1996年5月15日
破防法第3回弁明手続(麻原出席)
1996年5月28日
破防法第4回弁明手続(麻原出席)
1996年6月
ウェブサイト「オウム破防法適用で民主主義が危ない!」開設
1996年6月19日
麻原に代わり、長男(当時3歳)と次男(当時2歳)の二人を「教祖」とした。麻原の地位は「開祖」に
1996年6月21日
破防法第5回弁明手続
1996年6月28日
破防法第6回弁明手続
1996年8月24日
~10月下旬
麻原逮捕後の信者の引き締めを目的とする「観念崩壊セミナー」が、松本麗華が中心となり断続的に行われ、多くの負傷者を出した
1996年10月
公式サイト「INTERNETオウム真理教」開設
1997年1月31日
公安審査委員会、オウム真理教への破壊活動防止法の適用を棄却
1997年年間
上九一色村に最後まで残っていた信者達の撤収後、村にあったサティアンは閉鎖、取り壊された(第7サティアンのみ捜査の為残っていた)
パソコン事業で教団維持に成功
1998年
長野県に核シェルター建設開始(後に中止)
1999年4月
東京都内の繁華街で“復活”をアピール
1999年9月29日
オウム真理教休眠宣言
1999年12月3日
団体規制法と破産特別法が成立
1999年12月29日
上祐史浩出所
2000年2月1日
団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生
2000年2月4日
「宗教団体・アレフ」として再編
2000年7月1日
ロシアで麻原彰晃こと松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕(シガチョフ事件)
改組後の活動については「Aleph (宗教団体)#関連年譜」を参照
2004年2月27日
東京地裁、麻原に死刑判決
2006年9月15日
最高裁、麻原弁護団の特別抗告を棄却し死刑確定
2011年12月31日
平田信が警視庁丸の内警察署に出頭。翌日に逮捕監禁致死の容疑で逮捕
2012年6月3日
菊地直子が相模原市内の潜伏先で身柄を確保された
2012年6月15日
高橋克也が東京都大田区の漫画喫茶内で身柄を確保される。これによりオウム関連の特別指名手配者はすべて確保された
2018年1月25日
オウム事件全裁判終結
2018年7月6日
オウム真理教元代表、麻原彰晃こと「松本智津夫死刑囚」及び関係者らの死刑執行
オウム真理教を題材・モデルにした作品
映像作品
「A」シリーズ - 森達也によるドキュメンタリー作品。映像作品には『A』『A2』がある。
地獄 (1999年の映画) - 本作にオウム真理教をモデルにした新興宗教団体「宇宙真理教」が登場する。主人公である16歳の少女リカはその教団の信者であったが、ラストで他の信者達とともに脱会する。
カナリア (映画)
愛のむきだし
未解決事件 File.02 実録・オウム真理教 - 元幹部の男性や、1980年代に入信した古参信者で、教団元幹部の女性の証言を元に、主演・萩原聖人で、教団初期からのオウム真理教の内部をNHKが詳細にドキュメンタリードラマ化。NHK BSプレミアムで、2012年3月31日・午前1時30分から放送された。放送時間101分。NHKスペシャルでは、さらに調査を進め、『未解決事件』シリーズとして、NHK総合テレビジョンにて2012年5月26日と5月27日に3部構成で放送された。番組放送終了の翌月、菊地直子容疑者・高橋克也容疑者の逮捕を受けて、異例の緊急再再放送が2012年6月24日に放送され、また、NHK BSプレミアムで、2012年7月16日に3部構成にて同番組が放送された。
ホーク/B計画 BLOODY MONDAY その他
煉獄の使徒 - 馳星周による小説作品。
カルマ真仙教事件 - 濱嘉之による小説作品。「阿佐川公照」などが登場する。
「F」 - 歌詞にポアが登場する。
MATSUMOTO - fr:Laurent-Frédéric Bollée(L.F. ボレ)による漫画。
約束された場所で - 村上春樹による小説作品。
おわり
参考文献 +Wikipedia+
江川紹子 『「オウム真理教」追跡2200日』(文藝春秋 1995年7月) ISBN 978-4-16-350580-0
樫尾直樹「「精神世界」とオウム真理教 : スピリチュアリズムと神智学との関連から」、『宗教と社会. 別冊, ワークショップ報告書 1996』、「宗教と社会」学会、1997年3月1日、 59-65頁、 NAID 110007653765。
林郁夫 『オウムと私』 文藝春秋、2001年10月。ISBN 4-16-765617-5。
島田裕巳 『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー 2001年7月30日) ISBN 978-4-901510-00-4
東京キララ社編集部 『オウム真理教大辞典』 三一書房、2003年11月。ISBN 978-4-380-03209-7。
井上順孝編 『情報時代のオウム真理教』(春秋社 2011年7月) ISBN 978-4393299272
松本麗華 『止まった時計』講談社 ISBN 978-4062194808
島薗進 『ポストモダンの新宗教』 東京堂出版、2001年9月25日。ISBN 978-4490204476。
降幡賢一 『オウム法廷』シリーズ(全13巻)
毎日新聞社社会部 『オウム「教祖」法廷全記録』シリーズ(全8巻)
新アメリカ安全保障センター(CNAS) (2012). オウム真理教:洞察-テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか(日本語版) (Report).
Wikipedia
オウム真理教の狂~何故エリートたちは麻原に騙されたのか?!~ 長尾景虎 @garyou999
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