亡霊、月桂樹と共に舞う
山田湖
第1話
彼個人の見解だが、ハムエッグにあう調味料は醤油だと思う。塩分過多だとよく言われるが、ご飯に乗せて食べるため味がしっかりと濃いものではないと彼は満足できなかった。むしろ何もかけないで食べるという人のほうが異常だとも思いこんでいるのである。
煙を立てている鉄フライパンに卵を落とした瞬間、鉄フライパンから油が四方八方に飛び散り、彼の手を焼き、コンロや着ている服に油染みを作る。彼は料理の中でこの時間が一番苦手だった。油跳ねは人の心同様、その方向性が予測できないからだ。慌てて鉄フライパンにふたをすると、白身と黄身の焼ける音は少し小さくなり、油跳ねは止まった。
完成したハムエッグをレンジで温めたご飯に乗せ、自分の机がある応接室に持っていく。人気のない応接室に響いているのはテレビの音とかすかに空いた窓から聞こえるセミの鳴き声だけだった。
彼の、探偵という職業も案外暇なもので、いや探偵が暇ということは十分喜ばしいことなのだが、彼にとってその何もしない無為なひと時は時間がたつにつれて体中に回る毒物のようなものだ。8月のお盆休みも終わり、世間は仕事始めで目まぐるしく動いていたが、この探偵事務所だけは時間が止まっているのではないのかというほど、その喧騒からは引きはがされた空間だった。今もテレビのワイドショーでは有名アイドルグループのナンバーワンだった女性が、雑木林の木で首をつった状態で見つかったというニュースが伝えらており、現場の中継映像には顔見知りの刑事が何人か映っている。忙しそうにしている刑事たちを見て(その元アイドルとやらの女性には申し訳ないが)彼はなぜ自分がその場にいないのかという悔恨に駆られた。
「まあ、状況的に自殺ぽいなあ」
「いえ、自殺じゃないです。私は自分の意志で首つってないですから」
少し負け惜しみのようなぼやきを吐いた瞬間、その声はまるで最初からその場にいたのではないかというほど、応接室にはっきりと響いた。彼も普通に「ああ、そうなの」と答えようとしたほどだ。その声の異常性を理解した途端、彼の背にゾクリと冷たいものが走る。一瞬で世界から音が消えうせ、自分の心臓の鼓動だけが嫌に大きく響く。ハムエッグを乗せた茶碗が彼の腕から滑り落ちたが、茶碗の割れる音は彼の心臓の音と断続的に響く耳鳴りにかき消された。
「……だ、れだ? 今ここにいたのは俺、一人の、はずだよな……?」
ようやく出た声も、蚊が鳴くようなかすれた声で、半分自分に言い聞かせるようなものだった。
「だから自殺じゃないですって」
また背後から声がする。明確に女のものだ。これで彼の聞き間違いという線は無くなった。彼の頭は混乱してはいたものの、優秀な脳細胞たちは早くもこの状況の打開に向けて動き始めていた。そして彼の脳細胞が導き出した打開案は、首と上半身を動かし、その未知の何者かと視線を合わせることだった。
前にロボットが動いているところを目にしたことがあるが、彼の後ろを振りかえる速さはそのロボットに鼻で笑われそうなほどゆっくりだった。事務所の扉が目に入る。見慣れたはずの扉だが、その前に誰かが、半透明の何かが立っていた。それはあきらかに人間の女性の形をしていた。表情もはっきり見える。
「はじめまして。元アイドルの櫻井マキです。享年23歳です」
その蜃気楼のような女性の影はどんどんはっきりとした姿を持ち始め、やがて本当の人間と同じような存在感になった。その女性は柔和な笑みを作り、それを彼に向けた。
「探偵さんに依頼があります。私を殺した犯人を見つけてほしいのです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます