Op.01 蒼の狭間で⑧
「アズサさんって誰ですか?」
夕食の時、お椀を持ったままのミサが訊いてきた。親子丼に七味を振りかけていたキリナは、どう答えたらいいのか解らず固まってしまう。
「もしかして、訊いちゃいけないことでした?」
「いや、そんなことないよ。いつかは話したいと思ってたし」
首を横に振ったキリナは七味をスパイスボックスに戻す。
「アズサさん――矢塚アズサさんは、私が元の世界で知り合いだった女の人だよ。初めて合ったのは小学校五年生の時で、歳は十歳くらい離れてた」
この世界に来てから、キリナがアズサのことを話すのは初めてだった。今まで彼女の名前を口にするのが怖かったが、口にしてみれば以外にもスラスラと話すことができた。一体、何を躊躇っていたのか、自分でも不思議だった。
「アズサさんは漫画家で、資料集めのついでに色んな所に連れて行ってくれた。動物園とかダム湖とか。遊園地にも連れて行ってもらったこともあったな……」
「それって大丈夫だったんですか? キリナさんの親はアズサさんのことを知っていたんですか?」
「母さんには内緒だった。私とアズサさんだけの、秘密のドライブだったの」
困惑するミサにキリナは二ッと笑って見せる。キリナの胸の奥には、親に内緒でアズサの車に乗り込んだ時のときめきが蘇っていた。本当に、アズサと過ごす時間はいつも楽しかった。
「私の親……特に母さんは学校の成績にこだわる人で、毎日塾に行かされて、テストの点数が良くないとヒステリーを起こしてた。『死ね』って言われたこともある」
「昔の自分があんまり勉強できなかったことは棚に上げて?」
「そうそう。だから、私にとって母さんがいる家は安らげる場所じゃなかった。塾に行くのも嫌だけど、家に帰るのも嫌だった。アズサさんは私が逃げ込める場所になってくれたの」
アズサの胸に抱かれた時に感じた「安心の匂い」は、今でもはっきりと思い出せる。彼女は弱ったキリナを包み込み、冷たく明るい世界から守ってくれた。
キリナは水を一口飲んで口を湿らせてから続ける。
「恋人とも姉とも、母親とも違う。アズサさんと私は、知り合いとしか表現できない関係だった。でも、私はあの人に深く依存していた……」
キリナは急に言葉に詰まる。アズサに対する想いは溢れているのに、どう伝えたらいいのか解らない。
すると、ミサが「嘘ついてたんですね」と呟く。
「え? 誰が嘘ついてたの?」
「キリナさんですよ」
「私?」
味噌汁を一口飲んでからミサは頷く。
「過去にすがって生きてはいけないとか、思い出は忘れなければいけないとか、そうやって自分の心に噓ついてたんじゃないですか? 本当はアズサさんと引き離されて、すごく辛かったんじゃないですか?」
「……」
その通りだ。ミサの言葉は正しい。キリナは今まで自分に嘘をついて、無理やりアズサのことを忘れようとしていたのだ。
「でも、元の世界に戻る方法は無いんだよ。だからこそ、『火の国』の口車に乗せられた紅谷少尉たちが許せなかった。私が必死に未練を断ち切ろうとしてるのに……」
キリナはテーブルに置いた拳を握りしめる。
「無理に忘れる必要はありませんよ」
ミサはそう言ってキリナの拳に彼女の手を重ねる。暖かく柔らかい手だった。
「確かに、元の世界に戻る方法は無いかもしれません。けど、思い出にすがるのことは悪い事とは限りません。強さを与えてくれることもあるんです。私はそう思います……」
ふわりとミサの吐息がかかり、握りしめていた拳から力が抜ける。
「本当にそうなのかな? 私の中のアズサさんは、私に力を与えてくれるのかな?」
「それはキリナさん次第です。けど、忘れなきゃと思うより、大切に持ち続けていく方が楽なんじゃないかなって思います」
「そっか……」
キリナはまだミサの言葉を疑っていた。だが、少しだけ胸が軽くなった気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます