君にコイして龍に成る

コール・キャット/Call-Cat

君にコイして龍に成る


‐1‐


「知ってるか? この滝を登った魚は神様が龍にしてくれるんだと」


 そう言って笑った君にオレはきっと恋をしていた。

 だから、心のどこかで龍に成ることを誓っていたんだ。




‐2‐

 森は好きだ。命で息づいているから。

 森は好きだ。自分を見下す奴らがいないから。

 森は好きだ。自分が人間であることを忘れられるから。

 森は好きだ。森は好きだ。森は好きだ……──

「痛っ」

 頭の中をぐるぐるぐるぐると駆け巡る言葉でぼうっとしていた。突如指先に走った痛みに眉をしかめると、ぷっくりと赤い珠が豆だらけの指先からその存在をこれでもかと主張してきていた。そんな指先を見つめたのは一瞬。土で汚れている指先を赤い珠ごと舐めながら目についた葉っぱを巻き付けていく。贅沢を言えば傷口に塗るための植物もあればよかったのだが仮に手持ちにあったとしてもこんな小さな怪我に使うのは憚られた。

「あーあ、またこっぴどく叱られるな、こりゃ」

 そうぼやきながら今頃はまだ呑気にいびきをかいているか、そうでなければ安酒を煽っているであろう父親ろくでなしのことを思い出して嫌気が差す。

「……ここら辺はだめだな」

 周りを見渡す。こんな鬱蒼とした森の中に踏み入れるような人間が自分ぐらいしかいないとはいえ、毎日毎日飽きることなく薬草を採取していれば限界はくる。まだまだ技術不足とはいえそれでもここにはこれ以上目ぼしい薬草がないことは分かった。

「もうちょっと奥まで行ってみるか?」

 森の奥までいけば間違いなく薬草が溢れているだろう。しかし、それと同じぐらいのリスクが息を潜めているだろう。それが森という、大自然の脅威なのだ。それを自分は村の人間が──たとえどれほど屈強な大人であろうと──好んで森に踏み込まないことから薄々察していた。

 察して、いるのだが……

「背に腹は代えれねーよな」

 ここで帰ったとこで今日の稼ぎがなければ野垂れ死ぬだけだ。だったら危険を顧みずに森の奥に踏み入るのもそう変わりないか。

 それに。

「オレが死んだとこで悲しむやつなんていねーか」

 つい口をついて出た言葉に眉をしかめながら、森の奥へと踏み込んでいく。

 あぁ、そうだ。だから森は好きなんだ。

 本音を吐いても誰も聞いていないから。

 自嘲気味に笑いながら奥へ奥へと進んでいくが、どうも目ぼしい薬草は見当たらなかった。心なしか蒸し暑いし、もしかしたら群生地が変わっているのかもしれない。

「……ん? なんの音だ?」

 ふと木々の葉擦れの音に混ざって聞きなれない音がするのに気付いた。

 なんというか、ドドドドドド、と地鳴りにも似たような音を不思議に思い、その音源へと近付いていく。音源に近付くにつれ視界が開けていく。そして木々を抜けた先には

「滝?」

 切り立った崖から滂沱と水を吐き出す、大きな滝があった。どうやら地鳴りにも似た音の正体はこの滝だったらしい。滝壺からは時折魚が跳ねていて水面に小さな波紋を生み出していた。

「こんな場所があったんだな……全然知らなかった」

 村の中でも噂程度ですら話に聞いたことがない。森の奥まで行く人間がほとんどいないとはいえ、これは思わぬ発見だったかもしれない。

「丁度いいや。さっきの傷も洗っておこう」

 獣の姿はないかざっと周囲を探りながら水辺へと近付いていく。水はひんやりと冷たくともすれば水浴びをしたくなるぐらい心地よかった。

 と、その時だった。


 ざばぁっと。


 水の中から一糸纏わぬ女の子が現れたのは。

「はっ?」

「……え?」

 その女の子も水辺に佇むこちらに気付いたようで、眼を真ん丸に見開いてこちらを見つめてくる。沈黙は数舜。女の子が勢いよく水の中へと身を沈める。

「ご、ごめん! まさか人がいるとは思わなくて!」

「こ、こちらこそ驚かせてしまってすまない。まさか人がくるとは思わなかった……」

 ぐるん!と顔を森の方へと向け謝罪すると滝壺の方からもしずしずと謝罪の言葉が戻ってきた。

 そのまま森の方を見つめていると女の子はちゃぷちゃぷと少し離れた先にある岩場へと泳いでいくとそのまま姿を消したようだ。それでもまだ固まっているとサクサクと草を踏みつける音が耳を打った。

「もう大丈夫。本当にすまなかったな」

「あ、あぁ──っ」

 その声に恐る恐る振り返り──息を飲んだ。

 湿気を帯びて艶やかに光る黒い髪、白磁のような白い肌にはまだ幾分かの水滴が残っており、それすらも光に照らされ真珠のように輝いて見えた。

 ──天女みたいだ。

 陳腐だとは自分でも思うが、そうとしかその子を形容する言葉をオレは知らなかった。

 そうやってその子に見惚れていると、その子は「はて?」と首を傾げる。しゃなり、とその動きに合わせて黒髪が揺れるのすら芸術めいていた。

「ん? どうした? ワタシの顔になにかついてるか?」

「あっ。い、いや。ところで君は? どうしてこんなところに?」

「ふっ。面白いことを聞くんだね。それは君にも言えることなんじゃないかな?」

 女の子はふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべると逆に問い返してきた。そんな表情すら綺麗なものだからドギマギする。

「オレは薬草を採りに。君の方はそういう風に見えないけど?」

「まぁね。ワタシは気持ちよさそうだったから水浴びをしていただけさ」

 なんら臆せず言ってみせるその子にオレは「まぁ、気持ちよさそうだもんな、うん」と相槌を打った。

「しかし、薬草を採りにこんな森の奥まで来たのかい? 君一人で? もしや他にも誰か……」

「いないいない。ほんとオレ一人だよ」

 一体何を警戒しているのか、周囲にきょろきょろと視線を巡らせる姿が野兎のようでオレは思わず笑ってしまった。そんなオレにその子もつられるように口を綻ばせながら

「そういえばまだ名乗っていなかったね。ワタシはリュイ。君は?」

「リェン」

「そうか、リェンか。改めて初めまして、リェン。ここで逢ったのも何かの縁だろう、君に支障がなければ少しワタシに付き合ってもらってもいいかな?」

「あぁ、いいよ。どうせ休みたいとこだったし」

 そう言いながらオレは背負った籠を降ろしながら地面に腰かけた。

 それにリュイも倣って腰かけながら「早速なんだが」と今しがた降ろした籠を指さす。

「薬草を採っていた、というが君は薬師か何かなのかい?」

「あー、いや……オレは薬師なんかじゃないよ。薬師の代わりにこうやって薬草を集めて日銭を稼いでる。だから関係無い葉っぱとかも採っちまうこともあるんだ」

 一応、毒草かどうかを見極められるように教えてもらったりしたけどな。と付け足しながらリュイが覗き込みやすいように籠を傾ける。

 そして籠の中を覗き込んだ当のリュイは「ほうほう」と興味深そうに摘み取られた葉っぱを眺めると、不意にその内の一枚を摘み取った。

「これは……売れないかもな」

「え? そうなのか? ……ちなみに毒、なのか?」

「ふむ。毒ではないが……薬にもならない。他には……あぁ、これもそうだな」

 そう言ってリュイはひょいひょいと籠の中身に手を伸ばすと次々と売れない野草を取り出していった。これにはさすがのリェンも驚きを隠せず地面に並べられた野草とリュイの顔を交互に見比べてしまった。

「ま、待った待った! もしかして、リュイはそういう知識があるのか?」

「んっ。まぁ、多少はな。暇つぶしに本を読むぐらいしかなかったから、その産物といったところだよ」

「本!?」

 さらっと告げられた内容にさらに驚かされる。本を読めるということは当然のことながら字が読めるということだ。字を読める、ということはリュイがそれなりの地位にある家柄の人間であることを意味している。

「リュイ、君は一体何者なんだ?」

「……そんなこと、今関係あるかい?」

「そ、それは……」

 今まで笑顔に彩られていたリュイの顔から色が消え、そのあまりの変わりように気圧されてしまった。だがそれも一瞬のことで瞬きをした瞬間にはリュイの顔には悪戯な笑みが浮かんでいた。

「冗談だよ。まぁ、あまり詮索されたくないのも事実ではあるけど。ここは乙女の秘密ということで一つよろしく頼むよ」

「あ、あぁ」

 そう言って笑う彼女は「おっ、これは金になりそうだぞ」と選別を続けながら

「にしても、これはどうにも要領が悪いな。リェン、君、日頃からあまり稼げていないんじゃないかい?」

「そ、そりゃ、まぁ……専門じゃないしな」

「ふむ。ならこういうのはどうだろう? ワタシが君に薬草の見分け方を教えよう。その代わり君はワタシの話し相手になる。どうだい?」

「そりゃオレは良いけど……話し相手になるだけでいいのか?」

 それはいくらなんでも釣り合わないんじゃないか? そんなオレの疑問にリュイは「そんなことはないさ」と即答する。

「気心の知れる相手というのは時として得難いものなんだよ。本を読み漁るだけに比べればよっぽどね。むしろワタシの方こそ釣り合いが取れないんじゃないかと思うほどだよ」

 どうだい?とほくそ笑むリュイにそこまで言われてはオレとしてはもう迷う理由なんてなかった。二つ返事で答えていく。

「交渉成立だな。ふふっ。では明日、同じ時間にここで落ち合おう」

「わかった。よろしくな、リュイ」

「こちらこそよろしく、リェン」

 こうして、オレとリュイ、二人だけの密会が始まった。




‐3‐

「──で、この薬草は根元の色が特徴的だ。葉の形状だけじゃ野草と区別がしにくいからぼったくられないためにも採集の際には根ごと持って行った方がいいかもしれないな」

「これはさっき言ってた薬草みたいに根は使えたりしないのか?」

「出来ないこともないだろうが、それほどまでに根が成長しているものとなると大方森の動物に食われてるだろうな」

「なるほどなぁ」

 あの出逢いから早一ヶ月。オレはリュイから様々なことを教わっていた。

 薬草と毒草、そしてそのどちらにもならない野草の見分け方や効能、群生地……本当に数えきれないほどのことを学んだ。

 そんな風に話半分にリュイの言葉を聞いていたら彼女は次の薬草へと話題を変えていった。

「ちなみにこっちの小さい草だが、これはどこにでも繁殖出来る利点があるが、その強すぎる繁殖力故に田畑に植えるのは推奨しない。だが──ふむ、これは試した方が早いか。リェン、噛んでみろ」

「お、おう。──っ!? なんだこれ!?」

 手渡された小さな葉を噛んだ途端、口の中に何とも言えない味が広がった。その未体験の感覚にたまらずぺっぺっと吐き出すとリュイはくすくすと笑った。

「すまんすまん。だが分かったろう? その葉は非常に清涼感が強いんだ。それ故に解熱作用が望めるぞ。薬としては当然のことながら匂い消しとして料理にも応用が効くし、茶にして飲むことも出来る」

「うぇ、お茶? マジか」

「本当だとも。他にも鎮静作用を持つ花を茶にしたり利尿作用のある葉を茶に用いることで体内の悪いものを排出する手助けを目的としたものだってあるんだぞ?」

「なんっていうか、発想が凄いな。色々と」

 こんなものをわざわざ飲み食いする物に利用しようとはとてもじゃないが正気じゃない。

 しかしそんなオレの反応とは裏腹にリュイは「そうかい?」とどこか感心しているような様子で語り始めた。

「薬食同源という考えがある。これは栄養バランスの整った食事を摂取することで病気への予防・治療を図るというものでね。凄いとは思わないかい? 普段何気なくワタシ達が食べているものですら医療に繋がるんだ。案外、遠くない未来なんかじゃ薬師はいなくなってるかもしれないな?」

「さすがにそれは……ない、んじゃないかなぁ」

「君、今ほんの一瞬でも『ある』かもしれないって思っただろう?」

「そ、そりゃあそうなればつらい思いをする人なんていなくなるだろうし、良いなぁとは思うさ。ロマンがあって」

「うむ、素直でよろしい」

 うんうんと満足そうに頷くリュイにどう返したものか図りあぐねてオレはついつい地面に広げられた薬草をそそくさと片付けていく。

 そんなオレを愉快そうに見つめながら「ロマンといえば」とリュイが滝の方を振り返る。

「知ってるか? この滝を登った魚は神様が龍にしてくれるんだと」

「はぁ? 龍? なんでまた」

 思わず滝の方に視線を向ける。まるでそのタイミングを見計らったかのように名前も知らない魚が跳ねては水の中に去っていく。

「さぁ? ワタシは神様じゃないからね。まぁ、頑張ったご褒美とか、そんなところじゃないかな?」

 自分から言っておいてそんな風にはぐらかすリュイに「なんだよそれ」と言いながら先ほどの魚の行方を探る。その姿はすぐさま見つかったが、所在なさげに泳ぐその姿はお世辞にも龍になるようには見えなかった。

「その様子だと今の話はお気に召さなかったようだね」

「まぁ、釈然としないっていうか、なんかな……」

「ふふ。君は存外ロマンチストなんだな」

「悪かったな」

「いやいや、別に貶してはいないじゃないか。ワタシは好きだぞ、君のそういうところ」

「っ! あのなぁ……」

 実に愉快気に言ってのけるリュイにオレは未だに慣れることの出来ない胸のざわめきを感じながら顔を背ける。

 そんなオレを「いじけないでくれよ」と冷やかしつつ、リュイは「それじゃ、これはどうかな?」と滝の頂を──いや、それよりもさらに高い場所を指さしながら言った。

「人は死んだら星になるそうだ。夜空に輝くたくさんの星はワタシ達のご先祖様達ということだな」

「……まぁ、さっきの話に比べればロマンはあるな」

「ふぅーん。そうかそうか」

「? なんだよ?」

 オレの答えを聞いて何故だか嬉しそうな様子を見せるリュイを怪訝に思い問い返すと彼女はこちらの目をじっと見返しながら言った。

「ワタシが星になったら君は龍になってでも会いにきてくれるかい?」

「──は?」

 あまりに唐突な質問に一瞬何を言われたのか分からなかった。

 するとオレのそんな様子に気付いたのかリュイは「おや?」と小首を傾げる。

「ロマンチストな君なら龍になって会いに来てくれると思ったんだがな。違ったかな?」

「いやいや、意味が分かんねぇって。それじゃまるで」

「まるで?」

 じっと何かを見定めんとする双眸に見据えられ言葉に詰まる。その表情には覚えがあった。一か月前、二人が出逢った頃、彼女が一体何者なのかを尋ねた時の、あの時の彼女のそれと同じ。

「まるで、なにかな?」

「そ、れは」

 その有無を言わさぬ雰囲気にオレは唇を震わせながらも答えようとする。答え、させられる……──


「やっと見つけたぞリュイ!」


 幸か不幸か、それは突然の怒声によって中断させられた。慌てて声のした方を見やるオレとリュイの視線の先、そこには怒りで肩を震わせた中太りの男が武装した従者を従えて立っていた。

「父上……」

 そしてその姿に一番驚いていたのはリュイだった。彼女は苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべながら父上と呼んだ男をねめつけた。

「こんなとこまでほっつき歩きよって! それに誰だそいつは?」

「友達だよ。唯一無二のね」

「友達だと! こんな薄汚い、どこの者とも知れぬ─

「父上。それ以上ワタシの友達を侮辱するならさすがのワタシも怒るよ。彼はワタシより向上心もあって立派な人間なんだからね」

「向上心なんぞに何の価値がある。いいから来い! さっさと帰るぞ! ──なんだ、小僧?」

 ヅカヅカと近付いてくるリュイの父親に対し狼狽した様子のリュイを見てオレは咄嗟に二人の間に割って入っていた。

 そんなオレを見るからに汚らわしいものを前にしているかのように睨んでくる彼女の父親にそれでも臆せず喰らい付く。

「リュイが嫌がってるだろ」

「なにを小癪な! どけっ!」

 こちらを突き飛ばそうと伸ばされた腕を掴む。しかし相手はあくまで大人。激昂した表情を浮かべたリュイの父親が力任せに腕を振っただけで飛ばされてしまう。

 それでももう一度食い掛からんと起き上がった直後、すでに動いていた従者によって地面に押し付けられてしまった。

「リェン! やめろ、そいつに手を出すな!」

「だったら大人しく帰るんだなリュイ。こんな薄汚い小僧、こんな森で死んだとこで誰も気にかけやせんのだからな」

「っ! ……分かった、言う通りにする」

「リュイ! そんなやつの言うことなんか聞くな!」

「暴れるな、大人しくしていろ」

「ぐぅっ!」

 こちらを一瞥し、オレの視線から逃げるように顔を逸らしたリュイに必死に言葉を投げかけるも従者に顔面を押さえつけられてそれすらもかなわなくなる。

 そしてリュイは一度としてオレに視線を向けることもなく、彼女の父親と共に森の中へと姿を消してしまった。

 それが、オレが最後に見た彼女の姿だった。




‐4‐

 あの日から数日、一日として欠かすことなく滝に足を運んだがリュイが来ることはなかった。文字の読み書きが出来るらしいこと、彼女の父親の人を見下したような態度から薬師なら身分の高い人間とも接点があるんじゃないかと思って薬草を受け渡しに行った時に尋ねたこともあったが、依然としてリュイの正体は掴めずにいた。

 そんな日が何日も続いたある日のことだった。

 オレがいつものように薬草を受け渡しに行った帰り、一人のお坊さんが村に立ち寄ったところに出くわした。

 その時、自分でもなんでお坊さんに声を掛けたのかは分からない。

 お坊さんであれば色々な場所に呼ばれるだろうから何か知っているかもしれないと思ったのか。

 それとも、彼女と会った最後の日にリュイが問うてきた言葉が脳裏を過ったからか。

「あの、すみません」

「はい、なんですかな?」

「お坊さんは、今日どこに行くんで?」

 お坊さんは初対面のオレに対しても柔和な笑みを浮かべていたが、オレの質問を聞くと少し気まずそうに眉尻を下げながら「あまり大きな声では言えないのだけどね」と前置きして

「少し離れた場所に住んでいる地主様へのとこさ。娘さんが亡くなったらしいんじゃ」

 娘。

 脳裏をリュイの顔が過る。

 地主。地位はある。娘。でも、そんな、まさか。リュイ──

『ワタシが星になったら君は龍になってでも会いにきてくれるかい?』

「──っ。あの、その子の……亡くなったっていう娘さんの名前ってわかりますか?」

「名前かい?」

 胸がざわつく。お坊さんが怪訝な表情を浮かべる。だがそんなことを気にするほどの余裕がなかった。

 そして顎を撫でながらお坊さんは記憶を辿るように言った。

「リュイ、という名だったかな。生まれつき体が弱かったらしく長くはなかったそうですが──あ、君!?」

 気付いた時にはオレはお坊さんから背を向け、一心不乱に走り出していた。

『そういえばまだ名乗っていなかったね。ワタシはリュイ。君は?』

 リュイ。

『気心の知れる相手というのは時として得難いものなんだよ』

 リュイ。

『知ってるか? この滝を登った魚は神様が龍にしてくれるんだと』

 リュイ。

『人は死んだら星になるそうだ』

 リュイ。

『ワタシが星になったら君は龍になってでも会いにきてくれるかい?』

 リュイ!

 一体、どれぐらい走り続けたんだろうか。オレは息も絶え絶えになりながら、それを見上げた。

 まるで地鳴りのような音を響かせる滂沱と流れる水を。

 あらゆるものを拒むかのように切り立った崖を。

 彼女と出逢い、彼女と過ごし、彼女と幾度となく目にしたその滝を。

「行ってやる」

 誰に言うでもなく獣のように唸りながらオレは滝壺へと飛び込んだ。

「行ってやる!」

 突如現れた新参に魚達が水底へ逃げていくのも気にせず一目散に滝へと。

「行ってやる!」

 手を伸ばす。暴力的な水の流れに伸ばした腕が軋みを上げ、その圧倒的な流れに飲み込まれるように水の中へと引きずり込まれる。

 それでもすぐに水上へと顔を出し、天を振り仰ぎながら叫ぶ。

「行ってやる!」

 諦めずもう一度。結果は同じく水の中へ。

「行ってやる!」

 もう一度。水の中へ。もう一度。水の中。もう一度……──

「行ってやる……だから!」

 今度は思い切って全身で飛び込んでいく。だが無慈悲なほどに降り注ぐ水は暴力的で、圧倒的で。でも──諦めるものか!

「待ってろ! リュイ!」

 何度だって、やってやる!

「あっ……──」

 何度目の挑戦だったろうか、またもや水の中に引きずり込まれ、すぐに挑みなおそうとした体に力が入らないことに気付く。

(くそっ! くそっ!)

 水面が遠くなっていく。空から、離れていく。

 手よ動けと心の中で叫ぶも手は動いてくれず。

 足よ動けと心の中で叫ぶも足は動いてくれず。

 空からどんどん離れていく。

 そんなオレを横目に水底からやってきた魚までが置き去りにするかのように水面へと向かっていく姿をぼんやりと眺めることしか出来なかった。

(なんでだよ)

 その、魚の背を見つめながら思う。

(魚の一匹、龍に出来るんだろ)

 だったら。なぁ、神様。

(人間の一人ぐらい、龍にしてくれよ)

 頼むよ、神様……──




‐5‐

 とある村に、ささやかながらもある伝説が語り継がれている。

 それはあらゆる場所で同様に語り継がれているようなものとさして変わりのないありきたりなものであった。

 曰く、一匹の魚が滝を登り、龍になったのだと。

 だがそんな物語にも一つだけ、他とは違うものがあった。

 それはこの村からしか臨むことが出来ない、寄り添うように天に輝く、二つの星。

 曰く、龍は星に会いにいったのだと。

 そして今も共に寄り添っているのだと。

 そう、語り継がれている。




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