第422話 恋の盲目、愛の眩惑、夢の終幕

 ――夢莉視点にて記す。


 まるで、夢のようだった。

 リリトと共に過ごした喫茶店でのひとときは、彼女にとっては未知の体験だった。


 自分が好意を寄せる男性と一緒にいられる時間が、こんなにも楽しいだなんて。

 これまで三十年近く生きてきながら少しも味わったことのない歓喜。快楽。悦楽。


 それを、夢莉は今日、幾つも感じていた。

 畳みかけられてきたといってもいい。刻みつけられたというほかない。


 リリトとの喫茶店での会話もその一つ。

 彼は、自分の話をよく聞いてくれた。しっかりと相槌を打って、応えてくれた。


 夢莉は、日常の中でそんなじっくりとした会話はほとんどしない。

 プライベートで話す相手がいないというのもある。

 今の年齢になるまでそうした状態であり続けたのは、結局は両親の影響が大きい。


 佐村家の両親は、とにかく厳しかった。

 躾けに厳しく、教育に厳しく、礼儀作法に厳しく、一切の弛みは許されなかった。


 父だけがそうであったなら、まだ母親という逃げ場があった。

 だが、母も父と同じく厳しかった。いや、ある側面では母の方が苛烈であった。


 おかげで兄の勲も自分も、能力や教養という面では高いものを得られた。

 兄は一代にして莫大な財を築いたし、自分もキャリア公務員になることができた。


 だが、情緒面ではどうか。

 今になって初めての恋をしていることこそが、その答え。


 自分達の両親は、きっと厳しくする以外の愛情の示し方を知らなかったのだ。

 そして、それがゆえに兄は人間として歪み果て、娘をその餌食とした。

 自分はロクに情緒面で成長もないまま、こうして初めての恋に酔いしれている。


 どちらも、やはり褒められたものではない。

 兄に比べれば自分は些細かもしれないけれど、それでもおかしくはあるはずだ。


 ああ、だけど構わない。

 初めての体験は、年を経れば経るほどにむしろ鮮烈なものとして記憶される。


 本来ならば十歳になる前、もしくは十代の頃にするであろう、初恋。

 だが、三十前でしたそれは、幼少期に体験した数々の原点にも優るほどだった。


 人を好きになる。

 誰しもが当たり前に持つ、その能力。その機能。その感情。


 これまで、知識は持ちつつも自分にとってはどこか遠いもののように感じていた。

 ところが実際にしてみれば、それはまさに未知の体験。衝撃の連続だった。


 好きになった相手がリリトだったというのも、その衝撃の原因の一旦だろう。

 興宮凛々人――、リリト・バビロニャ。

 異世界ではあのミフユの兄であったという、背の高い偉丈夫。


 けれどその姿に覚える印象は、迫力や威圧感とは程遠い涼やかさを伴った気品。

 体つきは精悍ながらも逞しすぎることはなく、その顔立ちは非常に整っている。


 通った鼻筋に、よく見れば少しだけ垂れたまなこが柔らかな印象を醸し出す。

 唇はやや薄めで、けれど、それが顔の造形を濃すぎないものにしている。


 髪型も固すぎない程度に整えられて、でも、少しだけのラフさも残っていて。

 公の場でも私的な場でも、十分に映えるであろう姿だった。


 今日、昼間、待ち合わせ場所に来たとき、実は夢莉は自分の失敗を悟っていた。

 スーツ姿の人間がほとんど見受けられなかったせいである。

 周りを行き交う人々を見て、さすがに彼女も己の誤りに気付かされた。


 デートの場にキチッとしたスーツを着てくるような人間はほとんどいない。

 そんな当たり前のことすら今まで知らずにいたのが、佐村夢莉という女性だった。


 ああ、これはとんだ恥だ。

 そう思いはしても、今さら着替えるワケにもいかない。参った。


 などと自らの不明に呆れていたら、何と、リリトもまたスーツで現れた。

 彼は『ちょっときっちりしすぎたでしょうか』などと笑っていたが、それは違う。


 夢莉もわかっていた。

 これは、リリトの自分への気遣いだ。


 リリトは、佐村夢莉がどういう人間か、ちゃんと見てくれていたのだ。

 それに気づいたとき、夢莉は恥ずかしくなると同時に、さらに胸をときめかせた。


 何という細やかな気遣いができる人なのだろうか、このリリトという人は。

 夢莉は、結局自分が恥ずかしくなってしまった。

 果たして、普段の自分はここまで他人を見ることができているだろうか。


 それはもちろん、比較対象が悪すぎるだけだ。

 リリト――、リリス・バビロニャは人を観ることにかけてはバーンズ家でも随一。


 それはシイナの洞察力とはまた違う、観察力ではあるのだが。

 一方で、夢莉は自分の考えを貫き通して生きてきた。

 本来であれば比較対象にもならない二人だ。だが、夢莉は彼と自分を比較した。


 そしてリリトに惚れ直した。

 あとは、ただただ真っ逆さまに落下していくだけ。

 まさに文字通りの『恋に落ちる』というヤツだ。


 喫茶店で話したあとは駅に戻って書店に赴き、好きな本の趣味について語った。

 それを、リリトはやはりしっかりと、そして楽しげに聞いてくれた。


 人に話を聞いてもらえるだけで嬉しい。

 それもまた、夢莉にとっては初めての体験だった。


 今日という日は、何から何まで初体験で彩られている。

 そして心に覚える衝撃の大きさと多さに、夢莉の夢はどんどん深まっていく。


 ああ、この人と結ばれたら、自分はどれほど幸せになれるのだろうか。

 リリトの隣に立って歩きながら、そんな夢想が止まらない。


 夢想――、いや、妄想がどんどんと膨張していく。

 まだ手も握っていないのに、彼女の中のイメージはもはや結婚生活に至っている。


 これまで、佐村夢莉にとって仕事は生き甲斐だった。

 親からの厳しい躾けと教育もあって、そうあることが彼女にとっての当然だった。


 人の価値は能力・実力・結果・実績で決まるもので、人柄はあと附随するものだ。

 自分の親から受け継いだその価値観は、今も夢莉の中に色濃く残っていた。


 ミフユの一件があった。

 それによって、夢莉は初めて自分の中にあった絶対の価値観に疑問を抱いた。


 しかし、それも彼女の中の『常識』を覆すほどではなかった。

 それはミフユが夢莉と距離を置きたがったことも影響しているのだろう。


 が、リリトは違った。

 彼は、夢莉にとって最も心地よい距離感を見極め、常にそれを保ち続けてくれた。


 今日の昼間からリリトと共にいて、夢莉は不快感を抱いたことがない。

 ほんの一秒も、一瞬も、不快さは感じない。ただ、彼との時間を楽しみ続けた。


 そんな彼女の中で急速に肥大化した妄想が、夢莉の『常識』を壊しにかかる。

 そしてついに思ってしまったのだ。佐村夢莉が、あの仕事人間の佐村夢莉が――、


『仕事をやめて結婚して主婦になるのも、選択肢の一つかもしれない』


 などと、思うまでになってしまったのだ。

 もちろん、表には出していない。いくら何でも早すぎる話ではある。


 それは夢莉自身も弁えている。

 だが、思うことを止めることはできない。


 リリトといると、そうした妄想がどんどん湧いてくるのだ。

 そう、仕事をやめてリリトと結婚して、二人だけで過ごす甘い甘い新婚生活。


 ただの空想でしかないそれに、夢莉の心臓は激しく高鳴った。

 そういえば、リリトは娘が欲しいといっていた。


 だったら、ミフユを引き取るのはどうだろう。

 正式には娘ではないけれど、三人だったら仲良くやっていけるのは間違いない。


 そうすると、戸籍上は自分がミフユの母親になるのだろうか。

 ミフユがそうであるように、夢莉もまたミフユのことは得意ではない。


 しかしリリトが一緒なら、その苦手さも克服できるような気がする。

 血を分けた子ではないけれど、自分が母親になる。自分が……。

 空想と夢想と妄想の果てに行き着いたその未来図に、夢莉が浮かべるのは微笑み。


 悪くない。

 そう、思ってしまった。


 けれど、佐村夢莉は気づいていない。

 元来、聡明であるはずの彼女が、気づくべき事実に全く気づいていない。


 それは――、リリトが何の希望も述べていないこと。


 彼は常に夢莉をリードし続けながら、しかし、未来の展望など何も語っていない。

 ただ、話を聞くことに徹し続けて、時々自分の感想を口にするのみだった。


 喫茶店で、リリトは『結婚したら娘が欲しい』と言いはした。

 だが、彼自身は結婚したいとは言っていない。


 話題として『どういう家庭を望むか』と夢莉に問うただけである。

 そして、自分はこうであるという一例を示したに過ぎない。

 リリトは、彼女との会話で一度たりとも主語を明確にしていないのである。


 通常の夢莉であれば、きっとそこに気づけた。

 これまでの会話の中で、リリトが一度も己の意志について語っていないことにも。

 ただただ、夢莉だけが先走ってしゃべり続けているだけなことにも。


 それに気づけずにいるのは、今の彼女がおよそ冷静な状態ではないからだった。

 三十手前にして自覚した初恋に、夢莉はすっかり心を奪われてしまっている。


 まるで夢のような、リリトとの時間。

 しかしその実、それは『まるで』ではない。


 何故ならこれは、リリトが彼女に見せている夢なのだから。

 初恋という夢。初恋という熱。初恋という幻。初恋という――、心を冒す猛毒。


 佐村夢莉の中で妄想は膨らみ切った。

 今の彼女は、リリトを前にして冷静ではいられない。そういう女になった。


 だが、夢は覚める。熱は冷める。幻は消える。

 膨らみ切った妄想の風船は爆ぜて、それを膨らました者に現実を叩きつける。


 ――夜が来た。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 夕飯どきを前にしたところで、解散ということになった。


「すみません、このあと、約束がありまして」


 最初に待ち合わせた『ソライッロー』前で、リリトが申し訳なさげに頭を下げる。

 夢莉は、内心は残念だったが、それを表には出さず頭を下げ返す。


「いいえ、こちらこそ。本日はお付き合いいただきまして、ありがとうございます」


 彼女は感謝の言葉を口にするが、到底それでは言い足りない。

 もっともっと、彼への感謝を、彼への好意を、直接的に言葉にしたい。


 だが、恋愛経験が皆無に近い今の彼女には、それだけでも難易度が高かった。

 こうしてリリトと向きあっているだけで、鼓動は高鳴ったまま収まってくれない。


 ああ、好きだ。

 自分はこの人が好きなのだ。


 佐村夢莉は改めてそれを自覚する。

 そして、頭の中に幾度も反芻される、昼間から今にかけてのリリトとの時間。


 リリトはこんな男らしい見た目をしているのに、非常に穏やかで落ち着いている。

 そして、時折何ともいえず女性的とも思える所作が随所に見受けられた。


 こういうのを『女子力が高い』というのだろうか、と、夢莉は思ったりもした。

 そして、だからこそリリトに対する好感度がさらに高まっていく。


 彼ならば、自分のことをわかってくれるのではないか。

 自分にとっての最良のパートナーになってくれるのではないか。


 にわかにではあるが、そんな期待と願望を抱いてしまう。

 そして、恋慕と期待に胸を高鳴らせて、夢莉はリリトに向かって問いかける。


「あの、気の早い話かもしれないのですが、次はいつお会いできますでしょうか」


 浅ましいかもれない。

 短絡的で、我慢のきかない女に思われるかもしれない。


 内心にそうした不安を抱えつつも、だが、聞かずにはいられなかった。

 目の前に立つ彼と過ごす時間を、自分は心から欲している。だから――、


「そうですね――」


 リリトが、ニッコリと笑った。素敵な笑みだ。

 その笑顔を前に、夢莉はもしかしたら明日にでも会えるかもという期待を抱く。


「もう、あなたとはお会いできません」


 そして、告げられたのはその言葉。

 眩しい笑顔はそのままに、甘い声もそのままに、だがリリトはきっぱりと拒んだ。


「……え?」


 表情を凍てつかせた夢莉の口から、虚ろな声が漏れる。


「リリト・バビロニャとしてお会いすることは、もう、できません」


 再び、リリトがそう告げる。

 夢莉には、意味がわからなかった。『リリトとして』とは、どういうことなのか。

 その答えの訪れは、まさに直後のこと。


「ママ」


 声がした。

 二人のすぐ近く、夢莉の後方からである。


 何事かと振り向けば、そこにいたのはミフユ・バビロニャ。

 真っ白いコートを着た彼女が、自分とリリトのことを真っすぐに見つめている。


「ミフユ、ちゃん……?」


 呟く夢莉の横を、ミフユはそのまま通り過ぎてリリトのもとへ。


「あら、ミフユちゃん。迎えに来てくれたのね」

「うん!」


 聞こえたのは、嬉しそうなミフユの声と、初めて聞く女性の声。……女性の声?

 いや、違う。この声は違う。

 調子や抑揚のつけ方、声の張りや質感は女性のものだが、それは彼の声だ。


「……え?」


 繰り返される、夢莉の疑問の呻き。

 再び、夢莉はリリトの方へと向き直る。だが、もうそこに初恋の人はいなかった。


 ミフユを抱き上げる男性は、物腰も振る舞いも、雰囲気すらも変わっていた。

 そして彼は――、いや、彼女は改めて、夢莉に向かって自己紹介をする。


「初めまして、佐村夢莉さん。ウチのミフユちゃんがお世話になっております」

「ぇ、え……? あなた、は……?」

「私は、ミフユ・バビロニャの母親、リリス・バビロニャと申します」


 片腕にミフユを抱き上げたまま、リリスが恭しく頭を下げる。

 夢は、終わりを迎える。

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