第19話 虎の法力石


 藤李は虎を引き付けながら森の奥へと進んで行く。

 息を切らして足を懸命に動かして地を蹴り、腕を振る。


 獏斗が放った稲妻は彼の法術だ。


 白い閃光がしなるように虎にぶつかり、虎に衝撃を与えたため、虎はかなり弱っている。


 もし、獏斗の法術がなければ既に虎に追いつかれている。


 足を必死に動かさなければ追いつかれてしまう。

 虎と並んで走ったことも追いかけられたこともなかったが、やはり早い。

 飛躍するように地を蹴り、距離を詰めて来る。


 森の中は平たんだが、庭のように整えられてはいないため、走りにくい。

 その上、服が重いく、脚もあげにくいし、腕も振りにくい。


 足には自信がある藤李だが、走る速度も失速し、息が上がる。


「あっ!」


 走っている途中、木の根に躓き、転倒してしまう。


 どかっと地面に倒れ込んで身体をぶつけ、右足の靴が脱げて宙に投げ出された。

 急いで起き上がるが右足の靴が見当たらないし、慣れない靴を履いていたために靴擦れが起きていた。


 靴が脱げた途端に痛みだすのは一体、どういうことなのか。


 脱げた靴に構っている余裕はなく、迫り来る虎の脅威から逃れるために走り出す。

 だが、小石や枝が散乱する森は走りにくい。


「いったっ!」


 枝を踏んで再び転倒してしまい、地面に手を着く。

 勢いよく手を着いてしまい、鋭利な小石で手の平が傷付き、血が滲む。


 痛いけど、これぐらいならまだ大丈夫。


気持ちを奮い立たせ、立ち上がろうと足に力を込めるが思った以上に足が重い。背後に膨れ上がる虎の気配に反射的に横に飛び退く。


 地面を転がって体制を整えると今ほど自分がいた場所に虎がいる。


 あっぶな……。


 気付けばぜいぜいと息が上がり、肩で息をする藤李はおそらくもう走れない。

 走れたとしてもすぐに追いつかれて背後から嚙み殺されるのがオチ。


 なら、ここで気絶してもらおう。


 藤李は虎に向き合う。

 虎から視線を離さず、左腕を弄る。


 腕に結ばれた法力石に触れようとするが、触れられない。


「うそっ! 落とした⁉」


 腕に視線を落とすと法力石がない。

 足元を探すが見当たらず藤李は血の気が引いた。


 マズい……どうしよう……。


 自分の拙い法力では大きな虎の自由を奪うような術は使えない。


 藤李の胸にある呪印は法力は弾くが物理攻撃は弾かない。

 だから央玲の法力石を持たされているのだ。


 じりじりと後退しながら虎と距離を取る。


 虎はグルグルと喉を鳴らし、口を開けて涎をぼたぼたと垂らしている。しかし、虎の目はどこか焦点が定まってない。


 獲物を狙う肉食動物の目はもっと鋭く、視線から獲物を外さないはずなのに。

 様子がおかしい。


 すると虎が呻き声を上げて苦しみだす。


「えっ、ちょっと! 何してるの⁉」


 虎は頭を激しく打ち付けて呻き声を上げながらのた打ち回る。

 その異様な光景に藤李は眉を顰める。


「止めなさい! ダメ!」


 頭を地面や木の幹に打ち付けて前脚で頭を掻く。

 前脚の鋭い爪が虎の目の上を引っ掻き、赤い雫が飛び散った。


「止めて!」


 虎に言い聞かせるように叫ぶ。


 頭が痒いのかしら?


 藤李は目を凝らして虎が暴れる理由を探す。すると虎の額で何かが光った。


 何かある。


 黒く、鈍い光を放つ何かが虎の眉間の上あたりに見えた。

 その黒い何かを確認しようと藤李が一歩足を踏み出すと虎は動きを止めて藤李に向かって牙を向けた。


「っ……!」


 大きく開いた口に並ぶ長く鋭い無数の牙に息を飲み、目を瞑り、身体を小さく丸めた。


 もう無理っ!


 死を覚悟した時、身体が大きく傾いて何かと衝突する。


 ふわりと清々しい香りが藤李を包み込み、強く身体を締め付けられて藤李は恐る恐る目を開けた。


 ゆっくり上を見上げると月も恥じらう絶世の顔貌がそこにある。

 不機嫌そうに眉根を寄せて苛立ちを隠さないその様子は既に見慣れた表情だった。


「君、馬鹿なの⁉」


 聞き慣れたその声は間違いなく、今年一番の怒号である。


 思わず見惚れてしまった藤李はその一声で我に返り、目を見開いて驚きの声を上げる。


「尚書⁉ 何故ここに⁉」

「ここは僕の生家なんだけど?」


 そうでした。


 何て間抜けな質問をしてしまったのかと、一拍遅れて反省する。


 虎は⁉


 尚書の叱責なんて今はどうでもいい。

 藤李は虎に視線を向けるがその光景にも驚いた。


 地面から伸びた木の根が虎の身体に絡まり、虎の身動きを封じている。

 木属性の法術だ。


 太くて丈夫そうな木の根は虎の力では振りほどけないだろう。


 藤李は真誠から身を離し、虎に向かって歩み寄ろうとすると、身体を強く引き

寄せられる。抱き締めるように衣の袖に隠されて、引き摺られるように虎との

距離を取らされた。


「ちょっ、尚書!」


 真誠の腕の中で抵抗するが、その腕は力強くて振りほどけない。


「君の目には虎が猫か何かに見えてるわけ?」


 そんな訳ないって!


 声を張り上げたい衝動を何とか堪える。

 普段なら腹が立つ嫌味も今日ばかりは藤李の気持ちを安堵させた。


「あの子、何か変です。額に何か黒いものが見えました。確認しないと」

「額?」


 藤李と真誠は木の根の拘束から逃れようともがく虎の額に視線を向ける。

 二人で慎重に近付き、虎が伸ばした前脚が届かないギリギリまで歩み寄る。


「これは……法力石だね。黒くて濁ってる……粗悪品だ」


法力石とは法力を有する者がその力を石に移したもの、もしくはその力を結晶化したものだ。法力の扱いには鍛錬が必要である。その力を石に移すことは非常に高度な事なのだ。


法力の結晶化は製錬された技術と強い法力が必要で、並大抵の者では為す事が出来ない。透明度の高い法力石ほど強い力を宿し、濁っていたり、澱んだ色合いの石ほど精度が低い。


 そして法力石は時に人を狂わせる。


「黒色は呪術の特徴の一つ。これは何者かに人為的に付けられたんだろうね」


 黒く澱んだ法力石は呪術を含んでいる。


 それが虎の様子がおかしい原因かもしれない。


 真誠は無言で虎の額に手をかざす。


 待て待て待て! この男、何するつもり⁉


 藤李は思わず真誠の腕にしがみつく。


「……ちょっと、何するの?」


 真誠は一瞬、驚いたように目を見開き、その後すぐに眉根を寄せる。


「こ、殺さないで下さいよ⁉」

「…………保証はできないよ」

「なら私がします!」


 そもそも真誠の法力は強力だ。


 近くにいても滲み出る法力の圧を感じるし、本気になれば城が吹き飛ぶと言われているほどだ。


 力加減を間違えれば虎は法力石だけでなく頭まで割れてしまうだろう。

 それであれば藤李の拙い法力の方が安全だ。


 藤李は虎の額に向けて両腕を伸ばし、手を翳す。


 大丈夫、落ち着け、私。


 額の法力石に意識を集中させる。

 純度の低い法力石は脆い。


 私の弱い法力石でも壊せるはず。


 指先がじんっと温かくなり、力が集中するのを感じる。

 苦しみ、もがく虎に向けて藤李は言う。


「人間が酷いことをしてごめんなさい」


 バリっと薄い氷が割れるような音がした。


「もう大丈夫だよ」


 まるでその一言が合図だったかのように法力石は砕け散る。


「ガルゥゥゥゥゥゥ」


 その刹那、虎は咆哮を上げて声を森に轟かせた。

 突然のことに藤李は驚いて肩を跳ね上げるが、次第に虎は大人しくなり、脱力してぐったりとする。


「可愛い」


 藤李をじっと見つめるガラス玉のような瞳に濁りはなく、澄んでいる。


 地面や木の幹に頭を打ち付けたり、爪で引っかいたりしていたのは法力石を取りたかったからなのだろう。


 解放されてしまえば大人しく、まるで猫のように愛くるしいが、目の側に出来た傷が痛々しい。


 酷いことをする。


 一体、誰がなんのためにこんなことをするのだろうか。

 人間の身勝手に巻き込まれてしまった可哀想な子だ。


 藤李は再び、両手を突き出し、虎の目の上に出来た傷に集中する。

 淡い光が集まり、傷口に吸い込まれるように消えていく。


 瞬く間に傷は塞がり、出血も止まった。


 手を離すとガクッと全身の力が抜けてしまい、膝から崩れ落ちるように倒れ込む。


「ちょっと、どうしたの?」

「……何でもありません」


 急に地面に手を着いた藤李に驚き、真誠が言う。


 藤李にとっては法力を使うことはとても負担が掛かる行為だ。


 法力石を砕いたように単に力をぶつけることならまだしも、法術のように法力を練り合わせて術として使用するのはかなり身体に負担が掛かる。


 体力と精神力を消耗するため、藤李は滅多に使わない。


 しかし、人間の身勝手なことのために巻きこまれて怪我をしたのだ。

 自然治癒には時間が掛かるし、虎の寿命は分からない。


 この先、何年生きるのか分からない虎の寿命を縮めるようなことをしてしまった人間の代わりに謝罪したい。


 だとしたら、力の使い時は今だと思った。

 だから藤李は虎の怪我を治したのだ。


 藤李は身体に残った力を振り絞って立ち上がり、真誠に促されて虎から距離を取る。


 真誠が術を解くと虎に絡みついていた無数の木の根が地面に吸い込まれるように消えていく。


 虎はじっとこちらを見つめていた。


「もう捕まらないでね」


 藤李は虎の綺麗な瞳を見つめて呟く。

 虎はくるりと背を向けて森の奥に向かって駆けて行く。


 一度、止まって藤李達を振り返るが再び森の方向に走り出す。

 今度は止まる事無く、森の奥へと姿を消した。


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