独身OLとウザい経理社員の話

松竹梅

第1話 逃走

 男なんて、結局自分の欲を満たせればいいと思っている自分勝手な人間なんだ。

 親から身をもって知っていたはずだったのに、またこんな経験をするなんて思っても見なかった。思い出すだけで悪寒がする。


 逃げることがいけないことだとは思わなかった。だって怖かったから。

 男に負けることも、自分が恐怖におびえることも、想像していなかったけれど、私は逃げた。

 ねばりつくような声、すり寄るような体の動き、こちらに絡んでくるいやらしい視線。そのすべてが嫌悪感を齎した。

 私はただ、怖かったのだ。



 ビルの入り口。首に下げた入館カードを外しながら、出入りゲートに向かう。

 嫌な予感がしてちらと後ろと振り返ると、灰色のスーツに身を包んだヤツが屈託なく笑いながら同僚と歩いていた。その同僚とはあまり仲が良くないのか、一方的にヤツが話しては笑うだけで、話しかけられている同僚はスマホをいじりながら生返事を返しているだけだ。

 意に介さず話し続けるヤツがはたと前を見た瞬間、私と目が合った。ヤバい、と思うと同時、ヤツが意味ありげに微笑を浮かべる。そしてふと、犬のような可愛げのある笑顔を見せて、通りがかりの女性社員にお疲れ様でした、と言っている。ふざけたヤツだ。


――このままなにも起こらないでほしいんだけど……


 背中に走る冷えた感覚を意識しないように、足早にゲートを抜けて駅に向かおうとしたが、ふと思い立って近場のカフェに入った。さっと視線を走らせるが、見知った顔は見つけられない。裏路地を抜けたさらに奥にあるのだから当然だ。隠れ家のような喫茶店の客はもともと少ない。

 レトロな内装に聞こえるかも微妙な音量のジャズ。昔ながらの喫茶店代表みたいなこの店に、ヤツが来るとは思えなかった。

 先ほどまでの嫌な気配がないことにほっと胸をなでおろしながら、やってきたコーヒーを一口飲んで息を整える。


――私を癒してくれるのはもうここだけなのかもな


 どっしりとした深みのある風味に、心がじんわりと解きほぐれていく気がした。このところ付きまとってくるヤツのせいで疲れていたのかもしれない。

 以前ならアルコールで面倒ごとを忘れるのに、大好きなワインもこのところ飲めていない。せっかく新居にワインセラーを持ち込んで好きな銘柄も買い込んだのに、まだ一つも栓が開いていない。


「落ち着いたら絶対おうち女子会してやる……」


 小さな闘志を燃やし、カップの中身を一気にあおった。

 ヤツが来る前に帰ろうと、席を立つと同時、カランカランと店のドアが開いた。


「すみません、一人なんですけど」


 甘えるような犬声が耳に入って、とっさに頭を下げた。


――え、なんで?まさかつけられてた?


 驚きとともに、やっぱり来たかという気持ちがどこかにあったのだろう。皮一枚に隠した警戒感で、顔を見られる前に席に座り直した。収まっていた嫌悪で声を吐き出しそうになるのを懸命に我慢する。


 キョロキョロと内装を物色しながら店の奥に案内されるヤツの姿をメニューごしに見送る。店の中央に鎮座する大きな柱の向こうに案内されていた。ちょうど出入り口から死角になっている。足早にレジに向かった。


 まだ安心が確定していないからか、小銭を出す手がもたついて焦ってしまう。店の雰囲気は好きだが、キャッシュレスに対応していないのが唯一の不満だった。

 焦りと不安で霧がかった脳裏に、会社のコーヒーコーナーでかけられた言葉がちらつく。


「家行ってみてもいいですか?」


 先ほどの声と、以前に言われたセリフが重なった。不協和音のようにぐるぐると思考を混ぜ、感情がさざ波立った。


――もう最悪……。


 さっさと会計を済ませ、ドアベルが鳴らないように注意深く閉じ、足早に最寄り駅に向かう。つけられてないか、さんざん確認しながら電車に乗り込んでマンションに走った。エレベーターを昇って行く間でさえ、不安でどうにかなりそうだった。


 嫌な思考がちらつく。

 扉が開いた瞬間、目の前に見たくもない顔があるのではないか。

 はりつけるように体に手を回し、足を絡めてくるのではないか。

 ねばついた言葉で責め立てて、そのまま自室に押し寄られるのではないか。


 バタン!


 気づけば自分の部屋にまで目をつぶったまま進んでいた。勢いよく閉めた扉を背にゆっくり目を開けると、ようやく見慣れてきた廊下が私を迎えた。引っ越し業者から渡された段ボールが通路の半分をふさいでいる。

 段ボールに肩をぶつけながら、私は暗がりの部屋まで倒れるように歩いた。そして届いたばかりのソファに沈むようにして体を投げた。



 これが怒涛の年末年始の始まりになるとは、思っても見なかった。

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