第86話 父さん母さん
自分のお母さんはいつも大人しくて尊敬できる女性だ。そんな人が普段こんなだらしない顔を晒しながらアヘ顔を作るのは絶対あり得ないと踏んだ環奈は、この催眠アプリの性能が本物であると確信した。
樹が大しゅき。
うん。
翔太の件で樹のことが嫌いになったのではと危惧した環奈だったが、目の前の母の反応があまりにも強力すぎたので、環奈は内心安堵するのだった。
だが、催眠にかかった環はどうやら口数が多いようだ。
「樹のこと超超超超超超超超超超〜心配で今でも早速家に駆けつけたいところだけど、環奈にあんなこと言われたし、もうすぐ樹のご両親海外から帰ってくるらしくて、もう……こんなの生殺しよ……私の人脈を使って、一気に解決してあげたいところだけど……」
「お母さん……」
「早く、逞しくて、おっきくて、疲れること知らないあの体で私を……でも、環奈がいるから、危ないことにならないように気をつけないと……」
「おい、お母さん……」
「ん?」
「もういいから……黙って」
「……うん」
環奈がげんなりしながらお願いすると、環はさっきのようにぼーっとしながら、大人しくなった。
環奈は気を落ち着かせるために、しばし深呼吸をした。そしてまた自分のお母さんを見てクスッと笑う。
「お母さんにはこんなの必要ない」
そう呟いて、古い携帯を手に取り画面を見つめる環奈。
『解除』
さっきは『催眠』というボタンがあったが、いつしかそれが「解除」に変わっていた。
環奈は古い携帯を環の前に持っていき、「解除」ボタンを押した。
すると、環の死んだ目はあっという間に正気を取り戻した。
「あれ?私……いま何を……」
催眠を解除され違和感を感じている環を落ち着かせるために娘である環奈は優しく語りかけた。
「お母さん、仕事でちょっと疲れているんじゃないの?」
「ん……それはないわ。樹のせいかしら?」
「樹?」
「その……事件に巻き込まれてから全然あってないし、私の今までのルーティンが全部崩れたわ!だから全部生意気な樹のせいよ!事件が解決したら、あいつに教育的指導を……っ!」
環は何かを思い出したらしく、急に頬を赤く染めて体をひくつかせた。
あの顔は、
見覚えのあるメスの顔だ。
環奈は自分の母を見て、心の中で、呟く。
『やっぱり、お母さんにこんなの、いらないわ……』
と、苦笑いを浮かべた環奈は、気を取り直すために咳払いをして、独り言のように言うのだ。
「お母さんは樹のこと、嫌いになったりしないわね……」
「あら、なんでそんなこと言うの?」
切り替えの早い環が真面目な表情で環奈に訊ねた。
「あんな事件があったのに、樹を遠ざけようとせず、私を応援してくれるから……」
環奈もまた真面目な表情で環を捉えながら言った。
そんな自分の娘がかわいいのか、環奈の頭を優しく撫でてから、環は自信に満ちた話し方で言葉を紡ぎ出す。
「暴力は悪いと、結果だけで判断する人は多いのよね。確かに樹がやったのは、罰を受けるべき行為よ。でもね」
「……」
一旦切って環は大きく息を吸ってまた続ける。
「そこに至るまでの過程の方も大事だと思うの。大切な友達が最悪なやり方で攻撃されて、心に深い傷を負ったのよ。だから、動いた。なかなかできることじゃないの」
「うん!確かにね!」
「それに、か弱い女二人しかいないここに、樹の存在は大きいのよ!ちょっと生意気ではあるけど!」
ドヤ顔で力説する環に、環奈もまたドヤ顔で環を見つめる。
二つの青い瞳から発せられる視線は交差した瞬間、環奈は思うのだ。
もう二度とお母さんに催眠はかけないと。
結果より過程を重んじるお母さんの娘でよかったと。
感動した環奈は、環に満足げな笑顔で話す。
「その樹の大切な友達のことなんだけど……」
「ん?」
明るい表情で勿体ぶる環奈に、環は目で笑い、続きを促す。
「細川くん、学校一になったよ!」
「あら!由美を抜いたの!?」
「そう!まあ、由美が細川くんに惚れた部分もあるけど、そこも含めて由美の負けね!」
「あの二人そういう関係だったのね」
「まだ、付き合ってはないけど」
「ふん……」
環は何かを企んでいるらしく、思案顔で目を瞑った。知的に見える彼女に羨望の眼差しを向ける環奈は口を開く。
「どうしたの?」
「学校一なら、影響力あるわよね?」
「ま、まあ。そうよね」
「ちょっと細川くんの連絡先教えて」
「う、うん!」
X X X
樹side
数日後
海外旅行から帰ってきた父さんと母さんは、学校に行って先生方に謝ったり、葉山家に行って謝ったりと、忙しい日々を送っている。
今日も母さんは学校の関係者の人々に「うちの息子がご迷惑をおかけして申し訳ございません」だの「これからしっかり指導します」だの、ペコペコしながら謝罪ばかりした。
心が裂けるように痛かった。
自分の行動によって関係のない人たちが辛い思いをする。
いや、この世界でのこの二人と俺は親子関係だ。
転生前はずっと一人だったので、自分が悪いことをすれば、その責任は全部自分が追うことになっていた。
だけど、今は……
あまりにも申し訳なさすぎて、部屋にこもっている俺は涙目になりながら筋トレに励んだ。
夜になると、父さんがやってきた。
いつもは自分の部屋で食事を取っていたが、今日はどうやら違うようで。
「樹〜父さんが美味しい弁当買ってきてくれたの〜一緒に食べようね!」
母さんが朗らかな声音でドアの向こうにいる俺に声をかけたのだ。
今日の母さんは忙しかったようで、食事の準備ができておらず、父さんが弁当を買ってきてくれたらしい。
だけど、俺は食事が全然進まなかった。
二人への罪悪感、葉山への憎悪。
この相反する二つの感情が渦巻いて、俺を苦しめる。
だが、突然、食べあぐねる俺の背中に衝撃が走った。
父さんが叩いたようだ。
「っ!」
「樹!ご飯食べないと筋肉減っちゃだろ?せっかくいい体作ったのにな」
「父さん……」
「あと、ご飯食べたら、めっちゃ高価な青汁買ってきたから一緒の飲もうじゃないかい!あとニンニクサプリもあるぞ!樹のよりいいやつ持ってきた!」
「……」
父さんから言われた俺は、急に涙が出た。
そういえば、転生して間もない頃に、疲れている父さんに俺が青汁とニンニクサプリをあげたっけ(12話参照)。
本当に……
母さんといい、父さんといい、
俺の周りにはいい人ばかりだ。
「樹……なんで泣いてるの?弁当に何か変なもの入ってるの?」
母さんが心配そうに聞いてくる。
父さんは、察したように優しく微笑んでいた。
なので、俺は涙を指で拭いながら言う。
「父さん、母さん。ごめん。俺のせいで海外旅行めちゃくちゃになって……俺は悪い息子だ……二人に迷惑ばかりかける悪い息子だよ!!うう……」
止まらない涙は洪水のように俺の目を濡らし、頬を伝っては下に滴れ落ちる。
「バカ。親に迷惑かけない息子はこの世に存在しないよ」
父さんはそう言って、俺を優しく抱きしめてくれた。
向かい側に座っているお母さんも立ち上がり、俺の方に移動して、その豊満な胸で俺を包み込んでくれた。
俺は何も言わず号泣しながら、二人の体温を感じる。
血のつながった家族の大切さを今日初めて知ることができた気がする。
ひとしきり泣いたら、父さんは真剣な顔で俺に訊ねてきた。
「樹、教えて。なんで葉山くんを殴った?理由があるはずだよ。それを話して」
母さんも加勢する。
「そうよ。私たちに隠していることを全部言ってほしいの」
「……」
俺は、環奈の時と同じく全てを両親に話した。
昔の近藤樹は、父さん母さんを心配させないために、葉山の存在を二人に教えてこなかった。
なので、葉山が今までやってきたことを話したら、父さんと母さんは驚愕し、俺を再び抱きしめてくれた。そして今まで全然気づけなかった自分達が悪いと両親は俺に謝った。
別に謝られる資格などないというのに。
今晩を境に、俺と両親との仲はもっと深まった。
X X X
環奈side
数日後
放課後のカフェ
喧騒に包まれるカフェの中で金髪男と黒髪の女の子が座っている。
そう。
ここは以前、環奈と翔太が話していたそのカフェである(27話参照)。
退院して顔の色んなところに絆創膏が貼ってある翔太は、向かいに座っている環奈に向かって話す。
「んで、なんで呼んだ?」
葉山は一段と大きくなった環奈の胸を見て、自分の指を密かに動かしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます