花嫁

小柳日向

花嫁(掌編)

 薄紅色の花弁が鼻先を掠めていった。凪はスケッチブックと工具箱を抱え、山の上にある公園の一等高い丘の上に立っていた。花の香りを運んでくる風を肌で受け止め、少しの肌寒さに両手に抱えていた物を地面に置き、リュックサックに入っていたパーカーを羽織った。

 首に引っさげたチェーンには、指輪が鈍色に光っており、凪は指輪を握り締めてため息をついた。

 レジャーシートを地面に敷き、其処に坐ると徐ろにスケッチブックを拡げ、工具箱から様々な彩りのチューブ絵の具と筆を取り出す。水入れにはペットボトルで持ってきていた水を入れた。

「いつか画家さんになったら私を描いてよね」

 そう云って、美咲は照れくさそうに髪の毛を耳に掛ける。それは美咲の癖であったのは凪しか識らないであろう。世ではこれを初恋と呼ぶのだろう。

 柔らかめの鉛筆で下描きしながら、桜が林立してる様をスケッチブックに吹き込んでゆく。桜は満開を過ぎ、風に吹かれその彩りを世界にばら撒かんとしているところである。地面にも薄紅色の花弁が散り散りに色を落とし、凪はその様子を観察しながらスケッチブックに絵の具を置いていく。

 もう美咲は居ない。ここは凪が美咲と約束を交わした場所である。画家になるまで随分と待たせてしまった。美咲が居なくなったのは十年以上前だろうか。美咲は凪の目の前で、今居る丘の上から飛び降りたのだ。驟雨で視界が悪く、瞬きの間に姿は消えていた。不思議と静かだったことを憶えている。

「これあげる」

 そう云って美咲は凪に指輪を渡して丘の向こうへと走っていった。必死に叫びながら凪も走り出したが、伸ばした手は虚空を掴んだ。

 描く手を止め、凪はスケッチブックに今は居ない筈の人物を桜の下に付け足した。想い出の中の美咲は今の凪よりも随分と幼かった。

 仕上げに絵の中の美咲の薬指に指輪を描き足す。

「君が僕の花嫁だから」

 凪の呟きに応じるかのように、小鳥が木々から次々と空へ羽ばたいていった。凪の言葉を届けるのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花嫁 小柳日向 @hinata00c5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ