おやすみ

小柳日向

おやすみ(掌編)

 声がする。その声は暗がりの奥から冷えた空気を振動させた。遠くから聞こえる様な、否まるで私に寄り添うかの如く近くで聞こえてくる。

「ボクが身代わりになってあげる」

 その声の主は私よりもまだ若いであろう少年の声だ。いつから其処に居たかは不明だが、彼はそっと私の心に触れ、蹲って居た私に手を差し伸べ、混濁とした部屋の奥へと導いた。

 真っ暗なその部屋は蝋燭が1本心細げに置いてあるだけである。部屋の隅へ行くと私は再び蹲った。先程と違う事と云えば、ほんの少し空気が暖かい。私を導いた少年はもう此処には居ない。きっと「表」に出ているのだろう。

 そうだ、思い出した。私は常日頃の労働に拠るストレスで、心身共に疲れ果て、もう1歩も外へ踏み出す事が出来なくなっていたのだ。何も出来ない自分に嫌悪し、何も出来ない自分の未来を憂いていたのだった。

 部屋の中にコツコツと近づいてくる足音が聞こえた。

「新しく生まれた人格だが、害は無さそうだ。ゆっくり休んでくれ」

 その声の主は先程の少年よりも大人びており、ずっと昔から私の中に住み着いている人格だ。

「他の子達は?」

 私が訊くと、

「大人しくしている。大丈夫だ君には俺たちがついている」

 その青年は私の隣に坐ると、煙草を1本差し出してきた。青年も煙草を燻らせはじめる。

蝋燭の控えめな灯りで紫煙が二筋立ち上るのを見つめる。煙草のメンソールの煙が肺を充たすのが心地よい。

 身代わりにと云って「表」に出た子は何をしているだろう。生まれたばかりで戸惑ってはいないだろうか。私の心配を見透かしてか、青年が煙を一息ついて語りかけて来る。

「ゲームでもしてるさ。俺たちは君にはなれないが、君の1番近くに居る。君が困った時、哀しい時、怒る時、そして嬉しい時も」

 そう云うと、何処から取り出したのか解らない灰皿を私に差し出してくる。煙草の火が消えるとまた蝋燭の灯りだけになり、ゆらゆらと空気を溶かしていく。

 私の意識はゆっくりと暗転してゆき、うとうとと瞼を閉じる。

「おやすみ」

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おやすみ 小柳日向 @hinata00c5

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